異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ

前回のあらすじ
街の見学をする前から人酔いし始めたウルウ。
これから冒険屋とやらの事務所に行って知らない人と顔を合わせなくてはいけないことにさっそく胃が痛み始めるのだった。



 今朝は目が覚めた時から嫌な予感がしていた。

 いやに寝汗をかいていたし、枕からは加齢臭がしていた。ついでに抜け毛も。
 寝台から立ち上がる身体はあちこちきしんで、立ち上がる時にはよっこらせと掛け声がいる。

 四十がらみとなりゃあ、まあ仕方ないところもある。
 何しろ冒険屋ってえのは体を使う商売だ。若いうちから無理をし続けりゃあ、年食ってくればあちこち()()も出てくる。

 もちろんまだまだ現役だという自負はあるが、それでも自分の足で稼ぐって年でもないっていう自覚はある。冒険屋を続けることと、若い頃と同じことをするってのは一緒じゃあない。若い頃には若い頃なりの、年食った今には今なりのやり方がある。

 まあ、いささか負け惜しみ臭いがね。

 とにかく、嫌な予感だ。

 朝飯にしようと思って厨房に降り、堅麺麭(ビスクヴィートィ)を取り出したが、肝心の牛乳の配達がまだ来ていなかった。参った。
 俺の朝はいつも同じ。最寄りの雑貨屋で買い貯めた堅麺麭(ビスクヴィートィ)と配達の牛乳を鍋でといた山盛りの堅麺麭粥(グリアージョ)。それに箱で買った林檎(ポーモ)を一つ。
 仲間からもそんな不味いもんで喜ぶなんておかしいと常々言われているが、別に俺もうまいうまいと思っているわけじゃあない。ただ、こいつでないと、どうにも調子が出ない。旅してた頃から変わりない。

 部屋に戻って顔を洗い、ひげをそり、剃刀で頬を浅く切る。研いだばっかりだったんだが、手元が狂ったかね。鏡もそろそろ、研ぎに出さんと行かんか。それとも帝都で流行りだとかいう、薄鏡を買うべきかね。いや、馬鹿な。そんなものを買う金なんざありはしない。

 結局、頬に軟膏を塗り、駆け出しのクナーボが執務室に出勤してきてから、ようやく牛乳が届いた。

 案の定クナーボの奴は、そんなんじゃ元気が出ませんよとかなんとか言って、鍋を奪い取り、鼻歌交じりに俺の朝飯を作りはじめる。

 干し林檎を入れた、甘めの堅麺麭粥(グリアージョ)。食べやすい大きさに小奇麗に切り分けた林檎(ポーモ)。それに薄く切った燻製肉(ラルド)に卵を落として焼いたオーヴォ・クン・ラルド。

 参った。

 何がまずいと言って、悔しいほどうまいのがまずい。俺が調子を出しやすい堅麺麭粥(グリアージョ)に、ちょいと手を加えて、うまいこと仕上げちまう。胃袋、掴まれてんな。使ってる道具も、調味料も、変わりはしないはずなんだが。

 洗い物もあるんでさっさと食べちゃってくださいねと出された皿をもそもそと片付けている間も、どうにも尻のあたりがそわそわと落ち着かなかった。

 朝飯を食い終わり、食堂から執務室に戻って依頼の手紙を仕分けているうちに、他の連中も出勤してくる。岩のように武骨な巨漢のウールソ。今日も飾り羽の手入れに余念のない伊達男のパフィスト。いつの間にかいていつの間にかくつろいでいるガルディスト。ナージャはどうせ昼過ぎまで起きてこん。それに……それに、おい、そいつは誰だ?

 一番最後にやってきたのは、飛脚(クリエーロ)の男だった。初夏とはいえまだ涼しい頃に、太腿もあらわに薄着でやってきて、それでいて今の今まで走りとおしだったってえのに息の乱れも見せない気風のいい土蜘蛛(ロンガクルルロ)だった。

「お届けもんでっせ。メザーガさんちうのは?」
「俺だ」
「お手紙でっせ」
「悪いな。とっといてくれ」

 手紙を受け取り銅貨を握らせれば、毎度、と颯爽とかけ出ていく。慌ただしさを感じさせない、するりと滑らかな走りだ。足高(コンノケン)ってのはどいつも格好がいい。ただ落ち着いて座ってるのが得意じゃないから、観賞用には向かないがな。

 さて、嫌な予感を膨らませながら手紙の表書きを見れば、なんてこった、予感は的中だ。
 仕分け済みの依頼表の上に無造作に置いて、椅子に掛けっぱなしだった上着を羽織り、匿ってくれそうな店を思い浮かべる。だが折りの悪いことに、どこも()()がたまっている。

「どうしたんです?」
「どうもしない。どうもしないが、ちょっと都合が悪いんで出かけてくる」
「なんだなんだ……おいおい、お嬢ちゃんからじゃねえか」
「ははあ、さてはまた口約束で面倒ごとを抱え込んだと見える」
「我らが所長殿は調子に乗りやすいですからなあ」
「やかましい!」

 こういう時に限って俺の靴ひもは解けているし、肌着のぼたんはずれてるし、上着の袖はなかなか通らねえし、事務所は片付いていなくて出入りがしづらい。何いつものことだって? そりゃあいつのいつもだ。少なくとも今日はこうであっちゃあいけなかったんだ。くそったれめ。

 落ち着け。

 俺はゆっくり呼吸をしながら上着を椅子に掛け直し、靴ひもを結び直し、ぼたんを直し、床に置きっぱなしの小物を箱にしまい込み、なんか気になり始めたんで箒を手に取って床を掃き、そうなると放っておけないんで机の上を整理し、放置していた書類の仕分けをし、どの依頼をいつ片付けるか表に組み直し、組合費の滞納を謝罪する手紙を書き上げ、暇してる冒険屋どもを依頼に走らせ、クナーボの淹れた豆茶(カーフォ)を飲んでようやく一息ついたころに、正午の鐘が鳴った。

「おう、もう昼か」
「お昼ご飯どうしましょうねえ」
「昼……もう昼だと……?」
「そうですよ。最近滞納多いですから、ちょっと節約ご飯にしないとですねえ」
「馬鹿野郎もう昼じゃねえか!」
「ええ? だから昼ですって」
「こうしちゃおれん! 俺は逃げるぞ!」
「ああ、ついに逃げるって認めるんですね」
「そういうあれじゃねえ! つまりこれは、なんだ、明日への前進だ!」
「またわけわかんないことを」

 とにかく、俺は改めて上着を羽織り、片付いた事務所から飛び出そうとして、そして、そして扉に付けた小さな鐘が鳴った。なったと同時に安普請の薄い扉が壁に叩きつけられるような勢いで開かれ、輝かんばかりの笑顔が覗き込んだ。

「お久しぶりですおじさん! 冒険屋になりに来ました!」

 向こう三件両隣まで聞こえそうな大声で、遠縁の親戚が襲来したのだった。

 どうして俺はこの執務室に裏口を取り付けなかったのか。そりゃまあ、改築費用がかかるからしばらく保留しようってことだった。もともと集合住宅を居抜きした二階建ての手狭なとこだ。一等安かったから買い取ったが、それで初期費用は殆ど吹っ飛んだ。どうしようもなかった。

 だが窓くらいは大きなものをつけるべきだった。そうしたら逃げ出せたのに。

 だがいまさらそんなことを考えても仕方がない。

 俺は深くため息を吐いて諦め、どっかりと椅子に腰を下ろした。

「まさか本気で俺の事務所に来やがるとはな」
「冒険屋になるなら応援してくれるとおっしゃったじゃあないですか」
「そりゃ言ったがね」

 言ったが、そりゃあくまで社交辞令だ。

 どこの冒険屋が、貴族子女に成人の儀代わりに冒険屋になりたいなんて言われて二つ返事で頷くと思う。
 成人の儀の護衛なんて依頼は掃いて捨てるほどある。拍付けやら度胸試しやらの為に冒険屋の真似事もないわけじゃあない。

 だが、()()()()()()()()()()()なんてのはそうそういない。

 俺を見りゃあわかる通り、冒険屋なんてのはやくざな商売だ。
 たとえ当主になる当てが実質皆無な次男坊三男坊だって、度胸試しはともかく本当に冒険屋になるかって言われたらそりゃあ最後の手段だろう。
 小さな村の一つや二つ貰って郷士として代官やれりゃ十分だろうし、それがだめだったら元手にいくらかもらって商人でもやりゃあいい。
 なんなら当主の補佐なんて仕事もないわけじゃない。

 そりゃあ、夢はないだろう。退屈な仕事かもしれねえ。

 だが、喜んで冒険屋やるかっていやあ、そいつは馬鹿の発想だろう。

 ところがこいつは、俺の従兄妹の娘のこいつは、馬鹿だ。馬鹿の極みだ。
 なにしろ喜んで冒険屋になりたいって宣言してる大馬鹿者だ。
 それもただの馬鹿じゃあねえ。
 夢やら希望やら浪漫やら、そういうものを詰め込んだ物語に憧れを馳せて、しかして冒険屋っていうやくざな仕事の悲しくなるほどくそったれな現実もよくよく俺から聞き知った上で、その上で、だ、なおかつ冒険屋をやりたいなんてぬかし続けられる極めつけの馬鹿だ。

 俺も冒険屋なんざやっている馬鹿だが、それでもいいとこのお嬢さんを冒険屋なんざにしてやるほど大馬鹿じゃあない。

 こいつの親父さんからも手紙は来ている。そちらで対応してほしいと。
 だがそいつはあくまでもあしらえというだけの話で、すでに成人したこいつを、親父さんも俺も強制することはできねえ。

 俺はそもそも部外者で、親父さんも親父さんで何しろ武辺の集まり辺境領の人間だから、自分の力でどうにかできるってんなら止めることはできねえ。辺境領では力こそが正しさだ。

 親父さんが止めらんねえなら俺が止めなきゃならねえが、冒険屋ってのはやるやらねえは本人の自由だ。資格なんざない。俺が止めようが誰が止めようが、そうしたらそうしたでこいつは勝手に冒険屋になるだろう。そしてどっかでおっ()ぬ。

 そうなったら、俺にゃあ責任なんざねえ、とは言えねえし、何より後味が悪すぎる。

「仕方ねえ。仕方ねえなあくそったれめ」
「じゃあ!」

 きらきら光る眼をしやがって。
 冒険屋に夢を見る奴はみんなそんな目だ。そしてしまいにゃ、くすんだ眼をして銅貨集めに必死になって、酒場で日がな一日飲んだくれるようになる。

 そうなる前に、諦めさせるのが大人の仕事だ。

「冒険屋になるってからにゃあ、それなりの腕を見せてもらわにゃあならねえ。お前だけじゃねえ。そっちの連れもだ」
「私か」
「関係ねえって顔すんなよ。手紙にゃちゃんと書いてある。こいつと、そのお目付け、二人の面倒見てやれってな」
「……へえ」
「……えへへえ」

 さあて、腕を見るとはいえ、どうしたもんか。
 ちみっこい()()しているとはいえ、こいつも辺境出だ。辺境の連中はどいつもこいつも気が触れていやがる。これでもなまじっかの冒険屋どもより腕っぷしはいいだろう。
 となると半端な相手じゃ諦めさせるにゃ物足りねえ。

「よし。じゃあ乙種害獣……いや、魔獣の駆除が入所試験だ。腕っぷし見せてもらおうか」
「うぇあ、乙種ですか!?」

 目を白黒させるリリオと違って、ひょろ長い嬢ちゃんは驚いた様子も見せねえ。見た感じどうにも生気に薄いが、こいつも辺境の出なら油断はならねえな。
 付け足しとくか。

「二人分で二匹だ」
「倍ドンですかぁ!?」

 うるせえ奴だな。

 そしてもう一人は……相変わらず動じやがらねえ。
 さてさて、こいつで諦めてくれると助かるんだがね。





用語解説

・メザーガ・ブランクハーラ
 人間族。リリオの母親の従兄妹にあたる。四十がらみの冒険屋。
 ヴォーストの街で冒険屋事務所を経営している。

・クナーボ
 人間族。メザーガ冒険屋事務所に所属する駆け出しの冒険屋。

燻製肉(ラルド)
 いわゆるベーコン。特に何と指定しない場合は豚の肉を用いたものを指す。

・オーヴォ・クン・ラルド
 いわゆるベーコン・エッグ。

・ウールソ
 獣人族。メザーガの冒険やパーティの一員で事務所に所属する冒険屋。
 槌を武器とする武僧。

・パフィスト
 天狗(ウルカ)。飾り羽も鮮やかな伊達男だが、腕は一流の弓遣い。事務所に所属する冒険屋。

・ガルディスト
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の野伏。パーティのムードメーカーであり、罠や仕掛けに通じる職人。また目利きも利く。

・ナージャ
 メザーガ冒険屋事務所の居候。

豆茶(カーフォ)
 南方で採られる木の実の種を焙煎し、粉に挽いて湯に溶いて濾した飲料。焙煎や抽出の仕方などで味や香りが変わり、こだわるものはうるさい。
 北方では栽培できず、また輸入品もあまり出回らずそれなりに高価。
 メザーガは故郷のつてで安く仕入れているようだ。

・正午の鐘
 大きな街ともなると機械仕掛けの時計が置かれていることもあるが、人々はもっぱら街の中心にある鐘楼が鳴らす鐘の音で時刻を知る。街は大抵この鐘の音の聞こえる範囲をその領域としている。

・乙種害獣
 甲・乙・丙・丁と四段階に分けた内、上から二つ目の危険度の害獣のこと。
 普通の冒険屋がソロで挑んでぎりぎり勝ちをもぎ取れる限度がこのあたり。普通はパーティで挑む。

・乙種魔獣
 危険度分類のうち、特に魔獣を強調しているのは、魔術を使う魔獣の方が一般的に手ごわいから。同じ危険度でも魔獣の方が気が抜けない。

前回のあらすじ
メザーガおじさんは苦労性。



 勢いよくお邪魔したメザーガおじさんの事務所では、おじさんとクナーボの二人が待っていてくれました。やはりお手紙を出しておいてよかったです。

 おじさんは四十台の渋いおじさまで、私が母から受け継いだ白い髪に、翡翠の瞳、それに私が母から受け継がなかった褐色の肌の南部人です。もう現場にはあまり出ていないとのことでしたけれど、それでも立ち居振る舞いには隙が見られませんでしたし、私とウルウを鋭く品定めする目つきも甘くはありません。

 いらっしゃいと手を振って、お茶の準備をしてくれているクナーボは、私より少し若くてまだ成人はしていませんが、少し前からおじさんの事務所で冒険屋見習いをしているという子です。もっぱら会計や家事や事務仕事ばかりしていて冒険屋になれるか不安と以前手紙でこぼしていました。

 ウルウは知らない人相手にさっそく人見知りを発揮したようで、私の後ろにぴったりくっついて、黙して語らずを貫こうとしています。私が事前にお願いしていなかったらきっと姿を消していたに違いありません。

 おじさんは深いため息を吐いてどっかりと腰を下ろすと、私をじろりとねめつけました。

「まさか本気で俺の事務所に来やがるとはな」
「冒険屋になるなら応援してくれるとおっしゃったじゃあないですか」
「そりゃ言ったがね」

 まあ、そりゃあ社交辞令でしょうけれど、言質は取ってあるんですから無効じゃあないです。父からも許可はもぎ取ってあります。

 もちろん、父やおじさんが私を冒険屋にしたがらないのもわかります。

 物語や歌の中の冒険屋がどれだけ格好良く、夢や希望や浪漫にあふれていたとしても、現実として冒険屋というものはお金次第でドブさらいから害獣駆除まで請け負う体のいい便利屋です。苦労ばかりで栄誉なんてまずないでしょうし、自己満足だけでやっていくには過酷でしょう。

 わかっています。

 お前はわかっていないんだって言われるくらい何度も説明されて、それでも私はわかっています。
 冒険屋にでもならなければ、私はきっとどこにも行けないんだって。

 それはもう何度も何度も話し合われたことで、そしていまだに解決していない問題なのでした。
 私は冒険屋になりたい。父は娘をそんなやくざな仕事に付けたくない。おじさんは面倒ごとに巻き込まれたくない。
 それはどうしたって折り合わない問題で、となればどれだけ我を通せるかというのが辺境のやり方です。

「仕方ねえ。仕方ねえなあくそったれめ」
「じゃあ!」

 辺境人の頑固さをよくよくわかっているおじさんはため息交じりにそう言いましたが、それは決して安易に認めるということではありませんでした。

「冒険屋になるってからにゃあ、それなりの腕を見せてもらわにゃあならねえ。お前だけじゃねえ。そっちの連れもだ」
「私か」
「関係ねえって顔すんなよ。手紙にゃちゃんと書いてある。こいつと、そのお目付け、二人の面倒見てやれってな」
「……へえ」
「……えへへえ」

 ウルウにじろりと見下ろされましたが、笑って誤魔化します。誤魔化し切れてませんけど。

 ともあれ、腕っぷしですか。
 ふふん。私おつむの具合はあんまりよろしくないですけれど、腕っぷしには少なからず自信があります。

「よし。じゃあ乙種害獣……いや、魔獣の駆除が入所試験だ。腕っぷし見せてもらおうか」
「うぇあ、乙種ですか!?」

 とはいえさすがに乙種はちょっと難しいかもしれません。

「二人分で二匹だ」
「倍ドンですかぁ!?」

 しかも二匹。
 一度に倒せという訳ではないんでしょうけれど、それなりに準備がいる相手が二回というのは結構厳しいです。
 ウルウがとんとんと肩をたたくので、いつものあれかと思って軽く振り向き、渋い顔で豆茶をすすっているおじさんを待たせないよう手早く説明します。

 乙種というのは、害獣の危険度を甲・乙・丙・丁の四段階に分けた内の上から二つ目で、まあ熟練の狩人でも一人で倒すのは難しいあたりです。
 手ごわい角猪(コルナプロ)だって、若いものだと精々丙種で、森で見かけた年経た個体だってぎりぎり乙種に入るあたりです。

 それが魔獣となると危険度はもう少し上がります。何しろ魔術を使うものですから、ものには寄りますけれど相性次第では一段階ほど上に見なくてはいけません。

 例えば、そうですね、森で出くわしてしまった熊木菟(ウルソストリゴ)なんかは若い個体でも立派な乙種です。本来ならパーティで当たらないと危険な生き物で、それを一人でどうにかしてしまえるウルウは本当にどうかしてます。見てないから何とも言えないんですけれど。

 それにしても乙種の魔獣ですか。熊木菟(ウルソストリゴ)を相手にしろというような話ですからこれは結構厳しいのではと思わず頭を抱えていると、またとんとんと肩をたたかれます。

 今度は何だろうと振り向くと、凄まじく面倒くさそうにしたウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》を叩きます。

「持ち込みじゃダメかな」
「……あー!」

 そう言えばウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》に突っ込んだままの熊木菟(ウルソストリゴ)の死体を忘れていました。下手すると腐ってるかもしれません。でもまあ、虫が入っていなければ多少熟成してるくらいで済むかなあ。

「なんだなんだ、うるせえな」
「えっと、あのですね、一匹なら来る途中に狩ってきました」
「……あ?」
「あー、いえ、私っていうかそのウルウが」

 私が説明しようとするのを遮って、ウルウが一歩前に出ます。

熊木菟(ウルソストリゴ)ってのは乙種なんでしょう?」
「あ? ああ、まあ、そうだが。そこら辺の店で素材買ってきたってすぐにわか」
「これ」

 ずるぅり。

 相変わらず不思議というか不気味というか、ほとんど容量なんてなさそうなウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》から、いろんな物理法則を無視したように熊木菟(ウルソストリゴ)の腕が引き抜かれ、頭が出てきて、胴体がはみ出て、それから足までが引き抜かれ、丸々一頭分が事務所の床にごろりと転がされました。

 何しろ見上げるような巨体ですから、雑然とした事務所内がさらに圧迫されて相当狭く感じます。

「……ああ?」

 ぽかん、と顎が落ちそうなほど口を開いて、ぽろり、と目が落ちそうなほど目を見開いて愕然とするおじさん。クナーボもぎょっとした様子で危うくポットを落としかけています。その気持ち、よーくわかります。でもそのうち慣れます。だってウルウですもの。

「確認して」
「あ?」
「確認」
「お、おう」

 ウルウに促されて、おじさんは恐る恐る熊木菟(ウルソストリゴ)の死体に近づいていきました。確かに、傷口も見当たらず乱れたところもない死体は、よくできた剥製か眠っているだけのようにも見え、もしかしたら動くかもと私でも思ってしまうほどです。

 それでもちゃんと死んでいることはすぐにわかったらしく、おじさんは最初は呆れたように、そしてやがて驚いたように真剣な目つきで死体の検分を始めました。クナーボも初めて見るのでしょう巨大な魔獣の姿に身を乗り出しています。

 なおウルウは今ので大分精神力を消費したようで、再び私の後ろに隠れました。

 しばらくの間おじさんは熊木菟(ウルソストリゴ)の死体を苦労してひっくり返したり、舌の色を見たりしていましたが、やがて頭を振りながら立ち上がりました。

「…………見たとこ傷口もねえ。骨を折ってる様子もねえ。かといって変色もねえし毒でもなさそうだ」

 おじさんがじろりとウルウを睨みます。
 ウルウが視線を逸らします。頑張ってウルウ!

「自然死だった、とも思えねえが、どうやった?」
「…………」
「おい?」
「私はまだここの所属じゃない」
「あ?」
「企業秘密」

 極めて不愛想で不遜な、実際のところは人と話すのが苦痛過ぎて言葉を練るのがしんどいウルウの、酷く端的でざっくり切り捨てるような言葉に、おじさんはしかし気を悪くするどころか満足したようでした。

「ほう、ほう、ほう、そりゃあそうだ。そうだな。リリオはともかくお前さんはまだ使えそうだ」

 しかし、とおじさんは改めて死体を見下ろしました。

「いったいまたどんな魔法を使ったのやら……」
「……不満なら」
「なに?」
「不満なら、試す?」

 多分「お疑いのことでしょうし、何か腕試しのようなことでもして見せましょうか」という程度の発言だったのでしょうが、持ち前の目つきの悪さと言葉足らずのせいで脅しにしか聞こえません。
 おじさんも両手を軽く上げて降参の姿勢です。

「いや、いや、いい、十分だ。こんなバケモン、《自在蔵(ポスタープロ)》か? そんな上等なもんに突っ込んで歩いてきたってだけで十分だ」
「じゃあ」
「まあ、一匹分はこれでいいだろう」

 やりました。
 実質的には何も解決していない気もしますけれど、少なくとも負担は半分に減ったのだと前向きに考えた方が気持ちも前向きにいられます。

「ところでこいつはどうする?」
「え?」
「これだけ鮮度がいいし、何より傷一つない熊木菟(ウルソストリゴ)なんざそうそう出回るもんじゃねえ。自分で売り先探してもいいが、うちで組合通してさばいた方が高値で売れると思うぜ?」

 それは熊木菟(ウルソストリゴ)を倒したウルウに向けての言葉でしたけれど、ウルウは全く何のためらいもなく私に視線を寄越して答えを求めてきます。

「リリオ」
「え、えーとですね。私たちじゃ初めての街でうまく売れないと思いますし、お任せした方がいいかと」
「それで」
「えーと、じゃあ、おじさん、その方向でお願いします」
「通訳がねーと喋れねーのか!」

 ようやく気付いていただけたようです。

 厳密に言えばそこらの商人も真っ青の喋り方とかできるんですけれど、ウルウの負担が大きいし私も聞いててかわいそうですし、何よりあんまり格好のいいウルウを広めると大変なことになりそうなのでやめていただきたいところです。

 ともあれ、熊木菟(ウルソストリゴ)の売買というすっかり忘れていた臨時収入もあり、私たちは早速次の魔獣討伐の準備に出かけるのでした。





用語解説

・これだけ鮮度がいい
 熊木菟(ウルソストリゴ)の死体はすでに何日か経っているが、実のところ《自在蔵(ポスタープロ)》とは違い、インベントリに突っ込んだものは時間が経過しないようだ。
前回のあらすじ
メザーガの無茶ぶりにそれもう見たとばかりの塩対応をするウルウ。
残る試練は後一体。ここにきて妙な展開の速さであった。



 冒険屋になりたいというリリオについて冒険屋事務所とやらに顔を出してみたが、どうもすんなり冒険屋になれるというものではないらしい。というかいろいろ聞き捨てならないことを聞いたような気もする。
 気もするけれど、言及すると面倒くさいので聞かなかったことにする。

 世の中気にしたところで面倒ごとにしかならないということが多すぎる。会社でもそうだった。どう考えてもその方が効率化するのにマシンパワーに頼ると途端に努力が足りないとか誠意がどうのとかでマンパワーに頼ろうとするんだよ。じゃあ給料寄越せよ。

 ああ、いや、そんなダークサイドとはお別れしたんだった。
 深く考えるな、私よ。

 ともあれ、だ。

 入所試験として乙種魔獣討伐二体分とやらを課されたわけだけれど、幸い、チュートリアルイベントじみた戦闘で獲得したドロップアイテムもとい死体が役に立った。いやあ、すっかり忘れていた。
 インベントリに突っ込んだものはどうも腐ったりはしないようなので助かったが、もしこれがまともに時間経過するシステムだったら、何しろ初夏の陽気だ、今頃インベントリを開ける度にやばい匂いがしていただろう。

 この死体はメザーガが売ってくれるということだったので、ついでにリリオが採取してきた角猪(コルナプロ)の角も一緒に売ってもらうことにした。こんな立派な角どうしたんだと疑わしげに見られたが、黙秘しておいた。あれは魔獣じゃないらしいし話しても得にならない。

 問題はもう一体をどうするかという話だ。

 まだ正規の所属ではないからと我々は事務所を辞して、宿を求めた。何をするにしてもまず拠点は大事だ。
 宿探しに関してはメザーガの紹介があったのですぐに解決した。
 《踊る宝石箱亭》という行きつけの酒場がくっついた宿だそうで、訪ねてみると早くつけを払うよう伝えてくれと頼まれてしまった。大丈夫か冒険屋事務所。

 冒険屋の行きつけというだけで不安ではあったのだが、幸いメザーガのセンスは確かなようで、鍵を渡された二人部屋は、やや狭く感じるがきちんとした寝台が二つあり、火精晶(ファヰロクリステロ)とやらの灯りもおいてあった。ただ、盗難に関しては自己責任と告げられたので、気を付けておこう。

 財布と貴重品、それに武器だけをもって買い物に出かけるリリオについて私も出かける。

 そろそろ私も《隠蓑(クローキング)》で隠れていたいのだけれど、リリオに寂しいからと言われて断念した。一応私にも人の心はある。疲れたら放り捨てる程度の軽いものだが。

 リリオの後ろについて歩いていく街並みは、やはり盛況だった。日もまだ高く正午を少し過ぎたくらいで、人々は最も活発な頃だろう。
 荷物をたくさん積んだ馬車も道を行きかい、喧騒が絶えない。

 私の知っている街というものはこういうものではなかった。
 私の知っている街というものは、みなどこかへ急いでいた。俯き、或いは小さな端末を覗き込みながら、そそくさと乗り物へ、建物へ、どこかへと急いでいた。
 私の知っている街というものはつまり、駅と、会社と、生活必需品を買いに行く二十四時間営業のコンビニエンスストアだった。

 真昼の日差しは、私にとって異世界の明るさだった。

 人込みは気持ちの悪くなりそうなほど目まぐるしく、しかしそのどれもが全くそれぞれの都合でそれぞれの人生を生きていた。かつて見知っていた街並みが整然と整えられた変りばえのしない本棚だというのならば、ヴォーストの街並みは床にまで本を積み上げた乱雑な古本屋だった。痛むとわかっていながらそうでもしないと本を詰め込めない、そんな物語の海だった。

 目が回りそうな私は、はぐれないようにと、そしてまた倒れないようにとリリオの肩に手を置いた。そうするとリリオがそっと手を重ねてくれた。そのささやかな気遣いが私を勇気づけ、そしてまたふわふわと惑いそうな私の足取りを、古びたアンカーのようにしっかりとつなぎとめてくれた。

 リリオはバザールのような市場でいくつかの店舗を巡って、時に交渉し、時に諦めながら、堅麺麭(ビスクヴィートィ)や乾燥野菜などの保存食を仕入れ、また何瓶かの酒を買い求めた。聞けば、水精晶(アクヴォクリスタロ)もいつもいつでも頼れるとは限らず、保存のきく酒を持っておくのは大事だという。

 私は重いものだけと思って酒を受け取り、インベントリに放り込んだ。全部持ってやってもよかったし、なんなら生鮮物を買い込んでやってもよかった。しかしそれはリリオの物語ではない。

 騒々しい市場を少し離れて、いくらか上等な店構えの店が並ぶ通りに出た。
 看板を出している店もあれば、一見お断りのようにひっそりとした店もあった。

 リリオが戸を叩いたのは一件の静かな店だった。
 掲げられた看板には、鉱石のようなものが描かれている。

 ごめんくださいと立ち入った店からは、不思議な香りがした。きしきしと硬質な、石の匂いだった。

 なんの店かと小さく尋ねれば、精霊晶(フェオクリスタロ)の店だという。それは水精晶(アクヴォクリスタロ)火精晶(ファヰロクリスタロ)といった結晶のことであるらしかった。

 火精晶(ファヰロクリスタロ)のランタンで照らされた店内は、圧倒されるほどたくさんの精霊晶(フェオクリスタロ)で埋まっていた。
 壁はすべて棚になっていて、そこにはほとんど整理など考えていないのではと思わせるほど雑多に、しかし奇妙な配置の妙で美しさすら覚えさせるように、多種多様な輝きが陳列されていた。

 リリオがカウンターにあった呼び鈴を鳴らすと、奥から顔を出したのはひび割れた岩のように顔中をしわで覆われた年寄りだった。こうなるともう男なのか女なのかすらわからない。

「メザーガの紹介できました」
「なんだ、坊主の娘っ子かい」
「親戚です」
「つけでも払いに来たか」
「ここでもですか……」

 リリオは呆れながらも、小物入れから革袋と小さな箱を取り出した。

「そろそろ擦り減ってきたので、交換をお願いしたいんですが」
水精晶(アクヴォクリスタロ)火精晶(ファヰロクリスタロ)か」

 なるほど、それはあの不思議なほど水の湧き出る水筒と、火をつけるために使った道具のようだった。

「石の好みはあるかね」
水精晶(アクヴォクリスタロ)は、雪解けかせせらぎがあれば。火精晶(ファヰロクリスタロ)は長持ち重視で」
「雪解けは今年はちょっと仕入れが少ないな。せせらぎなら銅貨で済むよ」
「どうせ小粒でしょう?」
「安物買いをしないのはいいことだ。そうさね、同じ質なら値段はそんなにかわりゃしない」
「じゃあ雪解けで」
「よし来た。火精晶(ファヰロクリスタロ)は火山出のいいのが入ってるがね」
「山火事起こそうってわけじゃないんですから」
「だから売れねえんだよなあ。種火用だろ、熾火の奴でいいかな」
「じゃあそれで」
「擦り減ったのはどうするね」
「買取お願いできます?」
「ふーむむ……水精晶(アクヴォクリスタロ)は、まあそうさね、これくらいだ。でも火精晶(ファヰロクリスタロ)はこりゃ擦り減りすぎたな」
「屑にもなりません?」
「粉に挽きゃあなあ……でも二束三文だね。燃料にした方がいいよ」
「じゃあ水精晶(アクヴォクリスタロ)だけ買取で」
「よしきた、じゃあ合わせてこんなもんで」
「もう一声」
「年寄りに鳴かせるない」
「年寄りならつけのことくらいは忘れても」
「馬鹿言うねえこちとら数は忘れねえんだ」
「まだまだお若い」
「うまいこと言わせやがって、じゃあこんなもんだ」
「いい買い物させてもらいました」
「メザーガにはきっちり伝えといておくれよ」
「ええ、ええ、よしなに」

 何やら私にはよくわからない会話だったが、いい買い物だったようだ。いまの私には何しろ相場どころか硬貨の換算すらおぼつかない。棚の表示を見ながら、どれが水精晶(アクヴォクリスタロ)、どれが火精晶(ファヰロクリスタロ)と単語を覚えるくらいが関の山だ。

「ウルウも水精晶(アクヴォクリスタロ)くらいは持っておきますか?」

 買い物を済ませたリリオに聞かれたが、さてどうしようか。ファンタジー用品は気になると言えば気になるし、この世界の基準で言えば潔癖症な私は割と水を必要とする。持っていて損はなかろう。

「どんなのがあるんです?」
「おたくは初めてかい」
「ええ」
「そうさねえ、今言った雪解けなんかはピンと冷たい。せせらぎは味が柔らかいけど、ま、ばらつきもあるな。海の石なんてのは塩っ辛いばかりで安いけど飲めやしない。硬水軟水も区別があるが、ま、冒険屋は大して気にもしやがらねえ」
「冷たい水があるなら、温かいお湯の石もあるんですか?」
「温泉で採れる奴はそうさね。うちでもちょっとは扱ってる」

 なるほど。水精晶(アクヴォクリスタロ)というのは水のある場所で結晶化する。そしてその結晶が生み出す水は、生まれた場所の水の性質や味に準ずるわけだ。

「お前さんに好みの水があるんなら、ちょいと時間を貰えば石にできるがね」
精霊晶(フェオクリスタロ)って作れるんですか?」
水精晶(アクヴォクリスタロ)は割と楽だあな」
「楽じゃないですよ。この人が専門家だからですよ」
「私はプロの仕事は尊敬することにしている」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。お望みの水があるかね」

 言われて、私は試しにインベントリから一本の瓶を取り出した。

「では、これで」
「ほう……こいつはいい瓶だ。歪みもねえ。くもりもねえ。気泡もねえ。表面の装飾も、こりゃあ、切れ込みで模様入れてんのか、胆が据わってやがる。職人技だ。中身は……なんだいこりゃ?」
「なんです?」
「水だよ」
「水ったってお前さん、こりゃまた随分妙な水だねえ。こんなに色気のない水は、アタシも初めてだ」
「蒸留水ですよ」
「ははあん、なるほどこいつが。錬金術師どもが使うのは知ってたが、アタシのとこに持ち込んだのはお前さんが初めてだ」

 蒸留水というものの知識はあるようだ。専門外の分野についても知識があるというのは、職人として信頼できる要素の一つだ。研究熱心な職人は腕が錆びづらい。

「しかしこんなのでいいのかい。味気ないだろう」
「綺麗な水が欲しいんですよ」
「そりゃ綺麗だろうがね」
「いくらになります」
「変わった注文だからねえ、なにしろ。少し色付けてもらわねえと」
「できませんか」
「あんだって?」
「なにしろ雪解けやらせせらぎやらと違って、何の癖もない水ですからねえ、蒸留水というものは。だから比較的簡単なんじゃないかと素人考えで思ったんですがね」
「素人考えだねえ」
「そうでしょうねえ。まあ面白みのない水だ。私も無理してほしいわけじゃあないんで」
「面白くないとは言わねえさ」
「面白いですか」
「白いか白くねえかでいやあ、まあ白いさね」
「そりゃあ良かった。ところでこの瓶なんですがねえ、綺麗は綺麗だが何しろ割れ物だから、運ぶのに難儀していましてね。どこかで手放そうと思っているんだが、安いものでもなし、物のわかるひとに差し上げたいところでしてね」
「嫌な奴だねえ。おたく嫌な奴だねえ」
「今ならもう一本あるんですがね」
「わーったわーった。いくらか負けてやるよ」
「リリオ」
「はいはい、じゃあ私の分と合わせてお勘定ってことで」
「嫌な奴らだねえ、まったく。老い先短い年寄りをいじめてくれちまって」
「なあに、死ぬまで生きますよ」
「そりゃそうだ」

 蒸留水を二本預け、私たちは店を出た。
 しゃべりすぎて、どうにも疲れた。





用語解説

精霊晶(フェオクリスタロ)
 水精晶(アクヴォクリスタロ)火精晶(ファヰロクリスタロ)など、精霊の宿った結晶の販売を専門とする店。大きな街には必ずある。その性質上精霊の扱いにたけた魔術師が経営している。

・錬金術師
 原始的な科学者であり、同時に魔術を可視化・数値化して扱うことを学ぶ人たち。

前回のあらすじ
異世界っぽいお店でファンタジーっぽいお買い物をするウルウとリリオ。
しかし MP が たりない!



 細々としたお買い物を済ませて、私たちはいったん宿に戻りました。
 正確に言うと、宿の部屋に荷物を置いて、それから改めて《踊る宝石箱亭》の酒場に訪れました。

「……酒場」
「違います。違いますからそんな目で見ないでください」

 別に昼間っから飲んだくれようというわけではありません。そう言うお客さんもちらほらいるようですけれど。

「えっとですね、冒険屋っていうのは、おじさんみたいに事務所を開いている人の他にも、個人やパーティ単位でやっている人たちも多いんです」

 というより、事務所を開くのはある程度お金を貯めて、そして年をとって一線を退いた人たちで、ほとんどの冒険屋は事務所なんか起こせません。既に開いている事務所に所属して、そこで仕事を貰っている人が多いですね。

「それで、そういう事務所に所属している人たちだけでなく、自分で直接依頼を取ってくる人たちも多いんです」

 そういう人たちはどこで仕事を探すかというと、それが《踊る宝石箱亭》のような酒場なんです。
 酒場っていうのはお酒を飲んで楽しむところなわけですけれど、どうしてもそういうところでは喧嘩や騒ぎがつきものです。なので用心棒を雇うことが多いんですけれど、冒険屋相手では生半な用心棒だと返り討ちにあってしまいます。

 なので、おじさんのように事務所が贔屓にするということで目を光らせる代わりに、酒場側でも事務所に便宜を図るというのが昔からの慣習だそうです。その便宜の一つというものが、冒険屋への仕事の斡旋です。

 仕事がないと冒険屋というものは穀潰し以外の何物でもなくて、お金がなければすさむ一方、そこにお酒が入れば大荒れに荒れる一方ということで、それなら仕事を与えて程々に不満を抜いてもらおうと、これも治安維持の一つの在り方なわけですね。

 それに酒場というものはもともと人が集まるところでもありますから、自然と話は集まりやすいんです。だから冒険屋と酒場の関係が始まった頃には、自然発生的に仕事斡旋所としての面も生まれてきたわけですね。

「おじさんのところで仕事を貰うってのは、まだ所属していない以上できないですから、こうして酒場でお仕事を探そうってわけです」
「成程」
「それに、ここならおじさんも目が届きますから、変な依頼はないだろうっていう安心もあるんでしょうね」

 だから紹介してくれたのでしょう。大雑把に見えて目端の利く人なんです。そうじゃないと冒険屋は長生きできないってことでもありますけど。

 さて、まだ昼間ということで酒杯を磨きながら暇そうにしている男性が、《踊る宝石箱亭》の店主、ユヴェーロ氏です。

「おや、買い物は済ませたのかい」
「ええ、やっぱり街は品揃えがいいですね」
「お眼鏡に叶ったなら良かったよ。ところで酒かい? 飯かい?」
「お仕事を」
「よし来た。どんな無理難題を吹っ掛けられたって?」

 茶目っ気たっぷりに笑いながら、ユヴェーロさんは厨房から仕切り台に手をついて身を乗り出しました。

「乙種の魔獣を一体。面子は私たち二人で」
「そいつぁ無茶だなあ。でもま、辺境から来たんだって? なあに竜より弱いのしかいないよ、安心おし」

 ユヴェーロさんは手慣れた様子で棚から紙束を取り出して、バラバラと捲り始めました。

「乙種、乙種ねえ、君たち得物は?」
「私は剣、斧、小刀……まあ大体の長物は」
「私は戦うのは苦手なんだ」
「おーいおいおい、まあいいか。技術は知らんが恩恵は強いようだしね」
「恩恵?」

 小首を傾げるウルウにいつもの説明です。

「魔力で身体能力が高まっていることですよ。人を見る仕事が長いと、そういうのわかるらしいです」
「ま、見かけも大事だけど見かけだけじゃないからね。リリオ君は見かけ以上に強いね。乙種も確かに行けなくはない。そっちの、えーと、ウルウ君だったかな。君はえらく強いねえ。でも漠然としかわからない。そう言う恩恵なのかな?」

 気さくに会話しながらもユヴェーロさんはよどみなく手を動かして、何枚かの依頼表を仕分けていきます。

「君たち山遊びと川遊びはどっちが好き? 森は駄目だな。ちょっと遠い」
「私は、うーん、川ですかね。ウルウは?」
「君に任せる」
「じゃ川だ。川の魔獣はちょっと面倒くさいがね。君たち泳げる?」
「一応泳げます」
「程々には」
「まあ泳げたって川に引きずり込まれたら大抵死ぬけどねはっはっは」

 物凄く陽気に物凄く物騒なことを言われた気がします。でも実際問題、川で暮らしてる魔獣に陸の生き物が挑んだって泳ぎで勝てるわけないですもんね。

「川、川、川ねえ。魚獲る系は多いんだけど……お、魚。そう言えば魚がいたな」

 しばらく依頼表を捲って、やがて一枚の依頼表が引き抜かれ、私たちの前に差し出されました。

「乙種魔獣、川、二人がかりでどうにかなりそうなの。装備次第だけどこれならいけるんじゃないかな」
「お、おおおお! こ、これは!」

 差し出された依頼表に踊る文字に、私は思わず興奮で飛び上がりそうでした。というか実際飛び上がって、危うくウルウの顎に激突しそうになって、問答無用で押さえつけられました。

「なに」
「これですよ、これ! ほら!」
「……なに?」
霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の捕獲ですよ!!」
「………『煮ても焼いてもうまい。何より揚げたのがまあ、うまい』」
「そう、それです!」

 道中一緒になった旅商人のおじいさんに教えてもらった名物のお魚です。えらくごっつい名前だなーとは思っていましたが、どうも魔獣だったようですね。そりゃあなかなか獲れない訳です。

「山からの雪解け水もぬるくなってきたし、街中の川底の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)が目覚めだしてきていてね。たまに被害が出るから間引いてほしいってさ。専門でやってる冒険屋もいるけど、危険だからあんまりこの依頼人気なくてね」
「やります! 是非とも!」
「ついでに言うと私は霹靂猫魚(トンドルシルウロ)料理の達人だ」
「卸します! ここに卸します!」
「よし来た。報酬は出来高制。討伐数で基本給。調理できないほどだったら廃棄だけど、傷が少なけりゃ卸した数だけ加算。まあまず無理だけど生きて捕まえられたら特別報酬。質問は?」
「お料理代は!?」
「ご馳走しちゃう」
「行ってきます!」
「まあまあお待ちなさいな」

 早速川の水を干上がらせてもと駆けだしそうになりましたが、勇み足はきちんと止めていただけました。

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は間抜け面だけど、あれでも乙種の魔獣だからね。きちんとした倒し方を覚えていった方がいい。それに船と道具もいるな。鮮度よく持って帰るなら冷やすための氷精晶(グラツィクリスタロ)もいるかな」

 とん、とん、とん、と長卓に倒し方を記した紙片や船の許可証、タモや棹、氷精晶(グラツィクリスタロ)などが並べられていきます。

「捕獲道具一式、今なら安くしとくよ」
「買ったー!」

 後ろでウルウの呆れたようなため息が聞こえましたけれど、世の中には欲望と勢いに乗らなければならない時もあるのです。きっと。





用語解説

・竜
 生物種としては文句なしに最強の位置にいるナマモノ。臥龍山脈の向こう側に生息しており、時折その切れ目を抜けて辺境にやってくる。

氷精晶(グラツィクリスタロ)
 雪山や雪原などで見つかる雪の精霊の結晶。魔力を通すと冷気を放ち、氷よりも溶けにくく、保冷剤として流通している。
前回のあらすじ
餌につられたリリオ。呆れるウルウ。約束された飯テロの序曲である。



 すっかり頭に血が上ってのぼせ上ったリリオを宥め、さすがにこれからじゃあ時間が遅くなるからと、一晩宿で休んで明朝早くから仕事に取り掛かることにした。

 宿の食事は、あの《黄金の林檎亭》の料理と比べればもちろん劣るは劣るけれど、それでも十分立派な食事と言えた。

 街を貫く川で獲れるという魚に衣をつけて揚げたものに、山盛りのフライド・ポテト。それに酢をかけて食べる。
 いわゆる悪名高いフィッシュ・アンド・チップスではないかとちょっと気後れしたが、食べてみるとなるほどこれがなかなかうまい。

 揚げ油をケチらずきれいなものを使っているようで妙な匂いもしないし、衣はビールではなく林檎酒(ポムヴィーノ)を混ぜ込んでいるようで、ほんのり甘酸っぱい感じがする。かけ回すお酢も林檎酢(ポムヴィナーグロ)で、見た目よりもずっとさっぱりと食べられる。

 フライド・ポテトは見た通りの物かと思ったが、芋が違うようだ。もう少しねっとりとした食感で、どちらかというと山芋の類に近いのだろうか。これはこれで面白い食感だし、美味しいが、何しろ量が多かったので、半分ばかりリリオの皿に分けてやると、喜んで平らげてしまった。本当にどこに入るのやら。

 湯を借りて体を洗い、歯を磨き、着替えが済んでも、リリオはまだ興奮冷めやらぬようだった。

「遠足前の小学生みたいだ」
「エンソク?」
「はしゃぎすぎて疲れるよって」
「仕方ないじゃないですか! すごく楽しみにしてたんですから!」

 リリオに言わせれば旅の楽しみの半分以上は、その土地の食べ物を楽しむことにあるのだという。私なんかは腹が満ちればとりあえず満足ではあるけれど、それでも最近はリリオに引きずられてそういう楽しみに染められてきているので、わからないでもない。

 最近と言ってもほんの数日であることを考えると、私という存在はそれほど簡単に染められてしまうほど空っぽだったわけだが。

 ベッドの上でごろごろ寝転がりながらえへえへと奇声を上げているリリオを尻目に、私は何となく窓から夜空を見上げてみた。
 思えば最初は森の中で、森を出ても暗くなる前に宿に入って眠りについてしまったから、夜空をきちんと見るのはこの世界では初めてだ。

 だから、今の今まで、こんなことにも気づかなかった。

「……月だ」
「あ、本当ですね。今日は綺麗な満月です」

 異世界の空にも、月があった。
 見知らぬ星座が並ぶ、ビロードのような夜空の真ん中に、月が、あった。

 私は異世界に来たということを、深く考えないようにしてきた。しかしここまであからさまだと、この世界について、また恐らくは私をこの世界に連れてきたであろう何者かの存在について、考えざるを得ない。

 百歩譲って、異世界の夜空にも月があるとしよう。恐ろしく確率は低いだろうが、天体に衛星が存在するのは珍しいことではない。

 けれど、たとえ千歩、万歩譲ったところで。

「……コピペってわけじゃないんだろうけど」

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 寸分たがわず元の世界と同じ顔で見下ろしてくる満月から目を逸らし、私はベッドに潜り込んだ。
 考えなければいけないことだし、気になることでもある。

 しかし取り敢えずのところ、目下の問題として、私は早く寝なければならないのだ。
 明日の朝確実に寝坊するリリオを起こすために。



 そうして翌朝、案の定寝坊したリリオを叩き起こして、私は日が出たばかりの早朝に川辺に佇んでいるのだった。

「うう、眠いです……」
「馬鹿」
「いまのちょっとドキッとするのでもう一回お願いします」
「死ねばいいのに」
「あふんっ」

 などという下らない掛け合いをしているうちに、貸し出される船の持ち主で、漁業組合の人だというおじさんが来た。冒険屋の仕事ではあるけれど、漁業組合の仕事場であるし、漁場で変な事されて荒らされても困るので、その見張りがてら来ているらしい。

「おー、別嬪さんが二人も来てくれたねぇありがたいねえ! 大したお構いもできねんだけどよ、今日のとこはよろしく頼んまあ!」

 まあ見張りと言っても気のいいおじさんで、実際のところは川に不慣れな冒険屋へのヘルプみたいなものらしい。

「んだばよ、早速船出すから、乗ってくれや。大体出てくるあたりはわかるから、そのあたりで棹突っ込んで底浚えば、その内引っかかるからよ」

 大雑把な説明だが、そのあたりの作業はリリオに任せる気なので私は知ったことではない。今回も私は見物を決め込むつもりだ。
 ただ一応、何かあった時の為に、ゆっくり漕ぎだされた船の上で霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とやらの話には耳を傾けておいた。

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)ってのはよぉ、まー名前の通り猫魚(シルウロ)の仲間なんだけんどよ」
「しるうろ?」
「ひげのあるお魚です」
「ほんでまあ、これまた名前通りに()()()()を放つんでよ、あぶねえんだなあ」
「あぶねえんですか」
「まあ、まんずあぶねえなあ。水の上まではまあ、あんまり飛ばしてこねえんだけどよ、うっかり水におっこっちまったら、まあまんず助からねえな」

 喋り方がのんびりしているからどうにも危機感がわかないのだが、どうやらこの霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とやらはデンキナマズの化物らしい。
 ナマズの類は猫のようにひげが生えているので英語ではキャットフィッシュとかいうのだが、間抜け面の割にデンキナマズという生き物は人死にを出すレベルで危険な生き物だ。何しろ名前の通り発達した発電器官から電気を発生させて感電死させるという例が結構ある。
 自分自身も感電しているらしいが、そこは絶縁体になっている脂肪組織のおかげで耐えているそうだ。

 おまけに繊細な電気の使い方もして、周囲の様子を電場で探ることもできるという器用さだ。

 そんな生き物が魔獣とかいうモンスターとして存在しているのだから、これは油断ならない。

 よく見かけるのは六十センチくらいのものらしいが、今回駆除してほしいのは二メートルくらいはある良く育ったものらしいので、これは危険かもしれない。デンキナマズは大きくても一メートルちょっとで、二メートルもいくとより強力なデンキウナギレベルのサイズだ。
 発電器官は当然体が大きくなればなっただけ増えるし、この生き物は魔獣とかいう魔術を使う生き物らしいので、より強力な電気を使うかもしれない。

 思えば、水の中がホームという面倒くささ込みでとはいえ、あのリリオを一撃で沈めた熊木菟(ウルソストリゴ)と同ランク帯のモンスターだ。あんまり甘く見ると私はともかくリリオはまずいかもしれない。

 私はインベントリをあさって一本の棒を取り出して、おもむろにリリオのベルトに差し込んだ。まあ一応これで装備品ってことにはなるだろう。

「な、なんですかこれ?」
「……おまもり」
「いま説明面倒くさくなったでしょう!?」

 その通りだ。
 だがまあ、リリオも私の奇行には慣れたようで、ちょっと位置を直しただけでそのままにしてくれた。

 あの棒、正確には杖は、《フランクリン・ロッド》という装備品で、装備している間、雷属性の攻撃を減衰し、また確率で反射してくれるという耐電装備だ。私が装備すれば幸運値(ラック)の関係で確実に反射できるが、リリオの場合どうだろう。まあ運はいい方だと思うが。

 一応私の方も耐電装備として、《雷の日と金曜日は》というアクセサリー装備を身に着ける。レコード・ディスク型のこれは雷属性の攻撃を受けた時低確率でダメージ分体力を回復してくれるというもので、普通なら気休め程度の装備だ。お察しの通り私が装備すれば確実に体力回復するえげつない効果に早変わりだが。

 さて、一応の準備を整えたあたりで、船頭のおじさんもそれらしい地点に辿り着いたようだ。

「よーし、ここらへんだあな。まあ一、二尾もやれりゃあいいかねえ」
「根こそぎにしてやります!」
「私を当てにするな」
「担げるだけ行きます!」
「魚臭くなりそうだな……」

 非常にやる気満々のリリオは、川底まで届くという長い長い竿を危なげなく操り、勢いよく川面につきこんだ。そのつきこんだ棹がつきこんだ時と同じくらいの勢いで、はじき返されるように飛び上がる。

「いやまあ……ようにっていうか、はじき返されたんだろうけど」

 次の瞬間には、船は下から突き上げるような波に押されて大きく揺れ、一瞬視界が激しい光に覆われた。

 そして多分、轟音がした。
 多分というのは、その音があまりにも強すぎて、ほとんど耳鳴りのようなものになり果ててしまったからだった。

 まるでスタングレネードのような強烈な光と轟音に、リリオの体は完全にすくんでしまっていた。咄嗟に私が腰のベルトをひっつかんでいなければ落っこちていたかもしれない。つくづく刺激に鈍いこの体にいまは感謝だな。

 同じくすくんでいた船頭のおじさんは、しかしやはり慣れがあるのだろう、思いのほかに早く立ち直り、素早く船を操って下がり始めた。

「ありゃあ主だあ。引きが強いな嬢ちゃん!」

 主、ね。
 成程主という位のことはある。

 なにしろすでに水の中に引き返そうとしている尾の部分だけで一メートルは越えている。全体ではとても二メートルどころではないだろう。
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》である《生体感知(バイタル・センサー)》で水中を探ってみた結果、ざっくり五メートルはありそうだ。

 確かデンキナマズの最大サイズが百二十二センチで二十キログラムぐらい。大体まあ体長が四倍くらいとすると、二乗三乗の法則にしたがえば体積つまり(イコールではないけど)体重は千二百八十キログラム、一・三トンくらいかな。
 トンとかいう単位が出てくると途端に重たく感じるけど、カバよりは軽いな。馬だって大きいのだったら一トンくらい行くらしいし。でかいマグロで700キロ弱ぐらい。

 まあどれだけ前向きに考えても、そいつと戦うってことを考えたら何の救いにもならないけど。

 敵さんの方はどうやら完全に戦闘態勢に入ったようで、船の周りをぐるぐる泳ぎ始めた。時々バチバチと光が上がり、川面が泡立つのは、発電時の熱が水を沸騰させているのだろう。どんなジュール熱だ。
 正確に距離を取っているのを見る限り、電場で周囲を探っているっていうのは本当らしいな。

 さてどうするか。





用語解説

・月
 この世界にも月があるようだ。それも全く同じ大きさ、同じ模様に見える。これはいったい何を意味するのだろうか。

・《フランクリン・ロッド》
 金属製の杖の形をした装備品。ゲームアイテム。装備していると雷属性のダメージを三割ほど減衰し、また二割程度の確率で敵に反射して返す効果がある。
『彼のお方の加護を受けし雷避けの杖なれば、雷神とても忽ち退散せしめよう。…………原理は今ひとつわかっとらんのだがね』

・《雷の日と金曜日は》
 ゲームアイテム。レコード・ディスク型のアクセサリ。装備していると雷属性の攻撃を受けた時に五パーセントの確率でダメージ分体力を回復してくれる。気休め程度ではあるが店売りの商品なので序盤は買う人も多い。
『雷の日と花の金曜日は、さあ気分を上げていきましょう!』

・スタングレネード
 強烈な光と音を発してショック症状に陥らせ、行動を封じる道具。

・《生体感知(バイタル・センサー)
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》。隠れた生物や、障害物で見えない向こう側の生物の存在を探り当てることができる。無生物系の敵には通用しないのが難点。
『生命を嗅ぎ取る嗅覚こそが彼の奥義だった。それ故にゴーレムに撲殺されたのだが』
前回のあらすじ
ナマズ退治だと思ったらガチでモンスターだった件。



 川底に棹を突きおろし、それが勢いよく弾き返され、次の瞬間に感じたのは目の前が真っ白になるような光と、強い耳鳴りでした。それはまるで見えない槌で頭を殴りつけたかのように強烈で、私は頭の中身まで光と音に流されてしまったかのように、その場に棒立ちになってしまいました。

 それでも何とか気を取り直せたのは、腰帯ががっしりとつかまれて、なんとか倒れずに済んだおかげでした。
 耳は聞こえず、目も見えず、ただ真っ白な闇の中で、その感触だけが私の意識をつなぎとめてくれました。

 ほんの十数秒。
 しかしそれは致命的な十数秒でした。

 私が思い出したように呼吸を再開し、かすむ視界の中でなんとか棹を握り直した時には、目の前に聳えるように巨大な影がこちらを見下ろしていました。

 ぼんやりとした視界の中でもはっきりとわかる巨体。間抜けだとか愛らしいだとかいった前評判とは裏腹に、冷酷さすら感じさせるのっぺりとした顔つき。
 ぬらりとした()()()の表面を青白い()()()()が絶え間なく流れ、その接する水面は沸き立つように泡立っていました。
 いんいんと不可思議な耳鳴りに似た音が大気を震わせ、よどんだ眼ではなく、何か奇妙な力でもってこちらを()()いるというのが肌で感じられました。

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)

 それはただの食材と侮るには、あまりにも凶悪な暴力でした。

 神威の権限、()()()()を操る魔獣を前に、しかし私の体はまだすくんだまま、指先は震えるようにしか動きません。いえ、たとえ動けたとして、それが何になったでしょう。目の前で高まっていく圧力を相手に、私に何ができるでしょう。

 絶望的な無力感を胸に、私が思ったのはとてつもない恐怖でした。
 私が食い意地に任せて軽率な行動をとったがために、私の物語に付き合ってくれるたった一人の大切なお友達を巻き添えにしてしまうことが、どうしようもなく恐ろしかったのでした。

 せめて、せめてウルウだけでも。

 そう歯を食いしばった私の体を、ふわりと柔らかな外套が覆いました。
 ぐっと体を抱きすくめられ、ふわふわとした柔らかな何かが、胸元に押し付けられます。

「――――」

 まだ耳鳴りのする中、それは確かには聞き取れませんでした。
 しかしそれは、とても落ち着いた、優しいウルウの声でした。

 次の瞬間、高まり切った圧力が解き放たれ、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の額から青白い雷光が私たちめがけて降り注ぎ、そして全身をずたずたに引き裂く激痛と灼熱とが襲ってきませんでした。

 おや。

 襲ってきませんでした。

 むしろ、驚きで目を見張る私の目の前で、何か不思議な膜にでも弾かれたように雷光は反転し、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)のひげ面に叩き返されたのでした。
 ()()()()を操る霹靂猫魚(トンドルシルウロ)に、自分の放った雷光はさほどの痛手でもないようで、青白い()()()()はその体表を流れて川面に逃げてしまいましたけれど、さすがに驚いたのかその巨体が大きくのけぞり、音を立てて水の中に隠れました。

「大丈夫かー嬢ちゃんたちぃ!」

 漁師のおじさんの叫びで、ようやく耳が慣れてきたことに気付きました。

「目は覚めた?」

 耳元でウルウの声がします。
 私は平坦なその声に血の気が下がるのを感じました。

 きっとウルウはただ、私が最初の轟音の衝撃から立ち直れたのかということを尋ねただけだったのでしょう。でも私には、食い気に踊らされて寝ぼけていたのだという風に指摘されたように思えました。こうしてウルウに守られていなければ、きっと私は黒焦げになっていたでしょう。

 私は馬鹿だ。

「だ、いじょうぶですっ!」

 私が恐れをこらえて叫ぶと、ウルウはゆっくりと離れて、それから先程私の胸元に当てていた、白くてふわふわとしたものを腰帯に括りつけてくれました。

「私も少し甘く見ていた。君の腕試しだし、手は出さないけれど、対策は必要だ」

 ウルウはゆっくり私を眺めて、それから言いました。

「六割くらいは大丈夫。残りの四割は神頼み」
「うぇ?」
「お守りのこと」

 どうやら先程の鉄の棒と、白いふわふわのことらしいです。もしかしたら霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の雷光を弾き返してくれたのはこれなのでしょうか。

「過保護もよくないから、死なない程度のことはもう助けない」

 う。優しいばかりでもありません。
 でも、助けられてばかりでは私も駄目になってしまいます。ウルウが全部やってくれたらそれはウルウの物語です。私は、私の物語をウルウに見てもらいたいのです。
 それにメザーガおじさんも、全部ウルウの手柄では私の冒険屋見習いを認めてくれないことでしょう。

 私は棹を握り直し、覚悟を決めました。

 事前に聞いた霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の倒し方は、棹で何度も叩いて刺激して()()()()を出させ、疲労してもう出せなくなってからとどめを刺すというものでした。
 しかしあれほど大きく強大な個体が相手ではこの手段は使えないでしょう。

 持久力で争うには相手が悪すぎますし、ウルウのお守りを頼りにするのは危険な賭けです。

 となれば、短期決戦で決めなければいけません。
 一撃で急所を貫き、仕留める。これです。
 あの巨体、それにぬめる()()()を通して貫くには、船の上では足場が悪すぎます。なにか仕掛けが必要そうです。

 私は少し考え、そして船の周りをゆっくりとめぐりながら隙を窺う霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の影を追いました。泳ぐだけで渦が生まれ、船はもう逃げられそうにありません。
 棹でつついたところであの巨体は身じろぎもしないでしょうし、それで変に刺激して船ごとひっくり返されてはたまったものではありません。

 いま船が襲われないのは、恐らく今まで一度も防がれたことのない雷光を弾き返されて、相手が警戒しているからなのです。それでも最も自信のある攻撃である以上、奴は再度雷光をお見舞いしてくるでしょう。長年にわたって外敵を屠り続けてきた矜持のためにも、小細工を押しつぶしてやろうと怒りをたぎらせているはずなのです。

 奴が顔を出し、そしてあの雷光を放つ瞬間を狙うしかありません。

 ばちばち、ぐつぐつ、青白い雷光が川面を焼き、水を煮えたぎらせ、漁師のおじさんは怯えて縮こまります。しかし私にはわかります。これは威嚇にすぎません。どうだ怯えろと、そのように大声で怒鳴りつける示威行為なのです。
 私が心折れてしまうのを待つように、焦れるようにぐるぐるとめぐっているのです。

 ウルウもそれがわかっているのでしょう。揺れる中でもゆったりと腰かけて、眠たげな眼で水面を眺めて落ち着いています。

 私もそんなウルウの姿を見てすっかり心を落ち着けて、棹を構えて時期を計ります。
 なにしろ奴の()()()()で川の水は煮えたぎり、そうすれば奴自身も煮え湯の中を泳ぐようなもの。()()()()を放ち続けることで疲れも来るでしょうし、煮え湯の中を泳ぎ続ければいずれ必ず耐え切れなくなります。

 すぐだ。もうすぐだ。

 互いに焦れるような、しかし後で思ってみればおどろくほど短いつばぜり合いのような時間が過ぎて、ぐわり、と水面が持ち上がりました。

 来た!

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)のぬめる()()()が川面を割って聳え、そのよどんだ瞳が怒りをにじませてこちらを睥睨(へいげい)します。
 ばちばちと先程よりもはるかに激しく全身を()()()()が走り、そして額のあたりに集まっていきます。

 雷神もかくやというその異様に思わず息をのみかけますが、しかしどれだけ威力が上がろうが、それはもう先ほど見た技です。
 辺境の武辺に、同じ技は二度通用しないということを教えてやりましょう。

 雷光が青白く輝き、そして奴が首をわずかに後ろにもたげた瞬間、私は手に持った棹を奴に向けて放りました。
 奴が反射的にため込んだ()()()()を放つと、それは私たちではなく棹に向けて流れ、そして棹を焼き焦がしながらその端の浸かった川面へとまっすぐに流れていきました。

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は魔術でもって()()()()をあやつりますが、その()()()()というものは、水が高きから低きに流れるように、流れやすい方へと流れる性質があります。

 神殿や時計塔のように高い建物ばかりに()()()()が落ちるように、高いものへと落ちやすいですし、落ちた()()()()は金属や水など、流れやすいものを選んで流れていきます。

 私はおつむの回転の遅い方ではありますけれど、辺境育ちは学がないと思われるのは心外です。

 雷光を外し、ため込んだ()()()()をすっかり吐きつくし、再度川へ潜ろうとする霹靂猫魚(トンドルシルウロ)ですが、その動きは鈍いです。
 雷光を放った直後、自分自身もしびれて硬直することは先程確認済みです。

 私は不安定な足場を蹴って飛び上がり、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を目指します。
 勿論、こんな足場ではどれだけ強く蹴っても大した距離は得られません。

 しかし、ここで役に立つのが私の装備です。
 飛竜革の靴に加護を祈れば、私の足元で風精が集まり、見えない足場を作ってくれます。それを踏みつけ、もう一跳び、その先でさらにもう一跳び。

 空の階段を駆け上り、鈍く固まった霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の頭上へと飛び上がり、ずらりと引き抜く腰の愛剣。
 大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻から削り出した頑丈な切っ先を下に向け、最後の一蹴りで真下に向けて強く飛び出せば、私の体重そのものが勢いに乗せて力となる。

 狙い過たず一突きに、やわな()()()を鋭く割いて、硬い頭蓋も何のその、顎の下まで突き抜けて、確かに私の剣は霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を貫いたのでした。

 しかし敵もさるものひっかくもの、最後の悪あがきにと全身をぶるうんぶるうんと震わせて、じばじばじばばと青白い雷光が全身を駆け巡ります。
 お守りのおかげかいくらかは弾かれ、しかしそのいくらかは確かに私の体を駆け抜け、全身が思うのとはまるで別物のように震え、かたまり、剣から指を離すことさえできません。

 ようし、こうなれば根競べです。
 私は()()()()に震えながら握りしめた剣をぐいりとひねって奴の頭の中をかき回し、奴は悶えながらも私の体に()()()()を見舞い、そして。

 そして、私の意識はぷつりと途絶えたのでした。





用語解説

・はだえ
 皮膚のこと。

・ふわふわとした柔らかな何か
 ゲームアイテム。正式名称《三日月兎の後ろ足》。幸運値(ラック)を飛躍的に高めるレア装備。この装備を入手するためにまずこの装備が必要だというジョークが生まれるほどの低確率でしかドロップしない。
『何しろこいつはとんでもない幸運のお守りさ。前の持ち主は後ろ足を切り取られたみたいだが』

・飛竜革の靴
 風精を操って空を飛ぶ飛竜の革は、うまくなめせば風の精との親和性が非常に高くなる。これで作られた靴は、空を踏んで歩くことさえできるという。

大具足裾払(アルマアラネオ)
 辺境の森林地帯などに棲む巨大な甲殻生物。裾払の仲間としてはかなり鈍重そうな外見ではあるが、その甲殻は極めて強靭な割に恐ろしく軽く、裾払特有の機敏な身のこなしに強固な外角が相まって、下手な竜程度なら捕食する程に強大な生き物である。

前回のあらすじ
霹靂猫魚(トンドルシルウロ)との決死の死闘を繰り広げ、ついに気絶するリリオ。
そしてそれを甲子園観戦くらいの興味のなさで見守るウルウであった。



 リリオって割と無鉄砲なところあるよなあ。

 いまさらながらにそんなことを思いながら見上げる先では、巨大なナマズの頭に剣を突き刺し、感電して痙攣しながらもしがみついているリリオの姿があった。
 《フランクリン・ロッド》と、ついさっき渡したばかりの《三日月兎の後ろ足》の相乗効果でそこそこ弾き返しているとはいえ、四割は喰らっている癖に戦意が衰えないのは驚異的なバーサーカーっぷりだ。

 感電というかなり恐ろしい光景を目の当たりにしても私がそれなりに平然としているのは、口の端から泡を吹きつつ、少女がしていい顔からかけ離れた形相で奮闘しているリリオが面白いからではなく、単純にパーティ・メンバーとして彼女のステータスが見えるからだ。

 ステータスの内の一つ、《HP(ヒットポイント)》が見える私には、見た目はどうあれ実際のところどれだけ()()()のかというのが数字でわかる。
 水に落ちた上で喰らったらどうかわからないが、少なくともああして乾いた状態であれば一発当たり五パーセントも減らないし、全体《HP(ヒットポイント)》からするとまだ半分もいってない。

 もともと生命力(バイタリティ)があほほど高いのでそれほど心配はしていなかったが、知性(インテリジェンス)が低いわりに魔法ダメージが少ないのは、この世界ではダメージ計算の数式が違うためなのかもしれない。そのためか予想よりもかなり余裕がある。

 とはいえ。

「あ、落ちる」

 さすがに気絶(スタン)までは免れないか。
 脳をかき回されてようやく絶命したナマズだが、それと同時に張り詰めていたリリオも気絶したらしく、ぐらりと倒れていく巨体とともに、剣を握りしめたままのリリオも一緒に落下していく。

 さすがに水に落ちられると回収が面倒くさいので、移動《技能(スキル)》である《縮地(ステッピング)》で一息に飛び移り、リリオごと剣を引き抜き船に放り投げる。
 船頭が大慌てで受け止めるのを尻目に、大ナマズの顎を蹴り上げて船の上まで蹴り飛ばす。反動で自分の体が落ちる前に再度《縮地(ステッピング)》で船へと戻る。

「おおおおお落ちてくっぞぉ!」

 あとは実にいいリアクションをしてくれる常識人の横でインベントリを広げ、落ちてくる大ナマズを頭から収納して、はいおしまい。
 さすがに五メートルもある巨体がぬるぬる入っていくのは見ていて面白い光景ではあったが、生臭くなりやしないかと不安ではある。そして相変わらずこの世界のものには重量設定がないのか、問題なく全身が入り切る。設定甘いんじゃないのか神様とは思うけれど、便利なので文句は言わない。

 目を白黒させる船頭があまりにも哀れだったので、できるだけ優しい微笑みを心掛けて、そっと肩を叩いてやる。

「あなたは何も見なかった」
「ひぇ、いンや、でもよ」
「あなたは、何も、見なかった」
「……へ、へぇ」

 落ち着いてもらえたようだ。
 やはりパニックの時は落ち着いて話しかけるのが一番だ。

 船上に転がされたリリオの様子を確認してみるが、あちこち焼け焦げて皮膚も裂けたところがあり、白目剥いて泡吹いていたり、これ死んでるんじゃないかという位かなり酷い有様だが、ステータス上では《HP(ヒットポイント)》残り三割以上残しており、致命傷には程遠い。
 起きてから回復薬を飲ませても十分間に合うだろう。

 ……この見かけでこれくらいのダメージということは、もしかして熊木菟(ウルソストリゴ)に襲われた時も存外平気だったんじゃなかろうか。
 そう思い至るとあの時薬を飲ませる際に行った行為が途端に気恥ずかしくなってきたが、あの時はそんなことに頭が回らなかったのだ、仕方がない。事故みたいなものだ。

 ともあれ、だ。
 一応はこれで試験は合格したと言っていいだろう。
 あんまり小さいものだったら乙種未満として認められなかっただろうが、このサイズは乙種とかいうのに十分見合うと思う。見合わなかったらこの世界の基準値おかしい。

 仮に私が、この最大レベルの私がタイマン勝負を挑んだとしても、環境もあって耐電装備込みでもそこそこ苦労させられただろうし、もし耐電装備なしでやりあえと言われたら遠距離からちまちま削るくらいしかやりようがない。日が暮れるわ。

 そう考えると、耐電装備に幸運値(ラック)爆上げした状態とはいえ、一人でとどめ刺したリリオはすごいな。私のステータス任せとは違って、戦闘に関する考え方や技術の違いなんだろうか。最後は気絶してしまったとはいえしっかり倒し切っているし、私に頼ろうとしなかったあたりも頑張っている。

 よし。

 私は船頭にお願いして、指示通りに船を動かしてもらった。
 《生体感知(バイタル・センサー)》を使えばある程度以上の大きさの魚影を探ることなど容易いし、耐電装備を整えた私にかかれば程々の大きさのデンキナマズなど大した敵ではない。というか電気を喰らえば回復するという装備なのだから負けようがない。棹でつついて顔を出したところを、ちょっと気持ち悪いがひっつかんで首を折れば終わる。哺乳類に比べればまだ抵抗感はない。

 ああ、いや、まて、生きている方が高いんだっけ。私はどっちでもいいが、冒険屋はあまり儲からないようだし、ちょっと稼いであげた方がいいか。それに鮮度がいい方が美味しいだろうし。

 となると何がいいかな。

 私はしばらくインベントリに納めた装備を見直し、生け捕り特化に組み立てることにした。一匹くらいは自分でも調べてみたいし、こいつを飯の種にしている冒険屋の迷惑にならない程度に荒稼ぎさせてもらおう。

 結局最終的には、電気攻撃を喰らった時の為に《雷の日と金曜日は》を装備し、確実に手元まで来るように《火照命(ホデリノミコト)の海幸》という釣り竿を使って吊り上げ、手元まで来たところで《アルティメット・テイザー》という気絶(スタン)属性特化の武器で意識を奪い、その状態でインベントリに放り込んだ。

 このやり方は実に効率的で、途中までは呆然と眺めていた船頭が、あまりの効率の良さに「悪魔の所業」「霹靂猫魚(トンドルシルウロ)があわれ」「もはや作業」とこちらの良心をちくちくつつくようなことを言い始めたので、程々のところで切り上げた。

 実際のところは途中で作業ゲーが中毒化して予定より獲り過ぎたのでやめたのだが。

 そのようにして結構長時間楽しんだもとい作業していたのだが、リリオは一向に目を覚ます気配がない。
 もしかして死んだかと思って確認してみたら、気絶から睡眠状態に移行していたので《ウェストミンスターの目覚し時計》でぶん殴って叩き起こし、あれからどうなったとか(ヌシ)はどうなったとか騒がしいリリオを引きずって《踊る宝石箱亭》まで戻ることにした。

 運動してお腹が減ったので、そろそろ昼飯にしたかったのだ。





用語解説

・《縮地(ステッピング)
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》の一つ。短距離ワープの類で、一定距離内であれば瞬間的に移動することができる。ただし、中間地点に障害物がある場合は不可能。連続使用で高速移動もできるが、迂闊にダンジョン内で高速移動していると、制御しきれずに敵の群れに突っ込んだ挙句《SP(スキルポイント)》が切れるという冗談にもならない展開もありうる。
『東にぴかっと 西にぴかっと 天下を自由自在に 千里の山々を駆け抜けて 暗殺者は行く』

・《火照命(ホデリノミコト)の海幸》
 ゲームアイテム。水際などの特定の地形で使用することで魚介などの特殊なアイテムを確率で入手できる。使用する場所によって釣れるものが異なり、ひたすら釣りアイテムをコレクションするアングラーと呼ばれるプレイヤーも多かった。時にははずれを引くこともあるが、閠の幸運値で使うとレアアイテムしか出てこないという逆の弊害が発生する。
『おかしな話だろう。私はただ釣り針を返せと言っただけなんだ。誠意を見せろと。そりゃ怒りすぎたかもしれないが、ここまでするか?』

・《アルティメット・テイザー》
 ゲームアイテム。装備品。攻撃力は低いが、高確率で相手を気絶(スタン)状態にできる特殊な装備。思いっきり世界観に反したような、露骨にスタンガンにしか見えないヴィジュアルだが、設定上一応魔法の道具らしい。
露骨にスタンガンにしか見えないが、雷属性ではないという謎のアイテム。
『アルティメット・テイザー・ボール! 超エキサイティングなこのゲームがついにはじまりアッ! やめろ! 司会にテイザーを使うんじゃアッやめアッアッアッ』

前回のあらすじ
悪魔の所業。



 私が目を覚ました時、というか目を覚まさせられた時、全ては終わった後でした。

 漁師のおじさんは「おれぁ何も見てねえ」を繰り返すばかりですし、ウルウは説明が面倒くさいのか「君が勝ったよ」しか教えてくれないし、なんだか消化不良です。
 一応とどめを刺してから気絶したのは確からしいのですが、ほとんど相打ちだったような気もします。

 船から降りて自分の足で歩こうとすると、膝ががくがくと大笑いで、あちこちしびれるし痛いしで、かなりの怪我を負っていることにようやく気付きました。戦闘後の高揚でいまのいままで麻痺していたみたいですけれど、さすがに無理して動くにも限界があるみたいです。

「ちょ、っと、待ってくださいね。すぐ、すぐ行きますから」

 ぎぎぎぎぎ、ときしむ音さえ立てそうな体を何とか動かそうとすると、ウルウにがっしりと顎を抑えられました。そして口の中に何やら硬くて細いものを突きこまれ、ドロッとした液体を流し込まれ、苦いそれを思わず飲み下してしまいます。
 この私が口に入れるもので何かを不味いって思うの相当珍しいですから、これは相当な不味さです。

「ん、ぐっ、ふぅっ、けほ、えほ、な、なんですこれ?」
「疲れた。眠い。お腹減った」

 それは説明ではないです。
 物凄く面倒くさそうに私の背中をせっつくウルウに、まあ気を失って迷惑かけましたしと歩き出そうとすると、何と身体が軽いじゃありませんか。

 ぎょっとして見下ろしていれば、皮膚の裂けたところも治っていますし、気だるさやしびれた感じもありません。鎧の焼け焦げなんかはそのままですけれど……。

 ちらっとウルウの方を見れば、そこには見たことのある瓶をしまっている姿が。

「今の、もしかして、あの野盗たちに使ってた……」
「そう」

 そう、じゃありません。
 あんな貴重そうな霊薬を一体何本持っているのでしょうウルウは。

 いえ、深く考えるのはやめましょう。怖いですし。それにウルウが私のために使ってくれたということを喜びましょう。それが例えお腹減って疲れて眠いので早く宿に戻りたいがためだとしても。

 私は急かされるままに《踊る宝石箱亭》に戻り、暇そうに包丁を研いでいるユヴェーロさんのもとへと向かいました。
 時刻はちょうど昼頃。ご飯時です。

「おや、お帰り。収穫はどうだい?」
「大物でしたよー」

 私がお願いするまでもなく、ウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》からぬるりと(ヌシ)を引きずり出すと、昼食を摂りに来ていた冒険屋たちから、そのとてつもない巨体と、そしてそれを収めるとてつもない収容力の《自在蔵(ポスタープロ)》とに驚嘆の声が上がりました。
 私としてはちょっと自慢気な気持ちではありますけれど、視線を集めたウルウはとてつもなく面倒くさそうです。

 ユヴェーロ氏も驚きの顔で、床に転がされた(ヌシ)を検めます。

「こいつはまたとんでもない大物だ! いやぁ、これは間違いなく乙種だね」
「でしょう!」
「でも傷口が荒いし、全身が大分焼け焦げてるから、素材の価格はちょっと落ちるな」
「あう」
「あと大きすぎると大味になって美味しくない」
「ぐへぇ」

 あれだけ頑張ったのにそれはあんまりでした。
 がっかりしていると、ウルウが一歩前に出ました。

「私のも買い取って欲しいんですが」
「そう言えばウルウもあの後獲ってたんですってね」
「ほほう。いいとも。状態が良ければ買い取るよ」
「状態が良い奴は全部買い取ってくれます?」
霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は素材もとれるし飯にもなるしね、相場で買い取るよ」
「言質は取った」
「へ?」

 ウルウがにっこりと笑います。
 その営業用の爽やかさがかえって私にその先を予想させました。

()()()()
「……なんだって?」
「傷なし。生け捕り。サイズは肥えた成魚ばかりで三十八匹。願いましては?」

 ウルウがあくどい笑顔で《自在蔵(ポスタープロ)》から手妻のように次々に取り出しましたるは、まるで川からそのまま飛び出たような傷もない霹靂猫魚(トンドルシルウロ)たち。
 一抱えもあるようなそれが十を超えたあたりで、さしものユヴェーロさんも顔を引きつらせて止めました。

「待て待て待て」
「言質は取った。状態が良い奴は全部買い取ってくれるんだそうで」
「い、言った……言ったが……」
「証人もいますね。おたくの常連が」

 面白がった冒険屋たちがそうだそうだと声を上げます。

「ええい、わかったわかったわーかりましたよ!」
「『報酬は出来高制。討伐数で基本給。調理できないほどだったら廃棄だけど、傷が少なけりゃ卸した数だけ加算。まあまず無理だけど生きて捕まえられたら特別報酬』。だったかな」
「特別報酬もね! 忘れてくれりゃいいのに!」
「『お料理代は』?」
「ご馳走するよ!」

 ウルウは満足げににっこり微笑んで、それから疲れたようにため息一つ、またいつもの三白眼で私をちろりと見ました。

「満足かい?」
「うぇ!? え、ええ、もちろん大満足です!」
「よかった」

 頑張ったねと私の頭を撫でて、ウルウは再度ユヴェーロさんに向き直りました。

「さて、残りはどこへ?」
「氷室にしまおう。さばくにも時間がかかるし、仕込みもいる。料理は夜でいいかな?」
「リリオ」
「え、はい、大丈夫です!」
「じゃあ、お昼に軽く何か作ってください。この子も私もくたびれた」
「夜が入るように軽めにしとくよ」
「お願いします」

 麺麭(パーノ)乾酪(フロマージョ)の簡素な昼食を済ませると、ウルウは「疲れたから寝る」と言いおいて部屋まで戻ってしまいました。でも多分あれって、今のを見た冒険屋から絡まれるのが面倒くさいから引きこもったっていうのが正しいですよね、きっと。

 さて、ではそんな面倒くさい状況に取り残された私としましては。

「ユヴェーロさん! 仕込み手伝いますよー!」
「おお、助かるよ!」

 お手伝いの名目で厨房に逃げ込むのでした。



 さて、夕刻の鐘が鳴って、そろそろ晩御飯時です。

 大量の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を腐る前に売りさばくため、今晩は急遽大安売りとして昼から宣伝していました。
 おかげさまで普段来ないようなお客さんまで詰めかけて、酒場は満席、追加の卓まで借りてきて、店の外にまで席を広げる始末です。

 なお、安売りと言っても、実は普段が技術料と希少価値でふんだくってるんだけどねとは内緒のお話。

 私は流れで、ウルウは結局罪悪感やらなんやらで、給仕として働くことにしました。お給金は出ませんけれど、営業が終わった後には一番いい霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を使った、特別料理をふるまってくれるとのことです。

 ウルウは、「それって当初の契約通りなだけでは」とずっとぼやいていましたけれど、給仕用にと貸し出してくれた衣装が可愛いので私としては満足です。旅をしているとなかなかかわいい衣装って持てませんしね。

 それにウルウはこういう機会でもないときっとこういう格好してくれません。ものすごく恥ずかしそうに「犯罪だろこれ」とぼやいています。確かに犯罪者が出かねませんね。

 私たちはひっきりなしに訪れるお客さんたちの注文を取り、揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とお酒を渡して回り、代金を隠し一杯に受け取っては戻って、そしてまた新たな揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とお酒を受け取って、と店内を駆け巡りました。

 そういえば意外だったのは、いえ、意外でもないんでしょうか、ウルウがお金の勘定ができなかったのは驚きました。
 一般によく使われる三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)、商人などが使う額の大きな七角貨(セパン)九角貨(ナウアン)、それにとても大きな取引などで初めて使われる金貨、それらを教えるとウルウは興味深そうに硬貨を見比べました。

 この一番価値の大きい金貨を、まあ帝国のものではないようなんですけれど、しれっと渡してしまうあたりウルウの金銭感覚がおかしいということは前々から感じていましたが、そもそもお金の単位すらわかっていなかったというのは驚きです。

 そして教えれば一回で覚えて、すぐに()()で計算できるようになるのにはもっと驚きました。それなりに慣れた私でも指を使って計算するのに、ウルウは何も見ずに私よりはるかに早く計算してしまいます。

 一度商人らしいお客さんが、誤魔化しているんじゃないかと算盤(アバーコ)を持ち出しましたけれど、ウルウの方がより速く正確に計算するものですから、すっかり驚いていました。
 それで何組もの商人が面白がって算盤(アバーコ)で、または暗算で勝負を挑み、それを酔客がまた面白がってどちらが勝つか賭け出すという騒ぎにもなりましたが、なんとウルウが全勝してしまいました。

 こんなに騒ぎになってしまってお店は大丈夫なんだろうかと不安になりましたけれど、よく見たら胴元はユヴェーロさんでした。ここで一儲けして赤字分を取り戻すとおっしゃっていました。

 まったく!

 私はもちろんウルウに賭けましたけどね!

 そのようにして騒がしい夜は過ぎ、ようやく全てのお客さんが帰った後、私たちはくたくたの(てい)でそれぞれ椅子に座りこんでいました。
 長く、苦しい戦いでした……。
 もしかしたら(ヌシ)との闘いより疲れたかもしれません。

「明日はお休みにしちゃうから、片づけは明日にして、まかないにしよう」

 ユヴェーロさんが疲れのにじんだ、しかしたっぷり儲けた商人の顔でそういうので、私も、そしてウルウも顔を上げました。

「まあまかないといっても、お客にも出してない飛び切りの品だ。楽しみにしていいよ」

 私たちが現金にもきびきびと調理場の見える席に着くと、ユヴェーロさんはにんまり笑いながら、たっぷりの揚げ油を沸かした鍋に、衣をつけた切り身を泳がせ始めました。

 正直なところ、その時の私は「なあんだ」と思ってしまいました。
 というのも、この一晩でもう一生分の揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は見たものと感じるほどで、食べる前から飽きてしまうくらいだったのです。

 しかしここで目を見張ったのがウルウでした。

「これは……」
「わかるかい?」

 ユヴェーロ氏は黄金色にからりと揚がった切り身を竹笊の上に上げると、上にぱらりと軽く塩を振って、すぐに私たちに寄越してきました。

「まずは塩だけでやってごらん」

 ウルウが遠慮なく口にするので、私も負けじと手を付け、そして実に、実に驚きました。

 大きく頬張ると、さくりとあまりにも軽やかな歯ごたえとともに衣が崩れ、火傷する程に熱い白身がほろほろと崩れてきます。この白身というのが全く驚くほど味わい深く、淡白ではあるのですが、ほんのわずかにかけられた塩が、その旨味を十全に引き出してくるのです。
 またその身の汁気たっぷりなことに驚かされました。揚げ過ぎた揚げ物というものは大抵ぱさぱさしているものですし、かといって揚げ方が弱ければ生のままです。これは、その生から火が通るギリギリのところを見極めて、いえ、余熱ですっと火が通るところを見計らって油から取り上げられているのでした。

 揚げたての揚げ物というものがここまで美味であるということを私は初めて知りました。
 それも、目の前で上げて、一分と経たないうちにすぐに食べてしまえる、この調理場が覗ける席でしか食べられないまさしく特別料理です。

「さ、お次はこいつにつけて食べてごらん」

 さっと揚げられた揚げ猫魚(シルウロ)と一緒に、今度は小鉢に何か褐色の澄んだ液体が渡されました。
 これもまたウルウが手慣れた様子でさっとつけて食べるので、私も半ばほどまで浸して食べてみました。

 汁気のせいでしょうか、先程のさくりと崩れるような感じではなく、じゃくりと少し重たい歯応えで、しかしそれがまた歯に嬉しい感触でした。

魚醤(フィシャ・サウツォ)猫魚(シルウオ)の出汁で割ったものさ」

 またこの不思議な液体の味が繊細で、不思議な香りがするのですが、魚のうまみがたっぷりと凝縮されており、塩だけを振って食べた時よりも強い塩気が、あっさりとした白身をうまく持ち上げて、気づけばじゃくじゃくっと食べ進めてしまうのでした。

 ああ! 早く次を揚げて! そう願わずにはいられません。

「いい食べっぷりだ。じゃあこいつはどうかな」

 竹笊にざっと置かれたのは、今度は衣に緑色が散っていました。

紫蘇(ペリロ)の葉を刻んで衣に混ぜ込んだんだ」

 これには軽く塩を振って食べてみると、ふわりと爽やかな紫蘇(ペリロ)の香りが広がり、脂っこくなってきた口の中を爽やかにしてくれました。それでいて、たっぷり詰まった魚のうまみはまるで損なわれるということがなくて、むしろ、かえってそのさっぱりとした香りとともに口の中にあふれてくるようでさえあります。

 私が無意識に左手を卓の上に彷徨わせると、ユヴェーロさんがにやりと笑いました。

「わかってるとも。こいつだろう?」

 そいつです!

 ユヴェーロさんがにやっと笑って寄越してくれたのは、酒杯にたっぷり満たされた麦酒(エーロ)でした。
 ごくごくごくっ、と音を立てて飲み下すと、さっぱりとした苦味と複雑な香り、それにフルーティーな甘みとコクとが、のど越しもよく流れ込んできます。

 そしてそこに揚げたての猫魚(シルウロ)
 じゃくりじゃくりと頬張り、そしてまた麦酒(エーロ)!
 この単純で、しかしだからこそ飽きがこない黄金の連鎖たるや、もう無限に食べられると言っていい程です。
 小食のウルウもこの連鎖を楽しんでいるようで、ゆっくりではありますがその手は止まりません。

 そして程よく腹の膨れてきたころ合いで、まるで悪戯でもたくらむような楽しげな顔で、ユヴェーロさんは本当の特別料理を出してくれたのでした。

「さー、さすがにこいつは食べたことないんじゃないかな?」
「え!?」

 皿に美しく盛られて出されたのは、なんと薄くそぎ切りにされた生の猫魚(シルウロ)でした。うっすらと紅色を透かす透明感のある白い身は確かにとても美しいものですが、しかし、でも。

「な、生で食べるんですか?」
「サシミといってね、西の連中から聞いた食べ方なんだが、なかなかオツだよ」
「で、でもお腹壊しません?」
「普通は壊す」
「さ、さすがに怖いですよう」
「実はね、これは本当の本当にうちだけの秘密にしてあるんだけど、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)ってのは体中に()()()()が走っているだろう。だから腹を壊す虫がつかないのさ。もちろん、生け捕りじゃないといけないけどね」

 なるほど、確かにあの強烈な()()()()は腹下しの虫など寄せ付けないことでしょう。
 しかし頭でわかっているのと実際に試すのとはわけが違います。

 私が少し怖気づいていると、ウルウは平然と皿に手をかけました。

「ユヴェーロさん、魚醤(フィシャ・サウツォ)とやらを少しもらえる?」
「お、ウルウ君はわかるかい」
「川魚は初めてです」

 先程の出汁で割ったものよりももっと濃くて、そして匂いの強い魚醤(フィシャ・サウツォ)を小皿に注いで渡されたウルウは、粋というんでしょうかねえ、一切れ猫魚(シルウロ)の身をとると、さっとつけて素早く口に運び、そして目を見開きました。

「ほへははひへへは」
「へ?」
「リリオ君も食べればわかるよ」

 そう勧められれば逃げてもいられないと、私は意を決してウルウと同じように一切れ口にしてみました。
 すると何ということでしょう。火を通した時とはまるで違った甘い味わいが魚醤(フィシャ・サウツォ)の塩気によってちょうどよく引き立てられて口の中でとろけあばばばばばばばっ。

「ひゃ、ひゃんへふはほへ!?」
「死んですぐの霹靂猫魚(トンドルシルウロ)はまだ雷精が残っててね。生だとそいつが抜けきらずに、独特のしびれを喰らわすのさ」

 何というものを食べさせてくれるのでしょう!
 私はエールで口の中を洗い、そして気づけば文句を言う前にもう一口を頬張ってあばばばば。

「こいつは後を引くだろう!」

 確かに全くその通りです。口の中がしびれるこの、味というのでなし香りというのでなし、かといって食感というのでなし、第四の不思議な感覚が、味わいに不思議な立体感をもたらすのでした。

 ユヴェーロさんも揚げながら食べ、飲み、そして活きのいい身をさばき、その夜は三人で飲み明かしたのでした。





用語解説

・氷室
 ある程度大きな飲食店では、一部屋丸まるを氷精晶(グラシクリスタロ)で冷やした氷室を持っていることが多い。

乾酪(フロマージョ)
 動物の乳を原料として、発酵させたり柑橘類の果汁を加えて酸乳化した後に、加熱したり酵素を加えたりしてなんやかんやあって固めた乳製品。いわゆるチーズ。

・夕刻の鐘
 正午の鐘と同じように、夕方の六時ごろに鳴らされる鐘。基本的にどの業界も、長くてもこの時間で仕事は終わる。というのもこの後は暗くなる一方なので灯りがもったいないのだ。

・お金
 帝国の通貨は三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)七角貨(セパン)九角貨(ナウアン)、そして金貨の五種類存在する。一〇〇三角貨(トリアン)で一五角貨(クヴィナン)。一〇五角貨(クヴィナン)で一七角貨(セパン)。四七角貨(セパン)で一九角貨(ナウアン)
 つまり一九角貨(ナウアン)=四七角貨(セパン)=四十五角貨(クヴィナン)=四千三角貨(トリアン)
 金貨は主に恩賞や贈答用で、その重量や芸術性で価値が決まる。
 どうせ大して出てこない設定なので覚えてもこれと言って得はない。

・指を使って計算
 頭が悪そうに聞こえるが、リリオが使っているのは商人の用いる運指。
ひとつは、親指に一、人差し指に二、中指に四、薬指に八、小指に十六という風に数字を割り振ることで、片手で三十一まで数えることのできるもの。両手を遣えば六十二まで数えられる。
 やってみるとわかるが、こんな指攣りそうなものを滑らかにできるだけの器用さは結構なものだ。実用性はともかくとして。
もう一つは、我々の世界ではインド式指算として知られるもので、両手を使って15×15まで計算できる。

算盤(アバーコ)
 いわゆる算盤。竹製や木製、護身用に総金属製などがある。一つの芯に十顆ずつの珠のものもあれば、天一顆地四顆のよく見られるもの、また硬貨の換算に便利なように珠の数を調整したものなど、様々なものが出回っているようだ。

魚醤(フィシャ・サウツォ)
 魚醤。魚を塩とともに漬け込み発酵させ、そこから染み出た液体を濾したもの。独特の香りまたは強い匂いを持つが、濃厚な魚のうまみが凝縮されている。塩分濃度は醤油より高い。

紫蘇(ペリロ)
 爽やかな香りのする野草で、緑色のものや、鮮やかな紫色のものなどがある。

麦酒(エーロ)
 上面発酵の麦酒。いわゆるエール。地方や蔵元によって味が異なる。
前回のあらすじ
あ ば ば ば ば ば ば ば っ 。



 飲み過ぎた。

 酔っぱらっていて意識が揺れまくっていたせいか記憶があいまいだけれど、どうにかこうにか《目覚し時計》はセットしたようで時間には目覚められた。
 しかし、気分は最悪だ。アルコール耐性もつけてくれよと思ったがそうなると酔いたいとき酔えないで困るのか。不便だ。

 二日酔いで痛む頭を抱えながら身を起こすと、景色が違う。
 何故だと思ってみれば、これは私のベッドではない。部屋の反対側だ。

 いやな予感というか確信がして布団をはいでみれば、中途半端に服を脱ぎ散らかしたリリオが腰のあたりに抱き着いて涎をたらしていた。
 反射的に蹴り落として、生理的嫌悪感からくる鳥肌をさすりつつ、自分の有様を確認してみた。

 一応、酔っぱらいながらも着替え位はしたようで、下着はつけていないし寝巻代わりの《コンバット・ジャージ》にも着替えているが、うまくジッパーが閉じられなかったのか前は開いているし、かなりだらしがない格好だ。頭に触ってみれば寝ぐせも酷い。

 最悪の目覚めだ。

 取り敢えず酩酊状態を回復する《ノアの酔い覚まし》という水薬を一口飲んでみると、幸い効果があったようで頭痛も吐き気も晴れた。酔っぱらった時点で飲んでおけばよかったものをと思うが、酔っぱらった時点で思考能力などお察しだ。仕方あるまい。

 しかし、この二日酔いという最悪の目覚めはあったが、昨夜の食事は素晴らしいものだった。まさか異世界で天ぷらと刺身が食えるとは思わなかった。勿論、いくらか違うところはあったし、醤油ではなく少し匂いのきつい魚醤であったが、私の中にもわずかばかり存在していたらしいホームシック的な郷愁の念も晴れたというものだ。

 刺身を食べた時のあのしびれる感じは驚いたが、ワサビがなくて少し物足りないなと思っていた口にはちょっとうれしい驚きだった。フグの胆ってのはあんな感じなのだろうか。いや、まさかあそこまで直接的物理的にしびれるというのではないだろうけれど。

 さて、寝癖を直し、汲み置きの水で顔を洗って歯を磨き、普段の装備に着替えて、これでいつも通りだ。

 ベッドから蹴り落とされても暢気に眠りこけているリリオを《目覚し時計》の角で殴って起こし、先に行っていると言い残して階下に降りる。

 するとまあ、悲惨なものだった。
 こぼした酒や食べ物、また吐瀉物で床は汚れ、転がっている椅子などもあり、飲み過ぎたらしい泊り客が何組か青ざめた顔でテーブルに突っ伏し、その間をやや緩慢な動きでユヴェーロさんが掃除していた。

「ああ、ウルウ君か。おはよう。すまないが朝飯は昨日の残りで我慢しておくれ」
「構いませんよ」

 昨夜揚げた猫魚(シルウオ)の残りをいくらか頂いて食べてみたが、こいつは冷めてもなかなか食える味だった。衣はしけっているが、身の方はなんだかもちもちとしていて、なかなか食いでがある。林檎酢(ポムヴィナーグロ)をかけるとちょっときついが、軽く塩を振って食べるとちょうどいい。

 手早く食べ終えて、私は少し考えていったん引っ込み、これなら汚れてもよかろうと昨夜の給仕服に着替え直して、片づけの手伝いに参加した。昨日は随分美味しいものを食べさせてもらったし、これも給料分だ。年甲斐もなく足を出した格好は恥ずかしいものがあるが、酔っ払いに尻を触られそうになっては自動回避が発動しまくってブレイクダンスじみたことさえしたのだ。もう、慣れた。

 ユヴェーロさんに感謝されながら掃除をし、半分ほど片付いたあたりでリリオもおりてきた。リリオは最初から手伝う気だったようで給仕服を着こんでいて、先程までの寝ぼけぶりなどどこへやら、そして二日酔いなどまるでないらしく元気溌剌に掃除に参加した。こいつの高生命力(バイタリティ)は肝臓までカバーしているのか。

 私と、そしてえらく元気なリリオの活躍によって掃除は手早く終わり、ユヴェーロさんは昼から営業を再開することを宣言した。眠そうではあるが、宿屋というものは基本的に年中無休だ。一応昼には雇われの給仕も来るらしいので、それで何とかしのぐそうだ。

「さて、それじゃあ報酬と依頼票だ」

 ユヴェーロさんは、私にはまだ虫食いのようにしか読めない依頼票にさらさらとサインをして依頼の完遂を認めてくれ、写しにも同じようにサインをして寄越してくれた。

「さて、報酬だけど、ウルウ君の活躍もあって結構な額になってね。どうしようか。手形にするかい? というかしておくれ」
「うーん。とりあえずの手持ちに二十五角貨(クヴィナン)下さいな。残りは手形で」
「助かるよ」

 そう言えばこの国、帝国だったかでは、貨幣がきちんと統一されているようだ。これは何気に凄いことだと思う。貨幣というものは担保となる金なり銀なりの価値が安定していて初めて通用する。貨幣がきっちり統一されて、その価値の変動が少ないということは、採掘量が安定している、というよりは国家としての信用がしっかりしていることだと思う。

 しかも手形、この場合約束手形になるのかな、そういうものが存在しているということは商取引がかなり洗練されているということだ。専門じゃないからよくわからないが、少なくとも金銭のやり取りを現金以外の方法でできるというのはかなり近代的だろう。

 さて、昨夜見せてもらった硬貨は小さいものから順に三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)七角貨(セパン)九角貨(ナウアン)といった。
 名前の通りそれぞれやや丸みを帯びた三角形、五角形、七角形、九角形の硬貨で、どれも大きさは似たようなものだ。

 三角貨(トリアン)は銅貨で、支払いで見かけるのはもっぱらこれだ。大振りの串焼きなんかは十三角貨(トリアン)くらいかな。焼き鳥位の小さい奴なら五三角貨(トリアン)くらい。

 百三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)になる。これは鉄製かな。少し大きい額の支払いなんかで見かける。一度に食べる量の多いリリオは結構これを使うことが多い。

 十五角貨(クヴィナン)七角貨(セパン)になって、これは銀貨だ。さすがのリリオも一度の食事でこれを出すことはない。以前に泊まった《黄金の林檎亭》での支払いで見かけたきりだ。

 この七角貨(セパン)四枚分が九角貨(ナウアン)で、これも銀貨だけど、多分含有量が高い。一応リリオも持っていたは持っていたけれど、本当にもしもの時のためのもので、個人で使うことはまずないという。商人なんかが大きな取引で使うもののようだ。

 結構計算が面倒くさいが、たいていの場合三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)しか出回らないから、これに換算すればいい。昨夜は暗算で計算してたら絡まれたので反論したら、何故だかいつの間にか計算合戦になってしまって辟易したが、しかしあれも考えたら悪いことをしてしまった。

 なんか算盤みたいなの使って必死で計算しているところ悪かったが、私、途中から暗算なんかしてないんだよね。単品の値段は固定だから、それかけることの幾つかっていうのは、客の数からいって限られてくるから、その組み合わせを覚えれば、あとは計算しないでも当てはめてしまえばすぐに数字出るんだよね。
 単純な数の計算ならもっと簡単で、九九を覚えてるかどうかというのと同じレベルで、二十かける二十くらいの計算までなら昔暇つぶしに覚えたから。

 私、計算力はそこそこだけど、記憶力だけはいいんだ。

 さて、その上の金貨となるとこれはもう普通は流通しなくて、恩賞や贈答用であったり、銀行や貴族が箔付けにもっていたりというものらしい。

 何も考えずにゲーム内通貨の金貨をばらまいた気がするけど、そりゃああの野盗も、リリオも困るわけだ。換金しようにもそうそうできまい。

 なので、ウルウの稼ぎですからと渡された手形はそのままリリオに渡した。散々渋られたのだが、私の方も散々渋った挙句に、苦肉の策としてパーティの資金だからというとにこにこ笑顔で納めてくれた。ちょろい。

 なお、手形をちらっと見た感じちょっと金額がおかしかったので心の底からユヴェーロ氏には申し訳ない。そりゃ即金で払えないわ。二メートル弱の奴一匹で八百三角貨(トリアン)かよ。ぼろ儲けし過ぎた。必死こいて囲んで棒で殴って疲れさせたところを捕まえて、傷だなんだで値引かれている地元冒険屋に申し訳なさすぎる。

 あまりの申し訳なさに、ウルウもある程度は持っていてくださいと寄越された五角貨(クヴィナン)をさっそくユヴェーロ氏に渡して、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)獲りの冒険屋が来たら激励代わりに一杯飲ませてやってくださいと言ってしまった。

 そのようにして私たちは初めての魔獣討伐を終え、あまりにも早すぎる試験終了のお知らせを叩き付けにメザーガ冒険屋事務所へと向かうのであった。



 メザーガという男は、野ネズミのように勘のいい男らしい。

 私たちが、というよりはリリオが事務所の戸を勢いよく開いた時、メザーガはちょうど上着を羽織ろうとしていたところだった。つまり、前回と同じだ。いま思うに、あの時も恐らく逃げ出そうとしていたのだろう。
 私としては面倒ごとを回避しようというその姿勢には大変共感が持てるのだが、リリオの物語がこれ以上進展しないとそれは観客としては退屈極まりないので諦めていただこう。

 さて、苦汁をリッター単位で飲み下したような顔で椅子に座り直すメザーガに、リリオは意気揚々と完遂済みの依頼票をもって、さあどうだと冒険譚を語り始めた。冒険者にしろ冒険屋にしろ、武勇譚を語りたがるというのはファンタジーものの定番らしい。

 その間私はというと、クナーボと名乗った町娘風の少女に椅子をすすめられ、淹れたての珈琲っぽい飲み物を頂いた。結構大人びた顔立ちだが、成人するのは来年とのことで、西欧人の顔立ちはわからないというか、この世界の生育具合がわからないというか。

 このクナーボという少女は冒険屋というものに対して実に愛らしくいたいけな憧れと理想を抱いているようで、それというのもリリオと同じように親戚筋であるらしいメザーガの冒険譚を聞いて育ったもので、それに強く憧れているらしいのだった。

 いまは前線を退いているとはいえメザーガの若い頃の武勇はそれはもうすさまじいもので、いや、今だって若者に活躍の場を譲っているだけで腕は全く衰えていない、確かに少しだらしないし金勘定もいい加減だし事務処理だって自分が片付けている部分は多いが、まあ人間としていささかの難点はあるけれどそれを差し引いても冒険屋としてこれほど立派な人はそうはいないと、聞いているこちらの背中がむずかゆくなるような話を聞かせてくれるわけだ。

 向こうでその当のメザーガが虚ろな目で天井を見つめているのは、はたしてリリオの話を聞き流しているのかクナーボの話を聞き流しているのか、どちらにしろ哀れな中年だ。

 ともあれ、私が一杯の珈琲をのんびり飲み終える頃にはクナーボのメザーガ語りもリリオの武勇伝も落ち着き、疲れ果てたようなメザーガが「もういい」とどちらにともなく告げて、場を整えた。

「わかったわかった。依頼票も確かに本物だし、話の内容も嘘はなさそうだ。三十八匹も生け捕りにしたなんざ嘘であって欲しいが、ユヴェーロがほら話の為に手形切るわけがないからな」
「じゃあ!」
「いいだろう、うちの事務所で冒険屋見習いとして雇ってやる。即戦力もいいとこだが、うちのやり方に馴染むまではまあ、見習いってことでな」

 そう聞いたときのリリオの喜びようと言ったら全く、年相応の子供らしいものだった。と言えばかわいらしいが、勢いよく飛びあがって私に抱き着いてきて自動回避を発動させやがった挙句、抱き着いた椅子を締め上げて破壊するという暴挙に出るほどだった。

「……言っておくが、備品を壊したら依頼料から天引きだ」
「ぐへぇ」

 砕けちった椅子の破片を涙目で組み上げようとする様は、あほな大型犬のようでかわいらしいというよりは、うっかり力加減を間違えて飼い犬をバラバラにしてしまったサイコパスみたいなちょっとぞっとする光景ではある。普段は力加減間違えない癖に私に突進するときだけやたらと破壊力高いの、壊れにくいおもちゃとでも思ってんじゃないだろうなこいつ。

「一応空き部屋があるから、二人で使うといい。寝台が一つに、寝椅子が一つあるから、交代で使うなり新しく買うなりは好きにしてくれ。家具の新調は自由だが、備品を勝手に売るのはやめろ。倉庫があるから邪魔なのはそっちに移せ。消耗品は自費で賄うこと。飯は付かねえ。要するに屋根だけ貸してやるってことだ」
「わかった」
「わかりました」
「依頼に関しては俺が適正を鑑みて割り振るが、お前らの都合もあるからな、物にもよるが断っても構わん。依頼料から一割を仲介料として抜くが、これは組合の決めた割合で、俺には好き勝手にはできん。高くも、安くもな。あとは何があったか……」
「他所で依頼を受けた時ですよ、おじさん」
「そいつだ。お前たちが自分の足で仕事探して他所で受けてくる分には一向にかまわねえ。ただしその場合うちからの支援はねえし、あんまし他所に迷惑かけるならペナルティもある」
「例えば?」
「罰金、奉仕活動、除籍、まあそのあたりだな」
「大丈夫ですよー、ねえウルウ」
「私はね」
「ウルウ?」
「それから、ほっつきまわるのは自由だが、連絡が取れねえのは困る。長く留守にするときは必ず一報しろ」
「報連相だね」
「あ? なんだって?」
「報告、連絡、相談」
「おお、その通りだ。その三つは大事だ。頼むぜ」
「ええ、勿論ですよ! ね、ウルウ?」
「私はね」
「ウルウ?」

 大まかな所はそのような具合らしい。
 私たちは早速部屋を見せてもらったが、どうやら長らく誰も使っていなかったようで、最低限の備品はあるが、逆に言えばベッドとソファくらいしかなく、埃も積もっている。

 私たちは適材適所を合言葉に役割分担することにした。
 つまり、リリオは宿まで走って部屋を引き払い、その帰り道でよさ気な家具を見繕う。私は部屋の掃除を済ませ、物置とやらで何か使えるものがないか探す。

 冒険屋見習いとしての最初の仕事は、まずこのようなことから始まったのだった。





用語解説

・《ノアの酔い覚まし》
 ゲームアイテム。状態異常の一つである酩酊を回復させる水薬。他の薬品と比べてかなり小さな瓶として描かれているあたり、少量でも効果は抜群、つまり味は相当まずそうではある。
『今年の抱負:酔って脱いでも孫を呪わない』

・記憶力だけはいい
 相当なレベルで。