追放されたチート付与師の辺境農園スローライフ ~僕だけ農作物を成長促進できる付与魔法が使えるようなので、不毛の地に農園を作ろうと思います~

 完成した家は、まるで避暑地にあるコテージのような見た目だった。

 贅沢に丸太を組んで作られた外壁に、木製の開閉式の窓。

 玄関の前にはゆったりくつろげるテラスがあって、食事が取れるように丸テーブルが設置されている。

 さらに玄関の扉の取手部分は切り出した樹木がそのまま使われていて、すごくおしゃれな雰囲気を出している。

「もうこの時点でめちゃくちゃ良いんだけど」
「そうですね。集落に建ててもらった家より、かなりおしゃれな気がします」

 想像以上の完成度だったのか、ララノも少々驚いている様子だ。

 そんな僕たちにブリジットが尋ねてくる。

「これは凄い。この家は誰が作ったのだ? 王都から一流の建築士でも呼んだのか?」
「作ってくれたのはララノが呼んでくれた動物たちだよ」
「……は? 動物?」

 まさに狐につままれたような顔をするブリジット。

 ポカンとしている彼女を連れて、玄関のドアを開ける。

「うわぁ……」

 思わずため息のような声が漏れ出してしまった。

 僕たちを迎えてくれたのは、陽の光が差し込む吹き抜けの玄関。

 見上げると二階の窓から空が見えている。あそこから光が差し込んでいるようだ。明るくて開放感があり、おちついた雰囲気がある。

 リビングはもっと凄かった。天井が高く吹き抜けになっていて、二階部分がロフトみたいになっている。

 リビングにはまだ家具はないけれど、綺麗なキッチンがあって、切り株を使った可愛い椅子がいくつか置いてあった。

 切り株の椅子もそうだけれどキッチンも全部木製だし、一体どうやって作ったんだろう。動物たちって凄すぎませんか?

 驚きの連続で語彙力を失い、「わぁ」とか「凄い」しか言えなくなった僕たちは、二階へと向かった。

 二階も一階に負けないくらい豪華だった。

 吹き抜けのロフト部分にはミニキッチンがあって、ここだけでも十分生活できそうな広さがある。

 さらに部屋が六つほどあって、その全部にベッドが用意されていた。

 流石に毛布はなかったけど、今テントで使っているものを流用すれば快適に過ごせそうだ。

「……ちょっと凄すぎて言葉が出ないね。間取りやデザインはララノの指示なの?」
「いえ、大雑把な指示は出しましたけど、細かいものは現場監督に任せました」
「現場監督?」
「大きな熊がいましたよね? あの子が細かい指示を出しているんです」
「あ〜……」

 そう言えば、ララノと話している熊がいたな。頻繁にララノと話し合っていたみたいだったけど、あの熊が現場監督だったのか。

 てことは、これはあの熊のデザイン?

 もしかして現代からデザイナーが熊に転生してきたのかな?

「ところでブリジットさんは?」
「奥の部屋にいるよ。『私の部屋はここにする』とかはしゃいでた」
「……そうですか」

 ララノの声からスッと感情が消えていく。

「あ、いやいや、もちろん勝手に言ってるだけだからね? ブリジットは名門デファンデール家の人間だし、本当ならこんな所にいていい人じゃないんだ」

 ブリジットは肩書だけじゃなく、瘴気マスクの発展に貢献した実績も持っている錬金術師だ。

 そんな人間をここに滞在させておくのは、国にとって大損害にほかならない。

「今はここに居たいって言ってるけど、すぐに飽きて王都に帰るって言い始めると思う。だからまぁ、今日は泊まって貰って明日にもう一回説得してから──」
「では、晩餐を開きましょうか」
「そうそう晩餐でも……って、え? 晩餐?」
「はい。この農園にいらっしゃった、初めてのお客様ですし」

 ちょっと驚いてしまった。

 ブリジットに対抗心を燃やしてたみたいだし、てっきり「今すぐ帰って欲しいです」って言うのかと思ってた。

「だ、大丈夫なの?」
「もちろんですよ。だってブリジットさんはサタ様のご友人じゃないですか。しっかりおもてなししないといけませんよね」
「ラ、ララノ……」

 ララノの優しさに思わず涙ぐみそうになった。

 ブリジットは面倒な性格だけれど悪い人間じゃないし、院の中で僕を慕ってくれていた数少ない人間だった。

 だから、ここに住ませることはできないけど、もてなしやりたいとは思っていた。その気持ちをララノが汲んでくれたことは、素直に嬉しい。

「……料理の腕を披露して、私には絶対勝てないということをわからせとかないと……」
「え? 何か言った?」
「いえっ! 何も言ってません!」

 ブンブンと首を横に振るララノ。

 何か変なこと言ってたような気がするけど、聞き間違いか。

「ありがとうララノ。それじゃあ、家を作ってくれた動物たちも呼んで盛大に晩餐を開こうか」
「それは良いアイデアですね! あの子たちもきっと喜ぶと思います!」

 街で肉や魚も買ってきたし、動物たちも満足するだろう。

 善は急げとブリジットに声をかけて晩餐の準備をすることにした。

 ララノに動物たちを呼んでもらっている間に、僕は畑に野菜を取りに行く。

 農園を離れている間に収穫してもらったものがあるけれど、折角なら採れたてを食べさせてやりたいからね。

 リビングに来たブリジットに「私はどうすれば?」と尋ねられたので、のんびりしていてもらうことにした。

 主賓に手伝わせるわけにはいかないしね。

 というわけで、ひとりで家を出て畑に向かう。

 玄関先にはトーチのような物があって、畑への道にも同じものが点々と設置されていた。火を灯せば夜間でも安全に畑まで行けそうだ。

 ざっと畑を見て回ったところ、トマト、ミニトマト、オクラあたりが収穫できそうだった。

 トマトはそのまま食べても美味いし、オクラは塩をすりこんで軽く茹でるだけでこれまた筆舌に尽くしがたいおいしさがある。

 シンプルだけど、素材の味をぞんぶんに楽しめる最高の方法だ。

「サタ先輩」

 トマトの収穫をしていたら、ブリジットが畑にやってきた。
「……あれ? どうしたの?」
「どうにも主賓扱いされるのが苦手でな。少し体を動かしたいのだが……」

 気まずそうに頭を掻くブリジット。

 ブリジットは紛うことなき名家のご令嬢。

 事あるごとに晩餐やパーティに呼ばれているだろうし、主賓扱いされることに辟易しているのかもしれない。

「それじゃあ、トマトとオクラの収穫をお願いしてもいいかな?」
「承知した……と言いたい所だが、どうやって収穫すれば?」
「トマトとオクラは、ナイフでヘタの部分を切れば大丈夫だよ。ミニトマトは指で簡単に取れるから」
「なるほど」
「オクラは葉っぱの下に隠れて見つけにくいことがあるから、よく探してみて」
「わかった。やってみよう」

 ブリジットは、緊張した面持ちでナイフを手に取る。

 ちょっと心配なので、作業をしつつ彼女の作業に気を向けることにした。

「……ふむ。ナイフでヘタを切る、と」

 恐る恐るトマトのヘタにナイフを当ててゆっくりと切るブリジット。

 上手く取ることができたからか、パッと嬉しそうな顔をした。

 それを見て、ほっこりしてしまう。

 ブリジットは誰よりも刃物の扱いに慣れているはずなのに、ちょっとぎこちない感じが新鮮だ。

 でも、ほっこりしたのはその一回だけだった。

 ブリジットはすぐに慣れた手付きでサクサクと野菜を収穫していく。

 なんだかすでに僕よりも上手くない?

「王都にも戻って来ないつもりなのか?」

 トマトの収穫を終えて、オクラの収穫をはじめたブリジットが尋ねてきた。

 一瞬、何のことを言っているのかわからずポカンとしてしまったけれど、今後のことだと気づいてすぐに返す。

「そのつもりだよ」
「どうしてだ? 魔導院を辞めるにしても、王都を離れる必要はないだろう」
「馬車でも話したけど、田舎でスローライフをするのが夢だったんだ。こうやって畑で野菜を育てて、のんびり暮らす生活に憧れてた」

 この世界に転生したときにあのエロ神様に願ったのは「のんびり生きたい」という願望だった。

 その願望を叶えるために入った魔導院で馬車馬のように働かされたのは大きな誤算だったけど、これこそが僕が求めていた生活だった。

「……野菜を育てて、農園スローライフ、か」

 ブリジットが収穫したトマトをぼんやりと見つめる。

「サタ先輩にそんな夢があったなんて知らなかったな。先輩のことならなんでも知っている自負があったのだが……」

 少しだけ寂しそうな顔をするブリジット。

「気にすることないよ。だって誰にも話してなかったわけだし」
「そういうことを言っているわけではないっ!」
「……っ!? ご、ごめんなさい!?」

 突然怒鳴られて、謝罪の言葉が飛び出してしまった。

 ブリジットは少々バツが悪そうに唇を尖らせて続ける。

「サタ先輩は、私とはじめて会ったときのことを覚えているか?」
「会ったときのこと?」

 僕はしばし記憶をたどる。

「なんとなく覚えてるよ。顔を合わせて早々に模擬戦を申し込まれたんだよね?」

 あれはブリジットが本草学研究院に配属された初日だったっけ。

 挨拶もなしに、いきなり「サタ先輩に模擬戦を申し込みたい」と言われた。

 改めて思い返すと、酷すぎる初顔合わせだな。

「そうだ。何でも珍しい魔法の加護を持っていると聞いたのでな。それがどんなものかと体験したかったのだが……まさか一撃で私の木剣を真っ二つにされるとは思わなかった」
「ああ、そうだったね」

 はっきりと思い出した。

 模擬戦なんてやりたくなかったけど、これ以上絡まれるのが嫌だったので付与魔法を使ってコテンパンにしようと考えたんだった。

 衣類にかけた持久力強化で物理防御力を上げてブリジットの剣を防ぎ、筋力強化で切れ味を上げた木剣でブリジットの剣を真っ二つにした。

「キミに言われて思い出したレベルなんだけど、よく覚えてたね?」
「当たり前だろう。模擬戦だったとはいえ初めて負けたのだ。いや、私の人生で負けたのはサタ先輩だけだ」
「ウソでしょ?」

 流石に誇張表現でしょ──と思ったけど、剣術大会の決勝でも相手を圧倒して勝ってたし、ブリジットの相手になる人間はいないのかもしれない。

 ううむ、トラブルを避けるためとは言え、とんでもないことしちゃったのかも。

「何にしても、あれを負けに数える必要はないよ。だって僕は付与魔法を使ったわけで、言わばズルをしたようなものだし」
「いや、付与魔法はズルではない。与えられた加護は『才能』だ。私の剣の才能を先輩の魔法の才能が上回っただけにすぎない」
「まぁ、そういう考え方もできるけど」

 僕の場合はあのエロ神様からの特別プレゼントみたいなもんだし、あきらかにズルだと思うけどね。

「とにかく、サタ先輩は私を負かすほどの優秀な魔術師だった。だから私は、この人と生涯を共にしようと決意したのだ」
「そんな大事なことを簡単に決意されても困るよ……」

 だって、僕の感情はガン無視だし。

 もはやストーカーレベルだ。

「私は先輩のことをもっと知りたいし、ずっと一緒にいたいと思っている。それは今でも変わっていない」
「…………」

 しばし沈黙が僕たちの間に流れる。

 何と返せばいいかわからなくなってしまったのは、ブリジットの言葉にいつも以上のひたむきさを感じたからだ。

 ブリジットは院に戻るつもりはなく、ここに住みたいと言ってくれた。

 院を離れても僕のことを慕ってくれているのは正直うれしい。

 それに、人手が増えるのは僕としても助かる。

 プッチさんに買い取ってもらう野菜作りや薪割り、川の水汲みなど毎日の仕事も多い。

 それに住居問題も解決したわけだし、ブリジットがここに住む障壁は何もない。

 だけど、僕には「じゃあ、ここに住んでいいよ」と気軽に答ることは出来なかった。

 ブリジットは正真正銘の名家のご令嬢で、将来は国の重要なポジションに付くべき女性だからだ。

 僕とは違って、彼女の才能を無駄にするのは国にとって大きな痛手になる。

 だから院に戻すのが彼女にとって最善の選択。

「──サタ様っ!」

 そのとき、慌てたララノの声が飛び込んできた。

 家の方を見ると、猛スピードで駆けてくる彼女の姿があった。

「たた、大変ですっ! 瘴気です!」
「……瘴気?」

 そう言われて周囲を見渡した。

 まさか瘴気が降りてきたのか──と思ったけど、どこにも瘴気らしき影はない。

「どこにも瘴気っぽい影はないけど?」
「晩餐に呼んだ動物たちから報告を受けたんです! 農園の敷地内の洞窟から、高濃度の瘴気が発生しているみたいです!」
「は? 洞窟?」

 ちょっと待って。なんで洞窟から大量の瘴気が?

 というか洞窟って何? 

 そんなもの、この農園にあったっけ?
「……まさかこんな所に洞窟があったなんて」

 ララノから報告を受けて三十分ほど。

 動物たちに案内されたのは、水を汲んでいる川と自宅の中間地点にある崖の片隅だった。

 そこにひっそりと佇むように、人がひとり入れるくらいの穴が空いていたのだ。

 ララノが動物たちから受けた報告によると、ここから高濃度の瘴気が漏れ出していたらしい。

 今のところ瘴気っぽいものは何も出ていないようだけど、ツンとした瘴気の匂いが残っている。

 動物たちが見たものは、間違いなく瘴気だったのだろう。

 元々ここの土地は瘴気が降りている「呪われた地」なので、新たに瘴気が発生しても土壌には何も影響はない。

 だけど、ここに住んでいる僕たちの人体への影響は看過できない。

 瘴気濃度が高ければマスクで防げなくなってくるし、何より、外での活動時間が制限されてしまう。

 スローライフを守るためにも、瘴気が発生している原因を特定して対処しておきたいんだけど──。

「なんでこんな所から瘴気が出てるんだろう?」

 僕の頭に浮かんだのは、根本的な疑問。

 現在、瘴気が発生する原因については解明されていない。いつどこで、どんなふうにして猛毒の瘴気が発生しているのかは解っていないのだ。

「私にも原因はわかりませんが、もしかすると洞窟の中に瘴気の発生源になっている『何か』があるのかもしれません」
「うん、その可能性は高いね。その『何か』がわかれば、今後の瘴気対策に活用できるかもしれないな」

 この地に住んでいる以上、瘴気の脅威は今後も続くことになる。

 もし、瘴気の原因を多少なりとも特定できれば、今後の対策がぐっと楽になるかもしれない。

 しかしと、ぽっかり開いている洞窟の入り口を見て思う。

 少し前にララノと農園の敷地調査をしたはずなのに、こんな洞窟があるなんて気づかなかった。

 ぱっと見た所、見落としそうな場所でもないんだけど。

 もしかして新しく出来た洞窟なのかな?

 洞窟は雨水が石灰岩を溶かして出来るという話を聞いたことがある。

 元々ここに洞窟が走っていて、地割れか何かで入り口が出てきた。

 あり得ない話じゃない。

 一応、農園マップにメモをしておくか。

 そう思ってリュックから地図を取り出そうとしたら、不敵な笑みを浮かべているブリジットが目に止まった。

「……な、何で笑ってるの?」
「血が騒いでいるのだ」
「え? 血? もしかして洞窟好きとか?」

 初耳だな。

 大自然が作り出した絶景に出会える洞窟を巡っている愛好家は多いと聞くけど、まさかブリジットにそんな趣味があったなんて。

「……そうではない」

 ブリジットに冷めた目で睨まれた。

「ようやく私の剣の腕をサタ先輩に披露できる時が来たという意味だ」
「あ、そういうことか。確かに洞窟にモンスターがいるかもしれないね」
「そうだ。先日のオルトロスのときはかっこいい姿を見せられなかったし、今度こそサタ先輩の前で鮮やかにモンスターを仕留めてみせる。期待していてくれ」
「や、別にそういうの期待してないけど」
「……なっ!?」

 ギョッと目を見張るブリジット。

「な、なぜだ!? 華麗にモンスターを討伐する私を見て、『きゃ〜! かっこいいブリジットさん! 僕と結婚して!』となるのがお決まりのパターンじゃないのかっ!?」
「そうはならないでしょ」

 乙女じゃないんだから。

 というか、モンスターなんていないに越したことはない。

 瘴気が発生している原因が解って「ああよかった〜、これでもう安全だね」って一件落着になるのが平和的で良い。

「サタ様は、そういうのが好きなんですか?」

 おもむろに尋ねてくるララノ。

 僕は小さく首をかしげた。

「そういうの、とは?」
「強くてかっこいい女性に憧れている的な」
「…………」

 なんだろう。洞窟探索はまだ始まっていないのにドッと疲れが吹き出してきた。

 ララノは僕の返答を心待ちにしているみたいだった。

 なので「まぁ、そうかもしれないね」と答えると、「私もがんばります」と元気よく返してきた。

 それを聞いて、再びため息が漏れる。

 ごめんねララノ。

 そういうのは別に頑張らなくていいから。

+++

 携帯してきた松明に火を灯し、警戒しながら洞窟の中へと入っていく。

 洞窟の中は思いの外広かった。

 天井が高く、ところどころにできている窪みから陽の光が差し込んできている。

 多分、あそこから入ってきた雨水で石灰岩が溶けてこの洞窟ができたのだろう。

 その証拠に、地下水が川になって流れている。

 流れている川の水は、赤紫色に変色していなかった。

 どういう理屈なのかはわからないけれど、汚染されていない土から滲み出てきた雨水が川になっているんだろう。

 その水のせいか、洞窟内は結構肌寒い。

 これは、天然の冷蔵庫として使えるかもしれないな。

「……何だか瘴気の匂いがします」

 先頭を歩くララノがそっと囁いた。

 瘴気特有のアンモニアに似た刺激臭。人間の僕には全く感じないけど、嗅覚が鋭い獣人のララノにははっきりと感じるようだ。

「どっちから臭ってるか分かる?」
「もちろんです。先導しますね」

 しんと静まり返った洞窟の中に、僕たちの足音だけが響く。

 歩けば歩くほど、天井は更に高くなっていく。

 こんな洞窟が敷地の下にあったなんて驚きだ。

 ひょっとすると他にも似たような洞窟があるのだろうか。

 モンスターが潜んでいたら大変なことになりそうだし、改めて敷地内を調査する必要がありそうだな。

「……グルルルゥ」

 などと考えていたそのときだった。

 洞窟の奥から、動物の唸り声のようなものが響いてきた。

 とっさに剣を構えるブリジット。

 僕も思わず腰の短剣に手を伸ばしてしまった。

「……今のは?」
「わ、わかりません。でも、声がした方から瘴気の匂いを感じます」

 緊張の面持ちでララノが答える。

 となると十中八九、モンスター。

 モンスターは瘴気があるところに現れる。この先に瘴気が溜まっている場所でもあるのだろうか。

 洞窟には時折毒ガスが滞留している「ガスだまり」があると言うし、そんなふうに瘴気が溜まっているのかもしれない。

 瘴気の中での戦闘を想定してララノたちにマスクを付けるよう促してから足を進めていると、ツンとした匂いが漂ってきた。

 マスク越しにもわかる瘴気の匂い。

 僕の鼻でもわかるということは、相当近いはず。

「グルルルルゥ」

 再び唸り声が聞こえた。

 今度は近い。

 辺りを見渡して声の主を探す。

 壁、岩陰……さらに天井を見上げたとき──。

「あれは……」

 せりあがった石灰岩の柱の上に、双頭の巨大な狼の姿があった。
「……オルトロス?」

 先日、ブリジットを襲ったモンスター、オルトロス。

 片方が潰れている真っ赤に燃えた瞳で見下ろすオルトロスは、牙を剥いてこちらを威嚇している。

 でも何だろう。なんだか既視感がある。

「あれは私を襲ったオルトロスではないか?」

 ブリジットは嬉々とした目で続ける。

「うむ。あの片目、間違いない」
「片目……あっ」

 そういえば、ブリジットを襲ったオルトロスも片方の目が傷でふさがっていたっけ。体毛も同じ黒色だし、間違いなくあのオルトロスだ。

「てことは、僕たちを追ってきたってことか?」

 ブリジットが襲われていたのは二日前。

 そこからずっと匂いを頼りに追いかけてきていたってことか。

 なんて執念深いヤツだ。

 こんなことになるなら、もっと痛めつけてやればよかったかな?

「ふふん。だが、これは前回の失態を挽回できる良いチャンスだな」

 ブリジットが満面の笑みを浮かべて剣を構える。

「きっちり私が引導を渡してやろうではないか」
「ちょ、ちょっと待って。ここは三人で一緒に──」
「必要ない! 今回は瘴気マスクもしているし、遅れを取る要因は皆無だ! サタ先輩たちはそこでのんびりお茶でも飲みながらくつろいでいてくれ!」

 僕の制止を振り切って、ブリジットがオルトロスに向かって走り出す。

 ララノに頼んで力づくで止めたほうが良いか?

 ──と考えたけれど、ブリジットに言われた通り傍観することにした。

 三人で一緒に、なんて言ったけど僕とララノには戦闘経験なんてないし、しゃしゃり出たらブリジットの足手まといになってしまう。

 ここは彼女に任せたほうが良い。

「でも、やばいと思ったらいつでも声をかけていいからな!」
「愚問だぞサタ先輩! 私がやばくなることなどあり得ない!」

 ブリジットが剣を振りかぶった瞬間、彼女の剣の鍔から激しい炎が吹き出した。

 彼女が持つ加護、魔法剣だ。

 その炎は瞬く間に剣の切っ先を覆い、まるで焼き尽くす獲物を探しているかのように荒々しく猛り狂う。

「まずはそこから降りてこい、モンスター!」

 炎を伴わせてオルトロスが見下ろしている石灰岩の柱を斬りつける。

 刹那、まるでバターでも切ったかのように柱が綺麗に真っ二つに断裂した。

「おお」
「す、凄いっ……!」

 僕とララノの口から同時に感嘆の声が出た。

 相変わらず、とんでもない破壊力だ。

「ガガウゥッ!」

 さすがのオルトロスも驚いたようで、崩れ落ちる柱の上から慌ててブリジットに飛びかかる。

「先日は瘴気のせいで遅れを取ったが、今回はそうはいかんぞ」

 ブリジットは華麗にサイドステップでオルトロスの爪を躱すと、前足に向けて剣を斬り上げた

 刹那、洞窟に鮮血が舞う。

「ギャウッ!」

 オルトロスは慌てて距離を取り、剣が届かない距離から爪を振り降ろす。

 しかし、その巨大な爪はブリジットの体にふれることすら出来ない。

 ブリジットはまるで舞いでも踊っているように華麗な身のこなしで攻撃を回避し、少しづつオルトロスとの距離を詰めていく。

 そして──。

「ここだっ!」

 ブリジットはオルトロスが爪を振り下ろしたタイミングを見計らい、体をくるっと反転させると剣をオルトロスの首元に突き立てた。

「……ギャ!?」

 ゴウと炎が唸ると同時に、オルトロスの悲鳴が上がる。

 ブリジットの剣は、見事オルトロスの喉元を貫いていた。

「これで……終わりだっ!」

 ブリジットは剣を振り抜き、オルトロスのふたつの首を根本から両断した。

 小柄な体のどこにそんな力があるんだ? と不思議に思ってしまうけど、これが魔法剣の威力なのだ。

 断面を燃え上がらせながら、オルトロスのふたつの首がボトリと地面へと落ちた。

 時間にして僅か十秒足らず。

 かっこよかったぞ、と賞賛を贈ろうとした──そのときだ。

 何が起きたのか、わからなかった。

 頭部を失ったオルトロスの巨体が横たわった瞬間、傷口からまるで煙幕のように凄まじい瘴気が吹き出したのだ。

「……っ!?」

 瞬く間にブリジットの姿が赤紫色の霧の中に消える。

 これはまずい。

 この瘴気の濃さは──間違いなく致死量を越えている。

「ララノはそこにいて!」
「サ、サタ様!?」

 すぐさま自分の体に俊敏力強化と筋力強化、それと瘴気マスクに免疫力強化をかけて瘴気の中に突っ込んだ。

「う……くっ」

 喉の奥に突き刺すような痛みが走る。

 濃度が濃すぎて瘴気が付与魔法をかけたマスクを貫通している。

 このままだと、すぐに手足の自由が効かなくなってしまう。

 そうなれば、あっという間にあの世行き。

 だけど、それはブリジットも同じだ。

 いや、僕よりも長い時間、瘴気にさらされているブリジットの方が危険。

 ゾッと背筋に寒いものが走る。

 瘴気の霧をかき分けて、ブリジットの姿を探す。

 横たわったオルトロスの死体の傍に、ブラウンのロングヘアが見えた。

「ブリジット……っ!」

 すぐに彼女を抱きかかえ、全速力で引き返す。

 俊敏力で脚力を上げているから、一瞬で離脱できるはず──だったが、走り出そうとした瞬間、視界が激しく揺れた。

 喉の痛みが激しくなり、四肢の感覚が無くなってくる。

 瘴気の毒が回ってきた。

 両手の力が抜けてブリジットを落としそうになったけど、必死に耐えてなんとか瘴気の中から抜け出した。

「げほっ……げほっ」
「サタ様!」

 涙で霞む目に、駆け寄ってくるララノの姿が映った。

「だだ、大丈夫ですか!?」
「ぼ、僕は大丈夫。でも、ブリジットが……」

 抱きかかえているブリジットは、ぐったりとしていた。

 手をギュッと握ったけれど反応はない。

 さらに呼吸も浅く、速かった。

 これは、完全に瘴気にやられてしまっている。

「早く家に運ぼう。すぐに処置をしないと」
「動物たちを呼びます! サタ様も動物たちの背中に!」
 家に到着してララノに水で濡らしたタオルを持ってくるよう頼んでからブリジットを二階の部屋へと運んだ。

 洞窟を出てから十分ほどが経つけれど、彼女の意識はまだ戻っていない。

 時折、苦しそうにうめき声を上げるくらいだ。

 ベッドに寝かせたブリジットの額に手を当てると、かなりの熱が出ていた。

 これは完全に瘴気による症状。

 かなり危険な状態だ。

「サタ様」

 部屋のドアが開き、ララノがタオルを持ってきた。

「水で濡らしたタオルをお持ちしました」
「ありがとう、助かるよ」

 とりあえず冷えたタオルをブリジットの額に当てる。

 気休め程度だけれど、何もしないよりはマシだろう。

「ブリジットさんの意識はまだ?」
「うん。時々目を覚ましてるけど、すぐに気を失ってる」
「街に行ってお医者様を連れて来ますか? 動物たちにお願いすれば半日程度でお連れできますが」
「ありがとう。けど、医者を呼んでも意味がないと思う」

 魔導院で瘴気に関する論文をたくさん読んできたけれど、瘴気の毒素にやられた人間の治療法は確立されていない。

 瘴気にやられた人間の治療が出来る医者は、この世界に存在しない。

 だからこそ、毎年多くの人間が瘴気によって命を落としているのだ。

 手足が軽く痺れる程度だったら自然治癒力でなんとかなる。だけれど、昏睡するくらいの重症では助かる可能性は極めて低くなる。

 ──だからといって、諦めるわけにはいかない。

「サタ様のお体は大丈夫ですか?」
「うん、僕は平気。少しだけ指先が痺れてるけどね」

 右手を握ってみたけれど、指の感覚はまだ鈍いままだった。

 この程度なら時間が経てば治るだろうけど、付与魔法で免疫力を向上させたマスクをしていても、あの短時間で瘴気にやられてしまうなんて。

 改めて瘴気の怖さを実感する。

 数ヶ月前にホエール地方を襲った「大海瘴」では、あのレベルの濃度の瘴気が広範囲に発生したというのだから恐ろしい。

「しかし、何か対処方法はないのか……」

 苦しそうな表情で眠っているブリジットを見て思う。

 怪我であれば「白魔法」でなんとかなるけれど、病気や瘴気に対しては無力。

 この世界の医療技術でヒントになるものはないだろうか。

 中世ヨーロッパでも行われていた血を排出させて症状の改善させる「瀉血」や薬草を使った民間療法がこの世界の主な医療だ。

 だけれど、その分野に詳しいのはブリジット。

 その彼女がこの状態ではどうにもならない。

 やっぱりララノに頼んで街から医者を呼んできてもらったほうがいいかもしれない。

「あの、参考になるかわかりませんけれど」

 と、前置きを入れてララノが声をかけてきた。

「私の集落で瘴気を吸い込んでしまったときはハーブをたくさん食べていました」
「ハーブ?」
「はい。キャラウェイにディル、バジルとかですね。どれも薬に使えるもので、体内にある『悪いもの』を除去する効果があるんです。獣人は元々瘴気への耐性が高いので効果があっただけかもしれませんけれど……」
「悪いものを除去、か」

 確かにハーブには老廃物を排出させる効果があったり、殺菌力や炎症に効果があるものもある。

 そういう効果を利用して瘴気の症状を中和させるって感じなんだろう。

「つまり、ブリジットが吸い込んで体内に蓄積されてしまった瘴気をどうにか浄化してあげれば助かる可能性が高いってことか」
「浄化……あっ」

 ララノが何かを思いついたようにポンと手を叩いた。

「サタ様が私を助けていただいたときのこと、覚えていますよね?」
「助けた? って、アーヴァンクに襲われていたときのこと?」
「そうです。あのとき、サタ様の料理を食べて体調が良くなったのですが、あれって疲労回復じゃなくて、私の体に溜まっていた瘴気が浄化されたってことはないですかね?」

 しばし記憶をたどってみる。

 僕と出会う前、ララノは食べ物を探して放浪していた。

 だけど、瘴気が降りた不毛の地で食べ物なんて見つからず、飢えを凌ぐために仕方なく瘴気に汚染された水を飲んでいた。

 ララノの話だと、獣人は獣の血が流れているために瘴気に強い。

 だけれど、動物と違って無症状でいられるというわけではない。

 つまりあのとき、ララノはただ腹をすかせて衰弱していたのではなく、瘴気によって弱っていた。

 そして彼女は、僕の付与魔法で作った野菜を食べて体の中に溜まっていた瘴気を浄化して元気になった。

「……あり得ない話じゃないか」

 根拠があるわけじゃないけど、辻褄は合ってる。

 種子や土壌に付与した魔法によって偶然「合わせ付与」が発生して、瘴気の浄化作用が現れた可能性はある。

 とするなら、ララノに食べさせた野菜を使えば、浄化効果は再現できるかもしれない。

「……よし、あのときと同じ料理を作ってみよう。僕は料理の準備をするから、ララノは畑から野菜を採って来て欲しい」
「わかりました! すぐに!」

 ララノと部屋で別れて、僕は一階のキッチンへと向かう。

 あのときララノに食べさせたのは、サラダに野菜スープ、それとトウモロコシだったっけ。

 どの野菜に浄化作用があるんだろう。

 そういえば、ラングレさんのブドウから作ったワインで「病気が治った」という話もあったし、そこから共通点を探ってみるか。

 ブドウ園でやったのは濾過器への付与だ。

 濾過器は僕の農園でも使ってるし、第二属性の水を司る「水属性」が深く関わっているかもしれないな。

「……てことは、野菜スープか?」

 スープに入っていたものはジャガイモ、ダイコン、干し肉、ニンジン辺りだったか。どれも俊敏力強化で成長促進させて収穫した野菜だ。

 つまり水属性への持久力強化、免疫力強化、それと俊敏力強化。

 さらに種子への生命力強化、免疫力強化、俊敏力強化で瘴気浄化の合わせ付与が発動する……のかもしれない。

 ララノが戻って来る間に、水の準備をすることにした

 家の外にある濾過器から出てくる水を汲んで、念の為にもう一度付与魔法をかけておく。

 キッチンに戻ると、丁度ララノが畑から戻って来た所だった。

 採ってきてくれたのは、主に俊敏力強化で成長を促進させている野菜たち。

 早速彼女にも手伝ってもらって、ジャガイモ、ダイコン、ニンジンの皮むきをはじめる。ジャガイモはひとつ、ダイコン三分の一、ニンジンは半分。

 それを沸騰させた鍋の中に入れて、干し肉とバターを投入。

 しばらくグツグツと煮込んで、塩とコショウを振って完成だ。

 早速、器に入れたスープをブリジットの部屋に運ぶ。

 意識が戻っていないのでブリジットの上半身を起こし、スプーンを使って少しづつ食べさせることにした。

 野菜はホロホロなので、スプーンで潰してスープと一緒に。

 上手く食べさせることができるかと不安になったけれど、なんとか飲み込んでくれた。

「……どうだ?」

 とりあえずスープの半分ほどを食べさせてからベッドに寝かせる。

 予想が当たっていれば、これで効果が出るはず。

 できることはやった。あとは神様に祈るのみ。

 しばしベッドの傍で、ララノとブリジットの容態を静観する。

 そうして五分ほどが経ったときだ。

「……あっ」

 ララノが声を上げた。

「見てくださいサタ様! なんだかブリジットさんの顔色が良くなってきてないですか!?」
「…………」

 じっとブリジットの顔を見る。

 そう言われると、さっきまで蒼白だった顔色に少しだけ血色が戻って来たような気がする。

 これはもしかして付与魔法が効いてきたのか?

 そっと額に手を当ててみると、明らかに熱が下がっていた。

 さらに浅かった呼吸が深くなり、苦しそうだった表情も少しづつ和らぎはじめる。

「やったぞ! 付与魔法の効果が現れたみたいだ!」
「良かった! 本当にサタ様の付与魔法に瘴気浄化の効果があったんですね!」
「効果に気づいてくれたララノのお手柄だ。本当にありがとう」
「……えっ!? や、わっ、私は何も」

 ブンブンと顔を横に振るララノだったが、尻尾はちぎれんばかりに揺れていた。

 しかし、とりあえずはこれで一安心だ。

 安静にさせておけば、じきに目も覚ますだろう。

 ああ、ホッとしたからか、なんだか急に疲れが出てきた。

「僕たちも野菜スープ食べておこうか。瘴気が体内に残ってるかもしれないし」
「そうですね」

 ララノの顔にも疲労の色が窺える。ただの気疲れかもしれないけど、瘴気によるものだったら大変だ。

 そうして僕たちは、ブリジットの部屋で彼女を見守ることにした。

 ブリジットが目を覚ましたのは、それから二時間ほどが経ってからだった。
 オルトロス事件から二日が経った。

 一時はどうなることかと思っていたブリジットだけど、すっかり回復して元気になっていた。

 むしろ前よりもエネルギッシュになっている雰囲気すらある。

「サタ先輩っ!」

 収穫を終えたトマトの撤去をしていると、家の方から猛烈な勢いでブリジットが走ってきた。

「頼まれた薪割りは終わったぞ!」
「……え? もう?」

 農作業に出る前に薪割りをお願いしたのだけれど、まだ十分も経っていない。

 動物たちが山から持ってきた丸太は十本くらいあったし、流石にこの時間で終わらせるのは無理じゃないか?

「十本全部?」
「もちろんだ」
「ちょっと凄すぎませんか?」

 気のせいかと思っていたけど、やっぱり前よりパワフルになってる。

 これも瘴気浄化の合わせ付与の効果なのかな?

「あの洞窟での事件があってから、体の奥から力が湧き出てくるのだ。これもサタ先輩の付与魔法で作った作物の効果だろうか?」
「いや、僕の付与魔法っていうより瀕死の状態から回復したから戦闘力がアップしたんじゃないかな?」

 ほら、某漫画の戦闘民族みたいにさ。

 ブリジットなら有り得そうじゃない? 

「……? すまない、どういうことなのだろう?」
「なんでもないから気にしないで」

 そんなネタ、解るわけないよね。

「それじゃあ、収穫を手伝ってくれる?」
「ああ、お安い御用だ」

 ブリジットにナイフを渡して収穫をお願いして、僕はキュウリの摘芯作業をやることにした。

 摘芯作業は伸びてきた脇芽を切る作業で、摘芯をすることで上に伸びていこうとする栄養を実の成長に回すことができる。

 これ如何で収穫量が大きく変わる、とても大事な作業だ。

「しかし、なぜオルトロスの体から瘴気が吹き出してきたんだろうな?」

 ピーマンとシシトウを収穫しながら、ブリジットが尋ねてきた。

「そんな話は魔導院でも聞いたことがなかったが」
「そうだね……」

 院の職員は呪われた地に赴くことを禁止されているが、一方で王国各地から様々な情報が流れてきていた。

 瘴気が人体に与える影響。

 作物を枯れさせる時間。

 食べ物を介した瘴気の二次感染。

 だけれど、「モンスターから瘴気が出た」なんて話は一度も聞いたことがない。

「あの状況から推測するに、オルトロスの体内に尋常じゃない量の瘴気が溜まっていて、死んだことでそれが解放されたんじゃないかな?」
「しかし、あの量の瘴気を体内に蓄積していたら、普通は生きていられないぞ?」
「まぁ、普通ならね」

 相手は普通じゃないモンスターなのだ。常人なら一瞬で死んでしまう量の瘴気を抱えていてもなんら不思議じゃない。

 それに、モンスターは瘴気に耐性がある動物や亜人だったという推論が当たっているとしたら、十分あり得る話だ。

「何にしても、今回の件で瘴気を浄化できることがわかったのは収穫だったよ」
「そうだな。先輩が今回の件を論文にまとめてみてはどうだろう?」
「やらないよ。僕はもう研究者じゃないんだし」
「……そうか」

 ブリジットの声には、どこか落胆の色が見えた。

 その話はそこで終わり、僕たちは黙々と作業を続けた。

 一時間ほどで収穫と摘芯作業を終え、大量の野菜を持って自宅へと帰る。

 採れた野菜は家の地下にある貯蔵庫に運ぶことにしている。

 ララノも知らなかったみたいだけど家の地下に小さな部屋があって、そこを貯蔵庫として利用しているのだ。

 地下なので陽が当たらず、湿気もないので野菜の保管に最適な環境なんだよね。

「……そういえば、どうするの?」

 野菜を貯蔵庫にしまっているとき、ふと思い出してブリジットに尋ねた。

「どう、とは?」
「いつまでここにいるのかなって」

 ブリジットの今後については、オルトロス事件があったので保留になっていた。

 結局、開くつもりだった晩餐もまだだ。

「もちろん、ずっといるつもりだが?」

 当たり前のことを聞くな、と言いたげに即答するブリジット。

「本気で院には戻らないつもりなの?」
「何度も言っているが、サタ先輩が院に戻るというのなら一緒に帰るぞ」
「…………」

 やっぱり平行線。

 う〜む。どうやって説得すればいいのだろう。

 叱りつけて追い返すことはできるけど、そんなことはしたくないし。

 結局、このときも彼女を説得できる妙案は浮かばなかった。

 重い足取りでリビングに戻ると、ララノがお昼ごはんの準備をしてた。

 そうだ。ララノに協力してもらおう。

 ブリジットのおもてなしをすることには賛成してくれたけど、滞在することには否定的な感じだった。

 面と向かってララノに拒否されたら流石に引き下がるかもしれない。

「ララノ、ちょっといいかな?」
「……はい? なんでしょう?」

 ララノが料理の手を止めて首をかしげる。

「ブリジットの件なんだけど、キミはどう思う?」
「ブリジットさんの件?」
「この農園に住みたいって話しだよ。ブリジットをもてなす話はしてたけど、ここに住ませるかどうかの話はしてなかったじゃない? だからララノの意見を改めて聞きたいと思ってさ」
「そうですね……」

 そう言ってララノはしばし天井を見上げて考える。

 僕たちの間をグツグツと煮込みの美味しそうな音だけが流れる。

「私は居候なので偉そうに言える立場ではありませんが、ブリジットさんがここに住みたいというのなら歓迎したいと思います」
「……えっ?」

 予想外の返答だった。

「い、いいの?」
「もちろん構いませんよ。はじめは少し嫌だなって思ってましたけど、でも、地位も名誉も擲って追いかけてきた人を追い返すのって、なんだか可哀想じゃないですか」
「ラ、ララノ……っ!?」
「……ひゃいっ!?」

 ブリジットが柱の陰から飛び出してきて、後ろからララノをハグした。

 どうやら聞き耳を立てていたらしい。

「ちょ、ちょっとブリジットさん!?」
「すまない、私はお前のことを酷く勘違いしていたようだ。てっきりララノは私の敵だと思っていた」
「て、敵!?」
「そうだ。私とサタ先輩の恋路を邪魔する、いわゆる『恋敵』だ」
「こっ、恋っ……ちちち、違いますからっ! あと離れてくださいっ!」
「あ、以外と尻尾がもふもふしていて気持ちいいな」
「く、くすぐったいですってば!」

 怒っているのかボワッと膨れているララノの尻尾にブリジットが顔を埋める。

 少しだけ僕もやりたい。

「と、とにかくですね!」

 ララノは尻尾をモフられながら、続ける。

「ブリジットさんが農園で暮らしたいというのなら、私は反対なんてしません。でも、この農園の主はサタ様なので、サタ様のお気持ちを優先させてください。もしブリジットさんを追い返したいと仰るなら、私はその意見に賛成します」
「……なっ!?」

 ブリジットがララノの尻尾の中でギョッとする。

「や、やはり貴様は敵だったのか!?」
「だから違いますってば! というか、尻尾から離れてくださいっ!」

 やいのやいのと騒ぎ出すブリジットとララノ。

 そんな彼女たちをよそに、僕はララノに言われたことを静かに考える。

 僕の気持ち、か。

 そう言えば、一番大事な部分を深く考えていなかったな。

 ブリジットに「ここに住ませて欲しい」と言われたとき、彼女の使命や周りの事ばかり考えていた。

 周りのことは一旦忘れて、僕自身はどう思っているのだろう。

 僕は一体、どうしたい?

 一番大切なのは、僕の気持ちだろう。

「……わかったよブリジット」

 結論は、意外とあっさり出てきた。

「キミを歓迎しよう」
「……っ!?」

 そう答えた瞬間、ブリジットが猛烈な勢いで詰め寄ってきた。

「ほっ……ほ、ほ、本当か!?」
「ただし、キミにもちゃんと農作業とか手伝ってもらうからね? まぁ、仕事ってわけじゃないから、のんびりやってもらっていいんだけど」
「ああ、もちろんだとも! 私のことは奴隷だと思ってこき使ってくれ!」
「いや、だからのんびりやってもらって大丈夫だって言ってるじゃない」

 僕の話をちゃんと聞いてくれ。

 それに、やんごとなき名家のご令嬢をこき使えるわけないでしょ。

 デファンデール家の人たちに知られたら殺されてしまう。

「とにかく。ええと、改めてよろしくね、ブリジット?」
「……ふおぉっ!?」

 握手しようと手を差し出したら、両手でがっしりと掴まれた。

 馬鹿力で掴まれたのでちょっと痛い。

「サ、サタ先輩っ! こっ、こっ、これはプロポーズの言葉として受け取っていいやつかっ!?」
「全然よくない」
「なわけないでしょ」

 ウザすぎる勘違いに、僕とララノが同時に突っ込んだ。

 う〜ん、どうしよう。

 つい許可しちゃったけど、やっぱりブリジットには王都に帰ってもらったほうがいいかもしれないな。
 猛暑も影を潜め、夕方になると時折、心地良い涼しい風が窓から流れこむようになってきた。

 日本だと、そろそろヒグラシが鳴く季節。

 異世界アルミターナには「暦」というものが存在しないけれど、多分、立秋あたりだろうか。いや、雰囲気的にもう過ぎているかな?

 ブラック企業に勤めていたとき、休憩時間にボーッと日本の暦を見たりしていたけれど、立秋はお盆前くらいだったっけ。

 この時期の旬の野菜はトウモロコシ。

 トウモロコシは収穫後、一日で甘さも栄養価も半減するのでその日のうちに食べてしまうのが鉄則だ。

 とはいえ、その鉄則は魔法がない現代での話。

 自宅の地下に保管している大樽三つ分ほどのトウモロコシは、「生命力強化」の付与魔法を定期的にかけているおかげで、一週間経った今でも採れたての美味しさを維持している。

 トウモロコシだけではなく、夏野菜のキュウリやトマトも食べきれなかった分は付与魔法をかけて保存している。

 一方の畑では、夏野菜が終わって秋野菜の準備をはじめている。

 キャベツ、ブロッコリー、赤ダイコンにミズナ、ニンジン、カブ、ホウレンソウ、ロマネスコなどなど。

 畑は更に拡張され、畝の数は今や五十を越えた。

 この数になるとちょっと管理が大変かなと思ったのだけれど、動物たちの協力や肉体派のブリジットの加入おかげで意外と苦労なくこなせている。

「……う〜む」

 まだ朝露が消えきっていない、一日が始まったばかりの農園。

 広大な畑で何やら難しそうなブリジットの声が聞こえた。

 ロマネスコの苗を植えていた僕は手を止めて、声がしたほうを見る。

 ブリジットは畑の一角──彼女に「自由に使っていいよ」と貸している畝──で首を捻っていた。

「どうしたの?」
「いや、どうにも上手くいかなくてな」
「……上手くいかない?」

 もしかして野菜でも育ててるのかな。

 そう思って覗いてみると、ブリジットの足元に枯れてしまった苗のようなものがあった。

 これはブロッコリーの苗?

「それ、ブリジットが植えたの?」
「ああそうだ。サタ先輩の付与魔法の効力を再現できないかと錬金術で精製したポーションで土壌改良してみたのだが……この有様だ」

 ブリジットが言うには、錬金術で精製した「成長薬」と「強化薬」のポーションを土に混ぜて耕し、そこにブロッコリーの苗を植えたらしい。

 成長薬はその名の通り植物の育成促進に使うポーションで、強化薬は身体能力強化に使うポーションだ。

「魔導院でやったときはこのふたつを使えば、一定の成果が見られたのだがな」
「院に運ばれてきた土の瘴気度が低かったとか?」
「その可能性はある。だが、それを見越してミズノハとガジュを多めに使ってポーションを精製してみたのだ」
「ミズノハ? ガジュ?」
「成長薬の効力を高める効果がある霊草だ。大変希少な薬草で、これを使った成長促進薬を使えば、養分が乏しい痩せた土でも作物が育つ」
「なるほど。ポーションを使って作物に多くの栄養を与えれば、瘴気の毒素をある程度跳ね除けられるかもしれないって考えたわけか」
「おお、流石はサタ先輩。そのとおりだ」

 確かにいいアイデアだとは思う。

 だけど、結果は失敗。痩せた土でスクスク育つほどの栄養を与えても、瘴気の毒素を退けることはできなかった。

「しかし、改めてサタ先輩の凄さを実感したぞ。最高級の薬草を使ったポーションでも無理なことをさらっとやってのけるなんて」
「凄いのは僕じゃなくて付与魔法だけどね」

 野菜の知識もアマチュアに毛が生えた程度のものだし。

 ブリジットは院を辞めたけれど、錬金術と瘴気に関する研究は続けるようで、こうして農作業の傍らで実際に作物を育てながら実証研究をしている。

 今のところ失敗続きだけれど、すぐに成功させるに違いない。

「……ん? そういえば今日の収穫物はないのか?」

 畝の傍に置いてある空の荷車を見てブリジットが尋ねてきた。

「そうだね。ちょっとだけシシトウが残ってるから、それを採るくらいかな。ロマネスコの苗も植え終わったし、残りの収穫をしたら今日の作業は終わりだ」
「なるほど。ちなみにサタ先輩の午後の予定は?」
「ん〜、特に決めてないよ。農具のメンテナンスをして部屋でホエールワインでも飲みながらひとりでのんびりしようかな」

 先日、ラングレさんのブドウ園に行ったときにパルメザンに寄ってホエールワインを樽買いしてきたのだ。

 街に流通しているのは三番煎じの安物ワインだけど、それでも十分美味い。

「それはいい考えだな。実に贅沢な時間の使い方だ」
「だよね。燻製チーズもあるし、つまみもバッチリなんだよね」
「素晴らしい。では、お昼ご飯を食べたらサタ先輩の部屋に集合だな」
「オッケー。じゃあ、僕はブリジットのワインを用意……って、なんで来ようとしてるの?」

 危なく了承するところだった。

 ひとりでのんびりするって言ってるのに、さらっと混ざろうとするんじゃない。

「別に構わないだろう? 私のことは置物だと思えば十分のんびりできる」
「その置物、絶対にウザ絡みしてくる」
「分かった分かった。では、ホエールワインの飲み比べで先に酔いつぶれたほうが何をされてもいいというゲームをやろう」
「のんびり要素はどこに行ったの?」

 それに、僕を酔い潰して何か変なことしようと企んでるでしょそれ。絶対やりたくない。

 というか、いつも思うけどブリジットって本当に心が折れないよね。そういう話を振られるたびに突き放してるのに。

 呆れたような感心したような複雑な感情を抱きつつ、不屈の心を持つブリジットを連れて家へと戻った。

 まずは地下の貯蔵庫に収穫したシシトウを保管してから一階のリビングへ。

 ハクビシンやウサギたちがくつろいでいるリビングを見て、改めて随分と雰囲気が変わったなぁと思った。

 小洒落た革のソファーに、落ち着いた絵柄のカーペット。

 白樺の木で作られた棚にテーブル。

 動物たちが作ってくれたものと凄くマッチしているこれらのお洒落な家具は、少し前にパルメザンで注文したものだ。

 それが先日ようやく届いたのだけれど、ぐっと素敵度が増した。

 我ながらナイスチョイスだったな。

「……あっ」

 と、何やら動物たちとテーブルの上を見ていたララノが僕たちに気づく。

「お疲れ様です。サタ様、ブリジットさん」
「お疲れ様。何を見てるの?」
「これですよ」
「……あっ、キノコ?」

 ララノが手にとったのは、まんじゅうみたいな傘がついた実においしそうなキノコだった。

 テーブルの上のカゴには、大小様々なキノコが山盛りになっていた。

「それって何ていうキノコなの?」
「こっちがパルチーナにダロール、この木の実みたいな見た目のキノコがマリーヌですね」
「……へぇ」

 つい気の抜けた返事をしてしまった。

 聞いてみたは良いものの、全く知らない名前だった。

 多分、同じキノコでも現代とは名前が違うんだろうな。ダロールと言ってたキノコの見た目は椎茸っぽいし。

「食べられるんだよね?」
「もちろんです。特にパルチーナはパスタ料理にも使えて、すっごくおいしいんですよ」
「パルチーナは私が大好きなキノコのひとつだ」

 健啖家ブリジットが、ここぞとばかりに会話に混ざってくる。

「パルチーナはパスタと混ぜても美味いが、リゾットにしてもうまいぞ。パルチーナの甘い香りと凝縮された旨味が絶品なのだ。ワインともよく合う」
「あ〜、いいですねパルチーナリゾット……」

 ララノがキノコ片手にうっとりとした顔をする。

 彼女も意外と健啖家だからな。

 そんなララノにふと浮かんだ疑問を投げる。

「でも、そんなにたくさんのキノコをどこで手に入れたの?」
「オルトロスがいたあの洞窟ですよ」
「……え?」

 あの瘴気が発生してた洞窟?

 そんなところにキノコが生えてたの?

 というか、ララノはそんな所で何をやっていたんだ?

「……あっ」

 僕の胡乱な視線に気づいたララノが慌てて続ける。

「ちち、違います。このキノコを見つけたのは私じゃなくて動物たちですよ? ほら、動物たちに農園の見回りをしてもらっているじゃないですか。それで洞窟にキノコが生えている苗木を見つけたみたいで」
「ああ、そういうことか」

 ホッと一安心。

 てっきりララノがひとりで洞窟探索したのかと思っちゃった。

 あのオルトロス事件があってから、動物たちに敷地内の巡回をお願いしている。

 また危険なモンスターが農園に居座っちゃったら面倒だし、気づかないうちに洞窟から瘴気が噴出してました──なんてことになったら大変だ。

 でも、問題を発見する前にキノコの苗木を発見するなんて素敵すぎるな。

「しかし、苗木かぁ」

 生前にベランダ菜園と一緒に、原木の椎茸栽培をやったことがあった。

 椎茸は栄養を与え続けると半永久的に収穫ができると聞いてやったんだけど、上手く行かずに失敗したっけ。

 失敗してから解ったんだけど、原木の広葉樹の中に含まれる栄養素が菌に回らずに失敗することがあるらしい。

「……ん? てことは付与魔法を使えばいけるのかな?」

 成長促進の「生命力強化」と、育成速度を上げる「俊敏力強化」あたりを付与すれば栄養素が菌にしっかりと行き届くかもしれない。

 いや、魔法を使わなくてもブリジットの「成長促進薬」で事足りそうだな。

 物は試しだ。あとでブリジットを連れて洞窟に行ってみて──と、考えていたら誰かのお腹が盛大に鳴った。

「ふふ……私だ」

 ドヤ顔でブリジットが名乗り出る。

 実に清々しい。

 いや、別に良いんだけど、キミは名家のご令嬢なんだしもう少し恥じらいを持ったほうがいいんじゃないかな?

「……ふふっ」

 そんなブリジットを見て、ララノが楽しそうにクスクスと小さく肩を震わせる。

「ブリジットさんもだいぶお腹が空いているみたいですし、お昼はこのパルチーナを使ったリゾットにしましょうか」
「本当かララノ! 是非お願いしたい!」

 目を爛々と輝かせるブリジット。

 ララノみたいに尻尾があったら、嬉しそうに振り回してそうだ。

「ではブリジットさんは濾過器からの水汲みと、お皿の準備をお願いします」
「承知した!」
「サタ様は……料理を手伝っていただけますか?」
「もちろん」

 この家に住みはじめてから、ララノの料理の手伝いをすることが増えている。

 ──と言っても、僕の料理の腕を見込まれて……なんて理由じゃなくて消去法で僕になっただけだけど。

 ブリジットに頼むと、食材をバラバラにしちゃうのだ。

 早速、山盛りキノコのカゴを持って、ララノとキッチンへと向かう。

「作るのはリゾットだけ?」
「そうですねぇ……それだけじゃ寂しいので、シンプルにダロールを焼いた『ダロールステーキ』と、マリネサラダも作りましょうか」
「ダロールステーキ……」

 なんとも美味そうな響きだ。

 ダロールは見た目が椎茸っぽくてボリューミーだし、バターと一緒に焼くだけで凄く美味しくなりそうだ。

 というわけで、ララノがリゾットを作り、僕がダロールステーキとマリネサラダを作ることになった。

 早速かまどに火を灯し、フライパンが温まる間にダロール石づき──軸の先にある硬い部分──を切り取って、傘の部分に切り込みを入れる。

 温まってきたフライパンにオリーブオイルを薄く伸ばし、ダロールを投入。

 さらにバターを入れて蓋をして、じっくりと蒸し焼きする。

 すぐに美味しそうなキノコが焼ける音と芳ばしい香りが漂ってきた。

 その香りに食欲を刺激されながら、ララノに何気なく尋ねる。

「毎回思うけど、ララノって本当にレシピの幅が広いよね。獣人ってみんなララノみたいに料理が得意なの?」
「そういうわけじゃないですよ。集落に住んでいた人たちは、狩ってきたシカやイノシシばかり食べてましたし。料理が好きなのは私だけでした」
「そうなんだ。じゃあ、料理は独学で?」
「ほとんどレシピ本ですね。子供の頃、家族でパルメザンに行ったときに料理のレシピ本を買ってもらったんです」
「おお、それは凄いな。レシピ本って料理人が読むやつだよね?」
「そうですね。ちょっと値が張りましたけど、すごく勉強になりました」

 王都にも書店はあったけど、本を買うのは職人か暇を持て余している富裕層というのがお決まりだった。

 というかララノって文字が読めるんだな。

「プロの料理人並に料理が作れるなら、そのうち敷地内にお店でも開いちゃう?」

 そう尋ねると、ララノは首をひねった。

「お店?」
「ララノの料理が食べられるお店だよ」
「……えっ! 本当ですか! すごく楽しそう!」
「まぁ、農園に来るお客さんなんてプッチさんくらいだから商売にはならないとは思うけど」

 あまり客が来ないほうがのんびりできるから、そっちのほうが良いかな?

 そういう所から噂になれば、ララノの家族の耳にも届くかもしれない。

「……ワウっ」

 リビングにやってきた狼が小さく吠えた。

「え? 馬車?」

 ララノが小首を傾げる。

 どうやら、今の鳴き声で内容がわかったらしい。

「サタ様、どうやら敷地内に馬車がやってきたみたいです」
「馬車? プッチさんかな?」

 プッチさんは定期的に農園にやってきて、農園の野菜を買い取ってくれたり必要な物資を卸してくれる。

 前回から結構時間が経っているし、彼女がやってきたのかもしれない。

 そう思ったのだが──。

「いえ、プッチさんじゃなさそうです」
「……え、違うの?」

 狼曰く、どうやらプッチさんとは違う匂いがするらしい。

 嗅覚が鋭い狼が言うのだから間違いない。

 とすると、誰だろう。

 プッチさん以外で農園にやってくる馬車なんて、運び屋ギルドくらいのものだけれど。

 などと首を傾げていると、馬車が家の前に停まるのが見えた。

 とりあえず出迎えたほうが良いかと、ララノと一緒に玄関先に出る。

 馬車は人を運ぶ乗用馬車ではなく、荷物を運ぶ荷馬車だった。

 ということは、商人さんかな。

「あっ……!」

 御者台に座っている男性を見て、声が出てしまった。

 ふくよかな体格に優しそうな顔。

 そして、一番特徴的な、ふさふさとした眉毛。

「お久しぶりです、サタ様」
「サ、サクネさん?」

 馬車から降りてきたのは、以前にパルメザンの街のあれこれを僕に教えてくれたサクネさんだった。
「いやいや、本当にご無沙汰しております」

 馬車から降りてきたサクネさんが嬉しそうに僕の手を握ってきた。

 本当にご無沙汰だ。

 サクネさんと別れてから何度もパルメザンに行っているけど、結局一度も顔を合わせていない。連絡手段がないので会えなくて当然といえば当然だけど。

「ええと、そちらの方は……サタ様の奥方様ですか?」
「ちっ、違うます!」

 ピンと耳を立てるララノ。

 ララノさんってば、慌てすぎて噛んじゃったよ。

「彼女はララノ。元々はこの近くの集落に住んでいて、今は農園を手伝ってもらっているんです」
「おお、そうでしたか。これは失礼なことを」
「い、いえ、失礼なことなんて何も。むしろ光栄というか」
「……はい?」

 光栄って何が?

 首を捻っていると、ララノは顔を真っ赤に染めて続ける。

「そ、そんなことよりも、この方を紹介していただけますか?」
「あ、そうだね。この方はサクネさん。王都からパルメザンに向かってる途中で偶然知り合って街まで送ってもらったんだ。あ、ほら、街でホエールワインが飲める居酒屋を教えてもらった人って言えばわかるかな?」

 そう説明すると、ララノは「ああ、あの方ですね!」と手を叩いた。

 パルメザンでホエールワインが飲めているのはサクネさんのお陰なのだ。

「サクネさんとはあれ以来なので、二、三ヶ月ぶりくらいですかね?」
「もうそんなに経ちますか。いやはや、時間が流れるのは実に早いものですね」
「全くです」

 でも、凄く充実した穏やかな数ヶ月だった。

 オルトロス事件は少し肝を冷やしたけど。

「噂でサタ様の活躍は伺っていますよ。なんでも廃業寸前のブドウ園を救ったとか?」
「え、そんな噂が流れてるんですか?」
「はい。王都からやってきた学者先生がブドウ園を再生させて、多くの関係者を救ったと」
「お恥ずかしい限りです」
「何をおっしゃいます。誇るべき偉業じゃないですか」

 ニッコリと微笑むサクネさん。

 ああ、その笑顔に癒やされる。

「それで、どうしてサクネさんがここに?」
「ああそうでした。実は、プッチさんから言付けを頼まれましてね」
「え? プッチさんに?」
「はい。実は私とプッチさんは以前に同じ商人組合に所属していたことがありまして、今でも交流があるんですよ」

 商人組合は商人同士が相互に扶助しあう組織のことだ。

 商会と個人で取り引きできるような実績を持っていない商人は、組合の後ろ盾を使って商売をする必要がある。

 プッチさんは組合に所属していないフリーの商人だと言っていたので、フリーになる前にサクネさんと同じ組合にいたのだろう。

「そうだったんですね。それで、プッチさんは何と?」
「はい。『いつもの倍の額で買い取るので、規定の作物を持ってパルメザンに来てくれませんか』とのことです」
「……街に?」

 流石に訝しんでしまった。

 これまでそんなお願いをされたことはない。

 何か街を離れられない事情があるのだろうか。

「何かあったんですかね?」
「プッチさんに何かあったというわけじゃないと思います。プッチさんだけじゃなくて、私を含めて商人はてんやわんやになっていますからね……」

 小さくため息を漏らすサクネさん。

 一体、どういうことだろう。

 不思議に思っていると、サクネさんは言いにくそうに続けた。

「サタ様に隠していても仕方ないのでお話しますけれど、実は先日、パルメザンに瘴気が降りたんですよ」
 前回パルメザンに来たのはラングレさんのブドウ園の仕事のときだったので、約一週間ぶりになる。

 前に来たときは街の様子に変化はなかった。

 「栄華を極めた宝石都市」なんて言われていた頃のパルメザンを知る人間からすると寂れた印象を持つのかもしれないけれど、その時もいつも通りに人が行き交い、適度な賑わいを見せていた。

 だから、激変してしまった街の様子に言葉を失ってしまった。

 まず目につくのは、半壊した建造物の数々。

 街を守る巨大な門は崩れ落ち、馬車や人が行き交っていた舗装された道には瓦礫が積み上がっている。

 街の中心を通る大通りに並ぶ建物の被害はさらにひどく、倒壊した家屋からは今も煙が登っている。

「……モンスターですか?」

 荷台からサクネさんに尋ねた。

 彼は無言でうなずく。

「丁度街を離れていたので実際に見たわけではありませんが、瘴気が降りると同時に十匹ほどのモンスターが現れたそうです。すぐに冒険者さんたちが対処にあたったらしいのですが、突然すぎて被害が拡大してしまったようで」

 冒険者というのは王宮魔導院・護国院の下部組織、「冒険者協会」に登録している傭兵たちのことだ。

 世界中の街には「冒険者ギルド」という出張所があって、冒険者はそこでモンスター討伐や素材採取などの依頼を受けている。

 街にモンスターが現れて、領主パルメ様が討伐依頼を発注したのだけれど、手続きをしている間に被害が拡大してしまったらしい。

「……クソっ、歯がゆいな」

 荷台で街の様子を見ていたブリジットが顔をしかめる。

「こんな惨劇が近場で起きていたなんて。私が街にいれば被害を抑えることもできたはずなのに」
「悔しいけど仕方ないよ。近場って言っても馬車で二日はかかる距離なんだし。それに、サクネさんが農園に来たときはもう襲われた後だった」

 サクネさんから話を聞いた僕たちは、一刻も早くパルメザンに行きたかったけれど、しっかりと準備をしてから向かうことにした。

 プッチさんは「街に来ないで欲しい」じゃなく、「農作物を持って街に来て欲しい」と頼んできたのだ。

 彼女が僕の作物を必要としている可能性は高い。

 だとしたら農作物を多めに用意して万全の準備で街に向かうべき。

 そう思って、ブリジットやララノにも同行をお願いしたのだけれど──。

「…………」 

 鎮痛の面持ちで街の様子を見ているララノの姿が目に映った。

 やっぱり彼女は農園に残しておくべきだったかもしれない。

 なにせララノは故郷を瘴気によって壊滅させられてしまったのだ。

 瘴気やモンスターによって破壊された街を見たら、辛い記憶が蘇ってしまうかもしれない。

「……大丈夫?」

 声をかけると、ララノはハッとして笑顔を覗かせた。

「は、はい、平気です」

 しかし、その声はいつもよりも弱々しい。

 何か彼女を元気づけられる方法はないかと考えたけれど、そんな気の利いた言葉は浮かばなかった。

 ガラガラと馬車の音だけが僕たちの間に流れる。

 馬車がゆっくりと止まったのは、見覚えのある建物の前だった。

 麦と硬貨の紋章が入った旗が掲げられた、お城のような立派な建物。

 以前に一度だけ来た、リンギス商会の商館だ。

「ここにプッチさんがいます」

 御者台からサクネさんが声をかけてきた。

「荷はプッチさん名義で商会の荷揚げ夫に預けておきますので、後で職員に声をかけてください」
「わかりました。助かります」
「私もしばらく街に居ます。広場にある宿屋に部屋を取っているので、何かありましたらいらっしゃってください」
「ありがとうございます」

 わざわざ農園まで来てくれたサクネさんに重ねて礼を伝えて、僕たちは馬車を降りた。

 前にここに来たときは武装した衛兵が入り口を守っていた。

 だけれど、彼らの姿はどこにもない。

 守り人が不在になった商館の扉をゆっくりと開く。

 中の様子を見て驚いてしまった。

 前回ここに来たときは、さながら戦場のような慌ただしさがあった。

 大海瘴の影響で農園が大打撃を受け、商人たちが周辺地域から作物をかき集めていたからだ。

 なので、今回も同じような雰囲気なのだろうと思ったのだけれど──中はガラガラだった。

 カウンターには職員すらおらず、周りのテーブルにはポツポツと商人風の男がいるだけ。活気に満ちた声もなく、しんと静まり返っている。

「……あっ! サタさん! それにララノさんにブリジットさんも!」

 と、商館に聞き覚えのある声があがった。

 プッチさんだ。

 モンスターの襲撃を受けて怪我でもしているのではと心配したけれど、いつもと変わらない元気な姿だった。

 それを見て、まずはほっと胸をなでおろす。

「いやぁ、救世主が到着するのを、首を長くして待ってましたよっ!」
「……っ!?」

 しかし、続けてプッチさんの口から放たれた言葉に顔をしかめてしまった。

 ざわつく商人たちからの視線を背中に感じながら、急ぎ足でプッチさんの元へ向かう。

「ちょ、ちょっといきなり何ですか、救世主って」
「本っ当にサタさんたちの到着を待ってたんですから。農園の作物、持ってきてくれましたよね?」
「は、はい。とりあえず商館の荷揚げ夫さんに預けていますけど……」

 そう伝えると、商館にいる商人たちから「おおっ」と歓声があがった。

 どういうこと? と首を傾げていると、プッチさんはニコニコ顔で「ひとまず座って下さい」と椅子を勧めてきた。

「えと、街の状況はなんとなくご存知ですよね?」

 僕たちが席につくと、おもむろにプッチさんが口を開く。

「ええ、道中にサクネさんから伺いました」
「でしたら話は早い。実はモンスターの襲撃によって街の貯蔵庫が燃えてしまったんです」
「貯蔵庫?」

 尋ねたのはララノだ。

 プッチさんはコクリと頷いてから続ける。

「パルメザンにある商会の貯蔵庫です。そこが燃えてしまって、街は深刻な食料不足に陥っているんです」

 プッチさん曰く、貿易の要所と言われるパルメザンに運ばれてきた物資は、まず商会が持つ貯蔵庫に保管されるらしい。

 そこを経由して王国各地に運ばれていくのだけれど、その中には住民の生活を支える食料や物資、それに領主パルメ様に治める物も含まれているという。

 そして、今回のモンスター襲撃でその貯蔵庫のほとんどが燃え落ちてしまった。

「なので、先日の大海瘴のときのように周辺地域から食料をかき集めているところなのですが……ちょっと成果が芳しくないんですよ。まぁ、大海瘴からあまり時間が経っていないので仕方ないんですけどね」
「それでサタ先輩の農作物が頼りだったということか」
「ご明察ですブリジットさん」

 僕が持ってきた農作物の量は、失った分を補填できるようなものではないけれど、周辺地域からの援助が見込まれない以上、頼らざるを得なかったんだろう。

「というわけですみません。今回はサタさんの農園に回せる物資が無いんです」
「……え?」

 キョトンとしてしまった。

 何を言ってるんだと思ったけれど、あれか。いつもプッチさんが僕の農園に持って来てくれている物資のことか。

 こんな状況なんだし、外部に回す余裕なんてないよね。

「次回はなんとか確保しますので、なにとぞお許しくださいっ!」
「何を言っているんですか。僕たちのことは気にしないでください。お渡しする農作物も今回はお代はいりませんよ。微力ですが、街の復興に使ってください」
「ふ、ふわぁああぁ……ありがとうございますサタさんっ!」

 みるみる涙目になっていくプッチさん。

 そんな彼女を見て、ララノが切り出した。

「あの、私たちに出来ることは何かありませんか? 周辺地域から食料を集めることはできませんが、お手伝いならなんでもやりますよ」
「ラ、ララノさん……」
「そうだな。私も農園からいくつか薬草を持ってきているから、精錬できる錬金台を貸してくれればすぐにでもポーションを作れるぞ」
「ブリジットさんも……っ! うわぁん!」

 プッチさんはついに滝のように涙を流し始めた。

「皆さんのそのお言葉……はいっ! プライスレスッ!」

 ペシッとテーブルを叩くプッチさん。

「……冗談言えるくらい余裕があるなら、援助はいらないですか?」
「あややっ!? 違いますよサタさん! これはただの空元気ですからっ! 職員さんたちに被害が出てるせいで、やったこともない各所の調整役をやらされて、もういっぱいいっぱいなんですっ!」

 なるほど。だからプッチさんは街から出られなかったわけか。

 周辺地域からの援助が滞っているのは、そういう「人的被害」が出ていることも大きいかもしれないな。

 食料を確保する商人、それに街を守る衛兵や職人。

 もしかすると、住民にも多くの被害が出ているのかも。

「怪我をした方たちは、今どこに?」
「負傷者は教会に集められて治療を受けています。でも、瘴気を吸い込んだ人たちの治療ができる医者がいなくて」
「なるほど……」

 多分、気休め程度の施術しかできないのだろう。

 とすると、患者の体内から瘴気を浄化してあげれば、街の復興の助けになるかもしれないな。

「すみませんが、プッチさんに納品する作物の一部をいただいてもいいですか?」
「え? あ、ええっと」
「もちろん僕たちが食べるわけじゃありませんよ。教会に搬送されている瘴気を吸い込んだ方たちに食べてもらおうかと」
「それなら問題ありませんが……でも、どうしてそんなことを?」
「実は先日、瘴気の浄化方法が判明しまして」
「……はい?」

 プッチさんは折れてしまうんじゃないかと思うくらいに首をかしげた。

 まぁ、突然そんなことを言われても困惑しちゃうよね。

 一から説明しようとしたけれど、実際に効果を見てもらったほうが早いと考えた僕は、プッチさんと一緒に作物を持って教会へと向かうことにした。