ホエール地方の中心に位置する小都市パルメザン。
領主パルメ子爵が統治するこの街は「ホエール貿易の要所」と言われていて、周囲の農村で収穫された農産物はこの街を通って王国各地へ運ばれていく。
しかし、数ヶ月前に瘴気によって土地の大半が不毛の地と化してしまってからはこの街を離れる人間が増えているのだとか。
「まぁ、そんな辛気臭い話は置いておいて……ようこそ、パルメザンへ!」
御者台からサクネさんが声高に叫んだ。
「以前よりも寂れてしまったとはいえ、『ホエールの宝石』とも言われたパルメザンはまだまだ健在ですよ」
「なんだか故郷を自慢しているみたいですね」
「あ、わかっちゃいました? 実は私、パルメザン出身でして」
「なるほど、どおりで」
などと談笑していると、門の前で荷馬車が止まった。
街に入るための手続きと、馬車の荷を検めるのだろう。
僕も荷から降りて手続きを行う。王都に入るときは荷物をすべて検めるなんて面倒なことをやっていたけど、ここではサラッと目視して終わりだった。
手続きを終えて、荷馬車はパルメザンの門をくぐっていく。
街の周囲は城壁に囲まれているし、貿易の要所と言われるだけあって立派だ。
寂れているという話だったが、街の中は程よい賑わいを見せていた。
舗装された道の両脇に連なる建物はしっかりとしているし、大通りから伸びる街路には露天や居酒屋らしきものもある。
瘴気によって土地の多くが「呪われた地」になってしまう前は「栄華を極めた宝石都市」なんて逸話もあった街らしいけど、その雰囲気は十分ある。
「全然人が離れているようには見えませんね」
「まぁ、以前よりも寂れてしまったとはいえ、未だホエール地方では最大規模の都市ですからね」
元がすごかった、ということだろうか。
流石は貿易の要所だ。
「ちなみに、貴重なホエール産ワインを飲める居酒屋もありますよ」
「え、本当ですか!?」
「まぁ、貴族様御用達の一番煎じは無理ですけど」
ホエール産ワインといえば、王都の貴族も嗜むほどの一級品だ。
一般市場に出回っているのは二番煎じ三番煎じの薄いワインだけど、それでも美味いことに違いはない。
瘴気の影響で生産が激減していると聞いていたけれど、地元ではまだ飲める場所があったんだな。
ワインを飲めるおすすめの店をサクネさんに教えてもらいながら、大通りを進んでいく。
大きな教会がある広場に到着したとき、荷馬車がゆっくりと止まった。
「それではサタ様、私はあそこの商会に荷を卸す必要があるので、ここで」
「あ、荷降ろしを手伝いましょうか?」
「いやいや、流石にそこまでは大丈夫ですよ。商会の荷揚げ夫に任せれば済む話ですし」
「ここまで乗せていただいた駄賃を考えると、ぬかるみから荷馬車を引きずり上げた程度じゃこちらが申し訳ないですよ」
「……う、むぅ」
難しい顔で首を捻るサクネさん。
商人の性か、頭の中でそろばんを弾いているのだろう。
「そこまでおっしゃるなら、お願いします」
「承知しました。では……『筋力強化』!」
早速、筋力強化の付与魔法を自分にかける。
「……よっと」
樽の中の野菜が落ちないように気をつけて、ヒョイと抱え上げた。
普段は僕ひとりでは動かすことすら出来ない大きな樽が、まるでスポンジで出来ているかのように軽く感じる。
「いやはや、何度見ても凄い。付与魔法というのは便利なものですね」
「こういう仕事にはもってこいの魔法ですよ」
「確かに。付与魔法の加護があれば食いっぱぐれることはなさそうだ」
納得したようにサクネさんがうなずく。
加護によって人生が決まると言われているけれど、この付与魔法は本当に可能性が広いと思う。モンスターを討伐する冒険者としても活躍できそうだし、運び屋をはじめてもいいし、農園を開いてもいい。
まぁ、面倒な人付き合いはしたくないから農園以外やりたくないけど。
「あれ……?」
と、順調に樽を荷馬車から商会の荷揚げ夫に渡していると、とある樽の中の異変に気づいた。
「この樽のトマト、まだ完熟してないのが混ざってますね」
「えっ」
慌ててサクネさんが駆け寄ってくる。
「ほ、本当ですね。未熟なやつも運んでるうちに熟するからって聞いて安価で買ったんですが……まいったな」
なるほど、そういうことか。
菜園をやっていたからわかるけど、トマトは青いうちに収穫しても日陰に置いておけば自然と赤く熟していく。
いつ収穫されたものなのかはわからないけど、熟するまで時間が足りなかったのだろう。
だとしたら、「促進」させてやれば赤いトマトになるはず。
「ちょっと待っててくださいね」
よいしょとトマトの樽を持ち上げ、荷台を降りる。
「あの、どちらに?」
「ちょっと『味付け』に」
「……味?」
首をかしげるサクネさんを馬車に残して商会の建物の脇に入っていく。
そして、樽を置いてから一応、周りを確認して──。
「……『|俊敏力強化(エンチャント・レッグ)』」
ポッと樽のトマトが青白く輝いた。
すると、みるみるうちに青かったトマトが赤く熟れていく。
身体能力向上の付与魔法「俊敏力強化」をトマトにかけたのだ。トマトは第二属性の「木属性」なので俊敏力強化をかけることができる。
第一属性の人体を司る「火属性」に俊敏力強化をかけると身のこなしや脚力が上がるが、「木属性」の植物にかけると成長速度を上げる効果がある。
僕にしか出来ない方法なので、人目に晒すのは避けないといけない。
だって、噂になって僕の名前が広まったりしたら面倒だし。
「お待たせしました。熟したトマトです」
「……ふぇぇぇえええ!?」
樽の中身を見たとたん、サクネさんが素っ頓狂な声を上げた。
「ちょちょ、ちょっと待ってください! ウソでしょ!? さっきまで青かったトマトが全部赤くなってるじゃないですか!?」
「樽の奥までは確認できていませんが、全部熟しているはずです」
「え!? え!? どうやって!? どうやって赤いトマトに!?」
「それは企業秘密ですね」
「キギョウ……? それも付与魔法か何かですか?」
「あ〜、ええっと、そのようなものですね。あはは」
つい口に出ちゃったけど、こっちの世界で「企業秘密」って言葉が通じるわけがないよな。たまに日本人だったときの言葉が出ちゃうから注意しないと。
とりあえず熟したトマトが入った樽は商会の荷揚げ夫に渡して、荷降ろしを続ける。
「……よし、これで最後の樽ですね」
「いやはや、本当にありがとうございます、サタ様」
最後の樽を商会に運び終わったとき、サクネさんが何かを手渡してきた。
小さな麻袋。
何だろうと思って手にとったら、カシャリと貨幣の音がした。
「それはせめてものお礼です」
「ええっ!? いやいや、いいですよ! そんなつもりでお手伝いしたんじゃないですから!」
「いいえ、受け取ってください。ここまで助けて頂いたのに手ぶらで帰したんじゃ、『サクネのヤツはケチ臭い商人だ』って噂が流れちゃいます」
グイグイと麻袋を押し付けてくるサクネさん。
商人は評判でご飯を食べているって聞くし、そういう噂は死活問題なのかもしれない。
「わかりました。それじゃあ、ありがたく頂戴します」
「サタ様、本当に何から何までありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ」
名残惜しそうに握手を求められたので、そっと握り返す。
ひょんなことで知り合ったけれど、本当にいい人だった。パルメザンが故郷だって言ってたし、また会えるといいな。
「……あ」
と、そんなことを考えていると、重要なことを聞き忘れていたことを思い出す。
「どうされました?」
「サクネさんにひとつお聞きしたいことがあったんでした」
「はい、なんでしょう?」
「この街に不動産屋ってありますかね?」
「不動産? 土地でも買うおつもりなんですか?」
「ええ、近くで農園を開こうかと思っていまして」
「農、園……?」
サクネさんは呆れるように頬を緩める。
「なにかしら理由があるのでしょうが……学者先生がお考えになることは常人には到底理解が及びませんね」
「あはは……そんな大層な理由じゃありませんよ」
でもまぁ、そういう反応をされて当然だろうな。
作物が育たない呪われた地で農園を開こうだなんて、頭がおかしいと思われても不思議じゃない。
でも、僕にとって呪われた地で農園をやるのは色々とメリットがある。
人が寄り付かないということもあるけれど、何より安価で土地が手に入るのだ。
特にホエール地方は、呪われた地を「特例地」として格安で販売している。
特例地では税制優遇をはじめ、様々な特典を受けることができるらしい。
わざわざホエール地方までやってきたのは、それがあるからなのだ。
「それなら、この広場の先にある『土地区画管理ギルド』に行くといいですよ」
「土地区画管理ギルド?」
「領主様に依頼されて土地や居住区を管理しているギルドです。ええっと……あの建物ですよ」
サクネさんが指差したのは、広場の教会の向こうにあるお城のような白亜の建物だった。最初に見た時は領主様のお城かと思ったけど、違ったのか。
「ありがとうございます。早速行っています」
僕は改めてサクネさんに頭を下げる。
そうして僕は、サクネさんと別れて広場の先にあるという「土地区画管理ギルド」へと向かった。
パルメザン周辺の土地を領主に代わって管理しているという肩書通り、土地区画管理ギルドの建物は近くで見ても立派だった。
かつて「栄華を極めた宝石都市」と呼ばれ、大勢の人が集まっていた時代もあったわけだし、ホエール地方では土地区画の管理は重要だったのかもしれない。
大きな扉を開けると、これまた豪華な装飾が施されたシャンデリアがお出迎えしてくれた。
しかし、意外と建物の中ががらんとしていた。
客らしき人影はなく、カウンターで暇そうに髪の毛をいじっている受付嬢がいるくらいだ。
「あ、いらっしゃいませ」
受付嬢が僕に気づいて声をかけてきた。
「あの、ホエール地方の土地を紹介して欲しいのですが」
「土地ですか?」
「はい。王都からこっちに引っ越してきまして」
「土地の委任状をお持ちでしょうか?」
「いえ、何も」
委任状というのは、商人や職人が集まる「組合」が発行している土地権利を委任する証明書のことだ。
この世界で土地を買うのは「商売をする人間」というのが一般的。
なので、土地を買うにはどこかの組合に所属する必要があって、組合が土地を購入して個人に譲渡するというのが常識なのだ。
「申し訳ありません、委任状をお持ちでない方にご紹介できるのは瘴気が降りた『呪われた地』のみになります」
「構いません。むしろそっちのほうが良いというか」
「……はい?」
「実は、呪われた地で農園を開きたいと思っていまして」
そう答えると、受付嬢はまん丸く目を見開いた。
「の、呪われた地に農園を作るんですか?」
「はい」
「失礼ですが、瘴気の特性をご存知で?」
「ええ、もちろんです」
院でも研究していたので、良く知っています。
「呪われた地で農作物を育てる技術は持っていますのでご安心を」
「し、しかし、呪われた地には危険なモンスターも数多く生息していますが……」
「問題ありません」
「…………」
言葉の代わりに、胡乱な目を向けてくる受付嬢。
見た目からして強そうじゃないから、そんな反応になっちゃうよね。
でも僕には付与魔法があるし、危険なモンスターが襲ってきたとしても問題なく撃退できる。
しばしの沈黙。
どうやら本気で僕の身を案じてくれていたらしい。だけど、本人がそれでいいと言うのなら反論する必要はないと判断したのだろう。
受付嬢はコホンと咳払いをして続ける。
「そういうことでしたらご紹介出来ると思います。何かご希望はありますでしょうか?」
「そうですね……なるべく人里離れた土地で、水源が確保できる場所でしょうか。土地が安ければ安いに越したことはありません」
「それではこちらはどうでしょう」
受付嬢が出してくれたのは、一枚の紙。
そこには土地区画の情報が記載されていた。
「こちらはパルメザンから馬車で二日ほどの場所にある区画でして、すぐ傍にフラスト川の支流が流れています。広さは二十アールほど。瘴気が降りる数ヶ月まで麦畑をやっていたので、農園を開く広さは十分にあると思います」
「おお、良いですね」
二十アールだと、だいたい二千平方メートルくらいか。
うん、十分すぎる広さだ。
「ただ、『大海瘴』以降、管理ギルドの職員が視察に行けていないので、現状がどうなっているのかは分かりかねます」
「え……ホエールで大海瘴が発生したのですか?」
「はい。数ヶ月前に」
初耳だった。
大海嘯というのは「連鎖的に濃度が高い瘴気が広範囲に発生する事象」のことを指す。
一般的に瘴気は突発的で予測が難しいのだが、局地的に発生することが多く、被害は最小限にとどまるケースがほとんどだ。
だけど、場合によってその被害が国を揺るがすほどの甚大なものになる場合がある。それが大海瘴だ。
瘴気が連鎖的に広がっていく大海瘴は、これまで王国内外で数回確認されていて、数年前に東の小国で発生した大海瘴では国がひとつ滅んでいる。
なるほど。ホエール地方のほとんどの土地がだめになったのは、大海瘴の影響だったのか。
ちなみに、瘴気に関しては解明できていない部分が多く、特に「発生要因」に関してはまだ特定されていない。
学会では「気候が影響している」という説が有力なんだけど、僕はその説を否定している。
「ええと、この土地の値段はいくらくらいなんですか?」
「大海瘴の兼ね合いもあって、譲渡費は手数料込みで金貨二枚です」
「き、金貨二枚!?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
日本円に換算すると、だいたい二十万円くらいだ。
ベランダ菜園をやっていたときに調べたことがあるけど、日本で同じ大きさの農地を買おうとすると三百万円くらいかかったはず。
安い。これは安すぎる。
でもまぁ、それくらい危険な土地ってことなんだろう。
「すごい魅力的ですけど、他に似たような候補はありますか?」
即決したいところだけど、念には念を押して。
だってほら、他にも良いところ見つかるかもしれないじゃない?
それから受付嬢に十ほどの候補を提案され、じっくりと吟味することにした。
モンスターの群れに襲われて廃村になった区画。
戦乱の巻き添えを食らって焼け野原になった農地。
運悪く四度の瘴気被害にあってしまった区画、などなど。
どれも魅力的な候補だった。
熟考に熟考を重ねた結果、最初に紹介してもらった区画にすることにした。
「それでは、こちらが土地権利書になります」
「ありがとうございます」
「こちらの区画は『特例地』になりますので、納税優遇を受けることができます。詳しくは……ええと、こちらの資料をご確認ください」
めんどくさくなったのか、紙を手渡されただけで説明を省略された。
ふと窓の外を見ると、さっきまで青々としていた空が茜色に染まりつつあった。
これは一、二時間レベルじゃないな。げんなりされて当然か。
長々と居座ってしまってごめんなさい。
僕は心の中でそう謝罪して、土地区画管理ギルドを後にした。
「よし、早速農地に向かう……前に、準備をしなきゃな」
僕には付与魔法があるとはいえ、手ぶらで農園を作ることなんてできないし。
でも、準備費用にお金を回せるのはありがたいな。
予想では手持ちのお金の半分以上を土地代で使うつもりだったけど、ほとんど残ったままだ。
「……これは、呪われた地を格安で提供してくれているパルメ子爵様のおかげだな」
ありがたや、ありがたや。
僕は心の中で領主様に手を合わせながら、街の雑貨店へと向かった。
雑貨屋や街路に並ぶ露店を周って、新生活の準備を終えた僕は「運び屋ギルド」に運搬をお願いして新天地の農園予定地に向けて出発した。
運び屋ギルドとは、言わば「運送屋」のことで、荷馬車一台に付き銅貨数枚程度で目的地まで運んでくれる。
とはいえ、今回の目的地は瘴気が降りた危険な呪われた地なので、銀貨三枚を要求されちゃったけど。
ちなみにこの世界の貨幣は金、銀、銅貨があり、十進法で価値が変わっていく。
銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚になるという感じだ。
おおよその価値は銅貨一枚が千円、銀貨一枚が一万円、金貨一枚が十万円くらいになる。
なので、運搬費用は三万ほど。結構な値段だ。
運び屋ギルドに頼もうか少し悩んだけど、筋力付与をしても物が多すぎて運べないし、彼らにお願いすることにした。
街で買ったもので一番大きいのは「テント」だ。
予備も含めて三つほど買った。
買った土地は以前麦農家だったと言っていたけれど、長い間放置されているので住居が残っている可能性は低いだろうし。
テントの他には生活に必要な「オイルランプ」「ロープ」「手ぬぐい」「飲料水を入れる樽」「桶」「炭」「半月分の食料」「半月分の薪」等々を買った。
後は、農作業に必要な「スコップ」「鍬」「ナイフ」に、植える「種」と肥料になる「馬糞」や魚かす、骨粉などを混ぜた「配合肥料」など。
最後に大事な瘴気対策のマスク。
これは簡易的な布で作られたマスクなのだけど、瘴気が発生した場合は身を守るために必要になる。
念を押して厚手のマスクを買おうかと思ったけどやめておいた。
布マスクは「金属性」なので、毒素に対する免疫力を強化する「免疫力強化」の付与魔法をかけることができるのだ。
「……お客さん、ここが目的地みたいですね」
パルメザンを出発して二日。
のんびりと運び屋の馬車に揺られながらたどり着いたのは、本当に何もないだだっ広い荒野だった。
ポツポツと朽ちかけた枯木があるだけで草一つ生えてない。腐りかけた木の柵だけが、かつてここに農家があったことを示唆している。
しかし、と目の前に広がっている光景を見て思う。
呪われた地を実際に見るのははじめてだけど、想像していたよりも普通だな。もっとおどろおどろしい場所かと思ってた。
もしかして、天気が良いからかな?
これで陰鬱になる曇り空だったら、やっぱり辞めとこうかなとか思っちゃったかもしれない。
そんなことを考えていると、運び屋ギルドの人が話しかけてきた。
「荷はどこに降ろしましょう?」
「あ、ええっと……とりあえずそこの枯木のところで」
そう指示を出すと、運び屋ギルドの人たちはテキパキと荷をおろして挨拶もそぞろに逃げ出すように帰っていった。
もう少しのんびりしていけばいいのにと思ったけど、いつ瘴気が発生するかもわからない土地に長居なんてしたくないか。
「……よし、日が明るいうちに、出来ることをやっておこう」
気を取り直して、早速作業開始だ。
まずはテントを開いて住居確保。
それから、近くを流れているという川の確認に行こう。
飲み水が確保できなかったときの事を考えて樽に飲料水を入れてきたけど、キレイな水だったらラッキーだし。
すぐ近くに山もあるし、瘴気に毒されていない可能性はありそうだ。
というわけでテントの設営を開始して、四苦八苦しながらもなんとか完了。
テントを支えるポールがうまく刺さらなかったので、筋力付与を使って強引に終わらせた。
設営したテントはふたつ。
ひとつは住居用。もうひとつは物資の保管庫として使うことにした。
住居用のテントの前に買ってきた薪を組み終えて、ようやく一息つく。
と言っても疲れは全くない。作業する前に「|持久力強化(エンチャント・ハート)」を使ってスタミナを強化しておいたからだ。
付与魔法って、こういう肉体労働に本当に役に立つなぁ。
「しかし、本当になんにも生えていないんだな」
改めて周囲を見渡す。
緑が無い荒野というのは何だか異様な風景だ。行ったことは無いけれど、南の国にあるという砂漠地帯というのはこういう雰囲気なのかもしれない。
とはいえ、砂漠のように雨が降らないことは無いし、日中は熱くて夜は寒いみたいなことはないと聞く。
それを考えると、農園をやる上でメリットは大いにある。
作物に病気をもたらす雑草は心配しなくていいし、畑を荒らしにくるイタチやモグラなどの害獣の心配もないだろう。
作物を育てられる術があるなら、これほど農園に適した場所はない。
「よし、水源の確認に行くか」
居住地が一段落したので、次は大切な水の確保に行くことにした。
一応、護身用のナイフを腰に下げ、水を汲む用の桶も忘れずに。
枯木の傍にテントを張って正解だった。
この区画には目印になるものがないので、迷子になったら一生テントにたどり着けなくなるかもしれない。
念の為、ちょくちょく背後を振り返ってテントの位置を頭に刻み込みながら川を探す。
しばらく歩き、朽ちた倒木が重なっている小高い丘を越えたときに川のせせらぎの音が聞こえた。
「……あった、あれだな」
流れていたのは、意外と大きい川だった。
大地をえぐるように、両岸が断崖絶壁になっているけれどなんとか降りられそうな窪地があった。
一瞬、水辺にテントを張ったほうがいいのではと思ったけどやめた。
水は人にとって大切なものだけど、危険なモンスターにとっても大切なものなのだ。水を確保しやすくするために水辺にテントを設営したけれど、寝込みをモンスターに襲われたましたじゃ目も当てられない。
「……うわっ、なんだこれ」
桶に川の水をすくった瞬間、ギョッとした。
桶に入っている水は、毒々しい赤紫色に変色していていた。
「え? なんで? 川の水は透明な色をしているのに……」
と、水面をジッと見つめて気づく。
パッと見は気づかないけれど少しだけ赤紫色をしている。それに、瘴気特有のツンとした刺激臭もある。
これは完全に瘴気に汚染されてる。
ちょっとグレープジュースみたいな見た目だけど、飲んだら絶対命に関わるやつだ。
予想はしていたことだけれど、しばらくは持ってきた飲料水で乾きを癒やすしかないな。持ってきたのは大樽二個分だから、二週間くらいはもつだろう。
でも、作物用の水はどうしよう。
「……これ、農作物には使えるかな?」
だってほら、飲料水としては使えない井戸水で野菜を育てている農園もあるし。
それに、土壌は付与魔法をかけて瘴気に強いものに改良する予定だから、汚染水を撒いても問題はないはず。
「なんとかなるか」
ものは試しだ。とりあえず使ってみよう。
何事もやってから考えるのが僕のモットーだ。
そう考えた僕は、桶に並々と水を汲んでいざテントへと戻ることにした。
「よし、まずは畝作りからはじめるか」
自分の体に「俊敏力強化」を付与し、鍬に「筋力強化」を付与してから、サクッと大地に鍬を振り下ろす。
瞬間、ズゴゴゴッと鍬を入れていない数メートル先まで土が掘り返された。
「おお、一気に行けたな」
ちょっと驚いてしまった。これも付与魔法の効果なのだけれど、ちょっと特殊な「付与魔法の合わせ技」だ。
第一属性の「火属性」である人体への俊敏力強化と、第三属性の「金属性」である鍬への筋力強化を合わせると、通常の付与効果に加えて「範囲拡張」の二次効果が発生するのだ。
この「合わせ付与」に関してはまだ研究最中で、どの組み合わせでどんな効果があるのか完全にわかっていない。
この研究も農園をやりながら解明していくつもりだ。
僕はさらに持久力強化でスタミナを上げてからガツガツと地面を耕していく。
畑作業なんてはじめての経験だけど、付与魔法のお陰で全く疲れることがなくて気持ちがいい。天気もいいし、なんて最高な日だろう。
いい感じで耕した後、軽く水分補給をしてから「畝」を作る。
畝というのは作物を植える細長い直線状に土を盛り上げたアレだ。ベッドの役割があって、農作物を育てる上で欠かせない……とかなんとか。
本当ならまずは土壌改良して作物が育ちやすい土を作る必要があるのだけれど、まぁ、試しだからそこは割愛した。
ちなみに、呪われた地で作物を育てる鍵になるのが瘴気への耐性を強化する付与魔法の「|免疫力強化(エンチャント・ブラッド)」なんだけど、効力は二日ほどで切れてしまう。
なので、効果時間を伸ばすために土にも対瘴気用の付与魔法をかけてあげる必要がある。そこあたりは本格的に畑を作るときにしっかりとやる予定だ。
とりあえず一本だけ畝を作って、「|生命力強化(エンチャント・ソウル)」と「俊敏力強化」、それに「免疫力強化」を付与した大根の種を植えてみる。
畝に手のひらサイズくらいの浅い穴を作って、そこに種を五つ入れる。
一つじゃなくて五つ植えるのは、生育にばらつきが出るからだ。
ここから発芽して子葉が完全に開いてから三本くらいに間引きして、最終的に一本にする。そうすれば大きくて美味しい大根が出来上がる。
種を植え、桶に汲んできた赤紫色の水をササッと撒いてしばし観察。
少しお腹が空いてきたけれど、採れたて野菜が食べたいので我慢だ。
買ってきた肥料をいつでも使えるように木箱に小分けしてから、焚き火の準備をしていると、早速畝に変化が現れた。
ニュニュっと小さな芽が出てきたのだ。
「……おっ、成功だ」
なんだか嬉しくなってしまった。
魔導院で呪われた地の土壌を使って実験をしていたから成功することはわかっていたんだけど、やっぱり実際に芽吹いたのを見ると嬉しくなる。
そうこうしているうちにポコポコと芽が出てきた。
やばいやばい。早く間引きしないと。
急いで小さめの芽を間引いて「三本立ち」にする。そこから更に大きくなったタイミングで一本に。
みるみる葉が茂ってきて地面が盛り上がってきた。
だけど、ベランダ菜園で作った大根よりもちょっと小ぶりだな。
まぁ、土壌を作っていないからこんなものか。
多くの作物は「弱酸性」を好むので、買ってきた「苦土石灰」という肥料を入れたり「馬糞」を入れて弱酸性の土を作る必要がある。
「そろそろかな?」
芽が出て十分も経たないうちに、地面から大根の頭が少し見えてきた。
そろそろ収穫時だ。
普通に育てるとなると何週間もかかるのに、わずか十分足らずでできちゃうなんて、本当に素晴らしい。
早速葉っぱを握ってヨイショと引っ張ると、簡単に大根が出てきた。
少し小ぶりだけど、真っ白で形も良い。
これは美味しそうだ。
「えへへ、早速料理しよっと」
飲料水を入れた鍋を焚き火の火にかけ、沸騰するのを待つ傍らで大根をざく切りしていく。
沸騰した鍋に大根と三種ほどの干し肉を入れて、ワイン、塩、コショウ、生姜……それに旨味を強化する「生命力付与」をかけてから蓋をしてグツグツ煮込む。
そして、待つこと十分。
「うほっ……」
蓋を開けると湯気と共に何とも美味そうな香りが広がった。
付与魔法のおかげか、干し肉の旨味が大根にいい感じに染みて綺麗なきつね色になっている。
早速、大根のひとつをナイフで取って、ヒョイッと頬張る。
「ハフハフ……う、うまっ!」
思わず声が出てしまうくらいにうまかった。
この世界の料理は、素材の味が弱いからか塩気でごまかしてるものが多いけれど、これは濃厚な大根の味が主張してきて実にうまい。
さらに、苦味がないのが良い。
ああ、この世界に醤油があったらなぁ。
いやいや、それは贅沢すぎるか。このままでも十分うまいしな。
やっぱり採れたての野菜って美味しい。
作物が育たないって言われている呪われた地でこの味が再現できるなんて幸せすぎる。
無理難題を押し付けてくる上司も、嫉妬にまみれた先輩も誰もいない土地。
あるのは採れたての最高の野菜と、美味しい料理。
のんびりとした時間が流れる、僕だけの空間。
何をしても、何を作っても自由。
「……ふふ、うふふふふ」
自然と頬が緩み、笑みがこぼれてしまう。
これこそ僕が求めていたのんびり生活。
ああ、スローライフって……マジ最高っ!
農園スローライフ二日目の朝。
ゴソゴソとベッド(に見立てた地面にひいた毛布)から這い出し、テントの入り口を開けると、昨日と同じくカラッとした青空が出迎えてくれた。
街で買ったテントは現代の軍隊でも使われている「パップテント」に似た形のもので、入り口を開閉できるひさしが付いている。
一応、瘴気が降りることを警戒して夜間は締めておいたけど……瘴気特有の匂いはしないし降りてはいなさそうだな。
「う〜ん……気持ちいい朝だなぁ」
空に向かって大きく伸び。
つい院にいたときのクセで早起きしてしまったけど、昼くらいまで寝てても誰からも文句は言われないんだよな。
でも、生活習慣が崩れたら嫌だし早起きは続けるか。
焚き火に薪を添えて、炎の元になる燃えやすい乾いた植物などの燃料を添えてから火を付ける。
そこに鍋をかけて、飲料水を沸騰させる。
「朝と言ったら、やっぱりコーヒーだよね」
パルメザンの街で、挽いたコーヒーを買ってきたのだ。
ただ、ちょっと残念なのはこっちの世界のコーヒーはイマイチ味が薄いことだ。豆のせいなのか、水のせいなのかは分からないけれど。
のんびりとお湯が沸くのを待つ間、これからの予定を手帳にまとめてみることにした。
「……何よりまずは、土壌改良だよね」
種の付与魔法の効力を伸ばすために土にも付与魔法をかけてあげる必要がある。
それに、美味しい作物を育てるにはやっぱり土を作ってあげたほうが良いしね。
まぁ、やらなくても十分美味しかったけど、そこはこだわりだ。
「住居もしっかりとしたものが欲しいけど、ひとまずテント生活でもいいか。となると飲み水の確保と、敷地の確認ってところかな」
特に水はどうにかしたい。
街まで行けば確保はできるけれど、馬車で二日はかかる距離だ。農園に馬はいないので、行きは倍以上の時間がかかる。
どうにかして、ここで飲み水を確保できるようにしておきたい。
その次に敷地の確認だけど、これも意外と重要。
この区画に何があるのかはっきりわかっていないので、敷地を歩いて確認しておく必要がある。
できればモンスターがいそうな危険な場所には立ち入りたくないし、資源になりそうなものがあったら覚えておきたい。
などと手帳にペンで書いていると、お湯が湧いたのでコーヒーを煎れる。
相変わらず少しだけ味が薄いコーヒーだったが、場所が良いからかいつもより美味しく感じた。
「……よし、それじゃあ土壌改良といきますか」
合わせ付与の「範囲拡張」の効果を発動させ、昨日、テントの近くに作った畝の近くをガツガツと耕していく。
やっぱりテントの近くに畑があると何かと便利だし、ここを畑区画にしよう。
九つ分くらいの畝幅を耕して、そこに街で買ってきた「馬糞」と「苦土石灰」を混ぜて更に耕す。
そして最後に「免疫力強化」の付与魔法をかける。
これで瘴気に強い土壌ができて、作物が長持ちするはずだ。
ちなみに、馬糞は藁が入っているので、最高の肥料になるのだとか。
「お金に余裕ができたら馬を買うのも良いかもしれないな」
馬糞は肥料になるし、街に行くための足にもなる。
それに、馬って可愛いじゃない?
そういう癒やしもスローライフには必要だよね。
「土はこれでよし……っと」
土壌が出来たので買ってきた種を植える。
作付けするのは夏野菜たち。
キュウリ、トウモロコシ、レタス、ジャガイモ。
それにナス、エダマメ、トマト。
こっちの世界にもジャガイモやトマトがあるのにはちょっと驚いたけど、食べられるのは素直に嬉しい。
一部の種や種芋には「生命力強化」と「免疫力強化」だけをかけてじっくり育てることにした。
全部に「俊敏力強化」をかけて全部手早く作ってもいいけど、こういうのはじっくり育てて楽しまないとね。
何事もやりこみ要素は重要だ。
一通り植えてから川で汲んできた水を撒く。それから、畝の周りをぐるっとロープで囲って畑区画が一目でわかるようにした。
作業が終わった頃には、すっかり太陽が高く登っていた。
「そろそろお昼休みにするか」
作業したいときに作業をはじめて、休みたい時に休む。
うん、これぞスローライフの醍醐味。
テントに戻って、昨日作った大根の煮物と干し肉、パンに安物ワインを付けてお昼ごはんを取ることにした。
一日寝かせても煮物は美味かった。パンとワインが進む進む。
「さて、畑も一段落したし、次は……飲水の確保だな」
手帳を取り出して、やることを確認する。
敷地確認は飲み水問題が終わってから取り掛かることにしよう。
「……でも、どうやって確保すればいいんだろう? 川の水は飲めないしな」
桶に汲んできた赤紫色の水を見る。
ちょっと美味しそうな感じだけど、飲んだらやばいよね。
ぱっと見、瘴気濃度は低そうなので免疫力強化の付与魔法を自分にかければ大丈夫かもしれないけど、腹を下しそうだ。
川の水がだめとなると、考えられるのは井戸を掘る方法や雨水から得る方法、それに植物から得る方法になるけど──。
「どれも無理だよね」
まず、僕に井戸を掘る技術なんて無いから井戸案は却下。
雨水はこの天気じゃ確保できるのがいつになるかわからないのでそれもダメ。
最後に植物から水分を集めるのは……そもそも植物が無いから不可能。
となると。
「……お手製の簡易濾過器でも作ってみるかな?」
実は、ベランダ菜園をやっていたときに「良い野菜を美味しく食べるには、良い水が必要だ」と考えて、濾過器を作ったことがある。
ネットショップを使えば高性能の濾過器を買うことができるけど、意外と良い値段がしたのでチャレンジしてみたのだ。
おかげで少ない睡眠時間を更に削ることになったけど。
簡易的な濾過器なので瘴気の毒素を全て無くすことはできないだろうけど、装置に付与魔法をかければなんとかなるだろう。
「何事もとりあえずやってみる精神だ」
早速、街で買ってきた小さい桶に小さい穴を開けて、上から小石、砂、炭、布などをギュッと密度を高くして押し込める。
焚き火で出来た炭を砕いて押し詰め、それから細かい砂と、砂の浮き上がりを抑えるための布、小石の順番で入れる。
そこに耐性を高めるための「持久力強化」と、瘴気対策の「免疫力強化」、それに早く水が出てくるように「俊敏力強化」の付与をかけて完成だ。
見た目は立派な濾過器に見える。
だけど、性能はどうだろう?
恐る恐る上から汚染水を流してみる。
するとすぐに桶の底に開けた穴から水がチョロチョロと流れ出てきた。
すぐに別の桶ですくってみると、透き通ったキレイな水が桶に溜まっていく。
「お、これは成功かな?」
見た目は綺麗な水。
匂いもしない。
うん。とりあえずは行けそう……か?
一応、自分に免疫力強化をかけて飲んでみた。
「……う」
その衝撃に、思わず桶を落としそうになってしまった。
「うまっ! なんだこれ!? メッチャまろやかだぞ!」
なんだろう。すごく舌触りが良くて、持ってきた飲料水よりも美味しい。
もしかして、付与魔法の効果が濾過した水に影響を与えてるとか?
水は第二属性の「水属性」だから、生命力強化で旨味が上がったのかもしれないし、新しい「合わせ付与」が発現した可能性もある。
「うん、これは新たな発見だな」
この効果はじっくり研究する必要がありそうだ。
とりあえず、この水を使ってコーヒーを作ってみようっと。
きっと、今までで最高に美味いコーヒーが出来るはずだ。
今日は生憎の曇り空だった。
しかもただの曇りじゃない。
なんだかうっすらと赤紫色に変色していて、ここが呪われた地であることを改めて実感する。
というか、不気味すぎる。
「瘴気の雨とか降らないよね……?」
酸性雨的なやつ。
飲水は濾過器で確保できたし、瘴気の雨が降ったとしても体内に取り込まなければ大丈夫だけれど、気分的によろしくない。
とりあえず、雨が降ることを想定して畑の水撒きはやめて、濾過器で飲料水を大量生産するために水を汲みにいくことにした。
「……お、かなり出来てるな」
出発する前に畑に寄ってみたところ、「俊敏力強化」をかけたキュウリがかなり育っていた。
持ってきた木の棒を畝の両端に立ててロープを網状に張ったのだけれど、その網が隠れるくらいに葉っぱが広がり、かなり大きな実が出来ている。
これは早く収穫しないと傷んでしまうかもしれない。
キュウリは水や肥料が足りないと曲がってしまうのだけれど、パッと見たところまっすぐ育っているので、そこらへんは大丈夫みたいだ。
キュウリの他にも、トウモロコシやジャガイモも収穫できそうだ。
いいぞいいぞ。収穫が楽しみすぎる。
ウキウキしながら桶を両手に抱えて川へと向かう。
拠点にしているテントから川まではそこまで遠くないけれど、一度に運べる量に限界があるのが面倒だ。
これは早めに馬を手に入れる必要がありそうだな。農園が軌道に乗ってきたら一度パルメザンに行って必要なものを買ってこようか。
「……ん?」
と、そんなことを考えながら川に降りていると、何か動くものが見えた。
曇り空のせいで薄暗くなっている対岸の川辺。大きな岩の影に何かがいる。
まさかモンスターか?
呪われた地には危険なモンスターが多く生息しているというけれど、これまでそんな気配はなかった。
もしかすると曇りの日に活発になるのかもしれないな。
何にしてもモンスターだったら追い払っておいたほうがいいかもしれない。
腰に下げた短剣を手に取って、筋力強化と俊敏力強化の付与魔法をかける。いつもの範囲拡張の合わせ付与だ。
これで身体能力を強化すれば、ある程度の相手ならいけるはず。
恐る恐る川を渡って反対の岸に。
大きな岩の近くまでゆっくりと近づき、岩の裏側を覗き込む。
「……えっ」
つい、ギョッとしてしまった。
岩陰に隠れていたのは女の子──それも、狼のような耳と尻尾を持った獣人の女の子だった。
肩ほどまであるくすんだピンクの髪に、頬にはヒゲのような模様がある。頬のそれは獣人の特徴だ。
着ているワンピースはボロボロだし少しやつれているように見えるけど、すごく可愛い。
でも、なんでこんな所に獣人が?
しばし考えて、僕ははたと思い出す。
そういえばホエール地方には獣人の集落があって、昔は人間との交流があったとサクネさんが言ってたっけ。
人間と獣人の交流があるなんて珍しいなと思ったから、よく覚えている。
数が少ない獣人は人間から迫害されている。王都でもたまに獣人を見かけることがあったけど、ほとんどが奴隷商の売り物としてだった。
ここの近くに住んでいるのなら、挨拶でもしておこうかな。
そう思ってにこやかに近づこうとしたけれど、一歩踏み出した瞬間、「来るな」と言いたげに犬歯をむき出しにして威嚇され、逃げられてしまった。
流石は身体能力が高い獣人だ。
彼女の姿は、あっという間に消えてしまった。
「……いきなり嫌われちゃったな」
誰かに嫌われるのには慣れているけど、初対面でいきなりはちょっと堪える。僕って、そんな悪人面してないと思うんだけどな。
「でも、大丈夫かな」
少しだけ気になることがあった。
あの子がすごく衰弱しているように見えたことだ。
数ヶ月前に大海瘴によってホエール地方は大きな被害を受けたと言っていた。もしかすると、そのときにあの子の集落も壊滅してしまったんじゃないだろうか。
住む場所を失って、食べ物や飲み物を探して彷徨っている。
うん、すごくあり得る話だ。
こんなことなら、携帯食と飲水を持ち歩いておけばよかった。頻繁にここに来ているのなら、食べ物でも置いておこうかな。
「……ギャウゥ!」
「っ!?」
などと思案していると、遠くから甲高い動物の鳴き声がした。
声が聞こえたのは、獣人の少女が逃げていった方向。
まさか、モンスターに遭遇したとか?
獣人は人間と比べて身体能力や戦闘能力に長けているし、簡単にモンスターにやられたりはしないはず。
だけど、衰弱しているように見えたのが気がかりだ。あれじゃあ逃げるのもままならないかもしれない。
どうしようか。
見て見ぬ振りはできるけれど、あの少女が心配だ。それに、拠点の近くを危険なモンスターにうろつかれていても困る。
「……仕方ない。確認しに行ってみよう」
そうして僕は、消えていった少女を追いかけて上流へと向かうことにした。
川沿いにしばらく上流に向かって歩いていると、再びモンスターの声がした。
さっきよりも近い。
腰に下げていた短剣を握りしめ、念入りに付与魔法をかけておく。
短剣に筋力強化と俊敏力強化の合わせ付与。
それから自分自身に物理防御力を上げる持久力強化と、生命力を上げる生命力強化、そして素早さを上げる俊敏力強化のフルコース。
これだけ付与しておけば不意の襲撃を食らってもなんとかなるだろう。
あとはビビってる心を落ち着けさせたいところだけど、そんな効果がある付与魔法がないのが残念すぎる。
魔力量を上げる「|精神力強化(エンチャント・マインド)」で胆力が強化されたらいいんだけどな。
などと考えながら、ゴツゴツとした石だらけの川辺を歩いていく。
上流に行くにつれて川岸が赤紫色になってきた。多分、川を流れてきた瘴気が滞留しているのだろう。
不気味な光景に、緊張感が高まっていく。
「……こ、来ないでっ!」
すぐ近くから女の子声がした。
さっきの獣人の子かもしれない。僕は急いで声がした方へと走る。
両岸にそそり立っている壁の一部が崩落したのだろう。
川辺に転がる大きな岩の影に、巨大なモンスターとピンク色の髪をした獣人の少女の姿があった。
腰を抜かしているかのようにペタンと座っている少女が、威嚇するように付近の小石をモンスターに投げている。
しかし、あのモンスターは何だろう。
見た目は巨大な青黒いビーバーだ。そういえば、水辺に危険なビーバーのモンスターが現れるって院で聞いたことがあるな。
確か名前が「アーヴァンク」だったっけ。
土手を壊し畑を水浸しにして、牛馬を水の中に引きずり込んで溺れさせるとかいう凶暴なやつだ。
その話を聞いたときは「いやいや、ビーバーにそんなことができるわけがない」って思ったけど……なるほど。あの大きさなら余裕だな。
ていうか、見た目がすごく怖い。ビーバーって癒やし系の動物のはずだけど、愛嬌がある見た目はどこに行った?
「う、ううう……っ! あ、あっちへ行ってっ!」
女の子がジリジリと近づいてくるビーバーに怒鳴っているけれど、その声はどこか弱々しい。
やっぱり変だ。獣人の身体能力があれば、さっきみたいに逃げ出すことも可能なはずなんだけど。
「……いや、今はとにかく助けないと」
事情は後で本人に聞けばいいし。
でも、どうやって彼女を助ける?
素直に飛び出しても、こちらには見向きもせず少女をガブリといきそうだ。
どうにかしてモンスターの注意を僕の方に向けないと。
黒魔法の加護を持つ魔導師だったら火属性の魔法でも放って注意を引けるんだけど、生憎、僕が持っているのは付与魔法の加護だけ。
何か大きな音を立てられるものは無いか?
テントから鍋とフライパンを持ってきてガンガン鳴らせば多少は注意を引けるかもしれない。いや、取りに行ってる間にあの子がやられちゃうか。
ああもう、ごちゃごちゃ考えている時間はないよっ!
「お、おらぁあぁぁぁぁああっ! こっちじゃあああああっ!」
僕の口から放たれたのは「奇策」ではなく「奇声」だった。
「ひゃあっ!?」
狙い通りにビーバーが僕を見てビクッと体を震わせたが、モンスター以上にビックリしていたのは少女だった。
「お、お前の相手は僕だっ!」
「わ、私の相手!? 何の!?」
「……え? あ、いや、違う! 僕が相手したいのはキミじゃなくてモンスターのほうですっ!」
むしろキミは助けたいというか!
「と、とにかく、こっちだモンスター!」
転がっていた石に筋力付与をして思いっきり投げた。
モンスターの頭部に命中した石が「ドゴッ」と痛そうな音を上げる。
「ギィイイィッ!」
付与魔法で強化された石が相当痛かったのだろう。
モンスターの注意が完全に僕に向いた。
あ、最初からこれで注意を引けばよかった感じですか?
「キミはここにいて!」
少女を巻き込まないように距離を取ったが、モンスターの動きは予想外に素早かった
地面を蹴ったかと思うと、その巨体が空に舞い上がる。
「マ、マジで!?」
いくらなんでも、予想外すぎる。
警戒すべきはあの鋭い爪と牙だと思っていたけど、あの巨体に押しつぶされたら一巻の終わりだ。
「だけど、今の僕ならっ!」
なにせ、チート魔法の俊敏力強化によって脚力が格段に上がっているのだ。
一投足で安全な位置へと移動。
瞬間、さっきまで僕がいた場所にモンスターが落下してくる。
粉塵。地鳴り。
それを見て、もう一度地面を蹴る。
猛烈なスピードで、今度はモンスターとの距離が縮まっていく。
「たあっ!」
短剣をモンスターの左腕へと振り下ろす。
金属がかち合ったような音が響く。多分、あの青黒い針金みたいな体毛は、文字通り鋼並みの硬さだったのかもしれない。
だけど、筋力強化で切れ味を上げている僕の短剣を防ぐことはできなかった。
バラバラっとビーバーの左腕から体毛が落ちたと思った瞬間、ブワッと赤い血がほとばしった。
「ギィイイイィ!?」
甲高いビーバーの声。
まさかこんな小さなナイフで斬られるとは思っていなかったのだろう。
ビーバーはしばらくあたふたと慌てたあと、悲しそうな声を上げながら川の上流の方へと逃げて行った。
後を追いかけようかと思ったけど、留まった。
今の一撃で僕が危険な存在であることはわかったはず。
もう農園には近づいてこないだろう。
……多分。
「でも、はじめて戦闘で使ったけど、すごい威力だな……」
改めて自分の付与魔法にビビってしまう。
以前に一度だけ模擬戦で使ったことはあるけれど、モンスターに使ったのははじめてだ。
これなら王宮魔導院の護国院に所属している重装騎兵の装甲でも簡単に貫けるんじゃないだろうか。我ながら、恐ろしすぎる。
「……と、そんなことよりも女の子を助けないと」
先程、少女がいた岩陰へと急ぐ。
「あ……あれ?」
岩陰に少女の姿があったが、どうやら気を失っているようだった。
もしかして戦闘の巻き添えになっちゃった!?
──と心配したけど、特にこれといって外傷はない。原因はわからないけど、ただ気を失っているだけだろう。
「でも、どうしよう?」
モンスターは逃げちゃったから、もう危険はない。
けど、このまま放置するのも可哀想な気がする。
「とりあえず、テントに連れていくか」
再び自分の体に筋力強化を付与して、少女を背中に担ぐ。
女性を背負う前に筋力付与をするのは失礼かなと少し思ったけど、念の為ね。
だってほら、僕って貧弱だし。
「う〜ん、どうするか」
テントに設置してあるベッド代わりの毛布で寝息を立てている少女を見て、頭を捻った。
彼女が気を失っている理由が良くわからなかったからだ。
瘴気にやられたってわけじゃないし、怪我をしているというわけでもない。
「……となると、ご飯とか?」
見たところ少しやつれてるみたいだし、腹を空かせているのかもしれない。
というわけで、料理を作ることにした。
メニューは戻る途中で収穫したキュウリとレタスを使ったサラダ。
それに、ジャガイモと大根、干し肉、間引きをしたときに採った小さめの人参を使った野菜スープ。メインディッシュは焼きトウモロコシだ。
これを料理と言って良いかわからないけど、素材が良いので味は保証できる。
サラダにドレッシングが欲しいけれど、この世界にそんなものは無いので塩を軽く振って皿に盛り付ける。
スープは野菜と一緒に干し肉とバターを放り込み、グツグツと煮込んでから塩とコショウで味付けする。
焼きモロコシは、バターを入れたフライパンで焼くだけ。
シンプルなメインディッシュだけど、市販のトウモロコシと違って甘さが段違いに濃いので、これだけで激ウマになるのだ。
トウモロコシとバターの香ばしい香りが漂い始める。
美味そうだなぁとニヤケ顔でよだれをすすっていると、いつの間にか目を覚ましていた少女とバッチリ目が合った。
「…………」
テントの中からぼーっと僕を見る少女。
焚き火にかけたフライパンを片手に、ニヤケ顔で少女を見る僕。
これって、なんだか誤解されそうな状況じゃない?
「……ふぁああっ!?」
案の定、少女は凄まじい速さでテントから飛び出して、身構えた。
「……だだ、誰っですかっ!?」
「あ、怪しい者じゃないです! 僕はさっきビーバーに襲われてたキミを助けた、通りすがりの人間っていうか!」
「ビ、ビーバー?」
「ええっと、確かアーヴァンクとかいう」
その名前を聞いて、少女はハッとして、キョロキョロと辺りを見渡しはじめる。
「あのモンスターは……」
「大丈夫。僕が追い払ったから」
そう答えると、少女はギョッと目を見張った。
「お、追い払ったんですか?」
「うん。だってキミを襲おうとしてたし……」
「どうして私を?」
「どうして?」
尋ねられて、フライパンのトウモロコシをひっくり返しながら考え込んでしまった。
何故助けたと問われても、ちょっと返答に困る。
「特に深い理由はないけど、困ってそうだったから」
「…………」
無言のまま、胡乱な目で僕を見る少女。
完全に疑われている気がする。
ここはおいしいご飯をご馳走して誤解を解いてもらうしかない。
「一緒に食べない? キミ、お腹空いてるでしょ?」
「……っ!? そ、そんなもの」
「大丈夫だよ。別に毒とか入ってないから。ほら」
サラダをパクっと頬張る。
うん、シャキシャキしてて美味い。
やっぱり採れたての野菜を一番美味しく食べるには、サラダが一番かもしれないな。
なんて思っていたら誰かの腹の虫がグゥと鳴った。
「……あっ」
顔を真赤にした少女の耳がピョコンと立った。
「べ、べべ、別にお腹が空いてるってわけじゃ」
「とりあえず、食べようよ」
トウモロコシもいい感じで焼けたし。
警戒する少女を横目に、街で買ってきた簡易テーブルを広げて作った料理を並べていく。僕の分と少女の分。それぞれ皿に分けて。
そして、椅子になりそうな小さな樽を二つ持ってきて座る。
「はい、どうぞ」
「…………」
少女は僕とテーブルの上の料理を交互に見る。
すごく食べたい。だけど危険かも。
そんな葛藤が伺える。
こういう場合は彼女のことを意識しないほうがいいかもしれない。
そう思った僕は、お先にトウモロコシにガブリとかぶりついた。
「……うまっ」
思わず笑顔がこぼれてしまう。
凄く甘くてジューシー。粒の弾力も凄くて食べごたえがある。
そんな僕を見て、少女がゆっくりと近づいてきた。
そして椅子にちょこんと座って、恐る恐る皿を取ろうとしたけれど、フォークを渡そうとした僕の動きにびっくりして牙を剥いて威嚇する。
いやいや、そんなに怖がらなくていいのに。
でも、その警戒心の強さが彼女の身を守ってきたのかもしれないな。
こっちの一挙手一投足を警戒しながら、少女は恐る恐るスープに口を付ける。
「……あっ」
目をパチクリと瞬かせる。
自然と出てしまった反応なのだろう。彼女は少し恥ずかしそうに俯いてしまったけれど、尻尾は嬉しそうに揺れている。
「どう?」
「…………美味しい、です」
「よかった」
僕の大雑把な味付けが口にあったようで一安心。
ひとまず腰を落ち着けて僕も食べることにした。
前菜のサラダを食べて、野菜スープのジャガイモを頬張る。
芯まで火が通っていてホクホクだ。硬い干し肉も十分柔らかくなっているし、人参も甘くて美味い。
「おかわりもあるから言って──」
と、言いかけた瞬間、少女は控えめに皿を差し出してきた。
どうやらサラダも野菜スープも、トウモロコシもあっという間に平らげてしまったらしい。
なんだか嬉しくなったので大盛りのおかわりをあげたけど、それもあっという間に綺麗に完食してくれた。
なるほど。やっぱり相当お腹が減ってたんだね。
「キミはひとりなの?」
尋ねると、少女はビクッと身をすくめた。
「よかったら、事情を教えてくれないかな?」
「……はい」
少女は小さく頷き、静かに口を開いた。
彼女の名前はララノ。
この農園から少し離れた場所にあった獣人の集落で暮らしていたらしい。
予想していたとおり、数ヶ月前に起きた「大海瘴」で集落は壊滅してしまったという。
「キミのご両親は?」
「……わかりません」
ララノは小さく首を横に振る。
遺体を見つけることができなかったので生きている可能性はあるけれど、大海瘴が去ってからも集落に戻ってはこなかったという。
「それからずっとひとりで?」
「はい。集落に貯蓄してあった食料でなんとか飢えを凌いでいたのですが、二週間前ほど前に尽きてしまったんです。その……料理はできるんですけど、狩りはやったことがなくて」
「そうなんだ……」
それで集落を出て食べものを探していたけど、何も見つからずってわけか。
それは相当キツイな。
あの川にいたのは、流れていた汚染水を飲むためらしい。
体に良くないということは知っていたけれど、あまりにもお腹が減りすぎて時々飲んでいたのだという。
そんな時、僕とばったり会って怖くなって逃げ出した。
瘴気が含まれる水を飲んで平気でいられるのは獣人の特性なのかな……と思ったけど、やつれているようなララノの姿を見て気づく。
多分、これが瘴気による影響なのかもしれないな。水に含まれる瘴気は微量だったとはいえ、瘴気が彼女の体を蝕んでいるんだ。
でも、ここでララノを助けることができてよかった。
あのまま汚染水を飲み続けていたら、命を落としていたかもしれない。
「あ、あの……あなたは?」
ララノがポツリと尋ねてきた。
「ここに住んでいた人間の方ではないですよね?」
「うん。数日前にここに引っ越してきたんだ。名前はサタ。元々は王宮魔導院の……ってそれはどうでもいいか」
やっかみを受けて追放されただなんて、聞いて楽しい話じゃないし。
「色々あって、ここでのんびり農園をやろうと思って土地を買ったんだ」
「の、農園!? 瘴気が降りた呪われた地で、ですか!?」
「そうそう。僕ってちょっと珍しい加護を持っててね。こんなふうに呪われた地でも作物を育てることができるんだ」
食べかけの焼きトウモロコシを掲げる。
それを見て、少女は目を丸くしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください! もしかしてこの野菜って……ここで作ったんですか!?」
「そうだよ。そこの畑で」
「……しっ、信じられません! そんなことが出来るなんて」
「じゃあ、実際に見てみる?」
畑を見れば否応でも納得してくれるはず。
というわけで料理を食べ終わってから、僕はララノを畑に案内することにした。