プロローグ
多くの国を巻き込んだ世界大戦が起き、その戦争は各国に甚大な被害と悲しみを生み出した。
それは日本も例外ではなく、大きな被害を受けた。
復興には多大な時間と労力が必要とされると誰もが絶望の中にいながらも、ようやく終わった戦争に安堵もしていた。
けれど、変わってしまった町の惨状を見ては悲しみに暮れる。
そんな日本を救ったのが、それまで人に紛れ陰の中で生きてきたあやかしたち。
陰から陽の下へ出てきた彼らは、人間を魅了する美しい容姿と、人間ならざる能力を持って、戦後の日本の復興に大きな力となった。
そして現代、あやかしたちは政治、経済、芸能と、ありとあらゆる分野でその能力を発揮してその地位を確立した。
そんなあやかしたちは時に人間の中から花嫁を選ぶ。
見目麗しく地位も高い彼らに選ばれるのは、人間たちにとっても、とても栄誉なことだった。
あやかしにとっても花嫁は唯一無二の存在。
本能がその者を選ぶ。
そんな花嫁は真綿で包むように、それはそれは大事に愛されることから、人間の女性が一度はなりたいと夢を見る。
あやかしは花嫁を見つけたら花嫁以外目に入らなくなる。
しかし、もしも自身がすでに結婚していたなら、あやかしはどうするのだろうか。
それまで支えてくれた伴侶との絆などなかったことにするのだろうか。
それはなんと悲しいのだろう。
一章
鳴海芽衣はごくごく普通の家に生まれた。
レストランを営んでいる両親。シェフをしている父親と、接客をしている母。
店は小さいながらもテレビで紹介されるような人気店となり、事業を広げて複数の店舗を持てるまでになった。
『いつかお父さんの跡を継いでシェフになる!』
そう夢を語った芽衣を、父親は恥ずかしそうに笑っていたものだ。
忙しくも幸せだった。
すべてが順調だった。
それなのに……。
芽衣が高校生の時、少しずつ歪み始める。
切っ掛けとなったのは鎌崎風臣というあやかしに芽衣が見初められてしまったことだ。
あやかしという世界とはまったく関わりのない場所で生きてきた芽衣の日常に、風臣という男はズカズカと足を踏み入れてきたのである。
かまいたちのあやかしだという彼は、クセのある髪で、あやかしというだけありそれなりに顔立ちが整っていたが、その目はまるで獲物を見るようにギラギラとしていて、直視できなかった。
『あやかしの花嫁』
風臣は芽衣こそが自分の花嫁だと言い切った。
話しに聞いたことはあるが、どんなものか知っているわけではなかった。
丁寧に説明してくれる相手なら、芽衣もゆっくりと考え答えを出せただろう。
しかし、風臣は傲岸不遜で、花嫁に選ばれて嬉しいだろうと言わんばかりの上から目線な態度だった。
そんな彼にどうして好感を抱けるだろう。ただただ反感しか覚えなかった。
だからというか、芽衣の判断は早く、その場でお断りの返事をしたのだ。
年齢が大きく違っていたのもある。彼はどう見ても三十歳そこそこ。
まだ高校生の芽衣から見たらおじさんと言ってもいい。年が離れすぎている。
年齢を理由にすれば当たり障りなくお断りできるだろう。
そこで終わればよかった……。
しかし、芽衣はあやかしの花嫁への執着心を甘く見ていた。いや、知らなかったと言う方が正しいか。
それは芽衣と同じく、あやかしと関わったことのない両親も同じである。
お断りの返事とともに素直に帰ったからこそ、笑い話で済ませていた。
『なんか変な人だったね』
『芽衣があやかしの花嫁なんておかしくて仕方ないわ』
『芽衣は俺の跡を継ぐんだからよそに嫁になんか行かせねぇぞ』
『お父さんったら』
そんな風に家族皆で笑った。
崩壊の足音がそこまで迫っているとも知らずに。
その後からだ。急に店に悪質な客が来るようになったのは。
一度や二度ではなく、何度となく店に言いがかりのようなクレームをしたり、店内で大騒ぎするものだから、悪評が広がっていき客足が遠くなった。
常連だった客すらも次第に姿を見せなくなってしまったのだ。
そうなれば当然売り上げは落ちる。
芽衣の両親も対策はした。
監視カメラをつけたり、警察に相談したり。
それでも悪質な客は次から次へとやって来る。
なぜ突然こんなことになったのか、芽衣も両親も意味が分からなかった。
複数あった店すべてで同じような騒ぎがあるものだから、ひとつ店を閉じ、ふたつ店を閉じとなってしまい、かろうじて残った数店も潰れる寸前まで追いやられてしまった。
悪いことはさらに続く。
資金繰りに困っていた父親が、なんとかして金を得ようと薦められるままに投資を行うも、のちにすべて詐欺だったと発覚。
店を守るどころか、大金を失い借金まで負わされてしまったのだ。
それにより、最初に始めた店舗以外の店をすべて手放すほかなくなった。
意気消沈する父親の背は精神的に参っているのが見て取れた。
『お父さん、大丈夫?』
『大丈夫、大丈夫! 芽衣が心配する必要なんかないぞ。はははっ』
芽衣の前では無理をして笑っているのが分かったので、芽衣は胸が痛んだ。
どうしてこんなことになったのか。
家庭内の空気は最悪だった。
そんな時に都合よくやって来たのが風臣だった。
彼は言った。
『私と結婚をするなら、借金返済もレストランの再興も協力しますよ』
その暗く陰湿な眼差しを見て、ようやく芽衣は彼のプライドを傷つけてしまったと気づいた。
しかし、気づくには手遅れだった。
芽衣たちの足下を見た風臣の言葉に芽衣は揺れる。
自分が風臣と結婚しさえしたら……。
そうすればレストランも両親も守れる。
しかしそこではっとする。
あまりにも都合がよすぎやしないかと。
『あんた、まさか……』
『なんです?』
『なんですじゃないわよ! あんたが全部裏で手を引いてたの!? 悪質な客も! 投資詐欺も!』
激昂する芽衣に、風臣はにやりと口角をあげた。
その歪んだ笑みがすべてを物語っていた。
『あ、あんたっ……』
芽衣は怒りで体が震えた。
思わず手を振りあげたが、風臣は勝ち誇った顔で問いかける。
『さて、どうしますか? 私を殴って警察沙汰になったら、困るのはそちらですよ? またレストランの悪評が立ってしまいますね』
『っ……』
芽衣は悔しそうに手を下ろす。
『君には選択肢はないんじゃないかな? 素直に私の花嫁になりなさい』
『お断りよ! 誰がお父さんたちを苦しめる奴の花嫁になんてなるもんか!』
風臣は聞き分けのない子供にするような表情を浮かべて肩をすくめる。
『やれやれ、やはりまだ子供だな。現状を理解できていないらしい。今君の家族は崖っぷちに立っているいるというのに』
『あんたのせいでしょう! あんたがいなかったらこんなことになってないわ。とっとと出ていって!』
不敵に微笑む風臣は、ゆっくりと背を向けてから振り返る。
『ひとつ言っておこう。私は花嫁を得るために手段は選ばない。多くのあやかしがそうであるように、私も絶対に君を手に入れる』
そう言い捨てて去っていく風臣を、芽衣は憎悪に満ちた眼差しでにらみつけた。
『なにがあやかしの花嫁よ』
芽衣にはあやかしと花嫁への怒りと憎しみが残された。
***
柚子は大きな敷地を持つ、和風建築のお屋敷に来ていた。
同じ和風な建物でも、比較的新しい玲夜の屋敷とはまた違った、厳かな雰囲気の古い屋敷だ。
ここは元一龍斎の当主が住んでいた場所。
経営が傾き、屋敷の維持すらままならなくなった一龍斎が手放したのを、待っていましたとばかりに玲夜が買い取ったのだ。
憎らしさを感じている一龍斎の屋敷だ。
玲夜は元々買い取るつもりなどなかったのだが、龍がここには大事なものがあるからどうしても手に入れてほしいと懇願したので、手に入れるために動くことになった。
玲夜は順を追って追い込んでいたようだが、龍があまりにもまだかまだかと急かすものだから、査定金額よりも金を積んで一龍斎一族をとっとと追い出したらしい。
さすが鬼龍院。
かつては日本を裏から牛耳るほどの権力があった一龍斎も、あやかし界だけでなく政治経済においても日本トップの家である鬼龍院には形なしである。
一龍斎も鬼龍院に喧嘩を売らなければ没落することもなかっただろうに、虎の尾を踏んづけてしまったようだ。
鬼龍院親子を怒らせると怖いと身をもって知っただろう。
そんな鬼龍院の次期当主が自分の旦那様なのだから、未だに信じがたい。
もし柚子が過去の自分に会って伝えたとしても、信じてはくれないはずだ。
「玲夜。中に入れるの?」
「ああ。なにが大事なのか分からなかったから、必要最小限のものだけ持って追い出した」
軽く言っているが、一龍斎側からしたらとんでもない扱いだ。
少々同情してしまう。
しかし、長年に渡り一龍斎に囚われていた龍に同情する気持ちは微塵もなく、軽快に笑っている。
『カッカッカッ。愉快愉快。さぞや追い出される時にごねたであろうな』
口を大きく開けて気分がよさそうだ。龍にとって一龍斎の不幸は蜜の味なのだろう。
「先に中を見て回る?」
見て回ると言っても母屋の屋敷だけでも相当に広く、離れの建物を含めたら、それだけで一日が終わってしまいそうだ。
「あのお方の本社はどこなのかえ? わらわは早く挨拶がしたい」
そう問うたのは狐雪撫子。
波打つ長い黒髪と蠱惑的な雰囲気のある彼女は妖狐の当主であり、今回かろうじて踏ん張っていた一龍斎にとどめを刺すのにひと役買った人物である。
どうやら龍の話す大事なものと関係が深いらしく、玲夜以上の気迫で率先して一龍斎を潰しにかかったとか。
さすがの一龍斎も、鬼どころか妖狐まで出張ってきたら、泣くに泣けない。
撫子とは一龍斎の屋敷を手に入れる時にひと悶着あった。
それはどちらがこの屋敷の所有権を得るかというものだ。
龍に頼まれたこともあって、当然のように玲夜が買い取るつもりだったのだが、撫子が『あの方の本社がある場所ならばわらわが所有していたい』と、言い出した。
柚子も玲夜も“あの方”という言葉の意味が分からず、それほどに撫子が欲しがっているなら譲ってもいいと考えていた。
一龍斎との決着をこんなに早く決められたのは間違いなく撫子の貢献があってこそだから。
玲夜の父親である千夜も問題ないとしたのだが、しかし、龍が待ったをかける。
『あの方の社は柚子が管理すべき。その方があの方も喜ばれる』
まったく意味の分からないやり取りに、名前を出された柚子は困惑したが、撫子の方は龍の言葉でなにやら納得したようだった。
そんなこんながあり、結果的に玲夜が買い取り、名義を柚子のものとすることで落ち着いた。
話を戻し、撫子の言う『あのお方の本社』という言葉の意味を柚子は分かりかねている。
「玲夜……」
玲夜を見あげるも、玲夜も話しに入っていけないようで首を横に振っている。
この場で撫子の話が通じているのは龍だけだ。
柚子は龍に視線を向ける。
龍は撫子の言葉にうんうん頷く。
『確かにここへ来たならば真っ先にご挨拶をすべきであろう。ついてくるがよい。ただし、護衛は置いてくるのだぞ。あの方のいる大事な場所に大勢で押しかけてはご迷惑だからな』
「その通りじゃな」
撫子は連れてきていたおつきの人たちに残るように指示すると、玲夜も同じように護衛たちへ待機を命じる。
ふたりのやり取りを見届けてから、龍は道案内をするように柚子たちの先頭を進んだ。
母屋と離れの建物を囲むように雑木林がある。
目に入るところは手入れがされていて綺麗な庭が維持されていたが、母屋から離れるに従って手入れがされていない林が姿を見せる。
草木は何年も人の手が入っていないように生い茂り、歩くにつれ前に進みづらくなってきた。
着物を着ている撫子は特に歩きづらそうにし、時折草木に行く手を遮られながらも文句ひとつ言わない。
邪魔な植物に苛立ちを感じているのが顔に出てしまっているが、正直言うと柚子も同じ気持ちだ。
しかし、洋服の柚子はまだマシだろう。
ヒールの高い靴ではなく、スニーカーを履いてきて正解だった。
「大丈夫ですか、撫子様?」
柚子は見るに見かねて撫子に声をかける。
「うむ。ちと大変だが、わらわは大丈夫じゃ。こんな荒れた道なき道を歩くと分かっていたなら、着物で来たりはしなかったのじゃがの……」
前を歩く玲夜を見れば、柚子と撫子が歩きやすいように草木を踏み固めて道を作ってくれている。
それでも歩きづらいのは変わりないのだが、撫子ですら不満を言っていないのに柚子が言うわけにはいかない。
どこまで行くのかとお構いなしにズンズン進んでいく龍の後をついていくと、柚子は驚いたように目を見開いた。
「アオーン」
「ニャーン」
「えっ、まろ? みるく?」
玲夜の屋敷に置いてきたはずの、黒猫と茶色の猫が姿を見せたのだ。
まるでその場の番人のように左右に立つまろとみるくはちょこんとお座りをして柚子を見ていた。
まろとみるくは荒れ放題の草むらに向かってそれぞれが鳴いた。
「あおーん!」
「にゃーん!」
まるで二匹の鳴き声に反応するように突然風が吹き、草がザワザワと葉を擦り合わせるように動き出す。
その言葉にできない異様な雰囲気に柚子は息をのむ。
「っ……!」
『ほれ、柚子。前へ出るのだ』
驚きのあまり声も出ない柚子が龍に背を押されて前へ出ると、行く手を遮るように生えていた草や木が、左右に分かれて道を作ったのだ。
まるで柚子を迎え入れるかのように。
これには玲夜と撫子も驚いた顔をしている。
「どどどいうこと?」
激しく動揺する柚子は振り返って玲夜と撫子をうかがう。
しかし、ふたりから答えはもらえない。
ふたりも分からないのだろう。ただ様子を見ているだけだった。
『あのお方が柚子の来訪を楽しみに待っておるのだよ』
龍の言葉に同意するように、まろとみるくも鳴いた。
「アオン」
「にゃん」
もう一度玲夜を振り返り困ったように眉を下げながらも、意を決したように恐る恐る前へ歩いていく。
柚子が一歩、また一歩進むに従い、草木が自然と避けていくではないか。
まるで生きているかのような動きを見せ、ぎょっとする柚子。
現実のこととは思えない光景に普通なら怖いと思うのかもしれない。
柚子も始めは怯えたが、一歩一歩前に進むにつれ清浄な空気が辺りを包んでいくのが分かった。
それは以前に撫子の屋敷で感じたようなとても綺麗で神聖なものだ。
不気味とはほど遠い清廉な空気を感じたら、恐れなどどこかへ吹き飛んでしまった。
むしろこの先になにがあるのか早く知りたい。そんな気持ちがあふれてくる。
急くような気持ちを抑え、ゆっくりと前へ進む柚子の後を玲夜と撫子が続く。
龍は柚子の肩に乗り、左右をそれぞれまろとみるくが付き従うように歩いた。
それほど長くない距離を行くと、突然道が開け、大きな鳥居が柚子たちを出迎えるようにして建っていた。
その鳥居の先には社がある。
撫子の屋敷にあった社より倍ほどある大きく立派なものだ。
不思議なことに、ここまでの道は決して人の手が入っているようには思えないほど荒れていたのに、社は寂れた様子もなく、綺麗な状態でそこにあった。
一見すると普通の社。
しかし、その大きさよりもずっと大きな存在感を肌で感じる。
きっと今の気持ちを言葉にするなら、『畏怖』と人は言うのかもしれない。
何故だろうか。胸がしめつけられるように痛み、バクバクと心臓が強く鼓動する。
思わず服の上から胸の辺りをぎゅっと握りしめるが、目は社から離せない。
すると……。
「柚子、どうした?」
どこか焦りをにじませた玲夜の声にはっとする。
玲夜が柚子の頬に手を伸ばす。
「どうして泣いてるんだ?」
柚子はそこでようやく、自分が涙を流していることに気がつく。
「あれ?」
「具合が悪いのか?」
「ううん。なんでだろ?」
自分でも何故泣いているのか分からなかった。
痛いわけでも苦しいわけでもないというのに。
柚子はゴシゴシと手で乱暴に目元を拭う。
「もう大丈夫」
心配そうに柚子の顔を覗き込む玲夜に笑ってみせてから、もう一度社に視線を向ける。
「ここはなんなのかな?」
「分からない」
玲夜にも分からないのなら柚子に分かるはずがない。
一龍斎に関わる知識はほとんどないのだから。
すると、後ろから撫子が声を発する。
「ここは見た通り、社じゃ。わらわの屋敷にあった社はここの本社から分霊されたもの。妖狐の一族はずっと探しておったのに、まさかこんなところに隠れておられたとは……」
興奮を抑えきれないという様子で、撫子は社を目に収めている。
撫子は着物や手足が土で汚れるのも気にせず、地面に膝をついて座り、深々と頭を下げた。
気位が高い妖狐当主である撫子のその姿に、柚子だけでなく玲夜も驚いた顔をしている。
あの撫子が地面に額をつくほどに頭を下げているのだ。
社ということは、よほど大切な神様を奉っているのだろう。
神様なら柚子も同じようにお参りした方がいいかと、撫子の横に並ぶように正座して頭を下げようとしたが、まろがスリスリと頭を擦りつけてきた。
龍も寄ってくる。
『さすがにそこまで仰々しくせんでよいだろう。あの方も柚子にそこまで求めておらんよ。ただ、柚子には今後できるだけこの社に通って祈りを捧げてほしいのだ』
「祈り? お参りすればいいの? 私は別にいいけど……」
お参りするぐらいなんてことはない。
しかし、【祈る】と【参る】は微妙にニュアンスが違うような気がする。
そもそもなにをお祈りすればいいのか分からない。
玲夜が難しそうな顔で佇んでいるのが気になり、玲夜の顔をうかがう。
「ここはなんの社だ? どんな神が奉られているんだ?」
柚子も気になったこと。
撫子は知っているようだが、柚子も玲夜もなにも知らされずこの場にいる。
玲夜が疑問に思うのは当然だ。
一龍斎に関わりがあるのは間違いないのだろうが。
『ここは一龍斎が崇めていた神が奉られている場所だ。その昔、サクが神子として仕えていた』
龍が口にした『サク』は、最初の花嫁と言われている。
人間から初めてあやかしに嫁いだ鬼の花嫁。
柚子にとったら先輩である。
しかし、彼女の生涯は壮絶を極め、失意のうちにその命を終えた。
サクは一龍斎の神子だった。
そんな彼女が神子として仕えていた神。
「一龍斎の敷地内にあるから一龍斎が崇めている神様ってのは納得なんだけど、撫子様は……?」
一龍斎が奉る神と撫子は関係ないのではないかという疑問は、最後まで口に出さずとも伝わったようで、撫子が口を開く。
「一龍斎の奉る神は、同時にあやかしの神でもあるのじゃよ。あやかしと人間。本来なら相容れぬ存在であるふたつの種族を繋いでいた神であり、一龍斎は神子として神の代弁者をしておった。いつしか一龍斎はその役目を放棄して、忘れていったようじゃがな」
『あのお方はサクを大層かわいがっておられたからな。一龍斎がサクを死に追い込んだことで、あのお方は一龍斎から手を引き、眠りにつかれたのだ』
先ほどから龍が呼んでいる『あのお方』とは、どうやら神様のことのようだ。
『本当なら神に見放された時点で一龍斎は終わっていたはずなのだが、我が捕まりそうもいかなくなった』
「にゃうにゃーう!」
みるくが龍を責めるように声を荒げたかと思うと、まろもじとっとした眼差しを向けていた。
二匹の視線を感じた龍は、くわっと目をむき反論する。
『仕方なかろうが! 我とて口惜しいのは同じだ。むしろ一番奴らを憎々しく思っているのは我だぞ!』
「アオーン」
「ニャン!」
まろとみるくの言葉は分からないが、なにやら不満をぶつけているように聞こえる。
『捕まる方がアホとはなんだ! お前たちこそもっと早く助けにこぬか』
ぎゃあぎゃあと騒いでいる三匹を横目に、撫子はようやく立ちあがる。
「わらわの屋敷にある社は、最初の花嫁が鬼に嫁いだ時に分霊されたものだ。当時あやかしの間で特に力を持っておった三つの一族に、神が形代を与えた。鬼龍院には神がもっとも愛した神子を花嫁として。孤雪には分霊された社をというようにな」
「花嫁と社。あとひとつは……?」
撫子は三つと言っていたのに、ふたつしか口にしていない。
柚子が玲夜に顔を向けると眉間にしわを寄せていた。
玲夜から撫子に視線を移すが、撫子は柚子に目を向けることなく、社を見たまま話を続ける。
「神が眠りについたと知ってから、孤雪家は代々神の本社を探しておった。神に見放された一龍斎に本社を任せてはおけぬとな。しかし、どこを探しても見つからなかったのじゃ。それがまさかわらわの代でこれほど容易く見つかるとは……」
柚子の疑問には答えなかった撫子。
聞こえなかったのかと深く考えることはなかった。
「一龍斎の屋敷にあるとは思わなかったんですか?」
柚子の素朴な疑問。
一龍斎の屋敷を探せばすぐに見つかったのではないかと。
子供でも真っ先に思いつくだろうことに気づかぬはずはなかった。
「もちろんじゃ。だから真っ先に探したと記録にあったが、ついぞ見つけることは叶わなかった。だから、一龍斎がどこぞに隠したと思っておったのじゃ」
そのわりには簡単に見つかったように思う。
探し方が足りなかったのではないかと、柚子は失礼なことを考えてしまったが、龍が横から話に入ってくる。
『サクがあんなことになって、あの方はずいぶんと怒り悲しんでおられたからな。誰もここにたどり着けぬようにされたのだろう。あの方が近づかせぬようにしたなら、いくら力のあるあやかしと言えども見つけるのは不可能だ』
「へぇ。そんなことができるなんて、神様はあやかしより強いの?」
『当然であろう。ものすごく強くて偉いのだ!』
龍は我がごとのように自慢げに胸を張る。
「そんな神様なのに、サクさんは助けられなかったの?」
柚子が純粋な疑問を口にすると、途端に龍がずーんと肩を落ち込ませた。
心なしかまろとみるくも落ち込んでいるように見える。
「えっと……。なにか変なこと言っちゃった?」
『いや、おかしなことではない。そう思うのはもっともだ。しかし、サクがそれが止めたのだ。あの方は最初、一龍斎の一族に神罰を与えようとしていた。しかし、神の及ぼす影響は大きく、累が及ぶ者の中には生まれたばかりの赤子も含まれる。だからサクは望まなかった。それにより起こった悲劇はあの方を苦しめる結果となってしまったのだ』
「そう、なんだ……」
余計なことを言ってしまったと柚子は反省するが、一度口から出てしまった言葉は取り消せない。
龍たちが、サクを大切に思っていると知っていたはずなのに、配慮に欠けていた。
なにもしようとしなかったはずがないのに。
「……ごめんね」
申し訳なさそうな表情で、柚子は龍の頭を撫でた後、まろとみるくもに同じように優しく触れる。
甘えるように頭を擦りつけてくるまろとみるくに、謝罪の気持ちを込めて丁寧に撫でた。
龍が柚子の腕に巻きついてくるのを、されるがままになる。
『柚子が謝る必要はない。あの時は悪いことが重なり、誰にもどうすることもできなかったのだ。けれど、あの方は自分を責めて眠ってしまわれた』
「神様は今も寝てるの?」
『どうであろうな? 我にも分からぬ。ただ、柚子がこれからここに来てくれるようになれば、あの方も目覚めるであろう』
「私が来たぐらいで目が覚めるとは思えないんだけど」
確かに柚子には一龍斎の血がわずかながら流れており、神子の素質があると龍から言われている。
しかし、神様が神罰を与えようとするほど一龍斎の一族を憎んでいるなら、逆効果ではないだろうか。
『いや、柚子が来るとあらば、のんびり寝てもおれなくなるはずだ』
「そうかなぁ?」
『絶対にそうだ。だから時間を見つけて来てくれぬか?』
なにをもって断言できるのか柚子には理解できないが、龍がそこまで言うならそうなのかもしれない。
「さすがに毎日は無理だけど、時間が空いたときならでいい?」
『かまわぬよ』
玲夜に視線を向ければ、問題ないというように頷いた。
玲夜が反対しないなら危ないこともないのだろうと、柚子は暇を見つけてはここに通うことになった。
二章
一龍斎の──いや、今は柚子のものとなった屋敷の社へと、学校帰りにお参りするのが日課となっていた。
そんなある日の週末の休み。
柚子は友人である透子に会いに、猫田家へとやって来ていた。
子鬼たちと龍も一緒である。
透子の部屋では、透子と東吉の娘である莉子に、離乳食を与えているところだった。
「もうミルクから卒業?」
「まだまだよ。でも離乳食も始めていいらしいから」
「私があげてもいい?」
「いいわよ~」
透子からお皿とスプーンを受け取り、恐る恐る口にスプーンを持っていくと、パクリと食べた。
なにやら眉間にしわを寄せてもぐもぐと口を動かしている。
「美味しいのかな?」
一見すると美味しくなさそうに見えるが、吐き出さないので美味しいのかもしれない。
子鬼たちも興味深そうに莉子を見ているかと思ったら、ぴょんぴょん跳びはねた。
「あーい」
「あいあーい」
「え、子鬼ちゃんもあげたいの?」
こくこくと頷く子鬼にスプーンを渡すと、ふたりでスプーンを持ちあげて、えっこらえっこら口に運び始めた。
莉子はどちらかというと子鬼たちの方に視線が向いているが、スプーンを差し出されると反射的に口を開けて食べていた。
ちゃんと食べてくれたことに子鬼はなんとも満足そうな表情をしている。
これはなんともかわいらしい光景だと思った柚子は、迷わずスマホを向けてカメラで撮ると、子鬼を愛してやまない元手芸部部長に送信してあげた。
「部長に送ったの?」
「うん。部長には子鬼ちゃんの服でなにかとお世話になってるしね」
「部長の子鬼ちゃんラブの力はすごいわよね」
透子は「気持ちは分かるけど……」と言いつつも、少々あきれている。
なにせ熱量が違うのだ。
玲夜と子鬼の服を作るという専属契約をしてからというもの、毎週のように新作の服を送ってきてくれる。
本業をおろそかにしていないか不安になるほどだが、本業は本業でかなり成果をあげているらしいという噂だ。
原動力は間違いなく子鬼の存在だろう。
なので、こうして時々子鬼成分を補充してあげるのだ。
これでまた新たな創作意欲が刺激されかわいい服を送ってくれることだろう。
まさにウィンウィン。
莉子の食事を終えたところで、莉子はどうやらおねむの様子で、睡魔と戦っていた。
それを見た透子が莉子を抱えあげた。
「ちょっと別の部屋で寝かしてくるわ」
「うん」
透子は一度部屋を退出したが、すぐに戻ってくる。
莉子を使用人に預けてきたのだろう。
もっと莉子を見ていたかったが、ここでは騒がしく、莉子の眠りを妨げてしまうから仕方がない。
子鬼たちもちょっと残念そうだ。
「そうそう、柚子に報告しとくことがあったのよ」
「なに?」
透子は「うふふふふ」と、喜びを隠しきれない様子で笑い始めた。
「にゃん吉におねだりして、やっとこさ結婚式を挙げるのを勝ち取ったわよ~」
透子は拳を天に突きあげてあふれんばかりの嬉しさを表現している。
それを聞いた柚子もぱちぱちと拍手した。
「わー、ほんとに? よかったね。にゃん吉君のお許しが出たんだ」
「それはもうしつこく粘ったかいがあったってもんよ」
「にゃん吉君が折れたのね……」
しつこく絡む透子の姿が目に浮かぶようだ。
透子は言いだしたら頑固なので東吉も相当困っただろう。
最初に結婚式の話を言い出した柚子はわずかに申し訳なく思う。
だが、同じ女として、結婚式を挙げたい透子の気持ちはすごくよく分かるのだ。
「結婚式はいつ?」
「秋頃よ。柚子も出席してくれるでしょう?」
「もちろん!」
すると、子鬼も自分たちの存在を主張するかのように、テーブルの上でぴょんぴょんと跳びはねた。
「あーい」
「あいあい!」
「子鬼ちゃんたちも来てくれるの?」
透子が問うと、子鬼たちは何度も頷きながら声をそろえて「あーい!」と返事をした。
『仕方がないから我も出席してやろう。うまい酒を用意しておくのだぞ』
誰も呼んでいないが、龍も参加する気満々である。
透子は「お酒足りるかしら?」と、心配そうにしている。
これは当日龍を監視する者が必要かもしれない。
柚子は自分の結婚披露宴の時の龍の暴れっぷりを思い出して頭が痛くなってきた。
いっそまろとみるくを監視につけるべきか、本気で考えていたところで、部屋をノックする音が聞こえる。
すぐさま入ってきたのは東吉で、続いて柚子たちの友人である蛇塚も姿を見せた。
「あら、いらっしゃい、蛇塚君」
「お邪魔してます、にゃん吉君。蛇塚君もこんにちは」
「おー」
「こんにちは」
それぞれの挨拶を済ませると、東吉と蛇塚も空いた場所に座った。
「にゃん吉君、透子から聞いたよ。結婚式を挙げるんだって?」
「あー、まあな。別に俺は今さらしなくてもいいと思うんだけど……」
苦い顔をする東吉に、透子が食ってかかる。
「嫌よ! 私だって柚子と若様みたいな結婚式とか披露宴したいもの!」
吠える透子に、東吉はやれやれという様子。
「……ってな感じだからなぁ。まあ、莉子も無事に生まれたし、透子がそこまでしたいってならいいんだけどさ。俺と透子の両親もなんだかんだ盛りあがってるみたいだし」
「にゃん吉君はしたくないの?」
あまり結婚式に乗り気でないように思えた。
「うーん、どっちでもいいって感じだな。やらなくても全然問題ない」
「そういうもの?」
なんだか意外だった。
柚子の場合は柚子以上に玲夜が乗り気だったような空気だった。
まあ、それ以上にノリノリでやる気満々だったのは玲夜秘書である高道だが、結婚式をするのは絶対という雰囲気だった。
「玲夜なんて、私より私の着るドレスに興味津々で、袖の長さまで細かく指定してきたりしてたのに。にゃん吉君もそうじゃないの?」
「それが全然なのよ。もう他人事よ。私の好きなもの着させてくれるのは嬉しいけど、興味なさ過ぎるのも問題よねぇ」
ここぞとばかりに透子が不満をぶつける。
「興味ないわけじゃないぞ。ただ、家族と友人だけの内輪の結婚式で、猫田家の取引会社の関係者を呼ぶわけでもないから、透子がしたいようにすればいいって思ってるだけだ。てか、あんまり口出すと逆にお前が怒るからだろうが」
玲夜だったらたとえ内輪の結婚式だとしても、一から十まで知りたがるような気がする。
同じあやかしの花嫁でも、花嫁に対する考え方は違うようだ。
「だってぇ、一生に一度の結婚式だしやりたいことがたくさんあるんだもの。にゃん吉ったらあれば駄目これは駄目って文句言うし」
「文句も言いたくなるわっ! 両親に感謝のビデオレターを別撮りして会場で流すとか恥ずかしすぎるだろ。花嫁の手紙だけにしとけ」
「えー、なに言ってんのよ。それは絶対やるわよ! 日頃の感謝を伝えなさいよ。きっと喜ぶわよ」
東吉にも東吉の言い分があるようで、不服そうに訴えているが、透子が聞く耳を持つ様子はない。
東吉は「好きにしてくれ……」といろいろと諦めた顔をしていた。
どんな結婚式になるやら、今から楽しみである。
「で? お前のとこはどうなってんだよ、蛇塚?」
話は透子の結婚式から蛇塚の話へ移行する。
急に話を振られた蛇塚はきょとんとしていた。
「どうって?」
「どうって、杏那とだよ」
顔面凶器のように強面の蛇塚には、雪の妖精のようにかわいらしい雪女のあやかしである白雪杏那という彼女がいた。
蛇塚には元々、梓という花嫁がいたのだが、梓は蛇塚のことを蛇蝎のごとく嫌っていた。
梓は自ら望んで花嫁になったわけではなく、負債を抱えた家の援助と引き換えに両親から頼まれ嫌々蛇塚の花嫁となったという。
本人の意思ではなかったせいで、梓は蛇塚に歩み寄ることはなく、言葉は悪いが、自分の境遇をまるで悲劇のヒロインのように思っていたようなところがあった。
結果だけを言うと、梓は鬼龍院を敵に回すような問題を起こし、蛇塚の花嫁ではいられなくなり、家の援助もなくなったという。
それが梓にとってよかったのかは分からないし、今どうなっているか柚子は知らない。蛇塚に聞く気もない。
梓のことを聞いたところで、蛇塚の傷を無意味にえぐるだけだろう。
普通花嫁をなくしたあやかしは次の縁に恵まれないことが多いそうだが、幸運なことに、蛇塚には彼を愛してやまない杏那という女性が現れた。
不幸になることが目に見えていた梓とは違い、心から応援できるふたりに安堵を覚えているのは、柚子だけではないはずだ。
透子はもちろん、蛇塚の昔からの友人である東吉は特に同じ気持ちだろう。
東吉としてはさっさと杏那とくっつけばいいのにという思いがあるのかもしれない。
最近では会うたびに杏那とのことを聞いているような気がする。
しかし、興味があるのは柚子も同じ。
だが、へたに杏那の方に聞くと、真夏でも凍死しかねないと学習したので、蛇塚に聞くしかない。
幸いにも、今日は予定があるため杏那がいないので、聞くなら今がチャンスだった。
「俺と透子も、柚子も結婚したんだし、今度はお前の番じゃねえの?」
杏那がいないのをいいことに、遠慮なくツッコんでいく東吉を、柚子も透子も止める様子はない。
東吉が言い出さなければ先に柚子か透子が聞いていただろうから。
「うーん……」
こてんと首をかしげて曖昧な返事をする蛇塚に、東吉が不安そうにし出す。
「おいおい、まさかここまで来て杏那と結婚しないとか言わないよな? 杏那のどこが問題なんだ? お前のこと杏那に好きになってくれる奴なんて杏那ぐらいだぞ!?」
「そうよ! そりゃあ“少々”過激だけどそれがなんだってのよ」
透子がすかさず東吉に同意したが、“少々”という言葉が柚子は気にかかった。
杏那は少々どころでなく、けっこう過激である。
蛇塚が関わった時に限るが。
「いや、そこが問題なのかも……」
「あーい……」
子鬼も否定できないようで、なんとも言えない顔をしている。
「まさか別れるとか言い出さないでしょうね!?」
透子は目をつりあげて蛇塚の胸倉を掴んで揺さぶる。
「そんなの許さないわよぉぉ!」
「透子、落ち着いて! 蛇塚君はまだなんにも言ってないじゃない」
「こらこら、透子!」
興奮する透子を柚子と東吉のふたりがかりで蛇塚から引き剥がした。
鼻息を荒くする透子は、まだ興奮冷めやらぬ様子で、東吉に後ろから抱きしめるように押さえ込まれている。
襟元を正した蛇塚は、何故か正座をして姿勢を伸ばす。
「えと……。今度、プロポーズ、します……。杏那が卒業したら結婚してくださいって」
小さな声で恥ずかしそうに口にした言葉に、東吉は驚いた顔をし、柚子は透子と目を合わせ、次の瞬間には手を取り合って大きな悲鳴をあげていた。
「きゃあぁぁ!」
「やったぁぁ!」
しばらく喜びの悲鳴は収まらずにいると、透子を離して東吉が立ちあがった。
「こりゃ、素面じゃやってられないな。ワインセラーからとっておきのワイン持ってくる」
「にゃん吉、シャンパンもよ!」
「へいへい」
ちゃっかりと自分の飲みたいものも要求する透子。
蛇塚はおろおろしている。
「べ、別にまだプロポーズしたわけじゃないのに。それに杏那が受けてくれるか分からないし……」
「受けるに決まってるでしょうが! あの杏那ちゃんよ? 喜んで受けるに決まってるじゃない。もう結婚が決まったようなものよ!」
確かに杏那から拒否の言葉が出てくるのは想像できない。
しかし、強気に断言する透子とは反対に、別の問題があると気づいた柚子は不安そうにつぶやいた。
「ねぇ、杏那ちゃん、嬉しさのあまり周囲を巻き込んで、周りにいる人たち凍死させないかな?」
「……それはマズイわね」
透子は急に冷静さを取り戻した。
「蛇塚君、あなたどこでプロポーズする気なのよ?」
「俺の店、だけど……」
「もちろん貸し切りよね?」
「してない……」
沈黙がその場を支配する。
そんなところへ東吉が戻ってきた。
「あ? なんで急に静まり返ってんだ? さっきの騒ぎはどこ行ったんだよ」
「にゃん吉。大変なことが今さっき判明したわ」
「なんだよ?」
「蛇塚君ったら自分の店を貸し切りにもしないで、大勢の人が周りにいる中でプロポーズしようとしてるのよ」
それだけで東吉には伝わったらしく、頬を引きつらせた。
「お前、大好きな相手からプロポーズされて、杏那が正気でいると思ってんのか? これまでを思い出してみろ! 何度俺らが遭難しかけたかっ」
「ご、ごめん……」
「謝ってねぇですぐに場所変えろ! 店の中なんて逃げ道ないとこなんて絶対駄目だかんな。貸し切りだとしてもやめとけ! 従業員はいるんだから」
「ど、どこがいい?」
まったく考えていなかったらしい蛇塚は激しく動揺していた。
東吉がいくつか案を出す中、透子がポンと柚子の肩を叩く。
「柚子が早々に気づいてよかったわね。じゃなきゃ大量の被害者が生まれてたわよ」
「蛇塚君、ちゃんとプロポーズできるかな……?」
かなり心配になってきた柚子は、東吉と透子も含めてプロポーズ大作戦を練ることに。
後日、蛇塚からプロポーズに成功したと連絡があり、柚子は部屋でひとり大騒ぎしてしまい、玲夜になにごとかあったのかと心配させてしまった。
***
「本当に行くのか?」
「もちろん」
柚子がそう答えれば、玲夜は不服そうに眉をひそめる。
行かせたくなさそうな玲夜に、柚子は苦笑する。
「大丈夫よ。お義母様が対処してくれたんだし、問題ないって玲夜も納得してくれたんじゃないの?」
「それはそうだが……」
玲夜の眉間のしわはなくなってくれない。
先日、ストーカーに襲われるという事件があった。
それはもう玲夜が怒り爆発したのは記憶に新しい。
そんな学校ではちょっとした騒ぎとなり、これまで事件の当事者を理由にしばらく休んでいたが、鬼龍院の息がかかった者が見回りをしてくれるようになったとあって、問題なく通えると判断した。
もう大丈夫だろうと、今日から登校するつもりだった。
これには、学校に対し、いろいろと働きかけてくれた玲夜の母、沙良に感謝である。
柚子のことになると過保護になる玲夜をも納得させるとは、どれだけの対策が柚子の目の見えないところでなされているか分からない。
ストーカー問題が発生した時は、さすがに辞めさせられるのではと心配になったが、柚子が通い続けられるように沙良が手配してくれたおかげで、玲夜も安心したようだ。
本当に沙良には頭が下がる。
だから心配する必要などないのに、玲夜はまだ少し休学すべきだと甘やかそうとしてくる。
「今回のことはまだショックが大きいんじゃないか?」
「だからってこれ以上休んでたらあっという間に一年経っちゃうよ」
柚子の通う料理学校のコースは一年で卒業なのだ。
他にもみっちり三年通うコースもあったが、早さを重視した結果、一年間のコースにしたのである。
しかし、まさかあのような事件が起こり何日も休むと思っていなかったので、時間をかけて三年間のコースにしておくべきだったかと少し後悔していた。
柚子にストーカー行為をして危害を加えようとした教師の代理はすぐに見つかったようで、なにごともなかったかのように授業は再開されていると聞く。
ならば柚子も行かなければ、授業に遅れてしまう。
「一年の間だけだから。ね?」
上目遣いでかわいくおねだりする技は透子から教えてもらったものだが、効果があったのかなかったのかよく分からないまま、玲夜は深いため息をついた。
「二度目はないぞ」
ギラッと目を光らせる玲夜に、柚子は口元を引きつらせる。
「そんな低い声で脅さなくても……」
「まあ、母さんが次を許さないだろうが」
「それが分かってるなら素直に行かせてよ」
玲夜はやれやれといろんなものをあきらめた様子で、表情を柔らかくし、柚子を優しく抱きしめた。
「子鬼たちはちゃんと連れていくんだぞ?」
「うん。じゃあ、行ってくるね」
名残惜しそうに柚子から手を離す玲夜に一度抱きついてから、柚子は鞄を持ってようやく玄関を出た。
鞄からはふたりの子鬼がぴょこっと顔を出して、見送る玲夜に手を振っている。
「僕たちいるから大丈夫!」
「今度は一撃で仕留めるから大丈夫!」
なにやら不穏な言葉が聞こえてきたが、聞かなかったことにして車に乗り込むと、龍も一緒に乗り込んだ。
そして柚子は料理学校へ。
教室に着くや、この料理学校で友人になった片桐澪が柚子に気づいて向かってくる。
「ちょっと柚子、大丈夫なの? ずっと休んでたじゃない」
「澪。ごめんね。もう大丈夫だから」
「それならいいんだけど。なにかあったらすぐに私に相談してね」
「ありがとう」
心配そうにしてくれる澪を見て、本当にいい友達ができたなと柚子は嬉しくなった。
まさか一年だけの学校で、こんな素敵な出会いがあるとは思いもしなかった。
「あいあい!」
「あーい!」
「ちびっ子たちがなにか言ってるわね」
『我らがついてるから大丈夫だと言っておるのだ』
車から出た時から子鬼も龍も気合い十分だった。
「そりゃ頼もしいわね」
澪は子鬼たちの様子に声をあげて笑っていた。
すると……。
「邪魔よ」
「あ……」
出入り口付近で会話していた柚子たちに冷淡な声がかけられる。
それはなにかと柚子に突っかかってくる鳴海芽衣で、ギロリとにらまれてしまい、柚子はその迫力にわずかに身をすくめる。
「ごめんなさい……」
素直に謝った柚子を敵対心いっぱいの眼差しでねめつける。
「あんたのせいでいい迷惑よ。もう来なきゃいいのに」
それだけを吐き捨てて自分の席へと行ってしまう鳴海の後ろから「あんたねぇ!」と、澪が臨戦態勢に出たが、柚子が手を引いて押しとどめる。
「まあまあ」
「まあまあって、あんなこと言わせといていいの!?」
「私が迷惑かけちゃったのは事実でもあるし」
いかに原因が柚子の想定外だった問題だとしても、無関係ではない以上、鳴海からしたら柚子にも非があると思ってしまうのは仕方がない。
「柚子は被害者で、なんにも悪くないじゃない」
「そうなんだけど、同じように思ってるのは彼女だけじゃなさそうだし……」
柚子が困ったように眉を下げて一瞬周りに視線を送ったことで、ようやく澪も気がつく。
周囲の女子生徒から向けられる、嫌悪感たっぷりの刺さるような眼差しと囁きを。
「先生が辞めちゃったのあの子のせいなんでしょう?」
「先生があの子をストーカーしたって」
「あの子が色目でも使ったんじゃないの? ほら、授業でも先生に贔屓されてたし」
「ありえる~。先生目当てでここに入ったのに、どうしてくれるのよ。すっごい迷惑なんだけど。あの子が辞めればいいのに」
なんて会話がいたるところから、柚子に隠す様子もなく聞こえてくる。
いや、わざと聞こえるように言っているのかもしれない。
柚子に向けられる空気は決していいものではなかった。
澱みまくっている。
「んなっ!」
澪は今気づいたようで、怒りに震えている。
今にも飛びかかっていきそうな澪の手を掴むと、なんで!?と言わんばかりの表情をされる。
「一年の辛抱だし、いちいち気にしてらんないよ」
「くぅぅっ。柚子は人がよすぎるよ~。私ならガツンと一発お見舞いしてるのに」
「澪がそう言ってくれるだけで私は幸せ者だから大丈夫。それに、私、今はすごく機嫌がいいの」
「なんで?」
鞄を机に置いてから、澪に
「実は夏休みにね、玲夜と旅行に行く予定なの」
新婚旅行とはあえて言わない。
惚気ているようで恥ずかしかったからである。
しかし、十分に澪は目をキラキラとさせていた。
「えー、羨ましい~。でもさ、その前にある試験を合格しないと夏休みは補習ざんまいらしいけど大丈夫なの? 柚子休んでたし」
一気に柚子は悲壮な顔をする。
「ヤバイ。すっかり忘れてた……」
「どうするのよ」
「なんとか頑張る。それでもって夏休みは遊びまくるの!」
試験ぐらいどうってことはない。徹夜してでもなんでもして、勝ち取ってみせる。
玲夜との甘いひと時のため、気合いはありあまるほどあった。
「いいなぁ。あの鬼龍院なんだから、きっと豪華なホテルに泊まるんでしょうねぇ」
澪がうっとりとしていると。
「はっ! また金持ち自慢なわけ? 懲りないわよねぇ。そんなに周りから羨ましがられたいの? 目立ちたがりなんじゃない?」
水を差すような鳴海の言葉にいち早く澪が反応する。
「貧乏人は黙ってなさいよ」
ふんっと鼻を鳴らす澪に、今度は逆に鳴海が強く反応を示した。
「誰が貧乏人よ!」
「別に、誰とは言ってないわよ~。どこかで羨んでる誰かさんに言っただけよ」
しれっとした様子の澪に冷や汗を感じつつも、『強い……』と感心してしまう。
柚子では澪のように強気に出ることはできないので、その強さが少し羨ましくある。
澪と鳴海の静かなにらみ合いが続いたが、先に視線を逸らしたのは鳴海だった。
「あやかしと結婚するなんて正気じゃない……」
小さな小さな鳴海のつぶやき。
それはまるで柚子があやかしの花嫁であると知っているかのようだった。
しかし、この料理学校に通っている者は、柚子が鬼龍院の関係者だとは知っていても、結婚しているとは誰も思っていないはずだ。
澪は例外だ。他に知っているのは教師だけ。
まさか教師が言いふらしたのだろうか。
そのわりには大きな騒ぎになってはいない。
鳴海に対し、わずかな疑問が生まれた瞬間だった。
***
学校へは問題なく通えるようになった。
少し周囲の視線が気になる時はあれど、なにかあれば沙良が配置した警備が駆けつけてくれるというのは心強かった。
なによりそばには子鬼たちと龍がいるのだから滅多なこともないだろう。
目立った騒ぎも起きず一週間経過した週末の休みの日、同じく休みだった玲夜とまったりと過ごす。
後ろから包み込まれるように抱きしめられている柚子は、目の前のテーブルにパソコンを置き、玲夜と新婚旅行の行き先を話し合っていた。
「ねえ、玲夜はどんなところに行きたい?」
「柚子がいるところならどこへでも」
柚子の耳元で甘く囁くと、玲夜はこめかみにキスをする。
カッと頬を赤らめる柚子を楽しげに見つめる玲夜はクスリと笑う。
「いいかげん慣れろ。一緒に過ごすようになって何年経ってるんだ」
「自分でもそう思うけど、やっぱり玲夜が相手だとそうもいかないのっ!」
柚子の旦那様は、人外の中でもとびっきりの美しさを持った玲夜である。
毎日飽きるほど見ていてもその綺麗な容姿に見惚れてしまうのは、玲夜と出会って何年も経った今も変わらない。
玲夜の顔を見るたびに恋してしまう。
愛しさがあふれて柚子の中では昇華しきれないぐらいなのだ。
キスをされて未だに恥じらう柚子は、自分でも落ち着けと言いたくなるほど心臓がバクバクと鼓動が激しくなってしまう。
「玲夜が格好よすぎるながいけないんだもの……」
すねたようにつぶやく柚子の理不尽な八つ当たりは、逆に玲夜を喜ばせるだけであると柚子は気づいていない。
玲夜は一瞬動きを止めたかと思うと、今度は荒々しさのある手の動きで柚子の顔を後ろに向かせ、深い口づけをする。
柚子が驚きのあまり目を大きくしたが、逆らうことなく玲夜に身を任せる。
壊れ物を扱うように優しく。
それでいて逃がさぬように強く抱きしめられる。
まだ玲夜と出会って間もない頃は、戸惑いと恥ずかしさがいっぱいで他のことなど頭になかった。
確かに玲夜で頭がいっぱいなのは今も変わらないのだが、柚子を満たすのは戸惑いよりも大きな幸福感だった。
ずっとこの時間が続けばいいとすら感じている。
けれど、その時間の終わりを告げる音が部屋の外から聞こえてきた。
「失礼いたします。今よろしいでしょうか?」
ノックの後に聞こえてきたのは使用人である雪乃の声だ。
それでもまだ柚子を貪ろうとする玲夜を慌てて止めて、雪乃を部屋の中に呼ぶ。
「ど、どうぞ!」
玲夜はやや不機嫌そうだが、こればかりは仕方がない。
雪乃は入ってくるや、柚子に封筒を渡し、すぐに部屋を出ていった。
「手紙?」
差出人の名前も書いていない封筒だったが、裏に描かれていた撫子の花と狐の絵に、誰からのものかすぐに分かった。
「撫子様からだ」
玲夜も柚子を抱きしめながら後ろから覗き込む。
封を開ければ、中に入っていたのは前回届いた時と同じ、時間と場所が書かれた紙と狐の折り紙だ。
「花茶会のお誘いみたい。あっ、まだなにか入ってる」
今回は別に撫子からの手紙が入っていた。
「なんだって?」
「えーと。花茶会を開催するから、今回は招待客としてではなく、桜子さんと一緒に、手伝いとして参加してくれって」
撫子からいずれ花茶会を任せたいとお願いされたのは、初めて参加した前回の花茶会の時だ。
自分などにそんな大役を任せられてもとてもやりきれないと最初は断ったものの、桜子も補佐としてともにいるからと頼まれた。
花茶会は、普段窮屈な生活を送る花嫁たちのための息抜きをかねた集まりだと知り、柚子は断り切れずに了承してしまったのだ。
今からでも断れないかと思うが、花嫁を思うとそうもいかない。
他の花嫁とはなしたことで、自分がどれだけ恵まれているかを知ったから。
「参加するのか?」
「うん。お手伝いなら行かないわけにはいかないしね」
玲夜はなぜか眉間にしわを寄せている。
「玲夜は嫌なの?」
「柚子が悪影響を受けないか心配だ」
「悪影響って、ただの女子会だよ?」
なんの心配をしているのかと、柚子はクスクスと笑った。
しかし、玲夜は真剣そのもののよう。
「花嫁の中には、あやかしに囲われる状況に不満を持って、あやかしを憎んでいる者もいるからな」
「あー……」
柚子が顔を曇らせたのは、前回の花茶会で会った穂香という花嫁を思い出したからだ。
彼女からは旦那であるあやかしに対する憎しみすら感じた。
柚子のまだ知らない花嫁の苦悩。
それを考えると、彼女たちをまとめていけるのか不安がないと言ったら嘘になってしまう。
けれど、花茶会を唯一の逃げ場としている花嫁たちがいると知っては、関わりたくないとは言えない。
玲夜の不安な気持ちも分かる。
柚子が、穂香が旦那を嫌悪するように、玲夜を嫌わないか心配なのだろう。
いつかその重すぎる愛情ゆえに、玲夜を嫌う日が来るのか今は分からない。
けれど、今言える確かなことがひとつだけある。
「大丈夫だよ。玲夜が今の玲夜でいてくれる限り、私が玲夜を嫌いになんてなったりできないもの」
誰よりも愛する人。
自分に惜しみない愛情を与えてくれる人。
愛することを恐れてすらいた自分に、見返りのない無償の愛情を信じさせてくれた人。
どうして嫌えるだろうか。
「それに、撫子様からも言われてるの。玲夜との自慢話をしてくれって。たくさん惚気て、玲夜はこんなに素敵な旦那様だって皆に知ってもらわないと」
ニコリと微笑めば、玲夜はあきらめたように苦笑した。
「そうか。ほどほどにな」
「うん」
どうやらお許しは出たようだ。
早速狐の折り紙に向かって「参加します」と告げると、折り紙だったものは小さな狐に変化してどこかへと消えていった。
「やっぱり不思議だ……」
二度目なので驚きはしなかったが、不可思議なことに変わりはなかった。
これは花茶会のたびに送られてくるのだろうか。
狐の折り紙だけでも、花茶会のお知らせが来るのが楽しみになってきた。
だが、もし柚子が撫子と沙良から主催の権限を譲られてしまったらこの狐はどうなるのだろうか。
きっと狐の折り紙を楽しみにしている花嫁は柚子だけではないはずだ。
しかし、ただの人間である柚子に、折り紙を狐にするような芸当ができるはずもない。
「これは要相談だ……」
できれば狐の折り紙だけでも手に入れられないものか。
柚子は今度の花茶会で相談することにした。