前回のあらすじ
勝利フラグが立ちました。
女中にお世話されてる時の女中ってどういう顔したらいいのかしら。
あたしがそんな悩みを抱えているって言うのに、あたしをお世話する女中の方は全く気にした風もなく、女中が女中に給仕するって言う現実を平然と受け止めていて、なんだか格の違いを見せつけられた気分だった。
いやまあ、あたしも給仕する側だったらそんな気持ちは顔には出さないけど。
まあ、いつもあたしがやっている仕事を、自分の身で受けるというだけのことだ。
全く落ち着かないけれど、でもそんなわがままばっかり言ってられない。
リリオと行動するって言うことは、冒険屋として、《三輪百合》の一員としてやっていくって言うことは、つまりそういうことなんだ。
いや待て本当にそう言うこと……?
ちょっと迷ってしまったけど、まあ、あんまり深く考えない方がよさそうね。
久しぶりに一人の寝床で目を覚まして、女中の手を借りて身支度を整え、食堂へ。
リリオは顔洗ったかしら、服はちゃんと着てるかしら、ウルウはたまには寝ぼけて下着付け忘れたりしないかしら、なんて職業柄かいろいろ考えてしまうけど、しかし今のあたしにできることはない。
あるとすれば、食堂に集まった二人をちゃんと検めてやることくらいだ。リリオの目に目やにはないし、ぼたんも掛け違えていないし、ウルウは残念なことに今日も下着を付け忘れてはいなかった。
まったく、世の中はままならないものね。
席について、朝の挨拶や歓談が交わされる中、朝食の皿が次々と運び込まれ、そしてウルウの顔が引きつる。
まあ、気持ちはわかる。
なにしろ辺境は、朝から食べる量がとにかく多いのだ。
山と積まれた麺麭だけでも何種類もあって、よく食べる黒麦の麺麭、少しお高い白麦の麺麭や、種なしのパンなどの他、大きさや形、粉の違いなど、様々だ。
果醤も種類が多い。林檎や、藍苺、苔桃といった木苺の類の果醤は、麺麭に塗るだけじゃなく、肉料理にもかけられる。重めの料理もさっぱりといただけるって寸法だ。
分厚く切った燻製肉や塩漬肉、ぶっとい腸詰、何種類もの乾酪、それに塩漬けや酢漬けの鰊、鮭、干物の鱈なんかもある。
茹でた芋や潰し芋は定番だし、酸っぱい甘藍や蕪の漬物といった、冬場でも食べられるように加工した野菜も大事だ。
大麦の包み焼や豆のスープも並んだ。
昨晩は他所からのお客である奥様とウルウに配慮してか、馴染みもあるだろう北部風の料理でもてなしてくれたようだけれど、ウルウとしては辺境風の料理の方が面白いようで、量はともかくその目新しさは楽しんでいるようだった。
ほんと、量はともかく。
冒険屋って言うのは基本的によく食べるし、リリオはその中でも特に食べる。何しろ辺境貴族だ。あたしも体の割に食べる。食べなきゃリリオについていくだけの活力は得られない。
ウルウは最近ちょっとずつ食べる量が増えてきたけど、それでも小食な方だから、この量には辟易しているようだった。
辺境のバカみたいな量に付き合わなくてもいいとは思うけど、でも、もうちょっと食べてほしいとは思う。美味しいものを食べている時のウルウは満たされた顔をするから、って言うのもあるけど、体が細くて心配になるときがあるので、もうちょっと太ってほしいのだ。
おっぱいはあるけど、緊身衣も締めてないのにお腹はほっそりしまってて、いやほんと、どういう体つきなのって感じ。
悪くないわよ。
決して悪くないわよ。
ただちょっと、まあ、もうちょっと肉置きがいい方がグッとくるもとい安心する。
あたしの好みはどうでもいい。
健康、それが一番だ。
たっぷりの朝食を済ませて、さすがにすぐに手合わせを、ってことにはならなかった。
食べてすぐはさすがにしんどい。
辺境貴族の閣下とリリオはけろりとしてるけど、いくら辺境の人間でも普通はあれだけ食べた後に全力で運動は早々できやしない。
「普通の辺境人って何?」
「茶々入れないの」
手合わせは腹ごなしを済ませて、お昼前にということになった。
その頃にはお腹もこなれて、みっともなく朝食を銀世界にぶちまける心配もないだろう。
みっともなく半固形の未消化物を銀世界にぶちまける可能性はあるかもしれないけど。
「そう言えばトルンペートだけ吐いたことないんじゃない?」
「あ、そうかもしれません」
「しょっちゅう吐いてるあんたらがおかしいんだからね?」
「冒険屋としての通過儀礼って言うか」
「《三輪百合》の伝統芸というか」
「捨てちまいなさいよそんな伝統」
腹ごなしがてら、あたしたちは軽く散歩などしてみたけれど、何しろ冬の辺境だ、景色には期待できない。
冬囲い、雪吊りのなされた木々が見られる庭は、あたしたちにとっちゃ結構見慣れた、というか見向きもしないしけたものなんだけど、雪自体に慣れていないウルウにとっては物珍しいらしく、雪に足を取られながらも散歩を楽しんでいるようだった。
冬囲いって言うのは、簡単に言えば庭木が風邪をひかないように、凍り付かないように、藁とか筵とかで包んでやることだ。
雪吊りは、雪の重みで枝が折れないように、柱になる棒なんかを立てて、そこから伸ばした縄で枝をつってやることだ。細い枝なんかはまとめて縄でしばってやる、しぼりというのもある。
そう言うのを説明しながら、まともに歩けていないウルウの手を引いてやっているうちに、存外時間は早々と過ぎてしまった。
手合わせの場所に選ばれたのは、竜車場だった。
冬場は雪が積もって何もかも埋まってしまうけど、少なくとも竜車場だけは、緊急で飛んでくる竜車がいるかもしれないので、可能な限り雪かきをしたり、踏み固めたりして、平らに保っているのだ。
また、真っ白な世界を目当てもなしに飛ぶ竜車のために、雪に埋もれない背の高い塔が灯台のようにそびえたち、また着陸場所も真っ赤な塗料や篝火で目印を作るようにしてある。
まあ、あたしは専門じゃないので詳しくはないけど。
ともあれここならば広いので大立ち回りしても大丈夫だし、足元もほどほどに安定しているというわけだ。
やっぱりというかなんというか、先鋒はあたしだった。
なんだかんだ言っても、あたしって《三輪百合》じゃ一番弱いものね。
別に卑下してるわけじゃなくて、もっと正確に言うなら、あたしが一番一般人枠ってこと。
常識人って言ってもいいわね。
リリオは辺境貴族だし、ウルウはウルウだし。
だからあたしが一番弱いって言うのは、あたしが一番まともだって言うことだ。
一番弱いし、一番まともだから、一番こすっからい手も使うので実際闘うと誰が一番ってなかなか言えないけど。
あたしのお相手は、閣下の長男ネジェロ様の武装女中だった。
同じ武装女中とあって、装備はほぼほぼ同じだ。
硝子蓑蟲の糸で織った給仕服に、臙脂も艶めく飛竜革の前掛け。
腰帯には鉈と短刀、それに手斧。手袋も長靴も、確かな戦闘擦れの残るものだ。
とはいえ、見た目は同じようなものでも、実態は違う。
「お初にお目にかかります。二等武装女中のペンドグラツィオと申します」
「ご丁寧にどうも。三等武装女中のトルンペートと申します。お見知りおきを」
二等武装女中。
三等武装女中のあたしより、一等級上の武装女中だ。
辺境の武装女中は、戦闘力も生存力も、女中としての腕前や心構えも、厳しい試験の上で確かめられ、等級を定められる。
二等ともなれば騎士とも遜色のつかない腕前を誇る。
その上で、優雅な御辞儀をはじめとした所作にも隙がない。
何しろあたしは最近、冒険屋として荒っぽい生活に身を置いていたから、こういう洗練された所作を見るとちょっと焦る。
体に染みついたものは、なんて言うけれど、人は訓練を途切れさせると途端に劣化していく。
養成所で散々味わった教鞭の痛みを思い出しながら御辞儀を返し、改めて向かい合う。
審判兼一番近くで観戦できる観客であるところの男爵閣下が、開始の号令を吠えるとともに、ペンドグラツィオは腰の鉈を抜く。
剣と言うには短く、短刀と言うには長く、中途半端な長さは野山の中で枝や下生えを打ち払うのに適したもの。騎士の持つ剣と比べたらいかにも野良道具といった風情ではあるけど、鉈は武装女中の基本武装ね。
分厚い刃は折れず曲がらず、先端が重い造りは短いながらに打撃力が高く、短いゆえに取り回しの幅が広い。多少の刃こぼれなど戦力の低下につながらない武骨な鉈は、下手な武器よりもよっぽど凶悪だ。
斧にしろ短刀にしろ、もとはと言えば「あくまでも武装していない侍女」という体裁のために、武器ではなく野良道具を携帯させているという形だったらしいけど、手練れの武装女中が振るう野良道具は、なまじの名剣魔剣よりも命を刈り取る作業に長けているんじゃないかって思う。
短い剣としても、棍棒としても、時には盾としても使える鉈に対して、あたしは短刀を両手に構える。
とは言えいつもの投擲用じゃない。足場の悪い雪の上じゃいつまでも距離は取れないし、飛竜紋の武装女中の装備と防御を貫くのはさすがに厳しいからね。
近接戦となると、同じ鉈での勝負は、小柄なあたしにはちょっと分が悪い。
いなしてかわして捌いて避けて、うまく隙をついていくってのがあたしらしいやり方。
まずは小手調べとばかりに仕掛けてくるペンドグラツィオ。
繰り出される鉈を受け流していくと、養成所での訓練を思い出す。
リリオと内地に出てから、同じ武装女中とやり合うことは全然なかった。飛竜紋の武装女中なんて話にも聞かなかったし、内地の武装女中もまあ程度が知れたようなものだった。
久々にご同僚が相手だと思うと、格上相手に緊張ってのもあるけど、それ以上に懐かしくって、楽しくなる。
ペンドグラツィオはあたしより上背もあるし、つまり手足も長い。間合いが広い。でも結局のところ、人間の手足って言うのは、胴体に関節で取り付けられた棒っ切れだ。曲がる場所は限られていて、回る角度は決まっている。
あたしはそのからくりを正確に把握して先読みできるほどの達人ってわけじゃないけど、それでも小柄なりの戦い方は叩き込まれた。
例えば右腕は、右側には広く間合いがある。でも左側に振ろうとすると、自分の体が邪魔になる。
例えば肘は上と内側には曲がるけど、下と外側にはどうやったって曲がらない。
そういう人間の体の造りの上から見て、無理が出てくる場所に潜り込む。そして、一突き。
それがあたしに叩き込まれたやり方だ。
とはいえ、武装女中相手に早々うまくいくわけでもない。
懐に潜り込もうとしたときには、ひらめく裾を翻して、鋭く蹴りが見舞われる。
咄嗟に短刀で受けて後方に飛んだけれど、手首がしびれる。やけに、重い。
「仕込んでるわね。足癖が悪いこと」
「あなたこそ、何本呑んでるのかしら?」
「さて、ね」
飛竜革の長靴はとても丈夫だ。でも革だから、金属よりは軽いし、柔らかい。
ペンドグラツィオは靴の爪先、いや、たぶん靴底と踵にも鋼を仕込んでいるんだと思う。
鋼は重いから蹴りにもその重さが乗るし、硬いからただの飛竜革より破壊力が上がる。
怖い女だ。
全身に刃物を仕込んでるあたしも大概だと思うけど。
仕込みがばれた以上出し惜しみはしないらしく、ペンドグラツィオは鉈のみならず拳闘を交えはじめた。どちらかといえば、彼女は殴る蹴るといった拳闘の方が性に合っているらしい。
鉈を基点としていた先ほどまでに比べて、大分動きの幅が広がり、やりづらいったらない。
おまけにこの女、靴だけじゃなく手袋にも鋼を仕込んでいるらしく、繰り出される拳の一つ一つにえげつない重みがある。下手に真似しようとしたら腕の筋を痛めるだろうけど、慣れ切った鋭さがある。
そんな重しを手足に仕込んでこの雪の上を自在に立ち回りするんだから、辺境の人間は大概頭がおかしい。
とはいえ、だ。
いまのところあたしは特に怪我をすることも、何なら有効打を受けることもなく、ペンドグラツィオの攻撃をさばき続けることに成功している。
最初は手加減されているのかと思ったけど、というか事実手加減されていた臭いけど、段々回転数を上げていき、拳闘も解禁し、それでもなおあたしはそれをちゃんと見切ることができて、余裕をもってさばいて、その上で反撃もできていた。
なんだか不思議な感覚だった。
ちょっと前のあたしなら必死こいて逃げ回ってたようなえげつない蹴りをかいくぐり、ちょっと前のあたしなら見つけることさえやっとの隙に短刀をねじ込む。
明らかに無理のある体勢で避けるペンドグラツィオ、それを見送って次を待ち構える余裕さえある。
あたしには今や、ペンドグラツィオが明確に焦りを覚えているのを如実に感じ取っているのだった。
結局あたしは程よく汗をかいた辺りで、鉈を弾き飛ばしてペンドグラツィオに膝をつかせることができた。あたしが手巾で軽く額をぬぐう程度のところ、格上のはずの武装女中は肩で息をしてすっかりくたびれたようだった。
短刀に比べて重い鉈を振り回し、それに加えて手足に重しを仕込んでいたとはいえ、ずいぶんな疲れようだ。
というより、大立ち回りを演じたペンドグラツィオをからかうように動き回っておきながらさほども疲れていないあたしの方が、やけに体力に溢れているということかも。
「三等なんて、騙されたわ」
「あー……奥様にしごかれたからかも」
「羨ましい限りだわ。昇級試験をお勧めするわ」
「養成所でまたしごかれるの? あー、まあ、気が向いたら」
行楽気分のリリオたちに手を振り返しながら、あたしもその行楽気分の仲間となるべく歩き出したのだった。
用語解説
・果醤
果物に砂糖や蜜を加えて加熱濃縮したもの。ジャム。
・藍苺
ツツジ科スノキ属の低灌木種及びその果実。
ビルベリー。
青紫色の実をつけ、生で食べると果汁の色がつく。
柔らかく傷つきやすいため専ら素手で採取され、傷みやすいためその土地でのみ消費される傾向にある。
・苔桃
ツツジ科スノキ属の常緑小低木及びその果実。コケモモ、リンゴンベリー。
赤い実は非常に酸味が強く、果醤や砂糖漬けなどにして用いる。
・砂糖漬け
主に果物を砂糖につけたもの。果醤のうち、果物の形を残しているものも言う。
・塩漬肉
特に言及しない場合、豚や猪のもも肉を塊のまま塩漬けしたものやその類似品。
燻製するもの、煮沸するもの、加熱しないものなどがある。
・甘藍
アブラナ科アブラナ属の多年草。結球する葉を食用とする。キャベツ。
・蕪
アブラナ科アブラナ属の越年草。根菜。葉も食べる。カブ、カブラ。
・麦粥の包み焼
小麦やライ麦の生地に大麦の乳粥、マッシュポテトを乗せて焼き上げたパイ料理。
・緊身衣
補正下着の一つ。胴を締め上げてウエストを細く見せるために使用するほか、腰痛緩和のためにも用いられる。
健康にあまりよくなく、流行でもないが、たまに見かける。
・硝子蓑蟲
硝子の森に生息する昆虫。蛾の仲間。
硝子質の甲殻を持ち、硝子質の小枝などを蓑のようにまとい、硝子質を含む糸で枝からぶら下がる。
この糸は非常に丈夫かつしなやかで、繊維素材としては最上級の性能を誇る。
その分、扱いには極めて特殊な専門職が必要だが。
内地ではその糸の取引自体がまずないが、辺境では養殖もしており、武装女中のお仕着せや貴族、騎士の衣類、鎧によく用いられている。
・ペンドグラツィオ
カンパーロ男爵嫡男ネジェロ付きの武装女中。等級は二等。
前回のあらすじ
格上の武装女中ペンドグラツィオを意外とあっさりあしらってしまうトルンペート。
どうやら『暴風』にしごかれていつの間にか成長していたようだ。
おじさまことカンパーロ男爵に誘われて臨んだ交流試合は、《三輪百合》からはトルンペート、向こうからはペンドグラツィオという武装女中との、武装女中同士での対決で始まりました。
トルンペートがいつも一緒にいてくれるので感覚が麻痺してしまいそうですけれど、実は武装女中同士が手合わせするのって、なかなか見れない組み合わせです。
飛竜紋の入った前掛けを許される辺境の武装女中だけじゃなく、内地の武装女中でもそうですね。
数自体がそんなに多くないのもありますけれど、そもそも武装女中は女中であって、戦闘は本業じゃないんですよ。
「これ笑うとこ?」
「気持ちはわかります」
「あんたらね」
格上の二等相手にも引けを取らず、むしろかなり余裕を残していい運動してきたと言わんばかりのトルンペートが帰ってきました。
ほら、ご覧ください。
こうして普通に立っているトルンペートは普通の女中です。いささか普通じゃなく美少女ですけど、これは私の贔屓目もあるので勘定に入れないでいいでしょう。
大真面目に武装女中って本業は女中なんですよ。家事ができる傭兵じゃなくて、戦闘ができる女中なんですね。
大昔、辺境が帝国に組み込まれることになったとき、辺境の人たちも考えたんです。
自分たちは武勇を誇る、誇りすぎる。人界を護るために竜狩りを続けてきたその強さを自覚していたんです。
なので帝国の人々を出迎えたり、内地に出向いたりするときに、極力脅威を感じさせないように一切武装せずに、騎士たちも連れないことにしました。
でもいくらなんでも手ぶらで共もないのでは見栄えも悪いし、護衛なしでは家臣たちもいい顔をしない。
そこで双方に対する詭弁として、武装女中が生まれました。
無力な内地の人々には、あくまでも野良仕事用の道具を持った女中だと。
辺境の人々には、貧弱な内地相手としてはきちんと武装した護衛であると。
帝国から派遣された初代辺境総督と、絆を結ぶために嫁入りした辺境の姫騎士の歌物語にもこの武装女中の逸話が登場しまして、これがまた初演以来帝国各地で長く演じられている大人気の演目なのです。
なので武装女中は辺境だけでなく内地の人々にも広く知られ、いまや内地産の武装女中もいるんですね。
「……それって結局女中と護衛の合いの子ってことじゃ?」
「女中だって言う詭弁を通すために、徹底して教育されてるので、とても優秀な選りすぐりの女中なんです」
「戦闘技能は?」
「護衛なのに弱くちゃ仕方ないのでそちらも徹底的にしごかれた生え抜きの腕前です」
「武装女中はなんだって?」
「ごりごりの武装集団です」
「あんたらね」
まあ、うん、でも、いくら鍛え抜かれているとはいっても、女中としての仕事も同時並行で叩きこまれているので、普通の武装女中と本職の騎士なんかと比べるとやっぱり弱い、と言っていいと思います。
ただ、この強い弱いというのも曲者で、野外でぶつかり合ったら騎士の方が強いかもしれませんけれど、室内や、武器が限られている中での戦闘や、主人の護衛などを鑑みた場合、武装女中に分があるでしょう。
適材適所というやつですね。
「はいはい、あたしのことはいいから、次、あんたの番よ」
「頑張ってきますね!」
さて、次鋒は私ということで、お相手は、と見れば、優しげな微笑みを浮かべたネジェロ兄こと、カンパーロ男爵嫡男のネジェロでした。年は確か三十になるかならないかでしたっけ。
「今年で二十八になる。ちっちゃなリリオーニョが成人するんだ、俺もいいおじさんだよ」
「またまた。ネジェロ兄はいくつになってもネジェロ兄ですよ」
「お前はいい子だなあ。お前の兄貴は容赦なく俺をおじさん呼ばわりするよ」
うーん、まあ、兄のティグロはそういうところあります。
丁寧というか、慇懃無礼というか。
ネジェロ兄とはそれこそ私が生まれた時からお付き合いのある、庶民的な言い方をすれば近所のお兄ちゃんです。恰幅の良いおじさまと比べると細身ですけれど、顔つきの柔和さはよく似ています。
とは言えただの甘い顔つきの甘い人かというとそうでもなく、これで立派な辺境貴族。血の気の多さはお墨付きの札付きです。私とティグロ、二人まとめて一緒に遊んでくれたというのがどれくらい頑丈なのかお察しいただければ。
「お前の剣と鎧、そんなだったか?」
「ふふん、いいでしょう。ヴォーストで強化してもらいました」
「大方派手にぶっ壊して直してもらったんだろう」
「ぐへぇ」
お見通しでした。
でも強化されているのも本当なので、ここは胸を張っていきましょう。
私の武器が大具足裾払の甲殻を削り出した剣であるのに対して、ネジェロ兄の獲物は超硬質陶磁を削り出した剣でした。
この超硬質陶磁というのは古代聖王国時代の遺跡に使われている建材のことで、まともな方法では傷をつけるのも大変な恐ろしく硬い石です。似たようなものとしては、ヴォーストの地下水道なんかの建材である超硬混凝土こと聖硬石などがありますね。
天然ものか人工物かの違いはありますけれど、どちらも恐ろしく頑丈な素材で、つまり力加減を考えずに振り回すのに適したとても辺境人らしい武器です。辺境人が力任せだって言いたいわけじゃなく、半端な武器だと力に耐えられないくらい強いってだけですけど。
細かな性能の違いはあるんですけれど、まあそういうのは玄人の好み次第ということで。
私たちは朗らかに礼をしあい、おじさまの合図とともに大上段の大振りを互いに繰り出しました。
大抵の相手なら剣の頑丈さと辺境貴族の怪力が合わさって一撃で仕留められるものでしたけれど、私たちにとっては軽い挨拶みたいなものです。
よくできましたとばかりにネジェロ兄は柔らかく微笑んで、それから鉈で枝を掃うかのような気軽さで剣を振るってきます。もちろんそんな気軽な手つきであっても、獲物は本物の凶器であり、ふるうのは常人離れした怪力です。
それを真っ向から受け止め、撃ち合うことが叶うのも、私が辺境貴族であり、獲物が大具足裾払の剣であり、つまり同じ化物の条件を揃えているからでした。
私たちが一合一合打ち合う度に、まるで岩と岩とが激しくぶつかり合うような馬鹿げた轟音が響き渡りました。
メザーガやお母様は確かに強い、強すぎるのですけれど、それでも、この轟音をぶつけあえるのは辺境貴族同士でなければできないことでしょう。
それだけ辺境貴族というのは、生物種として格が違うのです。
それなのにお母様にいまだに勝てないのはなぜなのか。謎です。
ともあれ、私たちは楽しむように剣を合わせていきましたけれど、さすがにちょっと厳しくなってきました。
私もお母様に随分しごかれてそれなりに腕は上がったと思いますけれど、辺境貴族ネジェロは十四年分私よりも長く剣を振るってきているのです。
それに加えて、まず体格差があります。
私の体は小さく、ネジェロ兄は上背のある方です。
基本的に、体が大きい方が強いというのは辺境貴族にも通じる理論です。
腕力に関しては恩恵の強さが物を言うとは言え、腕が長ければ間合いは広がり、そして遠心力が打撃に加わる。
これはちびの私には無視できない差です。
そしてまた武器の差があります。
どちらが優れているという話ではなく特性としての話で、私の大具足裾払の剣はしなやかで軽く、受け流しや素早い剣技に優れるのですけれど、ネジェロ兄の超硬質陶磁の剣はなにしろ石剣ですのでしなやかさはまるでないのですけれど、とにかく重いのです。
そんな鈍器並みの重たさの剣が、体重を乗せて降ってくると、私としては受けづらいのです。
軽い私の体では、下手に受けると吹き飛ばされてしまうのです。
足場が雪というのも頂けません。いくら慣れているとはいえ、これだけの衝撃を受け止めるには、この足場は弱すぎるのです。
単純な打ち合いでは、分が悪いということですね。
じゃあ打つ手がないのか、と言えばそんなざまでは冒険屋などやっていられません。
私は打ち合いから受け流し主体に切り替え、ネジェロ兄の剣をいなしながら息を整えます。
呼吸はすべての生命活動の基本。正しい呼吸ができていることが、重要です。
呼吸を意識して、全身の力を意識して、魔力を練り上げていく。
剣士にして魔術師であるお母様はこの辺りをほとんど無意識でこなせるみたいですけれど、私にはまだまだ難しいものです。それでも、なんとか戦いながらこなせる程度にしごかれたのですよ。できないとぼろくそにされるので。
「お、札を切るか。おじさん嬉しいねえ」
「出し惜しみは、しませんよ……ッ!」
私の魔力の動きを察して、おじさんの剣撃は一層鋭く激しいものとなって降り注ぎました。
大剣のような重量が、鉈か何かのようにあまりにも気軽に振り下ろされる。
真正面から受ければ、いくら私の恩恵が強いとはいえ、押し負けるのは確実だったでしょう。
けれど、私は整えた魔力を剣にまとわせ、この振り下ろされた死に真っ向から立ち向かうことを選びました。
振り下ろされる剣に対し、打ち上げる剣。
重みを活かせる振り下ろしに対し、それはあまりにも無謀な戦いだったかもしれません。
けれどそれは、尋常な物理学においての話。
魔力の恩恵を受けた手は、腕は、肩は、背は、そして足に至るまでの全身は、大地を支えに力強く剣を振り上げ、刃がかち合う。
まるで小さな爆発でも起きたかのような衝撃に、互いの剣が停止する一瞬。
その力の均衡を崩すのが、剣に宿った魔力の一握り。
心の中で火花が散り、剣先に宿った魔力が音を立てて爆発する。
その爆発は強烈な推進力となって、暴れるように剣を打ち上げる。
「う、おォ……ッ!?」
力の均衡を打ち崩すその衝撃に、ネジェロ兄の手から剣がもぎ取られ、そして突き立った雪をその熱で溶かしました。激しい打ち合いと、魔力のぶつかり合いが、それだけの熱量を生んでいたのでした。
ドラコバーネの魔力は、爆ぜる魔力。
今まで使うほどのことに陥ったことがないので、使うまでもなかった切り札。
というと格好いいですけれど、まあ実戦で使えるほど私が魔力の扱いできてなかったんですよね、いままで。
でも、お母様にしごかれ、ぼろくそにされ、できなければご飯抜きとかいう地獄を乗り越えて、私は見事勝ち取ったのです。
自分自身の魔力の炸裂で手がじんじんとしびれるのを押し隠して、私は勝者にふさわしい笑みで胸を張りました。
「ドヤ顔だ」
「ドヤ顔ね」
外野がうるさいですね。
「いや、参ったな。随分腕を上げたよ」
しかし、ネジェロ兄は手をぶらぶらと振りながら苦笑いしましたけれど、なんとなく釈然としないのも事実です。
最後の、魔力の炸裂の瞬間、一瞬ネジェロ兄の剣の重圧が緩んだような気がするのです。
怯んだ、というわけでもないでしょうから、あれはむしろ、手加減されたのでしょうか。
ちょっと不満げに見上げてみると、おじさんはやっぱり柔らかく笑うのでした。
「悪いけど、剣が惜しくなった。あそこで攻めたら、押し勝つにしても、折れてたんでな」
少なくとも、そう言わせるくらいには腕を上げたと、いまは満足するよりなさそうでした。
用語解説
・超硬質陶磁
超硬質セラミックス。古代遺跡の建材や道具などの形で発掘される素材。
金属ではなく陶磁であるため加熱に非常に強く、溶けて曲がったり折れたりしない。
その代わり加工も削り出すほかにない。
・超硬混凝土
いわゆる聖硬石のこと。地下水道など、遺跡の建材としてよく見られる。
ざっくり言えば素材の粒子単位から魔術的補強のなされた超硬質コンクリート。
頑丈なだけでなく経年劣化にも強く、二千年経ってもほとんど劣化していない。
前回のあらすじ
辺境貴族同士の戦いは、大抵人間が出せない音を出す。
リリオと、男爵さんの息子さんの手合わせは、まあ私が言うのもなんだけどちょっと人間離れしていた。マテンステロさんのところでしごかれて万国びっくり人間ショーは満喫したと思っていたんだけど、辺境人がみんなあんな感じだとしたらほとほと度し難いな。
身のこなしとか技術面で言うと、二人とも大したことはなかった。
いや、他の冒険屋とか見てきた限り、かなり大したことあるんだろうけれど、マテンステロさんみたいな規格外見ちゃうと、目が肥えちゃうよね。
まあそれでも、大分チート入ってる私の目でも追えないマテンステロさんと比べると十分落ち着いて観戦できるレベルだった。
ただ、剣を打ち合ってる音がどう聞いても重機がうろつく工事現場のそれだったので、この人たちも大概おかしい。
キンキンキンキン流石だな、っていうんじゃなくて、ガンゴンガガンやりますねっていう力こそパワーな蛮族の音がするんだよ。ハンマーで殴り合ってんのかこいつら。
その爽やか蛮族青空殴り合い合戦を制したのは我らが《三輪百合》のリーダーであるリリオだったわけだけど、この子、このちっちゃい体にあんなパワー秘めてんのかと思うとちょっとどころではなく命の危険を感じるよね。
別に私も怪物だし、今更ヒィッ化け物!とかやらないけど、こいつ、私が耐えられるのわかっててあのパワーで抱き着いてくるんだよな。本気でやばい時は避けるけど、ハグで《HP》減るのってはっきり言って恐怖だからね。
私の場合痛みとかだけじゃなくて数字で見えるからより一層怖いんだよ。
なんなら君のボスMobみてーな力強さも数字で見えるから怖いんだよ。
それでも馬鹿犬じみた笑顔でダッシュで駆け寄ってきて褒めて褒めてって顔されると無下にもできないのだ。にんげんだもの。
晴れているとはいえ息が白くなるほど寒い寒空の下、体から湯気立てて髪までぐっしょり汗にぬれていたので、タックルは全力回避。風邪ひかないように、タオルは投げてあげる。そうすると私が拭いてあげなくてもトルンペートがかいがいしくお世話してくれるのだ。
適材適所だね。
さて、そんな具合で二人の試合が終わったわけだけれど、なんで私がトリなんだろう。
武装女中であって本業は戦闘職ではないらしいトルンペートが先鋒なのはまあわかるとして、大将はうちのリーダーであるリリオであるべきだったんじゃなかろうか。
そう言う不満たらたらなのを察したのか、男爵さんが柔和そうに笑った。このおじさま、腹から善い人そうではあるんだけれど、善人が私にとって都合のいい人かというとそう言うわけでもない。地獄への道はいつも善意で舗装されているのだ。
「いや! いや! いや! ウルウ殿は一番面白いとマテンステロ殿から聞かされておりますのでな!」
「頑張ってねウルウちゃーん」
この人ほんっと無責任に煽るよなあ。
もしかして、ハヴェノでしごかれてた時、徹底的に札を切らないように誤魔化しまくってたのがばれてんのかな。しかたがないだろう。私みたいな《技能》頼りの構成だと、あんまり奥の手みせると後がないのだ。
リリオみたいな素直なタイプじゃないから、地力でどうこうってのはできないんだよ。
まあ、しかし組まされたものは仕方がない。
やるからには正々堂々真正面から誤魔化し切ろう。
武装女中同士、剣士同士という先の試合とは違い、私の相手は同じ《暗殺者》というわけではなかった。そりゃそうだ。私を見て暗殺者だと判断するのは無理だろうし、じゃあなんだろうってなると何者なんだろうな私は。
憮然として立つ私と対峙したのは、初老の男爵さんよりまだ年上の、顔にしわの刻み込まれた老人だった。老人と言っても、かなり立派な骨太の体格で、背筋もピンと伸びていて、まるで老いというものを感じさせない。
「お初にお目にかかる。アマーロ家剣術指南役を務めまするコルニーツォと申すもの。よろしくお頼み申す」
「はあ、ええと、ウルウと申します。今日はお手柔らかに」
「うむ、うむ」
背丈で言うと私の方が上なんだけど、骨も筋肉も太いし、姿勢がいいからか、全然小さくは見えない。
なんていうのかな、気迫みたいな、そういうのがあるよね。
手にした剣は派手な装飾もない武骨な剣なんだけど、かなり使い込まれた年季を感じる。まるで手足の一部みたいに馴染んでいて、目立たない。それがかえって怖い。
それにこの刃の輝きは、以前にも見たことがある。
「フムン。わかりますかな。古いが、聖硬銀でできておる」
「以前に、見たことが」
「見劣りせねば良いが」
渋く笑うお爺様だけど、剣術指南役ってことは、さっきヤバそうな音を立ててリリオとヤバそうな打ち合いしてた長男にも剣術教えてたってわけで、全然全く油断できない。
この人は辺境貴族ではないらしいけど、辺境貴族でもないのに辺境貴族に剣術教えているっていう理論の破綻がもう怖いでしょ。
聖硬銀の剣ってことは、確かメザーガが使ってたのも同じ素材の剣だった。
珍しい素材みたいであまり詳しくは知らないけど、リリオに言わせると使い手次第で大きく化けるらしいから、見た目は地味でも十分ヤバい代物だろう。
見た目が地味っていうのは、こういう場合一番手ごわいんだっていうのがセオリーだしね。
まあ、油断しないようにとは言っても、私にできるのは避けて避けて避けて後たまに殴る蹴るってくらいだけど。
いやほんと、私、戦闘って苦手なんだよ、いまだに。
試合開始の合図が響き、コルニーツォさんは中段に構えてずいずいと距離を詰めてくる。
こっちは無手なんだけど、それで遠慮する気はなさそうだった。
というより、この世界ではある程度腕が立つ人は、ステータス見れるわけでもないのに相手の強さがなんとなくわかるらしい。私は《暗殺者》系統の特性なのかそのあたりがわかりづらくはあるようだけれど、それでもそのわかりづらいっていうのが警戒するには十分な要素らしい。
ファンタジーな世界に迷い込んで、一番ファンタジーだなって思うのがその気配とか気迫とか空気とか読む能力だよなあ。
なんてぼんやり考えている間にも、コルニーツォさんは容赦なく切りかかってくる。
さっきの長男氏と比べると力強さは劣るけれど、鋭さが段違いだ。一つ一つの動作がよくよく油の注された機械のように精密で、そして素早い。
この素早いっていうのは、一つの動作が早いって言うだけじゃなくて、次の動作へのつなぎ、その次の動作への準備、そう言った一連の動きを頭で考えるのではなく体が覚えて繰り出してくる素早さだ。
動作と動作の継ぎ目に考えたり躊躇ったりする隙がないから、単純な速度以上に、早い。
なんてことをただのんびり考えているわけじゃなく、私の体はそれらをのらりくらりと自動回避でかわし続けている。私自身かなり気持ち悪いと思うほどの出鱈目な動きは、術理として剣術を叩き込んだ人ほど不可解なものとして困惑するものらしいけれど、このお爺様はまるで怯むところがない。
「素人の何を考えているかわからない剣の方が怖い、というのはよく言われることだが」
踏み固められているとはいえ沈み込む雪の上をするすると詰め寄りながら、お爺様は獰猛に笑った。
「そこで止まるのであれば、剣の道の入り口止まりでな」
つまり、訳の分からない動き程度は前提条件、ということか。
まあ、人間より魔獣の方が多いとかいう辺境で剣を取る人だ。理外の理というものとやり合い慣れているんだろう。
そうなると困ってくるのは私だ。
なにも私は自動回避にすべて任せてぼんやりしているわけじゃない。
あえてぼんやりしてないと、ファンタジー世界の住人はすぐにこっちの意図を読んできやがるので、下手に意識を集中するとそこから崩されるのだ。
殺気を読むとかいう物理法則に反したスキルを標準装備してるからなファンタジー世界。
とは言えこれが通じるのは程々の相手までで、ある程度腕の立つ連中だと、その完全無意識自動回避だと、逃げ道をどんどんふさがれて論理的物理的に回避不可能状態に追い込まれて無理矢理回避盾を突破されてしまう。
じゃあどうするかって言うと、どうしようもないんだよな。
いや、しょうがないじゃん。
私、ただの元OLだからね?
いくら身体がチートでも、ちょっとの間ナチュラルチートに修行つけられてても、私、平和な現代社会で社畜してた運動不足で心臓発作起こした元OLだからね?
これ以上回避できませんってところまで追い詰められたらそりゃ、もう回避できないんだよ。
「ようやく、追い詰めたましな」
「これで降参ってわけには」
「わしもようやく体が温まってきたところでな」
「あー、オーケイ、お手柔らかに」
ついに追い詰められて、ではどうするかって言うと、防御するしかない。
自動回避を理詰めで追い詰められて、私はついに武器を抜かされた。
と言っても散々ひけらかした《死出の一針》じゃない。あれじゃちっちゃすぎて防御もなにもない。
インベントリから引き抜いて、コルニーツォさんの剣を受け止めたのは、《暗殺者》系統の両手武器、《ドッキョシ》と《コリツシ》の二本一組の大振りのナイフだ。
自慢じゃないけど、ハヴェノでの乱取りじゃあ、マテンステロさん以外にはいまだに武器を抜いたことがない。それをさせるんだから、このお爺様は、少なくとも技術面においては《三輪百合》の二人より上だ。
リリオは怪力ばかり目が行くけど、あれで剣術自体も達者だから、このお爺様の腕前が並大抵でないのがわかる。
いやまあ、並大抵だったら剣術指南役なんかやってないんだろうけど。
ともあれ、まあ、抜かされてしまったからには、私の回避盾としての性能はさらに上がる。
避けるだけでなく、受け流しまでできるからね。
というか受け流ししかできないんだけどね。
レベル九十九だから、鍛えてなくても力強さの数値は結構高いんだけど、それでもがちがちに鍛えた前衛職相手だと見劣りする。ファンタジー世界の住人、恩恵とかいうブーストで、見た目以上のパワー出してくるからなあ。
このお爺様の剣はリリオよりは弱いけど、それでも私が真正面から力比べするにはちょっと困るパワーだ。しかも、こちらの力が入りづらい角度で刃を入れてくるので、やりづらい。
今は受け流しに専念しているけれど、こちらが本腰入れたので向こうもやる気出したみたいで、太刀筋が殺す気になってきてる。
単に鋭いだけなら受け流し続けられるけれど、こちらの動きを見てから太刀筋が唐突に切り替わるとかいう、訳の分からない剣が襲ってくるのだ。これを下手に受けてしまうと、そのまま刃を滑って切り返してくる。
勿論、そんな変幻自在な動きをしているのだから、一太刀にかけられる力はずいぶん落ちているのだけれど、人間を殺すのに無駄に力をかける必要はないとばかりに十分致命的な力で十二分に致死的な隙を狙ってくるので、圧はむしろ上昇し続けている。
最初の内は刃で刃を受け流す音が、澄んだ金属音を奏でていたのだけれど、段々余裕がなくなってぎゃりぎゃりと濁り始めてきた。
徐々に手首も痛くなってくる。全然抜いたことがないということはそれだけ慣れていないということで、いくらこのチートボディが使い方を体で覚えているとはいえ、私の頭はそう言うわけにもいかず、そのギャップが埋めきれないダメージを残していくのだ。
この徹底した受け流しの盾がそう長くはもたないことを、私だけでなくこのお爺様もわかっているらしく、年寄でスタミナもそう持たないだろうに、攻めの手を緩めることがない。
長期戦に持ち込むよりも、このまま削り切ろうという腹積もりだろう。
実際、このまま続ければ私が論理的物理的に追い詰められて削り切られるのは避けられない未来だろう。
別に私としてはこんな見世物みたいな手合わせで我武者羅に頑張って勝ったところで何も得られるものなんてないし、手札を一枚切ればその分、将来切れる手札が減るだけなのであんまり頑張りたくないので、このまま押し切られて降参したって構わないのだ。
構わないのだけれど、でも、まあ、うん。
ものすごい面倒くさいしクッソ面倒だし言葉にするまでもなく面倒極まりないけど。
でも、うん。
でも、なんだよなあ。
でも、まあ、リリオは、私に勝ってほしいらしい。
ならまあ、うん。
まあ、やぶさかでもない。
「ちょっと手妻を見せるので」
「フムン?」
「驚いて死なないでねおじいちゃん」
「ぬかすわ!」
むしろ笑みを深くしたお爺様の剣が、私の脳天を真っ二つにした。
「──は?」
比喩でも何でもなく、お爺様の剣が私の脳天を通り過ぎ、股下まで抵抗なくするりと抜ける。
さすがに想定外だったらしくたたらを踏むお爺様の体を、私の体はやっぱりするりと抵抗なく通り抜ける。
そしてたやすく背後を取った私の《ドッキョシ》が首筋にあてられ、一本だ。
これは以前、頭もイカレてるけど、技前も大概イカレてる凄腕の大女にしてクレイジー・バーサーカー・ゴリラことナージャだか長門だかと試合した時にも使った《技能》で、名を《影身》という。
いつも身を隠すのに使っている《隠身》や《隠蓑》の上位《技能》にあたるが、身を隠すというより回避に特化したものだ。
影属性の魔法《技能》という扱いで、体を影に変えて攻撃を回避する、という設定らしい。
ゲーム的には使用中攻撃不可能になる代わりに物理攻撃無効という代物で、《SP》消費は激しいけれど、敵の必殺技とかを避けるのに便利だった。
この世界ではもおおむねそんな感じの壊れ性能が実装されているみたいだけど、あんまり見せると対応されそうなのがこのファンタジー世界の怖い所なので、極力隠していきたい。
「……参り申した」
「それは、よかった」
「しかし、手加減なすったな」
「手加減、というわけではないんですけど」
「けど?」
「殺さずに済ませるのは、難しいので」
別に格好つけているわけでも何でもなく、死神という《職業》は本当にそう言うところがあるのだ。
即死攻撃に特化しすぎているので、戦闘イコール相手を殺すことなんだよな。
《ドッキョシ》、《コリツシ》にしても確率による即死効果付きで、この世界では相手の急所というか、ここを攻撃すると即死というラインが幻覚じみて見えるので、間違ってもそこを攻撃しないように気をつけないといけないのだ。
まあ、そもそもその即死ラインが細すぎて突破困難なんだけど。
「フムン、甘い、と言いたいところですが、負けては何も言えんわい」
肩をすくめて一応納得してくれたようで、私も肩の荷が下りた。
いや本当、戦うのは、苦手なのだ。
用語解説
・コルニーツォ
アマーロ家剣術指南役。辺境貴族ではないが、怪力の辺境貴族相手に剣術を叩き込めるだけの剣術遣い。
辺境で一番怖いのは、強いから強い辺境貴族以上に、その辺境貴族と渡り合おうとまともに考えている、技術でその域にまで挑もうとか言う頭のおかしい連中である。
・《ドッキョシ/コリツシ》
ゲーム内アイテム。《暗殺者》系統専用の両手武器。
確率での即死効果付き。奇襲時のダメージ量と即死発動確率上昇。
癖がなく、純粋に攻撃力と即死確率が高い武器。
『人は誰であれ死ぬときは独りだが、誰も傍にいない中で死ぬのは、魂に堪える』
・《影身》
《隠身》系統のハイエンド。隠密効果はむしろ下がったが、攻撃に対する回避性能が非常に高い。
発動中攻撃不可になる代わりに、物理攻撃無効の他、一部障害物の無効、魔法・範囲攻撃に対して確率で回避といった高性能な《技能》。
《SP》消費は激しいので、ボスの範囲必殺技を回避したりという使い方が多い。
『俺自身が影となることだ』
前回のあらすじ
切り札を一枚切ってでも格好いいところを見せたかったウルウ。
ええかっこうしいである。
ウルウの動きを目で追うのは難しい。
単純に動きが速いということもあるけれど、予想もしない動きをすることが多々あるから、まともな戦闘を繰り返してきた人間ほど、その意味不明な動きに困惑させられる。
人間より魔獣とやり合うことが多く、人間にはとても繰り出せない挙動を多く経験してきている辺境の人間にとっても、これがやりづらい。
しかも本当に厄介なのは、その意味不明さが本人にも理解できていないし把握もできていないということだ。
妙な話だけど、ウルウは自分の体の動きを全然把握していない。
相手の攻撃をぬるりと避けた後に、自分が避けたのだということを察する、そんなおかしなことがちょくちょくあるくらいだ。
ウルウは自動的だからなどとうそぶいているけど、無意識の挙動は、一層動きを読めなくしてる。
身のこなしは恐ろしく鋭いのに、本人の意識はぽやっとしているから、やろうと思えばこれを追い込むことはできる。どんなに意味不明な動きをしても、どんなに無意識で体が動いても、よくよく観察してやれば、ウルウは決まった動きしかしていないことがわかる。
どんな状況でも対応するほど多彩だから気づきにくいけど、同じ体勢、同じ角度で、同じ攻撃を繰り出された時、ウルウは全く同じ避け方をする。
あたしだって、こん畜生、どうにかして暴いてやるわって何度も挑んで、それでやっとこ気づいたことだけど、ウルウの避け方は、実はわかりやすいのだ。
迫ってくる脅威に対して、最短距離で、最小の動きで、回避する。
本当にこれだけなのだ。
避けた後の体勢とか、相手の次の挙動とか、自分の今後の行動とか、そう言うのを何も考えていない、ただその一瞬の危険を回避するだけの動き。
それが繰り返されると、どんどん無駄と無理が積み重なっていくから、一見意味不明で理解不能な身のこなしに見えているけど、あのぬるりぬるりぐにゃりぐにょりとした動きもすべては最短最小、それに尽きる。
だから、ウルウが無理な体勢を取らざるを得ないような攻撃を繰り返していけば、ウルウの動きはある程度強制できる。いくらウルウでも、物理的にできない動きはできない。
……まあ、理屈の上でいえば、だけど。
奥様はちょくちょくこの回避不能状況に追い込んでくるし、達人の勝負っていうのはもともとそう言う詰将棋みたいなところがあるけど、ウルウの本当に厄介な所は、そこまでやってなお、運が良くないと追い詰め損ねるってことね。
どういうことかって言うと、ウルウは極端に運がいいのだ。
運の良し悪しなんて口にするのは、勝てない言い訳みたいで好きじゃないんだけど、でもウルウの場合、はっきりと数字に出るくらいに運がいい。
あと一歩というところで、足が滑る、帯がほどける、風が吹いて目に砂が入る、足元にもぐらの巣穴があって踏み抜く、弾かれた小石がひゅーるるると上空で弧を描いて何の因果か動き回った後の頭の上に落ちてくる、いやほんと、冗談みたいだけど全部本当にあったことなのよね。
ウルウ一流の言い方をすれば、蓋然性があるなら必ずそうなる程度の運の良さなのだ。
これは戦闘だけでなく、日常においてもそうで、だからあたしたちは福引とか引くときは必ずウルウに引かせるし、そしてそれは必ず当たる。もっとも当たるって言ったって、最初から入っていない当たりくじは引けないし、ウルウにとってどれが当たりかっていうのもあるから、必ずしもあたしたちの望み通りってわけにはいかないけど。
なので、ウルウを追い詰めるときはそんな運の良さも黙るくらい徹底的に追い詰めないといけない。
男爵家剣術指南役コルニーツォさんは、そのあたり容赦がなかった。
雪に慣れていないと察すればさりげなく足場の雪を乱して足を取り、積極的に攻める気がないことを見て取ればますます大胆に攻め立て、短い時間でウルウの癖をどんどん暴いて追い詰めていく。
ウルウがよけきれずに二刀を引き抜くまで、ものの数分といったところだろうか。
あたしやリリオじゃあまず抜かせることさえ二人がかりでないとできないってのに、全く怖いものだ。
ウルウがあの禍々しい二刀を抜いて、それで持ち直したかって言うと、そうでもない。むしろ剣撃は悪辣さを増していく。
芸術的なほど正確に、ウルウの二刀は剣を受け流そうとする。
けどコルニーツォさんの剣は、直前で驚くほど鋭角に軌道を変えたり、あえて受けさせてその上を滑るように切り返してくる。
あれは、つらい。
しっかり構えて対応すれば、見せかけの剣か本命の剣かは、振りの鋭さや強さから見抜けないこともない。でも、そもそも戦闘勘がまるでないウルウには、とてもじゃないけど、見えはしても咄嗟に対処できないだろう。
それにあの受け手の刃の上を滑ってくる斬撃。あれがいやらしい。
からみつくような剣は、激しい音は立てないけれど、確実に気力体力を削ってくる。
おまけに、一度短剣で受けているからか、ウルウのあの奇妙な回避がうまく機能しないみたいで、反応がやや遅れる。
マテンステロさんとの手合わせだとこのくらい追い詰められたあたりで手も足も出なくなって一本取られるのが常だったけれど、この日のウルウはもう一枚札を切るようだった。
「ちょっと手妻を見せるので」
「フムン?」
「驚いて死なないでねおじいちゃん」
「ぬかすわ!」
あえてさらしたような隙に、コルニーツォさんの剣が容赦なく振り下ろされる。
そして振り抜かれる。
ウルウの脳天抜けて。
抜けてっていうか、脳天から股下まで切り裂いて。
老練な剣士であるコルニーツォさんも、これにはさすがに驚いてつんのめってしまったようだ。
そしてその隙にウルウの体はまるで本当の亡霊のようにコルニーツォさんをすり抜けて背後に回り、短剣を突き付けて決着。
審判役の男爵閣下も理解が及ばなかったようで、迷うように一拍遅れてからの、一本の声。
あたしはもうこれ、二度目なので、ちょっと驚きはしたけど、それだけだ。
以前にナージャとかいう、ウルウより背の高い女剣士との手合わせで見せたまじないね。
まるで身体が影になってしまったかのように、黒く染まったその身体はなんでもすり抜けてしまうみたいだった。
あれからあたしやリリオが何度か見せてよってお願いしても、すきるぽいんとの減りが激しいから嫌だ、とかなんとか言われて嫌がられている。たぶん魔力的なものをたくさん使うんだろう。
でもなんだかんだちょろもとい甘いから、二人がかりでおねだりを続けたらやってくれそうではあるので、時々思い出したようにお願いしてみたりしてる。
あたしは単純な好奇心からだけど、リリオはウルウと重なってみたら実質ウルウに包まれていることになるのではとかなんとか大分気持ち悪いことを言っていた。でも割とわかりみが深いので、そうねとだけ言っておいた。
ほんと、そうね。
ウルウのまじないで一発逆転されたコルニーツォさんはしてやられたと楽しそうに笑い、男爵閣下も非常に満足されたようだった。
内地の人が良く勘違いするところだけど、辺境武士は別に搦め手や策略、まじないなんかを卑怯だとか惰弱だとかは言わない。
そりゃ、力自慢はするし、正々堂々としているのは確かだけど、それはそれとして毒を使おうが罠にはめようが奇襲をかけようが、それを卑怯卑劣とののしることはない。
何しろ闘っている相手が自然の驚異と竜なのだ。この二つを相手に、辺境の人々は闘い続けてきたのだ。鍛え続けて全身全霊をささげてもなお届かない。頭を絞り道具を造り策を練り上げ罠にはめる。本当の本当に、できる限りのことをできる限りする。
それが人間の可能性であり、それが辺境の誇りなのだ。
だから、それを褒め称えこそすれ、蔑むことはない。
ただ、大昔に戦争した時に、これでもかと毒と罠と策略盛り盛りで攻めてきた内地の人を、素晴らしい覚悟と意気込みだって褒め称え笑いながら、真正面から正攻法で叩き潰しちゃった逸話が残っているらしく、その印象が強いのか、内地の物語に残る辺境武士は卑怯なことを嫌うまっすぐな騎士とかそんな感じに思われているらしい。
単に搦め手使わなくても勝てる戦力差だったかららしいんだけど。あ、数じゃなくて質でね。辺境貴族出たら終わる感じの。
なお、ウルウもこの話を聞いて「なにその魔王ムーブメント」と多分ドン引きしていたので、辺境人は昔から辺境人なんだなとは思う。
手合わせも無事終わり、私たちはお昼をいただきながら、手合わせの感想などを語り合った。
参加したコルニーツォさんとペンドグラツィオも同席した。
武装女中であるペンドグラツィオは、さすがに席について食事までは一緒にせず、ネジェロ様の給仕をしながら、受け答えしてる感じだけど。
あたしも武装女中なんだけどなとは思うけど、さすがに給仕されることももう慣れた。
あたしとペンドグラツィオの手合わせは、普段見ることのできない武装女中同士の戦闘が見られたということで、まずまず満足度は高いようだった。
リリオたちも、いつも見せる投擲をほとんど使わない近接戦を演じてみせたことで、あたしが遠間からちまちま攻め立てるだけの女でないことを見直してくれたようだった。
ぶっちゃけると、三人の中で一番弱いのはあたしだという自覚はあるので、今回自分の成長がはっきりと確認できて安心していたりする。
二人はあたしが弱いからってあたしをのけ者にしたりなんかはしないけど、でもあたし自身が、あたしが足手まといになりたくないのだ。武装女中なのに家事しかできないことを許容できない職業的な矜持でもあるし、二人と並んで立ちたいっていう個人的な希望でもある。
リリオとネジェロ様に関しては、まあ辺境人らしいなという感じ。
搦め手やまじないを否定しない辺境武士だけど、辺境貴族はそもそもの地力が強すぎるから、策を弄さない殴り合いが一番一般的だ。
互いの剣の鋭さや重さを素直に褒め称え、大声で笑いながら激しく酒杯を交わす。
うん、内地で想像する豪放で粗野な蛮族そのものだ。
ただ、リリオは黙ってれば美少女だし、ネジェロ様も甘い顔立ちの男前なので、絵面はちゃんと貴族同士の歓談だ。顔がいいっていうのはそれだけで武器になるなとつくづく思う。
奥様もリリオのお母様なだけあって、全然種類は違うけど美しい方だし、ウルウもまあ、癖があるというかちょっとよく見ないと分かりづらいけど美人さんだし、よくよく考えてみなくてもあたしは結構な美形たちと行動を共にしてるわけだ。
あたし?
あたしはほら、武装女中って基本貴族の侍女だから、顔の良さも選定条件なのよ。
そういうこと。
そんな感じで和やかに歓談は弾んだんだけど、ウルウとコルニーツォさんの手合わせの話になって、問題発言が飛び出た。
「いや! いや! いや! ウルウ殿は全く大したお方だ!」
「いえいえそんな」
「謙遜なさるな! じいが後ろを取られるところなぞ、わしは初めて見ましたぞ!」
「ちょっとした手妻ですよ」
「はっはっは! 大した手妻だ! いや! リリオお嬢様がヨメを連れてくるなどと言うので危ぶんでおりましたが、成程! 成程! ただ好いた惚れたというわけではなかったのですな!」
「──はあ?」
曖昧な笑みで男爵閣下の賛辞をのらりくらりと受けていたウルウの表情が固まった。
そしてゆっくり小首をかしげて、ゆっくりリリオを凝視する。半端に微笑みが残ってる分、怖い。
そんな濁った眼で見られたリリオは全力で首を振ってるけど、普段の言動もあって信用されてないのがまるわかりの視線のやり取りだった。
二人の間の緊張が高まったので、あたしがそっと挙手する。
「えーと、男爵閣下。横から失礼しますが、その、えー、いったいそのようなお話をいずこからお聞きに?」
「はて。はて。マテンステロ殿にお伺いしたのだが」
「ええ、私よー」
首を傾げる閣下に、平然と笑う奥様。
どうやらこのクソアマこと奥様の悪戯であったらしい。
悪戯なのか本気なのかと言われたらちょっと怪しいけど。
まあ、悪戯であるにせよ、何か考えがあるにせよ、リリオがウルウをそう言う意味で好いて慕っているのは、はたから見ても事実だった。
ウルウはリリオのそういう態度をわかっていて、その上で子供の言うことだとあしらっている。
子供だから、年上の女性に対するあこがれみたいなものを、勘違いしているのだと。
そういうことに、しようとしている。
そういうことに、したがっている。
ウルウの故郷では女同士っていうのがあんまり普通じゃないとか、ウルウ自身が恋愛沙汰にあんまり触れたくないとか、建前通りリリオがまだ子供だから本気にしちゃいけないとか、いろいろあるんだろうけど、でも、たぶん、一番は、いまの関係を崩したくないっていうのが大きいんだと思う。
友達と下らないこと話しながら特に目的もなく旅して美味しいもの食べたりお風呂入ったり冒険してみたり、子供がなんとなく想像する楽しそうな暮らしを、子供がなんとなく想像するように淡く夢見てた女が、手に入れたのだ。手に入れてしまったのだ。
大人の頭と子供の心で持て余してた夢を、大人の頭と子供の心で諦めてた世界を、今更手放せるわけがない。
あたしから見たら、ウルウってやつは化け物みたいに強くて、化け物みたいに得体が知れなくて、化け物みたいな化け物なんだけど、でも同時に、こいつの中身はようやくつなげた手のかたちを変えることさえ恐れるほどの臆病な子供なのだ。
自分が得たものをとても信じられなくて、時々立ち止まって呆然と手を眺めて、夢なんじゃないか動いたら消えちゃうんじゃないかって、それでもつないだ手を離すことの方がもっと怖くて、立ちすくんで泣きそうになっている、そんな小さな女の子なのだ。
どうやったらそんな、心が粉砕骨折して整復しないまま治っちゃって神経にザクザク刺さってんのに痛み止めもなしで過ごしてでも大丈夫ですなんて言えるわけもないから黙りこくって死に損なってるような人格が形成されるのかあたしにはわかんないけど、でも、得たものが信じられなくて、絶対に手放したくないっていう、その気持ちはよくわかる。
だって、あたしもそうだったから。
だって、あたしもそうだったんだから。
何にもなかったあたしはリリオに拾われ、何にもなかったあたしは何もかもを与えられて、何にもなかったあたしはあたしになれて、そして、何にもなかったあたしは誰かを好きになることができた。
だから、変えたくない、失いたくない、ウルウのそんな気持ちが、わかる、ような気がする。
そうして見れば、ひどく強張ったウルウの目は、なんだか泣きそうな子供のそれのようにも、見えるのだった。
リリオは、ちらりとウルウを見て、ちらりとあたしを見て、一つ息を吸って、一つ息を吐いて、それからもう一度ウルウとあたしを見て、深く息を吸って、細く吐いた。
「私が、ウルウを慕っているのは本当です。けれど、そう言う関係ではありません。私たちは、仲間で、友達で、姉妹で、そして、それ以上は、まだ、そう、まだ、これからなのです」
軽く目を伏せるようにして、だから何も言ってくれるなと言外に語るリリオに、閣下は頷かれた。
「なんと、そうでしたか」
うむうむ、と頷いて、閣下はからりと笑った。
「では早めに交渉を済ませるがよろしい」
「は?」
「寝室を用意します故、ごゆるりと」
閣下が指を鳴らすなり、すべて承知しておりますと言わんばかりの訳知り顔の女中どもにかこまれ、二人は拉致されたのだった。
これだから辺境貴族は。
用語解説
・辺境貴族
基本的に、辺境貴族は人の心がわからない連中が多い。
わかっていてもやることなすことが荒いことも多い。
前回のあらすじ
拉致られるウルウとリリオ。
二人の交渉とは如何に。
男爵家の女中は優秀でした。
私にあてがわれていた部屋にウルウと二人で押し込まれ、文句を言う間もなく逆らう隙もなく、私たちはするすると脱がされててきぱきと寝間着を着せられてしまいました。
まだ昼なんですけど、なんていう暇もなく、年嵩の女中がどうぞごゆっくりと含みたっぷりにほほ笑んで、そして去っていってしまいました。
静かな部屋に二人取り残されて、さて、どうしたものか。
ちらりとウルウを見上げてみると、ウルウは呆然としたように閉ざされた扉を見つめていました。
私の耳がおかしくなっていなければそれはつい先ほど音を立てて鍵が閉められていたのでした。
辺境頭領の娘を監禁しようとしますか普通?
するんですよ、辺境人。
むしろ辺境界隈では、惚れた女相手に何もせずちんたらしてるほうが極度の奥手でおかしいという、情緒の欠片もない常識が横行してるんですよね。
一番おとなしいのでも熱烈な恋文を送って花束贈ってなんなら熊とか狩ってきます。
明日死ぬかもしれないので今日先っぽだけでもとかいう春歌が昔から残ってるくらいですからね。
嫌なら本気で抵抗するでしょとかいう、都会なら顰蹙物の発想がまかり通る上に、嫌だったら本当にぶちのめそうとしてくるのが辺境人なんですよ。こわっ。
などとちょっと面白おかしく呆れていますよみたいな空気を作ってみましたけれど、瞬時に吹き飛ぶほど脆弱な空気でした。
ウルウは黙りこくって微動だにしませんし、私も何を言ったらいいものかわかりません。
何か言いたい、何か言うべきだとは思うのですけれど、何も言えない、何を言っていいのかわからない、そんな具合でした。
一応、嫌われてはいないと思うんです。
ウルウは好き嫌いをあんまり表に出さない人ですけれど、それでも嫌いな人とずっと一緒にいられるような図太い人ではありませんし、それに、私の欲目でなければ、ウルウもまた旅を楽しんでくれていたように思うのです。
ただ旅をするということではなく、私たちと一緒に旅することを、確かに楽しんでくれていたように思うのです。
私を、私たちを、好いていてくれていると、そう思うのです。そう願うのです。
でも、ウルウはとても繊細な人です。
私が抱き着こうとしても放り投げたり、私が冗談を言っても塩対応してきたり、面倒な事件に巻き込まれても肩をすくめてやれやれとか言っちゃったりしますけど、でも、ウルウの心の深い所は、とても柔らかくて、傷つきやすくて、小さく震えているということを、私は何となく察しているのでした。
私にはわからないことで傷つき、私にはわからないことで怖がり、私にはわからないことで壁を作るウルウ。
だからゆっくりと、時間をかけて、その心に触れていきたいと、そう思っていたのでした。
それがこんなことになるなんて。
せめてそう思っていたことだけでもわかってほしいと顔を上げると、ウルウの静かな顔がそっと見下ろしてきました。
「わ、たしは、」
「リリオは」
切り出そうとした私に、ウルウの静かな声が降ってきます。
「リリオは、私が好きなのかな。私を、そう言う対象として、見ているのかな。マテンステロさんの、悪趣味な悪戯とかじゃなくて」
感情のこもらない声に私はうつむいて、それでも、そうだ、そうです、とそのように答えました。
「そう、なのだと、思います」
「そう、思う?」
そう、思う。
そうだと、祈る。
そうなのだと、願う。
いいえ。
ああ、いいえ。
本当のところを言えば、私自身にも、私の気持ちがよくわからないのでした。
私には私の気持ちを感じることはできても、それに意味のある名前を付けることができないでいたのでした。
私は人の心がわからないと兄に言われたことがありました。
リリオ、可愛い妹、愛しい怪物、お前は人の心がわからないのだね、と
ええ、ええ、そうかもしれません。みんなを見て、みんなを真似して、わかったようなふりをして、でも結局ずっとわからないままでした。
私のなんでとみんなのなんでは、いつもいつも重なりませんでした。
同じ場所で笑い、同じ時に泣き、同じものを見ているはずなのに、私の心はいつも一人でした。
それでも私はわからないなりに、わからないままに、生きてきました。
人はいつだって一番深い所では分かり合えないものですから、だから、そう、だから、私のこれもまたそうなのだと、諦めてきました。
わからないものはわからないのだと、そう、思ってきました。
でも私は、ウルウを、ウルウのことを、わかりたいと思ったのでした。
わからないまでも、知りたいと思ったのでした。
ウルウのことを想う気持ちを、知りたいと思ったのでした。
まだ誰も名付けてくれない、まだ誰にも共感してもらえない、この気持ちを。
この気持ちの名を、知りたいと思ったのでした。
触れたい。
護りたい。
自分のものにしてしまいたい。
欲しがる気持ちが、そうであるならば、これはきっとそうなのだと、思うのでした。
そうなのだと、信じたいのでした。
そうなのだと、願うのでした。
「私は、ウルウに恋をしているのだと、そう思うのです」
顔を上げられないまま、私は自分自身でさえまとめられない気持ちを吐露し、自分自身でさえ説明できない思いを表明し、そして、恋心を、伝えたのでした。恋心だと思いたいものを、伝えたのでした。
ウルウはしばらく黙って、私の言葉を反芻しているようでした。
気の遠くなるような、でもきっと大したことのない時間が流れて、再び声が降ってきました。
「私は、私はね、リリオ。私の故郷は、あー、あんまり、同性愛が、女同士でっていうのが、あんまり普通じゃないところだったんだ。私自身、そう言うことを考えたことはないし、正直なところ、君の言うことには、なんていうか、困惑してる」
それは、率直な言葉でした。
変に飾ったりせず、素直な気持ちを、私に伝えようとしてくれているのでした。
素っ気ないようなその言葉が、私の胸に絶望をよぎらせました。
心臓がひび割れた硝子のように軋むのを感じました。
こんな気持ちになるのならば、もっとはっきり言ってほしいと思うくらいでした。
「でも」
うつむいた私のうなじあたりに、その声は困ったように降ってきました。
「困ったことに、なんでか、なんだか、嬉しく感じちゃう私がいるんだ」
驚いて見上げた先には、背中を向けたウルウの姿がありました。
いつも見惚れるほどにするりと伸びた背は、なんだか奇妙に傾いて縮こまり、豊かな髪の間からのぞく耳は、鮮やかに色づいているのが見て取れたのでした。
寝間着を所在なげに握った指先が、意味もなく開いたり閉じたりしているようでした。
「それは、その、つまりあの、」
「待っ、て、その、あー、うれ、しくは、あるし、私も、リリオのこと、たぶん、きっと、嫌じゃない……嫌じゃない、けど、その、考え直した方が、いいと思う」
「考え直すって……なんでですか?」
「私、あの、面倒くさいし」
「知ってます」
「その、あー、絶対、無理って言っちゃうこともあると思うし」
「善処します」
「あ、あと、あの、あの」
ウルウはしばらく、あの、とか、えーと、とか意味をなさない言葉を繰り返して、それから、しゃがみこんでしまいました。顔を覆って、精いっぱい身を縮こまらせて、何かから身を護ろうとするように、隠れようとするように。
なにこれかわいい。
ではなく、普段と違いすぎるウルウの姿に困惑していると、蚊の鳴くような声で何事か言いました。
「えっ?」
「わ、割と最悪なこと言うんだけど……」
「えっ」
「わ、私その、わがままっていうか」
「わがままなのは知ってますけど」
「そうじゃなくて、そうだけど、その、と、トルンペート!」
がたん、と音がしましたけどそれどころじゃなくて。
「わ、私、わたし、その、トルンペートのことも好きなんだ」
「えっ、私もトルンペートのこと好きですけど」
「そ、そうじゃなくて、あの、トルンペートも、大事で、リリオも、その、大事で、ふたりとも、あの、」
口ごもるウルウでしたけれど、私は何となく察しました。
そしてすっかりトルンペートのことを忘れていた自分を恥じました。
いえ、その、ずっと一緒にいるのが当たり前だったので、ずっと一緒にいるのが当たり前なので、ずっと一緒にいるだろうことが当たり前と思っていて、今更トルンペートを外して考えるなんて、想像の外でした。
「私も好きですし大事です」
「えっ」
「ウルウも好きです、大好きです。トルンペートも好きですし、大好きです」
「えっ、えっ、あっ?」
「二人とも私が幸せにしますので、大丈夫ですよ。心配ありません」
「えっ、あの、リリオの方が割と最悪なこと言ってない?」
「そう、なのでしょうか?」
「え、ええぇ……?」
懐の広いところ、安心できるところを見せたつもりだったのですけれど、ウルウは困惑した様でした。
しばらくうんうんと唸って、そして一人で考えるのは諦めた様でした。
「と、トルンペートはどう思ってるのさ!?」
「うぇあっ!?」
突然叫んだウルウに、がたんと衣裳棚が開いて、中からトルンペートがまろび出てきました。
なんだトルンペートか。
「…………えっ」
「なっ、なに!? なんでばれたのよ!?」
「最初からいたでしょ! メイドさんに紛れて隠れてたじゃん!」
「わ、わかってたなら言いなさいよ!」
「えーと」
「それどころじゃなかったんだ! い、一杯一杯だったんだから!」
「な、泣くことないでしょ!」
「泣いてない! 助けてくれると思ってたのに!」
「あ、あの?」
「だ、だって仕方ないじゃない! 邪魔しちゃ悪いと思って!」
「覗き見してたのに!?」
「きき、気になっちゃったんだもの!」
「ヘタレ! 意気地なし!」
「なによ臆病者! 腰抜け!」
「あのですねッ!」
「なによチビ!」
「なにさバカ!」
「単純なだけに刺さる!」
醜く言い争っていた二人の間に割って入り、私は仕切りなおすことにしました。
「あの、全部聞いてたっていうか、見てたんですよね」
「うっ、ぐ、ま、まあ、そうよ。なによ。文句あんの」
「いやあの、文句と言いますかあの……あー」
何といったものか。
私はとりあえず、端的に現状をまとめることにしました。
「私」
自分を指さして、
「あなたたち」
二人を指さして、
「告白しました」
「あー」
「うー」
「ので、その、一応、返事とか欲しいなー、なんて、思ったりするわけでして」
なんて、言ってみたりすると、二人とも黙り込んでしまいました。
真っ赤な顔で黙り込んでしまいました。
ものすごく気まずい沈黙にさらされているんですけれど、もしかして私すごく恥ずかしい状況にあるんじゃないでしょうか。
割と勢いで物を言ってたんで記憶があれなんですけど、ドヤ顔キメ声で二人とも幸せにしますとか言っちゃってた気がします。
「わ、私は答えたから」
「あっ、ずるっ!」
「ずるくない。なあなあで誤魔化そうとする方がずるい」
「そもそもあたし直接言われたわけじゃないじゃない!」
「ああ、そうでした。トルンペート、好きです、大好きです。ウルウと二人とも幸せにします」
「んっ、ぐ、がぁ……はぁー……ずっる。ずるい」
「リリオずるいよね」
「ずるいわ。さすがリリオずるい」
「えっ、なんで私責められてるんですか」
「ずるい。ずーるーい」
「そうだーずるいぞー」
「ええ……なんですかこれ……」
なおこの茶番、全員顔真っ赤でやってるんですよ恥ずかしいでしょう私は恥ずかしいです。
「……トルンペート」
「あによ」
「私も、その」
「あー、ばか、やめて、いまはやめてちょっとマジで」
「私も、トルンペートのことが好きだよ。大事だ。ずっと一緒にいてほしい」
「うがぁー、あー、もう、あーもう、はぁー、ばか、すき」
「えっ」
「えっ」
「あたしも、好きよ。好き。あんたたちのこと、好き。大好き。どうよ。これで満足?」
「大変満足しました」
「わ、私はもうちょっと言ってほしいかもしれない」
「あんたもうほんとその、はぁー、なに? なんなの? 私を殺したいの?」
「えっ、なんかごめん」
「ばか。すき」
「うん」
なおこの茶番、全員顔真っ赤でやってるんですよ恥ずかしいでしょう私は恥ずかしいです(二度目)。
「ところで」
「なによ」
「これさ、どこまでが交渉なの?」
「はあ?」
「鍵あかないんだけど」
ウルウに言われてトルンペートが扉に向かいましたが、確かに鍵はかかったままでした。
「うぇあ。ああもう、壊すわけにもいかないし……」
「これさ、交渉が終わるまで開かないってこと?」
「終わるまでって何よ終わるまでって、大体やることやってあー、なに? あんたそう言うこと言いたいの?」
「多分、そう言うこと」
「えー、あー、いやまさか、でもないとも言い切れないのが」
二人して何やらもごもご言い合っていますけれど、どういうことでしょうか。
私が首を傾げていると、ウルウが本当に困った顔をしました。めったに見れない顔です。
へんにゃりと眉が曲がって、とても情けない顔をして私を見ています。
「え、や、だってリリオ子供だよ?」
「成人はしてるのよ、あれでも」
「私の中で十四歳は子供なんだけど」
「鉱山では土蜘蛛の後を歩け、よ」
「知らない諺だけど言いたいことは何となくわかる、わかるけど、えー、でも、えー」
「もう、なんですか二人とも、私だけ仲間外れにして」
「そう言うわけじゃないんだけど、えーと」
「肚ァくくってなさい、あたしが説明したげるから」
「うーん、むう」
一人悶絶するウルウを置いて、トルンペートががっしり私の肩をつかんできました。
「あんた、ウルウを嫁さんにする交渉のために閉じ込められたのよね」
「はあ、ええ、まあ、そうですけど」
「口先で了承を得ましたなんて言って、閣下が、っていうか奥様がこの鍵開けると思う?」
「いや、ないと思いますけど……え、じゃあどうしたら」
「決まってるじゃない。嫁さんとすることしろって言ってんのよ、これ」
「えっ、あー……えっ。そういうことですか?」
「そういうことなんでしょうね」
さすがに鈍い私も察しました。
察してしまいました。
おずおずとウルウを見上げてみれば、雪のように白い肌はすっかり赤く染まって、なんていうか、その、あの、誘ってるんですかこの人?
勿論そんなことはなくて、むしろ私を子供とばかり思っているウルウなのでとても困っているのでしょう。
私もとても困っています。
その、私はあの、ウルウのことをそう言う好きなので、そういうことをするというのはやぶさかではないどころか、あの、大変大歓迎なんですけれど、なんですけれどその、ウルウがこれでは何というか。
ウルウは何とか覚悟を決めた様で、強張った顔で宣言しました。
「わ、私が一番大人なので、なんだけど、なんだけどさ」
なんだけどなんでしょうか。
「恥ずかしい話、この年まで経験がなくて、その、全然わかんないんだ」
煽ってらっしゃる?
むしろこれ、私の方が無垢な子供に手を出してるようでものすごい背徳感があるんですけどなんですかこのでっかい幼女。
「だから、あの、その……よ、よろしく?」
私たちは冷静になるために少し間を置き、そして、支度に入りました。
私はいま、寝台に腰掛け、両手をそれぞれウルウとトルンペートに取られていました。
右手を恐る恐る取ったウルウが、ぱちり、ぱちりと、音を立てて私の爪を切っています。
土蜘蛛製の細やかな細工の施された爪切りが、ウルウの手の中で柔らかく握られ、私の爪を丁寧に切っていきます。
私の左手の爪はすでに切り終えていて、それをトルンペートが仕上げのやすりがけをしてくれていました。
深爪気味に切られた爪が、丁寧に丁寧に磨かれて角を落とされ、つるりとした肌をさらしていきます。
美女と美少女に挟まれてお世話されているというすさまじく贅沢な状況の上、その二人は私の好きな人で、二人も私も好きなのでした。
意味がわからないほどの多幸感に包まれて呆然としていると、トルンペートがにやけるのをこらえているような複雑な顔でぼそりと呟きました。
「これって、ねえ」
「はい」
「ただの爪のお手入れではあるんだけど」
「はい」
「これから自分に触れるものを自分で準備するのってすごい、あの、クる」
まじまじと見てみると、トルンペートの目付きは大分、その、あれでした。
お世話好きの女中精神に、さらに特殊な状況が合わさって、冷静に見えて中身は大変なことになっているようでした。
ウルウは、と振り向いてみると、爪を切り終えたウルウは丁寧にやすりがけしてくれているところでした。
ああ、よかった、こちらはまだ大丈夫そうです。
「リリオの指、ちっちゃいね」
「あはは」
「これ、この、ちっちゃくて、細い指が」
「あは、は?」
「これが……これが……」
あ、こっちも駄目でした。
駄目です。冷静なのが私しかいません。
これはもう私がなんとかするしかありません。
などと思っていましたけれど、ウルウの爪を二人がかりで切るにあたって、私もこの行為の異常性と高揚感に気づかされるのでした。
最後にトルンペートの爪を切るころには私たちは三人とも相当に相当なことになっており、仕上げ終えた時にはすっかり交渉の準備が整ってしまっていたのでした。
結局、私たちはその後、夕食を取ることも忘れ、朝日が差すことも気づかず、疲れ果てるまで交渉に励んだのでした。
用語解説
・ずるい
ずるいのだった。
・鉱山では土蜘蛛の後を歩け
郷に入っては郷に従えと似たような意味。
専門家のやることに口出しするなという意味でも使われる。
・でっかい幼女
この女、二十六年間処女をこじらせているのである。
・爪切り
繊細な部分を傷つけるといけないので。
・交渉
さくやはおたのしみでしたね。
200話記念、思えば長く続いたものですね。
今回は妛原閠のお話と相成りました。
短いお話ですが、お楽しみいただければ幸いです。
忘れることができない私の人生は、覚えていたくもない言葉で埋まっていて、覚えていたくもない事柄が積もっていて、覚えていたくもない記憶に沈んでいる。
生まれ落ちた時から絶えず積み重ねられてきたそれらがどれほどの毒を孕むものだったか、その結果として今ここに立っている私の為人からなんとなくでも察してもらえると思う。
というか、察してもらえない場合はあえて説明するようなことはしない。したくもない。
なのでご想像にお任せする。
まあ、それでも、こんな人間に育ってはしまったけれど、育った果てに一度は無為に死んでもしまったけれど、そんな私が曲がりなりにも人間として生きてきて、曲がりなりにも人間として生きていこうなんてトチ狂ったことを考えたのは、考えているのは、そんな毒の沼の中にも確かに美しい輝きがあることを、残念なことに知ってしまっているからだった。
凍り付いた真冬の夜空に煌めく星のように、かそけきながらも確かな輝きが、目の奥でちかちかと瞬く度に、私は諦めきることもできず、信じ切ることもできず、果てない「次こそは」を重ね続けて、大空にも羽ばたけず水底にも沈めず、ただ這いずるように生きてきた。
不器用な生き方だったと思う。
無様な生き様だったと思う。
でもほかにやりようはなかったと思う。
不器用でも。
無様でも。
私は私だった。
それでいいのだと、認めてくれる人がいたから。
子供の頃の私は泣き虫だった。
なんて言っても、今の目付きも悪けりゃ愛想も悪い私からは想像し辛いかもしれない。
だからまず、思い浮かべてほしい。
年のころは、まあ小学生、十歳くらい。
その当時なら身長はまだ全然伸びておらず、クラスの背の順でも割と前の方だった。
そのおチビさんは、ずっと俯きがちで、おどおどと視線を迷わせて、人と目を合わせられなくて、人と話を合わせられなくて、何か言おうとしてはいつも諦めている、そんな子供だった。
何をするにしても考えすぎて要領が悪くて、茫然と突っ立ってることの多い子供だった。
なまじ成績が良いのが、まあ子供受けしなかった。
いじめられている、というほどではなかった。
ただ、いい扱いはされなかった。
遊びにも誘われず、時折からかわれ、そしてたいていの場合相手にされなかった。
いまみたいにある種達観してしまうと、その程度のことはどうとも思わなくなるのだけど、当時は何しろピュアなお子様だった閠ちゃんは、ほどほどに期待し、ほどほどに裏切られ、ほどほどに傷つく毎日だった。
泣き虫の閠ちゃんは、嫌なことを忘れられない子だった。
完全記憶能力持ちだから仕方ないねって話じゃない。
ことあるごとに思い出してしまう悪癖があったんだ。
ふとしたきっかけで思い出が刺激されて、嫌な記憶がぶわりと舞い上がるんだ。
学校についてしまったとき、教室に入るとき、教科書の悪戯された落書きを見るとき、苦手な先生の顔を見たとき、下校中に横切る猫を見たとき、そんな些細なことで、嫌なことが思い出された。
寝る前にぼんやりと天井を見上げている時にさえ、それは浮かんできた。
そして思い出は減ることがない。
日々を過ごせば、その分だけ増えていく。
死にたい、っていうほど、強い感情は抱かなかった。
ただ毎日気が重くて、しんどくて、なんとなく嫌だった。
学校を休んでしまえばよかったかもしれないけど、真面目、というよりは、ルーチンワークから外れることが苦痛だったから、嫌な思いをするのがわかっていて、嫌な日々を繰り返してた。
「おとうさん、もういやです」
当時の私は、父の真似をして敬語で喋っていた。
子供心にそれは礼儀正しい振舞いだと知っていたから、いつもそうしようと心掛けていた。
あまり中身は伴っていなかったと思うけど。
帰宅してしばらくして、そんなことを漏らした閠ちゃんに、父は優しくなかった。
「何が嫌ですか」
「なんだか、いやです」
「なんだか、というのは」
「いやなんです。しんどい」
「フムン。体がつらいのですか」
口下手でうまく説明できない十歳の私に、父はまるで心中察することもせず、問診を試みてくるのだった。しかし自分自身でも何がどう嫌なのかうまく把握できていなかった当時の私に、父が納得し理解できるような返答は不可能だった。
少しの会話の間に小賢しい閠ちゃんは、やっぱり駄目なんだ、言っても伝わらないんだ、じゃあ言うだけ無駄だし意味がないし止めよう、とあっさり見切りをつけた。
過去の失敗を執拗に思い返す閠ちゃんは、失敗の記憶ばかり思い出すので、できるだけダメージの少ない段階で逃げに移るのだった。
しかし父は空気が読めなかったし、人の心がわからない男だった。
もういいですと言いだそうとした閠ちゃんのちっぽけな体を抱き上げて膝の上に置くと、上等な櫛で当時から伸ばしていた髪を梳かし始めたのだった。
「え……なに? なんですか?」
「暦さん……あなたのお母さんも、よく嫌だと言いました」
閠ちゃんの困惑を聞き流して、父は母のことを語り始めた。
父は何か判断に困ると、母の話を持ち出す癖があった。
人間味に薄い父と比べて、話の中の母は大層人間味に溢れる濃い味人間で、おそらくそれを頼りにしているのだった。
「何の生産性も見いだせない、あれが嫌だこれが嫌だこういうの気にくわないあれこれが腹が立った、というような愚痴を、延々と良く聞かされていました。僕に櫛を押し付けて、髪を梳かさせながら、一人でいつまでも愚痴を言い続けるんです」
十歳の閠ちゃんにも、見たことのない母親が大概あれな人種なのではないかと思い始める年頃だった。
そんな人と一緒にされているのかとひそかにショックを受けている閠ちゃんの髪を機械的な手つきで梳かしながら、父は続けた。
「そして言ったら言った分だけすっきりして、あとに残さない人でした。怒りも、悔しさも、悲しさも、言葉に出して吐き出してしまって、それで済ませてしまいました。言葉にすることで、何をどう嫌だと感じているのかはっきりさせることは、胸の中のもやもやに形を与えて、処分しやすくするそうです」
父自身は全く理解も納得もいっていないらしい理論を、淡々とした口調で説明して、そしてその淡々とした口調のまま、どうぞなどと言ってくるので、私は困ってしまった。
「僕はあまり人の機微や感情には鋭くありませんので、言ってもらった方がわかりやすいですし、ご自分でもすっきりすることでしょう。幸い、僕は共感性に乏しいので、聞き役に徹するのは得意です。サンドバッグと思ってどうぞ」
それきり父は髪を梳かす機械となってしまって、私はどうしたらいいかしばらく迷って、それでもおずおずと「学校が嫌」と言ってみた。父はわかったような返事もせず、もっともらしい頷きもせず、ただ黙々と髪を梳いた。
物足りないような気もしたし、言っても大丈夫なんだというような気もした。
それで私は、あれが嫌だ、これが嫌だと、思い出されるままに嫌を吐き出していった。
それはだんだんと具体的になっていき、細かくなっていき、そして吐き捨てるたびになんだか馬鹿らしくなっていくのだった。
なんで私はこんなくだらないことを気にしていたんだろうって。
そうしてついに、言いたくなることが思いつかなくなって、私は少しの間黙りこくった。
それから喋りすぎて火照った顔を振り向かせて、父に抱き着いた。
「おとうさん、ありがとう」
「はい。お役に立てれば、幸いです」
父は最後まで冷たくて心地よいメンテナンス・マシーンだった。
もっともそのあと、学校に対していじめの確認と訴訟の準備をしようとし始めたので、慌てて止めたけど。
それは煌めきというには地味すぎて、輝きというにはくすみすぎて、瞬きというには平坦だったけど、それでも、それは確かに私の胸の中でずっと私を生かし続けた思い出だった。
父は愛することが苦手で、私は愛されることが苦手だったけれど、それでも確かに、私たちは親子だった。
今も、思い出せる。
まだ赤ん坊だった私に、父はこう言ったのだった。
言葉なんてわかるはずもない、頭も座らないような生まれたての赤ん坊に、父は言ったのだった。
「はじめまして、閠さん。僕は妛原 軅飛といいます。今日からよろしくお願いします。不慣れで不器用だと思いますが、いつかあなたが立派な大人になる日まで、あなたを守り、育て、支えます。僕があなたのお父さんです」
母を亡くして、たった一人になった父は、それでも迷うことなく私の小さな手を握ったのだった。
愚直なまでに不器用なその物語を、私はいまも確かに、受け継いでいる。
※(2022年12月24日追記)
このエピソードにはファンタジーご都合魔法による部分的性転換または付与を示唆する描写が含まれています。
具体的なところをぼかしてご説明すると「不明なアタッチメントパーツが接続されました」結果、一部読者の方に深刻な障害が発生しています。
この度、ごあんしんの「ノン・アタッチメントパーツ版」及び「フル・アタッチメントパーツ版」の差分を公開いたしましたので、好みに合わせたバージョンをお楽しみください。
なお、大筋の内容に変化はありません。
他のバージョンを読んで「さっき読んだやつやん?」となった方は、おおむねさっき読んだやつやから、間違い探し気分でお楽しみください。なお性癖には間違いなどありませんので、ご自分の楽しめる性癖を大事にしていきましょう。
前回のあらすじ
朝まで『交渉』した《三輪百合》であった。
詳しい交渉内容については皆様のご想像にお任せする。
すごかった。
語彙力の死滅した説明で大変申し訳ないのだけれど、何しろ語彙力だけでなく思考力をはじめとしていろいろと死んでいるのでご配慮いただきたい。
幸いなのかなんなのか、境界の神プルプラちゃん様謹製と思しきこのボディは朝になるやぱっちりと目が覚めた。
ちょっと気だるいくらいで、なんなら寝起きで跳ね起きて陽気なラテンのリズムに乗って絶頂有頂天なブレイクダンスを決めることだって可能だろう。
あくまでカタログスペックであって、実際のご使用はお控え願いたいところだけど。
まあ、そんな具合に、極めて残念なことにフィジカルの方はむしろ元気なくらいなのだけれど、メンタルの方は何しろド畜生ブラック社畜あがりの二十六年間処女をこじらせていた死にぞこないなのだ。ちょっと荷が勝ちすぎた。
さて、まどろみを引きずらないすっぱりとした覚醒が必ずしも素晴らしい朝につながるかと言えば全然そんなことはなく、うっかり目覚めてしまった私は死にぞこないメンタルで惨憺たる様子の寝室、より正確に言うならばカーテンで閉め切られた天蓋付きのベッドを目撃してしまった。SAN値チェック待ったなし。
いや本当に、冗談抜きでベッドは酷い有様だった。
やけに頭の位置が低いなと思えば、枕がない。ずり落ちてしまったのかと頭上に手をやるも、空ぶるだけでその感触にはありつけない。枕投げをした記憶などないのだけれど、と少し思い返して、お目当てのブツが私の腰の下にあることを思い出してしまった。SAN値チェックどうぞ。
なんで腰の下にあるかって? 気配りのできるチビメイド様が私が腰を痛めないように気を遣ってくださったからだよこん畜生。なんで腰を痛めるのかわからない良い子はお母さんとお父さんには聞かずに然るべき年齢になったら信頼できる参考書を読みなさい。
私の腰の下でへたった枕の感触を感じながら、のっそりと体を起こす。すると私の右パイと左パイを分割統治していたらしいちみっ子どもがずり落ちた。名残惜し気にわきわきと両手が柔らかい脂肪を求めてさまようけど、そこはお腹だ。くすぐったいからやめろ。そもそも君たちのお求めのバストは私の固有の領土だ。
見下ろしたシーツはぐっちゃぐっちゃに波打っていて、むしろよくまあ頭の回っていなかった私たち三人が潜り込めたなという具合だった。
アホほど寒い辺境とは言え、というか辺境だからこそか、部屋の中はガンガンに暖房が利いて暖かく、カーテンを締め切ったベッドはなおさらで、その状態でアダルティック大運動会夜の部を開催したとあって、三人分の汗その他を吸ってやや湿り気さえあって、意識が覚醒した今はそこはかとなく気持ち悪い。
目を凝らせばとてもではないけど乾かなかったシミとかが見えてしまいそうで、《暗殺者》の夜目の良さが腹立たしくさえある。
すよすよとのんきに寝息を立てている両脇の二人が恨めしい。
いっそ私もすべて忘れて二度寝しようかと思ったけど、まあ、無理だった。潜り込もうとシーツを持ち上げた時点で、三人分の濃い体臭と汗のにおいと汗じゃないにおいとさらには血の匂いまでもがむわっと上がってきて、無理だった。無理寄りの無理っていうか無理しかなかった。
なんで昨日は気にならなかったんだろう。いや、気づいてはいたかな。でもこう、なんか、非日常な感じがバイブスアゲアゲなフットー気味の脳みそにはむしろ燃料投下みたいな役割を果たした可能性はある。よくおぼえていないけど。よくおぼえていないといったらよくおぼえていない。
シーツを下ろして昨夜の残り香を密閉しようとする試みは遅きに失したけど、まあ、でも、あえてまた開封する必要もないだろう。だってこのシーツの下、シーツの上よりもひどいことになってるもんな。シュレディンガーの猫も黙って首を振る、確定事項の大惨事がこの下にあるんだよ。
もうなんかしんどいやらいたたまれないやらで顔を覆うと、その手から、具体的には指先から二人の特殊な残り香がして死にたくなる。何度目だSAN値チェック。
駄目だ。このままでは私の正気が持たない。もう手遅れかもしれないけど。
二人を起こさないようにシーツから体を抜いて、カーテンをちょっと開いてベッドから抜け出す。
暖炉が良く利いていて、魔術織りだか何だかの絨毯の効果もあるのか、裸でも寒いということはなかった。
それにしても、下着はそもそも寝るときつけてないからいいんだけど、私のお気に入りの寝間着はどこに消えたのか。たぶんシーツの海のどっかにあるとは思うんだけど、どういう経緯で脱いだのか脱がされたのか、そして流れ去ったのか。いやまあ、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるけど、思い出したくない。
うん、と伸びをしてみても、体は疲れていないけど、しかし、なんていうか、違和感は酷かった。
違和感というか、異物感というか。こうしてまっすぐ立とうとすると、脚の間にものすごい異物感が残っている。脚の間っていうか、うん、まあ、ね。綺麗に爪を整えた可愛らしいお手々で、二人がかりで可愛らしくないスキンシップをはかってくれやがったおかげで、私のお腹の中と外がひっくり返るんじゃないかと思った。外気に触れていい場所じゃないんだぞ、ここは。
まあここだけじゃなく、私の体中余すところなく、二人の指と唇が触れていないところなんてないんじゃなかろうかっていうくらい揉みくちゃにされたからね、ほんと。
窓から差し込む朝日に照らされた肌に点々と……点々ってレベルかこれ。集団暴行にでもあったのかっていうくらい鬱血の跡が残っててうんざりする。たぶん二人の肌にも数は少ないながら残っているだろうことを思うとかなりげんなりする。なんで鬱血が残るのかっていうのはママとパパに聞いたりしないで以下略、だ。
ベッドの上が酷いことになっている、なんて言ったけど、私自身も大概酷い有様だった。
リリオが切らないでほしいというので無駄に長いままの髪は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり下敷きになったり抱きすくめられたりで滅茶苦茶に癖がついて大暴れしてるし、鼻が麻痺してるのではっきりとはわからないけど、たぶん匂いもついてしまっていることだろう。
肌はさっきも言ったとおり鬱血だらけで、おまけに汗でドロドロ、乾いた唾液やらなにやらでかぴかぴ。あいつら私の体を飴玉か何かかと勘違いしてるんじゃなかろうかってくらいだったから、思いもよらないところまでそんな感触がある。
その鬱血が全身でぴりぴり痛むし、やけに痛む首をさすってみると血がにじんできた。そう言えばリリオの馬鹿に噛みつかれもしたんだった。
喉もイガイガする……おまけにガラガラに嗄れている。妙なもん口にしたし、普段喋らないのにあんなに声を出したから……出しちゃったもんだから……ああくそ。この世界に来てからどころか、前の人生さかのぼってみても、あんなに声出したことないんじゃないのかな。
水差しの水をコップに半分くらい注いで呷る。うがいしたい位だけど、吐き出す先がないので、飲むしかない。飲み込むしかない。ああ、もう。変な味がするし、口の中変な感じだし。果たして何割が私自身の唾液なんだか。
あー、もう、ほんと。確認すればするほどダメージが後追いで来る。
しかも私は器用にそれを忘れるってことができないのだ。確認したら確認した分だけ、累積ダメージが積み重なっていく。呪いか毒だなこれは。
それにしても、朝か。
私は窓から差し込む朝日の角度に、呆れるというか、驚くというか、まあちょっとしたショックではあった。
いやだってさ、私たちが閉じ込められたのがお昼いただいた後でさ。それからまあ、顔面大噴火の自滅告白わめき散らし大合戦やらかして、着替えたり、爪切ったり、なんやかんや準備したにしても、言ってもその程度なわけで。
その後、晩御飯も忘れて朝方近くまで大人のおしくらまんじゅうアルティメットドッキングスペシャルに励んでいたのかと思うと、こいつらこの小さな体でどんな体力しているんだと。
体力もそうだし、それだけ私を求めるのってどういう趣味嗜好なんだ。こちとら賞味期限ぎりぎりアウトの半額シール付き行き遅れ傷み気味な社畜ブラック(特大Lサイズ)だぞ。胸か。バストか。そんなにおっぱいがいいのか。わからん。本当にわからん。
それにしても、お腹が減った。
前の人生では空腹という感覚を忘れるほどに、というか把握できないほどに疲弊しきっていた私は、当然のように朝から食欲がわくような健康的な生き方はしていなかった。活動するためにエネルギーを補充する、という感じだった。
それが今では、目覚めて少しもすればお腹が空きだすという実に健全かつ健康な体になってしまって、いやはや、人生何があるかわからないものおーっとぉ。
空腹のせいでお腹に気をやってしまったのがまずかった。変に力が入ったのか、その、なんだ。どろっとしたものがお腹から流れ出て足を伝って落ちていく気持ちの悪い感触がががが。
ああ、そうだよなあ。胃袋は空いてるけどそっちは一杯一杯だもんなあ、などと現実逃避したいところだけど、このお高そうな絨毯汚すのもはばかられるので、とっさに取り出した《セコンド・タオル》でふき取っていく。同じくお高そうなシーツをさんざっぱら汚しちゃってるので今更と言えば今更だけど。
もそもそとタオルで足と股座をぬぐいながらベッドをチラ見するけど、起き出してくる気配はない。いい気なものだ。人の体を好きなだけいじくりまわして、出したいだけ出して、あとはぐーすか寝てるとか。先に起きて綺麗に整えてくれるような甲斐性は、まだ期待できそうにない。
まあ、あれだけ出したんだから疲れているのかも──などと頭をよぎってほんと何度目だSAN値チェック。そう、出されたんだよ。お腹の中に。二人で何度も。
まさかプルプラちゃん様が信者にあんな加護を与えるとか、プルプラちゃん様ほんとプルプラちゃん様過ぎる。理屈で言えば、過酷な自然環境のせいで死亡率高いので、この加護を使ってカップリングの幅を増やして産めや殖やせやしてるわけなんだろうけど、そんな理屈くたばってしまえ。
何のことかわからないピュアリー・ボーイ・アンド・ガールそしてその他のみんなはまかり間違ってもマミーとダディーに聞いちゃだめだからね。私は責任取れないんだから。
まあ幸いにも、というか幸いかどうか知らないけど、プルプラちゃん様の加護には、あー、なんというか、当たるか当たらないかの境界に関する加護もあるみたいなので、責任取らないでもいいと言えばいいんだけどいやかなり痛かったし一生に一度のことだし今後いいご縁なんてないだろうから何が何でも責任取ってもらわないと困るけど、ああ、もう、とにかく、今後も旅は続けられるってこと。
そのせいで遠慮なしにやられたわけだけど、まったく。
仮に私たちの冒険が書籍化されてもこのシーン載せられないだろうなあ。アニメ化などもってのほかだ。
ああ。
もう。
はあ。
現実逃避はこのくらいにして、いい加減に二人を起こさないといけない。
眠かろうと疲れていようと、何が何でも起きてもらわなければならない。
何故なら。
「おはようございます」
ノックの音とともに、メイドさんの声が忌々しいくらい爽やかに響いたからだった。
用語解説
・SAN値チェック
SANチェック、正気度ロールと言われることが多い。
クトゥルフ神話を題材にしたTRPG『クトゥルフの呼び声』または『クトゥルフ神話TRPG』において用いられるステータス及びそれに関連するシステムの呼称。
SANとは「正気」などを意味する英単語Sanityの略。
つまりプレイヤーの正気の度合いを示す数値のことなのだが、このゲーム、プレイ中にちょくちょくプレイヤーキャラクター(PC)の正気を削るイベントが発生する。
その際に行われるのがいわゆるSANチェックで、ダイスによって減少の度合いが決まる。
一度に減りすぎると狂気に陥り、行動に制限がかかったりする。ゼロになればPCは再起不能というわけ。
なおSAN値は基本的に劇中では回復しないので、減少したSAN値をもとに次のチェックが訪れるのでどんどん悪化していく。
その先に訪れる不可避の発狂に気づいたあなたはSANチェックどうぞ。成功で1、失敗で1D6の減少です。
・よくおぼえていない
この女、完全記憶能力者なのである。
・ここ
あそこだ。
・鬱血
→吸引性皮下出血
・《セコンド・タオル》
ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
実はこの世界にもタオルと同様の織物(毛巾)はあるのだが、手織りのため少々お高い上に、普及品は我々の知るタオルと比べると性能や肌触りがいまいちなので、閠はあまり使いたがらない。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』
・プルプラちゃん様の加護
実は境界の神プルプラの信者は、辺境以外ではあまり多くない。
神話の中でも登場率が非常に高く、親しみやすいとも言えるが、要するに「圧倒的上位から遊びでかき回してくる」という邪神ムーブもといトリックスターっぷりが厄介者扱いされているのだった。
そんな邪神の加護の中でも珍しく実用的なのが交わりに関するもので、同性間、異種族間で婚姻するものは、子をなすために神殿に祈りに行くのがならわしである。
※(2022年12月24日追記)
このエピソードは「第一話この痛みの名は」からアタッチメントパーツ要素を取り除いた加筆修正版です。
大筋の内容は変更ありません。
「さっき読んだやつかな?」と思った方はさっき読んだやつとほぼ同じですので、間違い探しの要領でお楽しみください。ただし性癖には間違いなどないので、ご自分の楽しめる性癖を大事にしていきましょう。
前回のあらすじ
朝まで『交渉』した《三輪百合トリ・リリオイ》であった。
詳しい交渉内容については皆様のご想像にお任せする。
すごかった。
語彙力の死滅した説明で大変申し訳ないのだけれど、何しろ語彙力だけでなく思考力をはじめとしていろいろと死んでいるのでご配慮いただきたい。
幸いなのかなんなのか、境界の神プルプラちゃん様謹製と思しきこのボディは朝になるやぱっちりと目が覚めた。
ちょっと気だるいくらいで、なんなら寝起きで跳ね起きて陽気なラテンのリズムに乗って絶頂有頂天なブレイクダンスを決めることだって可能だろう。
あくまでカタログスペックであって、実際のご使用はお控え願いたいところだけど。
まあ、そんな具合に、極めて残念なことにフィジカルの方はむしろ元気なくらいなのだけれど、メンタルの方は何しろド畜生ブラック社畜あがりの二十六年間処女をこじらせていた死にぞこないなのだ。ちょっと荷が勝ちすぎた。
さて、まどろみを引きずらないすっぱりとした覚醒が必ずしも素晴らしい朝につながるかと言えば全然そんなことはなく、うっかり目覚めてしまった私は死にぞこないメンタルで惨憺たる様子の寝室、より正確に言うならばカーテンで閉め切られた天蓋付きのベッドを目撃してしまった。SAN値チェック待ったなし。
いや本当に、冗談抜きでベッドは酷い有様だった。
やけに頭の位置が低いなと思えば、枕がない。ずり落ちてしまったのかと頭上に手をやるも、空ぶるだけでその感触にはありつけない。枕投げをした記憶などないのだけれど、と少し思い返して、お目当てのブツが私の腰の下にあることを思い出してしまった。SAN値チェックどうぞ。
なんで腰の下にあるかって? 気配りのできるチビメイド様が私が腰を痛めないように気を遣ってくださったからだよこん畜生。なんで腰を痛めるのかわからない良い子はお母さんとお父さんには聞かずに然るべき年齢になったら信頼できる参考書を読みなさい。
私の腰の下でへたった枕の感触を感じながら、のっそりと体を起こす。すると私の右パイと左パイを分割統治していたらしいちみっ子どもがずり落ちた。名残惜し気にわきわきと両手が柔らかい脂肪を求めてさまようけど、そこはお腹だ。くすぐったいからやめろ。そもそも君たちのお求めのバストは私の固有の領土だ。
見下ろしたシーツはぐっちゃぐっちゃに波打っていて、むしろよくまあ頭の回っていなかった私たち三人が潜り込めたなという具合だった。
アホほど寒い辺境とは言え、というか辺境だからこそか、部屋の中はガンガンに暖房が利いて暖かく、カーテンを締め切ったベッドはなおさらで、その状態でアダルティック大運動会夜の部を開催したとあって、三人分の汗その他を吸ってやや湿り気さえあって、意識が覚醒した今はそこはかとなく気持ち悪い。
目を凝らせばとてもではないけど乾かなかったシミとかが見えてしまいそうで、《暗殺者》の夜目の良さが腹立たしくさえある。
すよすよとのんきに寝息を立てている両脇の二人が恨めしい。
いっそ私もすべて忘れて二度寝しようかと思ったけど、まあ、無理だった。潜り込もうとシーツを持ち上げた時点で、三人分の濃い体臭と汗のにおいと汗じゃないにおいとさらには血の匂いまでもがむわっと上がってきて、無理だった。無理寄りの無理っていうか無理しかなかった。
なんで昨日は気にならなかったんだろう。いや、気づいてはいたかな。でもこう、なんか、非日常な感じがバイブスアゲアゲなフットー気味の脳みそにはむしろ燃料投下みたいな役割を果たした可能性はある。よくおぼえていないけど。よくおぼえていないといったらよくおぼえていない。
シーツを下ろして昨夜の残り香を密閉しようとする試みは遅きに失したけど、まあ、でも、あえてまた開封する必要もないだろう。だってこのシーツの下、シーツの上よりもひどいことになってるもんな。シュレディンガーの猫も黙って首を振る、確定事項の大惨事がこの下にあるんだよ。
もうなんかしんどいやらいたたまれないやらで顔を覆うと、その手から、具体的には指先から二人の特殊な残り香がして死にたくなる。何度目だSAN値チェック。
駄目だ。このままでは私の正気が持たない。もう手遅れかもしれないけど。
二人を起こさないようにシーツから体を抜いて、カーテンをちょっと開いてベッドから抜け出す。
暖炉が良く利いていて、魔術織りだか何だかの絨毯の効果もあるのか、裸でも寒いということはなかった。
それにしても、下着はそもそも寝るときつけてないからいいんだけど、私のお気に入りの寝間着はどこに消えたのか。たぶんシーツの海のどっかにあるとは思うんだけど、どういう経緯で脱いだのか脱がされたのか、そして流れ去ったのか。いやまあ、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるけど、思い出したくない。
うん、と伸びをしてみても、体は疲れていないけど、しかし、なんていうか、違和感は酷かった。
違和感というか、異物感というか。こうしてまっすぐ立とうとすると、脚の間にものすごい異物感が残っている。脚の間っていうか、うん、まあ、ね。綺麗に爪を整えた可愛らしいお手々で、二人がかりで可愛らしくないスキンシップをはかってくれやがったおかげで、私のお腹の中と外がひっくり返るんじゃないかと思った。外気に触れていい場所じゃないんだぞ、ここは。
まあここだけじゃなく、私の体中余すところなく、二人の指と唇が触れていないところなんてないんじゃなかろうかっていうくらい揉みくちゃにされたからね、ほんと。
窓から差し込む朝日に照らされた肌に点々と……点々ってレベルかこれ。集団暴行にでもあったのかっていうくらい鬱血の跡が残っててうんざりする。たぶん二人の肌にも数は少ないながら残っているだろうことを思うとかなりげんなりする。なんで鬱血が残るのかっていうのはママとパパに聞いたりしないで以下略、だ。
ベッドの上が酷いことになっている、なんて言ったけど、私自身も大概酷い有様だった。
リリオが切らないでほしいというので無駄に長いままの髪は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり下敷きになったり抱きすくめられたりで滅茶苦茶に癖がついて大暴れしてるし、鼻が麻痺してるのではっきりとはわからないけど、たぶん匂いもついてしまっていることだろう。
肌はさっきも言ったとおり鬱血だらけで、おまけに汗でドロドロ、乾いた唾液やらなにやらでかぴかぴ。あいつら私の体を飴玉か何かかと勘違いしてるんじゃなかろうかってくらいだったから、思いもよらないところまでそんな感触がある。
その鬱血が全身でぴりぴり痛むし、やけに痛む首をさすってみると血がにじんできた。そう言えばリリオの馬鹿に噛みつかれもしたんだった。
喉もイガイガする……おまけにガラガラに嗄れている。妙なもん口にしたし、普段喋らないのにあんなに声を出したから……出しちゃったもんだから……ああくそ。この世界に来てからどころか、前の人生さかのぼってみても、あんなに声出したことないんじゃないのかな。
水差しの水をコップに半分くらい注いで呷る。うがいしたい位だけど、吐き出す先がないので、飲むしかない。飲み込むしかない。ああ、もう。変な味がするし、口の中変な感じだし。果たして何割が私自身の唾液なんだか。
あー、もう、ほんと。確認すればするほどダメージが後追いで来る。
しかも私は器用にそれを忘れるってことができないのだ。確認したら確認した分だけ、累積ダメージが積み重なっていく。呪いか毒だなこれは。
それにしても、朝か。
私は窓から差し込む朝日の角度に、呆れるというか、驚くというか、まあちょっとしたショックではあった。
いやだってさ、私たちが閉じ込められたのがお昼いただいた後でさ。それからまあ、顔面大噴火の自滅告白わめき散らし大合戦やらかして、着替えたり、爪切ったり、なんやかんや準備したにしても、言ってもその程度なわけで。
その後、晩御飯も忘れて朝方近くまで大人のおしくらまんじゅうアルティメットドッキングスペシャルに励んでいたのかと思うと、こいつらこの小さな体でどんな体力しているんだと。
体力もそうだし、それだけ私を求めるのってどういう趣味嗜好なんだ。こちとら賞味期限ぎりぎりアウトの半額シール付き行き遅れ傷み気味な社畜ブラック(特大Lサイズ)だぞ。胸か。バストか。そんなにおっぱいがいいのか。わからん。本当にわからん。
それにしても、お腹が減った。
前の人生では空腹という感覚を忘れるほどに、というか把握できないほどに疲弊しきっていた私は、当然のように朝から食欲がわくような健康的な生き方はしていなかった。活動するためにエネルギーを補充する、という感じだった。
それが今では、目覚めて少しもすればお腹が空きだすという実に健全かつ健康な体になってしまって、いやはや、人生何があるかわからないものだ。
お腹のことを思ったせいか、異物感がやばい。まだ入っている感じがするというか、指がまだ中で動いてるんじゃないかっていうか、そんな感じ。ぼんやり突っ一本二本はまあわかるけど、最終的に何本だっけ。二人がかりで粘土こねるか手でも洗うみたいに。思い出したら頭おかしくなりそう。
ぼんやり突っ立っていると、乾ききっていなかったまたぐらとか肌とかからなんかいろんな体液とか、いろんな香り付きの潤滑液とかが垂れてきて焦る。
このお高そうな絨毯汚すのもはばかられるので、とっさに取り出した《セコンド・タオル》でふき取っていった。同じくお高そうなシーツをさんざっぱら汚しちゃってるので今更と言えば今更だけど。
もそもそとタオルで足と股座をぬぐいながらベッドをチラ見するけど、起き出してくる気配はない。いい気なものだ。人の体を好きなだけいじくりまわして、なめ回して、あとはぐーすか寝てるとか。先に起きて綺麗に整えてくれるような甲斐性は、まだ期待できそうにない。
まあ、あれだけすることしたんだから疲れているのかも──などと頭をよぎってほんと何度目だSAN値チェック。なんどもその、されたんだよなあ。二人に何度も。私もちょっと。
まさかこの世界にあんなにたくさんの夜のグッズがあるとは思わなかった。
潤滑液っていうか、まあはっきり言ってローションの類は序の口で、それだって肌に塗るとあったかくなる奴だったり、暗闇で光る奴だったり、ちょっと敏感になる奴だったり。
あと、まあ、ほら。震える奴とか、入れたり出したりするやつとか、まあ、いろいろあるわけだ。
しかもそれがさあ、アングラなお店で売ってるものとかだけじゃなくて、神殿で買ってきたやつが結構あるらしいのがまた驚きだ。
豊穣の神様の眷属伸に、娼婦の守護神みたいなのがいるらしくて、その神殿がいろいろとまあお楽しみグッズを開発したり売り出したり自分で使ったりしてるんだけど、人の煩悩ってどこでも変わらないというか、欲望は人類の文化を加速させるというか、色々そろいすぎててビビる。
何のことかわからないピュアリー・ボーイ・アンド・ガールそしてその他のみんなはまかり間違ってもマミーとダディーに聞いちゃだめだからね。私は責任取れないんだから。
まあ幸いにも、というか幸いかどうか知らないけど、その守護神印のアダプターとかジョーク・グッズとかにはそういう病気とかにならないようにする加護もあるみたいなので、そこは安心と言えば安心だ。
いやいくら安心安全でも、やることやれば不可逆的な身体変化もあるわけで、かなり痛かったし一生に一度のことだし今後いいご縁なんてないだろうから何が何でも責任取ってもらわないと困るけど、ああ、もう、とにかく、今後もごあんしんで旅は続けられるってこと。
そのせいで遠慮なしにやられたわけだけど、まったく。
仮に私たちの冒険が書籍化されてもこのシーン載せられないだろうなあ。アニメ化などもってのほかだ。
ああ。
もう。
はあ。
現実逃避はこのくらいにして、いい加減に二人を起こさないといけない。
眠かろうと疲れていようと、何が何でも起きてもらわなければならない。
何故なら。
「おはようございます」
ノックの音とともに、メイドさんの声が忌々しいくらい爽やかに響いたからだった。
用語解説
・SAN値チェック
SANチェック、正気度ロールと言われることが多い。
クトゥルフ神話を題材にしたTRPG『クトゥルフの呼び声』または『クトゥルフ神話TRPG』において用いられるステータス及びそれに関連するシステムの呼称。
SANとは「正気」などを意味する英単語Sanityの略。
つまりプレイヤーの正気の度合いを示す数値のことなのだが、このゲーム、プレイ中にちょくちょくプレイヤーキャラクター(PC)の正気を削るイベントが発生する。
その際に行われるのがいわゆるSANチェックで、ダイスによって減少の度合いが決まる。
一度に減りすぎると狂気に陥り、行動に制限がかかったりする。ゼロになればPCは再起不能というわけ。
なおSAN値は基本的に劇中では回復しないので、減少したSAN値をもとに次のチェックが訪れるのでどんどん悪化していく。
その先に訪れる不可避の発狂に気づいたあなたはSANチェックどうぞ。成功で1、失敗で1D6の減少です。
・よくおぼえていない
この女、完全記憶能力者なのである。
・ここ
あそこだ。
・鬱血
→吸引性皮下出血
・《セコンド・タオル》
ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
実はこの世界にもタオルと同様の織物(毛巾)はあるのだが、手織りのため少々お高い上に、普及品は我々の知るタオルと比べると性能や肌触りがいまいちなので、閠はあまり使いたがらない。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』
・豊穣の神
正式名セマト(Semato)
天津神。農耕神。神話によれば、狐の姿をしているとも、狐を眷属に従えるともいう。
その身体から様々な作物を生み出すとされる。
地に広がった人々が慣れぬ土地で飢えにあえぐのを見かねた神々が、はるか虚空天より呼び寄せ、その四肢を裂いて四方に投げやり、そのはらわたを引き出して八方にばらまき、その血を絞って天より降らせ、肉と骨を大地に埋めて馴染ませたという。
これにより人々は大地より恵みを得て生きていくことができるようになったそうだ。
・娼婦の守護神
正式名称「親愛と交合の神アモーレローソ(Amoreroso)」。
さらに言うと娼婦の守護神ではなく「娼館と娼婦と男娼とその他仲良く気持ちよく健全にお楽しみするすべてのお友達」の守護神。公式声明である。
かつて日照りと飢饉に見舞われた土地で、雨と実りを求めて豊穣の神を祀る目的で、三日三晩に及ぶ過酷な聖婚の儀を成し遂げた少年が、豊穣の神に認められ陞神したとされる。
本神いわく「他にやることないし死にかけるとむらむらしちゃって、なんかまわりのやつらも目をギラギラさせちゃって、ご飯代稼ぎと思ってしゃぶったりしてるうちに盛り上がっちゃって、気づいたらみんな勃たなくなっててひとりでいんぐりもんぐりしてたら、空から『ふーんえっちじゃん』っておひねり投げられて神様になってた」とのこと。
例によって例のごとく神託を受けたものは発狂していて正確なことはわかっていない。
※(2022年12月24日追記)
このエピソードは「第一話この痛みの名は」のノン・アタッチメントパーツ版だけではもしかしたら物足りないのではと思い立って編集した、男女同権に配慮した性別逆転版です。
大筋の内容は変更ありません。
「さっき読んだやつかな?」と思った方はさっき読んだやつとトポロジー幾何学的にほぼ同じですので、間違い探しの要領でお楽しみください。ただし性癖には間違いなどないので、ご自分の楽しめる性癖を大事にしていきましょう。
存在しない前回のあらすじ
朝まで『交渉』した《三輪薔薇トリ・ローゾイ》であった。
詳しい交渉内容については皆様のご想像にお任せする。
すごかった。
語彙力の死滅した説明で大変申し訳ないが、何しろ語彙力だけでなく思考力をはじめとしていろいろと死んでいるのでご配慮いただきたい。
幸いなのかなんなのか、境界の神ことクソプルプラの野郎謹製と思しきこのボディは、朝になるやぱっちりと目が覚めた。
ちょっと気だるいくらいで、なんなら寝起きで跳ね起きて陽気なラテンのリズムに乗って絶頂有頂天なレゲエダンスを決めることだって可能だろう。
あくまでカタログスペックであって、実際のご使用はお控え願いたいところが。
まあ、そんな具合に、極めて残念なことにフィジカルの方はむしろ元気なくらいなのだが、メンタルの方は何しろド畜生ブラック社畜あがりの二十六年間童貞をこじらせていた死にぞこないなのだ。ちょっと荷が勝ちすぎた。
さて、まどろみを引きずらないすっぱりとした覚醒が必ずしも素晴らしい朝につながるかと言えば全然そんなことはなく、うっかり目覚めてしまった俺は死にぞこないメンタルで惨憺たる様子の寝室、より正確に言うならばカーテンで閉め切られた天蓋付きのベッドを目撃してしまった。SAN値チェック待ったなし。
いやマジで、冗談抜きでベッドは酷い有様だった。
やけに頭の位置が低いなと思えば、枕がない。ずり落ちてしまったのかと頭上に手をやるも、空ぶるだけでその感触にはありつけない。枕投げをした記憶などないのだが、と少し思い返して、お目当てのブツが俺の腰の下にあることを思い出してしまった。SAN値チェックどうぞ。
なんで腰の下にあるかって? 気配りのできるチビ従者様が俺が腰を痛めないように気を遣ってくださったからだよこん畜生。なんで腰を痛めるのかわからない良い子はお母さんとお父さんには聞かずに然るべき年齢になったら信頼できる参考書を読みなさい。
俺の腰の下でへたった枕の感触を感じながら、のっそりと体を起こす。すると俺の右乳首と左乳首を分割統治していたらしいちみっ子どもがずり落ちた。名残惜し気にわきわきと両手がコリコリした乳頭を求めてさまようが、、そこは腹だ。くすぐったいからやめろ。そもそもお前たちのお求めのニップルは俺の固有の領土だ。たとえいじられ過ぎて政変待ったなしだとしても。
見下ろしたシーツはぐっちゃぐっちゃに波打っていて、むしろよくまあ頭の回っていなかった俺たち三人が潜り込めたなという具合だった。
アホほど寒い辺境とは言え、というか辺境だからこそか、部屋の中はガンガンに暖房が利いて暖かく、カーテンを締め切ったベッドはなおさらで、その状態でアダルティック大運動会夜の部を開催したとあって、三人分の汗その他を吸ってやや湿り気さえあって、意識が覚醒した今はそこはかとなく気持ち悪い。
目を凝らせばとてもではないが乾かなかったシミとかが見えてしまいそうで、《暗殺者》の夜目の良さが腹立たしくさえある。
すよすよとのんきに寝息を立てている両脇の二人が恨めしい。
いっそ俺もすべて忘れて二度寝しようかと思ったけど、まあ、無理だった。潜り込もうとシーツを持ち上げた時点で、三人分の濃い体臭と汗のにおいと汗じゃないにおいとさらには血の匂いまでもがむわっと上がってきて、無理だった。無理寄りの無理っていうか無理しかなかった。
なんで昨日は気にならなかったんだろう。いや、気づいてはいたかな。でもこう、なんか、非日常な感じがバイブスアゲアゲなフットー気味の脳みそにはむしろ燃料投下みたいな役割を果たした可能性はある。よくおぼえていないが。よくおぼえていないといったらよくおぼえていない。
シーツを下ろして昨夜の残り香を密閉しようとする試みは遅きに失したが、まあ、でも、あえてまた開封する必要もないだろう。だってこのシーツの下、シーツの上よりもひどいことになってるもんな。シュレディンガーの猫も黙って首を振る、確定事項の大惨事がこの下にあるんだよ。
もうなんかしんどいやらいたたまれないやらで顔を覆うと、その手から、具体的には指先から二人の特殊な残り香がして死にたくなる。何度目だSAN値チェック。
駄目だ。このままでは俺の正気が持たない。もう手遅れかもしれないが。
二人を起こさないようにシーツから体を抜いて、カーテンをちょっと開いてベッドから抜け出す。
暖炉が良く利いていて、魔術織りだか何だかの絨毯の効果もあるのか、裸でも寒いということはなかった。
それにしても、俺の下着や寝間着はどこに消えやがったのか。たぶんシーツの海のどっかにあるとは思うんだが、どういう経緯で脱いだのか脱がされたのか、そして流れ去ったのか。いやまあ、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるけど、思い出したくない。
うん、と伸びをしてみても、体は疲れていないが、しかし、なんというか、違和感は酷かった。
違和感というか、異物感というか。こうしてまっすぐ立とうとすると、脚の間にものすごい異物感が残っている。脚の間というか、うん、まあ、な。綺麗に爪を整えた可愛らしいお手々で、二人がかりで可愛らしくないスキンシップをはかってくれやがったおかげで、俺の腹の中と外がひっくり返るんじゃないかと思った。出すところであって入れるところではないんだぞ、ここは。
まあここだけじゃなく、俺の体中余すところなく、二人の指と唇が触れていないところなんてないんじゃなかろうかっていうくらい揉みくちゃにされたからな、マジで。
窓から差し込む朝日に照らされた肌に点々と……点々ってレベルかこれ。集団暴行にでもあったのかっていうくらい鬱血の跡が残っててうんざりする。たぶん二人の肌にも数は少ないながら残っているだろうことを思うとかなりげんなりする。なんで鬱血が残るのかっていうのはママとパパに聞いたりするなよ以下略、だ。
ベッドの上が酷いことになっている、なんて言ったが、俺自身も大概酷い有様だった。
リリオが(そのほうがそそるので)切らないでほしいというので無駄に長いままの髪は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり下敷きになったり抱きすくめられたりで滅茶苦茶に癖がついて大暴れしてるし、鼻が麻痺してるのではっきりとはわからないけど、たぶん匂いもついちまっていることだろう。
肌はさっきも言ったとおり鬱血だらけで、おまけに汗でドロドロ、乾いた唾液やらなにやらでかぴかぴ。あいつら俺の体を飴玉か何かかと勘違いしてるんじゃなかろうかってくらいだったから、思いもよらないところまでそんな感触がある。
その鬱血が全身でぴりぴり痛むし、やけに痛む首をさすってみると血がにじんできた。そう言えばリリオの馬鹿に噛みつかれもしたんだった。
喉もイガイガする……おまけにガラガラに嗄れている。妙なもん口にしたし、普段喋らないのにあんなに声を出したから……出しちまったもんだから……ああくそ。この世界に来てからどころか、前の人生さかのぼってみても、あんなに声出したことないんじゃないのかな。
水差しの水をコップに半分くらい注いで呷る。うがいしたい位だが、吐き出す先がないので、飲むしかない。飲み込むしかない。ああ、もう。変な味がするし、口の中変な感じだし。果たして何割が俺自身の唾液なんだか。
あー、もう、ほんと。確認すればするほどダメージが後追いで来る。
しかも俺は器用にそれを忘れるってことができない。確認したら確認した分だけ、累積ダメージが積み重なっていく。呪いか毒だなこれは。
それにしても、朝か。
俺は窓から差し込む朝日の角度に、呆れるというか、驚くというか、まあちょっとしたショックではあった。
いやだってなあ、俺たちが閉じ込められたのが昼飯食った後でさ。それからまあ、顔面大噴火の自滅告白わめき散らし大合戦やらかして、着替えたり、爪切ったり、なんやかんや準備したにしても、言ってもその程度なわけで。
その後、晩飯も忘れて朝方近くまで大人のおしくらまんじゅうアルティメットドッキングスペシャルに励んでいたのかと思うと、こいつらこの小さな体でどんな体力しているんだと。
体力もそうだし、それだけ俺を求めるのってどういう趣味嗜好なんだ。こちとら賞味期限ぎりぎりアウトの半額シール付きアラサー傷み気味な社畜ブラック(特大Lサイズ)だぞ。尻か。ヒップか。そんなに運動不足で太り気味の尻がいいのか。わからん。本当にわからん。
それにしても、腹が減った。
前の人生では空腹という感覚を忘れるほどに、というか把握できないほどに疲弊しきっていた俺は、当然のように朝から食欲がわくような健康的な生き方はしていなかった。活動するためにエネルギーを補充する、という感じだった。
それが今では、目覚めて少しもすれば腹が空きだすという実に健全かつ健康な体になってしまって、いやはや、人生何があるかわからないものおーっとぉ。
空腹のせいで腹に気をやってしまったのがまずかった。変に力が入ったのか、その、なんだ。どろっとしたものが腹から流れ出て足を伝って落ちていく気持ちの悪い感触がががが。
ああ、そうだよなあ。胃袋は空いてるがそっちは一杯一杯だもんなあ、などと現実逃避したいところだが、このお高そうな絨毯汚すのもはばかられるので、とっさに取り出した《セコンド・タオル》でふき取っていく。同じくお高そうなシーツをさんざっぱら汚しちゃってるので今更と言えば今更だが。
もそもそとタオルで足と股座をぬぐいながらベッドをチラ見するが、起き出してくる気配はない。いい気なものだ。人の体を好きなだけいじくりまわして、出したいだけ出して、あとはぐーすか寝てるとか。先に起きて綺麗に整えてくれるような甲斐性は、まだ期待できそうにない。
まあ、あれだけ出したんだから疲れているのかも──などと頭をよぎってほんと何度目だSAN値チェック。そう、出されたんだよ。腹の中に。っていうか尻に。二人で何度も。
リリオがまさかあんなにでかくなるとは思わなかったし、トルンペートの舌があんなに奥まで届くなんて知らなかったし、俺の尻が俺の知らない奥行きと広がりを見せるとは知りたくもなかったし、触ってもいないのにあんな…………死にたくなってきた。
まさか男同士の恋愛どころかセッも割と普通な文化圏なうえに、やろうと思えばプルプラのクソの加護とかで平然と同性カップル間に血のつながった子供が埋めるとか、DLなsiteかな??
まあ理屈で言えば、過酷な自然環境のせいで死亡率高いので、この加護を使ってカップリングの幅を増やして産めや殖やせやしてるわけなんだろうが、そんな理屈くたばってしまえ。
何のことかわからないピュアリー・ボーイ・アンド・ガールそしてその他のみんなはまかり間違ってもマミーとダディーに聞いちゃだめだからな。俺は責任取れんぞ。
まあ幸いにも、というか幸いかどうか知らないけど、お排泄物様の加護には、あー、なんというか、純粋にお楽しみいただける加護もあるみたいなんで、責任取らないでもいいと言えばいいんだがいやかなり痛かったし一生に一度のことだし今後いいご縁なんてないだろうから何が何でも責任取ってもらわないと困るがでも子ども相手に責任を要求する三十路手前のおっさんっていうのもどうなのか、ああ、もう、とにかく、今後も旅は続けられるってことだな。
そのせいで遠慮なしにやられたわけだが、まったく。
仮に俺たちの冒険が書籍化されてもこのシーン載せられないだろうなあ。アニメ化などもってのほかだ。
ああ。
もう。
はあ。
現実逃避はこのくらいにして、いい加減に二人を起こさないといけない。
眠かろうと疲れていようと、何が何でも起きてもらわなければならない。
何故なら。
「おはようございます」
ノックの音とともに、メイドさんの声が忌々しいくらい爽やかに響いたからだった。
15-1-3
用語解説
・SAN値チェック
SANチェック、正気度ロールと言われることが多い。
クトゥルフ神話を題材にしたTRPG『クトゥルフの呼び声』または『クトゥルフ神話TRPG』において用いられるステータス及びそれに関連するシステムの呼称。
SANとは「正気」などを意味する英単語Sanityの略。
つまりプレイヤーの正気の度合いを示す数値のことなのだが、このゲーム、プレイ中にちょくちょくプレイヤーキャラクター(PC)の正気を削るイベントが発生する。
その際に行われるのがいわゆるSANチェックで、ダイスによって減少の度合いが決まる。
一度に減りすぎると狂気に陥り、行動に制限がかかったりする。ゼロになればPCは再起不能というわけ。
なおSAN値は基本的に劇中では回復しないので、減少したSAN値をもとに次のチェックが訪れるのでどんどん悪化していく。
その先に訪れる不可避の発狂に気づいたあなたはSANチェックどうぞ。成功で1、失敗で1D6の減少です。
・よくおぼえていない
この男、完全記憶能力者なのである。
・ここ
あそこだ。
・鬱血
→吸引性皮下出血
・《セコンド・タオル》
ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
実はこの世界にもタオルと同様の織物(毛巾)はあるのだが、手織りのため少々お高い上に、普及品は我々の知るタオルと比べると性能や肌触りがいまいちなので、閠はあまり使いたがらない。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』
・プルプラのクソの加護
実は境界の神プルプラの信者は、辺境以外ではあまり多くない。
神話の中でも登場率が非常に高く、親しみやすいとも言えるが、要するに「圧倒的上位から遊びでかき回してくる」という邪神ムーブもといトリックスターっぷりが厄介者扱いされているのだった。
そんな邪神の加護の中でも珍しく実用的なのが交わりに関するもので、同性間、異種族間で婚姻するものは、子をなすために神殿に祈りに行くのがならわしである。