壱成さんは山本さんにバイクを預けていた。預けたというか、壱成さんが乗ってきたバイクに乗りそのままどこかへ行ってしまったという言い方の方が正しいかもしれない。

壱成さんはブランケットで身を包んでいる私をタクシーに乗せた。

壱成さんはずぶ濡れで、タクシーの運転手は戸惑っていたけど、「金なら出す」と、壱成さんは多額のお金をタクシーの運転手に渡し、それを受け取ったタクシーの運転手は、透明のシートを後部座席にひいていた。

壱成さんがどこに向かおうとしているのか分からない。行先を告げ、その行先が私の家では無いことが分かり、ほっとしたのを覚えている。

ついた場所は見たこともないホテルだった。壱成さんがいつ連絡したのか分からないけど、そのホテルの前には山本さんがいて、「着替えです」と壱成さんに渡していた。


「悪かったな、もう帰っていい」

「はい、失礼します」


一礼した山本さんは、またバイクの方に向かっていた。そのバイクは先程の壱成さんが乗ってたバイクとは少し違っていた。
どこかで乗り換えたのだろうか。
壱成さんは私を連れて行く。タクシーとは違い、ずぶ濡れでも、入ることができた。
受付カウンターには誰もいなくタッチパネルで部屋を選ぶようだった。

その中の一つに入った部屋は綺麗だった。


「風呂に」


壱成さんは、私をその部屋の浴室へと案内する。だけど、私より入らなければならないのは壱成さんの方で。


「だめです、壱成さんが先に入ってください」

「あんたが先に入ってくれ」

「壱成さんの方が濡れてます…」

「俺は風邪ひかない。だからあんたが入ってくれ。頼むから」


壱成さんに言われ、私が先にシャワーを浴びることになった。だけど、できるだけ早く出た。着替えというのは、誰でも着れるような下着のセットと、ホテルのバスローブだった。
今日はこのまま泊まるのか、と言うよりも、バスローブから見えている肌の痣は隠すことが出来なかった。
それでも壱成さんが待っているから、浴室から出て壱成さんの方へ行けば、壱成さんは濡れた服を脱いでいた。上半身全て。前髪全てをオールバックにしている壱成さんは、もう気づかれているからとマスクを外した私に目を向けた。

壱成さんは私の姿を確認してから、「すぐ戻ってくる」と言い、浴室に入っていった。言葉通りすぐに戻ってきた壱成さんは、普通の長袖のTシャツとジャージのズボンをはいていた。

何もできず立ったままでいた私を、壱成さんは2人がけのソファに座らせると、「少し寝るか?」と優しく尋ねてくる。
その声がとても優しく、私はゆっくりと壱成さんを見上げた。


「……今日はここに泊まるのですか?」


壱成さんは膝をおり、ソファに座る私と目線が合うようにしゃがみ込んだ。
今度はほんの少し私よりも目線が下の壱成さんは、私を見上げた。


「あんたの体が温まれば、家に送ろうと思ってる。ここはあんたの家よりも遠いから、早くしないと風邪をひくと思ったからここに来た。制服も濡れているし、少しでも乾かせたら、と」

「…帰るのですか?」


私の声は小さかった。
それでも聞き取ってくれた壱成さんは、「…送ろうとは思ってる」と、呟いた。


「親が心配するだろうし。一旦、あんたのことを温めてから送るとは、あんたの兄に伝えてる」

「兄に…、あの、兄は、兄は壱成さんに私を探すようにと、頼んだのですか?」

「頼んだというよりも、今日の17時ぐらいに連絡が来て。あんたのこと聞いてきた」

「聞いてきた?」

「あんたが帰ってこない、何か知ってるか?って」

「……」

「そこであんたが行方不明なのを知った。だから俺も探した」

「でも、山本さんは、兄が壱成さんに頭を下げてたと、」

「頭…?ああ。電話の後、あんたの兄と会って、あんたを探すことに礼言われた。聖はその時を見たのかもしれない」

「…兄は今どこに……」

「家にいると」


家に……。
きっとお兄ちゃんは家で待っているのではなく、両親を──……。


「ごめんなさい、──…私の、せいで、皆さんにご迷惑をかけてしまって」

「何があった?」

「………」

「俺には話せないか?」


壱成さんに?
もう、限界だったと?
私はもう壱成さんに嘘をつきたくない。
それでもこれ以上壱成さんに関われば、迷惑はかかるし、警察沙汰になるかもしれない。
壱成さんが、捕まるかもしれない。

でも、こうして壱成さんが目の前にいるのは、嬉しい……。


「家に、帰りたくありませんでした」

「家に?」

「だからずっと、家から反対方向に歩いていました」

「…うん、なんで帰りたくなかった?」

「壱成さんは、どうしてこのキズが怪我だと分かったのですか?」

「唇と、かすかに頬にも細かい傷があった。こういうのは誰かの爪か、指輪が当たってできることが多い」


話を変えた私に、納得のいく説明をしてくれた壱成さん。


「私、壱成さんにたくさん嘘をついていました…」

「うん」

「本当のことを知れば、壱成さんは私を嫌いになるかもしれません」

「それはない、あんたのことを嫌いには絶対にならない」

「なります、きっと……」

「ならない」

「だって、私は、嘘をついて、壱成さんに高価なものを買わせてしまったんです」
「……高価?」

壱成さんは、少し顔を傾けた。


「髪留め…」

「ああ…、あれはそんなに高いもんじゃない」

「違うんです、買わせてしまったんです」

「うん?」

「あれは、私が嘘をついて買わせてしまったものなんです」


また泣いてしまいそうになって。
いつの間にか暖房がきくこの室内は、暖かくなっていく。


「っ、わたし、アレルギーなんて、本当は無くて…!」

「うん」

「ないんですっ」

「うん」

「壱成さんに嘘をついてましたっ…」

「うん」

「アレルギーなんて、なくて、」

「うん」

「スポーツドリンクだって、飲めるんです…」

「うん」

「ごめんなさい……」

「なんで謝る?」

「私は、健康です、病気になりやすいなんて嘘なんです……」

「うん」

「嘘をついていてごめんなさい……」


ポロポロと涙を流しながら両手で顔を隠せば、本当に自分はどうしようと無い、愚かな人間だと死にたくなった。

顔を隠している私の手が、何かに触れた。そこには力の籠っていない私の手を退かし、見えた私の顔を見つめる壱成さんがいて。


「家に帰りたくないんだな?アレルギーもない?」


壱成さんの声は、先程と同じで優しく。


「本当なら、明日の朝に送ろうと思ってた。けどはあんたが何も食べられないし…。その、なんだ、水分も取れないから、出来るだけ早く家に帰った方がいいと思ったんだ」

「……──」

「何が食べたい?」

「……壱成さん、」

「何か食べよう」


なんで、嘘をついた?
その言葉を言わない壱成さんは、立ち上がると、机の上においていた冊子をとる。それは間違いなく、何かの料理が乗っている本で。


「お、怒ってないのですか?」


焦った私は、立ち上がって、壱成さんの方に近づいた。


「怒る?」

「だって、たくさん、嘘を……」

「あんたは、」


私が?


「理由もなく、そんなことを言わない。何か訳があるんだろう?」


理由……。


「怒るわけない」


優しすぎる壱成さんは、冊子を持っていない方の手を私の頭に伸ばしてきた。そのまま頭を包み込むように頭を撫でてきた壱成さんは、力を入れ私を抱き寄せる。


「…あんたに怒るわけない」


私の頬は、壱成さん胸元にあたる。
着替えたばかりの壱成さんの服に涙が滲むのが分かった。
優しすぎる人……。


「…………複雑で……」

「うん」

「複雑すぎて、」

「…何が複雑?」


私は、壱成さんの服を掴んだ。


「………家庭が、複雑で」

「うん」

「この頬は、父に、叩かれました」


私を抱きよせる壱成さんの腕の力が、僅かに強くなるのが分かった。


「──…他の、痣は、母です」

「…叩かれているのか?」


声が、優しい。


「いえ、叩かれた、ことは……1度もありません」


叩かれた、ことは、1度も。


「……母が、入れる、飲み物には何かが入ってます……」

「──…何?」


優しかった声が、一瞬にして低くなるのが分かった。


「母は、〝代理ミュンヒハウゼン症候群〟という病気なんです…」
始まりはいつかは正確には分からない。
ただきっかけはお父さんの暴力。それは間違いない。

元々昔から、この地域の治安が悪いと言うよりも、教育熱心のお父さんとお母さんは、「勉強しなさい」が口癖だった。
それに刃向かって私立の中学に通っていたお兄ちゃんは学校を辞めた。

お兄ちゃんが私立をやめ、怒ったお父さんの矛先はお母さんに向かった。「お前が圭加を見ていなかったから」だとお母さんに暴力をしたのを覚えている。

それから、お父さんとお母さんの中ではお兄ちゃんは歪の存在だった。私立を辞めたお兄ちゃんは我が家には必要ないと。

お母さんは今度こそお父さんに暴力を振るわれないように、私を〝洗脳〟しようとした。
お母さんは私にお兄ちゃんみたいに〝家以外の楽しさ〟を教えないために、学校以外は家にいるようにと教育した。
それでももう中学に入っていた私は、〝家以外の楽しさ〟を知っていた。

中学時代、「遊んできてもいい?」と言った翌日、お腹が痛くて遊びに行けなかったのが、お母さんが私に隠れて薬を飲ませたのが、1番初めだと思う。

その時は何か悪いものを食べたと思っていた。
気づいてなかった。
そして別の日に「明日、友達の家で勉強するね」って言った翌日、またお腹が痛くなって行けなかった。

────その時はまだ、〝下剤〟だけだった。
それでもまだたまたまだと、不幸が偶然と重なっただけだと。

「友達とご飯食べに行く」と言ったその翌日もお腹が痛くなり──、お母さんが私を病院に連れて行った。
何の検査をしたのか分からないけど、家に帰ったお母さんから「あなたにアレルギーが出てる」と言われた。

「だから何が入っているか外食は言ってはいけない」と、外食する事ができなくなった。お母さんが作るもの以外、アレルギーがあるから食べてはいけないと。

私はそれまでアレルギーなんて無かった。不信に思ってアレルギーと言われた卵を隠れて食べた。私の体には何の症状も出なかった。

どうして……と、お母さんに聞こうとした時、リビングでお父さんとお母さんが話しているのを聞いた。


「作るものは難しくなると思うが、佳乃のためだ。頑張ってくれ」


そう言ったお父さんに、お母さんは笑って返事をしていた。お母さんはお父さんに暴力を振るわれないために、〝私を使っている〟。そう気づいたのはすぐだった。

食物アレルギーが増え続け、私だけサラダばかりの食卓。私だけ無農薬の野菜。私だけが──……。
私が「〜〜をしたい」と言えば、私の体がおかしくなった。そんなお母さんは私を見て言う。「あなたは食べられない分、体が弱いのだから体調を崩しやすいのよ」と。

──それは違う、お母さんが、飲み物の中に何かを入れているから。
薬剤の作用、副作用で、私の体はおかしくなっている。


それが確信に変わったのが「食べられないからって、それはおかしいだろ」と、お兄ちゃんに無理矢理病院に連れていかれた時。お母さんとお母さんに隠れて学校を休み病院に行って、アレルギーの血液検査をしても、やっぱり私にはアレルギーなんてなくて。

お兄ちゃんも勉強をしていた身、というよりも、私の兄だからか、私の反応を見て、察してくれた。

2人に怒鳴ろうとしたけど、お父さんが怖いお母さんの気持ちも分かるし、私が我慢すればいいだけだからと、私は2人には言わないでと首を振った。



それでも、風邪をひいた時、スポーツドリンクを飲んだあと、お腹が痛くなった時は本当に怖かった。
お母さんは風邪をひいている時でも、私に何かの薬を飲ませる。



それが、この数年、ずっとずっと続いてる。
────壱成さんは、黙って私の話を聞いていた。時々恐ろしいほどの怖い顔を見せたりしたけど、私に触れる手は優しかった。


「…図書館の医学書で調べました。子供に薬物等を飲ませたり、子供に実際の身体不調や症状を作り出して、病気の症状として訴えることを、〝代理ミュンヒハウゼン症候群〟というらしく」

「……」

「父怖さに、その病気を作り出してしまったようで」

「……」

「この痣は、多分、高血圧の薬なんです。血がサラサラになる薬で……、血が止まらなくなったり、貧血だったり、──内出血ができやすくなったり」

「……分かった」

「壱成さんと電話しているのに気づかれてしまい…。今回は少し量が多いようです」

「分かった」

「お父さん、凄いんですよ」

「……」

「私に会っている男の人が居るって分かった途端、壱成さんのことを調べて……、壱成さんの……、壱成さんがどういう人か調べて私に見せるんです」

「……」

「毎晩……、それが嫌で、家に帰りたくないんです……」

「……」

「壱成さん、の、個人情報を、お父さんは知ってます」

「……」

「そんな複雑な環境でも、嫌いにならないでいてくれるんですか?」


私の説明が下手だったかもしれない。
上手く、言えなかったかもしれない。
それでも壱成さんに、私の家の家庭環境が複雑で、どうしようも無いことは伝えられたはず。

壱成さんの服を掴む、
その手は震えていた。
もう体は温かくなっているのに。


「嫌わない、嫌うことは絶対ない」


はっきりとした口調の壱成さんが、また、抱き寄せる。


「……私だけだったら、いいんです……、でも壱成さんを巻き込むのは、我慢できなくて……。壱成さんと会えないってお兄ちゃんに伝言をしたのは、それで……」

「うん」

「ごめんなさい、嘘をついてごめんなさい……」

「泣かなくていい、あんたは何も悪くない」

「で、でも、」

「個人情報ぐらい、どうって事ない」

「もう、壱成さんが、小学生の頃はどんな性格だったか、お父さん調べあげているんですよ……?」

「別に調べていい」


調べて……?


「調べられても、自分のしてきたことに後悔はない」


してきたことには……。


「調べられても、何の問題もない」


問題は……。


「薬は、いつ飲んだ?」


薬を……。


「朝……」

「うん」

「壱成さん、」

「ん?」

「本当に、嫌になっていませんか?」

「なってない」

「……どうして」

「さっきも言ったけど、俺はあんたが好きなんだ」


さっきも?
壱成さんか、お兄ちゃんのどちらか好きか、分からない台詞を思い出す。


「あんたが望むなら」


私が望むなら……。
言うのをやめた壱成さんは、「俺だって嘘をついてた」と、少し腕の力を緩め、私の顔の方を見た。


「……うそ……?」

「友達なりたいからじゃなくて、好きだったから親しくなりたかった」

「………」

「話してくれてありがとう」


まるで噛み締めるように呟き、また、壱成さんは私を抱きしめてきた。今度は両手で、力強く。
壱成さんが持ってた冊子は下に落ちていて、壱成さんの優しさにまた涙が込み上げるのが分かった。
壱成さんは、いつから私の事を好きだったのだろうか。


「あんたが望むなら、何でもしてやる。なんでも」

「っ……」

「あんたが望むなら」


望む。
望むことなら。
私の望むことなら……。

私が望むこと、そんなの……。


お父さんからの暴力をやめてほしい……。

お母さんからの薬の混入をやめてほしい……。


「……私が、父と母から背けば、──兄…、の、せいにされてしまうんです。父と母は壱成さんを悪者にするんです…」

「うん」

「それでも、わたしは、」

「うん」

「……それでも……わたしは、」


両手を、壱成さんの背中に回した。壱成さんの背中は、私よりも遥かに広い。


「壱成さんの、そばに……いていいのでしょうか?」

「そばにいてほしい」

「……好きになっても、いいんですか?」


また、壱成さんの腕が強くなった。


「望んでも……?」

「何でもする」


優しい壱成さんは、私の為なら何でもしてくれるらしい。


「……朝までこうしていてください、それだけで十分です……」

──壱成さんがベットの上で座り、私は壱成さんの足の間に座り背中を預けるようにもたれて座った。「重くないですか?」と聞いても、「あんたは軽すぎる」とそのまま後ろから私を抱きしめる。
軽すぎる……、ご飯は主にサラダばかりだから。

座って壱成さんに背中を預けるこの姿勢は、ソファに座るよりも心地よかった。


「兄に、朝に帰ると連絡したのですか?」

「ああ、──…圭加は、この現状を止めようとしているのか?」

「はい、だからあと1年の我慢なんです」

「…あと1年?」

「兄が、お兄ちゃんが高校を卒業したら、家を出ようって言ってくれているんです」

「卒業?」

「はい、私は退学ということになりますが…」

「……そうか、だから、」

「だから?」

「圭加は昼も夜もバイトをしてる、金を貯めるためだったんだな」


昼も夜もバイト。
あまり、家に帰らず、学校も行かず、ずっと外にいるお兄ちゃん……。


「壱成さんは兄を知ってましたか?」

「名前だけは」

「名前だけ?」

「頭がいいとは聞いていた」

「そうなんですね。お兄ちゃん、中学の時は、成績1番でしたから」


思い出すようにクスクスと笑った。


「だからこそ、やめた兄を、両親は許さないんだと思います」

「あんたは」

「…?」

「……あんたは嫌じゃないのか」

「両親をですか?」

「ああ、あんたにしてる事は虐待だろう」

「そうですね、虐待に入るのだと思います。それでも、やっぱり私の中では家族なんです…。だから虐待として捕まって欲しいという考えは無くて…」

「…うん」

「両親には、何もしないでください…」

「……あんたはそれでいいのか」

「はい、あと1年だけ……。1年経てば、私はきっと自由になりますから」


笑いながら後ろに振り向けば、険しい顔をした壱成さんと目が合う。


「あんたが明日帰れば、また飲まされるって事だろう」

「…大丈夫です」

「あんたが犠牲になる必要は無い…。耐えられない」

「……大丈夫ですよ」

「なんで望まない、親から離れたいって」

「離れたいです、離れたい、ですけど、私の両親ですから……嫌いにはなれないんです」

「……」

「壱成さんとは、しばらく会えないと思います」

「……」

「1年後に、また会ってくれますか?」

「あんたは、」

「はい」

「死ぬかもしれない、それでもいいのか」


死ぬかもしれない……。
それは分かっていたこと。
お母さんからの薬の量が増えれば。


「はい、いいです。もう壱成さんに会いたいという願いは叶ったので」


笑って言えば、壱成さんの眉が寄せられるのがわかった。


「俺に何もするなと?」

「……はい」

「あんたの顔が痣だらけでも。また倒れても、帰りたくないって家出しても、これからは何もするなって言ってんのか?」

「……はい」

「あんたが死んでも、あんたの親には何もするなって?」

「はい……」

「………」

「壱成さん、これは手が乾燥しているんですか?」


私は話を変えるために、壱成さんの手に触れた。壱成さんの左手の指……。指の付け根の関節部分に触れた。少し膨らみがあり、かと言って柔らかくなく硬く。部分的に乾燥しているようだった。


「……」

「壱成さん?」

「…これは、拳ダコって言って、殴るとできる」

「けんだこ?」

「血が出たり、そういうのを繰り返す度に薄かった皮膚が硬くなる。だからこんなふうになってる」

「そうなのですね、勉強になりました」


笑って言えば、どうしてか壱成さんに「悪かった…」と謝られた。なぜ壱成さんが謝るのか全く分からず、「え…?」と、困惑する。


「この傷、殴られたのは俺と関わったからだろう」

「壱成さん……」

「分かるから。殴られて痛いのは」

「……」

「……悪かった……」

「壱成さんは何も悪くないです」


私は壱成さんが好き、壱成さんも私のことを好きでいてくれて。
そんな壱成さんとは、夜が明けるまでたくさん話をした。
お父さんが用意した内容を、全て壱成さんの口から聞くほど、たくさん話をしたと思う。


その日の夜は、今までの人生の中で1番楽しかった。
干して乾いた制服を来た。ブランケットと山本さんのパーカーを袋の中に入れた。これは私が使ったもので、洗濯をしなければならないから。

帰りも、タクシーだった。壱成さんにお金を返さなければならない。またお礼の品物を用意しないといけない。それを壱成さんに伝えなければならない、のに。私の口からはそれが出てこない…。
静かなタクシーの中で、壱成さんが口を開いた。


「あの髪留めは、あんたのために買ったものだ。使ってくれ」


罪悪感で使ってないことを壱成さんは分かっていた。頷いて返事をすれば、壱成さんの口角が笑うのが分かった。
そんな壱成さんを見つめていれば、壱成さんのスマホが鳴り、壱成さんがそれを確認した。
その画面を見て眉を寄せた壱成さんは、何も返事をせずその画面を閉じた。


「……何かありましたか?」

「いや、」

「……」

「あんたが親を大事にしてるのは分かった」

「……」

「俺はあんたの親には何もしない」

「…はい」

「それでも、」

「……」

「万が一、あんたが泣くことがあれば…」

「……」

「俺がいつもそばにいることは忘れないでくれ」



タクシーが家の前に着く。家の前について見つけたのは、普段着姿のお兄ちゃんだった。私たちを待っていたらしい。
タクシーをおりた壱成さんに、お兄ちゃんが深く頭を下げた。


「ありがとうございました、」

頭を下げながら言ったお兄ちゃん。


「両親は?」

「中に」

「……」

「まだ警察を呼べと騒いでます」


お兄ちゃんの言葉に目を見開いた。まさか、壱成さんを?壱成さんに何かするつもりなの?


「そんな、私が、私が悪いの……。みんなを巻き込んで……」

「大丈夫、あいつらは呼ばない。呼んで困るのはあいつらの方だ」


呼んで困るのは……。その言葉に視線を下げた私は、頭を抱えた。


「圭加」


壱成さんがお兄ちゃんの名前を呼んだ。
お兄ちゃんはそれに頷くと「分かってます」と、また頭を下げ。
袋を持っている私も、壱成さんに頭を下げた。
家の中はシーンとしていた。玄関に入り、玄関の扉が閉まり、もう壱成さんの姿は見えなくなって。ああ、もう、これで最後なんだと思ったら本当に悲しくなった。

靴を脱いでいる時、お兄ちゃんが口を開く。


「楽しかったか?」


楽しかった……。たくさん壱成さんと話をした。本当はもっと一緒にいたかった。壱成さんに好きって言いたかった。


「うん、」

「良かったな」

「ごめんなさい…」

「もう頑張らなくていいわ、あと1年ってのも忘れてくれ」

「……え?」

「ちょっと話つける。ずっとずっと、頭を使えって言ってたのはあいつらだからな」


話をつける……?
お兄ちゃんは何を言ってるの?


「家族のことは、家族で解決しよう」


そう言ったお兄ちゃんがリビングに入っていく。お兄ちゃんがリビングに入れば、お父さんとお母さんが、ダイニングテーブルのイスに座っていた。私の顔を見るなり、お父さんは険しい顔をして立ち上がる。
────それにすぐ反応したのは、お兄ちゃんだった。


「また殴んのかよ、俺のことは殴らないくせに」


私を庇う、お兄ちゃんは、その背中で私を隠した。バカにしたように鼻で笑うお兄ちゃんの声は、低かった。


「お前、親に何を……」

「あんたはいつもそうだ、弱い女をすぐに殴る。佳乃の事も──ババアの事も」

「圭加……」

「なあ、あんたはなんで体の弱い佳乃を殴る?なんで毎晩夜遅く勉強させる?心配してるように見せかけて、あんたは自分の思い通りにならない2人を殴るだろう」

「親に向かってあんたとは何だ!!」

「じゃあ子供を殴んのはいいのか!!」

「これが教育というものだ!言葉では分からないから教育してる、まあ頭の悪いお前には分からないだろうが、」


チッ、と、舌打ちをしたお兄ちゃんは、「子供を泣かせる事が教育なのか……」と、聞いた事のないぐらい低い声を出した。

こんなふうにお父さんとお兄ちゃんが言い合うのは、お兄ちゃんが私立の中学をやめた時以来だった。
お母さんの方を見れば、お母さんは顔を下に向けて座っいた。その小さな肩はもしかしたらお父さんに殴られたのかもしれず。


「じゃあこれも教育なのかよっ!」


お兄ちゃんが後ろのポケットから、4つ折りにした紙を取りだした。その紙を荒々しく激しい音を立てて机の上にバン!!と置いた。


「なんだこれは」

「佳乃の血液検査の結果だ」


ヒヤリ、とした。
まさか、そんな。
お兄ちゃん、と、私が呟く前に、お兄ちゃんの台詞に反応したのはお母さんだった。
顔を上にあげたお母さんの頬は赤くなっていて…。
……お母さんは、何も喋らない。けど顔が蒼白になっているのが分かった。──それを見て、ああお父さんはやっぱり何も知らなかったと、悲しくなるのが分かった。


「血液検査?何のために」

「親の勝手で、アレルギーを作り出すのも教育か?」


その言葉に目を鋭くさせたお父さんは、机の上に置かれた紙を拾い、紙を拡げた。──アレルギー検査の結果を。
目を見開き、何も知らなかったお父さんは「──……どういう事だ」と、怒りの矛先をお母さんに移した。


「また殴るのか?ババアも。いいよ殴れよ。自分の子供に変な薬をずっと飲ませてた奴だ。佳乃の体がこんなんなってるのも、全部お前が作ったんだろ」

「お前…、そんなことを……」

「なあ、ババア。佳乃はずっと我慢してた。佳乃はほぼ初めからおかしいって気づいてた。それなのにあんたから出されるもんを飲み続けた理由は何だか分かるか?」


お母さんが私の方に視線を向ける。
それでも私はお兄ちゃんに隠れて、しっかりとお母さんの顔を見れなかった。


「俺だって何度も言おうとした、それでも佳乃に止められた。佳乃がお前らのことを……好きだっつーから」


──お兄ちゃん……。


「佳乃が……薬を飲まされても。殴られても、家族だからって……」

「……お兄ちゃん……」

「でももう我慢できない、佳乃が帰って来ないってことはもう限界だったってことだろ!!」


────限界……。


「壱成さんがいなかったら、佳乃が見つかってたかも分かんねぇのに……。よくお前らは、警察に通報なんて言えるな」

「……アレルギーのことは、分かった。だが、無断外泊をしたのは事実だ」

「無断?壱成さんは佳乃を助けてくれたって何回も何回も言ってるだろ!!」

「……」

「……もう佳乃を自由にしてくれ」


自由……。


「お前みたいに夜遊びを許せと言っているのか」

「そうじゃねぇよ、もう殴るな、薬を飲ませるなって言ってる」

「あの男は?」

「壱成さんのことか?佳乃の壱成さんの関係は俺の口出す事じゃない。俺はただそのふたつをやめて欲しいだけだ」

「……」

「でないと、これを警察に持っていく」


そう言ったお兄ちゃんが取りだしたのは、スマホだった。スマホを操作すれば、ピピ、と、音が聞こえて。
──今の出来事を録音、もしくは録画をしていたらしいお兄ちゃんは、「虐待されたとして持っていく」と、もう一度ポケットの中に入れた。


「……お前、今すぐ消しなさい!!!」

「焦るってことは、やばい事をしてたって、あんたらも分かってんだろ」

「圭加!!」

「あと、ババアの事も殴っても警察に持っていくから。分かったな?──……二度と佳乃を殴るな、薬を飲ませるな!!!」


お兄ちゃんは怒鳴った後、ゆっくりと後ろに振り向き「行こう」と、私の腕を掴む。
まだこの現状が把握出来ていなくて、戸惑っている私を連れて2階へとあがろうとする。
お兄ちゃん、と、名前を呼んでも、お兄ちゃんは私の腕をひき2階へとあがり。

お兄ちゃんの部屋へと連れてこられ、今のはどういう事かと、口を開こうとしたけど。
お兄ちゃんが「……ごめんな」と先に謝るから。私は何も言えなくなった。


「限界だったの、気づいてやれなくてごめん…」

「お兄ちゃん…」

「でももうこれで、あいつらはお前に何もしてこないはずだから。この動画がある限り」


──虐待に肯定した動画がある限り。


「もう、お前の自由だから」

自由……
自由、とは。
自由?


「もう殴られることもないし。ババアの入れた飲みもんも飲まなくていい。佳乃が犠牲になることは無い」


殴られる事も……?
薬も飲まなくていい……?
私が犠牲になることは──。


「それでも、まあ、壱成さんの関係は言われるかもしれない。族の頭をしてる人だから。──そういう、なんつーの、バカしてる人間をあいつらは嫌うから」

「お兄ちゃん……」

「だからこれからは佳乃次第」

「……わたし?」

「壱成さんがどんな人か、あいつらに教えてやれ」


どんな人か……。
私のことを考えてくれる優しい人だと?


「わたし……、壱成さんと会ってもいいの?」

「それも、親の許可が得たらって話な」

「好きでもいいの……?」

「いいよ、佳乃は自由なんだから」

「──……自由……」

「そうだよ」

「……」

「なあ、」

「……?」

「好きか?壱成さんのこと」


好き。
好きだよ。
でも、もう、関わらないでって、言ってしまったのに。


「私もう、壱成さんを拒絶したの……」

「拒絶?」

「何もしないでって。会うのは1年後って…」

「……ああ」

「それでも、私から会いに行っていいの?」

「いいんじゃねぇの?」

「でも、嘘をついたことになる……」

「あの人、お前の嘘に怒るか?」


怒らない……。
壱成さんは私に怒ったことなんてない。
首を横にふれば、お兄ちゃんの笑った気配がした。


「頑張れ、応援してる」

「……お兄ちゃん」

「ん?」

「……ありがとう……」


お兄ちゃんはまた笑うと、私の頭を撫でた。


「けど、暫くは様子見。動画がある限りは大丈夫だとは思うけど」

「うん」

「つか、礼なら壱成さんに言ってくれ」

「……壱成さん?」

「お前を守ってくれたのは壱成さんだろ?」
私を守ってくれたのは──…
ずっとずっと、探して、一晩中私の傍にいてくれた人。壱成さんがいなかったら今頃、私はまだあの駅のロータリーにいたかもしれない。


「それでも、私は何もしないでって壱成さんを拒絶したの…」

「うん」

「それなのに、また会いたい、って、虫が良すぎると思うの…」

「佳乃の気持ちは分かる。でももっとお前もわがままになっていいと思う」


──わがまま?


「…さっきも様子見って言ったけど、あいつらの根本的な性格は変わらないから気をつけた方がいいし、何か起きそうなら反抗したっていい」

「でもそれじゃあ、お兄ちゃんが悪く言われる」

「それは脅しだ。そう佳乃に言えば、あいつらは佳乃が大人しくなるって分かってる。脅してるのと変わらない」

「…でも」

「…いいか佳乃」

「……」

「さっきも言ったように、お前は自由」


──…自由…。


「今度は佳乃が考えて、行動していいんだよ」


私が考えて、行動する?
私自身が、何も縛られず、自由に行動をしていいと?


「昨日の夜、家に帰りたくないって言ったのが、〝本物の佳乃〟なんだから」