前回のあらすじ
ついに同衾したリリオと閠。口の中に棒を突っ込んで滅茶苦茶にするなど、事案が相次ぐ。
目覚めは最悪だった。
夢も見ないほど深い眠りは、寝る前に何とかセットした《ウェストミンスターの目覚し時計》によって瞬時に解けた。覚醒は一瞬で、不快さもなくさっぱりとしたものだったが、その代わりにまどろみの心地よさもない味気ないものだった。便利と言えば便利ではあるが。
外は朝日が顔を出したくらいだ。のっそりと起き上がろうとすれば、何やらえらく窮屈だった。
《鳰の沈み布団》を捲ってみれば、私の腰のあたりにしがみついていぎたなく眠りこけているリリオの姿があった。
人肌の温もりと自分の体ではない生き物の感触が不気味だった。
寝起きの無防備な体に、また眠っている際の完全に無意識な体に、他人の手が触れていたのだと思うと気持ちが悪かった。それは私の人生において甚だしく経験に乏しい未知の感触だった。
私はぞっとしたその不快感のままにリリオをベッドから蹴り落とし、ぷつぷつと粟立った肌を撫でさすりながら自分も寝台から降りた。
《ウェストミンスターの目覚し時計》が奏でる心地よいチャイムを止めてインベントリにしまい込み、布団をはじめ昨日出しっぱなしにしていたアイテムを片付けていく。
その間にリリオもむにゃむにゃ起き出してきたが、考えてみればこいつ、強制覚醒効果のある《目覚し時計》のチャイムを聞きながら寝入っていたのだから凄まじいものがあるな。この世界の住人には効きが悪いのか、それとも《沈み布団》を頭までかぶって音が届かなかったのか。まあ実験はおいおいしていこう。
寝巻代わりにした《コンバット・ジャージ》を脱いで下着をつけ、装備を整え、髪を手櫛で梳いて整える。驚くべきはこの体の健康さよ。髪質がだいぶ良くなっていることだけでなく、肌質もよくなっている。
最近水を弾かなくなってきたはずなのだが、昨夜は若い頃のように水も弾いたし、化粧水も保湿液もその他諸々もないというのに顔面の準備は完璧だ。前の世界でもこんな体質だったら朝の睡眠時間をもう少し稼げたのだが。
私が準備を終える頃にはリリオもすっかり目覚めて、てきぱきと着替えて鎧を身に着け、剣を帯び、鞄の中身を確かめた。そして私に貸していた《コンバット・ジャージ》を返してきたが、これは貸したままにした。どうせ今後も貸すことになるだろうと思ったのもあるし、それに一度人が袖を通したものを受け取りたくなかった。期せずして同衾してしまった布団も不快は不快だが、あれは替えがない。
綺麗さっぱり準備を整えて部屋を後にし、二人並んで井戸端で顔を洗い、歯を磨いた。井戸水はキリリと冷たくこれを顔に被るのは少し覚悟が必要だったが、しかしさっぱりとはした。衛生面は少し気になるが、この世界の水としてはかなり衛生的な方だと考えることにしよう。
昨日無理やり歯を磨いてやったためか、リリオも真面目に歯を磨いている。いいことだ。口臭の予防にもなるので隣にいる私も不快でなくなるし、虫歯になった時対処しなくていいからな。もしかしたら私の持っている回復系のアイテムで虫歯が治るかもしれないがそんな無駄なことで実験したくない。
さて、朝の準備も終わった。身だしなみも整えた。天気は明朗なれど風強し。空腹は程々。朝のお通じは先程済ませた。まあ、それなりによい一日の始まりと言っていいだろう。
リリオは意気揚々と昨日の老商人との待ち合わせ場所に向かい、私はのんびりそのあとに続いた。別にことさらのんびりしているつもりはないが、小柄なリリオに合わせると、自然と私の歩みは遅くなる。リリオはちょこちょこと元気な足取りだが、そもそものコンパスが違うから仕方がない。
例の亀もとい馬車の傍でパイプのようなものをふかしていた老商人は、すっかり身ぎれいになったリリオの姿に片眉を上げて、それから楽しげに笑った。
「やあやあ、見違えるようじゃあないか。こんな別嬪さんなら、旅路も楽しみだ」
「やだなあ、もともとですよう」
「いやいや、昨日はまるで小鬼か何かだったわい」
「なんですとー!」
私だったら浮浪者だったくらいは言いそうなので、この人はいい人なのだろう。いや、小鬼とやらがどの程度の扱いなのか知らないと何とも言えないのだけれど、ゴブリンみたいなものだろうか。
ともあれ、私たちは昨日と同じく馬車の荷車に乗せてもらい、見た目ばかりはのそのそと、しかし思いの外に早い足取りの亀に牽かれて車上の人となった。
どこへ向かうのかと聞けば、まずは次の宿場で軽く休憩を取り、それから宿場町で一泊し、翌日にはヴォーストという街に着くという。老商人はそこからさらに西へと進むそうだが、リリオの目的地はそのヴォーストであるという。
どのような街なのかと聞くとリリオも詳しくは知らないという。遠縁の親戚にあたる人がいて、その人を頼りに行くのだそうだ。
リリオより旅慣れした老商人はヴォーストの街についてもよく知っていて、道すがら様々に知っていることを教えてくれた。
「ヴォーストはまあ、エージゲじゃあ一等とは言わないがね、まあ二番目三番目には大きな街さ」
「えーじげ?」
「ここらのことさ。エージゲ子爵領だ」
成程貴族制であるらしい。ご領主様に会うことなどないだろうし、住人の殆ども関りなどないだろうから、そんなに意識しないでもいい名前だ。
「大きめの川が街の中ほどを通っていてな、船を使った流通も多いし、水を多く使う工房だってあらあな。街の外には農村も多いし、牧場だってある」
この世界の平均値を知らないので何とも言えないが、程々に発展していると思ってよさそうだ。子爵、というのが私の知っている公侯伯子男の分類に当てはまるのかどうかはからないが、まあ程々の貴族様の領地のそれなりに上位の街となれば、国全体としてみてもそんなに悪いものではなさそうだ。
「他所からの品が多いのもあるが、水がいいからだろうねえ、地場の酒が、うまい」
「おさけ!」
食いついた。というか君、十四才だろう。この世界では成人なのかもしれないが、お酒飲んでいいのか。井戸水飲んだ限り水質が飲用に適していないということもないし、水代わりに酒飲むとかいう理屈が通じるのか。そもそも水精晶とかいう便利アイテムがあるんだから水代わりというのは有り得ないだろう。アニメ化できなくなったらどうする。
そんな下らないことを考えている間も、リリオは老商人と楽しげに話している。
酒もあるが、やはり食べ物の話に食いつくあたり、色気より食い気か。
「各地のもんも集まるから大抵のもんは手に入るし、近くに農村も牧場も、川だってあるからまず食材は新鮮だ。特に、名物の霹靂猫魚は、食べておかなきゃ損だね」
「おいしいんですか!?」
「うまいねえ。なかなか獲れないんだがね、大きい体で、食えるところも多いから、運が良けりゃあ少し高くつくけど晩のおかずにできらあね。まあ煮ても焼いてもうまい。何より揚げたのがまあ、うまい」
「揚げ物があるの?」
思わず聞いてしまった。
「おう、あるともさ。亜麻仁油はここらでよく採れるし、辺境領からも入るしね」
揚げ物。つまり食事にまでたっぷりと油を使えるとなるとこれは期待できた。
古い時代は油と言えばもっぱら明かりのために使われることが多く、揚げ物にたっぷりと油を使うほどの余裕がないことも多かったと聞くが、考えてみればこの世界は水精晶などといったものがあるのだ、もっと便利な明かりがあってもおかしくはない。
それに油の取れる植物をそのために育てているとなれば、きっと油を使った料理も発達しているに違いない。幅が増えれば、それだけ料理は複雑に発達する。いままでは食事と言えば単なる燃料補給だったが、何しろ傍に犯罪的にうまそうに飯を食べる小娘がいるのだ。乗っからねば、損だ。
心持ち楽しみにしながら馬車に揺られ、昼頃には宿場につき、茶屋で軽く食事を摂った。
気前のいいことに老商人が支払いを持ってくれ、私は程々に、リリオは遠慮なく何かの肉の串焼きを頂いた。
なかなか大ぶりの肉で、歯ごたえもあるもので、私は何本か食べてもう十分だったが、リリオはまるで掃除機だった。肉の硬さなどまるで思わせずにぱくぱくと頬張っては飲み下す。最初は見ていて気持ちのいい食べっぷりだったが、皿に串が積み重なるとなるとさすがに見ているだけで胸焼けするほどだった。
これには申し訳なくなって支払いを持とうとしたのだが、笑って許してくれた。若いうちはこのぐらい健啖な方がいいというのだから、きっとこの老商人も若い頃はさぞかし食べたのだろう。私は若い頃から食が細かったのでよくわからない話だ。食が細かったのにこんなに無駄に背が高くなったのだから、リリオもこの調子で食べたら二メートルくらいに育つんじゃないだろうか。
しかし現実としてはこの娘は相変わらずちんまりとしていたし、その胸はかわいそうなほど平坦だった。
昼を終えて再び車上の人となってしばらく、別に待ち望んでいたわけではないが、ファンタジー世界らしい事件は起こった。
突然馬車が止まったので何事かと思えば、老商人が低い声でうめく。
「盗賊だ」
やはり、いるものらしい。
リリオが荷物の間を通って御者席から顔を出すので、私もそれを追って覗いてみると、確かにいかにも野盗ですと言った連中が五人ばかり道をふさいでいる。
ぼろい布の服に、気休めみたいな胸当てや手甲をしていて、折れかけの剣や手斧、酷いのになるとナイフを棒っ切れに括りつけた即席の槍なんかかついでいる。
ちらとすぐそばのちっこい頭を見下ろしたが、少し前まではこの娘も同じくらいの汚れ方だったあたり、まあ連中も平均的な汚れっぷりと言っていいだろう。つまりは洗っていない野犬同様だ。
野盗が野盗らしくなにやら口上を述べているのを聞き流して、一応リリオに尋ねる。
「こういうときは、どうするものなの」
「そうですねえ。盗賊の人も、出会う人皆いちいち皆殺しにしてたら、商人が通らなくなって獲物はなくなるし、討伐隊も組まれるので、最初は話し合いです」
成程。道理だ。
「定番なのは、まあ積み荷にもよりますけど、二割程度を通行料として払えば通してくれるっていうやつですね。そのくらいなら死ぬほどの痛手じゃないですし、場合によっては保険が下ります」
保険あるのか、この世界。保険会社見かけたら入っておこうかな。
「でもその場合、商人は完全に降参してるってことですから、積み荷に女子供がいたら扱いはお察しです」
「つまり、私たちか」
「そういうことです」
リリオを見る限り女と言っても見た目だけでは判断できない怪力はあるけれど、それでもやっぱり女となると飢えた男たちの獲物にはなるらしい。しかも今のリリオは綺麗に磨いてしまっているのでさぞかし美味しそうに見えることだろう。
老商人も成人したての娘をそんな目に合わせるのは嫌だろうが、かといって逆らえば全員殺されるかもしれない。だからだろうか、ちらりとこちらを窺って、私たちに判断を任せてきている。
「リリオ。言った通り、私は君については行くけれど、旅の主は君だ」
「ええ」
「わかっているなら結構。それで、君のくにではこういうときどうするんだい?」
リリオは御者席から軽やかに飛び降りて、盗賊たちににこやかに笑いかけた。
それが降参の態度なのか何なのか、盗賊どもが対応に迷う間に、リリオは気負う様子もなくスラリと腰の剣を抜いた。
「辺境では、美男にして帰してやるのが作法です」
多分、ユーモアに富んだ言い回しなのだろう。つまるところ、見せしめに酷い目に合わせて叩き返す、というところかなあ、と思う。
はたして学のなさそうな盗賊どもに機知が理解できたかはともかく、剣を抜いたことで戦うことを選んだのだと理解したらしく、男たちは鼻で笑いながらリリオを囲もうとした。
男が五人で女を囲むというのは、どう考えても多勢に無勢という気がするが、私の方は高みの見物のつもりで御者席に腰を落ち着けた。
「おい、おい、黒い娘さんよ」
「なんです」
「あんたは加勢せんのかね」
お仲間だろうと責めるような目で見てくる老商人に、私は小首を傾げた。小娘を護衛に仕立てる人に言われたくはないが、しかしこの人もこの人にできるだけのことはしてくれたし、今もこうして案じてくれる善人であるし、責める気はない。確かに、仲間であり、若くもあり、手も空いている私が加勢しない方が責められてしかるべきだろう。
しかし。
「私、戦うの苦手なんですよ」
「だからってお前さん、」
「それに」
それに、だ。
私は実のところリリオが戦うところを一度も見たことがないので、どの程度実力があるのか確かめたいと前々から思っていたのだ。あんまり弱いようでは、旅の主とするには少々頼りないからね。
完全に腰を据えて見物する気の私に老商人はため息を吐いた。まあ心配する気はわかる。森を抜けてきたとはいえ、リリオは幼いと言っていい程に若い小娘で、ちびと言っていい程に小柄で、この世の酷さなど知らぬように爛漫だ。
けれど私の胸には一切の心配はなかった。
薄情な人間なのかもしれないけれど、冷たい人間なのかもしれないけれど、私の心はまるで動かない。
ああ、でも、確かに不安と言えば不安だ。
「無事で済むかなあ」
すっかり囲まれたリリオの姿は男たちの陰に隠れて見えづらい。
折れかけの剣を持った男がいやらしい笑みを浮かべながら、鉈でも振るうように剣を振り上げ、そして悲鳴とともに血の匂いがあたりにただよった。
老商人が目を見開き、私は溜息を吐く。
「程々にね、リリオ」
「ええ!」
たった今男の腕を切り飛ばした剣を軽く一振りして血を払い、元気よく答えるリリオに私は溜息をもう一つ。この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれますというテロップが一足遅れで脳裏を流れる。せめて吐き気がしても堪えられるようにとあらかじめ口元に手をやって、私は男たちを嬉々として刈り取り始めるリリオの暴力を眺めた。
心配などするはずもない。
パーティメンバーとして認識したリリオのステータス情報を確認した限りでは、そのレベルは三十八。
特に力強さの値は中堅並だ。この世界の平均など知りはしないけれど、それでも十把一絡げ、農民からジョブチェンジしたばかりの野盗なんぞが敵う相手ではなさそうだった。
用語解説
・《ウェストミンスターの目覚し時計》
睡眠状態を解除するアイテム。効果範囲内の全員に効果があり、また時刻を設定してアラーム代わりにも使用できた。
『リンゴンリンゴン、鐘が鳴る。寝ぼけ眼をこじ開けて、まどろむ空気を一払い、死体さえも目覚めだす』
・小鬼
小柄な魔獣。子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。
・ヴォースト
エージゲ子爵領ヴォースト。辺境領を除けば帝国最東端の街。大きな川が街の真ん中を流れており、工場地区が存在する。正式にはヴォースト・デ・ドラーコ。臥龍山脈から続くやや低めの山々がせりだしてきており、これを竜の尾、ヴォースト・デ・ドラーコと呼ぶ。この山を見上げるようにふもとにできた街なので慣習的にヴォーストと呼ばれ、いまや正式名となっている。
・エージゲ子爵領
エージゲ子爵の治める中領地。これといった特色のない田舎で、ここしばらくは大きな事件もなかったような土地柄。気候はやや寒冷だが、農地は多く収穫量は多い。
・霹靂猫魚
大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。
・亜麻仁油
アマ科の一年草の種子からとれる油。
・この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれます
お楽しみください。
ついに同衾したリリオと閠。口の中に棒を突っ込んで滅茶苦茶にするなど、事案が相次ぐ。
目覚めは最悪だった。
夢も見ないほど深い眠りは、寝る前に何とかセットした《ウェストミンスターの目覚し時計》によって瞬時に解けた。覚醒は一瞬で、不快さもなくさっぱりとしたものだったが、その代わりにまどろみの心地よさもない味気ないものだった。便利と言えば便利ではあるが。
外は朝日が顔を出したくらいだ。のっそりと起き上がろうとすれば、何やらえらく窮屈だった。
《鳰の沈み布団》を捲ってみれば、私の腰のあたりにしがみついていぎたなく眠りこけているリリオの姿があった。
人肌の温もりと自分の体ではない生き物の感触が不気味だった。
寝起きの無防備な体に、また眠っている際の完全に無意識な体に、他人の手が触れていたのだと思うと気持ちが悪かった。それは私の人生において甚だしく経験に乏しい未知の感触だった。
私はぞっとしたその不快感のままにリリオをベッドから蹴り落とし、ぷつぷつと粟立った肌を撫でさすりながら自分も寝台から降りた。
《ウェストミンスターの目覚し時計》が奏でる心地よいチャイムを止めてインベントリにしまい込み、布団をはじめ昨日出しっぱなしにしていたアイテムを片付けていく。
その間にリリオもむにゃむにゃ起き出してきたが、考えてみればこいつ、強制覚醒効果のある《目覚し時計》のチャイムを聞きながら寝入っていたのだから凄まじいものがあるな。この世界の住人には効きが悪いのか、それとも《沈み布団》を頭までかぶって音が届かなかったのか。まあ実験はおいおいしていこう。
寝巻代わりにした《コンバット・ジャージ》を脱いで下着をつけ、装備を整え、髪を手櫛で梳いて整える。驚くべきはこの体の健康さよ。髪質がだいぶ良くなっていることだけでなく、肌質もよくなっている。
最近水を弾かなくなってきたはずなのだが、昨夜は若い頃のように水も弾いたし、化粧水も保湿液もその他諸々もないというのに顔面の準備は完璧だ。前の世界でもこんな体質だったら朝の睡眠時間をもう少し稼げたのだが。
私が準備を終える頃にはリリオもすっかり目覚めて、てきぱきと着替えて鎧を身に着け、剣を帯び、鞄の中身を確かめた。そして私に貸していた《コンバット・ジャージ》を返してきたが、これは貸したままにした。どうせ今後も貸すことになるだろうと思ったのもあるし、それに一度人が袖を通したものを受け取りたくなかった。期せずして同衾してしまった布団も不快は不快だが、あれは替えがない。
綺麗さっぱり準備を整えて部屋を後にし、二人並んで井戸端で顔を洗い、歯を磨いた。井戸水はキリリと冷たくこれを顔に被るのは少し覚悟が必要だったが、しかしさっぱりとはした。衛生面は少し気になるが、この世界の水としてはかなり衛生的な方だと考えることにしよう。
昨日無理やり歯を磨いてやったためか、リリオも真面目に歯を磨いている。いいことだ。口臭の予防にもなるので隣にいる私も不快でなくなるし、虫歯になった時対処しなくていいからな。もしかしたら私の持っている回復系のアイテムで虫歯が治るかもしれないがそんな無駄なことで実験したくない。
さて、朝の準備も終わった。身だしなみも整えた。天気は明朗なれど風強し。空腹は程々。朝のお通じは先程済ませた。まあ、それなりによい一日の始まりと言っていいだろう。
リリオは意気揚々と昨日の老商人との待ち合わせ場所に向かい、私はのんびりそのあとに続いた。別にことさらのんびりしているつもりはないが、小柄なリリオに合わせると、自然と私の歩みは遅くなる。リリオはちょこちょこと元気な足取りだが、そもそものコンパスが違うから仕方がない。
例の亀もとい馬車の傍でパイプのようなものをふかしていた老商人は、すっかり身ぎれいになったリリオの姿に片眉を上げて、それから楽しげに笑った。
「やあやあ、見違えるようじゃあないか。こんな別嬪さんなら、旅路も楽しみだ」
「やだなあ、もともとですよう」
「いやいや、昨日はまるで小鬼か何かだったわい」
「なんですとー!」
私だったら浮浪者だったくらいは言いそうなので、この人はいい人なのだろう。いや、小鬼とやらがどの程度の扱いなのか知らないと何とも言えないのだけれど、ゴブリンみたいなものだろうか。
ともあれ、私たちは昨日と同じく馬車の荷車に乗せてもらい、見た目ばかりはのそのそと、しかし思いの外に早い足取りの亀に牽かれて車上の人となった。
どこへ向かうのかと聞けば、まずは次の宿場で軽く休憩を取り、それから宿場町で一泊し、翌日にはヴォーストという街に着くという。老商人はそこからさらに西へと進むそうだが、リリオの目的地はそのヴォーストであるという。
どのような街なのかと聞くとリリオも詳しくは知らないという。遠縁の親戚にあたる人がいて、その人を頼りに行くのだそうだ。
リリオより旅慣れした老商人はヴォーストの街についてもよく知っていて、道すがら様々に知っていることを教えてくれた。
「ヴォーストはまあ、エージゲじゃあ一等とは言わないがね、まあ二番目三番目には大きな街さ」
「えーじげ?」
「ここらのことさ。エージゲ子爵領だ」
成程貴族制であるらしい。ご領主様に会うことなどないだろうし、住人の殆ども関りなどないだろうから、そんなに意識しないでもいい名前だ。
「大きめの川が街の中ほどを通っていてな、船を使った流通も多いし、水を多く使う工房だってあらあな。街の外には農村も多いし、牧場だってある」
この世界の平均値を知らないので何とも言えないが、程々に発展していると思ってよさそうだ。子爵、というのが私の知っている公侯伯子男の分類に当てはまるのかどうかはからないが、まあ程々の貴族様の領地のそれなりに上位の街となれば、国全体としてみてもそんなに悪いものではなさそうだ。
「他所からの品が多いのもあるが、水がいいからだろうねえ、地場の酒が、うまい」
「おさけ!」
食いついた。というか君、十四才だろう。この世界では成人なのかもしれないが、お酒飲んでいいのか。井戸水飲んだ限り水質が飲用に適していないということもないし、水代わりに酒飲むとかいう理屈が通じるのか。そもそも水精晶とかいう便利アイテムがあるんだから水代わりというのは有り得ないだろう。アニメ化できなくなったらどうする。
そんな下らないことを考えている間も、リリオは老商人と楽しげに話している。
酒もあるが、やはり食べ物の話に食いつくあたり、色気より食い気か。
「各地のもんも集まるから大抵のもんは手に入るし、近くに農村も牧場も、川だってあるからまず食材は新鮮だ。特に、名物の霹靂猫魚は、食べておかなきゃ損だね」
「おいしいんですか!?」
「うまいねえ。なかなか獲れないんだがね、大きい体で、食えるところも多いから、運が良けりゃあ少し高くつくけど晩のおかずにできらあね。まあ煮ても焼いてもうまい。何より揚げたのがまあ、うまい」
「揚げ物があるの?」
思わず聞いてしまった。
「おう、あるともさ。亜麻仁油はここらでよく採れるし、辺境領からも入るしね」
揚げ物。つまり食事にまでたっぷりと油を使えるとなるとこれは期待できた。
古い時代は油と言えばもっぱら明かりのために使われることが多く、揚げ物にたっぷりと油を使うほどの余裕がないことも多かったと聞くが、考えてみればこの世界は水精晶などといったものがあるのだ、もっと便利な明かりがあってもおかしくはない。
それに油の取れる植物をそのために育てているとなれば、きっと油を使った料理も発達しているに違いない。幅が増えれば、それだけ料理は複雑に発達する。いままでは食事と言えば単なる燃料補給だったが、何しろ傍に犯罪的にうまそうに飯を食べる小娘がいるのだ。乗っからねば、損だ。
心持ち楽しみにしながら馬車に揺られ、昼頃には宿場につき、茶屋で軽く食事を摂った。
気前のいいことに老商人が支払いを持ってくれ、私は程々に、リリオは遠慮なく何かの肉の串焼きを頂いた。
なかなか大ぶりの肉で、歯ごたえもあるもので、私は何本か食べてもう十分だったが、リリオはまるで掃除機だった。肉の硬さなどまるで思わせずにぱくぱくと頬張っては飲み下す。最初は見ていて気持ちのいい食べっぷりだったが、皿に串が積み重なるとなるとさすがに見ているだけで胸焼けするほどだった。
これには申し訳なくなって支払いを持とうとしたのだが、笑って許してくれた。若いうちはこのぐらい健啖な方がいいというのだから、きっとこの老商人も若い頃はさぞかし食べたのだろう。私は若い頃から食が細かったのでよくわからない話だ。食が細かったのにこんなに無駄に背が高くなったのだから、リリオもこの調子で食べたら二メートルくらいに育つんじゃないだろうか。
しかし現実としてはこの娘は相変わらずちんまりとしていたし、その胸はかわいそうなほど平坦だった。
昼を終えて再び車上の人となってしばらく、別に待ち望んでいたわけではないが、ファンタジー世界らしい事件は起こった。
突然馬車が止まったので何事かと思えば、老商人が低い声でうめく。
「盗賊だ」
やはり、いるものらしい。
リリオが荷物の間を通って御者席から顔を出すので、私もそれを追って覗いてみると、確かにいかにも野盗ですと言った連中が五人ばかり道をふさいでいる。
ぼろい布の服に、気休めみたいな胸当てや手甲をしていて、折れかけの剣や手斧、酷いのになるとナイフを棒っ切れに括りつけた即席の槍なんかかついでいる。
ちらとすぐそばのちっこい頭を見下ろしたが、少し前まではこの娘も同じくらいの汚れ方だったあたり、まあ連中も平均的な汚れっぷりと言っていいだろう。つまりは洗っていない野犬同様だ。
野盗が野盗らしくなにやら口上を述べているのを聞き流して、一応リリオに尋ねる。
「こういうときは、どうするものなの」
「そうですねえ。盗賊の人も、出会う人皆いちいち皆殺しにしてたら、商人が通らなくなって獲物はなくなるし、討伐隊も組まれるので、最初は話し合いです」
成程。道理だ。
「定番なのは、まあ積み荷にもよりますけど、二割程度を通行料として払えば通してくれるっていうやつですね。そのくらいなら死ぬほどの痛手じゃないですし、場合によっては保険が下ります」
保険あるのか、この世界。保険会社見かけたら入っておこうかな。
「でもその場合、商人は完全に降参してるってことですから、積み荷に女子供がいたら扱いはお察しです」
「つまり、私たちか」
「そういうことです」
リリオを見る限り女と言っても見た目だけでは判断できない怪力はあるけれど、それでもやっぱり女となると飢えた男たちの獲物にはなるらしい。しかも今のリリオは綺麗に磨いてしまっているのでさぞかし美味しそうに見えることだろう。
老商人も成人したての娘をそんな目に合わせるのは嫌だろうが、かといって逆らえば全員殺されるかもしれない。だからだろうか、ちらりとこちらを窺って、私たちに判断を任せてきている。
「リリオ。言った通り、私は君については行くけれど、旅の主は君だ」
「ええ」
「わかっているなら結構。それで、君のくにではこういうときどうするんだい?」
リリオは御者席から軽やかに飛び降りて、盗賊たちににこやかに笑いかけた。
それが降参の態度なのか何なのか、盗賊どもが対応に迷う間に、リリオは気負う様子もなくスラリと腰の剣を抜いた。
「辺境では、美男にして帰してやるのが作法です」
多分、ユーモアに富んだ言い回しなのだろう。つまるところ、見せしめに酷い目に合わせて叩き返す、というところかなあ、と思う。
はたして学のなさそうな盗賊どもに機知が理解できたかはともかく、剣を抜いたことで戦うことを選んだのだと理解したらしく、男たちは鼻で笑いながらリリオを囲もうとした。
男が五人で女を囲むというのは、どう考えても多勢に無勢という気がするが、私の方は高みの見物のつもりで御者席に腰を落ち着けた。
「おい、おい、黒い娘さんよ」
「なんです」
「あんたは加勢せんのかね」
お仲間だろうと責めるような目で見てくる老商人に、私は小首を傾げた。小娘を護衛に仕立てる人に言われたくはないが、しかしこの人もこの人にできるだけのことはしてくれたし、今もこうして案じてくれる善人であるし、責める気はない。確かに、仲間であり、若くもあり、手も空いている私が加勢しない方が責められてしかるべきだろう。
しかし。
「私、戦うの苦手なんですよ」
「だからってお前さん、」
「それに」
それに、だ。
私は実のところリリオが戦うところを一度も見たことがないので、どの程度実力があるのか確かめたいと前々から思っていたのだ。あんまり弱いようでは、旅の主とするには少々頼りないからね。
完全に腰を据えて見物する気の私に老商人はため息を吐いた。まあ心配する気はわかる。森を抜けてきたとはいえ、リリオは幼いと言っていい程に若い小娘で、ちびと言っていい程に小柄で、この世の酷さなど知らぬように爛漫だ。
けれど私の胸には一切の心配はなかった。
薄情な人間なのかもしれないけれど、冷たい人間なのかもしれないけれど、私の心はまるで動かない。
ああ、でも、確かに不安と言えば不安だ。
「無事で済むかなあ」
すっかり囲まれたリリオの姿は男たちの陰に隠れて見えづらい。
折れかけの剣を持った男がいやらしい笑みを浮かべながら、鉈でも振るうように剣を振り上げ、そして悲鳴とともに血の匂いがあたりにただよった。
老商人が目を見開き、私は溜息を吐く。
「程々にね、リリオ」
「ええ!」
たった今男の腕を切り飛ばした剣を軽く一振りして血を払い、元気よく答えるリリオに私は溜息をもう一つ。この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれますというテロップが一足遅れで脳裏を流れる。せめて吐き気がしても堪えられるようにとあらかじめ口元に手をやって、私は男たちを嬉々として刈り取り始めるリリオの暴力を眺めた。
心配などするはずもない。
パーティメンバーとして認識したリリオのステータス情報を確認した限りでは、そのレベルは三十八。
特に力強さの値は中堅並だ。この世界の平均など知りはしないけれど、それでも十把一絡げ、農民からジョブチェンジしたばかりの野盗なんぞが敵う相手ではなさそうだった。
用語解説
・《ウェストミンスターの目覚し時計》
睡眠状態を解除するアイテム。効果範囲内の全員に効果があり、また時刻を設定してアラーム代わりにも使用できた。
『リンゴンリンゴン、鐘が鳴る。寝ぼけ眼をこじ開けて、まどろむ空気を一払い、死体さえも目覚めだす』
・小鬼
小柄な魔獣。子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。
・ヴォースト
エージゲ子爵領ヴォースト。辺境領を除けば帝国最東端の街。大きな川が街の真ん中を流れており、工場地区が存在する。正式にはヴォースト・デ・ドラーコ。臥龍山脈から続くやや低めの山々がせりだしてきており、これを竜の尾、ヴォースト・デ・ドラーコと呼ぶ。この山を見上げるようにふもとにできた街なので慣習的にヴォーストと呼ばれ、いまや正式名となっている。
・エージゲ子爵領
エージゲ子爵の治める中領地。これといった特色のない田舎で、ここしばらくは大きな事件もなかったような土地柄。気候はやや寒冷だが、農地は多く収穫量は多い。
・霹靂猫魚
大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。
・亜麻仁油
アマ科の一年草の種子からとれる油。
・この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれます
お楽しみください。