前回のあらすじ
26歳事務職の妛原閠は、ゲーム内のキャラクターの体で見知らぬ場所に目覚めた。
そしてついうっかり出会い頭の罪もない野生動物をキリステし、このファンタジー世界の無常を噛み締めるのだった。
少しかじった程度の知識なのだけれど、神道には穢れの概念がある。不浄なもの、好ましからざるものを穢れとする。死や病、怪我も穢れだ。そしてこの穢れは伝染するものとされる。例えば昔の公家などは、出勤中に動物が死んでいるのを見かけて、穢れを祓うためにしばらく籠るということもあったようだ。私も出勤したくない時に使いたい言い訳だと思う。
今まで私はこの穢れという概念をそういった文献上の言葉としてしか認識していなかったのだけれども、今回間近で死に立てほやほやの死体を目にするにあたって、穢れというものを体感した。
恐ろしいとか、自分のしでかしたことに対する不安とか、そういったものよりも先に、暖かさを失っていく物言わぬむくろに私が感じたのはただ一つだった。
気持ち悪い。
ただそれだけだった。
直前まで生きていたものだった。もし彼或いは彼女が友好的で、のんびりと鼻先を出してきたりなどしたら、私はもしかしたらおっかなびっくり撫でてやって、そしてその暖かさや、硬くてちくちくする毛の感触にいちいち驚いたり笑ったりしていたかもしれない。洗っていない獣のにおいに顔をしかめたり、べろんちょと舐められて汚いなあと手を拭ったかもしれない。
しかしそういった出会いは得られなかった。
彼或いは彼女は明確に私を襲うつもりでやってきて、そして私はその敵意に夢現のような心地で反射的にこれを殺戮していた。女としては背が高いとはいえ、どうしても細身な私は大した脅威にも見えなかったのだろう。或いは《暗殺者》系統はそう言った気配を隠蔽する特徴があったのかもしれない。しかし、これでも私は、ゲーム内とはいえ最上位職の最大レベルに到達している中毒者だ。戦闘は得意ではないし、キャラクター自体も素早さと隠れ身を重視して育てたものだけれど、それでも最大レベルのキャラクターの力強さはそこらの獣くらいはまるで脅威にもならぬものだったらしい。
容易く首をはねられ、こうして横たわるむくろは、私にとってはもはや動物とさえ感じられなかった。たとえその毛皮がどんなに柔らかく心地よかったとしても絶対に触りたくなかった。生きている時にはまるで感じられなかったのに、それが死体となった途端に、死んでいるのだと頭が理解した途端に、私は不思議とそこに気持ち悪さと汚らしさを感じたのだった。
虫もたかっていない、腐ってもいない、しかしどうしようもない気持ち悪さがそこにあった。
当然、そんな惨状を作り上げた右手は、どうしようもなく汚れていると感じられた。
あまりに素早い切断だったし、すぐに血を払ったから、一見汚れているようには見えない。しかし手袋越しにも血と脂のぬめりが感じられ、手袋越しだというのに得体の知れない何かがしみ込んでくるような気さえして、吐き気を覚えた。
だくだくと流れ落ち、地に染み込み、そして大気に流れていく血の匂いが、拍車をかけた。
私は吐き気をこらえて駆けだした。川の匂いがしたのは確かなのだ。川の匂いなど嗅いだことはないけれど、しかしもはや自分の感覚を疑う気にはなれない。薄暗い森の中を真昼のように見通し、苔や下生えで不安定な足元をものともせずに足音もさせず駆け抜ける身体能力。それを自然に扱える自分に、いったい何を疑えというのだ。
水の流れる音が聞こえてすぐに、木々が開けて澄んだせせらぎに出た。
私はもういてもたってもいられず、すぐに川辺にかがみこみ、ひやりと冷たい川水で丹念に手を洗った。革と思しき手袋はまるで水を通さず、そのくせひどく薄くて私に流れる水の感触のいちいちまで伝えてくれた。これも見た目通りの品と思うよりも、まったくのファンタジーな品だと思った方がよさそうだ。
「ファンタジー、ね」
ありがちな異世界転生ものだとか異世界転移ものだと、物語の冒頭はもう少し運命的なものだと思うのだけれど、ずいぶんと血なまぐさく陰湿な始まりになってしまったものだ。
異世界転生もので文化や価値観の相違に悩まされるのはよくある展開だが、それよりも以前にこんな洗礼を受ける羽目になるとは。
手を洗い、水気を払って、拭くものもないので仕方なくコートの裾で拭い、私は川辺の大き目な石を選んで腰を下ろした。少し休んで頭を冷やさなければ、そう強く意識して体を休めようとすると、奇妙なことが起こった。
うつむいて視線を下ろした先には、私の膝がある。何故だかその膝を透かして、椅子代わりに座っている石が見えるのだ。目の錯覚かと思って何度か目をまたたかせ、ごしごしとこすっても見たが、それでも変わらず半透明に透けてしまった足を通して向こう側が見える。どころかこすった腕自体も半透明で、見れば全身半透明に透けて向こうが見えるのだ。
まさかショックのあまりいつの間にか死んで幽霊にでもなったのだろうか。まあ生きてる時も幽霊みたいないてもいなくても変わらないような人生は送ってきたけれど、そういうことでもないだろう。
少なくとも座っている感触はあるし、相変わらず風の匂いや川のせせらぎも感じられる。ただ透けているだけなのだ。そのただ透けているのが問題なのだけれど。
どういうことなのかと立ち上がってみると、不思議と今度は透けない。太陽に掌をかざしてみれば、ちゃんと掌の形に影が落ちてくる。うろうろと歩き回ってみるけれどやはり変調はない。
「疲れてるのかな……いや体は全然疲れていないっていうかむしろ肩凝りもないし眼精疲労もなければ眠気もないし過去数年ここまで健康だったことない気がするけど」
しかし精神的には随分疲れた気がする。上司の朝令暮改や全く理解していない奴特有の中身のない無意味な指示とかも疲れるが、こうもわけのわからないことが続く疲れは久しぶりだ。
再び腰を下ろしてため息を吐いてしばらくすると、またもや半透明になる。半透明になるが別にそれで変調があるわけでもないし、害がないならそれいいのかなという気もしてきた。ここまで出鱈目なことが続けて起きているのだし、これもファンタジーと思えばいい。ファンタジーに理屈を求めても……いやまて。
そういえばこのファンタジーには理屈があるのだった。
正確に言うと今の私の体のもとになっているだろうゲームには理屈があった。
それに当てはめてみると、もしかしたらこれは無意識のうちに何かしらの《技能》を使っているのかもしれなかった。
ゲームの中では、いわゆる魔法などと同じように、《職業》ごとにポイントを消費して特殊な攻撃や特殊な行動ができるようになる《技能》というものがあった。
私は今自分が使っているものが、《盗賊》から派生する《暗殺者》系統なら必ず覚えることになる《隠身》という《技能》だとあたりをつけた。
これは使用すると一定時間ごとに《SP》と呼ばれるポイントを消費して、自分の姿を隠してしまう《技能》だ。この《技能》を使用している間は感知系のスキルを使われるか、たまたま攻撃が命中したり範囲系の魔法などでダメージを受けなければ解除されない。
《技能》には十段階のレベルが設定されていて、私はこれを最大に上げているため、一度に受けるダメージが最大《HP》の一割を超えなければ解除されることがないし、座っている時は《SP》消費量が自然回復量より少ないので休憩時によく使っていたものだ。というより、この《技能》を使用している間は移動ができないので、感覚の鈍い敵の目をくらませるか、隠れて休憩するくらいにしか使えないのだ。
《暗殺者》系統と言えど、こんな初期《技能》を最大まで鍛え上げるのは余程の物好きか、上位《技能》取得のために仕方なくという場合が多い。私は前者だ。そもそも隠れられるというその一点だけで私は《暗殺者》を選んだのだから。
例えば、《隠身》の上位《技能》である《隠蓑》を私は使ってみる。頭の中で強く意識すると、体は自然に動いた。ゲーム内の小さなエフェクトでしか見たことはなかったが、それと同じように私は外套を羽織るような動作をする。すると不可視の外套が私の体を覆い、先程と同じように体が半透明になる。
この《隠蓑》は《隠身》とは違い、このまま移動することができる。レベルが低いときは移動速度も制限されるが、これも最大レベルまで上げている私は何の支障もなく動ける。《SP》消費は自然回復量ととんとんで、無駄な戦闘を回避したいときや長距離を移動するときに便利だ。やはり感知系のスキルで看破されるし、範囲系の攻撃は受けてしまうが、もちろんこちらも一割くらいのダメージを受けなければ解除されない。ただし、移動はできるけれど攻撃したりスキルを使ったりすると解除されてしまう。
さらに上位のステルス系《技能》があと二つあるが、そちらは効果は確かに高いのだけれど《SP》消費量が自然回復量を上回るので、先行きの不安な今はやめておこう。万が一《SP》回復手段が自然回復以外になかった場合、貴重となるだろう回復薬を消費せざるを得ない状況は作りたくない。
しばらくは危険の回避のためにも、《隠蓑》を常時展開して行動するべきだろう。野生動物くらいなら容易く倒せるのはわかったけれどあまり気分のいいものではないし、他に比較例がない以上あれは最低程度の危険とみておいた方がいい。ありがちな異世界転生展開と甘く見て俺つえーをしてしまうと後が怖い。
それになにより常時《隠蓑》は私の普段のプレイスタイルなので落ち着くのだ。
もともと戦闘したりなんだりが苦手な私が、なんだかんだで長くこのゲームを続けられたのは《隠蓑》のおかげだ。最初は人に勧められて始めたのだけれど、正直自分でプレイするより人のプレイを見ている方が好きだった。かといってプレイ動画はどうしても展開が限られてしまう。しかし《隠蓑》で移動して他のパーティーの後をつけたり、ダンジョンにもぐったりすれば、苦せずして人様のプレイが拝めるのだ。しかもパーティーを組んだりしなければ《隠蓑》中の私は誰にも認識されないので、面倒な絡みや勧誘などとも無縁でいられる。素敵すぎる。人間と会話したくなくてゲームに入れ込んでるのに何が悲しゅうて人間と絡まなければならないのか。MMOプレイする人間としては甚だしく間違っている気もするけれど、世の中にはそういう、人のこと見てるのは好きでも人に絡まれるのが煩わしい人間はいっぱいいるのだ。いるはずだ。きっといる。いると思う。いろ。
ともあれ、だ。
身体能力だけでなく《技能》もゲーム準拠で使用できることが判明したのだ。これからの生活もゲーム時代を基準に考えていいかもしれない。つまり、できるだけ人と絡まず、ストーキングもとい人間観察をしながらのんびり暮らそうということだ。
せっかく肩凝りも眼精疲労も腰痛も寝不足もレクサプロもない人生に生まれ変われたのだ。ただ生きていることを続けていただけの生活に未練はない。死んでいるのと変わりのない、幽霊みたいな生活だったのだ。だったら、開き直ってもいいじゃないか。悲観的で厭世的で無意味で無価値な人生を送ってきたのだ。楽観的で楽天的で無責任で無関係な人生を謳歌したっていいじゃないか。明日も生きていくことに失望しかなくてゲームに逃げ込んだ生活を送るより、明日がどうなるかわからないけど少なくとも逃げ込めた先のゲームもどきファンタジーで自由気ままにロハスロハススタイルで生きた方がいいに決まっている。
私は決めた。
いま決めた。
誰にも見えない幽霊として生きていこう。
幽霊だから、死んでいこうかな?
朝はぐーぐー遅くまで寝て、気が向いたら起き出そう。
昼はのんびり気が済むまであちこちうろつきまわろう。
夜は誰もが寝静まった町中を、一人気持ちよく歩こう。
満員の通勤電車も人間関係だってないんだ。
会社も仕事も何にも考えなくっていいんだ。
死んだり病気になったりはするかもだけど。
ああ、決めた。
私は決めたぞ。
幽霊は幽霊らしく、生きている人間を草葉の陰から覗いて羨んで笑って弄って、そうしてのんびり暮らすのだ。
妛原 閠はこうして幽霊になったのだった。
用語解説
・力強さ
ゲーム内ステータスの一つ。その他のステータスも含め以下にまとめる。
HP(ヒットポイント):キャラクターの体力を数字で表す。攻撃を受けたりした場合減り、ゼロになると死亡する。時間経過で徐々に回復する。
SP(スキルポイント):《技能(スキル)》を使う際に消費される。足りない場合発動できない。時間経過で徐々に回復する。
STR(ストレングス):力強さ。物理攻撃で与えるダメージに影響する。またアイテムの所持可能重量にもかかわる。
VIT(バイタリティ):生命力、体力。防御力や身体系バッドステータスへの抵抗に影響する。
DEX(デクステリティ):器用さ。命中率、クリティカルヒット率、回避率など確率のかかわる行動に対して影響する。
AGI(アジリティー):敏捷さ。回避率や命中率、また攻撃速度や移動速度などに影響する。
INT(インテリジェンス):かしこさ、知性。魔法の効果や精神系バッドステータスへの抵抗などに影響する。
LUC(ラック):幸運。運の良さ。確率のかかわる行動に影響する他、アイテムのドロップ率などが向上する。
・《技能(スキル)》
SPを消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《職業》ごとに特色のある《技能》が存在する。一部のイベントやMobには特定の《技能》がなければ攻略が困難または全くできないものも存在する。
・《職業(ジョブ)》
キャラクターを育てていく上でどのようなスタイルにするかを決定する要素。《職業》ごとに得意な事や使用できる《技能》が異なり、その《職業》でなければ利用できないプレイスタイルも多い。
妛原閠はゲーム開始時点の真っ白な状態である《初心者(ノービス)》から、素早さが高く《窃盗(スティール)》などの《技能》を持つ《盗賊(シーフ)》を選択し、上位職である《暗殺者(アサシン)》、上位二次職である《執行人(リキデイター)》そして現状で最上位職である上位三次職《死神(グリムリーパー)》へと育て上げた。
・《隠身(ハイディング)》
《盗賊》が覚えることのできる《技能》。使用すると姿を隠すことができるが、移動はできない。隠蔽看破魔法や、一部のMobには見破られて無効化される。ダメージを受けることでも解除される。
レベルを上げていくことでSPの消費量は減るが、あまり使える《技能》でもないので育てるプレイヤーは稀。
『死体のように息を潜めろ。本当の死体になる前に』
・《隠蓑(クローキング)》
《隠身》の上位スキル。《暗殺者》が《隠身》を一定レベルまで上げると取得可能。姿を隠したまま移動できる。ただし低レベルでは移動速度が遅く、実用に足るレベルまで上げるのは苦労する。また使用中に攻撃を仕掛けると自動で解除されてしまう。
『アレドの殺し屋は孤独なものだ。仕事の時も休みの時も、死んだ時さえ誰にも見つからないのだから』
・レクサプロ
選択的セロトニン再取り込み阻害薬。一日一回夕食後に服用。副作用に口渇感、吐き気、眠気などがある。慣れるまでは胃薬を一緒に処方されることが多い。
・ロハスロハススタイル
LOHAS(lifestyles of health and sustainability)、つまり健康で持続可能であることを重視する生活スタイル。閠の場合「健康と環境を志向するライフスタイル」と日本的に認識しており、スローライフ、健康、癒しなどを念頭に置いていると思われる。
26歳事務職の妛原閠は、ゲーム内のキャラクターの体で見知らぬ場所に目覚めた。
そしてついうっかり出会い頭の罪もない野生動物をキリステし、このファンタジー世界の無常を噛み締めるのだった。
少しかじった程度の知識なのだけれど、神道には穢れの概念がある。不浄なもの、好ましからざるものを穢れとする。死や病、怪我も穢れだ。そしてこの穢れは伝染するものとされる。例えば昔の公家などは、出勤中に動物が死んでいるのを見かけて、穢れを祓うためにしばらく籠るということもあったようだ。私も出勤したくない時に使いたい言い訳だと思う。
今まで私はこの穢れという概念をそういった文献上の言葉としてしか認識していなかったのだけれども、今回間近で死に立てほやほやの死体を目にするにあたって、穢れというものを体感した。
恐ろしいとか、自分のしでかしたことに対する不安とか、そういったものよりも先に、暖かさを失っていく物言わぬむくろに私が感じたのはただ一つだった。
気持ち悪い。
ただそれだけだった。
直前まで生きていたものだった。もし彼或いは彼女が友好的で、のんびりと鼻先を出してきたりなどしたら、私はもしかしたらおっかなびっくり撫でてやって、そしてその暖かさや、硬くてちくちくする毛の感触にいちいち驚いたり笑ったりしていたかもしれない。洗っていない獣のにおいに顔をしかめたり、べろんちょと舐められて汚いなあと手を拭ったかもしれない。
しかしそういった出会いは得られなかった。
彼或いは彼女は明確に私を襲うつもりでやってきて、そして私はその敵意に夢現のような心地で反射的にこれを殺戮していた。女としては背が高いとはいえ、どうしても細身な私は大した脅威にも見えなかったのだろう。或いは《暗殺者》系統はそう言った気配を隠蔽する特徴があったのかもしれない。しかし、これでも私は、ゲーム内とはいえ最上位職の最大レベルに到達している中毒者だ。戦闘は得意ではないし、キャラクター自体も素早さと隠れ身を重視して育てたものだけれど、それでも最大レベルのキャラクターの力強さはそこらの獣くらいはまるで脅威にもならぬものだったらしい。
容易く首をはねられ、こうして横たわるむくろは、私にとってはもはや動物とさえ感じられなかった。たとえその毛皮がどんなに柔らかく心地よかったとしても絶対に触りたくなかった。生きている時にはまるで感じられなかったのに、それが死体となった途端に、死んでいるのだと頭が理解した途端に、私は不思議とそこに気持ち悪さと汚らしさを感じたのだった。
虫もたかっていない、腐ってもいない、しかしどうしようもない気持ち悪さがそこにあった。
当然、そんな惨状を作り上げた右手は、どうしようもなく汚れていると感じられた。
あまりに素早い切断だったし、すぐに血を払ったから、一見汚れているようには見えない。しかし手袋越しにも血と脂のぬめりが感じられ、手袋越しだというのに得体の知れない何かがしみ込んでくるような気さえして、吐き気を覚えた。
だくだくと流れ落ち、地に染み込み、そして大気に流れていく血の匂いが、拍車をかけた。
私は吐き気をこらえて駆けだした。川の匂いがしたのは確かなのだ。川の匂いなど嗅いだことはないけれど、しかしもはや自分の感覚を疑う気にはなれない。薄暗い森の中を真昼のように見通し、苔や下生えで不安定な足元をものともせずに足音もさせず駆け抜ける身体能力。それを自然に扱える自分に、いったい何を疑えというのだ。
水の流れる音が聞こえてすぐに、木々が開けて澄んだせせらぎに出た。
私はもういてもたってもいられず、すぐに川辺にかがみこみ、ひやりと冷たい川水で丹念に手を洗った。革と思しき手袋はまるで水を通さず、そのくせひどく薄くて私に流れる水の感触のいちいちまで伝えてくれた。これも見た目通りの品と思うよりも、まったくのファンタジーな品だと思った方がよさそうだ。
「ファンタジー、ね」
ありがちな異世界転生ものだとか異世界転移ものだと、物語の冒頭はもう少し運命的なものだと思うのだけれど、ずいぶんと血なまぐさく陰湿な始まりになってしまったものだ。
異世界転生もので文化や価値観の相違に悩まされるのはよくある展開だが、それよりも以前にこんな洗礼を受ける羽目になるとは。
手を洗い、水気を払って、拭くものもないので仕方なくコートの裾で拭い、私は川辺の大き目な石を選んで腰を下ろした。少し休んで頭を冷やさなければ、そう強く意識して体を休めようとすると、奇妙なことが起こった。
うつむいて視線を下ろした先には、私の膝がある。何故だかその膝を透かして、椅子代わりに座っている石が見えるのだ。目の錯覚かと思って何度か目をまたたかせ、ごしごしとこすっても見たが、それでも変わらず半透明に透けてしまった足を通して向こう側が見える。どころかこすった腕自体も半透明で、見れば全身半透明に透けて向こうが見えるのだ。
まさかショックのあまりいつの間にか死んで幽霊にでもなったのだろうか。まあ生きてる時も幽霊みたいないてもいなくても変わらないような人生は送ってきたけれど、そういうことでもないだろう。
少なくとも座っている感触はあるし、相変わらず風の匂いや川のせせらぎも感じられる。ただ透けているだけなのだ。そのただ透けているのが問題なのだけれど。
どういうことなのかと立ち上がってみると、不思議と今度は透けない。太陽に掌をかざしてみれば、ちゃんと掌の形に影が落ちてくる。うろうろと歩き回ってみるけれどやはり変調はない。
「疲れてるのかな……いや体は全然疲れていないっていうかむしろ肩凝りもないし眼精疲労もなければ眠気もないし過去数年ここまで健康だったことない気がするけど」
しかし精神的には随分疲れた気がする。上司の朝令暮改や全く理解していない奴特有の中身のない無意味な指示とかも疲れるが、こうもわけのわからないことが続く疲れは久しぶりだ。
再び腰を下ろしてため息を吐いてしばらくすると、またもや半透明になる。半透明になるが別にそれで変調があるわけでもないし、害がないならそれいいのかなという気もしてきた。ここまで出鱈目なことが続けて起きているのだし、これもファンタジーと思えばいい。ファンタジーに理屈を求めても……いやまて。
そういえばこのファンタジーには理屈があるのだった。
正確に言うと今の私の体のもとになっているだろうゲームには理屈があった。
それに当てはめてみると、もしかしたらこれは無意識のうちに何かしらの《技能》を使っているのかもしれなかった。
ゲームの中では、いわゆる魔法などと同じように、《職業》ごとにポイントを消費して特殊な攻撃や特殊な行動ができるようになる《技能》というものがあった。
私は今自分が使っているものが、《盗賊》から派生する《暗殺者》系統なら必ず覚えることになる《隠身》という《技能》だとあたりをつけた。
これは使用すると一定時間ごとに《SP》と呼ばれるポイントを消費して、自分の姿を隠してしまう《技能》だ。この《技能》を使用している間は感知系のスキルを使われるか、たまたま攻撃が命中したり範囲系の魔法などでダメージを受けなければ解除されない。
《技能》には十段階のレベルが設定されていて、私はこれを最大に上げているため、一度に受けるダメージが最大《HP》の一割を超えなければ解除されることがないし、座っている時は《SP》消費量が自然回復量より少ないので休憩時によく使っていたものだ。というより、この《技能》を使用している間は移動ができないので、感覚の鈍い敵の目をくらませるか、隠れて休憩するくらいにしか使えないのだ。
《暗殺者》系統と言えど、こんな初期《技能》を最大まで鍛え上げるのは余程の物好きか、上位《技能》取得のために仕方なくという場合が多い。私は前者だ。そもそも隠れられるというその一点だけで私は《暗殺者》を選んだのだから。
例えば、《隠身》の上位《技能》である《隠蓑》を私は使ってみる。頭の中で強く意識すると、体は自然に動いた。ゲーム内の小さなエフェクトでしか見たことはなかったが、それと同じように私は外套を羽織るような動作をする。すると不可視の外套が私の体を覆い、先程と同じように体が半透明になる。
この《隠蓑》は《隠身》とは違い、このまま移動することができる。レベルが低いときは移動速度も制限されるが、これも最大レベルまで上げている私は何の支障もなく動ける。《SP》消費は自然回復量ととんとんで、無駄な戦闘を回避したいときや長距離を移動するときに便利だ。やはり感知系のスキルで看破されるし、範囲系の攻撃は受けてしまうが、もちろんこちらも一割くらいのダメージを受けなければ解除されない。ただし、移動はできるけれど攻撃したりスキルを使ったりすると解除されてしまう。
さらに上位のステルス系《技能》があと二つあるが、そちらは効果は確かに高いのだけれど《SP》消費量が自然回復量を上回るので、先行きの不安な今はやめておこう。万が一《SP》回復手段が自然回復以外になかった場合、貴重となるだろう回復薬を消費せざるを得ない状況は作りたくない。
しばらくは危険の回避のためにも、《隠蓑》を常時展開して行動するべきだろう。野生動物くらいなら容易く倒せるのはわかったけれどあまり気分のいいものではないし、他に比較例がない以上あれは最低程度の危険とみておいた方がいい。ありがちな異世界転生展開と甘く見て俺つえーをしてしまうと後が怖い。
それになにより常時《隠蓑》は私の普段のプレイスタイルなので落ち着くのだ。
もともと戦闘したりなんだりが苦手な私が、なんだかんだで長くこのゲームを続けられたのは《隠蓑》のおかげだ。最初は人に勧められて始めたのだけれど、正直自分でプレイするより人のプレイを見ている方が好きだった。かといってプレイ動画はどうしても展開が限られてしまう。しかし《隠蓑》で移動して他のパーティーの後をつけたり、ダンジョンにもぐったりすれば、苦せずして人様のプレイが拝めるのだ。しかもパーティーを組んだりしなければ《隠蓑》中の私は誰にも認識されないので、面倒な絡みや勧誘などとも無縁でいられる。素敵すぎる。人間と会話したくなくてゲームに入れ込んでるのに何が悲しゅうて人間と絡まなければならないのか。MMOプレイする人間としては甚だしく間違っている気もするけれど、世の中にはそういう、人のこと見てるのは好きでも人に絡まれるのが煩わしい人間はいっぱいいるのだ。いるはずだ。きっといる。いると思う。いろ。
ともあれ、だ。
身体能力だけでなく《技能》もゲーム準拠で使用できることが判明したのだ。これからの生活もゲーム時代を基準に考えていいかもしれない。つまり、できるだけ人と絡まず、ストーキングもとい人間観察をしながらのんびり暮らそうということだ。
せっかく肩凝りも眼精疲労も腰痛も寝不足もレクサプロもない人生に生まれ変われたのだ。ただ生きていることを続けていただけの生活に未練はない。死んでいるのと変わりのない、幽霊みたいな生活だったのだ。だったら、開き直ってもいいじゃないか。悲観的で厭世的で無意味で無価値な人生を送ってきたのだ。楽観的で楽天的で無責任で無関係な人生を謳歌したっていいじゃないか。明日も生きていくことに失望しかなくてゲームに逃げ込んだ生活を送るより、明日がどうなるかわからないけど少なくとも逃げ込めた先のゲームもどきファンタジーで自由気ままにロハスロハススタイルで生きた方がいいに決まっている。
私は決めた。
いま決めた。
誰にも見えない幽霊として生きていこう。
幽霊だから、死んでいこうかな?
朝はぐーぐー遅くまで寝て、気が向いたら起き出そう。
昼はのんびり気が済むまであちこちうろつきまわろう。
夜は誰もが寝静まった町中を、一人気持ちよく歩こう。
満員の通勤電車も人間関係だってないんだ。
会社も仕事も何にも考えなくっていいんだ。
死んだり病気になったりはするかもだけど。
ああ、決めた。
私は決めたぞ。
幽霊は幽霊らしく、生きている人間を草葉の陰から覗いて羨んで笑って弄って、そうしてのんびり暮らすのだ。
妛原 閠はこうして幽霊になったのだった。
用語解説
・力強さ
ゲーム内ステータスの一つ。その他のステータスも含め以下にまとめる。
HP(ヒットポイント):キャラクターの体力を数字で表す。攻撃を受けたりした場合減り、ゼロになると死亡する。時間経過で徐々に回復する。
SP(スキルポイント):《技能(スキル)》を使う際に消費される。足りない場合発動できない。時間経過で徐々に回復する。
STR(ストレングス):力強さ。物理攻撃で与えるダメージに影響する。またアイテムの所持可能重量にもかかわる。
VIT(バイタリティ):生命力、体力。防御力や身体系バッドステータスへの抵抗に影響する。
DEX(デクステリティ):器用さ。命中率、クリティカルヒット率、回避率など確率のかかわる行動に対して影響する。
AGI(アジリティー):敏捷さ。回避率や命中率、また攻撃速度や移動速度などに影響する。
INT(インテリジェンス):かしこさ、知性。魔法の効果や精神系バッドステータスへの抵抗などに影響する。
LUC(ラック):幸運。運の良さ。確率のかかわる行動に影響する他、アイテムのドロップ率などが向上する。
・《技能(スキル)》
SPを消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《職業》ごとに特色のある《技能》が存在する。一部のイベントやMobには特定の《技能》がなければ攻略が困難または全くできないものも存在する。
・《職業(ジョブ)》
キャラクターを育てていく上でどのようなスタイルにするかを決定する要素。《職業》ごとに得意な事や使用できる《技能》が異なり、その《職業》でなければ利用できないプレイスタイルも多い。
妛原閠はゲーム開始時点の真っ白な状態である《初心者(ノービス)》から、素早さが高く《窃盗(スティール)》などの《技能》を持つ《盗賊(シーフ)》を選択し、上位職である《暗殺者(アサシン)》、上位二次職である《執行人(リキデイター)》そして現状で最上位職である上位三次職《死神(グリムリーパー)》へと育て上げた。
・《隠身(ハイディング)》
《盗賊》が覚えることのできる《技能》。使用すると姿を隠すことができるが、移動はできない。隠蔽看破魔法や、一部のMobには見破られて無効化される。ダメージを受けることでも解除される。
レベルを上げていくことでSPの消費量は減るが、あまり使える《技能》でもないので育てるプレイヤーは稀。
『死体のように息を潜めろ。本当の死体になる前に』
・《隠蓑(クローキング)》
《隠身》の上位スキル。《暗殺者》が《隠身》を一定レベルまで上げると取得可能。姿を隠したまま移動できる。ただし低レベルでは移動速度が遅く、実用に足るレベルまで上げるのは苦労する。また使用中に攻撃を仕掛けると自動で解除されてしまう。
『アレドの殺し屋は孤独なものだ。仕事の時も休みの時も、死んだ時さえ誰にも見つからないのだから』
・レクサプロ
選択的セロトニン再取り込み阻害薬。一日一回夕食後に服用。副作用に口渇感、吐き気、眠気などがある。慣れるまでは胃薬を一緒に処方されることが多い。
・ロハスロハススタイル
LOHAS(lifestyles of health and sustainability)、つまり健康で持続可能であることを重視する生活スタイル。閠の場合「健康と環境を志向するライフスタイル」と日本的に認識しており、スローライフ、健康、癒しなどを念頭に置いていると思われる。