異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ

前回のあらすじ

すごかった。
正直怒られて修正を求められるのではないかと怯えているのであった。




 すごかったわ。

 何がっていうか、何もかもっていうか。
 あんなにあんなだと思ってなかったって言うか。

 そりゃあたしも、女中仲間に揉まれて鍛えられてきたわけだし、女同士で盛り上がればそう言う下世話な話もしてたし、子供じゃないんだから知識としては知ってたわ。でも、うん、知ってるだけだったんだなって今となっちゃ思うわ。
 誰それがなにがしとくっついただとか、同期はみんな抱いたねとか、ナニが大きいだとか、締め付けの具合だとか、まあ、娯楽も少ない年頃の女が集まれば猥談でいくらでも盛り上がるのよ。
 あたしもそう言うの聞いたり、話したりして、そういうもんかなーとか思ってたんだけど、実際経験しちゃうとそう言うのがみんなかすんじゃうくらいのすさまじさがあったわね。猥談語る経験者と自称経験者がすぐに態度で見分けられたの、こういうことだったのねって感じ。

 猥談では滑稽だなって笑ってたのが、もう全然馬鹿にできないの。あんなにもすごいんだったら、そりゃ誰だってがっつくし、頭の中パーになるし、下半身でもの考えるようになるわよ。
 何しろ三人とも初めてだし、突然のことだったし、ウルウはともかくアタシもリリオも完全に雰囲気にのまれてたっていうか、トサカに来てたっていうか、それこそがっついて頭の中パーになって身体でもの考えてたから、最初から最後まで滅茶苦茶だった、と思うわ。

 まあ、最初の最初はほら、まだ正気だったのよ。正気っていうか、まあ、まだ落ち着いてたっていうか。
 おぼこいお嬢ちゃんみたいにまずは口づけからしよっかって。
 なんだか恥ずかしくなっちゃって、なんか顔が見れなくなっちゃって、ちらっちらって伺うみたいにして、目が合ったらなんだかいてもたってもいられなくなって顔を伏せたりして、自分がそんな恋する乙女みたいな真似するとは思わなかったわ。

 で、覚悟を決めて、いざってなったら、はちあったわけよ。
 あたしと、リリオと。
 ほら、口づけするってなったら、向かい合って、唇と唇を重ねるわけよ。
 それで、あたしとリリオはそれぞれウルウと口づけしようとしたわけ。そしたらほら、押しのけ合うことになるじゃない。何しろ頭に血が上ってるからなんだこいつぶっ殺すわよとまではいかないまでも、我が我がってなるわけよ。
 なにしろ最初の口づけだもの。形があるものじゃないけど、やっぱり一番がいいじゃない。あたしが、いえ私が、って問答にもなるわ。
 そりゃリリオが主であたしが従者ってのはあるけど、でも同じ女に懸想してるってことでは対等だもの。譲れないわよね、もちろん。

 それで、いよいよ取っ組み合いで決めようかってなったら、ウルウが言うのよ。
 別に私ははじめてじゃないしどっちでもって。
 誰としたのよって詰め寄ったら、あいつ、こう言うのよ。お父さんとはしたことあるからって。
 なんか、すっかり気が抜けちゃったわ。おかしくって。

 それで、三人顔寄せ合って、ひとところに唇を集めてね、三人一緒に口づけしたの。
 なんだかおかしかったわね。ほっぺたがぶつかり合って、額がぶつかり合って、口付けてるんだか何だかわかりゃあしなかったわよ。でも、うん、それでもねえ、最初は微笑ましかったんだけど、何度も唇を重ねてると、胸の中で好きだーっていうのが、どんどん積み重なって、勝手にどんどんおっきくなってくの。
 で、誰かがね、もう誰だかわかりゃしないんだけど、ちょっと舌を出したのよ。湿った感触がして、びっくりして、あとはもう雪崩れ込むようだったわ。

 まあ、そんな理性が月まで吹っ飛んだような具合だったからウルウにはずいぶん負担かけたと思うわ。鍛えてるあたしでも腰痛いし、普段使ってないような体のあちこちが軋むし。リリオがケロッとしてるのはもうなんも言わない。リリオだもの。

 ああ、そう、リリオと言えば、普段食い気ばっかりのくせして、最近ウルウだよりで全然使ってなかった《自在蔵(ポスタープロ)》にあれやこれやと忍ばせてたのには驚いたわね。何にも準備してなかったから助かったといえば助かったけど、いったいいつの間に買いそろえたのやら。

 なんてことをぼんやり思い返している間にも、男爵家の女中は優秀なもので、下世話な顔一つ見せず、手早くあたしたちを盥の湯で清め、着替えさせてくれた。
 お世話されるのに慣れてるリリオも、さすがに「あのあれ(ウーモ)」の跡が散った肌を見られるのは堪えたようだった。
 その上、実にさりげなくしかししっかりと窓を開け放って換気までされて、部屋にこもった、あー、よどんだ空気をね、自覚させられるとこう、さすがのあたしも取り繕うのに必死だった。

 なおウルウは逃げた。
 あたしたちを叩き起こすや否や、姿を消してしまう呪いで女中たちから隠れて、こっそりお湯を借りたりしながら身支度を整えてた。あたしたちにはそれがうすぼんやりとした影みたいな姿で見えるけど、そうもいかない女中たちは()()()()の姿が見えないので不思議そうにしていた。

 よもや逃げられて主従で慰め合っていたのではとか言うクッソ不本意な目で見られちゃったけど、支度が済んだら何事もなかったかのように取りすました顔で現れてくれたので、女中を驚かせながらも誤解は解けたからよかった。
 あたしたちばっかり恥ずかしい目にあって、一人だけ取り繕ってるのが腹立つけど。

「………ねえウルウ」
「なあに」
「今朝は髪結わないのね」
「うっさい」

 腹いせというわけじゃないけど、軽い気持ちでからかってみたら水月に容赦のない貫き手をねじ込まれて死ぬかと思った。油断してたとは言えあたしが反応できないのってかなり本気だった。
 感情との付き合い方がど素人のウルウは照れ隠しで人を殺しかねないらしいので、からかうときは気をつけないといけないわね。

 でも、そりゃ馬鹿みたいに跡付けたあたしたちが悪いのは確かだけど、あたしだって跡が残ってるし、リリオだってそうだ。そのうちのいくつかはウルウがつけたものなんだから、お互い様だと思う。
 なんなら背中と脇腹に爪の跡まで残ってるし血まで滲んでるんだけど、まあそれは言わないでやろう。トチ狂ったリリオが噛みついた分考えると確かにこっちの方がやらかしちゃってるし。

 神経質そうに首元を気にし、髪ににおいがついていないか確かめ、落ち着かない様子のウルウは、冬眠明けの熊みたいだった。それが可愛く見えるのだからあたしも大概頭がやられている。

 いやだって、仕方ないじゃない。

 懐いてるのか懐いてないのか微妙な猫みたいな感じだったのに、くっきり爪痕残すくらいあたしを求めてくれたっていうのが、あたしの頭をふわんふわんに喜ばせているのだ。尽くすのが武装女中の(サガ)だけど、応えてもらえるのはその本能に深々と突き刺さるのだ。
 そりゃあ嬉しくてにやつきもする。
 するけど、あんまりからかうのもまずいか。
 いつも通りのつもりだけど、調子に乗って距離感間違えてるかもしれない。
 神経質な猫みたいに毛を逆立ててるウルウを見てると、ちょっと落ち着いてくる。

 あたしはしあわせいっぱいで喜びいっぱいだけど、憮然とした顔のウルウはもしかしたらそうじゃないのかもってちょっと不安にもなる。
 だってウルウだ。
 物語を読んで物を知ったような顔をしている生き物であるところのウルウだ。
 恋物語を読んで恋を知ったような生き方をしてきていても、おかしくはない。
 そんなある意味お子様なウルウが大人の階段を一気に駆け上ってしまったら、その生々しさとか諸々に打ちのめされて、平気な振りした裏ではすっかり怯えてしまっているのかもしれないのだ。

 朝食の席で男爵閣下と奥様に盛大にお祝いされても、こぎれいに取り繕った営業用の愛想笑いで受け流してしまったのも、なんだかちょっと不安だ。あの作り笑顔の裏で、もう触れてくれるなと念を放っているようでさえあるもの。
 さすがにこれがずっと続くと、あたしはもとより、リリオがまずいかもしれない。どんな顔をしていいかわからずに表情筋が死に絶えて無表情になっているという大変珍しく面白いもとい重症なのだ。

 めでたいめでたいと人のいい笑顔で人のよろしくない腹蔵を伺わせる男爵閣下と、無責任に朝から酒など口にしている奥様、二人の笑い声に紛れ込ませるように、そっとウルウをつついてみる。

「ねえ」
「……なあに」
「もしかしてその……嫌だっヴぇッ」

 恐る恐る尋ねてみたら肋骨の隙間に的確に貫き手をねじ込まれた。あたしが体裁をとりつくろえる程度に加減しているあたりが恐ろしい。
 これは相当怒っているのでは、と伺ってみると、ウルウはこちらを見てもくれない。もくもくと、あのハシとかいう二本の棒で、煮豆をひたすら一粒ずつつまんでは口に放り込んでいる。
 駄目か、とうなだれそうになりながらも未練がましくチラ見してみると、なんか、よく見たら、耳が赤い。

「……嫌じゃないから困ってる」

 ぼそぼそっと、隣にいるあたしたちだって聞き逃してしまいそうな小さな声が、酒も飲んでいないのにくらりとくるほど蠱惑的に響いたのだった。
 うつむき気味の顔は長い髪で隠されて横からは伺えなかったけど、向かい側の奥様がニヤニヤしてたから、ああ、きっと、お察しってこと。






用語解説

・あれやこれや
 ファンタジー世界特有であったりなかったりする様々な道具がいろいろあるらしい。
 残念ながら本編ではお見せすることができないものもあるのでご想像にお任せする。

あのあれ(ウーモ)(umo)
 物の名前が出てこないときに用いる語。
 →鬱血

()()()()
 嫁女と書くと思われる。
 嫁に同じ。

・水月
 ここではみぞおちのこと。
 人体急所の一つで、ここに衝撃を与えると非常な痛みが走り、また横隔膜の動きが瞬間的に止まることがあり、呼吸困難に陥る。

・貫き手
 手の指を握らずまっすぐ伸ばした状態で相手を突く技。
 鍛えていないと指先を痛めるが、拳よりも小さい面積に力が集中するため、急所などを突くとより大きなダメージを与えることができるとされる。
 閠が本気でやった場合、魔力の恩恵を受けていない人体程度なら貫通させられるかもしれない。
前回のあらすじ

すごかった(二回目)。
照れ隠しに暴力を振るう系ヒロインはいまもジャンルとして存在するのか。




 すごかったです。

 というのをいつまでもやっていると、さすがにウルウが本気で怒りそうなのでそろそろやめておきましょう。
 いやほんと、ここだけの話、本当にすごかったんですけどね。
 私もう、途中で頭の中がぐっちゃんぐっちゃんになって、それで、真っ白になって、ぐわーってなっちゃったんですけど、ぶん殴られて正気を取り戻すまで壊れなかったウルウってすごくありません?
 あと私が噛みつくや否やためらいなくこめかみを棍棒でぶち抜くトルンペートすごくありません?
 というか、私がぷっつんくるの見越して寝台に鈍器持ち込んでおくっていう気概がもうすごくありません?

 なんか私だけすごさの基準が違う気がしてならないのですけれど、まあそれはそれとして。

 正直なところ何を食べているのか全く味もわからないまま気もそぞろに山盛りの朝食を平らげたところで、おじさまは私たちにいくつかの贈り物をくださいました。旅の餞別と、そしてお祝いにと言って。
 私たちの旅に必要なものだからというそれは、防寒具一揃いでした。
 成程、確かにこれは必要なものでした。

 移動中はずっと暖かくした竜車の中にいましたし、外に出る時も、辺境育ちの私やトルンペートにとってはまだ大した寒さでもなかったので、北部で買った上着でもどうにかしのげました。
 お母様の飛行服は何しろ空の上を翔けるためのものですから防寒は言うまでもなく、ウルウに至っては多分なんかいつものまじないか道具のおかげかしれっとしてます。

 でもさすがにどんどん冬も深まっていく中、辺境を奥へ奥へと旅するとなると、しっかりとした防寒着が必要になってきます。寒くて凍えるとかそんな話ではなく、率直に死ぬからです。凍って死にます。
 いくら辺境育ちでも、辺境育ちだからこそ、辺境の極寒に対してはきちんと対策しないといけません。

 私が辺境を出た時は初夏のことで、かさばる防寒着なんかはさすがに持ってきていなかったので、ここで手に入るなら、ありがたいことです。ありがたいというか、出発する前にどこかで買っていこうと思っていましたから、ちょうどよいですね。

 おじさまが気前よく私たちに下さったのは、最高級の大箆雷鳥(アルコラゴポ)の防寒具でした。
 それも真っ白な総冬毛の上等なものです。大箆雷鳥(アルコラゴポ)の毛皮は、暖かいだけでなく水をよく弾くので、雪が溶けても、中までしみ込んできません。よく手入れした大箆雷鳥(アルコラゴポ)の毛皮は、海を泳いでも大丈夫だというくらいです。

 上下と手袋、長靴と揃えてあって、どれも文句なしに一級品です。
 上着は縁を長い毛で縁取った頭巾がついていて、すっぽりかぶって口元までしっかりぼたんを留めると、外気を遮ってまつげや呼気が凍るのを防いでくれるようになっています。
 下衣は着衣の上からでも履けて、足さばきも邪魔しない程度にゆったりした造りで、もふもふと暖かいけれど窮屈さがありません。
 袖や裾はひもで絞れるようになっていて、外気が入り込まない造りですね。

 手袋はさすがに分厚くて、ちょっと細かな作業はしづらくなりそうでしたけれど、手のひらのあたりから指先の方だけ開くようになっていて、そこから指を出せるようになっていました。これは便利です。

 長靴の内側はもこもこの毛でおおわれて実に暖かです。おまけに底が最高。靴底です。なにしろ幅広で、滑り止めの細かな溝が入った護謨(グーモ)底なのでした。
 内地の靴だと雪が染みますし、氷の上で滑りますし、辺境じゃやっていけません。その点、護謨(グーモ)底の辺境の靴は滑りにくく、雪も染みませんし、弾力があって疲れづらいですし、寒さにも強いです。
 外付けの金属鉤をくっつけて氷に突き立てる靴もありますけれど、石畳の上じゃ却って危ないですから町中じゃ使えませんし、何しろ金属というのはよく冷えますから、うかうかしてると氷に刺さったまま凍り付いて抜けなくなるなんて時もあるんです。
 その点、この護謨(グーモ)底はそんな心配がありません。

 内地で買うとお高い護謨(グーモ)底の靴ですけれど、実はこの護謨(グーモ)、辺境特産だったりするんですよ。南大陸でも似たようなものが見つかってるらしいですけれど、安定した供給と品質の高さはまだまだ辺境護謨(グーモ)が頭一つ抜けているようです。

 小柄な私たちだけじゃなく、ちょっとばかりでなく背の高いウルウにもぴったりのものをしれっと持ってくるあたり、もしかするとお母様から連絡があった時点から準備していたのかもしれません。

 ちなみにそんな品々の中で私たちが一番喜んだのは、たっぷり用意してくださった替えの靴下でした。
 毛糸で編んだ厚手の靴下は、ありふれたものではありましたけれど、何しろこれがあるとないとでは全く何もかもが変わってきますし、その癖穴があいたり擦り切れたりとすぐに駄目になってしまう消耗品なのです。

 この素敵な贈り物をありがたくいただいて、おじさまと騎士たちに盛大に見送られながら私たちは竜車に乗り込んでいきました。
 またか竜車と早速うんざりげんなりぐったりしているウルウでしたけれど、なんだかそんな姿ですらとてもいとおしく思えます。
 その後ろ姿を眺めながら悦に入っていると、お母様に小突かれました。

「そろそろいい加減にしないと、ウルウちゃんも怒っちゃうかもしれないわよ」
「うぐ、それは困ります」

 というか大本の元凶はお母様なんですけれど。
 やっちゃったてへみたいな顔で、一歩間違えば大惨事の密室を作り出すとかどういう神経しているんでしょう。
 親の顔が見たいと思いましたけど、ハヴェノでじっくり見てきましたし、なんなら実の娘が私です。
 納得の顔。

 まあでも、言っていることはもっともですので、気をつけなければいけませんね。
 ただでさえ神経質なウルウです。
 このあたりでちょっと冷静になって、切り替えなければなりません。

 竜車は空高く飛びあがり、よく晴れた空を勢いよく駆け抜けていきます。
 まあ私たちは締め切った竜車の中で、ウルウのこの世を呪うようなうめき声を聞きながらなのでいまいち格好がつきませんが。
 なにはともあれ、私たちの旅はいよいよ辺境らしい辺境へと至ります。

 龍の(あぎと)より来る竜たちを迎え撃つ天然の要塞。
 吹雪を切り裂いて天翔ける飛竜乗りたちの根城。
 対竜最終防衛線モンテートへと。






用語解説

大箆雷鳥(アルコラゴポ)(Alko-lagopo)
 オオヘラライチョウ。
 大陸最大級の羽獣。辺境及び北部の一部に棲息。雄は箆状の巨大な角を有する。
 成獣の体長は三メートル前後、肩高は二メートルに及ぶ。
 記録では一トン越えの個体も見られる。
 草食ではあるが、成獣は熊木菟(ウルソストリゴ)をはじめとした大型肉食獣を追い払うないし殺傷することが可能である。
 針葉樹林及び沿岸部でよく見られる。
 夏は褐色、冬は純白の羽毛に換毛する。
 羽獣としては珍しく足にも羽毛がある。
 毛皮は防寒性、防水性、耐久性に優れ、肉も食用になるが、仕留めるのには危険が伴うため、傷の少ない毛皮は非常に希少。

護謨(グーモ)(gumo)
 いわゆる弾性ゴム。植物から採取されるラテックスを精製、凝固乾燥させた生ゴムに硫黄や炭素などを加えたもので、我々の知るゴムと大きな違いはない。
 近年では南大陸の植民地で発見されたゴムノキの類からもラテックスが採られるが、輸送費、栽培数、加工法の問題などがあり、まだ主流ではない。
 現在は辺境で栽培されている不凍華(ネフロスタヘルボ)のラテックスが主に用いられている。
 不凍華(ネフロスタヘルボ)のゴムは、耐寒性に優れ、辺境の極寒でも柔軟性と弾性を失わないとされる
 やや高価ではあるものの、一般に流通する程度には普及しており、冒険屋や騎士、また商人たちの靴に用いられることが多い。馬車の車輪に用いる例もある。
 なお、最初に靴底にしようとしたのは冒険屋らしい。


不凍華(ネフロスタヘルボ)(nefrostaherbo)
 辺境及び北部山岳地帯の一部でみられるキク科タンポポ属の植物。
 濃い黄色の花をつけ、綿毛のついた種子を作る。葉は色濃く黒っぽい。
 地表部は背が低いが、根は非常に長く、二メートル以上のものもザラ。
 ゴム加工用の栽培種では品種改良が進み、この根が太く、乳液を多く含む。
 生命力が強く大抵の場所に根付き、極寒の地である辺境において通年花を咲かせるため「凍らない花(草)」の名で呼ばれる。
 この花が凍らない理由は乳液の持つ性質にあり、これは真冬の辺境においても凍結しない対低温性を示す。
 辺境が帝国領に組み込まれた後、当時帝国側から派遣された総督がこの性質に目をつけ、特産として利用できないか研究した結果、酢酸を加えて凝固させた生ゴム、硫黄を加えた弾性ゴムの製法が確立された。
 長々と語ったがお察しの通り今後この知識が本編で活用されることは多分ない。


・竜の(あぎと)
 竜たちが住まうとされる北大陸と帝国との間にそびえる、臥龍山脈の切れ目。
 飛竜たちはこのわずかな隙間を通って人界へとやってくるとされる。
 現在は対竜最前線であるフロント辺境伯領がこれを塞ぐように要塞化している。

・モンテート
 子爵領。対竜最終防衛線。
 龍の顎を蓋するように広がる山岳地帯。
 臥龍山脈ほどではないが険しい山々を要塞化する形で町ができている。
 フロントを突破してきた飛竜はここで確実に撃墜される。
 フロント要塞が完成する以前はここが竜殺しの最前線であり、竜の顎までの間に住み着いていた竜どもを根こそぎにすることで現在の辺境伯領が開拓されるようになった。
前回のあらすじ

すごかった(三回目)。
男爵から冬の装いを贈られ、いざ臨むは対竜最終防衛線モンテート。




 すごかったすごかったってさんざん言ったけど、竜車に乗り込む頃には私たちはいつもの私たちになっていたように思う。
 というか、結局のところ、私たちは私たちでしかなかったというか。

 私は竜車に乗り込むなり早速げんなりし始めたし、トルンペートは毛布用意してくれたし、リリオはいつものいい声でどうでもいいおしゃべりして気を紛らわせてくれるし。

 そりゃ、朝はまあ、ぎこちないところもあったし、気恥ずかしかったけど、いつもの面子で、いつものことしてるんだから、なんとなくいつも通りの空気になって、結局いつも通りやっていくんだよね、
 別にいつもと違う話するわけじゃないし、バカップルみたいにいちゃいちゃしだすわけでもない。そうしたいとも特に思わない。

 ただ、少し距離感が変わったっていうのかな。
 溝ができたとか、そういうわけじゃないんだけど、でもまあちょっと、クッションの綿が寄ってしまったようなすわりの悪さがあって、でもそれはそんなに悪いものでもなくて、なんだか変な気持ちだ。

 竜車の飛行が安定して、私もなんとか会話できるくらいになって、私たちはいつも通りに下らないお喋りをした。しようとした。してるつもりっていうか、うん。
 いつも通り、普段通りを気にかけるように、装うように、全員が全員そんな風にふるまっているようではあった。

 私も朝みたいにぴりぴりしてないし、トルンペートもそわそわしてなくて、リリオだってにやにや笑いはひっこめた。
 でも、まあ、うん。
 やっぱりまあ、 ちょっと落ち着かない。

 私たちの関係は変わってしまったけれど、でもそれはいままでの関係がなくなったわけじゃない。
 私たちは相変わらず友情を持ち合わせていたし、姉妹のように思う気持ちもあったし、冒険屋仲間としての仕事意識も、ちゃんとある。
 そこに、今までになかった属性が、突然、ちょっと増えただけだ。

 まあ、そのちょっとだけが、見えないところ、気づかないところで少しずつ違和感になって、つまずいたみたいに戸惑っている、のかもしれない。
 私が雪道の歩き方にまだ慣れないように、それはきっといつか自然なものになる、のだろう。
 なってくれないと、困る。

 私だけじゃなく二人も、同じようなことを考えていたようで、暇つぶしにポーカーなんかしてる間も、気が付いたらなんだか目があっていて、私たちはなんだか照れ笑いしてしまった。
 それは、やっぱりなんだか少しぎこちなくて、それから、やっぱり悪くない気持ちだった。

「うん、やっぱり、私たちには急すぎたかもしれませんね」

 リリオが吹っ切るように笑った。

「まあ、あんまり突然すぎたからね」
「事故みたいなもんだったものね。事故では済まさないけど」
「それは勿論、まあ、今後の『交渉』次第ってことで」
「えーっと、それはつまり」
「辺境の蛮族式交渉は嫌だからね」
「ウルウって恋文とか交換日記とかする感じなの?」
「うっさい」

 ただもう少し普通の付き合いを続けたいと言うだけだ。
 そりゃ、あんなことしちゃったから、何が普通かって言うとあれだけど。
 そんな私の複雑なのか面倒くさいだけなのかわけわかんないメンタルを酌んでくれたわけじゃないだろうけど、リリオはただ柔らかく微笑んだ。

「私たちは、私たちなりのやり方あり方を、少しずつ見つけていけばいいと思いますよ」

 そう締めくくるリリオは、なんだかとてもすっきりしたような、いいこと言ってやったみたいな笑顔だけど。

「はいフラッシュ」
「ストレートフラッシュ」
「……役なし(ブタ)です」

 順当にぼろ負けしていた。

 その後も予定調和と言わんばかりにリリオをぼろっくそに負かして小遣いを巻き上げたのだが、まあ、なんだ。悪くないよ、やっぱり、こういうのは。
 私も、リリオも、トルンペートも、別に変っちゃいない。変わっちゃあいないんだ。
 ただ少し、ほんの少しだけ、私の中にある二人が、二人の割合が、増えたって言うだけなのかもしれない。属性のタグ付けが、一つ二つ増えたって言うだけかもしれない。
 それで、それでさ、そのタグが、今まで使ったことのないやつで、ちょっと扱いに困ってるんだけど、でもまあ、そのうち、なんとなく馴染んでいくんじゃないかって、そう思う。今は自然と、そう思える。

 変なのって、自分でも思う。
 ほんと、変な気分だ。
 以前の私なら、誰かとの関係が変わるのって、苦痛だった。
 何も変わらないでほしかった。
 生きているのがしんどくて、死んでいくほどの気力もなくて、楽しくもないような人生を、それでもこのまま続いてくれって、変わらないでくれって、そう祈ってた気がする。

 変わることは怖いことだ。
 自分が変わることも、周りが変わっていってしまうことも。

 選択肢はいつもはいかいいえだけの二択であってほしかったし、いつも同じものを選ぶ実質一択であってほしかった。
 生きていくことは変化の連続で、死ぬことさえ大きな変化で、いつだって怯えていた。
 見ないふりして、知らないふりして、死んでないだけで生きていないような、当たり障りない人生を生きてきた。

 でも、今はさ。
 今は、昔ほど怖くない。
 おっかなびっくり歩いてたら、馬鹿みたいに笑う声が聞こえるから。
 それもまあ、悪くないかな、なんて。
 そんな風に思うのだった。

 まあ、そんな私のポエティックモノローグは誰に聞かせることもなく、朝食と胃液がブレンドされた虹色に規制されるだろう乙女塊とともに窓から不法投棄された。
 空からの嘔吐は不思議な解放感と爽快感といつもの不快感とがあるけれど、真似するのはお勧めしない。吐かないに越したことはないのだ。

 私がトルンペートにお腹をさすられながらリリオの子供っぽいけど心地よい声を聴いてなんとか人の形を保っているうちに、竜車は目的地にたどり着いたようで、マテンステロさんのアナウンスとともに容赦なく激しい揺れがおろろろろ。

 相変わらず乱暴に竜車が着陸し、ようやく私はふわふわしない足場を得た。
 二頭の飛竜が着地する音がそれに続き、私は二人の力を借りてなんとか身だしなみを整えた。
 死にそうな顔はもうどうしようもないとして、せめてぼさぼさの髪はどうにかして、あと水で口もゆすいでおきたかったのだ。

 今更《隠蓑(クローキング)》で隠れようとは思わない。
 どうせ強制イベントなんだから腹をくくって精々楽しむとしよう。

 竜車を降りた先は、カンパーロの竜車場とはまた趣が違った。

 まず、クッソ寒い。
 寒さに体を慣らしていこうと思って《ミスリル懐炉》はしまっておいたんだけど、後悔するレベル。
 男爵さんにもらったもこもこ毛皮の上下とかのおかげで死ぬほど寒いとまでは言わないけど、さらしてる顔面が凍り付きそうだ。
 フード被りたい。かぶって前締めきって閉じこもりたい。さすがにそうもいかないけど。

 この寒さは、単にカンパーロより北だとかそういうことだけではなく、標高の違いがあるんだろう。
 モンテートというのは山にへばりついた領地らしく、子爵の屋敷というか城もその山のただなかにおっ建てたものだそうで、つまりここは冬の北国の山の上なのだ。
 そりゃ寒い。
 そして空気が薄くてちょっと息苦しい、気もする。
 今回竜車乗るときに、「慣らしとかないといけないから」とか言って気圧調整する仕掛けを止められてた時点で嫌な予感はしてたけど、さては結構な標高あるなここ。
 この便利ボディでなければ結構きつかったと思う。

 で、竜車場の造りは、カンパーロではほとんど雪の上に塗料で線引いただけの広場みたいだったけど、モンテートの竜車場は丁寧に雪かきされて、石畳かな、地面が見えているのだ。私にはよくわからない標識や停止線みたいな模様も書いてある。
 すっかり日も暮れているけれど、かなり強い光源がいくつも、高所から照らしていた。
 見上げれば、人工光じみた白い光が、金属製の細い柱の先で輝いている。
 確か輝精晶(ブリロクリステロ)とか光精晶(ルーモクリステロ)とか呼ばれてる珍しい精霊晶(フェオクリステロ)だ。
 それを惜しげもなく使った照明が、等間隔で並んで、広々とした竜車場を照らしているのだった。

 降り立った私たちを迎えたのはやはり儀仗兵たちだったけれど、こちらもカンパーロとはまた違う。
 カンパーロの出迎え儀仗兵たちは、飛竜革の鎧を着た騎士という感じだったけど、モンテートの儀仗兵たちはみな、マテンステロさんの着てる飛行服のようなスタイルなのだ。
 マテンステロさんのものと違って、鮮やかな赤の飛竜革でできていて、胸甲などが施されて鎧に近い感じだ。造りもしっかりしていて、成程これが飛竜に乗っていたら格好よさそうだ。
 まあ、マテンステロさんのはこれを参考に南部で手に入る素材で作ったものだから、見劣りするのも仕方ない話ではある。

 儀仗兵たちで驚いたのは、飛行服だけでなく、掲げた武器もだった。
 カンパーロではそれは槍だったけど、飛竜乗りたちが掲げるそれは、どうにも、見覚えがある。
 それもこの世界ではなく、生前の話だ。
 それはどう見ても銃剣に見えた。あの、銃の先っぽに刃物がついたやつ。
 私は銃の類にはあんまり詳しくないのでよくわからないけど、テレビで見た猟銃とかみたいな形状だと思う。素材は何かわからないけど、飛行服に合わせてか赤く塗装されている。

「……銃あるんだ、この世界」
「ああ、投射器(パフィーロ)ですね。良く知ってましたね、ウルウ」
「うーん……私の知ってるのと同じかどうかはわからないけど」

 まあでも、あれだけ形状が似てたら似たような用途の武器だとは思うけど。
 機会があれば調べてみよう。

 歓迎の楽団もカンパーロみたいに華やかな感じじゃなくて、規律の整ったマーチング・バンドって感じ。曲調も勇ましいもので、力強い。
 雪が降っていないとはいえ、この極寒で演奏できるって言うんだから、楽器も演奏者もタフだ。
 金管楽器なんか、下手すると呼気が凍り付いて唇はがれなくなるんじゃなかろうか。それ以前にこの空気の薄さでよくまあその肺活量維持できるものだ。
 エクストリーム・マーチング・バンドかよ。

 そんな盛大なお出迎えの中心人物が、モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャであるらしかった。
 子爵さんは顔にすっかりしわの刻まれた高齢のようだったけど、私と同じくらい背は高く、がっしりとした骨太の体型だった。筋肉も太そうで、しわ以外はまるで老いを感じさせない。
 雪国なのに随分日焼けしてると思ったけど、あれは雪焼けとやららしい。

「よく来た!」

 野太い声が力強く響く。
 言葉を飾らず、率直に端的にものをいう人のようだ。

「久しぶりだなマテンステロ! 息災のようだな!」
「ええ、お久しぶり。爺様も元気そうね」
「無論だ! おお、リリオ! 帰ったか! お前は相変わらず小さいな! 縮んだのではないか!」
「むがー! 少しは大きくなりましたよお爺様!」
「むわっはっはっは! 愛い奴め! おお! 武装女中のチビも生きておったか! 長生きしろよ!」
「閣下はそろそろご勇退召されては」
「相変わらず生意気なことよ! 善哉善哉!」

 実に豪快に笑い、実に豪快に肩を叩いては再会を喜ぶ子爵さん。
 身体もでかいけど、耳が遠いからなのではと疑うほど声もでかい。
 なんというか、いよいよ蛮族らしい蛮族が出てきたなって感じ。

 そしていよいよ私の番になったのだけど、なんか威圧感がすごい。
 身長あんまり変わらないから見下ろされるわけじゃないけど、圧迫感がすごい。
 あと顔が怖い。

「フーム。それで、貴様が婿殿か!」

 またその流れか。
 マテンステロさんほんと余計なことしかしないな。
 しかしまあ、もはや否定もできない既成事実があるわけで、ここは粛々と、

「成人したてのリリオを傷物にしたからにはわかっとろうな!」

 ああん?

「ひょろっこいナリしおって、まだ公界(くがい)ン立たん、あずないリリオばだまくらかしてぎゃんにやがっとろう、ぬしゃ! かー! わしゃ、ぬしゃんごつおどくさか女がいっちょん()ーかん! くそごうわく!」

 なんか、えらい勢いでまくしたてられている。
 興奮しすぎてお国言葉が出てしまっているので何と言っているのかはわからないけど、これで褒め称えられているってことはないだろう。
 いまにも殴り掛かってきそうな剣幕に、お付きの人が抑えにかかり、リリオとトルンペートも顔色を変えたけど、私はそっと制止する。

 リリオの関係者にはご挨拶行脚する羽目になるだろうと思っていたけど、さすがにこの扱いは、頭にくる。

「傷物だって?」
「おーそがじゃ! わしゃ聞いとぉぞ! 小僧ン屋敷でこんげちゃんこか娘っ子に、」
「──傷物にされたのは私だ!」
「──あア?」
「こちとらその娘っ子に二十六年物の処女膜ぶち破られて泣かされてんだぞ訴えたら勝つからな!」
「な、なに? なんじゃとォ?」
「その通りでございます。面目次第もありません」

 トサカに来た勢いで逆切れすれば、爺さんは目を白黒させて狼狽えた。
 謝罪会見じみて死んだ目で犯行を認めるリリオに、爺さんは形容しがたい顔で固まった。

 冷え切った石畳に、貴重な辺境貴族の土下座が披露されたのだった。




用語解説

輝精晶(ブリロクリステロ)
 光精晶(ルーモクリステロ)とも。非常に希少な光の精霊の結晶。古代王国の遺跡には、どういった手法で集めたのかこの結晶が多くみられる。

投射器(パフィーロ)(Pafilo)
 小銃のような見かけの兵器。
 火薬の代わりに魔力で爆発を起こして銃弾を撃ち出す、または魔法そのものを撃ち出す火器。
 ここでは魔法を撃ち出すもの。
 強い指向性を与えることで、通常の魔法より射程や威力が向上する傾向にある。
 ただし帝国で実用化されているのは大砲サイズで、魔導砲と呼ばれるもの。
 銃のサイズだと気軽に装填できる実包や魔法式が用意できず、使用者は自前の魔力を流し込んで自分の魔法に指向性を持たせるという、魔法の発動媒体として用いなければならない。
 実質的に高い魔力を持つ辺境人の専用武器と化している。

・モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャ(Bankizo Maldolĉa)
 すでに老境に達しているが、バリバリ現役の武闘派。
 いかにも肉弾戦が得意そうな見かけだが、当代一の飛竜乗りでもある。

・雪焼け
 雪に反射した日光で強く日焼けを起こすこと。

・「ひょろっこいナリしおって、まだ公界(くがい)ン立たん、あずないリリオばだまくらかしてぎゃんにやがっとろう、ぬしゃ! かー! わしゃ、ぬしゃんごつおどくさか女がいっちょん()ーかん! くそごうわく!」
(意訳:「筋肉もついておらず弱そうな姿をして、まだ世間知らずで、幼いリリオのことを騙してとても調子に乗っているだろう、お前は! かー! わしはお前のような生意気な女が一番嫌いなのだ! とても腹が立つ!」)

・「おーそがじゃ! わしゃ聞いとぉぞ! 小僧ン屋敷でこんげちゃんこか娘っ子に、」
(意訳:「おお、そうだ! わしは聞いているぞ! 小僧(注:モンテート男爵)の屋敷でこんなに小さな娘に、」)
前回のあらすじ

空から虹色のポエティックモノローグが降ってくる。




 貴族は頭を下げない、なんて口さがない人々は言うらしいけど、辺境ではそんなこともない。
 貴族と平民の距離が近いというか、近すぎるというか。
 まあ内地と比べたらそもそも領地の広さに対して人口が少ないから、領民はみんな領主の顔を知ってるし、何だったら領主も主だった面子は見知ってるし何なら一緒にお酒飲んだこともあるって位には、近い。

 勿論、辺境貴族と平民の間にだって歴とした格差があるけど、それはどちらかというと役割分担みたいなところがある。
 古来、竜殺しを成し遂げることができたのは、当時まだ辺境貴族なんて呼び方をされていなかった、一部の英雄たちだけだった。
 自然と英雄たちは竜の撃退と人々の守護を担うことになり、それができない人々は英雄を支える側に回った。
 その関係がずっと続いていて、それが今の辺境貴族と平民につながってる。

 だからか、できる人ができることをする、っていうのが、辺境の習わしなのよね。
 竜を撃退できる人が竜を撃退し、畑を耕せる人が畑を耕し、古きを学び新しきを生み出せる人が学問に携わる。
 だから人々はできないことを責めたりしないし、自分ができることを誇りに思う。
 ただまあ、才能のない人間が夢を見ることに、とても厳しい環境であるのは確かなんだけど。

 何の話だったかしら。
 ああ、そうそう、辺境貴族は頭を下げるって話よ。
 いくら竜を相手に戦えるくらい強いからって、辺境はそれだけで生きていけるほど甘い環境じゃない。
 領主として祭り上げられた辺境貴族最大の敵は、いつか自分の背中を刺してくるかもしれない不和ってやつなのよね。

 頭を下げて済むなら下げない方が損だ、なんて言葉があるくらいね。

 まあ、それでも、初対面の素性も知れない相手に何のためらいもなく土下座かますのは他では見ないけど。

 凍り付いた石畳に大柄な体を縮こまらせるようにして土下座した子爵閣下と、それを止めるでもなく「子爵がまたやらかしてるんだけど」と言わんばかりの呆れ顔で見下ろしているお付きの護衛。
 いつものこと、なのよね。言っちゃえば。 

「いや! げに! げに相済まんこつば()うたもんじゃ! こんげなチビの()()()()に来てござったんに、頭のはつからおらびよってからに、ハァ、ほんなこつはんかくしゃあとこば見せてしもうた!」
「いえ、あの、もう、本当にもういいですから」

 石畳にひびが入る勢いの土下座に、珍しくプッツン来たウルウも、さすがにドン引きして落ち着いたみたいだった。
 まあ、あの調子で謝られ続けたらかえって目立って恥の上塗りもいいとこだろう。
 それに、ウルウからしたら謝ってるだろうってのはわかっても、辺境訛りがきつすぎて何言ってるかわかんないだろうし。

 ウルウが何度か制止して、ばっちゃん──子爵付きの武装女中が抱き起して、ようやく閣下は気が済んだようだった。
 抱き起してっていうか、脇腹に遠慮のない蹴りをかまして怯んだところを、腕を取って極めるようにひねり上げて、強制的に立ち上がらせたって感じだけど。
 何してんだこいつって顔でウルウが凝視してたけど、ばっちゃんはしれっとしたおすまし顔だし、閣下も気にした様子はない。
 いやまあ、他所の人間の感覚だとおかしいかもしれないけど、辺境貴族と辺境武装女中の関係としてはよくある光景なのよね。

 ぶっちゃけ、護衛なんて必要ないくらいにはぶっちぎりで強生物であるところの辺境貴族だから、武装女中の主な仕事って主人の露払いとか身の回りの世話とかその程度で、残るのはこうしてあほほど頑強な主人の行動をいさめることになるのよね。
 あたしがリリオの頭はたいたり、蹴り入れたり、極め技かけたりするのと一緒よ。

 何しろ辺境貴族って何をするにしても力加減が必要な生き物だから、下手なことする前に近くの誰かが止めてやらないといけないのよね。
 辺境の武装女中が強い理由の一つは、これよね。
 どんな外敵より強い主人を力技で黙らせられるようにっていう。

「すまんかったな。いや、わしん中ではリリオはまだちゃんこい子供でな。その子供が相方を見定めて連れてくるなんぞと手紙が来たもんで、いや、てっきり。まさか、あのちゃんこいリリオが嫁とってくるとは……」
「本当に、もう、いいので。お願いします」
「いやはや、しかし、ハァ、まあ、()()()()とはのう」

 閣下は昔からこういう、考えなしに吶喊しては、勘違いが原因でちょくちょく頭を下げている人なのだった。武装女中のあたしにさえ勘違いでやらかして頭を下げたことがあることを教えたら、ウルウも呆れ顔でため息をついた。
 辺境貴族ってのは、まあ、良くも悪くもこういうところがある。

 まあ一番呆れるべきは、一人で馬鹿笑いしてる奥様だけど。
 大方奥様が、先触れの手紙に適当なことを書いて寄越したに違いないのだ。
 あたしたちがジト目で睨んでみても、奥様はてんで気にした風もない。
 言い訳さえも笑いながらだ。

「やだもう、そんな目で見ないで頂戴な。悪気があったわけじゃないのよ」
「悪戯っ気は大いにありそうなんですけど、お・か・あ・さ・ま?」
「確認しなかった私も悪いけど、でも確認するようなことでもないし、てっきりウルウちゃんが手引きしてあげると思ったんだもの。大人だものね」
「うぐ」
「それがまさかリリオに手を引かれて、それどころかトルンペートちゃんまでなんて」
「うぐぐ」

 どう考えてもただからかって遊んでいるだけの奥様だけど、言ってることはまあ正論は正論なので、言い返すに言い返せない。というかウルウは完全に赤面して黙り込んじゃった。
 まあ、こういうことに年齢は関係ない、こともないんだけど、でもまあ、成り行きに任せたらそうなっちゃったんだから仕方ないわよね。

 まあ、嫁だなんだって言ったって、あたしたちはみんな女だし、そもそも三人一組だし、古式ゆかしく誰が嫁だの誰が旦那だのって分け方はあんまり具合が良くないわよね。
 誰が上で誰が下ってのも──ああ、偉い偉くないっていう意味じゃなくて、つまり体勢の話だけど──、そりゃあそれぞれの向き不向きや好みもあるけど、いつもいつでもってわけじゃないかもしれないじゃない。
 たまには趣向を変えてとか、今日はこういう気分だとか、そういう、ね。

 だからあたしたちはみんなが嫁でみんなが旦那でって言い方もできるんだけど、まあ、便宜的に決めるなら、子爵の物言いも間違いではないわよね。
 私たちの三人で誰が嫁かって決めるなら、間違いなくウルウだし、傷物にされたのもウルウだし、美味しくいただかれちゃったのもウルウだし。
 うん、こりゃウルウが嫁だわ。

「大変遺憾なんだけど」
「世の中には甲斐性ってもんがあるのよ」
「私にはないとでも?」
「あるの?」
「あるとも言い難いけど、じゃあリリオにはあるの?」
「よし、この議論は止めましょ、不毛だわ」
「だよね」
「二人とも後でお話ですね」

 まあ、こうしてじゃれ合ってる分には誰が嫁でっていうのもどうでもいい問題よね。
 そういうのをはっきりさせたい人は自分たちの身内でやればいいし、議論したい人は議論したい人同士で議論すればいい。
 あたしたちにとって大事なのはあたしたちの関係だけで、あたしにとって大事なのは、嫁っていう響きが存外悪くないわねってことだけだ。
 あたしの嫁……いやまあ、あたしだけのってわけじゃないけど。

「ねえ嫁」
「なにさ嫁」
「そういう軽妙な漫談みたい返しを期待してたわけじゃないんだけど」
「軽妙な漫談みたいな返しをした覚えはないんだけど」
「私のことはぶるの止めませんか嫁たち」
「引っ込んでろ嫁」
「お呼びじゃないわよ嫁」
「何ですかこの軽妙な漫談みたいな返し」

 なんだかこのまま永遠にじゃれ合っていてもいい気もしてきたけど、残念ながらいちゃつくのを楽しめるのは当人たちばかりでまわりは別に楽しくないのが問題ね。
 適当な所で切り上げろやという圧迫感をばっちゃんが発してきたので、そろそろ大人しくしよう。

「まあ、こんなところで長話もなんじゃい。飛竜の旅も疲れるもんじゃし、腹も減ったろう。晩飯の用意はしとるから、飯にしようや」

 きゅるる、と腹で返事をしたのは誰だったか。




用語解説

・「いや! げに! げに相済まんこつば()うたもんじゃ! こんげなチビの()()()()に来てござったんに、頭のはつからおらびよってからに、ハァ、ほんなこつはんかくしゃあとこば見せてしもうた!」
(意訳:「いや! 本当に! 本当に申し訳ないことを言ってしまったものだ! こんなチビの嫁に来て下さったのに、頭ごなしに怒鳴りつけてしまって、ハァ、本当にみっともない所を見せてしまった!」)

・ばっちゃん
 モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャ付き一等武装女中プルイーノ(Prujno)。
 子爵とは同年代で、爵位継承前から武装女中として付いており、付き合いは長い。
 高齢ではあるが「このやんちゃ坊主が大人しく引っ込むまで」は現役で続けていくつもりらしい。
 なにかと問題行動の多い主について回るため、手が早い。
 遊びに来たリリオやトルンペートは子爵自ら対応(という名目で遊びまわ)していたので、気心は知れている。

・嫁
 帝国法では婚姻の際に婚姻届けを領主に提出する決まりがあり、書式上「夫」、「妻」の項が存在する。
 法律上、婚姻するものの性別を規定していないので、同性婚も多いが、その際は便宜上の「夫」、「妻」を決めることになる。とはいえ、名称以外に違いはないので、どちらがどちらを名乗ろうと何の問題もない。

前回のあらすじ

土下座する辺境貴族が見れるのは帝国でもここだけです。
なお現地ではよくみられる模様。




 じじさま、子爵は辺境貴族から見ても非常に豪快で豪放で磊落な方なんですけれど、その行動力に思考が追いつかないことの多い方でもあります。
 つまり勘違いで突っ走って盛大に事故ることの多い方なのです。

 これがこと飛竜の襲撃だとかの緊急時ともなれば、即断即決の迅速な行動が速やかな迎撃へとつながりますし、経験に裏付けられた考えるよりも先に動く勘も鋭く、非常に優秀な方でもあるんですけれど。
 殺しちゃった壊しちゃったでは取り返しがつかないのでそのあたりはある程度自制があるんですけれど、あるはずなんですけれど、あるとは思うんですけれど、まあ辺境貴族ですからね。私も人のことは言えません。

 いや、私はちゃんと自制心ありますよ?
 人一倍魔力の恩恵が強かった私は、成人の儀で旅立つ前に、徹底的に力加減を覚えこまされましたからね。
 生卵を潰さないように握ったまま運動するとか、切れやすい細糸をあちこちに巻き付けて一本も切らないで生活するとか、とてもとても頑張りました。
 なのでたまにしか壊しません。
 小さい頃からさんざんトルンペートを壊しちゃいましたからね。
 私は反省できる人種なのです。

「ね、辺境貴族でしょ?」
「そうだね。よく今まで生きてたね」
「壊すの得意なやつの周りには、直すの得意なやつが充実するみたいなのよ」
「成程」

 なんか二人が言ってますけど、本当に私は辺境貴族の中ではまともな方だと思いますからね。
 カンパーロの皆さんと比べられるとまあ、ちょっと辺境度が高いかなとは思いますけど。

 まあ、私のことはいいとしまして。

 じじさまはあれな人ですけれど、そんなじじさまを支える周りの人は必要以上にきちんとしっかりした人たちですので、万事滞りなく整えられています。

 招待された食堂も、まあ山岳にしがみつくような要塞の中なので広さも豪華さもカンパーロほどではないんですけれど、石造りの武骨な造りの中に、趣のある調度品などが下品でない程度に散りばめられており、いぶし銀とでもいうべき渋みのある良さがあります。
 貴族はお金がかかっていることを見せつけるのも仕事ではありますけれど、モンテートは軍事色の強い領地。むしろこのような控えめで、されど油断ならない具合というのが丁度よいのかもしれません。

 まあそのように整えたのは代々の使用人たちであって、じじさま個人の好みは金ぴかに飾り立てたド派手な調度品とか、とにかくでっかい武具とか、大型の獣の剥製とかなんですけど。
 じじさまの部屋なんかもう、観る分には楽しくても過ごす分には全く落ち着かない感じでしたからね。
 飛竜の全身剥製が飾ってあるの、帝国広しといえど多分ここくらいですよ。

 そんなじじさまの趣味的にはまあいささか地味な所のある、落ち着いた食堂で、私たちはもてなされました。
 料理は主に馬鈴薯(テルポーモ)玉葱(ツェーポ)人参(カロト)や豆類といった保存のきくもの、それにかなり強く塩漬けされた鰊や、甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)の漬物といった保存食が並びます。
 これは冬場だからと言うだけでなく、もともと急峻な山岳地帯でろくに作物が取れず、ふもとのわずかな農地から運んでこれるものを貯蔵して食料にしているからなんですね。
 それでも見栄えよく給仕してくれる料理人の腕の良いこと。

 供される種類は主に麦酒(エーロ)で、鮮度が悪く塩辛い塩漬けや漬物と釣り合いを取るために、とにかく大量に摂ります。何しろ飲料水も貴重なので、自然と薄めた麦酒(エーロ)を飲むことが多かったりします。
 葡萄(ヴィンベーロ)を育てるのも大変なので、葡萄酒(ヴィーノ)はまず飲まれません。
 蜂蜜酒(メディトリンコ)はわずかに出回りますけれど、非常に高価です。
 芋類や穀類を材料にした火酒は、寒さの中でも凍りませんからよく飲まれますけれど、さすがに強いので、水代わりとはいきません。
 でも景気づけや、体を温めるのに飲んだりします。

 この火酒、辺境では水酒(アクヴェート)と呼ばれています。水のように透明で、水のように癖がないからともいわれていますね。
 これとですね、この水酒(アクヴェート)と、前菜に出された魚卵(カヴィアーロ)が実に合うんですよ。
 この魚卵(カヴィアーロ)は、バージョで頂いた鮭の卵、つまり赤い魚卵(ルージャカヴィアーロ)とは違う、黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)という小粒の黒いものです。辺境で魚卵(カヴィアーロ)と言ったら普通はこっちですね。

 辺境は海に面していないというか、海辺が残らず断崖絶壁なので漁のしようがないんですけど、実は塩湖があるんです。しょっぱい湖ですね。
 ここに住む塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)魚卵(カヴィアーロ)が昔から現地の特産でして、辺境貴族も税として納めることを認めるくらいに美味しいんです。
 内地ではこれがもう高値で高値で、びっくりするくらいの高値です。
 宮殿に卸せるくらいの代物ですよ。

 それをこう、「ウソッ」というくらいたっぷりと貝殻の匙にとって、ぱくり、と頂いちゃいます。
 これがもう、たまらないのなんのって。
 赤い魚卵(ルージャカヴィアーロ)と比べると小粒な黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)、歯ごたえもやや柔らかですね。ねっとりとした食感の中に深いコクがあり、独特な香りとともに力強いうまみが感じられます。

 おまけにこれ、保存目当ての塩のきついものではなく、辺境でしか食べられない塩の薄いものです。塩がきついと、熟成されたこの香りとうまみが、台無しになってしまいますから、これは現地でないと食べられない贅沢な代物です。

 そして、そしてですよ。
 ただでさえ贅沢なこの味わいに、流し込むのは水酒(アクヴェート)
 すっきりとした味わいと、燃えるような酒精が、ともすればくどくなりかねないこってりとしたうまみを洗い流し、舌をもう一度楽しめる状態に回復してくれるわけです。

 素晴らしい、素晴らしい味わいです。
 これは延々と繰り返せますね。ダメ人間まっしぐらです。

 しかしこれは前菜、前菜に過ぎないのです。
 ここで満たされていては戦う前に負けたようなものです。

 塩漬けばっかの食卓に飽きてきたウルウが、もうこれだけでいいかなみたいな顔し始めてますけど、駄目ですってば。

 モンテートのとっておきは、なにしろすさまじいものです。

 前菜を程よく楽しみ、会話が花開き始めたところで、思わず心惹かれてしまう香りとともにやってきたのが、主菜の大皿でした。
 これがもう、昔ながらの豪快な一品で、とにかく肉、といった見た目です。

 二人がかりで運んできた大きな皿の上には、どっしりとした塊肉の炙り焼きが、香草や香味野菜とともに鎮座ましましていました。
 これは絶対美味しいというか、これで美味しくなかったら許さんぞという見た目の暴力ですよ、もはや。

 この大きな炙り焼きの塊を、主人であるじじさまが大ぶりな包丁で客人に切り分けていくのですけれど、これがまた堂に入っています。

 温められた皿に分厚く切られた肉がでんと載せられ、皿を運んできた料理人が添え物をいくつか添えて、女中たちが給仕してくれます。
 ああ、この香り、たまらなく懐かしくなります。

 うまみを閉じ込めるように外側はしっかりと焼き目が残り、しかし内側は薄い赤色を保ったままです。必要以上に加熱せず、しかし生というわけでもなくきちんと火は通っている。炙り焼きの最も上等な焼き方です。
 これほど大きな肉の塊を、むらなく芯まで火を通すのは、料理人の腕の良さの証左です。

 早速刃を入れると、焼いたとは思えぬほどの柔らかな切りごたえ。食用に調整された牛肉などと比べるとやや硬いですが、それも野趣と言えば野趣。
 切り分けて口にすれば、力強い肉のうまみ。それにとろける脂。歯ごたえがややきつい所もありますけれど、まさしく肉を食べているなっていう感じがします。
 独特な香りもむしろ、香草の利かせ方もあって、かえって食欲をそそりますね。
 苔桃(ヴァクチニオ)の甘酸っぱいたれがまた、塩気の利いた肉によく合うんです。

 ああ、なんだか帰って来たなあっていう気がします。
 懐かしのお味です。

 なんて、ほっとしながら肉の塊を切り崩していく私の隣で、ウルウはしきりに首を傾げていました。

「どうしました?」
「ん……いや、食べたことないお肉だなあって。山じゃないと獲れない生き物?」

 小首をかしげるウルウですけれど、まあ、それは、そうでしょうね。
 山じゃないとというか、辺境じゃないと食べれません。
 それも竜の顎かここくらいじゃないとまともに手に入りません。

「ふふん、美味しいでしょう。辺境名物ですよ」
「まあ、美味しいけどさ。何のお肉?」
「ウルウも見たことのある生き物ですよ」
「見たことある……って言っても。こんな大型の生き物……あ」
「そうです」

 思いついたように手を止めて、まじまじと炙り焼きを見つめるウルウ。
 多分正解ですね。

「これ、飛竜のお肉なんですよ」




用語解説

水酒(アクヴェート)(Akveto)
 芋類、穀類を原料とした蒸留酒。
 白樺の炭で濾過したほぼ無味無臭のものが多いが、香草などで香り付けしたものもある。

赤い魚卵(ルージャカヴィアーロ)(Ruĝa kaviaro)
 イクラのこと。
 鮭の熟した卵を一粒ごと小分けにしたもの。塩漬けやしょうゆ漬けにして食べる。
 帝国内地でカヴィアーロと呼ぶのはこれのことで、もっぱら港町でのみ消費されてしまう高級品扱い。

黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)(Nigra kaviaro)
 ここでは塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)の卵を塩漬けしたもの。
 他のチョウザメの類の卵を用いた類似品はあれど、辺境の黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)は希少性・味ともに再高級品とされる。
 なお生産地ではスープの浮き身にしたり、炒め物に調味料代わりに放り込んだり、粥に混ぜ込んだり、雑に消費されているとか。

塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)(Peklita Huzo)
 辺境固有種。具体的に言うと「強い」。
 ペクラージョ湖に棲息するチョウザメであることからのシンプルな名づけ。
 鮫に似ているが鮫の仲間ではない。
 産卵のために生まれた川に遡上する。
 最大で十メートル程度まで育った個体が記録に残っているが、もっぱら獲られるのは二メートルから三メートルの個体である。
 卵は魚卵(カヴィアーロ)として加工されるが、肉はあまり美味しくなく、一応保存食にするか、飼料か肥料になる。

・ペクラージョ湖(peklaĵo)
 塩漬けを意味する言葉から名付けられた。
 海水程度の塩分濃度を持つ塩湖。
 その塩分濃度のためか、冬場でもめったに凍らない。
 流入する河川はあるが出口となる河川がないという条件は満たしているものの、水分が活発に蒸発する乾燥地帯でもないため、なぜ塩分濃縮が起こっているのかわかっていない。
 古来から辺境の貴重な塩田として利用されてきた。
 閉ざされた環境では独自の生態系が築かれているとか。
前回のあらすじ

辺境名物を贅沢に頂いた晩餐。
飯ノルマこなしたみたいな空気である。




 子爵さんの屋敷、というか、お城、というか、まあ聞いたところによればまさしく要塞であるというお住まいにお邪魔して、食堂に案内されたんだけど、これが結構立派だった。
 華やかさという点ではカンパーロのお屋敷の方がいかにもって感じだったけど、こちらはなんていうのかな、中世のお城っていう感じがもろに出てる。
 石造りで、武骨な造りで、明かりが蝋燭なので若干薄暗くて、ファンタジー漫画とか映画とかに出てくるスタイルそのものだ。
 その中にも、勇壮な絵のつづられたタペストリーや、暖炉のレリーフ、ちょっとした装飾品など、見る人が見ればわかるだろう品の良さが見え隠れしている。

 あのやかましく派手そうな子爵さんのセンスとは思えないな、というか多分周囲の人の見立てでやってるんだろうな。
 要塞の主なのに、一番部屋に似合ってない。
 自己主張が激しすぎるんだよなこの爺様。
 騎士たちが並んでても違和感ない部屋だけど、この爺様がむわっはっはっはって笑う度に山賊の親玉にしか見えない。

 まあ山賊は置いとくとして、落ち着いた雰囲気の食堂に好感度を抱いたところで、ふるまわれた食事はまずちょっとがっかり。

 なにしろ標高も高めな山にへばりつくように建設された要塞だから、食料品は栽培などまともにできようはずもなく、ほとんど輸送して貯蔵したもの頼りなのだろう。
 馬鈴薯(テルポーモ)とか玉葱(ツェーポ)とか豆とかの保存のききそうな野菜ばかりで、青物はあまりない。
 で、大分塩気や酸味の強い、干し肉や干し魚、塩漬けに酢漬けに油漬け、そういったものを大量の薄めた麦酒(エーロ)でいただく感じが基本らしい。

 この世界、冷蔵庫あるくらいだし、割と保存は利かせられると思うんだけど、多分輸送コストがかかるんだろうね。
 聞いてみたところ、ほぼほぼ竜車でしか往来できないらしいので、輸送すべて竜車頼りってことになる。その竜車を引く飼育種の飛竜はピーちゃんキューちゃんの野生種より小柄で、馬力やタフネスで劣るので、一台の竜車に複数つくらしい。
 貴重な戦力である飛竜を輸送に回さなければならないうえ、冬場の山風はかなり体力を奪うみたいで、そんなに頻繁に大量には運搬できないようだ。それに加えて、立地的に食料保存庫にそこまで広さを取れないんじゃないだろうか。
 ああ、それに、人間の食糧だけじゃなく、その輸送に使う飛竜にも結構な量の餌が必要になる。
 こうなるともう、仕方ないとしか言えないなあ。

 まあ、仕方ないとはいえ。
 料理人の腕がいいのか、盛り付けもきれいだし、味も美味しいんだけど、うん。
 舌肥えちゃったかなーとは、思ったよね。
 美味しいんだけど、ちょっと野暮ったいかなって。
 もてなし用の振舞いなんだろうけれど、実用性が先立ってる感じが強い。
 一応、ビタミン不足とかも気にしてか生の林檎(ポーモ)やベリー類もあるんだけど、圧倒的に華やかさに欠けている。
 色が主に、茶色い。

 いや、けなしてるみたいだけど、実際美味しいは美味しいんだよ。
 この世界、異世界転生ものでよく見かける「飯がまずい」展開がほぼないんだよね。
 よほど食にこだわりがあるのか、こだわれるだけの余裕があるのか。
 歴史的に考えると、大昔にかなり発展してた時期があるっぽいので、その時期のを部分的に継承したり、再発見してるみたいなところはあるけど。

 ただまあ、なに?
 冒険屋としては異例に小金持ちなせいでいいもの食べてきてしまったし、連れが料理上手だし、先日辺境とは言えモノホンの貴族様の食事も頂いちゃったし、かなり舌が肥えちゃってるなーと。
 ものすごく腕がいいのはわかるんだけど、まあ前線基地の食事ですよねって感じ。
 普段だったら普通に美味しいって満足してたんだけど、なまじ滅茶苦茶美味しい色とりどりな朝食頂いてきた後だから、なんか、こう、ねえ。

 多分、旅を始めてきた頃の私が見たら全力でぶん殴りそうな嫌な奴だと思う、今の私。

 ああ、でも、前菜で頂いたキャビアは美味しかった。
 私の知るキャビアと同じものなのかは、そもそもキャビア食べたことないからよくわからないんだけど、鮫っぽい魚の魚卵の塩漬けみたいな説明だったから、おおむね似たような食べ物と思っていいだろう。
 これが、また、美味しい。

 塩漬けとはいっても、そこまで塩がきついわけでもなくて、むしろ素材の甘みが引き立つようでさえある。多分産地から飛竜便で直送って感じなんだろうね。
 魚卵って言うからイクラとかとびっこみたいにプチプチした感じかなって思ったら、ねっとりとした歯ごたえで、味わいはかなりコクがある。
 やや生臭いような、独特の香りはあるんだけど、熟成の結果なのかなんなのか、これがなかなか、悪くない。最初を乗り越えちゃえば、むしろ癖になるかもしれない。

 私の貧相なイメージでは、キャビアってなんかこう、クラッカーとか黒パンに乗っけて食べてるのを想像してたんだけど、今回はかなり贅沢な食べ方だった。

 私の手には、虹色にきらめく、多分大きな貝を削って作ったのかな、それだけでインテリアになりそうなスプーン。繊細な味わいを殺さないために純金のスプーンを使うって料理漫画で読んだことあるけど、化学反応を起こさないんなら貝でもいいわけだ。お値段的にもこれ結構しそうだし、見劣りしない。
 その地味に高そうなスプーンで、リリオの真似してたっぷりと掬い取る。大皿からじゃないよ。一人一人につやつや輝く貝の器が行き渡ってて、そこに「こんなに!」というくらい盛られているんだ。

 これを、口を大きく開けて、ぱくんと頂く。
 贅沢さここにだけ偏りすぎてない?
 ペース配分大丈夫?
 って言いたくなるくらいの前菜だ。

 北海道人だってイクラをこんな食べ方しないだろう、って一瞬思ったけど、多分してるな連中は。瓶からぞんさいに飯の上にかけたりして、「お母さんまだイクラあるの?」「もう飽きた」みたいなこと言って冷蔵庫に半端がいつまでも余ってるみたいな贅沢してるはずだ。
 あいつら帰省するたびに土産にはホワイト・チョコ挟んだラング・ド・シャばっかり持ってきて、SNSでは蟹とかジンギスカンとか美味しそうなものばっかり載せるからな。
 ネタ枠だったらしいジンギスカン風味キャラメルを「意外と悪くない」ってコメントしたら、SNSで笑いものにしたの知ってんだからな。

 職場の同僚のアカウントなど知ってしまうものではない。
 悪口言われてるくらいならまだしも、悪意の欠片もなく侮られ蔑まれ見下されていた日には認知が歪むからね。しかもその子が普通にいい子だったりすると脳髄がひずみそうになる。
 それで私はSNS止めたくらいだからな。
 三日後には再開したけど。
 ブロックとミュート機能を採用したものに祝福あれ。

 さて、もうこの前菜だけでいいかなあと思い始めたころ、まさかのメインの登場だった。

 まず、かぐわしい香りとともにそれは運ばれてきた。
 デーレンデーレンと聞こえてきたら鮫が現れ、ダダンダンダダンと聞こえたら未来から殺人ロボットがやってきて、デンドンデンドンと聞こえてきたら宇宙怪獣と戦うロボットが登場するくらいに、確実に「美味いものがやってきたぞ」と思わせる、そんな香りだった。
 その大皿が二人がかりで運ばれてきたのを見た時のインパクトと言ったら、思わず拍手で出迎えたくなったほどだ。

 それは肉だった。
 もう、シンプルに肉だった。
 大皿にドンと鎮座ましましている焼き目も香ばしい肉の塊だった。
 以前テレビで、有名なビュッフェ・スタイルのレストランで、限定ローストビーフの塊を切り分けているのを見たことがあるけど、あれよりまだ大きいかもしれない。

 これを、ホストである子爵さんが大ぶりな包丁で切り分けるんだけど、これがまた豪快だった。
 よく見かけるような、お上品なスライスなんかではない。たっぷり厚みを持たせて、贅沢に切っていく。
 単に豪快なだけのように見えて、子爵さんの包丁さばきは見事なものだった。
 あれだけ太い肉の塊なのに、包丁は滑らかに肉に入っていき、のこぎりみたいに変に何度も往復させることなく、するりするりと何度か前後させるだけで綺麗にすとんと切り分けてしまう。
 そしてその断面は美しいピンク色をさらしていて、乱れの一つもない。

 見事なのはお肉の焼け具合と子爵さんの包丁さばきだけではなく、気配りもだった。
 まず主客であるリリオ、次にその母親であるマテンステロさん、主客の伴侶となる私とトルンペート、という風に順番は厳格に定めているんだけど、でも主客に一番量を、あとはみんな一緒、みたいな頭でっかちじゃない。
 よく食べるリリオにはとにかく分厚く、冒険屋でこれまたよく食べるマテンステロさんもほどほどに分厚く、背が高いのに小食であることを見抜いたのか聞き及んだのか私には少な目、トルンペートには程々といった具合に、それぞれの食べる量に合わせて切り分けてくれる。
 それもこれくらいならいけそうかなって言うぎりぎりのあたりを見定めてきてくれる。
 その上、皿を持ってきた料理人が盛り付けて、付け合わせを添えてくれるんだけれど、これがまた綺麗なのだ。

 さて、温められた皿にサーブされたお肉を、早速いただくとしよう。
 赤身も鮮やかなお肉だけれど、しっかり火は通っているようで、血がにじみ出ることもない。よくできたローストだ。ステーキみたいな厚さのローストって食べたことないけど。
 これにナイフを入れてみると、やはり、柔らかい。生では切りづらいし、焼けすぎても硬い、でもこれは程よくやわらかで、心地よい手ごたえとともに肉が切れていく。

 まずはこれを、そのままで一口。
 少し硬めの歯ごたえは、旅の最中に狩ったジビエで慣れたものだ。
 臭みとも取れる独特の香りも、最近ではすっかり慣れてきて、個性の一つとしてとらえることができるようになってきた。それにうまく香草が利いていて、むしろ味わいの一部として力強い。
 噛みしめる度に舌に感じられる旨味はかなりしっかりとしていて、滋味深い。
 脂身のあたりをちょっと頂いてみると、これもまた、驚くほど甘く、舌触りの良い脂だった。とろりととろけて、決してくどくない。

 次に、かけられたソースに絡めてみる。この甘酸っぱさは、苔桃(ヴァクチニオ)だったかな。
 塩気のあるお肉と、甘いソースがこんなに合うんだってことをこの世界に来るまで知らなかったのが悔しいよね。まあ、生前にそんな知識があったところで、食べることに全く興味がなかったわけだけど。
 そう言う意味では、むしろ食べることの楽しみを知ってからで良かったのかもしれないけど。

 うん。美味しい、んだけど。

「どうしました?」
「ん……いや、食べたことないお肉だなあって。山じゃないと獲れない生き物?」

 リリオと一緒に旅してると、ふらっと野山で適当に狩った獣とか食べることが多いんだけど、この味ははじめて食べる味だった。似たような味も知らない。

「ふふん、美味しいでしょう。辺境名物ですよ」
「まあ、美味しいけどさ。何のお肉?」
「ウルウも見たことのある生き物ですよ」
「見たことある……って言っても。こんな大型の生き物……あ」

 なんかドヤ顔で遠回しに伝えようとしてくるの素直にイラっと来るんだけど、大人の態度で考えてみる。私が見たことはあるけど食べたことはなくて、これだけのお肉が取れる大型の生き物。辺境名物。
 ふと、あの美しい生き物が頭をよぎった。

「そうです。これ、飛竜のお肉なんですよ」

 マジか。
 思わずまじまじとお肉を見つめてしまった。
 飛竜って食べられるのか。そしてこんなに美味しいのか。
 というかここの人たち飛竜乗りとかで飛竜を溺愛してる人たちらしいけど、それなのに飛竜食べるのか。
 なんか一度に考えてしまって混乱した。
 それはそれとして美味しいのでもう一口食べるけど。

「……えっ」

 食べてから改めてこれが飛竜肉であることに混乱してしまった。

「えっと……飼育してる飛竜を食べてるんですか?」
「ぬわっはっはっはっは!」

 素直な所を聞いてみたら大笑いされた。

「わしらが乗り回す飛竜は、老いたり、戦いで死んだら、乗り手がちっくとだけ頂いて、あとは素材ば剥いで、肉は塚に埋めよる。食用に別に育てるのは難しいのう。金がかかるし、気位が高い。人に懐くもんを掛け合わせてようやく飛竜乗りが乗り回せるようになったが、それでもな」

 となると、このお肉の出どころは、野生、ということか。

「うむ、わしらが落とした飛竜は、素材ば剥いで、肉はわしらと飛竜とで食っとる。落とした分だけエサが増えると思えば飛竜も頑張る(けっぱる)。乗り手もうまいもん食えるで、精出す。飛竜の肉は全然腐らんから、長々熟成させたもんをこうして宴に出しちょる。うまかろ?」

 大変美味しかったけど、なんかキューちゃんピーちゃんをよこしまな目で見てしまいそうだ、などと思いながらもやっぱり美味しいのでもう一口頂くのだった。




用語解説

・北海道人だって~
 おおむね偏見ではあるが、やや実体験交じりではある。

・ジンギスカン風味キャラメル
 ジンギスカンとは言うが、原材料に仔羊は使用されていない。
 なので実際のところは、ニンニクと玉葱ががっつり利いたタレの風味をエンチャントされた甘く香ばしいキャラメルという地獄の共演を果たした代物。
 共演とは言うが、ジンギスカン風味は完全にキャラメルを殺しに来ている強さで、それにキャラメルが大人げなくあらがうという全面抗争に陥っているため、味覚も脳も盛大に混乱する。
 食べた人によって評価が大いに変わる魔性のアイテムでもある。

・SNS
 実話でも経験談でもないが、ありそうな話ではある。

前回のあらすじ

連続の飯レポであった。
内容はほぼ同じなので実質焼き増しである。




 飛竜肉食べると辺境に帰ってきたなって、やっぱ思うわよね。
 まあいくら辺境だからって、飛竜の肉はさすがにしょっちゅう食べられるようなものでもないけど。お祝いの席とか、こういう歓迎の宴の時とか、そう言う時に食べるものよね。
 勿論、消費するのはもっぱら貴族とかお客さんだけで、あとはまあ、新年の振舞いとかで、砦勤めのものにいくらかわたるくらい。さすがにふもとの庶民にまでは渡らないわ。

 それはリリオの故郷であるフロントでもそこまで変わらない。
 あっちの方が飛竜の数が多いし、獲れる肉も多いけど、それでも領都の一部の高級店に卸されるくらいで、他所の町や村にまではまず回らない。
 ああ、あとはまあ、贈答用っていうか、帝都の皇族とか大貴族とかに、新年の挨拶代わりとか、誕生日のお祝いとかに送ったりはあるわね。

 狩るのは大変だし、絶対数が少ないけど、常温でも全然腐らないから、遠方への贈り物には便利らしいのよね。毎年贈ってるから、ぶっちゃけ魚卵(カヴィアーロ)の方が高級品扱いされてるらしいんだけどね、皇族の人には。
 まあ、一介の武装女中には縁のない話だけど。

 魚卵(カヴィアーロ)に飛竜肉にと、誰に話したって信じてもらえないような豪勢な夕食をいただいたあたしたちは、そのまま旅の疲れを癒してくれと浴場に案内された。
 浴場よ。
 お風呂。
 勿論、これに一番喜んだのはウルウだった。

 疲れていようと疲れていまいと、一日一回は必ず風呂に入るもの。
 多い時は一日に三回くらい。
 以前ヴォーストで見たことあるのよ。人気のない時間帯を選んで、出入りしてるの。
 あれは、もし人気のない温泉とかだったら、一日中でも入り浸るんじゃないかってくらいね。
 風呂の神官にでもなるつもりかしら。

 まあ、ウルウの影響もあって、いまやあたしたちもすっかり風呂に慣れてしまって、一日が終わる前にひとっ風呂浴びないと、どうにも落ち着かない体にされてしまった。
 そりゃまあ、清潔にしておいた方がいいのはわかるわよ。
 国だって、衛生を鑑みて風呂の神殿に援助してるわけだしね。
 でも旅の最中でも湯を沸かして風呂に入るとかいう気の狂った所業を日常にしてしまっているのは、帝国広しと言えどあたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》だけだろう。

 どんなお風呂なのだろうかと期待しているウルウに急かされ、あたしたちは女中の案内で浴場へと向かう。
 モンテート要塞には二種類のお風呂がある。立地的な問題で二種類しかない、とも言えるけど。
 んん、いやいや、立地的にって言っちゃうとやっぱり二つでも多いのかしら。この山の上に浴場があるってだけでもすごいわけだし。

 一つは使用人や飛竜乗りや文官が利用する大浴場。
 大っていっても、そこまで大きくはない。要塞の人間が、時間帯を決めて交代で入らなければならないようなものだ。それだって芋を洗うような具合だそうだ。
 あたしはリリオのお付きとして一緒にお風呂に入っていたから、こっちは話に聞くだけで行ったことはない。
 なんとなく薄汚いのを想像してしまうけど、時間帯ごとにきっちり清掃して交代してるみたいなので、むしろかなり綺麗ではあるらしい。

 もう一つは、当主である子爵閣下をはじめとした貴族と、客人が利用する浴室だ。
 帝都からの客人を迎え入れるために、当時の領主が増設したものだそうで、実用一辺倒で効率重視の武骨な要塞の中にあって、見栄えを気にした立派なものだった。
 わざわざ時間とお金をかけて運んだ大理石敷きの浴槽はいっそ浮いてるって言っちゃってもいいくらい、帝都風だ。

 あたしたちが案内されたのは後者の方で、四人で入るとちょっと狭く感じるけど、それでも足を伸ばすくらいの余裕はある。
 本来なら、客人が自分で連れてきた使用人とか、子爵閣下の方で用意なさった使用人がお世話してくれるんだけど、これは閣下が控えてくれた。
 あたしたちの一行にはあたしっていう立派な武装女中もいるし、そもそもこの四人は一応冒険屋なのだ。冒険屋は妙に気を遣わんほうがゆったり休めるだろうと、そのように言って下さったのだった。
 あたしたちはともかく、ウルウは絶対嫌がるし、奥様もなんだかんだお好きではないので、ありがたい。
 それに、余人には見せられない状況であるわけだし。

 脱衣所で服を脱いで、意外というか不思議だったのは、平気で裸になれるし、平気で裸を見れるってことだった。
 もちろんそれは、女所帯だからっていうことで、平気と言ったって隠すべき場所をあけっぴろげにさらしたりはしないし、人様のそう言った部分を凝視したりもしない。
 そういう当たり前のことはそうとして、閨を共にした相手に肌を見せることも、その肌を見ることも、思いの外に動じるところがないな、っていうことだ。

 そりゃもちろん、綺麗だなとは思う。

 リリオの肌は雪焼けすることもなく白くつややかで、張りがある。
 子供みたいな体形の癖に、力が入るたびに()()()の下の綯われた縄のような筋肉がうっすらと浮き上がるのは面白かった。
 少年のように骨ばっているようで、でも確かにやんわりとした丸みを帯びた肉付きは、成長途上の若枝のような生命を思わせる。

 ウルウの肌は相変わらず病的に白い。日に当たってない白さだ。一緒に旅してるのに不思議だけど。
 でもその弱々しいように見える肌は、水をよく弾く張りのあるもので、リリオと大違いのしなやかな曲線は妙に蠱惑的だ。
 元々背が高いうえに、姿勢もいいから、どうしても見上げなきゃいけないんだけど、そうするとほっそりとしたくびれのせいで一層豊かに見えるやわやわが驚くほどの迫力を持って見下ろしてくる。

 そのように二人の体はとてもきれいで、魅力的なんだけど、でもそれだけなのだった。
 あの時のように冷静なんて言葉が蒸発してしまうような熱はない。
 二人も同じように感じているようで、なんだか不思議なくらいあたしたちは穏やかだった。
 いつもいつでも盛ってるってわけじゃないんだから、そりゃそうなんだろうけど。

 ああ、でも、まあ、いまだに消え切らないあのあれ(ウーモ)とかを目の当たりにしてしまうと、そろって目をそらしてしまったけど。

 そんなあたしたちを見て、

「あら、まあ」

 多くは語らず、しかしそれ以上に多弁に過ぎる顔でにんまりとあたしたちを見比べた奥様は、上機嫌でさっさと浴室に向かわれた。
 おのれ。
 奥様は奥様で非常に均整の取れた若々しいお体なのだけれど、これにも反応しなくてよかった。誰彼構わず反応するような女だったら、気軽に風呂屋にも行けなくなる。

 追いかけるようにあたしたちも浴場へと足を踏み入れる。
 おお、と声が漏れたのは、ウルウだった。
 あたしとリリオはまあ、何度も遊びに来てはその度に利用しているから今更だけど、はじめての人にはこれはなかなか見どころのある浴室だと思う。

 よく磨かれた大理石敷きの床と浴槽はなまめかしく白く輝き、四方の壁と天井には美しく舞う飛竜の彫刻が彫られてる。
 この彫刻がまたよくできていて、目立たないようにその随所に輝精晶(ブリロクリステロ)の照明が仕込まれていて、はっきりとした光源がわからない柔らかい光が浴室全体を照らすようにできているのだ。
 風呂係の使用人たちが使う調度の類も、防水性に優れ、また品質も良いものばかりだ。

 ウルウがそう言った高級志向溢れる浴室の中で、一番気にしたのは、浴槽へお湯を注ぎ続ける出水口だった。

「……なにこれ」
「何って……こう、お湯が出てくるやつですね」
「そうじゃなくて、えーっと、この間抜け面」
「もう、怒られますよ」

 ウルウが言っているのは、のっぺりとした丸みのある、どこか愛嬌のある──まあ、確かにウルウの言う通り、ちょっと間の抜けた顔だ。これが出水口として、曖昧に笑うみたいに半端に開いた口から湯を吐き出しているのだった。

 これはなんでも、むかし流行った彫刻で、風呂の神マルメドゥーゾを表しているらしい。
 つまり大昔の山椒魚人(プラオ)の顔ということでもある。
 神話の時代より後、山椒魚人(プラオ)たちの顔つきも人族と似た造りになっているから、今はこんないかにも両生類です山椒魚ですって顔の山椒魚人(プラオ)はいないらしいけど。

 昔ながらの風呂の神殿とかにはこれと同じものがちゃんと据え付けられているらしいけど、近代になって新設されまくった公衆浴場や風呂の神殿では、予算の関係とか、流行りの関係とかで、そんなにたくさんは置いてない。らしい。
 あたしも詳しくはない。

 手早くぱっぱと体を洗ってしまうのは、冒険屋の習い。
 とはいえ、あたしたちはみんなそれなりに髪が長いので、ちょっと時間がかかる。
 冒険屋の中には、男よりも短く刈り上げる人もいるらしいけど、そこまで思い切るのはちょっと。楽だし熱気がこもらないっていうけど、ねえ。
 まあ、あたしは武装女中で、見た目にもある程度見栄えってもんがいるから、やっぱり長い方がいいのよ。長すぎるのも大変だけど、ある程度髪の毛あった方が、髪型でいろいろ見せられるしね。

 リリオはまあ昔からの習慣と、あと髪が強いから。
 髪質が丈夫だから手入れが面倒じゃない、っていうことじゃなくて、まあそれもあるんだけど、純粋に、物理的に、鋏が負けるのよ。さすがに鉄の方が丈夫だから切れるは切れるけど。
 あれだけ絹糸みたいな柔らかさの癖に、鋏で切ろうとすると滅茶苦茶強靭すぎて、切りそろえるの大変で仕方ないのよね。
 辺境貴族はみんなそんな性質らしくて、長く伸ばすか、逆にある程度短く刈り揃えちゃって、剪定するみたいにちょくちょく鋏を入れるみたい。

 ウルウは切りたいみたいなんだけど、リリオがせっかくだから、って言うもんだから伸ばしたまんまなのよね。
 甘いっていうか。それともこだわりがないだけかしら。
 こんだけ長いと結ったり編んだりいろいろ遊べるから、あたしは楽しいんだけど。

 そんな感じで体を洗い終えたら、風呂神様のえれえれと吐き出すお湯溢れる浴槽で、あたしたちはじっくりと旅の疲れを取ることにした。
 正直、ご飯をたらふく頂いた後だからちょっと苦しくはあるんだけど、でもまあ、食べられるときに食べて、休めるときに休むのも冒険屋の習いだ。
 便利な言葉ね。

 ふへー、と肺の奥から疲れを絞り出すように息を吐いて、ちょっと熱いくらいの温度の湯に肩までつかる。
 極寒の辺境の冬に、それも何もかも足りないが基本のモンテート要塞で、こんなに満腹で心地よくお湯に浸かれるというのは、もうこれ以上ない贅沢よね。

 しかもこのお湯、一応温泉らしいのよね。
 なんでも昔、旅の風呂の神官が温泉の匂いを嗅ぎつけて自力で山を登って要塞までたどり着いて、錫杖でこーんと一発山肌を叩いたところどっと湯が湧き出して空を飛んでいた飛竜を撃ち落としたなんて伝説が残っているらしい。

「ちょっと情報量多すぎない?」
「まあ色々つけ足されたんだろうけど。でも温泉湧いてるのはほんとみたいよ」
「こんな高い所でも出るもんだねえ」

 感心したようにウルウは頷いて、それから小首を傾げた。

「そういえば、風呂の神官、いないね」
「いるわよ」
「えっ」
「一応貴族の入る浴室だから、神官は別室で湯を扱ってるのよ。辺境貴族は気にしなくても、内地からのお客さんとかは気にするでしょ。貴族には暗殺とかいろいろ疑わなきゃいけないし」
「ふうん」

 世俗の権力者と神官は相性が悪い、っていうわけでもないんだけど、神官ってこう、神様第一な所があるから、有力な神官ほど権力者の言うこと聞かないのよね。
 だからまあ、一緒にしてもあんまりいいことはないのよ。

 物知らずなウルウにいつもの解説をしながら、あたしは湯に浮かぶやわやわを堪能するのだった。




用語解説

・出水口
 美術史の話となるが、帝国では神話の登場人物や、神々を彫刻に彫ったり絵に描いたりする流行が一時期あった。
 マルメドゥーゾの顔の出水口もその一つで、当時は風呂と言えば必ずこの顔を用いたという。
 流行の発端はと言えば、芸術の神々ムーザ・コレクトの一柱ミハエランジェーロの神託を受けたと称する彫刻家の稀代の名作が世に知れ渡り、貴族の間で在野の芸術家を発掘することがブームになったことが切っ掛けであるとされる。
 このブームのために帝国の美術・芸術は大いに触発され発展することとなったが、同時に貴族たちの芸術に対する莫大な浪費合戦が問題となり、規制が入ることとなった。
 これによってブームは緩やかに鎮静化し、節制主義と呼ばれる内的な美しさを追求するスタイルが流行していくこととなる。


・芸術の神々ムーザ・コレクト(Muza kolekto)
 多くは陞神した詩人、芸術家たちであるとされる、複数の神々の総称。
 ミハエランジェーロ、オーラ・ネーロ、フンジワラなど。
 芸術分野や地域によって挙げられる名前も異なり、ひとまとめに呼ばれることが多い。

・風呂の神マルメドゥーゾ
 風呂の神、温泉の神、沐浴の神などとして知られる。この世界で最初に湧き出した温泉に入浴し、そこを終の棲家とした山椒魚人が陞神したとされる。この神を信仰する神官は、温泉を掘り当てる勘や、湯を沸かす術、鉱泉を生み出す術などを授かるという。

山椒魚人(プラオ)
 最初の人たちとも称される、この世界の最初の住人。海の神を崇め奉り、主に水辺や浅瀬に住まう隣人。肌が湿っていないと呼吸ができないが、水の精霊に愛されており、よほどの乾燥地帯でもなければ普通に移動できる。極めてマイペースで鈍感。好奇心旺盛でいろいろなことに興味を示すが、一方で空気は読めず機微にもうとい。
前回のあらすじ

これもノルマかお風呂会。
お湯に浸かれてご満悦のウルウであった。




 おはようございます。
 清々しい朝ですね。

 などと述懐できるほどに、本当に何事もない一夜でした。
 いやまあ、それが普通と言えば普通なんですけれど。

 じじさまの計らいで、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は三人で一つの部屋をあてがってもらい、一つの寝台を三人で分け合って休んだのですけれど、驚くほどなにもありませんでした。

 最初は、実は少し不安だったんです。

 何のかんのと言って、私は辺境貴族です。
 ちゃんと成人したと、辺境から出ることを許されたくらいには、きちんと自制できるようになったことを認められてはいます。
 でもそれは自制しなければ誰かと触れ合うことも危険な生き物ということでもあります。
 実際、お母様と再会したときは制御が揺らいで、癇癪を起してしまったわけですし。

 人は簡単に壊れてしまう生き物ですし、私は人を簡単に壊してしまう生き物なのです。

 そんな私がお風呂上がりで火照った体をおそろいの寝間着に包んだ二人の姿を見て我慢できるとは思いませんでした。
 絶対ムラムラすると思いました。
 ムラムラするだけならともかくイライラし始めて体力にまかせて朝まで暴れまわるかと思いました。閨的な意味で。

 ところがまあ、我慢どころか、別にムラムラもしなかったんですよね。
 それは勿論、二人はとても魅力的ですし、きれいだなあとかちょっとドキッとはしましたけれど、それはいつものことなんですよね。きれいだなー、すてきだなー、かわいいなー、って。
 ウルウに抱き着いても、トルンペートに髪を整えてもらっても、あの時みたいな熱がわいてこなかったんです。

 ただ、なんだか。
 なんていうのか。

 お腹も満たされて、お風呂でぽかぽかに温まって、柔らかな寝台に三人で倒れこんで。
 なんだか、それだけで、満たされてしまったような気持ちでした。
 くっついたり、お喋りしたり、それだけでなんだか胸の中がいっぱいで、とろとろとなんだか眠気がゆっくりやってきて、それがなんだか少し惜しいような、でもこれ以上なく心地よくて。

 だから、きっと、これが。
 これこそが。
 しあわせなんだなあって。

 それだけをぎゅうっと抱きしめて、気づいたら朝だったわけです。

 こんなに満たされた朝はそうそうないですよ。
 まあ、満たされすぎたせいで寝過ごしましたけどね。
 二人とも私を見捨てて朝の準備完全に整えてから、例の棍棒でぶん殴って起こしてくれました。
 普通に起こしてくれていいんですよ?
 あ、起きなかった。はい。面目次第もございません。

 まあ、そのような次第で、どうやら私は、仲間であり伴侶である二人を所かまわず無節操に求めてしまうような肉欲蛮族に成り果ててはいなかったようで、まず一安心です。
 あ、それはそれとして二人に完全にムラムラしないかと言えばそんなこともなく、そういうつもりでそう言う目で見れば、その、なんです、朝からムラッと来てまたぶん殴られました。
 違うんです。
 私は蛮族ではないんです。
 私の身体は蛮族かもしれませんけれど私は蛮族ではないんです。
 ムラッとは来ましたけど。
 ムラッとは来てしまいましたけど。

 うん。止めましょう。
 清々しい朝ですからね。清々しく流してしまいましょう。

 さて、ちょっと騒々しくはありましたけれど朝の支度を終えて、私たちは食堂で朝食をいただきました。
 モンテート要塞の食堂はなかなか渋くて格好いいのですけれど、窓がなく閉塞感があるのが辛いところです。
 冬場ですし、要塞ですし、立地的に開口部が限られてくるのでもうどうしようもないんですけれど。

 さすがに朝から飛竜の炙り焼きをドン、ということはありません。
 ありませんけれど、辺境は辺境です。全体的に量は山盛りです。
 たっぷりの麺麭(パーノ)馬鈴薯(テルポーモ)、豆、塩漬け、酢漬けの甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)、うん、この辺りはもう見慣れたものですね。

 ただ、かなり奮発してくれたようで、不凍華(ネフロスタヘルボ)の葉をさっと甘酢で和えたものが、目にも嬉しい彩りとなっていました。
 これは冬でも枯れず凍らずの庶民の味方なのですけれど、さすがにモンテートの山の上にはあまり生えていません。
 なので数少ないこれらは発見者が食べてしまうか、かなりの高額で取引されます。
 もしくは、平地ならそこらへんで摘めるようなものにわざわざお金をかけて竜車で輸送することになります。
 ありがたいことです。

 不凍華(ネフロスタヘルボ)は食感が面白く、葉はしゃきっとしているようで、噛むと中は粘り気があって、不思議な歯ごたえです。味はちょっと苦みがありますけれど、冬場に新鮮な青物を食べられるっていうのはかなりの贅沢です。

 そして宴の翌朝の定番料理が、飛竜の尾を煮込んだ汁物です。
 飛竜の尾はよく動く部位でもありますし、非常に筋っぽく硬いのですけれど、その分、強い味わいがあります。
 これを圧力鍋でしっかり煮込むと、肉はほろりと柔らかくなり、ぷるぷると柔らかな脂身も相まってたまらない美味しさとなります。
 また骨ごと煮込んだ旨味は、韮葱(ポレオ)生姜(ジンギブル)といった本当に最低限の臭い消しだけで調えられ、こってりした宴の料理を味わった翌朝にはたまらなく沁みるものがあります。

 この竜尾の汁物でお腹が動き出したところで、お次も辺境でしか食べられない、辺境でもなかなか食べられない、飛竜の食材行ってみましょう。

 お皿に美しく盛り付けられた、まるで花弁のように薄切りされた真っ白な何か。
 これ、実は脂なんです。
 塩漬竜脂(ドラコグラーソ)といって、飛竜の脂に香草を揉み込んで塩漬けにしたものを、薄切りにしているんですね。
 もともとは豚や牛の脂で同じようなことをした、塩漬脂(サリタグラーソ)とか、単に白脂(グラーソ)とか呼ばれているものを、飛竜の脂でもやってみたものだそうです。
 暖房の効いた部屋ではすぐに溶け出してしまうので、こうして美しく薄切りにするためには、冷え切った部屋で体温を移さないように気をつけなければいけない、難しい食材です。

 この透き通るように美しい脂を、温めた麺麭(パーノ)の上に乗っけてやるとですね、じわっと熱でとろけて、うっすらと透き通っていくさまがまた何とも言えずなまめかしいものです。
 少し硬めの乳酪(ブテーロ)のように塗り広げてやって、ぱくりと頂くと、口の中一杯に飛竜脂独特の香りがふわりと開き、とろりとした脂の甘みと塩気とが舌の上に広がります。

 これは麺麭(パーノ)だけでなく、蒸かした芋やに乗せたりしても美味しいですし、汁物に加えるとぐっとうまみが増します。焼き物に乗せると、ぱさぱさした肉でも脂が足されてうまい具合になりますね。
 ああ、もちろん、お酒との相性も良いですね。

 あんまり脂っこいのが得意ではないウルウも、自分で量を調整でき、脂としてはさっくりと軽めな塩漬竜脂(ドラコグラーソ)は気に入ったようで、なによりです。
 気に入りすぎて今度白脂(グラーソ)をごそっと買ってきそうで怖いですけれど。
 一度はまると馬鹿みたいに買うのに、かなりの確率で飽きて放置しますからね。ウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》はものが腐らないからまあいいと言えばいいんですけれど。

 さて、そんな素敵な朝食をたっぷりと頂いているとですね、ええ、なんというか。
 食べるのもそこそこにそわそわと子供みたいに落ち着かないじじさまが熱烈な視線を送ってきて、ばっちゃんに窘められていました。

「しかしなあ、プルイーノ」
「しかしもへったくれもありません。子供ではないのですから、お皿の上をかたしてしまいなさい」
「わかったわかった。年寄りにあんまり詰め込ませるな」
「世間でいう年寄りは籠一杯の芋を朝から平らげません」

 落ち着かないじじさまに苦笑しながら朝食を済ませ、温かい甘茶(ドルチャテオ)を頂きながらじじさまのお話を伺います。
 まあ、伺うまでもなく、隣のウルウはすでにお察しの様で、目が死んでいます。
 仕方ないんです。
 これが辺境なんです。
 辺境貴族なんです。

「マテンステロからいろいろ聞いたんだがのう、嫁どんは」
「旦那様、ウルウ様です」
「じゃったじゃった。ウルウどんは、あれじゃ、若造ンとこの爺を見事()したと聞いてな」

 じじさまは非常にいい笑顔です。
 辺境貴族のいい笑顔というのはつまりそういうことですね。
 それにしても山賊の親玉みたいな笑い顔をしています。

「わしゃな、あの爺さんが欲しかった。ありゃ良か腕だべ。目ぇばつけよったけんどあン若造が先に持ってってしもうての。惜しかことばした。それを無傷で一本取ったち聞いてわしゃ楽しみんしよったと」
「つまり、辺境名物ってことですね」
「むわっはっはっは! うむ! げに辺境名物よ! リリオもチビの武装女中も随分()()よったち聞きおる、見せてもらわにゃいかんべや!」
「もしかして辺境貴族はこの流れやらないと死ぬの?」

 ウルウがものすごく面倒くさそうな顔をしていますけれど、まあ、そうですね、死にはしないにしても大層がっかりするので、お付き合いいただければ幸いですね。
 あったかいお風呂と美味しいごはんのお礼と思って。

だば(では)! 早速やるべやるべ! 空ン具合もよか! わしゃウルウどんば貰おうかの!」
「あら、駄目よ爺様」
「おうなんじゃマテンステロ! お前がさんざ褒め散らかしたんじゃ、お預けは酷かろ」
「それはもう、腕は確かよ。でもこの娘は遊びが苦手なの」
「ほほう?」
「もう少し手加減できる相手じゃないと、殺しちゃうもの」

 じじさまの笑みが、深まりました。
 空気が軋むような笑顔を笑みと呼んでいいのかどうかは知らないですけれど。
 元来笑いとは威嚇であると聞いたことがありますけど、この笑顔の敵とは対峙したくないですね。

「ぬわっはっはっはっは! よか! よか! お前に免じて許しちゃる。誰ぞ適当なもん見繕え!」
「すでにご用意しております」
「仕事が早いのうババアは!」
「クソジジイの面倒を見ておりますと自然に」
「ぬわっはっはっはっは!」





用語解説

不凍華(ネフロスタヘルボ)
 放っておいてもはびこる上に手入れも要らず、わさわさと生い茂る葉は多少苦みがあるものの冬場の貴重な食材としてサラダなどにされる。食感はややねっとりと粘り気がある。
 花を原料にした不凍華酒(ネフロスタヴィーノ)は安価な酒類として家庭で醸造されたりする。
 根を焙煎して煮出した不凍華茶(ネフロスタテオ)豆茶(カーフォ)に似た風味があるとか。
 凍らない特性を持つ乳液を水に混ぜ込むことで凍りづらく、また腸詰(コルバーソ)などに混ぜ込むことで低温下でも柔らかさを保つ手法が古来から見られるほか、集めて煮詰めると弾力を示すことが経験的に知られており、噛む嗜好品として用いられていた。
 また接着剤や目張り、防水用途でも用いられた。

・圧力鍋
 帝国では圧力鍋はあまり一般的ではない。
 ただ、買おうと思えば買えるもので、言わば「専門店や料理好きの人が持ってる特殊な調理器具」のような扱いだ。
 基本的に職人の手作りなので、下手な職人のところで買うのはお勧めしない。

 標高の高いモンテート要塞では加熱調理に必須と言ってもいい。
 普通の鍋の形のものや、大型の大量調理用器具としての圧力鍋も存在する。

塩漬竜脂(ドラコグラーソ)(Drakograso)
 飛竜の脂を香草などと一緒に塩漬けにしたもの。
 北部や辺境、一部東部などでよく見かける脂身の塩漬けを飛竜の脂肪で行ったもの。
 飛竜乗りは貴重な脂肪源、熱源としてこういったものを背嚢に詰めているという。

塩漬脂(サリタグラーソ)(Salitagraso)、白脂(グラーソ)(Graso)
 保存がきき、乳酪(ブテーロ)よりも変質しにくく、貴重な脂肪源として重宝される。
 またビタミンなども多く含み、栄養価は高い。

甘茶(ドルチャテオ)
 辺境の甘茶(ドルチャテオ)は甘い香りのする香草の類を使用したハーブティー。
 北部とはまた異なるブレンドのようだ。
 また甘茶(ドルチャテオ)以外にも不凍華(ネフロスタヘルボ)の根を焙煎して煮出した不凍華茶(ネフロスタテオ)なども良く飲まれる。

前回のあらすじ

またもや飯レポ、そして辺境名物のお誘いである。
もはやパターン化してきている。




 はい。恒例の辺境名物、蛮族野試合三番勝負はっじまっるよー。

 お察しの通り死ぬほど面倒くさいので、多分死ぬほど死んだ目をしていると思う。
 いつもいつも、いっつもいっっつも言ってるけど、私戦闘は苦手だし、むしろ嫌いな方なんだよ。
 そもそも運動なんか子供のころくらいしかしたことのなかった、子供の頃でさえ引っ込み思案の閠ちゃんであった私に、何を期待できるというのだ。
 残念ながらこの世界の人々は超人ボディと凡人メンタルを併せ持つやれやれ系チートキャラしか知らないので無茶振りしてくるのだ。
 くそっ、なんて時代だ。

 朝食から腹ごなしの時間をはさんで、お昼ごろ。
 冬のモンテートにしては非常に良い天気だという抜けるような青空の下、私たちは優雅な猫足のテーブルに飲み物と軽食を並べ、ピクニックかティータイムといった風情で観戦を決め込むのだった。

 まあ、主催の子爵さんが山賊の親玉か鎌倉武士みたいな面してどっかり腰掛けてるので、よく言っても野点(のだて)、率直に言わせてもらえれば合戦場の本陣みたいでさえある。なんて強い顔と雰囲気だ。
 顔も似合わないし本人の趣味でもなさそうだし、でも品自体は実にいいものなので、奥さんとかの趣味なのかもしれない。
 夕食の席でも姿を見かけなかったし、亡くなられたか、もっと生活しやすいふもとにいるのかもしれないけど。

 並べられた軽食は、ティータイムと言うにはやっぱりちょっと武骨で、分厚めのサンドイッチとか、腸詰(コルバーソ)とか。もはや糧食かな。そして分類は軽食になるかもしれないけど物量的には山である。
 ちょっと目立たないように、衝立の向こう側ではスープの鍋もかき回されている。
 なんなら子爵の手には、一パイントぐらい入りそうな木製のマグカップにホットビールがなみなみ注がれていた。なお二杯目。
 お金あるだろうに金属製でない理由は、そうじゃないと凍るかららしい。

 そう、凍るんだよ。
 いくら晴れてようと日が照ってようと、ここ標高三千とか普通に超えてるだろう山の上なんだよ。
 温度計がないから正確な所はわかんないけど、いくら暖かめに見積もっても氷点下行ってるんだよ。
 風吹いたらもっと寒いでしょこれ。そして実際吹いてるし。
 試しに《ミスリル懐炉》を外してみたら顔面凍るかと思った。

 まあ、北国出身ではない私なのでちょっと誇張表現あるかもしれないけど、それでもこの爺さんぺらそうなコート一枚で平気な顔してるのはおかしいのでは。

 などとぼろくそに言ってみたけど、実際そこまで寒くはないはずなんだよね、ここ。
 私たちが来るときにも使った飛竜場なんだけど、ここ、石畳の床がきちんとさらされているんだ。
 雪かき大変だろうなと思ってたけど、どうもこれ、ロードヒーティング的な仕掛けが施されているみたいで、足元があったかいんだよね。
 ここで雪を溶かして、端の方にある排水溝を通じて流して、生活用水としても使用してるのかな、ざっくり聞いたところでは。

 だからまあ、カンパーロの雪上観戦よりはよっぽど快適ではある。

 例によって例のごとく私はトリに据えられてしまい、先鋒はやっぱりトルンペートだった。
 お相手は子爵さんの侍女であるらしい、プルイーノとかいうあのおばあちゃん武装女中だった。
 なんでも一等武装女中という「どえりゃあばっちゃん」らしいのだけれど、先日二等武装女中を圧倒している姿を見てるので、そこまで不安はない。
 むしろ、枯れ木みたいに細いおばあちゃんを見てると、そろそろ荒事は引退した方がと心配になる。

 まあ、そんな心配も試合がはじまるまでだったけど。

 カーテシーも美しく、エプロンドレスの二人が向かい合って礼をした直後、ブ厚い鉄の扉に流れ弾丸(ダマ)のあたった様な激しい金属音とともに、二人の武装女中がぶつかり合っていた。
 アイサツ終了から零コンマ二秒の恐るべき速攻だ。

「ば、ばっちゃん手加減!」
「年寄りには寒さが堪えますもので、早めに終わらせたいのですよ」
大人気(おとなげ)!」
「あらやだ、在庫(シナ)切れ中だわ」

 さすがにマテンステロさんの気まぐれ地獄トレーニングを共にしたトルンペートだけあって、重たげな鉈で猛攻を受け止め続けている。
 というと善戦してそうだけど、実際のところ、スピード重視のトルンペートが回避ではなく防御せざるを得ない状況に追い込まれていて、その上、得意のナイフではなく重たい鉈を持ち出さなければならないパワーが相手ということだ。

 しかも恐ろしいことには、このおばあちゃん、素手だった。
 一応、武装女中のお仕着せである手袋はしてるんだけど、カンパーロの二等武装女中ペンドグラツィオみたいに金属を仕込んでいる感じではない。
 革手袋一枚しか帯びていない拳が、激しい金属音を立ててトルンペートを追い詰めているのだった。

「……なにあれ」
「腕に魔力を込めて、硬質化してるんですね。殴りかかるときは筋力を強化して、打撃の瞬間だけ硬質化することで柳のような柔軟さと鋼鉄のような硬さを両立してるんです」
「さらっと出てくるわりに初耳なんだけど」
「トルンペートも一応できますよ。ただ、激しい打ち合いの途中で成功させるのは難しい、というかほとんど曲芸です。常時できるようになって初めて一等を名乗れるらしいですね」
「リリオもできるの?」
「私はできません……というか、辺境貴族は魔力だけはあほみたいにあるので、ああいう曲芸覚えるより素直に魔力垂れ流した方が早いですから」
「ぬわっはっはっは! あのばあさんは人を殴るのに慣れとるからのう!」
「主に旦那様が原因でございますねえ」

 つまり、化け物に掣肘入れるために磨き上げられた技術(ワザ)であるらしい。
 あのおばあちゃんは人間の範囲の魔力量をやりくりして、職人みたいな精密さで制御しているらしい。
 しかも、あれは本人にとっては猛撃でさえないっぽい。軽口飛ばしてくる余裕もある。
 拳は絶え間なく撃ち込まれてるんだけど、足元は静かなもので、スカートがひるがえるどころか足首さえほとんど見せない。つまりこのばあちゃん、腰の入ったパンチの一発もなしなのだ。

 マテンステロさんの連撃も大変だったけど、あの人はムラッ気があるので、読みづらくはあっても隙をつくことはできた。でもこのおばあちゃんは実に堅実な拳をしている。積み重ねたカラテだね。

 トルンペートも飛びずさって距離を取ったり回り込んだりしたいみたいなんだけど、拳の切れ目がほとんどないので下手に退がれず、うまく隙を見つけて退こうとすると、試合開始直後みたいなすり足踏み込みが容赦なく追いかけてきて、体重乗ったいい奴をもらうみたいだった。

 結局、トルンペートは守りに徹しているうちにどんどん気力体力魔力とリソースをがりがり削られていき、最終的には鉈を弾かれのけぞったところに、首筋に手刀を添えられて一本取られる形となった。
 勝ち方まで優雅だなこのばあさん。
 タイが曲がっていてよ、みたいな絵面だもんな。多分あの手刀、人の首とか簡単に折れるけど。

「ば、ばっちゃん少しは年取って……ぜっ……はっ……!」
「私が強く思えるのは、あなたがそれなりに上達したからですよ。ところで」
「な、なに……っ」
「手巾を借りても? 汗をかくとは思わなかったものだから」

 しれっとした顔でしれっとのたまうおばあちゃんに、トルンペートは叩きつけるようにハンカチを寄越して、ばったり倒れた。
 うん、ありゃ完敗だよね。格好いいもん。

 極めて優雅にトルンペートを担ぎ上げて──優雅?──おばあちゃんは退場し、次鋒は我らがリーダー、リリオの出番だった。
 そう、一応《三輪百合(トリ・リリオイ)》のリーダーってリリオなんだよね。巷では一番影が薄いって言われがちなリリオが。

「なんだかすごーく失敬な事思ってません?」
「だって君が出張るときって、大体一撃で片付くか泥仕合するかの二択じゃない」
「必殺技をお手軽に防がれるのもあります」
「無い胸を張らないの」
「いいでしょう、今日は派手に私の魅力を紹介しちゃいましょう」

 君の魅力は十分知っているつもりだけど。
 まあいいや。
 どうせろくなことにならないし。

 寒くないのかちょっと厚手の服の上にいつもの飛竜鎧を身に着けた程度のリリオ。まあリリオって動き回る戦い方するしね。
 それと対峙したのは飛竜乗りの着る飛行服をダンディに着こなした壮年の男性で、名乗りによれば子爵さんの長男であるグラツィエーロ氏だという。
 普段は飛竜乗りたちの隊長格みたいな感じで行動を共にしていて、食事も彼らと摂っていたようだ。
 人数の少ない精鋭集団をうまいこと扱うには、同じ釜の飯を食う距離感がいいってことなのかな。単に本人の趣味っぽくもあるけど。

「フムン……久しぶりだな、お嬢ちゃん」
「ええ、お久しぶりですおじさま。辺境弁で大丈夫ですよ?」
「小さい小さいと思っていたが、なかなかどうして凄味を身に着けてきたじゃあないか」
「ありがとうございます。辺境弁で大丈夫ですよ?」
「近頃は投射器(パフィーロ)ばかりだが、たまには剣で遊ぶのも悪くはないだろう」
「楽しみですね。辺境弁で大丈夫ですよ?」
「……………」
「辺境弁で大丈夫ですよ?」
「──おめなぁ! げにおめなぁ! シュッとした()()()ン娘っごさ前やけン、よかにせじゃーち顔しよんのがわがらンべかな!? おめは器量よしで手も早ェがら嫁どンば捕まえてこれっじゃろうけンど、()ァは麓さ降りねば嫁ンもわらはんどンも顔見れンとぞ! (わけ)ェめごこン前ぐれェかっごつけさせれ!!!!」
「おじさまは昔からえーふりこくからですよ」
「こっぱらすね! ……失敬」

 取り繕おうとしてるけどもう手遅れすぎる。
 黙ってたらダンディなおじさまなんだけど、辺境訛りが出た時点で完全に革ジャン着た農家のおじちゃんだもんなあ。
 なに言ってるのかは全くわからないけど、試合前から口ではぼろ負けしてるみたいで、大丈夫かなこの人。

 ともあれ二人は向かい合って、そそくさと礼をした。

 リリオはいつもの剣で、おじさんは古びた長剣だった。骨董品ではありそうだったけれど、実用品であるのは間違いない武骨さだ。
 長大なサーベルと言うべきか、日本刀の親戚と言うべきか、反りのある片刃の刀剣で、やや太身。
 切っ先は大きく、そこだけ諸刃作りになっているようだ。刀身に彫られた溝、いわゆる樋は、俗にいう血流しのためと言うより、重量緩和のためと思われた。
 興味深いのは、刀身の長さに見合わず柄が非常に短いことで、片手の拳の分しかない。柄頭は大きく張り出していて、飛竜の頭を思わせる造りだった。
 また、サーベルのような護拳どころか、日本刀のような鍔さえない、柄からそのまま刀身につながる造りだった。

 これは多分馬上、というより飛竜乗りが使うからには飛竜に乗った状態でインファイトにもつれ込んだ際の装備と思われた。

 リリオは挑発ついでにため込んでいた魔力を剣に注ぎ、開幕から例の爆ぜる魔力で叩き切ろうという算段だったらしいけれど、おじさんは激高したように見せておいてしれっと後退した。
 後退して、およそ剣の間合いとは思えない距離から片刃長剣を大振りに振るう。
 コマンドミスかな、なんて暢気なことを考えていると、あわててのけぞったリリオの後ろの方で、山肌がさっくり切れた。
 あんまり鋭く切れたので見間違いと思ったけど、おじさんが剣を振るう度にその先ですぱすぱと山肌に傷が入っていく。

「おわっ!? け、剣で遊ぶってのはなんだったんですか!?」
「だーっはっはっは! 遊んでるべや! おめの馬鹿ンごつクソぢからン相手なンざしてやらン! ()ァが空爪(からづめ)で踊りゃ踊りゃ!」
「ひえっ! そんなんだからもてないんですよ!」
「こっぱらすね!!!」

 空爪……熊木菟(ウルソストリゴ)とかが使う、なんかこう、風精に干渉して空気の刃飛ばす技だっけ。似たような技使う魔獣が結構いるし、なんならマテンステロさんもできる、割とポピュラーな技だ。
 ここまで鋭利で静かで遠くまで届くのは初めて見たけど。
 何気に凄まじい腕前だし、怪力インファイターに対する戦術としては非常に正しいのだろうけれど、大人気なさの溢れる試合展開だった。
 はたから見ると、馬鹿笑いしながら剣を振り回してるアブナイおっさんと、奇声を上げながら見えない何かからゴキブリのようにかさかさと逃げ続けるアブナイ女の子という、非常にアブナイ絵面だった。

 とは言えさすがに何度も繰り返されれば慣れてくるようで、リリオも回避が安定してきた。
 安定してくれば、鋭いとはいえ魔力で固めた空気の刃、リリオなら魔力を込めた剣で弾けるようにもなる。
 で、安定して防げるようになってくると、反撃もしてくる。

「だーっはっはっゥオッ!?」

 距離という防壁で安心して慢心してたおっさんに、まさしく電光石火の速度で襲い掛かったのはリリオの剣から放たれた霹靂猫魚(トンドルシルウロ)仕込みの雷撃だ。
 武器の性能込みとは言え、多少のタメであれを出せるのは結構怖いと思う。
 音の百倍以上速く迫る雷撃を避けるおっさんもつくづくおかしいけど。
 大気中では減衰するし直進もしない雷撃だけど、ある程度リリオの魔力で雷精に方向付けしているから、一応おっさんの方には行く。行くけれど、命中率は高くない。なのでたまたま避けられた、というのはあるかもしれない。

 一発だけなら。

「なんだべやァァアッ!?」
「最後に当たればよかろうなのです! ふふはははははははーっ!」

 辺境貴族であるおっさんが魔力消費を気にせずに空爪を連発できるんなら、同じ辺境貴族のリリオも馬鹿みたいに雷撃を乱発できるのだった。
 普段はこれやると味方にも当たるし、普通の獣には過剰威力だし、その癖マテンステロさんには届かないのでやらないだけで、マップ兵器みたいな悪辣さがあるな。
 おっさんも負けじと空爪で応戦し始めると、お互いに干渉して軌道がずれまくり、すぱすぱばりばりと破壊の嵐が吹き荒れる。
 しかも途中で、お互い飛竜革の装備には矢避けの加護があることを思い出して、防御より相手のリソースを削るべく攻撃を優先し始めたので酷い有様になってきた。
 風も雷も「軽い」から、矢避けの加護で避けられるらしいんだよねえ。
 ああ、こりゃひどい。

 なんで私が平然としているかって言うと、マテンステロさんがしれっと防壁張って観戦席を守っているから。
 なんで私が優しくそれを見守っているかって言うと、周囲への被害が出始めたので一等武装女中サマが両成敗を決定したからだった。




用語解説

・パイント
 ヤード・ポンド法における体積(容積)の単位。
 イギリスとアメリカでは定義が異なる。
 ウルウの認識では英パイントで、こちらはおよそ568ml。

・ホットビール
 ビールに香辛料やドライフルーツ、砂糖などを加えて加熱したもの。
 日本ではあまり普及していないが、ドイツやベルギーでは寒い冬によく飲まれる。
 耐熱容器で電子レンジでも作れる。

・《ミスリル懐炉》
 ゲームアイテム。
 装備すると、状態異常の一つである凍結を完全に防ぐことができる。
 ほぼ全ての敵Mobが凍結攻撃をしかけてくる雪山などのエリアでは必須のアイテム。
 燃料などの消費アイテムも必要なく、なぜこれで暖が取れるのかは謎である。
『地の底より掘り出され、ドワーフが鍛え上げたまことの銀。を、贅沢に使用した高級感あふれる仕様でお届けいたします』

・ロードヒーティング
 ウルウが言っているのは道路等の舗装の内側に、電熱線や温水のめぐるパイプを張り巡らせたもので、路面の融雪、凍結防止のための設備。
 施工も維持も割と高くつくので、コスト削減のため様々な工夫が試されている。
 個人的には積もる雪をどうにかするには力不足で、どちらかと言えば雪かきで残った雪を溶かし、路面で凍結しないようにするための装置といった印象。
 帝国では塗装式の魔術が用いられており、要するに魔法で温めている。
 消費魔力は安心安全の当主由来。

・腕に魔力を込めて~
 単純に身体強化するのが魔力の恩恵。これは言わばステータスの問題で、程度の差こそあれ、鍛えれば上昇する。
 プルイーノが行っているのは《技能(スキル)》や《特性(アビリティ)》といった技術レベルの話であり、理論立った技術体系ではあるけれど、実践しようとすると素質と才能と根気がいる。

・グラツィエーロ(Glaciero)
 子爵の長男。
 妻と子供たちがいるが、さすがに要塞で暮らすわけにもいかないので麓の町で生活している。
 いわば単身赴任のお父さんなのだ。
 最近の悩みは子供に「お父さんおかえり」ではなく「お父さんいらっしゃい」と言われたこと。
 普通にしていればダンディだし甲斐性もあるのだが、山賊の息子は山賊というか、根が田舎者。
 実力はあり、飛竜乗りとしても優秀で、部下にも敬意を払われているが、やや抜けている。

・「──おめなぁ! げにおめなぁ! シュッとした()()()ン娘っごさ前やけン、よかにせじゃーち顔しよんのがわがらンべかな!? おめは器量よしで手も早ェがら嫁どンば捕まえてこれっじゃろうけンど、()ァは麓さ降りねば嫁ンもわらはんどンも顔見れンとぞ! (わけ)ェめごこン前ぐれェかっごつけさせれ!!!!」
「おじさまは昔からえーふりこくからですよ」
「こっぱらすね! ……失敬」
(意訳:「──お前なぁ! 本当にお前なあ! スタイリッシュ/スマートな都会の女の子の前だから、イケメンですよって顔してるのがわからねえかな!? お前は顔も良くて手も早いから嫁さんを捕まえてこれただろうけど、俺は麓に降りなきゃ嫁も子供たちも顔見れないんだぞ! 若くてかわいい子の前くらい格好つけさせろ!!!!」
「おじさまは昔から格好つけるからですよ」
「うるさい! ……失敬」)

空爪(からづめ)
 風精を乗せた空気の塊を打ち出す攻撃方法。
 熊木菟(ウルソストリゴ)のものが威力も高く有名だが、風精と親和性の高い魔獣には多く使うものがいる。
 熟練の冒険屋には同じようなことができるものもいて、より鋭い斬撃を飛ばすこともできるという。

・「だーっはっはっは! 遊んでるべや! おめの馬鹿ンごつクソぢからン相手なンざしてやらン! ()ァが空爪(からづめ)で踊りゃ踊りゃ!」
(意訳:「だーっはっはっは! 遊んでるだろう! お前の馬鹿みたいな怪力の相手などしてやらん! 俺の空爪(からづめ)で踊れ踊れ!」)

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)
 大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。
 リリオの剣の柄巻、及び鎧の補修に使われており、雷精との親和性と、耐性が上昇した。

・矢避けの加護
 方法や属性は様々だが、要は「飛び道具などの軌道を逸らすまたは迎撃する魔術・法術的仕組み、あるいは神性などの加護」の総称。
 飛竜の革は極めて高い親和性を持つため、矢避けの加護も強力である。使用さえすれば。