病室に帰り、マフラーを解いてジャケットを脱ぐ。足を傷めないようベッドに戻って一息つくと、「あら」と悦子がそれを目にした。
「えらいかわええ子がおるね」
 床頭台に置かれた小さな子犬のぬいぐるみ。それは凛の友人が持ってきてくれて、先日完成させたばかりのものだった。
「文化祭の展示用に私が作ってたんだって、友だちが持ってきてくれたんです」
「へえ。買ったものかと思ったわ」悦子はそれを手に乗せてしげしげと眺めた。「上手いもんやなあ」
「モデルが分からなくなったから、流れで仕上げたんだけど……」
「よう出来てるよ。あの子そっくりやね」
「あの子って……?」
 首を傾げた凛は、彼女に気が付いた。振り返った悦子も、「こんにちは」と笑って挨拶をする。
「ほんなら、そろそろおいとましよか」ぬいぐるみを台に置き、彼女は荷物を持った。
「あの、ありがとうございました」
「こっちこそ、凛ちゃんの顔見れて良かったわ。無理したらあかんよ」
 気を付けて、と言って悦子は帰っていった。
 凛の記憶では、自分と友加里は仲が悪い義理の姉妹だった。義姉はいつも不機嫌な顔で投げやりに喋り、やたら辛く当たってくる人だった。今もその表情は、何か嫌なことがあったばかりのように憮然としている。
 だが義姉は、義理の両親よりも頻回に見舞いにやって来た。雑談もあまりなく、必要な着替えなどを取り替えるといつもさっさと帰ってしまう。だが来てくれるのなら、きっと悪い感情はないのだろうと凛は思っていた。
 記憶を失った凛はそうして気づけなかったが、友加里を見舞いへと動かす原動力は、実際のところ罪悪感に起因していた。
 友加里は凛が嫌いだった。いつもにこにこしていて、明るく聡い彼女が目障りでたまらなかった。凄惨な過去を乗り越え、自分の意地悪にも笑顔で堪えて誰にも告げ口しない、よく出来た義理の妹。ムカついていじめるたびに、友加里は次第に惨めな気分に陥るようになった。友人が多く、恋人がいて、部活も勉強も一生懸命に取り組む彼女。それに冷たく当たるたびに、自分の心の狭さを見せつけられている気がした。凛さえいなければ、荒んだ苛立ちを覚える必要もなかったのに。
 しかし、まさかこんなことになるとは予想だにしなかった。
 少しの意地悪のつもりだった。誰にでも好かれる彼女が、友人との約束を破るように仕向けた。自宅から若葉中学校に向かう最短コースは通行止めだと嘘をつき、遠回りによって遅刻させようとしたのだ。今思えば何て馬鹿馬鹿しい悪意だろう。だがその稚拙な感情のために、彼女は事故に遭ってしまった。あの時、普段通りに道路を渡っていれば、こんなことにはならなかった。もしかすると彼女は家出をしたのかもしれないが、少なくとも足に後遺症を負い、記憶を失う結果にはならなかったのだ。
 今も彼女のギプスと包帯で覆われた右足を見ると、罪悪感が募る。それならせめて、両親が渋る見舞いを引き受けようと友加里は思ったのだ。
「これ、タオル持ってきたから」
「ありがとう」
 棚にタオルをしまう友加里に、凛は話しかける。先生はこう言っていただとか、悦子が散歩に連れて行ってくれただとか、今日の食事が美味しかっただとか、取り留めのないことを喋り続ける。
 記憶を失っても、凛の気遣い屋の面は変わらなかった。それは友加里を含める家族三人に対しては一層過剰で、気まずい沈黙が訪れないよう凛は笑顔で話し続けた。
 その健気さが、友加里には鬱陶しい。加えて、恐らく彼女の心身に染み込んでいる家族への怯えが垣間見えて、気の毒にも思える。捨てられないよう、嫌な思いをさせないよう、必死になって笑っている姿がとても悲しい。
 だがそうしたのは自分たち家族であることを、友加里はよく知っている。
「なんか欲しいもんある」
 話を遮られた彼女は目をしばたたかせ、「えっと」と言葉尻を濁した。
「お菓子とか、ジュースとか。欲しいもんないの」
「勝手に食べたら、いけないと思うから……」
「じゃあ、なんもいらないの」
「えっとね、それじゃあ、本が読みたい」凛はいいことを思いついたという顔をした。
「そういえば、あんたよく本読んでたね」
「うん。確か、そうだった気がする」
「何の本がいいのよ」
 友加里の言葉に、凛はすぐに返事ができなかった。自分が何というタイトルの本を読んでいたか思い出せないのだ。
「そういえば、戻って来てるよ。あんたの荷物」
「荷物って」
「家出てった時に持ってたバッグ。中身も今家にあるから。そん中に本が入ってたから、それ持ってきたげる」
「本が入ってたの」
「一冊だけね。家出するのに持ってくぐらいだから、相当好きなんでしょ」
 黙ってしまった凛に「冗談だって」と友加里は言う。
「スマホも修理終わってそろそろ戻ってくるらしいから。データ残ってるって。見たらなんか思い出すかもよ」
「うん」凛は友加里を見上げて笑う。「ありがとう」
「引っ越し準備はこっちでしとくから、あんたは勉強しときなよ。学校だって始まるんだから」
「そうだね」
 彼女が頷くと、友加里は「じゃ」と短く言って背を向ける。わざわざ見なくても「気を付けてね」と凛が笑っているのは知っている。
 きっと友加里は忘れてしまっただろうと凛は思っていたが、一週間が経った頃、彼女は約束通り本を持ってきてくれた。
「夏目漱石だって。かわいくないもん読んでんじゃん」
 床頭台のぬいぐるみのそばに本を置きながら、相変わらず不機嫌そうに彼女は言った。
「夢十夜、だよね」
「そうね」
「友加里さんも読んでみる?」
「いらない。興味ないし」
 素っ気なく言い放った友加里は「売店行ってくるわ」と財布を持って部屋を出て行ってしまった。
 それを見送った凛は、腕を伸ばして本を手に取る。友加里が言うには、持っていたバッグは破れスマートフォンは割れてしまったが、本は無事だったらしい。
 残された記憶には、この本のことがある。新しい本など買えない貧しい生活の中、母が結婚前から持っていた本を譲ってくれた。当時は難しすぎて読めなかったから、裏に名前だけ書いて大きくなった時のためにおいていた。
 結局、本の中身を読み始めた頃には、両親とは暮らせなくなっていたのだが。
 凛は懐かしい思いで本をひっくり返し、あれ、と思う。下の方に「日下部凛」とペンで書かれている。だが本を読み始めた小学四年生頃に、この苗字をシールで隠した覚えがある。白いシールを貼って上に「榎本」と書いたのだ。本当は書きたくなかった。これを書き換えれば、自分の過去までも上書きされる気がして、出来れば「嫌だ」と言いたかった。永遠に共に暮らすことがなくとも、苗字は幼い頃に過ごした両親との日々を感じられる最後の砦だったのだ。
 だが「日下部凛」の名前が多くの人に迷惑をかけていることは知っていたし、自分の未来に悪影響をもたらすことにも気づいていたから、叔母に言われるまま泣く泣く「榎本」に書き換えた。
 そんな思いをして貼ったシールを、いつ剥がしたのだろう。事故の時に剥がれたのだろうか。本自体が綺麗に残っているのに、そんなことがあり得るのか。
 不思議に思いながら本をパラパラと捲る。途中で引っかかりがあるのに手を止める。
 真ん中のページを開く。
 何かが挟まれている。
「栞……?」
 綺麗にリボンが折りたたまれていたから気づかなかった。
 それをそっと手に取る。
 息を呑んだ。

 ――山吹の花。

「これ……」
 思わず声が漏れた。
 思い出す。この栞をもらった時のこと。この栞をくれた人のこと。
 大切な、誰よりも大事な人。
「翔太……」
 どうして。何故今まで忘れていたんだろう。

 ――暑い夏。冷たいアイスクリーム。輝く海。青い空。波の音。

 プレゼントだと栞を渡してくれた時の、少し照れた彼の顔を思い出す。人生で一番幸福な誕生日。忘れるはずなんてないと思っていた。
 震える手から本が布団に落ちる。打ち寄せる波のように記憶がよみがえる。

 ――俺も、凛が大好きだ。

 勇気を出して告白した時の、彼の返事。あの瞬間、胸がいっぱいになって、嬉しくて涙さえ零れた。
 いつだって彼のことを想っていた。寒そうな姿を見ていたくなくて、マフラーを編んだ。一緒に臨んだ受験の日も、彼はマフラーを巻いていた。共に合格した時は喜びで思わず飛び跳ねた。何度も教室を訪ねて、丘の上でも長い時間話をした。夏休みには隣町の夏祭りにも行った。毎日が幸せで、楽しくて仕方なかった。
 そして彼は被害者だった。父、日下部雄吾のせいで多くのものを失った人。

 ――一緒に、遠くに行こう。

 だからあの夜、誰にも知らせず、手を繋いで逃げる約束をした。
 思い出した。自分は家出を目論んでいたが、それは独りぼっちの逃亡ではなかったのだ。

「ごめんなさい……」
 身体がぶるぶると震える。あの約束を、破ってしまった。「私はずっと、翔太の味方だよ」。そんなことを言ったのに、結局彼を独りぼっちにしてしまった。
 彼がここに来られない理由もわかる。事件当時に子どもだった友加里はともかく、叔父と叔母は彼の顔に、被害者遺族の面影を見出してしまうかもしれない。彼は自分が被害者だと言って堂々としているような人ではない。そんな騒ぎを起こすぐらいなら、一人で身を引いてしまう人間だ。優しい少年なのだ。

 苦しい。苦しい。息が、出来ない。

「ちょっと、あんたどうしたの」
 友加里の声が聞こえてくる。大丈夫と言おうとするが、声が出ない。吸っても吸っても呼吸ができない。
「凛ちゃん、しっかりして」
「看護師さん、早く来て!」
 同室の患者の声。応えようとするが眩暈に耐えられない。身体が大きく傾ぐ。布団の上に倒れてしまう。
 栞を両手で包んだまま、凛は意識を手放した。
 過呼吸で倒れた日から数日経ち退院の目途がついた頃、リハビリに励むことになった。
 筋力が衰え、目に見えて右足は左足より細い。復学した時に少しでも支障にならないよう、凛は懸命に松葉杖をついた。頑張れば四月には杖なしでも歩けるようになると医者は言っていたが、それでも生涯、足は悪いままだろう。悲しかったが、命があるだけよかったのだと凛は自分を励ました。
 その日もリハビリを終えて眠りにつく前、凛は寝床でこっそりスマートフォンを手に取った。修理が終わり手元に戻ってきたそれには、幸いデータが残っている。横になったままホーム画面からアルバムに移り、並ぶ写真を下へと繰っていく。
 中には、教室から海を眺める景色や、手芸部での作品。そして、見舞いに来てくれたのと同じ顔の人たちが写っている、誰もが笑顔で、笑い声が聞こえてきそうなほど楽しげだ。しかしピースをしている女の子にも、集合写真の男の子にも、撮影時の記憶はない。アルバムを見れば何か思いだすだろうと皆は期待しているが、残念ながらそれらは初めて見る写真だった。
 それでも唯一、記憶に残っている写真を選ぶ。
 子犬を抱いて笑っている男の子。
 これを撮った時のことを覚えている。子犬を世話しに行った時、彼が抱いている犬の動画を撮ろうとして、ボタンを間違えて一枚だけ撮った写真。その後すぐ録画に切り替えたが、この時はっとした。

 ――私、この人が好きなのかもしれない。

 普段愛想のない翔太は、子犬を抱いてとても優しい顔をしていた。それまで彼は一人のクラスメイトでしかなかったが、その笑顔を見て一気に惹かれた。その日は心臓がどきどきして、ばれないよう振舞うのに必死だった。一度抱いた「好きかも」という感情には間違いがなく、それから日が経つにつれてどんどん好きになっていった。
 機器に挿したイヤホンを耳に取り付け、目当ての動画を再生する。
「録るなよ」
 記録された、あの時の声。自分にカメラが向けられていることに気づき、咄嗟に逃げようとする彼の声。掲示板に載せるための動画だったから、画面を見ても彼の姿は映っていない。ころころした小さな子犬が、アルミの容器に頭を突っ込んで夕飯を食べている。
「よく食べるな」
 感心する彼に、「そうだね」と笑って返す自分の声。すると彼もつられて笑う声がする。食べ終えた子犬がぶんぶんと尻尾を振りながらじゃれつくと、その腹を彼の手が優しく撫でる。背を地面にこすりつけながら甘える子犬に、彼がまた笑う。
 声を殺して泣きながら、凛は床頭台に目を向けた。自分が作っていた小さなぬいぐるみは、この子犬にそっくりだ。彼はこれを見たら気づくだろうか。この日を思い出して、笑ってくれるだろうか。
 彼は不思議なぐらい優しかった。その話から伯母に大事にされていないことは知っていたが、彼のアルバイト帰りに初めて彼女と顔を合わせて驚いた。その口の悪さや自転車を蹴飛ばす乱暴な仕草を見て、彼女と長年暮らしている彼が、どうしてこれほど優しいまま成長できたのか疑問にさえ思った。それだけ優しかった。
「会いたい……」
 呟き、手で口を塞ぎ、こみ上げてきた嗚咽を我慢する。熱い涙が顔を伝い枕を濡らす。
 もう一度会いたい。あの大好きな笑顔を、もう一度だけ見せて欲しい。
 しかし、翔太は消えてしまったのだ。今となってはどこにいるのかもわからない。凛は必死に自分に言い聞かせたが、涙は止まらなかった。
 五十川は、退院したばかりの凛を乗せた車椅子を押して歩く。凛は歩けると言ったが、せめて駅から学校まで手伝わせてくれと彼が説得したのだ。
 学校の玄関で凛は膝に乗せていた一本の松葉杖をつき、五十川は代わりに下げている彼女の鞄から上靴を出した。
「ありがとう」
「杖なしじゃ、まだ厳しいよね」
「少し痛くて。無理するなってお医者さんは言ってる。でも、これがあれば平気だよ」
 彼女は慣れた動作で杖をつき、笑った。
 校舎を移動しながら二人は中庭を通る。春休みを迎えた日曜日の校舎内は静かで、午後の陽気は暖かい。
「ここでよく弁当食べたんだ。三人で」
 隅のベンチに、二人は腰掛けた。そばの花壇に植わったチューリップはふっくらとつぼみを膨らませている。新学期が始まる頃には、立派に咲いているだろう。
「前半最後の補講の時もさ、終わってから弁当食べて、確か学祭の話したんだ。翔太は帰宅部だったから、俺らの展示手伝ってくれって言って」
 彼はまるで昨日のことのように語る。それを聞いていると、まるで自分が当時を過ごしている気がする。翔太はなにか忘れ物をしていて、それを教室に取りに行っているだけで、すぐに校舎からやって来る。「ごめん、遅くなった」済まなさそうにそう言って。
 五十川も同じことを考えていたらしい。校舎の出入口を見つめている。凛と顔を合わせると、「行こうか」と苦笑した。
 彼は職員室でいくつか鍵を借りてきてくれた。
 被服室では飾られている作品を指して、部員の誰が作ったのかを説明した。凛をいつも使っていた席に座らせ、彼女がどんな作品を作っていたかを語った。
 次に向かった図書室では、彼は窓の外を見やる。
「ほら、ここから銀杏並木が見えるだろ」
「うん」
 外には青々とした銀杏の木が並び、その下には通路が長く伸びている。
「ここも、二人はよく歩いてたんだよ。帰りに車椅子で行ってみようか」
「うん、お願い」
 校舎の中を、二人は並んで話しながらゆっくりと歩く。五十川の思い出話は楽しいものばかりで、思い出せない凛も抱くはずのない懐かしさを覚える。学校に来て、玄関で靴を履き替えて、廊下を歩いて教室に向かって。部活に励んだり、購買で昼食を買ったり、友だちの教室に遊びに行ったり。そんなことをしたに違いない。なんて楽しい日々だろう。
「榎本さんは、全力で女子高生だったよ」
 五十川の言葉に、凛はくすりと笑う。
「それはそうだよ。私、女子高生だもん」
「いや、誰よりも一生懸命、毎日を過ごしてた。笑ったり落ち込んだり、何にでも本気でさ。すごく眩しいんだ」
「私、この学校が大好きだったんだね」
「そうだね」彼は一つの教室の鍵を開ける。「授業も部活も友達も、学校の全てを楽しんでたよ」
 そこは、凛の通っていた教室だった。
「私、どの席だったんだろう」
 しかし彼女にはその部屋の記憶は戻っていない。教卓に置かれていた座席表を見て席を探し、試しに座ってみた。窓際から二列目、前から三番目。
「……なにか、思い出せた」
 だが、しばらく黒板を眺めていた凛は、「ごめんなさい」と隣の席につく彼へ首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「でも、私覚えるね。今日この学校で見た景色、今度こそ一生忘れない」
「……引っ越すの、もうすぐだっけ」
「うん。明後日。だから今日、案内してくれて本当に嬉しいよ。ありがとう」
 廊下に出ると、五十川は再び扉に鍵をかける。それを見ていた凛は、「あのね」と声をかけた。
「あと一ヵ所だけ、案内してくれないかな」
「どこか、思い出した?」
「ううん。そうじゃないんだけど、見ておきたいところがあるの」
 彼女の言う場所を聞いて五十川は首を傾げたが、その理由を聞くと納得の顔をした。「ちょっと待ってて。鍵借りてくるよ」そう言って足早に職員室に戻っていった。
 五十川は、凛を連れて自分の教室を訪れた。先日終業式を迎え、もう席につく予定のない教室の扉を開けた。
「確かに、榎本さんはよく来てたよな」
 凛は翔太に会うため、しょっちゅうこの教室まで足を運んでいた。凛の席を作った方がいいんじゃないかと、翔太がクラスメイトにからかわれるほどだった。
 その話を聞いて、凛は少し恥ずかしそうに笑う。
「私、よっぽど来てたんだね」
「そんだけ好きだったってことだよ」彼は廊下側から三列目、後ろから二番目の席を指さした。「あそこ、翔太の席だよ」
 彼の席は彼がいなくなっても、この年度だけはと残されていた。基本的に真面目な翔太は、席に勉強道具を置きっぱなしにすることもなかったから、机の中は空っぽだ。落書きも見当たらない。
 松葉杖をつきながら凛は席に赴く。じっと机を見つめていたが、やがて教卓のそばにいる彼に「五十川くん」と振り向いた。
「私、こんな感じだったのかな」
 彼が意味を問いかける前に、彼女は明るい笑顔で席の方を向いた。
「ねえ、翔太。今日一緒に帰ろうよ!」
 張り上げた元気な声が、教室の壁に吸い込まれていく。
「部活お休みだから、駅まで一緒に行こう!」
 胸が潰れてしまう前に、凛は喉を震わせる。「私さ……」大きく息を吸う。
「私、ちょっと怪我しちゃった」松葉杖を握りしめる。「でも、心配しなくていいよ。普通に歩けるぐらいには回復するって、お医者さんも言ってたから」
 きっと、続くならこんな毎日。また二人が通えるようになるならば、これは日常の風景。
「大丈夫だってば!」
 一緒に中庭で弁当を食べて、一緒に図書室で勉強をして、一緒に駅まで歩いて帰って。
「心配、しないで」
 毎日笑顔で、楽しくて、幸せで。
「私は、大丈夫、だから……」
 ずっとずっと、そばにいて。
「……翔太も、笑って……」
 泣き崩れる凛の肩を支えるのは、慌てて駆け寄る五十川の両手だった。
「榎本さん……」彼にもわかった。彼女の描く日常では、翔太は今、とても不安そうな顔をしている。彼女の怪我を心配して、迎えは来るのかとか、体育はどうしてるとか、そういったことを聞いている。
 そして凛は、そんな日々が永遠に訪れないことを深く理解している。だからこうして彼の名を呼び、彼のいた空間で子どものように声をあげて泣いている。
「ばかやろう……」五十川は呻いた。幸せにしろって言ったのに。わかったって、言ったくせに。
 翔太の返事の代わりに、彼を呼ぶ凛の泣き声だけが教室に響いていた。
 泣き疲れた凛は、しばらく翔太の席に突っ伏していた。
 赤くなった目を擦って顔を上げた時分には、教室は窓の外から差し込む陽で橙に染められていた。
「落ち着いた?」
「うん……」窓の外を見ていた五十川に尋ねられ、凛は頷く。「私、最近泣いてばっかりだ」
「仕方ないよ。泣けないよりずっといい」
「ありがとう」
 掠れた声で笑う彼女は、窓の方を見た。グラウンドにプール。運動部の部室棟。敷地の外にはぽつぽつと住居の屋根が見え、更に向こうはきらきらと光っている。
「海だ……」
 その光景に、凛は心を奪われる。海の見える教室。なんて素敵なんだろう。
「榎本さん、この景色好きだったよな。よく写真も撮ってたよ」
「うん。アルバムに残ってた」やっぱり、この高校が大好きだ。「五十川くん、よく覚えてるね」
「なにを?」
「私たちのこと。私や翔太の話したこと、覚えてくれてるんだなって」
「まあね。俺も二人が好きだったから。楽しかったよ」窓際の机にもたれる彼も懐かしそうだ。「最初に翔太に話しかけて正解だった。二人ともいなくなるなんて、すげえ寂しいよ」
「それでも、ここまでしてくれるなんて」凛はいたずらっぽく笑った。「ほんとに私たちのこと好きなんだね」
「そりゃそうだよ」
 五十川が口をつぐむので、凛は小首を傾げる。入院の間に背中を流れるほど伸びた髪が、さらりと揺れる。
「俺もさ」言いにくそうに、しかし笑って彼は言った。「榎本さんのこと、好きだったんだ。告白もしたんだ」
「告白……?」
「もちろん、榎本さんが翔太と付き合う前だよ。あいつが鈍くて、全然付き合うそぶりみせなかったから。チャンスかと思って告白したんだ。フラれちゃったけど」
「そうだったの……」凛は丸くした目をぱちぱちとさせる。
「まあ、仕方ないよな。榎本さんが翔太のこと好きなのも、なんとなく分かってたし」
「もしかして、今も……」
「そりゃあね」
 まるで思いがけない台詞に驚愕する凛を見て、五十川はため息をついた。
「俺、本当に嫌な男だよ。あいつがいなくなって、榎本さんが記憶喪失になったって知った時、もちろん心配した。だけどそれと同時に、もしかしたらって思ったんだ。もう一回チャンスが来たのかもって」
 彼は心底後悔していた。それは苦虫を噛み潰したような表情が物語っている。斜陽がいっそう、その影を濃くしている。
「自分の狡さに吐き気がした。大事な友だちの大切な彼女だって知ってるのにさ、まだそんなこと考えるのかって。最低だよ」
 項垂れながら、彼はそばの椅子を引いて腰を下ろす。それを見ていた凛は、ふふっと笑い声を零した。
「最高だよ、五十川くんは」
 彼女は、太陽のような笑顔を見せる。
「こんなに私たちのことを考えてくれてるなんて、最高の友だちだよ」
「……榎本さんは変わらないな。何度でも好きになれるよ」
 はあ、と息をつく彼もつられて笑ってしまう。たちまち教室には笑い声が満ちる。
「でもやっぱり、榎本さんには翔太が一番お似合いだ。敵わない」再度立ち上がり、彼は伸びをする。
「五十川くんは、私の一番の友だちだよ。誰も敵わない」
「悔しいけど、光栄だな」
「今までも、これからも」凛はにっこり笑い、右手を差し出した。「大好きだよ」
「こちらこそ」凛のもとに歩み寄る彼も、笑ってその手を握り締めた。
 夕闇に溶ける教室に、さよならは響かなかった。
 最後に町を見に行きたいと言った凛に、家族は反対しなかった。彼女の意見を尊重したというよりは、好きにしろという無干渉に等しかった。引っ越しを明日に控えた日、足の悪い彼女は家に居ても邪魔だったのだ。
「今度事故に遭ったら置いていくわよ」
 そう言い捨てる叔母に「ごめんなさい」と呟き、凛は家を出た。入院中は病院にいたせいかあまり感じなかったが、家族の居る家は随分と息苦しくて窒息しそうだった。彼らの気分を害さないよう神経を張り詰めさせ、常に笑顔で接さなければならない。これから転校先で、新しい環境に馴染みながら家では彼らに気を遣う生活が始まるのかと思うと気が滅入る。
 二年という短い時間だったが、若葉町では良い人たちに巡り合えた。記憶がなくとも、見舞いに来てくれた人々を想うと確信できる。果たして、明日向かう次の場所はどうだろうか。
 ポジティブ思考に努めるが、それでもこの二年間より恵まれるとは思えない。身体が傷ついているせいもあるのか、期待よりも不安が募る。
 ゆっくりと松葉杖をつき、凛は夕刻の町を歩いた。この町の全てを覚えていたい。景色だけでなく、音も匂いも、記憶に染みつかせておきたい。
 見覚えのない学校の前を通る。若葉中学校。見上げた校舎の上には青い空が広がり、名前も知らない鳥が宙返りをする。校門前の桜はまだ咲いていない。花びらの舞う光景を見てみたかった。
 歩いては立ち止まり、スマートフォンの地図を見ることを繰り返して、凛は夕方からの営業を迎えたよつば食堂を訪れた。
「あらあら、凛ちゃん。よう来てくれたね」まだ他に客はおらず、エプロン姿の悦子が嬉しそうに奥から出てくる。「足は大丈夫? 立ってたらしんどいやろ」
 早速椅子を引いてくれるのに、礼を言って凛は腰を下ろした。天井から吊られているテレビでは、夕方のニュースが始まっている。
「明日引っ越しなので、最後に挨拶しておきたくって。それに、一回食べてみたかったんです」
「わざわざありがとうね。遂に明日なんやなあ」
 おすすめを頼むと、悦子は少し考えた後に親子丼を運んできた。
「うちでは一番安いんやけど、一番自信あるんよ。何年食べてても、美味しいって言ってくれる人もおるんやから」
 彼女の言う通り、温かな親子丼は美味しかった。肉は柔らかく、玉ねぎは甘く、卵はちょうどよくとろけている。確かに、何年食べても飽きないだろう。とても幸せな気持ちになれる。
「元さん、今日は休みやって言うてたからなあ。他のみんなも最近遅いし……」
 食べ終わった頃、残念そうに悦子が言うのに凛は笑いかけた。
「また必ず来ます。その時たくさん、お話させてください」微笑む凛は金を払いながら、「そうだ」とポケットに手を入れる。
「これ、よかったら貰ってください」凛は小さな子犬のぬいぐるみを差し出す。
「あら、病院で見た子やね」
「私が作ったものなので、あまり出来は良くないけど……」
「そんなことないわ。よう出来とるよ。ほんとに貰ってもええの?」
「はい。悦子さんなら、絶対に大事にしてくれるから」
 モデルにしたのは、かつて里親探しに奔走した子犬。あの子犬を知っている悦子なら、このプレゼントもきっと大切にしてくれるだろう。
「なら、喜んで頂くわ。ありがとうね」悦子は宝物のようにそれを受け取る。
 暖簾をくぐって客が入って来たので、凛は立ち上がった。杖をつくその背を、悦子の手が優しく撫でる。
「凛ちゃん、元気でおるんよ」
「悦子さんも、元気でいてください」
 顔を見合わせて笑い、凛はよつば食堂を後にした。
 日が暮れると、三月の空気は次第に冷えてくる。
 ゆっくりと松葉杖を動かし、凛は遠回りをして帰ることにした。これほど外を歩いたのは久しぶりで、随分と身体は疲れている。だがこれで最後だと思えば、いくら散歩をしても足りない気がする。
 通りかかった公園に入り、遊歩道で立ち止まると、あたりを見渡した。遊具のある遊び場に子どもの姿はなく、その向こうのグラウンドで大学生風の数人がボールを蹴っているだけだ。街灯に灯がともり、歩道脇の池の水は黒々としている。

 ――本当に、さよならなんだ。

 今日の終わりが、この町での終わり。そしてそれは、着実に近づいている。
 家に帰れば、未練を持っていることに何かと嫌味を言われるのだろう。覚えていないくせに、と叔父が吐き捨てるのを昨日聞いたばかりだ。
 ため息を飲み込んで再び歩き出した時、振った杖の先が何かに当たった。
 見下ろした先で、左から右に丸いものが転がっていく。何だろうと目を凝らし、それが小さなビー玉であることに気が付いた。どうしてこんなところに。そう思って転がってきた方に視線をやる。
 そこには、銀色のアルミの容器が一つだけ置いてあった。杖はこれに当たったようだ。容器には何かがたくさん入っている。そこに杖がぶつかった衝撃で、積まれていたビー玉が転がってしまったらしい。
 中に入っているのは、ビー玉、ガラスのおはじき、短いリボンに服のボタン。小さな女の子の好みそうなものがたくさん。かなりの数が、小さな山になっている。
「あ……」小さく開けた口から、声が漏れた。
 彼と交わした合図を思い出す。自分が会いたいと思っていることを、相手に知らせる二人だけの合図。
 見上げた先には、急な階段。丘の上に続いている。
 まさか。そんな――。
 凛は段に足をかけた。
 左足で段を踏みしめて身体を持ち上げ、右足と杖で次の段を踏む。気持ちが先走り、杖を使う手間が鬱陶しい。薄暗い階段を必死に上る。もし足を踏み外せば更にひどい怪我を負ってしまうが、そんな恐怖さえ湧いてこない。
 早く、早く、早く。
 疲れた体で杖を使い、一段一段踏みしめる。口から切れ切れの呼吸が漏れ、次第に汗が首筋を伝う。うっかり右足に体重をかけてしまい、嫌な痛みが走る。手すりにしがみつく右腕に力を入れる。階段に伸びる枝葉が顔や身体を擦るが、それを振り払うのももどかしい。
 息を切らしながらやっとの思いで、最後の一段を上った。
 丘の上は夜空に覆われている。空の下には、星空のような街の灯り。愛しい若葉町の光。
 少し先でそれを見つめていた背中が、振り返った。
 凛は左足を踏み出し、次に松葉杖を振る。想いがどんどん先に行く。身体が前にのめる。左足で地面を蹴る。松葉杖を放り、右足を踏み出す。足のことなど気にならない。両手を伸ばして、駆け寄る。
 彼は、待っていた。毎日毎日合図を送り続け、この丘の上に凛が来るのを、あの日からずっと待っていた。
 痛みによろける凛を、彼の腕がしっかりと抱きとめた。
「ごめんなさい!」顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を零す凛は叫ぶ。「ごめんなさい。ごめんなさい……こんなに遅くなって、ごめんなさい!」
「大丈夫」彼は静かに言う。「俺は、信じてたから」紺色のマフラーを巻いた翔太は、優しく笑った。
 凛は泣いた。存在を確かめるように、彼を抱きしめて泣き続けた。その髪を温かな手が撫でる。すっかり伸びたその長さは、会えなかった日々の長さをそのまま体現している。
「事故のこと、風の噂で知ったよ。ごめん、会いに行けなくて」翔太は済まなさそうに言った。「もしも凛の叔父さんや叔母さんや、親戚に会ったらって思うと、行けなかったんだ」
「ううん。私もそうだと思ってたの」
「足、大丈夫?」
 凛は頷くが、翔太は彼女を支えながらベンチに座らせ、自分もその隣に並んだ。
「ひどい事故だったって。ニュースにもなってた」
「うん。私、色んなこと忘れちゃったの」ようやく泣き止んだ凛は、彼ににっこりと笑いかける。「でも、翔太のことは思い出したよ」それを見て翔太も笑う。
 まるであの日の続きのようだった。約束を守るべく、共に同じ場所を目指した十一月の続き。二度と訪れないと思っていた、物語の続き。
「ねえ、翔太」濡れた彼女の瞳は、まるで星のようにきらきらと光っている。「あの約束は、まだ続いてる……?」
「俺はずっと、そのつもりだよ。いつでも行ける」
「私ね、夢、見なくなっちゃったんだ」凛は少しだけ視線を伏せた。「あれからずっと、未来のことが分からないの」
 事故の直前に真っ黒の夢を見てから、凛はこれまで見ていたような夢を見なくなっていた。「私、役に立たないかもしれない」気落ちしたように呟く。
「何言ってんだよ。俺は凛といたいんだ。凛の夢と付き合ってたわけじゃない」翔太は笑った。「前言ったろ。凛の夢はきっと、少しでも幸せになれるようにって、神様がくれたものだったんだ。それがもう必要ないってことは、凛はこれからどう足掻いても幸せにしかならないんだよ。今までたくさん辛い思いしたんだから、もう何を選んだって良いことだけが起きるんだ」
 必要なくなったから、夢を見なくなった。彼の言う通りである気がして、凛は「うん」と頷いた。眦に残っていた涙を拭った。どん底を知ったのだから、これからは全てが上向いて幸せになる。
「俺たちは、山吹かもしれない。凛の言う、取るに足りない徒花かもしれない。だからどうしたんだよ」
 翔太は、凛の両手を握りしめる。
「それなら、見返してやろうぜ。何かが残っても残らなくても、俺たちの存在は、誰にも否定できない」
 凛も、翔太の手を強く握る。
「行こう。凛」
「うん。翔太」
 満天の星空の下、互いの笑顔と確かな体温。それだけが世界に満ちている。空っぽの世界は、溢れんばかりに輝いている。