異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ

前回のあらすじ
十四話目にしてようやく名前を名乗りあった主人公ズ。
これから説明回がガンガン増えそうな気配に怯える作者だった。



 境の森には三つの街道が通っている。どれもほどほどに整備され、馬車が行き交うだけの道幅はある。整備費も兼ねた通行税は課されるが、それも主な使用者である商人たちにとってはさほどのものでもないし、多少値が張ろうともわざわざ深い森の中に踏み入るよりは余程安全だし、早い。

 男もそうして真ん中に当たる二の街道を通って渡ったが、他の商人たちと違うのは、そのまま街道を進んでいかず、森を出たところで道をそれ、森沿いに少し南へと下って行ったのだった。別にそちらに何があるという訳でもない。だが男は(あきな)いで境の森を渡るときは必ずこの道を使っていた。

 というのは、何もないとはいえ、そこにはいちおう細道があるのだった。人の足で踏み固められた、馬車で通るには少し細い道だったが、男の馬車を引く甲馬(テストドチェヴァーロ)は若く創建で、この程度は悪路とも思わずのしのし進む。

 細道にたどり着くと、男は手綱を引いて細道を歩かせ始めた。この道は別に、近道という訳ではない。むしろ少し遠回りになる。だが別に急ぐ旅でもない。男は息子に店を手渡してすでに引退し、こうして若い頃のように旅商人をしているのは、商い先の情報を足で稼ぐという建前で、実際は半ば趣味のようなものでしかない。力は強いが歩みは早くない甲馬(テストドチェヴァーロ)を用いるのも、道理だ。

 男にとって生涯は旅だった。
 いつかどこかの町に定住し、自分の店を持ちたい。そんな夢を持って辛い旅商人を続けていたが、いざ店を構えるとなると途端に旅の空が恋しくてたまらなくなった。

 はじめこそ慣れない町暮らしに疲れているんだろうと笑っていたが、子供が独り立ちするころになると、また旅をしたいものだと再び思い始めた。
 息子が嫁を貰い、店を譲り渡して引退し、長らく助けてくれた妻が亡くなると、もういいかな、とそう思った。周りからは随分止められたが、旅暮らしが性だった。
 結局止められないとわかると、息子たちは馬車を用立て、送り出してくれた。いくつか仕事も頼まれ、商いの一環として送り出すのだと言われたが、それが建前であることはみんなわかっていた。

 いい息子を持った。それに、息子もいい嫁を貰ってくれた。

 男の趣味は旅をすること自体にもあったが、旅の中での出会いにもあった。町での暮らしも刺激はあるが、旅暮らしの刺激にはかなわない。街で顔を合わせるものは限られているが、旅の空には出会いが無数に転がっている。

 男がこの道を選ぶのも、それが理由だった。

 というのもこの道は、金がないとか、森を通り抜けられるだけの力量があるとか、森の中の素材を集めたいからとか、そういった理由で街道を使わずあえて森を抜ける旅人や冒険屋たちが使う道なのだった。こういった連中の話は、単調な日々を生きる町人よりも面白い。もちろん、ただで話を聞こうというのではない。森を抜けて疲れ切った旅人を馬車に載せてやり、ついでに害獣や野盗が出た時は、手を貸してもらう。その合間に、ちょっとばかり話を聞く。このような具合で、男はもう何年もこの道を使っていた。

 もちろん、いつもいつでも旅人が通るわけではない。寂しい旅路になるときもあるし、馬車に乗り切れない大所帯になるときもある。

 今回は、あたりだった。

 少し進んだあたりを、鞄を背負った小柄な人影が歩いている。珍しいことに、一人旅だ。いくら旅慣れていても、一人旅というのは、珍しい。それも年経た男ならこうして愛馬を頼りに旅をすることもあるが、成人したてそこそこの年若い娘が一人というのは、まず見ない。
 とはいえ、旅事情に首を突っ込むのは、野暮だ。

 男は馬車に気づいた娘が道の端に寄ったので、帽子を軽く上げて会釈した。

「おうい娘さん。森を通ってきなすったのかね」
「ええ、そうです。つい先ほどやっと出られたところで」
「それじゃあお疲れだろう。どうだね、狭い馬車だが乗ってくかね」
「え、いいんですか!?」
「いいとも、いいとも。幌があるから日除けにもなるし、楽にしなされ。儂も話し相手が欲しいしね。それにちょっと護衛の真似事もしてくれりゃ十分さ」

 訳を隠しても、いいことはない。男が素直にそう話すと、娘の方でも頷いて、話はついた。

 娘は馬車の後ろに回り込んで、幌付きの荷車に上がり込んで腰を下ろした。重たげな背負い鞄を下ろして、水筒の水をあおって、ぷはあと一息。見れば見るほど、とてもではないが森を抜けられるようには見えない、ほとんど子供のようななりだ。

「娘さん、ずいぶん若いねえ」
「この春、成人を迎えました」
「そりゃ本当に若い。よく森を抜けられたもんだ。大したもんだねえ」

 境の森の東側は、護りの川を隔てて辺境領とすぐ隣であるから、人々はみな創建で、恩恵も強い。そこからやってきたのだからこの娘も見た目より随分手練れなのだろう。

 男が感心したように頷くと、娘は照れたようにあどけない笑顔を見せた。

「いやあ、運が良かったんですよ。それに頼れる連れもいますから。ねえ、ウルウ」

 男がきょとんとして思わず振り向くと、娘が虚空に手を伸ばしている。

「ウルウがいなければ大変でしたからね。これもきっと境界の神プルプラの思し召しでしょう」

 もう、ウルウったら恥ずかしがり屋さんなんですからと虚空に話しかける娘の姿に、男は黙って前を向き直し、手綱を握った。

 かわいそうに。

 きっと森の中で仲間を失ったのだろう。大切な仲間の死を認められず、ああして心を壊してしまう者も時にはいるのだ。しかし、それがあのような年若い娘とは。神とはかくも残酷なことをなさるものか。

 男は名も知らぬ娘の仲間に黙祷を捧げ、とっておきの蜂蜜酒(メディトリンコ)を飲ませてやろうかと後ろの荷物入れに手を伸ばし、そして娘の隣にひょろりと長い体を縮めるように座り込んだ影に初めて気づいた。

 なんだこりゃあ、とぼんやり眺めると、そいつは頭巾の下から生気のうかがえない目でじっとりと見返してくるではないか。

 男は荷物入れの中から蜂蜜酒(メディトリンコ)の瓶を取り出して、黙って前を向いて手綱を取った。瓶の栓を抜き、ごくりと呷る。黄金色の酒精が流れ込み、爽やかな甘さと酒精の辛さ、それに香草のぴりりとした香りが広がった。

 かわいそうに。

 きっと森で死んだ仲間が亡霊(ファントーモ)幽鬼(デモーノ)になって憑いてきてしまったのだろう。もしくは旅で疲れてこの儂にも幻が見えるようになったのか。男はこの懊悩(おうのう)蜂蜜酒(メディトリンコ)でさっぱり洗い流した。いるものはいる。見えるものは見える。昨日のことは考えない。深く考えない方がいいこともある。念仏のように商売哲学を諳んじて、男は何の不審も見なかったということにした。

 後ろから聞こえてくるきゃいきゃいと楽しげな娘の話し声と、それに一切返すことのない、返したとしても枯れ木に風の通るような聞こえるとも聞こえないとも言えない囁き声を、男は熱心に女同士の姦しい会話という風に意識した。


             ‡             ‡


 宿場とやらまでどのくらいなのかと尋ねると、事前に聞いた話では二里くらいだと返ってきた。
 一里はどれくらいだと聞くと、半(とき)歩いたくらいですかねと返ってくる。

 では半刻とはどれくらいかと首を傾げれば、日が出て沈むまでが六刻なので、その十二分の一が半刻だという。どうやら不定時法を採用しているようだ。

 そうなると正確ではなくなるが、まあ大体半刻で一時間くらいとみて、二里ということは半刻が二回で一刻、つまり二時間くらいということになる。人間の歩く速度は大体時速四キロメートルかそこらと本で読んだことがあるから、一里というのはその位と考えていいだろう。
 まあそれもこの世界の一日が二十四時間と仮定した場合だが、体感ではもう少し長そうな気もする。とはいえ比べる方法がないので詳細はわからないが。

 まあざっくり二時間くらいと考えると、森の中での道行きを考えると一度休憩をはさんで宿場とやらに到着することになるだろうか。森の中はなんだかんだ見るものがあったのでそこまで飽きなかったが、こうも何もない野原を二時間も歩くというのは現代人にはいささか厳しいものがあった。情報過多時代に生きていた身としては、こうも情報が少ないとかえって落ち着かない。

 リリオの方は気にした様子もなく元気な足取りだし、私に話しかけてくる分にはいくらでも話題がありそうだが、あいにくこちらには話題もなければ受け答えのセンスもないし、それ以上にそんな若さについていけるだけのエネルギーもありはしない。

 以前は歩きスマホするだけの元気もなかったが、こうなってくると何か見るもの読むものが欲しい。町中をスマホ見ながら危なげに歩く若者たちをゾンビかよと笑っていたが、彼らは情報に飢えていたんだな。現代病だよ、あれは。

 仕方なしに、少し前を行くリリオの白いポニーテールが歩みに合わせてぴょこぴょこ動くのを眺めてみたが、別段面白くもない。おもむろにつかんでみたら面白い反応でもしてくれそうではあるが、さすがにそんな子供っぽいことをする気はない。する気力もない。こちとら人間性を捧げて会社に出勤していた生体由来ロボット(型落ち)なのだ。正直歩いているだけで刻一刻とエネルギーが漏れ出している気がする。

 そんなことを考えていると、後ろから何かどすどす言う重たい音と、車輪の音が聞こえる。

 振り向けば、馬車らしきものが近づいていた。リリオがちょっとどいて道を開けるので私もそうすると、御者席に座った気のよさそうな老人が、麦藁帽を軽く持ち上げてにこやかに挨拶してくる。

「おうい娘さん。森を通ってきなすったのかね」
「ええ、そうです。つい先ほどやっと出られたところで」
「それじゃあお疲れだろう。どうだね、狭い馬車だが乗ってくかね」
「え、いいんですか!?」
「いいとも、いいとも。幌があるから日除けにもなるし、楽にしなされ。儂も話し相手が欲しいしね。それにちょっと護衛の真似事もしてくれりゃ十分さ」

 普通の会話にちょっと感動した。
 すごいな。私には無理だ。どれだけ疲れていても、え、いいです、遠慮しますと答える気がする。まず話しかけられた時点で警戒心バリバリの目で見て怯ませる気がする。だって人間と話すとか疲れるし、あいつら何で怒って何で笑うかよくわかんないから怖いじゃないか。

 リリオが喜んで馬車らしきものの後ろに回ってよいしょと乗り込むので、よじ登るそのおしりを押し上げて手伝ってやり、私もひょいと乗り込む。

 馬車らしきものが動き出すと、ごとごととした揺れが直に尻に突き上げてくる。サスペンションとかついてないんだろうな。よく異世界転生ものとかで訳知り顔に馬車は尻が痛くなるとか乗ったこともないだろうに書いていたのはこういうことなんだなとなんとなく感心しながら揺れに身を任せる。

 リリオにとってもこの揺れは一般的な物らしく、鞄を下ろして水筒の水など飲みながら一息ついている。私の方は特に疲れも感じていないし喉も乾いていないから、まったく便利な体だ。

「娘さん、ずいぶん若いねえ」
「この春、成人を迎えました」
「そりゃ本当に若い。よく森を抜けられたもんだ。大したもんだねえ」

 リリオと老人の会話を聞いて、この世界の成人事情というものを何となく知った。リリオが、まあ西洋人顔でなんとなく幼いなということしかわからないが、十代前半あたりとみて間違いないだろう。その位で成人を迎えるというのは、文明程度が低くて平均寿命が短い時代ならありがちなんじゃなかろうか。もしくは早熟なのかもしれないが。

「いやあ、運が良かったんですよ。それに頼れる連れもいますから。ねえ、ウルウ」

 急に話しかけられてぎょっとした。

「ウルウがいなければ大変でしたからね。これもきっと境界の神プルプラの思し召しでしょう」

 やめろ馬鹿と小突くと、もう、ウルウったら恥ずかしがり屋さんなんですからなどと言われて頭痛がした。声を出し慣れていないので大声で怒鳴らずに済んだのは良かったと言えば良かった。

 私は背を折って顔を寄せ、久しぶり過ぎて咳をしてから、生返事などではなくまともに声を出した。

「私の姿は、いま君にしか見えてないってこと忘れてるんじゃないのか」
「あ、そうでした」

 あっけらかんとしたものである。そりゃあこの娘には私の姿は見えているのだが、見えているといっても半透明に透けて見えているらしいし、それがまともじゃないってことは馬鹿でもわかることだろう。

 ところがこの小娘は生半可な馬鹿ではなかった。

「ウルウが美人さんなので忘れてました」
「死ねばいいのに」
「何故にっ!?」
「馬鹿は死ななきゃ治らないらしいし」
「死んだらお話しできないですよう!」
「そりゃあ静かでいいや」
「ウルウのいけず!」
「誰が行かず後家だ」
「言ってないです言ってないですいったたたたたたたったったったやめっとめっあばばば」

 うるさいのでアイアンクローかましてやったら余計うるさい。

 これでも《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》内では力強さ(ストレングス)の数値はかなり低めの方だったのだが、それでも一応最大レベルともあって、平然と自然破壊をこなす石頭でもきしませることくらいはできるようだ。それでもこっちの指が疲れるくらいだから相当な石頭だが。

 適当な所で放してやれば、即座に涙目で何するんですかもうと唇を尖らせるくらいだから、実際大したダメージではないようだ。どんだけ硬いんだこいつ。

 まあ適当に遊んだところで、《隠蓑(クローキング)》を解除してやる。
 別にこいつがはしゃいで暴れて、イマジナリーフレンドとお喋りする可哀そうな子として憐れみを持って見られたところで私は痛くも痒くもないのだが、それで旅に支障が出ても面白くないし、私も気疲れしそうなので、姿を見せる必要があるときは仕方がないがプレイスタイルの封印も考えなければ。

 振り返った老人が私の姿にぎょっとして、頭を振りながら顔を背けてしまったが、まあ、いいや。老年性痴呆症か老眼か目の錯覚かその他諸々かのせいにしてもらおう。見てみれば酒も入ったようだし、アルコールのせいにしてもいい。というかこんな真昼間から飲むのか。飲酒運転して大丈夫か。ハラハラしてその背中を見守るが、この程度の飲酒では酔いはしないのか、見ている限りはピンシャンしている。

「何か面白いものでもありました?」

 君のおつむの悪さは面白いと言えば面白い、とはさすがに言わないが、先程から疑問に思っていたことは聞いておこう。

()()って普通なの?」
「あれ?」

 小首を傾げるリリオに、馬車()()()()()を牽く生き物を指さす。

()()()()が車を引くのって、こっちじゃ普通なの?」
「ああ、甲馬(テストドチェヴァーロ)ですね。北の方では珍しいといえば珍しいですけど、力が強いので荷牽きとか、馬車とかにはよく使われてますよ」

 見たことないですかと言われても、見上げるような巨体のリクガメなんてものはさすがにお目にかかったことがない。
 意外と軽快にのっしのっしと歩いていく大亀は、まあ馬の早駆けとかと比べるとゆっくりはゆっくりなのだろうけれど、一歩一歩が大きく力強いから、人の足で歩くよりは随分早いだろうし、何より安定している。

 というか亀が牽いているのに馬車なのか。と首をかしげると、リリオの方も不思議そうに小首を傾げる。

「亀じゃなくて馬ですよ」
「……馬かー」
「馬ですねー」

 多分、異世界言語翻訳的には、騎乗できる動物の類は全部馬扱いされているんだろう。

 なんで異世界系では馬車を牽くのが爬虫類だったり鳥類だったり、素直に馬じゃないのが多いんだろうなあ。まあ異世界っていう雰囲気がすぐに出るからなんだろうけど、馬でさえ餌やら水やら糞やら大変なのに、爬虫類とか鳥類とかもっと面倒くさい気がするんだよなあ。もしくは絵になった時に、馬はある程度リアルじゃないと突っ込まれ放題なんだろうけど、最初から架空の生き物にしておけば多少変な所があっても突っ込まれづらいのかなあ。

 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、宿場とやらが見えてくるのだった。





用語解説

甲馬(テストドチェヴァーロ)
 甲羅を持った大型の馬。草食。大食漢ではあるがその分耐久力に長け、長期間の活動に耐える。馬の中では鈍足の方ではあるが、それでも最大速力で走れば人間ではまず追いつけない。長距離の旅や、大荷物を牽く時などには重宝される。性格も穏やかで扱いやすい個体が多い。寿命も長く、年経た個体は賢く、長年の経験で御者を助けることも多い。

蜂蜜酒(メディトリンコ)
 蜂蜜を水で割り、発酵させた酒類。ここでは保存性、香りづけ、また薬効を高めるために種々の香草を加えたものを言い、栄養価も高いことから医師の飲み物、メディトリンコと呼ばれている。その効能と安価なことから民衆にも親しまれている。ただし寒冷な地域では蜂が少ない、またはいないため、北東部にあたる辺境領では高値で売れる。

幽鬼(デモーノ)
 亡霊(ファントーモ)と同じく、死んだ者が現れいでるものとされる。その中でも特に悪さをするもの、悪質なものを言う。

前回のあらすじ
運よく馬車に乗せてもらい、宿場へとたどり着いた閠とリリオ。
一向に話は進まないがそもそもそういうお話ではないのでそのあたりは期待しないように。



 宿場というのは、まあそんなに大した規模のものでもなかった。

 私たちの通ってきた細い道が太い街道と合流し、そこから少し進んだ先にその宿場はあったのだけれど、ようは街道沿いに何軒か、木と石でできた建物が並んでいるといった程度のものだった。それでもまあ、暗くなってきたころに人家の明かりが見えるというのは何となくほっとするものではある。

 建物の種類は本当に少なく、いくらか立派に見えるのが問屋(とんや)という宿場の管理施設で、いくらかぼろいが大きさはあるのが木賃宿(きちんやど)。それより少し立派なのが旅籠(はたご)。いまはもう閉まっているけれど、簡単な商店と茶屋が一軒ずつ。

 それからこれは目を引いたのだが、厩舎には驚かされた。

 日本でいう江戸時代の宿場では疲れた馬を交換したりできるようになっていたそうだが、この世界の宿場でもそのようなシステムを取っているようで、下手をすると人間の使う木賃宿よりよほど立派な厩舎があった。
 あったのだが、どうも私の想像した厩舎とは違った。いや、想像してしかるべきだったとは思うのだが。

「………馬?」
「馬ですねえ」

 一応リリオに尋ねてみたけれど、この世界ではこれが常識らしい。

 甲馬(テストゥドセヴァーロ)とかいうのはこの辺りでは珍しいらしく替え馬はいなかったが、それ以外に珍妙な動物がゴロゴロといた。万国ビックリ動物ショーといった感じだ。
 でかい鳥やら蜥蜴やら虫やら、どれもこれも馬扱いらしい。端っこの方でどうやらまともな馬を見つけてほっとしてしまったくらいだ。これも馬に似ているだけで私の知っている馬ではないのかもしれないが、それを言ったらリリオだって見た目は人間だけれど根本的に霊長類とは構造が違うのかもしれない。

 馬車に載せてくれた老人は厩舎に馬を預けて、今晩は旅籠に泊まるという。明日の朝に出発するので、都合が良ければ乗っていくかねと言ってくれた。リリオが伺うように見上げてくるので好きにしろと頷くと、喜んでと翌日の護衛任務を受けていた。
 尻が痛くなるとは言え歩くよりは早い足が手に入るのはいいことだし、お喋りの好きなリリオとしては物知りな旅商人との会話は楽しいのだろう。

 旅籠に向かう老人と別れて、リリオはまっすぐに木賃宿へ向かった。

 旅籠と木賃宿と何が違うかと言えば、ありていに言ってグレードが違うらしい。

 まず旅籠の方が上等で、食事も出る。個室には鍵もかかるし、安全面でも上だ。一方で木賃宿は金のない旅人向けの宿で、食事は出ないが竈などは貸してもらえて自炊はできる。鍵のかかる部屋などはなく、場合によっては雑魚寝も普通だという。

 リリオはどうにも金持ちのようには見えなかったし、私もこの世界の金の持ち合わせはない。女二人旅でちょっと無防備すぎるのではないかとも思うが、リリオはあれで大荷物を背負って歩きまわってもけろりとしているくらい頑健だし、私も大概の相手に後れを取るような体ではないらしい。旅籠の食事も気にはなるが、ここは旅の主体であるリリオに合わせよう。

 勝手を借りてリリオがビスケットを砕いて干し肉と煮た簡単な粥のようなものを拵えてくれ、二人でもそもそと食べ終えるまではまあこんなものかと思っていた。森の中より食事のグレードが下がった気はするが、獲物が獲れた森の中と携行食しかないここでは食事の質も変わって当然だろう。もともとブロックタイプの栄養食品で食事を済ませていた私だ。温かいだけマシとも感じる。

 問題は、客が少ないから空いていると通された二人部屋であった。

 運が良かったですねと喜んでいるリリオに対して私はカルチャーショックに打ちのめされていた。

 そりゃあ、ホテルのスイートルームを想像するほど馬鹿ではない。ビジネスホテルの狭い一室でもまだ豪華だろうなとは思う。しかしこれはあんまりだった。

 鍵もかからないどころかしっかり閉まりもしないずさんな扉に、隙間風が堂々通り抜ける寸法のあっていない突き上げ窓。寝台は脚の着いたただの板切れに、使い古されてほとんど死にかけた()えた匂いのする寝藁。土足で出入りする文化圏だからなのか土埃にまみれた床。鼠か何かの糞。蜘蛛の巣。

 あ、だめだ、思考が考えるのを拒み始めた。

 これは安い木賃宿としては割と平均的な代物らしく、リリオは気にした様子もなく荷物を下ろし、寝台に腰を下ろし、じゃあ今日はもうやることもないですし寝ましょうかという。
 じゃあそうしようかというのは無理だった。私には無理だった。いくらメンタルがアンデッドに片足を踏み込んでいる私とはいえ、曲がりなりにも現代社会のやや陰りの見える先進国家で清潔な生活を送ってきた身としては、これは耐えられなかった。

「お湯」
「はい?」
「お湯借りてきて」
「え?」
「追加料金でお湯借りれるんでしょ。借りてきて」

 愛想の悪い木賃宿の主は、そのように説明していたはずだった。

「えーと、でもその、路銀にあまり余裕がですね」
「払う」
「え」

 私は腰のポーチに手を突っ込んでインベントリを開き、無造作にゲーム内通貨であったコインを何枚か取り出してリリオに握らせた。

「私の我儘だから、私が払う」
「いや、でも、こんな」
「この国の通貨じゃないから使えるかわからないけど、鋳つぶせば金としては売れるでしょ」
「き、金!?」
「それに」

 うろたえるリリオを無視して、私は喫緊の大問題を前にして、リリオの頭に顔を寄せた。それから肩口。胸元。やはりだ。

「くさい」
「え」
「一緒に旅する以上、君が臭いのは受け入れられない」
「は、はいっ!」

 自分でもぞっとするほど冷たい声で宣言すれば、リリオは大慌てで部屋を出ていった。

 私は鼻に残った匂いを吐き出すように大きく深呼吸する。
 酸化した皮脂の匂い。疲労がたまっているせいかアンモニア臭もする。汗臭さにこもったような腐敗臭。いろいろ混ざり合って悪臭の域だ。いままでは風の通る野外だったし、言うほど余裕があったわけでもないから気にはしなかったが、同じ部屋で距離も近くなればさすがに気になる。部屋自体の饐えた匂いも気に入らない。

 旅人としては仕方がないことなのだろうと頭では理解する。しかし生理的嫌悪はどうしようもないし、衛生的でないということはそれだけ病気などの危険も増える。

 私はマントを脱いで手甲や邪魔な装備を外してインベントリに突っ込み、ブラウスにパンツだけの身軽な服装になって袖をまくり上げ、代わりに使えそうな道具を見繕って引っ張り出す。適当な紐で髪を括り、さあ準備はできた。リリオが湯を沸かして戻ってくるまでそれなりにかかるだろう。となれば、じっとしていても腹立たしいだけだ。

「せめて、寝られるくらいの環境にはしないとな」

 掃除を、開始しよう。


 リリオがお湯の入ったたらいを抱えて戻ってきた時には、部屋はそれなりに見れる状況にはなっていた。本来一定距離に散らばったアイテムをいちいち拾い集めないでも一度に回収する効果のある《無精者の箒》で埃を払い、寝台のゴミ同然の寝藁とまとめて《麻袋》に放り込む。液体系のアイテムを回収するための容器である《ブリキバケツ》に《蒸留水》を惜しげなくぶち込み、売る予定で持っていた《布の服+28》を雑巾代わりにして磨き上げ、仕上げに《魔除けのポプリ》を何か所かに放り投げて匂いも対策。

 まあ及第点かなというあたりで帰ってきたリリオは、扉を押し開けるなり呆然と部屋の変わりようを見ていたが、綺麗になる分には構わないだろう。文句は言わせない。

 おずおずと入ってきてたらいを置くリリオ。お湯は、まあ、うん、少し熱いくらい。ちょうどいいだろう。

 何か言おうとするリリオを無視して、ドアをしっかりと閉めて、ナイフでくさびを打って開かないようにする。客も少ないし気にするほどではないだろうが、のぞかれてはかわいそうだ。

「あ、あの?」
「脱いで」
「あのー!?」

 面倒くさいので無理やり脱がそうかとも思ったが、革鎧の外し方なんて知らないし、この世界の服のつくりもよく知らない。

「綺麗にするから、早く、脱いで」
「いや別にそんなに言うほど」
「くさい」
「ぐへぇ」
「私は旅の連れが臭くて汚いなんて耐えられない。最低限衛生的でいてほしい」
「ふ、普通だと思うんですけど」
「君が()()であるならば、君が()()であるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない」
「いいセリフをこんなところでっ!?」

 ええい面倒くさい。自分で脱ぐか無理やり剥かれるか選べと迫れば、少し迷った末に自発的に脱いでくれた。助かる。脱がせ方がわからないので破るほかになかった。まあこれでこの世界の鎧と服の脱ぎ方はわかったから次回からは無理やりでもいいだろう。

 キャミソールとズロースのような下着姿になったリリオは、小柄さも相まって完全にお子様だった。この格好で庭とか駆けまわっててもおかしくないレベルのお子様だった。どこがとは言わないがかわいそうなくらいお子様だった。今後の成長を祈ってやろう。

 ともあれ、恥じらうように目を伏せるリリオの乙女心を完全に無視してそのキャミソールとズロースもまとめてひん剥き、たらいに放り込む。《暗殺者(アサシン)》系統の素早さ(アジリティ)をなめるなよ。

「はわわー!?」

 ここまで愛らしさのない必死な「はわわ」は初めて聞いた。
 混乱して、ない胸を隠すリリオを無視して、まず髪留めをほどいて外すと、いやあ、これがまたひどい。ポニーテールにした跡がくっきりと髪に残っているのみならず、皮脂と埃によって髪がガッチガチに固まっていてぼさぼさだ。ほどいたせいでもわっと臭ってくる。手櫛で梳いてやったら形容しがたい何かが指に纏わりつきそうだ。

 シャンプーやらリンスやらがこの世界にあるとは思えないが、石鹸くらいはないだろうか。メソポタミア文明の頃にはすでに発見されてたし、古代ローマでは塩析も行われたたし、中世以前から生産は割と大規模に行われていたはずだ。この世界の文化程度はいまだによくわからないが、宿場などの制度などからしてもそれなりに安定して発達しているようだし、ファンタジー世界だから何もかも程度が低いなどという考え方は阿呆だろう。

 試しに石鹸は持っていないのかと聞いてみたところ、あるという。荷物をあさってみれば、木箱に納められた固形石鹸があった。一応きちんとした石鹸のようだ。
 あまり使用形跡がないので聞いてみたところ、極端に高いわけではないものの、路銀を節約したい中ではそうそう気楽にも使えなかったらしく、石鹸に金をかけるなら装備や食事に金をかけたかったという。それにまた、余り身ぎれいにしていると女の一人旅では目を付けられるかもしれないことを恐れた、とこれは納得できる理由もあった。

 しかしそれはそれ、これはこれだ。石鹸代ぐらいなら出してやる。女二人旅でしかもレベル上限にある私が一緒なら目をつけられたところで痛くもかゆくもない。

 私は問答無用で盛大に石鹸を泡立て、頭の先から足の先まで徹底的に磨き上げることにした。

 最初の内はあまりにも汚れがひどくて石鹸がなかなか泡立たず、湯が真っ黒に染まるほどだったが、二度ほど湯を貰い直して、何とかまともに泡立つようになった。その間にリリオも洗われるのに慣れてきたようで、目をつぶって心地よさそうに身を任せてくるようになった。たらいにぺったりと腰を下ろして大人しくしてくれるのは洗う側としては恥ずかしがって暴れられるよりありがたい。ありがたくはあるが、胸やら足の間やらまで洗われても気にしないのはどうなんだ君。この世界では成人とはいえやはり子供は子供なんだろうなあ。大型犬でも洗っているような気持ちで無心で黙々と洗ううちに、泡も真っ白、湯のにごりもほとんどなくなった。湯をかけてやれば見違えるほどきれいになった、と思う。

 しかしさて、ここまでやってはいおしまいでは片手落ちな気もする。

 この石鹸、確かに十分な洗浄力はあるのだけれど、もろにアルカリ性なのだ。皮膚が溶ける、というほど強いものではないが、髪が痛むのは間違いない。となれば酸性に傾けてやらなければならない。確かリンスももともとはクエン酸水溶液あたりだったか。

 私はインベントリを開いて《目覚まし檸檬(れもん)》を取り出してお湯にいくらか絞り出す。これは状態異常の一種である睡眠状態を治す回復アイテムなのだが、檸檬というからには柑橘系、酸性だろう。これをお湯に溶いて、丁寧に髪に馴染ませるようにくしけずってやる。

 一応効果はあったようで、ややきしきしとしていた髪質もしっとりと落ち着いたし、檸檬のさっぱりとした香りもきつすぎず、程よい香りづけになっている。たらいから出たリリオを《セコンド・タオル》で拭いてやり、替えの下着を身に着けている間に髪の水気を取ってやる。

 そうして改めて見下ろしてみれば、我ながら良い仕事だ、と胸を張れる仕上がりだった。元々白い肌は磨き上げたおかげかつやつやと輝いて見えるしこれはもう若さってすごいなと本気でへこみそうになるレベルだ。このつやつや皮脂のおかげなんだよな。若いうちはうっとうしく思える皮脂も、年取ってくると外部から補填してやらなきゃすーぐカサカサになるんだよ。いいよな。若さ。

 いまこうして水気を取ってやっている髪も、荒れていた時は単に白い髪としか思わなかったけれど、しっかりケアしてやると、象牙のような少しクリーム色がかった柔らかな白で、また透明感があるので平坦ではなく奥行がある。適当に束ねてタオルで丸めてやって、さあ仕上がりだ。

 いやー、いい仕事をした。そう満足感に浸っていると、がっしりと肩を掴まれた。

「うん?」
「綺麗になりました?」
「ああ、なったよ」
「じゃあ次はウルウの番です」
「………フムン?」
「ウルウだって森の中歩いてきたんだから汚れてるはずです!」

 いや、そうかなあ。

 何しろこの体はゲームキャラクターのものだ。走っても汗一つかかないような。そりゃ多少埃とかはついたかもしれないけど、そもそも新陳代謝するんだろうかこの体。食事もできて排泄もしたということはある程度人体に即した働きを、あ、だめだ、考えちゃダメな奴だこれ。

 しかし時すでに遅く、私の認識は私の体に作用し始めたようだった。やり切ったという満足感は、体を動かして上がった体温にこたえるように額に汗をかき始めていた。当然服の内側はもっとだろう。
 面倒な、と思っていると、リリオが肩を掴んだまま胸元に顔を突っ込んでくる。驚いている間に鼻先を服の合わせ目に突っ込んでくる。

「すー………」
「……おい?」
「くふー……」
「……おいってば?」
「ウルウの匂いがします!」

 盛大に平手を張った私は悪くないと思う。





用語解説

・宿場
 街道沿いに設置された駅逓事務を取り扱うための町場。
 馬の引継ぎをはじめ、郵便の取り扱い、宿泊施設、また簡単な商いなどを行う。

・《無精者の箒》
 ゲームアイテム。《エンズビル・オンライン》では敵を倒すと確率でアイテムをドロップするが、いちいちそれを拾い集めなければならなかった。このアイテムは使用することで一定範囲のアイテムを自動で回収してくれる便利なもので、同様のアイテムが多く存在した。
『いくらいい道具をやったところで、倉庫の肥やしになるばかり。部屋を綺麗にしたけりゃあ、まずは部屋の主を追い出すべきだな』

・《麻袋》
 ただの麻袋ではあるが一応ゲームアイテム。アイテムには同じ種類のものならばまとめることができる「スタック」という機能があるが、一部のアイテムにはこのスタック機能がなく、インベントリ内がごちゃつくという問題があった。この《麻袋》は内部に一定量のアイテムをまとめて放り込むことができ、インベントリ内の整理に役立った。とはいえ、どの麻袋に何を入れたか忘れるという更なる悲劇の引き金にもなったが。
『麻袋ほど簡素で、そして使い道の多い道具もそうはあるまい。取り敢えずはそいつの頭にかぶせて、馬に牽かせて市中を引きずり回せ』

・《ブリキバケツ》
 ゲームアイテム。アイテムには専用の容器がなければ回収できない液体系のアイテムが存在する。例えばジュースや薬品などは瓶がなければ持ち運びできない。この《ブリキバケツ》はその液体系アイテム大量に持ち運べてかつ安価ということでしばしば素材採集に使われた。
『寄ってらっしゃい見てらっしゃい。舶来仕込みのこのバケツ、丈夫なことはこの上ない! 何しろ溶岩だって汲めちまう! 持ってるあんたが耐えられればね!』

・《蒸留水》
 製薬や、一部アイテムと組み合わせて使用したりする清潔な水。これ自体には回復効果などは全くない。
『おお、このように透き通った美しい水が他にあろうか! まあ尤、水清いせいで魚が死んだのは予想外だったが』

・《布の服+28》
 装備品は鍛冶屋や特殊なアイテムで強化することで攻撃力や防御力を上げることができる。とはいえ元の性能が低ければいくら強化しても大したことはない。この《布の服+28》はまさしくそんな大したことがない存在の筆頭だろう。初期装備である《布の服》をなぜこんなレベルにまで強化したのかは不明である。
『なに、もっと安くしろだって? 馬鹿言うねえ、世の中布の服とヒノキの棒でドラゴンをぶちのめす猛者だっているんだぜ』

・《魔除けのポプリ》
 ゲームアイテム。使用することで一定時間低レベルのモンスターが寄ってこないようにする効果がある。
『魔女の作るポプリは評判がいい。何しろ文句が出たためしがない。効果がなかった時には、魔物に食われて帰ってこないからな』

・《目覚まし檸檬》
 ゲームアイテム。状態異常の一つである睡眠状態を解除できる回復アイテム。寝ている状態でどうやって食べるのか、寝ている相手にどうやって食べさせるのか、そのあたりは不明だが、深い眠りでも瞬時に目覚めるあたり相当酸っぱいらしい。
『最近眠くて仕方がないって? それじゃあこの檸檬を試してごらん。どんな眠気も一発で………ありゃま、気絶には効かねえんだよなあ』

・《セコンド・タオル》
 ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』
前回のあらすじ
洗っていない犬の匂いがする(柔らかい表現)リリオを丸洗いし、その上平手打ちした閠。
事案である。



 昨夜は酷い目に遭いました。

 全裸にひん剥かれた挙句に全身をまさぐられて、最後は気持ちよくなってしまうなんて。

 いやーしかし久しぶりにさっぱりしました。旅してる間はそんな余裕なかったので気にしていませんでしたけれど、やっぱり体を清潔に保つのは大事です。これだけで体が軽くなった気さえします。替えの下着に着替えた時点でもう無敵になった気分です。

 あ、でもやっぱり駄目です。

 お陰様で自分の匂いに麻痺していた鼻も回復したらしく、もう服着れません。臭いです。ものすごく臭いです。具体的には汗と垢と血と脂と土とその他得体の知れない匂いがします。ぺっとりしてます。一度脱いだらもう駄目な奴でした。

 仕方がないのでウルウが身体を拭っている姿を下着姿でぼんやり眺めていましたが、ウルウはずるいです。私のこと丸洗いしたんですから私にもさせてくれればいいのに、不器用そうだから嫌だと拒否されました。心外です。こう見えても私、牧羊犬の仔犬のお風呂手伝ったこともあるんですよ。最終的に親犬にまとめて洗われてましたけど。はい。わかってます。諦めます。

 でもでもそれだけでなくずるいです。

 私は恩恵によって見た目より力があるとはいえ、鍛えている分やっぱり筋肉がついているんですよ。ちょっと力入れたらむきっとしますからね、これでも。だから胸に脂肪がいかないのは仕方がないんです。

 だというのに、ウルウときたら全然筋肉ないんです。むしろちょっと痩せ気味なくらいで、そのくせ私より胸はあるんです。ごつごつしてないで、でも張りはあって、そんな体なのに熊木菟(ウルソストリゴ)をあっさり倒してみたり、平然と持ち上げてみたり、世の中不平等です。さっき喰らった平手打ちなんか首が飛ぶかと思ったのに。

 さらにさらにずるいです。

 ふわっふわの毛巾で体を拭って、長い黒髪の水気を絞って、《自在蔵(ポスタープロ)》の中から着替えを取り出すと、下着もつけずに着こんでしまったのです。聞けば寝るときは下着はつけないという何とも言えない主張でしたけど、まあ百歩譲ってそれはいいとして、着替えがあるのはずるいです。

 私も持っているには持っていますけど一着だけですしそれにしたって似たような汚れ具合ですし、こんなに綺麗さっぱりになったのに改めて着るのは辛すぎます。残り湯で洗うことも考えましたけれど絶対明日の朝までには乾きません。

 こうなれば下着一丁で旅に出る覚悟を決めるべきでしょうか。初夏ですし風邪もひかないでしょうから、恥を覚悟しさえすれば。

 というようなことを言ってみたら、そんなことしたら私は絶対に姿を現さないし他人のふりをすると断固拒否されました。それでもお別れだとは言わないあたりウルウは優しいですけれど、でも困りました。

 私がうんうんうなっていると、ウルウはものすごく面倒くさそうな顔で《自在蔵(ポスタープロ)》をあさって、なんだかよくわからないものを取り出しました。

 しいて言うならば、ぬめぬめとしめった赤い生肉の塊でした。

 しかもこのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊は、ウルウの手の中でびくびくぐねぐねびちびち動いてます。
 できるだけ体から遠ざけるように手を精一杯伸ばしてこのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を持つウルウに、そのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊は何なのですかと聞いてみると、アカナメの舌だと言います。なるほど舌と言えば舌っぽいです。牛などの舌はこんな感じです。でもさすがに引っこ抜かれた状態でびくびくぐねぐねびちびちようごめくぬめぬめとしめった赤い生肉の塊にお目にかかるのは初めてです。

 ウルウがそのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を持つよりも余程嫌そうに私の服をつまむと、なんとおもむろにそのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊をおしつけるではありませんか。ぬちゃぐちゃぞりぞりれろぬろぐりぬちゃじゅるりじゅぞばばばぬるろろろとしめった音とともに、ウルウの手の中のぬめぬめとしめった赤い生肉の塊が私の装備の上で踊り狂うようにのたうち回り、嘗め回していきます。

 この名状しがたき悍ましい光景を目の当たりにして悲鳴を上げなかった私を褒めてもらいたいところですが、正直なところ声にならぬ声しか出てこないほどの衝撃にかたまっていただけでした。

 しばらくそうしてぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を私の装備に押し付けて全体を嘗め回させた後、いまだに元気よくびちびちぐねぐねびちびちとうごめくこのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を《自在蔵(ポスタープロ)》にしまい込んで、何事もなかったかのようにウルウは装備一式を毛巾で拭って私に寄越しました。

 涎まみれにされたように思った私の装備はむしろ綺麗に磨き上げられ、よくよく丁寧に洗い上げられたように新品同然の状態で帰ってきました。恐る恐る鼻を近づけて匂いを嗅いでみましたが、想像していたようないやらしく悍ましい匂いもなく、革の匂いと布の匂いがするばかりでした。

「アカナメの舌は」

 呆然としている私に、ウルウは努めて何も考えないようにしているような遠い目で、あのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊について説明してくれました。

「本来装備品の耐久値が下がったり、特定のモブから受ける状態異常である泥濘(でいねい)や汚損を回復するためのアイテム。簡単に言えば汚れを綺麗にしてくれる」

 意味はよく分かりませんでしたが便利そうではあります。

「なんで切り取った後も動いてるのか、舐めとった汚れがどこに行くのかは私も知らない」

 意味はよく分かりませんでしたがかなり怖そうなことを言っている気がします。

 とにかく汚れを綺麗にしてくれる道具で、私の装備もそのおかげで綺麗になったということがわかれば十分です。深く考えると着づらくなります。

「ところで、こんなに便利ならどうして体の汚れを取るのにつかわなかったんですか?」
「生理的に嫌」

 これ以上ない程説得力のある顔と言葉でした。私も幾ら節約になるとはいえ、あれで体中舐めまわされるのは御免被りたいです。

 それはそれとしてこれを着て寝るのは少し怖いものがあるなあとぼんやり思っていると、風邪をひくからとウルウがおそろいの寝巻を貸してくれました。恐ろしく着心地がいいです。こんばっとじゃーじというそうです。恐ろしく縫製もいいですし、きっと高価な物でしょう。

 えらく潔癖だったり、きっとウルウってかなりいいところの育ちなのでしょうね。私も実はいいところの育ちだったりするのですが、ウルウに関してはとても良い教育を受けていそうです。世間知らずっぽいですし、箱入りっぽいですし、手なんかすべすべで水仕事なんてしたことなさそうですし。

 肉体的ではなく精神的に疲れた気分で、じゃあもう寝ましょうかと言うと、まだだ、とウルウに止められます。今度は何でしょう。

「歯」
「は?」
「歯を磨かないと」

 うん。確かに歯磨きは大事です。
 ものの本にも、朝夕歯を磨けば虫歯にならないとも言いますし、歯磨きは大事です。でももう眠いですし疲れましたし今日はいいじゃないですかと言えば、またあの怖い顔でじっと見てきます。

「うう……わかりましたよう」

 私は諦めて鞄から歯刷子を取り出しました。細い柄の先に毛を植えたこの手の歯刷子が出てきたのはここ最近のことで、これも結構いい品物なんですけど、ウルウは特に気にした様子もありません。やはりいいところのお嬢さんで、この手の品は珍しくもないのでしょうか。と思っていたらウルウが取り出した歯刷子のほうが余程上等です。思わずうっわ金持ちと言いかねないくらい上等です。なんだか釈然としない思いで漫然と歯を磨いていると、ウルウに顎をがっしり掴まれました。

「うふぇぇええ!?」
「しっかり、磨きなさい」

 どうやら私のいい加減な磨きかたが気に食わなかったようです。

 顎をがっちりつかまれた上で口を大きく開けさせられ、一本一本丁寧に歯を磨かれます。なんだかかなり間抜けな絵面です。ウルウの真剣な目が注がれていますが、まったく嬉しくない注目です。
 さっき体を洗ってもらった時も思いましたけど、これはもはや人を見る目ではありません。出荷前の経済動物を検品する目つきです。明日には精肉屋さんの店頭に並ぶのねって顔です。

 しばらくそうして下の歯から上の歯まで徹底的に磨かれ、がらがらぺっとうがいまで見守られ、最終的になんかさっぱりした香りの香草を噛まされて匂いの確認までされて解放されました。ものすごくいい香りが自分の口からして意味不明です。おかしいです。なんなのでしょうこれは。

 さていよいよ寝るかと思って寝台に向かえば寝藁が捨てられています。板ですか。板で寝ろと。ちらっとウルウを見ると、ええ、ええ、もう驚きませんとも。《自在蔵(ポスタープロ)》から何やらずるずると引きずり出しているではないですか。

「………今度は何ですか?」
「布団」
「ふとん」
「………オフトゥン」
「発音ではなくて」

 どこの世界に木賃宿に高級羽毛布団と枕を持ち込む旅人がいるんでしょうかここにいました。はい。

 ほぼ板でしかない寝台に、ふわっふわの羽毛布団が敷かれているこの意味不明さに私の常識がいろいろ崩れていきます。試しに腰を下ろしてみれば、柔らかくしかししっかりと体を受け止めてくれる心地よさはもはや実家の布団より上等かもしれません。

「じゃあ、おやすみ」

 ウルウはそう言って反対の寝台に向かいますが、そちらにはお布団がありません。板だけです。そこに外套を敷いて横になろうとするウルウを慌てて止めます。

「眠いんだけど」
「私もですけど、そうじゃなくて、ウルウのお布団は?」
「ない」
「えっ」
「それは予備がない」

 じゃあ寝る、と即座に横になろうとするのを全力で止めます。

「なに」
「なにじゃなくて、それならウルウがあっちで寝てください」
「やだ」
「やだじゃなくて」

 余程眠いのでしょうか。ちょっと三人ばかり殺してきたような目つきの悪さです。

 あれはウルウのものなのだからウルウが使うべきですと言えば、子供の君を置いて自分だけ布団では寝れないといいます。
 これでも私は成人です。なり立てではありますけれど。そう言い張っても、ウルウは頑として首を縦に振りません。大人としての矜持のようなものなのかもしれませんが、眠そうなのも相まって、子供の駄々と大差ないようにさえ見えます。

 しばらく、やだ、と駄目です、の応酬を繰り返して、じゃあ一緒に寝ましょうと言えばやっぱり断られます。

「いいですか、ウルウ。ウルウがお布団で寝ないなら私も使いません」
「子供はちゃんと寝なさい」
「私をちゃんと寝させたいならウルウも妥協してください」
「むー……ん……」
「寝るだけ。寝るだけですから。なんにもしませんから」
「ぬー……」
「ほーら大丈夫ですよー。怖いくないですからねー」
「く、ふぁ……」

 眠気の限界がきているらしいウルウを適当に言いくるめて、隙をついて抱き上げてお布団に放り込みます。そうなるともうお布団の魔力には逆らえないらしく少しもぞもぞしたかと思うとすぐにすやすやと寝息を立て始めてしまいました。ちょろいものです。しかしそれにしたって私も眠気の限界です。

 私はウルウの細身な体に少し端に寄ってもらって、なんとか狭い隙間に体を潜り込ませました。一人分の寝台に二人で潜り込んでいるのですから恐ろしく狭いです。しかしそれでも、お布団の魔力は私にもすぐに浸透して、目の前の黒髪に顔をうずめるようにして、私も意識を手放したのでした。





用語解説

・ぬめぬめとしめった赤い生肉の塊
 正式名称《垢嘗(アカナメ)の舌》。ゲームアイテム。装備品の耐久値を回復させ、また一部の敵や環境から受ける状態異常である泥濘や汚損を回復させるアイテム。アカナメというモンスターからドロップする他、店売りもしている。回数制限はないが、使用後確率で消滅する。
『魚の水より出でて水を口にするように、この妖怪も穢れより出でて穢れを喰らうとさるる。穢れため込みし者はよく驚かさるる』

・こんばっとじゃーじ
 正式名称《コンバット・ジャージ》。(布の服)よりは良い品であるが、所詮は数売りの安い装備。ただしどこの店でも手に入り、加工がしやすく、装備の耐久を削る敵や環境のある地域では捨てることを前提に装備するプレイヤーも多い。
『動きやすく、丈夫で、そして安い。そんな頼れるこの一品だが、頼りすぎると気づいた時には死んでいる。大事なのは装備よりも技量だということだけは忘れぬように』

・うっわ金持ちと言いかねないくらい上等な歯ブラシ
 正式名称《妖精の歯ブラシ》。ゲームアイテム。装備した状態で敵を倒すと、ドロップアイテムのうち《歯》や《牙》に該当するアイテムが店舗での販売額よりも高額のお金に変換されて手に入る。
『おや、歯が抜けたのかい。それなら枕の下に敷いてみるといい。翌朝には妖精がコインに換えてくれるから……おや、だからって抜いちゃダメだったら!』

・なんかさっぱりした香りの香草
 正式名称|《ヌプンケシキナ》。アイテム画像はミント系のハーブのように見える。これ自体は《SP(スキルポイント)》をほんの僅か回復させる効果があるが、基本的には上位アイテムの素材として使われる。
『北の端に目の覚めるような香りの草が生えていた。摘んで食んでみると爽やかな香りがするので、里の男たちはみな、長い狩りの時は眠気覚ましにこれを奥歯で噛んだという』

・オフトゥン
 正式名称《(ニオ)の沈み布団》。ゲームアイテム。使用すると状態異常の一つである睡眠状態を任意に引き起こすことができる。状態異常である不眠の解除や、一部地域において時間を経過させる効果、また入眠によってのみ侵入できる特殊な地域に渡る効果などが期待される。
『水鳥は本質的に水に潜る事よりも水に浮く事こそが生態の肝要である。しかして鳰の一字は水に入る事をこそその本質とする。命無き鳰鳥の羽毛は、横たわる者を瞬く間に眠りの底に沈めるだろう。目覚める術のない者にとって、それは死と何ら変わりない安らぎである』

前回のあらすじ
ついに同衾したリリオと閠。口の中に棒を突っ込んで滅茶苦茶にするなど、事案が相次ぐ。



 目覚めは最悪だった。

 夢も見ないほど深い眠りは、寝る前に何とかセットした《ウェストミンスターの目覚し時計》によって瞬時に解けた。覚醒は一瞬で、不快さもなくさっぱりとしたものだったが、その代わりにまどろみの心地よさもない味気ないものだった。便利と言えば便利ではあるが。

 外は朝日が顔を出したくらいだ。のっそりと起き上がろうとすれば、何やらえらく窮屈だった。

 《鳰の沈み布団》を捲ってみれば、私の腰のあたりにしがみついていぎたなく眠りこけているリリオの姿があった。
 人肌の温もりと自分の体ではない生き物の感触が不気味だった。
 寝起きの無防備な体に、また眠っている際の完全に無意識な体に、他人の手が触れていたのだと思うと気持ちが悪かった。それは私の人生において甚だしく経験に乏しい未知の感触だった。

 私はぞっとしたその不快感のままにリリオをベッドから蹴り落とし、ぷつぷつと粟立った肌を撫でさすりながら自分も寝台から降りた。
 《ウェストミンスターの目覚し時計》が奏でる心地よいチャイムを止めてインベントリにしまい込み、布団をはじめ昨日出しっぱなしにしていたアイテムを片付けていく。

 その間にリリオもむにゃむにゃ起き出してきたが、考えてみればこいつ、強制覚醒効果のある《目覚し時計》のチャイムを聞きながら寝入っていたのだから凄まじいものがあるな。この世界の住人には効きが悪いのか、それとも《沈み布団》を頭までかぶって音が届かなかったのか。まあ実験はおいおいしていこう。

 寝巻代わりにした《コンバット・ジャージ》を脱いで下着をつけ、装備を整え、髪を手櫛で梳いて整える。驚くべきはこの体の健康さよ。髪質がだいぶ良くなっていることだけでなく、肌質もよくなっている。
 最近水を弾かなくなってきたはずなのだが、昨夜は若い頃のように水も弾いたし、化粧水も保湿液もその他諸々もないというのに顔面の準備は完璧だ。前の世界でもこんな体質だったら朝の睡眠時間をもう少し稼げたのだが。

 私が準備を終える頃にはリリオもすっかり目覚めて、てきぱきと着替えて鎧を身に着け、剣を帯び、鞄の中身を確かめた。そして私に貸していた《コンバット・ジャージ》を返してきたが、これは貸したままにした。どうせ今後も貸すことになるだろうと思ったのもあるし、それに一度人が袖を通したものを受け取りたくなかった。期せずして同衾してしまった布団も不快は不快だが、あれは替えがない。

 綺麗さっぱり準備を整えて部屋を後にし、二人並んで井戸端で顔を洗い、歯を磨いた。井戸水はキリリと冷たくこれを顔に被るのは少し覚悟が必要だったが、しかしさっぱりとはした。衛生面は少し気になるが、この世界の水としてはかなり衛生的な方だと考えることにしよう。

 昨日無理やり歯を磨いてやったためか、リリオも真面目に歯を磨いている。いいことだ。口臭の予防にもなるので隣にいる私も不快でなくなるし、虫歯になった時対処しなくていいからな。もしかしたら私の持っている回復系のアイテムで虫歯が治るかもしれないがそんな無駄なことで実験したくない。

 さて、朝の準備も終わった。身だしなみも整えた。天気は明朗なれど風強し。空腹は程々。朝のお通じは先程済ませた。まあ、それなりによい一日の始まりと言っていいだろう。

 リリオは意気揚々と昨日の老商人との待ち合わせ場所に向かい、私はのんびりそのあとに続いた。別にことさらのんびりしているつもりはないが、小柄なリリオに合わせると、自然と私の歩みは遅くなる。リリオはちょこちょこと元気な足取りだが、そもそものコンパスが違うから仕方がない。

 例の亀もとい馬車の傍でパイプのようなものをふかしていた老商人は、すっかり身ぎれいになったリリオの姿に片眉を上げて、それから楽しげに笑った。

「やあやあ、見違えるようじゃあないか。こんな別嬪(べっぴん)さんなら、旅路も楽しみだ」
「やだなあ、もともとですよう」
「いやいや、昨日はまるで小鬼(オグレート)か何かだったわい」
「なんですとー!」

 私だったら浮浪者だったくらいは言いそうなので、この人はいい人なのだろう。いや、小鬼(オグレート)とやらがどの程度の扱いなのか知らないと何とも言えないのだけれど、ゴブリンみたいなものだろうか。

 ともあれ、私たちは昨日と同じく馬車の荷車に乗せてもらい、見た目ばかりはのそのそと、しかし思いの外に早い足取りの亀に牽かれて車上の人となった。

 どこへ向かうのかと聞けば、まずは次の宿場で軽く休憩を取り、それから宿場町で一泊し、翌日にはヴォーストという街に着くという。老商人はそこからさらに西へと進むそうだが、リリオの目的地はそのヴォーストであるという。

 どのような街なのかと聞くとリリオも詳しくは知らないという。遠縁の親戚にあたる人がいて、その人を頼りに行くのだそうだ。

 リリオより旅慣れした老商人はヴォーストの街についてもよく知っていて、道すがら様々に知っていることを教えてくれた。

「ヴォーストはまあ、エージゲじゃあ一等とは言わないがね、まあ二番目三番目には大きな街さ」
「えーじげ?」
「ここらのことさ。エージゲ子爵領だ」

 成程貴族制であるらしい。ご領主様に会うことなどないだろうし、住人の殆ども関りなどないだろうから、そんなに意識しないでもいい名前だ。

「大きめの川が街の中ほどを通っていてな、船を使った流通も多いし、水を多く使う工房だってあらあな。街の外には農村も多いし、牧場だってある」

 この世界の平均値を知らないので何とも言えないが、程々に発展していると思ってよさそうだ。子爵、というのが私の知っている公侯伯子男の分類に当てはまるのかどうかはからないが、まあ程々の貴族様の領地のそれなりに上位の街となれば、国全体としてみてもそんなに悪いものではなさそうだ。

「他所からの品が多いのもあるが、水がいいからだろうねえ、地場の酒が、うまい」
「おさけ!」

 食いついた。というか君、十四才だろう。この世界では成人なのかもしれないが、お酒飲んでいいのか。井戸水飲んだ限り水質が飲用に適していないということもないし、水代わりに酒飲むとかいう理屈が通じるのか。そもそも水精晶(アクヴォクリステロ)とかいう便利アイテムがあるんだから水代わりというのは有り得ないだろう。アニメ化できなくなったらどうする。

 そんな下らないことを考えている間も、リリオは老商人と楽しげに話している。
 酒もあるが、やはり食べ物の話に食いつくあたり、色気より食い気か。

「各地のもんも集まるから大抵のもんは手に入るし、近くに農村も牧場も、川だってあるからまず食材は新鮮だ。特に、名物の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は、食べておかなきゃ損だね」
「おいしいんですか!?」
「うまいねえ。なかなか獲れないんだがね、大きい体で、食えるところも多いから、運が良けりゃあ少し高くつくけど晩のおかずにできらあね。まあ煮ても焼いてもうまい。何より揚げたのがまあ、うまい」
「揚げ物があるの?」

 思わず聞いてしまった。

「おう、あるともさ。亜麻仁(リンセーモ)油はここらでよく採れるし、辺境領からも入るしね」

 揚げ物。つまり食事にまでたっぷりと油を使えるとなるとこれは期待できた。
 古い時代は油と言えばもっぱら明かりのために使われることが多く、揚げ物にたっぷりと油を使うほどの余裕がないことも多かったと聞くが、考えてみればこの世界は水精晶(アクヴォクリステロ)などといったものがあるのだ、もっと便利な明かりがあってもおかしくはない。

 それに油の取れる植物をそのために育てているとなれば、きっと油を使った料理も発達しているに違いない。幅が増えれば、それだけ料理は複雑に発達する。いままでは食事と言えば単なる燃料補給だったが、何しろ傍に犯罪的にうまそうに飯を食べる小娘がいるのだ。乗っからねば、損だ。

 心持ち楽しみにしながら馬車に揺られ、昼頃には宿場につき、茶屋で軽く食事を摂った。
 気前のいいことに老商人が支払いを持ってくれ、私は程々に、リリオは遠慮なく何かの肉の串焼きを頂いた。
 なかなか大ぶりの肉で、歯ごたえもあるもので、私は何本か食べてもう十分だったが、リリオはまるで掃除機だった。肉の硬さなどまるで思わせずにぱくぱくと頬張っては飲み下す。最初は見ていて気持ちのいい食べっぷりだったが、皿に串が積み重なるとなるとさすがに見ているだけで胸焼けするほどだった。

 これには申し訳なくなって支払いを持とうとしたのだが、笑って許してくれた。若いうちはこのぐらい健啖な方がいいというのだから、きっとこの老商人も若い頃はさぞかし食べたのだろう。私は若い頃から食が細かったのでよくわからない話だ。食が細かったのにこんなに無駄に背が高くなったのだから、リリオもこの調子で食べたら二メートルくらいに育つんじゃないだろうか。

 しかし現実としてはこの娘は相変わらずちんまりとしていたし、その胸はかわいそうなほど平坦だった。

 昼を終えて再び車上の人となってしばらく、別に待ち望んでいたわけではないが、ファンタジー世界らしい事件は起こった。

 突然馬車が止まったので何事かと思えば、老商人が低い声でうめく。

「盗賊だ」

 やはり、いるものらしい。

 リリオが荷物の間を通って御者席から顔を出すので、私もそれを追って覗いてみると、確かにいかにも野盗ですと言った連中が五人ばかり道をふさいでいる。
 ぼろい布の服に、気休めみたいな胸当てや手甲をしていて、折れかけの剣や手斧、酷いのになるとナイフを棒っ切れに括りつけた即席の槍なんかかついでいる。

 ちらとすぐそばのちっこい頭を見下ろしたが、少し前まではこの娘も同じくらいの汚れ方だったあたり、まあ連中も平均的な汚れっぷりと言っていいだろう。つまりは洗っていない野犬同様だ。

 野盗が野盗らしくなにやら口上を述べているのを聞き流して、一応リリオに尋ねる。

「こういうときは、どうするものなの」
「そうですねえ。盗賊の人も、出会う人皆いちいち皆殺しにしてたら、商人が通らなくなって獲物はなくなるし、討伐隊も組まれるので、最初は話し合いです」

 成程。道理だ。

「定番なのは、まあ積み荷にもよりますけど、二割程度を通行料として払えば通してくれるっていうやつですね。そのくらいなら死ぬほどの痛手じゃないですし、場合によっては保険が下ります」

 保険あるのか、この世界。保険会社見かけたら入っておこうかな。

「でもその場合、商人は完全に降参してるってことですから、積み荷に女子供がいたら扱いはお察しです」
「つまり、私たちか」
「そういうことです」

 リリオを見る限り女と言っても見た目だけでは判断できない怪力はあるけれど、それでもやっぱり女となると飢えた男たちの獲物にはなるらしい。しかも今のリリオは綺麗に磨いてしまっているのでさぞかし美味しそうに見えることだろう。
 老商人も成人したての娘をそんな目に合わせるのは嫌だろうが、かといって逆らえば全員殺されるかもしれない。だからだろうか、ちらりとこちらを窺って、私たちに判断を任せてきている。

「リリオ。言った通り、私は君については行くけれど、旅の主は君だ」
「ええ」
「わかっているなら結構。それで、君の()()ではこういうときどうするんだい?」

 リリオは御者席から軽やかに飛び降りて、盗賊たちににこやかに笑いかけた。
 それが降参の態度なのか何なのか、盗賊どもが対応に迷う間に、リリオは気負う様子もなくスラリと腰の剣を抜いた。

「辺境では、美男にして帰してやるのが作法です」

 多分、ユーモアに富んだ言い回しなのだろう。つまるところ、見せしめに酷い目に合わせて叩き返す、というところかなあ、と思う。

 はたして学のなさそうな盗賊どもに機知(エスプリ)が理解できたかはともかく、剣を抜いたことで戦うことを選んだのだと理解したらしく、男たちは鼻で笑いながらリリオを囲もうとした。
 男が五人で女を囲むというのは、どう考えても多勢に無勢という気がするが、私の方は高みの見物のつもりで御者席に腰を落ち着けた。

「おい、おい、黒い娘さんよ」
「なんです」
「あんたは加勢せんのかね」

 お仲間だろうと責めるような目で見てくる老商人に、私は小首を傾げた。小娘を護衛に仕立てる人に言われたくはないが、しかしこの人もこの人にできるだけのことはしてくれたし、今もこうして案じてくれる善人であるし、責める気はない。確かに、仲間であり、若くもあり、手も空いている私が加勢しない方が責められてしかるべきだろう。

 しかし。

「私、戦うの苦手なんですよ」
「だからってお前さん、」
「それに」

 それに、だ。

 私は実のところリリオが戦うところを一度も見たことがないので、どの程度実力があるのか確かめたいと前々から思っていたのだ。あんまり弱いようでは、旅の主とするには少々頼りないからね。

 完全に腰を据えて見物する気の私に老商人はため息を吐いた。まあ心配する気はわかる。森を抜けてきたとはいえ、リリオは幼いと言っていい程に若い小娘で、ちびと言っていい程に小柄で、この世の酷さなど知らぬように爛漫だ。

 けれど私の胸には一切の心配はなかった。

 薄情な人間なのかもしれないけれど、冷たい人間なのかもしれないけれど、私の心はまるで動かない。

 ああ、でも、確かに不安と言えば不安だ。

「無事で済むかなあ」

 すっかり囲まれたリリオの姿は男たちの陰に隠れて見えづらい。

 折れかけの剣を持った男がいやらしい笑みを浮かべながら、鉈でも振るうように剣を振り上げ、そして悲鳴とともに血の匂いがあたりにただよった。

 老商人が目を見開き、私は溜息を吐く。

「程々にね、リリオ」
「ええ!」

 たった今男の腕を切り飛ばした剣を軽く一振りして血を払い、元気よく答えるリリオに私は溜息をもう一つ。この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれますというテロップが一足遅れで脳裏を流れる。せめて吐き気がしても堪えられるようにとあらかじめ口元に手をやって、私は男たちを嬉々として刈り取り始めるリリオの暴力を眺めた。

 心配などするはずもない。

 パーティメンバーとして認識したリリオのステータス情報を確認した限りでは、そのレベルは()()()
 特に力強さ(ストレングス)の値は中堅並だ。この世界の平均など知りはしないけれど、それでも十把一絡げ、農民からジョブチェンジしたばかりの野盗なんぞが敵う相手ではなさそうだった。






用語解説

・《ウェストミンスターの目覚し時計》
 睡眠状態を解除するアイテム。効果範囲内の全員に効果があり、また時刻を設定してアラーム代わりにも使用できた。
『リンゴンリンゴン、鐘が鳴る。寝ぼけ眼をこじ開けて、まどろむ空気を一払い、死体さえも目覚めだす』

小鬼(オグレート)
 小柄な魔獣。子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。

・ヴォースト
 エージゲ子爵領ヴォースト。辺境領を除けば帝国最東端の街。大きな川が街の真ん中を流れており、工場地区が存在する。正式にはヴォースト・デ・ドラーコ。臥龍山脈から続くやや低めの山々がせりだしてきており、これを竜の尾、ヴォースト・デ・ドラーコと呼ぶ。この山を見上げるようにふもとにできた街なので慣習的にヴォーストと呼ばれ、いまや正式名となっている。

・エージゲ子爵領
 エージゲ子爵の治める中領地。これといった特色のない田舎で、ここしばらくは大きな事件もなかったような土地柄。気候はやや寒冷だが、農地は多く収穫量は多い。

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)
 大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。

亜麻仁(リンセーモ)
 アマ科の一年草の種子からとれる油。

・この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれます
 お楽しみください。
前回のあらすじ
野盗に囲まれたリリオ。傍観する閠。上がる悲鳴。血の匂い。
それはそれとして昼の串焼きがちょっと胃にもたれている閠だった。



 美味しいものを食べると人間は幸せになります。幸せになると人間は平和的な考え方をするようになります。なので暴力的なものの考え方をする人は美味しいものが食べられないかわいそうな人ということになります。

 昔、母も言っていました。人を憎まず、罪を憎みなさいと。()()()()()()()()悪いことをした人はとりあえず殴っておきなさいと。

 お昼に食べた串焼きの実に食いでのある味わいを思い出しながら、それはそれとして私は野盗が振り上げた剣をその腕ごと切り落としました。
 野盗たちがぎょっとした顔で腕を切り落とされた男に注目するので、その隙に一番面倒な手製の槍を持った男に踏み込み、構えられる前に槍に剣を打ち込んで、これを圧し折りながら男の体ごと切り伏せます。

 息を吸って。

 手斧の男が後ろから襲ってきますが、大声をあげながらなので助かります。剣を振り下ろした姿勢からそのまま屈んで地面に手をつき、後ろに蹴りを放てばちょうど顔面に入ったらしく倒れてくれました。
 男の体を足場にして得た勢いで前転しながら立ち上がって距離を取り、振り返りざま腰の手斧を引き抜いて小刀の男に投擲。
 結果を確認するより前に手斧の男に踏み込み、立ち上がる前に足の甲に剣を突き刺して動きを封じます。痛みに慣れていないものならこれで戦闘不能でしょう。

 息を吐いて。

 剣を引き抜きざま振り返れば、手斧は具合よく小刀の男の肩口に食い込んだらしく、悲鳴を上げて倒れています。こちらも痛みには慣れていないようで、すぐには反撃されないでしょう。

 息を吸って。

 残りの男は無手でした。さぞかし格闘に自信があるのかと思いきや、単に武器も手に入らなかっただけのようで、私が剣を向けるとその場にひれ伏して命乞いを始めてしまいました。まあ、体格も優れているわけではなさそうですし、気配もそう強いものではないので、さほど警戒はしないでよさそうです。

 息を吐きます。

 二呼吸の間に無力化できたようです。魔獣ならいざ知らず、大して鍛えてもいない野盗相手なら、私でもなんとかなるようです。よかったよかった。

「さて、どうしましょうか」

 手巾(てふき)で剣の血を拭って鞘に納めながら、私は馬車に乗せてくれたおじいさんに尋ねます。こういった場合、依頼者に処理の判断を任せるのが一番です。

 おじいさんは少し考えて、儂はどうでもいいんだがね、と横をちらりと見ました。横、つまりはウルウです。ここには三人いて、私はおじいさんに判断を求め、おじいさんは私たちの取り分を考えてくれて、そしてウルウは、ウルウはどうするのでしょう。

 ウルウは私たち二人の視線を受けてちょっと小首を傾げると、まるで体重がないようにするりと軽やかに飛び降りてきて、私の傍にやってきました。それから少し屈んで、私に聞こえるように訪ねてきました。

「私はこういう血腥(ちなまぐさ)いことに詳しくないんだけど、こういうときはどうするのが定番かな」
「そう、ですねえ。野盗は何しろ人を襲っているわけですし、領地にもよりますけれど、基本的にはその時点で処刑が決まってます」
「処刑」
「ええ。死刑になるか、それとも苦役になるか。なので、ここで私たちが殺してしまっても問題はありませんし、しかるべき場所に突き出してもいいです。野盗は生死問わずで懸賞金が出ます。生きてる方が高いですけど、生かしたまま連れて行くのは危険も手間もあります」
「フムン」
「もっと消極的に、このまま放置しても問題はありません。逆恨みされてまた狙われるかもしれませんけど、それなりの手傷を負わせましたから復帰できるとも思えませんし、場合によってはこのままのたれ死ぬでしょうね」
「へえ」

 できるだけ淡々と説明してみましたけれど、多分ウルウが求めているのは()()()()()()じゃないんだろうなあ、とは薄々思います。
 私も、何しろ騎士道物語や英雄にあこがれて旅に出た口です。殺伐とした現実を憂えて、何か夢や希望がないかとも思います。まあ()()()()()()()()実際のところはこういった野盗は際限なく湧いてくるものだし、どうしようもないものだとも思います。

 でも。ウルウは、きっと違うのです。

 ウルウはきっと私の説明をちゃんと理解していて、現実的に対処法が他にないこともわかっていて、それでも、それでもなお、美しいものが見たいのです。美しいものがあることを、知っているから。

 私がここで現実的な対応をしたところで、ウルウはきっと気にしないでしょう。そのまま私の旅に付き合って、私の物語に付き合ってくれるでしょう。ウルウに言わせればそれが、他人の物語を傍観するというのが、ウルウの亡霊生活の暇つぶしなのです。それがいささかつまらない結末であろうと、きっと、決定的な終わりが来ない限りは、なんだかんだ義理堅いウルウは付き合ってくれるでしょう。

 だからこれは、私の方の我儘(わがまま)なのです。ウルウに美しいものを、美しい物語を、美しい私を見てほしいという、そういう我儘なのです。

「ウルウは」
「うん」
「ウルウは、どうしたいですか」

 ウルウはあのなんにも映っていないような、それでもその奥にきらきらしたものを捨てきれないでいる目でしばらく私を見つめて、それから、酷く()じるように呟きました。

「私はね。私は、ハッピーエンドが見たいんだ」
「はい」
「あと腐れのない、さっぱりとした、(かげ)りのない物語が見たい」
「はい」
「それは酷く馬鹿馬鹿しくて、到底叶わないような夢物語で、きっと何もかも無駄になるような徒労に過ぎないんだろうけれど」
「はい」
「君は、それを許してくれる?」
「私はきっと()()します。約束しましたから」

 ウルウは忌々しそうにぐしゃぐしゃと顔を隠して、それから、小さく、うん、と呟きました。

「私にはちょっと手が届きませんから、ウルウが手を貸してください。ウルウが私の物語を、完全無欠の()()()()()()()に仕立ててください」
「努力は、するよ」

 ウルウはしかめっ面で傷ついた男たちの体を引きずって集め、手斧を引き抜き、切り落とされた手首を拾ってきて、道の端に並べて横たわらせました。一人無傷の男は怯えたようにうずくまったまま、それでも何が起こるのかと恐ろしげに事態を見守っていました。

「これから、起こることは」

 それは誰に言い聞かせるつもりでもないような囁きでした。しかし誰もが息をのむ中で、臓腑(ぞうふ)にしみこむような声でした。

「ただの気まぐれで、ただの偶然で、きっと二度と起こりはしない」

 ウルウの手が腰の《自在蔵(ポスタープロ)》に伸び、一本の瓶を取り出しました。不可思議な模様の浮かんだ瓶は、怪しく色を変え続ける奇妙な液体を湛えていました。

「だから、期待はするな。次は、ない」

 ウルウの手が瓶の栓を抜き、その中身を横たわった男たち一人一人の口に丁寧に注いでいきました。咳き込みながら、むせながら、それでも飲み下した男たちは、熱に浮かされるようにびくりびくりと震え、それから、ほーっと深く息を吐き出し、そしてぐったりと脱力して意識を失ったようでした。

「なんてこった……!」

 おじいさんが茫然と呟きました。
 私も信じられない思いでした。しかし、私自身の身に起きたことはつまりこういうことだったのだという納得がありました。

 ウルウの与えた霊薬によって、切り裂かれた傷は塞がり、あざは消え、そして切断された手さえも繋がっているのでした。それはどんなに優れた傷薬でも有り得ない、本当に魔法のような癒しの力でした。あの一瓶の霊薬にいったいどれほどの金貨を積めばいいのでしょうか。

 ウルウはただ一人この奇跡を目撃してあえぐように見上げてくる男の傍に歩み寄り、無理やり引きずり起こすように立ち上がらせると、その手に一握りの輝きを持たせました。

「こ、ここ、こりゃあっ」
「換金できるかどうかは知らないが、そこまでは私の仕事じゃあない」
「き、きんっ、きんかっ」
「一人に三枚。十五枚。これだけあれば、大抵のことはできるだろうさ」
「はーっ、はーっ、はーっ……!」
「これはお前たちのものだ。好きにするといい。畑を買って、農民をやり直すのもいいだろうさ。街で商売を始めたっていい。パーっと使って手放すのも、いいだろう」

 けれど。
 ウルウの細い指が、ずるりと男の額を指さしました。

「お前達の死は、彼女の物語に下らない汚れをつけないために、()()退()()()()()だ。次は、ない」

 まるで抗えぬ魔力が宿るかのように、男は浅い呼吸を繰り返しながら、ウルウの指先にひれ伏しました。

「好きにしろ。好きに生きろ。好きに死ね」

 ウルウはひれ伏す男の傍に屈みこみ、呪詛のように囁きました。

「……できれば、善く生き、善く死んでくれ」
「ひゃ、ひゃひぃっ!」

 ウルウは外套を翻して立ち上がると、足早に馬車に戻ってするりと荷台に乗り込みました。そして呆然とする私たちにしびれを切らして、どすの利いた声で早く出せと命じました。私が慌てて荷台に乗り込むのと同時に、おじいさんが馬車を走らせます。

 目の前で起こった()()()()()()()()()()に混乱しながらも手綱を握るおじいさん。きっとこの後の生涯でこれ以上に不思議なことはそうそう起こらないでしょう。

 揺れる馬車の上、私だけがその不思議な出来事の事実を知っていました。

 膝を抱えるように座り込み、頭巾ですっかり顔を隠してしまったこの不器用な人は、耳まで真っ赤にして羞恥に耐える含羞(がんしゅう)の人だということを。





用語解説

・一本の瓶
 正式名称は《ポーション(小)》。《HP(ヒットポイント)》を少量回復させてくれる。高レベル帯になるとほとんど気休め以下の効果しか期待できないが、《空き瓶》と重量が同じなので、折角なので中身を詰めているプレイヤーも多い。
『危険な冒険に回復薬は欠かせない。一瓶飲めばあら不思議、疲れも痛みも飛んでいく。二十四時間戦えますか』
前回のあらすじ
リリオ、笑顔で切り刻む。
閠、中二病で突っ走る。
おじいさん、見なかったことにする。
の三本でお送りしました。



 生きているべきではないのではないかという希死念慮(きしねんりょ)は常々のものだったけれど、恥を理由とした自殺願望は或いは初めてだったかもしれない。

 大げさな言い方かもしれないが、まあ、つまるところ、私は中二病もいいところの振る舞いに恥ずかしさのあまり悶死しそうになっているのだった。

 こちらの慣習に頷けず待ったをかけたのはまあいい。
 郷に入りては郷に従えなんて言葉もあるが、三つ子の魂百までともいう。
 死とも暴力とも程々に縁遠い社会で生まれ育った私にとって、命の軽さが耐えきれなかったのだ。

 だから他人が怪我するのを見た時点でもう、うっ、となってたし、襲ってきた時は害獣としか見てなくて無力化した後は生きてる銭袋としか見ていない視線がこちらに向けられた時も勘弁してくれという気持ちでいっぱいだった。
 いっぱいいっぱいだった。
 この世界の人間がこの世界の人間の理屈でどうこうするのはまあ仕方がないことと目を(つむ)れたというか目を逸らしていたかったけど、こっちに判断を求められたら私としては本当にもうどうしろというのだという他にない。自分の価値観で判断するほかないではないか。

 まあ、そのあたりは仕方がない。納得できるように行動するうえで致し方のないことだった。

 問題は対処の仕方だ。

 もっとこう、あっさりどうにかできただろうに何であんな勿体ぶったというか芝居がかったというか、とにかく恥だ。恥の上塗りだ。恥コーティングだ。

 幸い私がこの恥の海に沈んでいるのを見かねてか、老商人は声をかけずに旅路をひた急いでくれたし、リリオの生暖かい視線が気になるは気になるがいつものうざったいくらいのおしゃべりも仕掛けてこないので助かるは助かる。もしも今話しかけられたら殺すぞしか言えない気がする。或いは無言のアイアンクロー。

 外界からの情報をシャットダウンして体育座りで心を閉鎖した結果なのか、老商人が急いでくれたおかげなのか、思ったよりも早く宿場町に着いたあたりで、私も気分を入れ替える。恥は恥だが、いつまでも抱えていられるものでもない。切り替えが大事だ。具体的には八つ当たりにリリオにアイアンクローをかましてすっきりした。

 それなりに驚かせるようなものを見せたとは思うのだけれど、さすがに長年旅商人をしていて人生経験があるだけに、老商人も気を取り直していたようだ。変わったものを見せてもらったお礼にと、茶屋で名物だという焼き菓子を奢ってもらった。パウンドケーキのようなもので、しっとりとした食感で、甘さは控えめだけれど変わった風味がしてなかなかおいしい。ここらで採れるハーブの類を練りこんでいるのだそうだ。甘みのあるお茶と一緒に頂いた。

 相変わらずリリオは健啖で、一切れでも結構腹にたまるこの焼き菓子を飲み物か何かのようにするすると平らげていく。どこに入るのか不思議に思っていると、甘いものは別腹だという。本当に胃袋が何個かあるんじゃなかろうなこいつ。妙な物でも入っているんじゃないだろうかと疑いたくなるような幸せそうな顔で次々と頬張っては飲み下していく。

 女がみんな甘いもの好きだというのは幻想だからな。
 私にとって甘いものはイコールでカロリーと糖分でしかなかった。いつも鞄にチョコレートと飴玉が入っていたが、あれは女子力とかではなく単に補給食だ。会社で泊まるときとか便利。ちまちま食べてると、満腹にはならないから眠くもならないし、糖分が切れないから頭も鈍くならない。あとはカフェインがあればいい。

 この焼き菓子はそういう意味でいえばいろいろ足りない。糖分とかカフェインとか。むしろお腹にたまって眠くなるのでよろしくない。しかし隣でこの世の幸せなど他にはないといった顔つきでもしゃもしゃ食べているのがいると、まあこういうものなのだろうなという寛容な気持ちで楽しめる。胸焼けしそうになるが。

 茶屋で一服して老商人と別れた後、リリオに予定を尋ねると困ったような顔で見上げられた。

「えーと、まずは宿を取ろうと思うんですけれど」

 言わんとすることは察した。
 昨日あれだけ大騒ぎしたのだから、木賃宿(きちんやど)に泊まるとは言い出しづらいのだろう。

 私も文句を言える立場ではないのだけれど、どうしたって生理的に無理だったのだ。そう考えるとどれだけブラックだろうとどれだけ苦痛だろうと現代社会は割と整備されていたのだなあ。コンクリート造りの地獄だ。衛生的ではあるけれど、精神衛生的にはよろしくない。

 リリオからしたらどんな箱入り娘のお嬢様育ちだよと思っても仕方がないだろう。
 実際、いくら底辺層とはいえ、ガス代や電気代を払えなくなったことはないし、というか職場にいる時間を考えると基本料金越えるほど使う時間家にいなかったし、野宿なんてしたこともなかったし、この世界から見たら確かに箱入りのお嬢様なのは確かだ。

 いままではリリオのやり方を重視しようと思っていたが、趣味のためについてきているのにわざわざ不快な思いなんてしたくない。

 なので、適当にゲーム通貨を握りしめて無造作に渡す。

旅籠(はたご)で」
「ハイヨロコンデー!」

 あんまりやり過ぎるとリリオがお金目当てで行動するようになってしまうので最低限しか渡す気はないが、それでも金で解決できることはしてしまった方が楽だ。

 この世界のお金に換金したらいくらくらいになるのかは知らないが、なにしろゲーム通貨には重量値が設定されていなかった。なので倉庫役にほとんど預けていたとはいえ、それなりの手持ちもある。しばらくは困らないだろう。

 旅籠は木賃宿と比べると随分清潔で、作りも立派だった。
 受付の人も随分愛想がいいし、従業員も多い。もちろん、リリオがきちんと支払いをしたからというのもあるだろうけれどね。

 案内された部屋はきちんと鍵もかかるし、隙間風もない。寝台もきしむことのないそれなりのものだし、まあ問答無用で最高品質の眠りを与えてくれる《(ニオ)の沈み布団》程ではないにしても、普通に横になって眠れる程度の清潔で質のよいものだ。
 掃除もきちんとされていて、好感が持てる。何より鍵のかけられる備え棚があって、荷物を置いておけるのがいい。木賃宿では盗まれた方が悪いくらいの管理だったからな。もちろんこっちだって盗まれる心配はあるだろうけれど、旅籠の方でそういった場合の補償もしてくれるようだ。

 まあ《自在蔵(ポスタープロ)》とやらよりよほど使い勝手のいいインベントリのある私には関係ないし、リリオもきちんと貴重品は自分で持ち歩く程度の警戒心はちゃんとあるけれど。
 その警戒心のためか、大荷物を見かねて私の《自在蔵(ポスタープロ)》にしまってあげようかと提案してあげた時も遠慮された。私が持ち逃げすることを心配している、というよりは、そんなあからさまに《自在蔵(ポスタープロ)》を持っていますよという振る舞いをして目を付けられることを警戒しているということらしいけれど。小さく見えても私より旅慣れた思考をしている。

 旅籠では木賃宿と違って食事もつくという話だけれど、夕食まではまだ時間がある。やることもないし昼寝でもしようかと思っていると、リリオが鎧を外して身軽な格好になり、貴重品をもってなにやらお出かけの準備を整えている。

 何かと尋ねれば、ふふんとない胸を張って、どや顔を決めてくる。

「喜んでください、ウルウ!」
「えい」
「この宿場町にばわははあががががやっだああばああああっ!」

 どや顔にちょっとイラっと来たのでアイアンクローを決めてやったが、相変わらず丈夫な奴だ。握りしめるこっちの指がつらい。

 適当な所で放り捨ててやると、しばらく悶絶したのち、再びどや顔を決めてくる。
 折れねえなこいつ。

「よ、喜んでください、ウルウ! なんとこの宿場町には風呂屋があるのです!」

 ほう。
 風呂屋ときた。

 この前の宿場は本当に街道沿いに何軒か建物があるといった具合だったが、この宿場町はそれに付随して商店や宿も何軒かあり、恐らく()()()()()()()と思われる奥まった宿屋もあったり、十分に町と呼べる規模だった。しかしそれにしても水や燃料などを大量に消費し、専用の施設を必要とする風呂屋があるとは。

 正直なところ、えーまことにござるかぁ?という半信半疑な気分ではあるが、しかし半分の期待はある。むしろ今までの経験から期待をかなり低く見積もっておくことで、実際に見た時の感動を増しておくという技術も身に着けているのだ。

 この際、風呂屋とは名ばかりのフィンランドよろしくサウナ風呂でも構わない。もちろん期待するところとしては最低限古代ローマのテルマエくらいいってほしいところだが、高望みはしない。町とはいっても宿場町。あくまでも交通の要所にちょっと人が集まってできた程度だ。そこまで大規模な施設は期待できない。混浴くらいは普通だろう。

 第一、元の世界においては湯を張って風呂に入ることなど滅多になかった。時間的余裕から言っても、水道代ガス代などから言っても、それはあまりにも非効率的だった。短時間のシャワーで全て済ませていた。それで十分だったし、それで満足していた。体を清潔に保つ以上の意味など求めるものではない。

 なのでいま私がそそくさと出かける準備を整え、コンパスの短いリリオの背中をせっつくようにして風呂屋とやらに向かうのは異世界文化に対する学術的興味からくる好奇心以上のものはないのだ。

 リリオが案内した風呂屋とやらは、石造りのなかなか立派な建物だった。長い煙突がいくつか伸びていて、そこからは例外なく白い煙が立っている。敷地面積はそれなりにあり、脱衣所などのスペースを考えても、結構な広さの浴場が期待できた。

 入口の戸をくぐって中に入ると、珍しく土間のようなものから靴を脱いで上がる仕様になっているようで、まず編み上げの靴を脱ぐ面倒くささから始まった。歩き続けの中では便利なのだが、履いたり脱いだりするのは、少し手間だ。

 靴を脱いであがると、向かって正面に受付があり、左右に通路が分かれていた。壁に何かが書かれているが、話し言葉と違って書き言葉は翻訳されていないようだ。微妙に使えないな自動翻訳。

 受付でリリオが靴を預け、二人分の料金を支払い、輪になった紐に通された小さなカギを二つ受け取った。別料金でタオルや石鹸も販売しているということだったけれど、手持ちもあるし遠慮しておいた。

 リリオが向かって右の通路に進み始める。ということは、多分だけれど壁の文字は「女湯」とでも書いてあったのだろう。となれば逆側は「男湯」か。混浴という線はないようで、少し安心だ。

 進んだ先は脱衣所のようで、駅のロッカーのように鍵付きの扉がついた棚が並んでいる。先程受け取った鍵はここの鍵のようだ。リリオが鍵に刻まれた番号の棚を探し、私はそのあとについていく。

「えーと、十三番と十四番だから、これとこれですね」

 手早く服を脱いで棚に放り込み、少し迷って、インベントリにつながるポーチは持っていくことにする。他と違ってこれは盗まれたら困る。と考えたところで、そもそもすべての荷物を放り込んでおけば盗まれることがないことに気付き、脱いだ服もインベントリに放り込んだ。
 リリオがこれに慣れるとよろしくないし、なにより人の脱いだ服をインベントリに放り込むというのもなんか生理的に嫌だったのでリリオの分はそのままにしておいた。

 服を脱いだリリオは、なんというか、子供だった。

 普段も幼いといえば幼いのだけれど、鎧をまとい剣を帯び、きりっとした顔なんかしていればそれなりに少女剣士といった風体なのだけれど、こうしてすっぽんぽんになってのんきな顔なんかしているのを見ると、完全にお子様だった。()()()とは言わないがお子様だった。いったい食べたものはどこに行くのだろうというくらいだった。

 石鹸と手ぬぐいを手に、さあ行きましょうと輝く笑みを浮かべるリリオと、その下のあまりにも貧相なスタイルに思わずほろりと来たが、まあ成長期だろうしきっと大きくなるさ。どこがとは言わないが。

 自分の髪をまとめるついでにリリオの髪をまとめてあげると、何が気に入ったのか、私も色っぽいですかなどと聞いてくるのが哀れで仕方がなかった。君にはちょっと早いよ。

 タオルを手についていき、引き戸を開けると途端に湯気がもわっと広がった。暖気が逃げるからという理由で素早く入って戸を閉め、改めて見渡してみると、想像していたよりも立派な作りだった。

 というより。

「銭湯だね、こりゃ」

 タイル張りの床に、さすがにシャワーや鏡はないが、桶や椅子の用意された洗い場。浴槽は大きなもので、こんこんと湯を湛えている。富士山の絵でも書いてあれば立派な銭湯だ。まあ私は銭湯というものにあまり行ったことがないというか行く気もなかったので詳しくはないが。

 しかしまあ、予想よりもかなり立派なものだ。ファンタジー警察が見たらいきり立つんじゃなかろうか。

「ふふん、どうです。立派な物でしょう」

 確かに立派だが何故君が自慢げなのか。

 ない胸を張るリリオを無視して、とりあえず洗い場でかけ湯して、汗や埃を落とす。とてとてと寄ってくるリリオにもお湯をかけてやる。シャワーがない代わりに、洗い場専用の湯が張ってあるのだな。なかなか興味深い作りだ。
 他の湯船のように床と同じ高さにあるのではなくて、少し高めの位置にしてある。それを囲むように椅子を並べてあって、足元には排水用らしい溝が見える。面白い作りだ。そして結構な技術力もうかがえる。

 てちてちと決して走らず、しかし機嫌の良さを隠しもしようのない速足のリリオの後についていき、ゆっくりと湯船に入る。

 うう、と思わず声が漏れる。

 しっかり湯船につかるなどどれくらいぶりだろう。この体は今のところ疲れなんかとは無縁なのだけれど、しかしどこか精神にこわばりが残っているのだろう、全身が温もりに包まれるという感覚が、心身ともに心地よい脱力をもたらしてくれた。

「………とはいえ」

 すっかり脱力できるかというと、そうでもなかったりする。

 溜池方式ではなく、お湯が次々供給され、排水されていくという実にぜいたくな作りだから我慢できているが、本当のところは公衆浴場というものは得意ではないのだ。断固拒否する、というほどではないが、しかし正直なところを言わせてもらえれば湯船につかれるという誘惑さえなければ遠慮したかったくらいだ。

 だって()()()()()

 いや、こういうこと言うのはあまりよろしくない気がするんだけど、正味な話、気持ち悪い。

 不特定多数の人間が、そう、なに触ったかもわかんないような不特定多数の人間が出たり入ったりしているお湯に自分もつかるのって相当気持ち悪い。
 なんでみんな平気なのか意味が分からなすぎる。
 私にしたって、これは半分くらいは欲望に負けた結果であって、もう半分くらいは義務感だよ。リリオが来たいっていうから義務感だよ。

 正直欲望が満たされた瞬間気持ち悪さが徐々にせりあがってきた感じ。

 リリオを丸洗いした時も、あまりにも汚れた状態に耐えきれなかったからであって、正直触ってる間ずっと気持ち悪かった。人間に触るのって正直辛いものがある。大型犬とでも思ってないと途中で心折れそうだった。

 これでもし貸し切りとかならまだ大丈夫なんだけど、それなりにお客さん入ってるわけよ。不特定多数どもが。みんなマナーができてるからちゃんとかけ湯もするし、旅人らしく結構汚れた人なんかちゃんと洗ってから湯船に入ってくれるからまだ我慢できてるけど、これでそんなマナー知ったことかってやつらがやってきたら、まあ、出るね。
 湯船から出るっていうか、私の胃の内容物が勢いよく出てくるね。虹色のきらきらで誤魔化せると思うなよ。

 まー、そのマナーのできたお客さんたちもね、フランクなわけよ。田舎者特有というか、旅人同士のシンパシーみたいなものがあるのか、ちょいちょいリリオに話しかけてくるし、リリオも楽しそうにおしゃべりするわけよ。そう言うの傍から見てる分には楽しいからいいんだよ。リリオは何しろ陰口とか言わないし基本的にすっきり爽やかな事しか言わないし、聞いていて胸が悪くなるような話題ってないしね。でもそれが私に向いてくると苦痛でしかない。こっちの世界の話題とかわからん、という以前に、話しかけられるのが苦痛。笑顔で対応もできるけど相当なエネルギーを使う。

 なのでどうするかというと早々に《隠身(ハイディング)》よ。《隠蓑(クローキング)》使って離れてしまおうかとも思ったけど、そうなるとリリオが面倒くさそうなので、その場で姿を消すにとどめることにした。お湯の中にぽっかりとエアポケットみたいに何もない空間ができたように見えるのではないかと思ったけれど、どうやらそういう不自然な事にはなっていないようで、無事隠れられた。

 リリオも私が半透明になったことで隠れたことに気付いたらしく、うっかり話しかけられるようなことはなかったけれど、たまにちらっと向けられる生暖かい視線がしんどい。

 なんとかそういった連中が離れてくれて、ようやく《隠身(ハイディング)》も解除できてほっとしたが、正直安らがない。だいぶ慣れてきたリリオでさえ大型犬と認識してるから耐えられているけど、まじめに湯船の心地よさと人間嫌いの辛さが天秤上でファイトし始めてる。辛さがやや優勢。

 気分を誤魔化すために、天井に視線を逃がしながら気になったことを尋ねてみた。

「こういう施設ってかなり維持費もかかると思うんだけど、採算とれるのかな」
「え? えーっと……」

 ああ、いや、うん、そうだよね。一旅人にはわかんないよね。まあ宿場町ってことは公的事業の側面もあるだろうからそっちからお金出てるのかもしんないけど。

「ああ、いや、こんなにたくさんのお湯沸かせるのは大変なんじゃないかなって」
「ああ、確かに。近くに川もないですし、水引くのも大変そうですよね」
「ふふふん。気になるでしょう。気になるでしょうとも」

 ファンタジー警察も気になるだろうことをぼんやり話していると、なにやら面倒くさそうな空気の人が近寄ってきた。具体的には顔に説明したいと書いてある類の人。

「いや、べつに」
「実はね」

 聞いちゃいねえ。
 湯船にするりと入り込んでリリオの隣に収まったのは、肉置きの立派な女性だった。太っているという訳ではないが、全体的にむっちりとしていて、隣にリリオを置くと、女性的魅力がもはや暴力と言っていいレベルだ。あまり旅人といった風情ではない。

「国の方針で宿場町が作られたときに、衛生向上のためにもこんな公衆浴場の設立も盛り込まれてね、公務員として神官が雇われているのよ」
「はー、神官さんが! じゃあここのお湯もその神官さんが?」
「ええ、ええ、その通り! 風呂の神マルメドゥーゾの神官が祈りを捧げることでお湯を生んでいるのよ!」
「こんなにたくさんのお湯を生むなんて、すごいですね!」
「ふふん、ふふふん、実はね、なんとね、ここだけのお話なんだけどね」
「どきどき、わくわく」
「この私こそ、その風呂の神マルメドゥーゾの神官なのよ!」
「きゃー、すごーい!」

 君らノリがいいな。

 神とやらの話が出てきて俄然ファンタジーっぽくなってきたと思うべきなのか、突然胡散臭くなってきたと思うべきなのか、あまりにも軽々しい神様の扱いに私は一人首をかしげるのだった。





用語解説

・名物だという焼き菓子
 トーイェ・ファリス。砂糖、卵、バター、小麦粉を等量ずつ使用し、地場で採れる爽やかな香りのハーブを練りこんで焼き上げた焼き菓子。以前は高価な菓子だったが、砂糖などが安価で出回るようになり、庶民の味としても親しまれている。この宿場町のものは砂糖を控えめにして、ハーブによる香りづけを重視したレシピのようだ。

・風呂屋
 以前は風呂と言えば大きな街や、貴族などの屋敷にしかなかったが、最近の政策で街道整備や宿場の設置などに伴い、衛生向上の目的もある公衆浴場が増えている。基本的な設計はその際にできた草案をもとにしており、どこも作りは似ている。

・風呂の神マルメドゥーゾ
 風呂の神、温泉の神、沐浴の神などとして知られる。この世界で最初に湧き出した温泉に入浴し、そこを終の棲家とした山椒魚人が陞神したとされる。この神を信仰する神官は、温泉を掘り当てる勘や、湯を沸かす術、鉱泉を生み出す術などを授かるという。
前回のあらすじ
いろんな意味でドキドキの入浴回で、ウルウは真面目に吐き気を催したのだった。



 お風呂自体は喜んでくれたけれど人がいっぱいいる空間は苦手なウルウの扱いがまだ難しくて困ります。人間が嫌いって最初に言っていましたけれど、これ完全に人見知りじゃないでしょうか。人付き合いが苦手な人じゃないでしょうか。私に関してはそこそこ慣れてきてくれた感じがしますけれど、慣れれば慣れるほど扱いがぞんざいになるあたりも、これ完全に人間関係が嫌いな人ですよね。

 お喋りとか新しい出会いとか好きな私にはちょっとわからない感覚なのですけれど、ウルウみたいな人は話しかけられるのも嫌だしお喋りするのもすっごく疲れるっていう感じらしいです。

 私はどうしても人と接することが多くなりますから、ウルウが面倒くさくなって姿を隠してしまうのはまあ仕方がないとは思いますけれど、もしそれが原因でお別れになってしまったらつらいものがあります。
 私が原因でウルウが離れていってしまったらそれはそれで辛いものがありますけれど、人が多いから無理って言われたら余程きついものがあるじゃないですか。
 そうなってしまったらもうウルウがついていける相手って森の中に一人で住んでいる隠者とか、下手すると野良犬とかになるかもしれません。なんだかんだ潔癖症で要求水準の高いウルウが他所にいってやっていけるとは思えません。私が守ってあげないと。

 そんなことをぼんやり考えていると、なにやらえらくノリのいい女の人が会話に割り込んできました。

 バーノバーノと名乗ったこの女性はなんでも風呂の神マルメドゥーゾの神官だそうで、このお風呂屋さんのお湯はすべてこの人が沸かしているそうです。まだ三十歳かそこら辺くらいのお歳に見えるのに、なかなかのお点前です。体型的にもお肌の張り的にも。

 ふと視線の圧力を感じて横を見れば、ウルウがじっと見つめてきています。呆れとか面倒くさそうとかそういう色に交じって、訝しげな色が見て取れます。これはあれですね。箱入り娘さんらしいウルウが知らないものを見聞きした時に見せる「リリオ教えてくれるかな」っていう期待のまなざしですね。だいぶ好意的に翻訳しましたけど。多分実際のところは「何言ってるんだろうこいつら。関わり合いになりたくないけどこれ知らなかったあとで困るやつかなあ」といったところだと思います。

「ウルウ」
「神官って何」

 息もぴったりですね。会話という意味ではこれ以上なく減点だと思いますけど。

「えーとですね。神様にお仕えする人たちのことで、信仰している神様に祈りを捧げたりして、代わりに神様の加護を得たり、神様の力を借りた術が使えるんです」
「神様っているんだ」

 なんか物凄いこと言われました。

 ウルウはどうも箱入りどころか外国の人なんじゃないかという位物知らずな所が多々見受けられましたけれど、さすがに神様の存在を疑う人は初めて見ました。聖王国の人なんかは一柱の神様だけを信仰していて他はぼろくそに言っているらしいですけれど、それでもその存在を前提とした敵対視であって、存在そのものを認識していないという人はまずいないと思います。

「いるわよー」
「風呂の神様とかいうのも」
「勿論いるわよー」

 寄りにも寄って神に仕える神官相手にそんな物言いするのはウルウぐらいだと思います。バーノバーノさんはとてもおおらかなようで笑って流していますが、人によってはぶん殴られてもおかしくないと思います。何を言い出すのかというはらはらと、あのウルウが他所の人とお話しできているという感動で、私もどうしたらよいかわかりません。

「神様というのを見たことがないからなあ」
「普通はまず見たことないものですよう」
「見たことないのに信じるの?」
「うえあ」

 そういわれると困ります。神様を見たことはなくても神様の奇跡やご加護はあるわけでして。

「それって壁に映った影を見て想像しているのと何が違うの」
「あうあうあ」

 ウルウの視線がつらいです。ウルウ自身には否定するつもりなんか欠片もない純粋に疑問だけを抱いて放り投げてくる質問が切り返しづらいです。だって言われてみるとそうだよなってなっちゃいますもん。私神学者でも何でもないのでそういうこと考えたことありませんし。

「ふふふ、どうやらお困りのようね!」

 あっ、普段だったら絶対面倒くさくて目を合わせたくない感じのノリですけどこういう時にはとても頼りになる感じがします。バーノバーノさんが豊かなお乳を大きく揺らして胸を張り、お姉さんに任せなさいと微笑みます。この人暇なんですね、きっと。でも私が説明するより本職の方に説明してもらった方が助かるのは事実です。

「バーノバーノさんの神様講座はっじまっるよー」
「わーぱちぱちー」

 しかもウルウの死んだ魚のような目にも堪えず平然と続ける凄まじい精神力の持ち主のようです。

「じゃあ一番最初のところから。昔々の大昔、まだこの世界が永遠の海と浅瀬だけだった頃のお話から」

 それは帝国に住むものなら、みな子供のころから聞かされるお話でした。

「そのころ世界は、海の神や空の神、またその眷属たる小神たちといった国津神たちが治めていて、山椒魚人(プラオ)たち最初の人々だけが暮らしていたの。そんな中、ある日、天津神たちが虚空天を旅してやってきて、ここに住まわせてほしいと頼んできたの。国津神たちは穏やかなばかりの日々に飽いていて、賑やかになることを喜んでこれを受け入れたわ。こうして天津神たちは自分の住処を整え、島を生み、陸を盛り、山を積んで木々を萌やし、そうして各々の従僕を地に放ったわ。これが私たちや隣人たちのご先祖様」

 とても大雑把な説明ですけれど、これが国作りの神話です。私たち隣人種はみなそれぞれの祖神(おやがみ)である天津神を信仰しています。人間はちょっと違うんですけど、そのあたりは複雑です。

「新しくできた島や陸や山や森にはそれぞれ新しい神々が生まれ、また地に満ちた人々の中でも神々の目に留まった者たちは高みに引き上げられて人神になっていったわ。今でも時々神々の目に留まって陞神(しょうじん)するものや、神々の祝福を受けた半神たちが見られるわね」

 ウルウはゆっくりかみ砕くように少しの間考えて、それから小首を傾げました。

「結局、『神』っていうのはなんなの?」

 バーノバーノさんはうーんと少し考えて、こうおっしゃいました。

「『()()()()()』よ」
「雑い」

 実際雑です。

「神っていうのは、なんにでも宿っているわ。大きな山にも宿るし、一陣の風にも宿るし、道端の石ころにも宿るし、私たちにも宿る。でも山そのものではないし、風そのものでもないし、石ころでもなければ私たちでもない。そこにあるけれどそこには見えない。天地(あめつち)の諸々の神様のことでもあるし、木石や鳥獣に宿る力のことでもあるし、私たちを生かす魂でもある。私たち人の力や知恵の及ばない常ならぬもので、尊く畏きもの。善も悪もない、私たちの既知の外にあるもの」

 つまりは、とバーノバーノさんは困ったように笑いました。

「『()()()()()』としか言いようのないものなのよ」

 私はなんだかいい加減というか曖昧だなあと思ったのですけれど、ウルウはなんだか納得したように小さく頷いて、「コシントウみたいな考え方だ」とまたウルウ一流のよくわからない理解をしていました。まあウルウが納得してくれればそれでいいのです。

「それでね。例えば私が信仰している風呂の神マルメドゥーゾの場合だと、祈りを捧げるものにお風呂や温泉にまつわる力を授けてくれるの。ここで私がお仕事しているみたいにね」

 バーノバーノさんの話ではここのお湯は循環式になっていて、流れたお湯は一度貯水槽に集められて、そこで法術による浄化を行って綺麗にするそうです。そこからさらに温め直し、浴槽へと流すという過程を経ているようですが、これだけの莫大な水量をひたすら浄化して温めてということを一日中繰り返せるというのは並大抵のことではありません。何人か交代要員がいるそうですけれど、それにしたって馬鹿馬鹿しい程の消費になるはずです。

 という説明を改めてウルウにしてみたところ、具体的な例を出したためか、このいかにもちゃらんぽらんそうで頭の軽そうなお姉さんも実はかなりの実力者なのだということを納得いただけたようです。

「人間ボイラーで人間ジョウスイキなわけだ」
「はい?」
「凄いってことだよ。いや全く凄い。大したもんだ」

 ものすごい棒読みでウルウが褒めます。これはあれですね。好奇心が満たされたのでそろそろ相手するのが面倒くさくなってきましたね。私くらいになるとそのあたりの機微も自然と察せられるというかいやでも思い知らされてきたわけですけれど、バーノバーノさんの方は慣れていないようで、いやそんな大したことないのよえへへへへぇと相好を崩しています。ちょろすぎます。

「実際のところはね、風呂の神の神官って、入浴することで祈りを捧げるわけよ。だからこうして湯船につかっているだけで祈り捧げてるみたいなものなの。その状態で法術使う訳だから、燃費もいいってわけね」

 聞いてみれば成程、そのような理屈があったようです。お風呂屋さんでの勤務となればそれだけでお風呂に接する機会も増えますし、そりゃあ法術の腕も磨かれるわけです。

「だから私も神官って言ってもね、勤め始めてから伸び始めた促成神官って訳なのよ」

 そういって照れ臭そうに笑うお姉さんでした。こうして公衆浴場が増える以前は風呂の神様ってそこまで信仰を集めてなかったわけで、神官もそんなにいなかったわけで、今みたいにしっかり仕事として認めてもらえて、能力の伸びを感じるっていうのは、かなり嬉しいものなのかもしれません。そして公衆浴場が増えて、仕える神官も増えて、一般の人からの認知も増えると、その分神様の力も強くなります。そのうち一大風呂時代が訪れるかもしれませんね。

 ウルウが興味を失ってきていることが分かったのか、バーノバーノさんは少し膨れて、神様のことが分かったんだからもう少しありがたがってもいいと思うわとぼやきました。それが神官として神をないがしろにされて怒っているのか、すごい神官であるところの自分の扱いがぞんざいだから怒っているのかは定かではありませんけれど、大概面倒くさい人です。

 いい大人なのにとも思いますけれど、基本的に神官はより神の力に触れる、つまり既知外の神の感性に触れることの多い、能力の高いひとほどちょっとアレな所があります。人によっては言葉は通じるのに会話は通じません。

 バーノバーノさんはそのあたりまだ常識人ですけれど、気軽に法術を使う位にはちょっとアレな人のようです。

 指をくるくるっと回すと、さすがに自慢するだけあって祝詞(のりと)もなしに法術を使ったようで、湯面の一部がきらきらと黄金色に輝きはじめるではありませんか。一見ちゃらんぽらんで中身も大概残念なお姉さんと思っていましたが、技術は本物のようです。

「どうかしら? これが風呂の神マルメドゥーゾのお力を借りた浄化の法じゅ」
「えい」
「ちょまっ、ななな何してるのだめよ()()触っちゃ!」
「なに()()

 バーノバーノさんのうざったいもとい自慢気なセリフを遮るように、ウルウが突然虚空に手を伸ばし、何かを掴みます。私には何も見えないのですけれど、なにかびちびちと跳ねているようでウルウの手が左右に揺れます。

「あなた精霊が見えるの!? しかも触れるって!」
「精霊?」
「えーと、大雑把に言えば神様のすっごい弱い奴!」
「これがぁ?」
「それがよ! いま浄化の術に力を貸してくれてるありがたーいお風呂の精霊なんだから掴んじゃ駄目よ! ぽいしなさいぽい!」
「ぽいて」

 ウルウが呆れたように手を離すと、確かに湯面に何かが溶け込んだように思えましたけれど、やっぱり何も見えませんでした。

「ウルウ、ウルウ、なにが見えたのですか?」
「なんかこう……不細工なウーパールーパーみたいなの」
「うーぱー?」
「不細工って何よ! 可愛いじゃない!」
「なんかぬるっとした」
「そこがいいんじゃない!」

 よくわかりませんけれど、温厚そうなバーノバーノさんがぷんすこと怒るようなことをしれっとやってのけたようです。それにしても不細工やら可愛いやら、私も見てみたいです。ウルウが視線をあちこち向けるのでそのあたりにいるとは思うのですけれど、私にはさっぱり見えません。

「普通は見えないのよ。魔術師とか、神官とか、ちゃんと見える訓練した人じゃないと。ましてや触るだなんて」

 全く非常識な人ねとバーノバーノさんは言っていますが、私もそう思います。でも非常識でもいいので私も見てみたいですし触ってみたいです。むうと唇を尖らせると、ウルウはゆらゆらと見えない何かに視線を向けながら、どうでもよさそうに言いました。

「好かれてはいるみたいだけどね」

 私の肩のあたりを見ながら言いますけど、見えなければ意味がないのです!





用語解説

山椒魚人(プラオ)
 最初の人たちとも称される、この世界の最初の住人。海の神を崇め奉り、主に水辺や浅瀬に住まう隣人。肌が湿っていないと呼吸ができないが、水の精霊に愛されており、よほどの乾燥地帯でもなければ普通に移動できる。極めてマイペースで鈍感。好奇心旺盛でいろいろなことに興味を示すが、一方で空気は読めず機微にもうとい。

・国津神
 もともとこの世界に在った神々。海の神や空の神、またその眷属など。山椒魚人(プラオ)たちの用いる古い言葉でのみ名を呼ばれ、現在一般的に使われている公益共通語では表すことも発音することもできない古い神々。海の神は最も深い海の底の谷で微睡んでいるとされ、空の神は大洋の果てに聳える大雲の中心に住まうとも、その雲そのものであるとも言われている。

・天津神
 虚空天、つまり果てしなき空の果てからやってきたとされる神々。蕃神。海と浅瀬しかなかった世界に陸地をつくり、各々がもともと住んでいた土地の生き物を連れてきて住まわせたとされる。夢や神託を通して時折人々に声をかけるとされるが、その寝息でさえ人々を狂気に陥らせるとされる、既知外の存在である。

・隣人種
 隣人。人々。祈り持つ者たち。知恵ある者ども。言葉を交わし祈りを捧げ、時に争いながらも同じ世界に住まう様々な種族の人々のこと。一定以上の知性を持つことが条件であるとされる。

祖神(おやがみ)
 神々の中でもそれぞれの種族を連れてやってきた神のことを、その種族のものが指して敬う呼び方。この世界に住まうことを保証するおおもとの神。
・新しい神々
 山や森など、新しくできたものには新しく神が宿る。自然神の類。人格は無いか希薄ではあるが、祈りに応えて加護を与えることもある。

・人神
 隣人種たちのうち、神に目をかけられたり、その優れた才覚や行跡が信仰を集め、神の高みに至った者たち。武の神や芸術の神、鍛冶の神など幅広い神々がいる。元が人であるだけに祈りに対してよく応えてくれ、神託も心を病ませるようなことはあまりない。人から神になることを陞神という。

・半神
 神々の強い祝福を受けたり、人の身で強い信仰を集めたものが、現世にいながら神に近い力を得た生き物。現人神。祝福や信仰が途切れない限り不死であり、地上で奇跡を振るうとされる。

・法術
 神々の力を借りて奇跡を起こす術。精霊術。魔術より強力なものが多いが、信仰する神によって権能が違い制限が多く、また信仰の乏しい神の神官などでは、その神の信仰されている地域でしか法術が使えなかったり、特定の条件をそろえなくてはいけなかったりする。

・精霊
 神の内、とても低級なもの。万物に宿る力が形をとったもの。弱いものはただそうであるようにふるまうが、力の強いものはある程度の人格を持ち、低級神や小神と呼ばれたりする。

・好かれてはいる
 精霊に好かれるものは魔術や法術の才があるとされる。
・前回のあらすじ
風呂屋で風呂の神官を名乗る女性(裸)に神様講義を受けるリリオ(裸)と閠(裸)。
ブルーレイディスクでは湯けむりと謎の光が消えるとかなんとか。



 風呂屋で妙な女に絡まれて随分面倒な思いをしたが、しかしそれなりに為になる話は聞けた。
 どうにもこの世界には神様がいて、それも一神教のような形ではなく、神道のような多神教の神々らしい。

 細かな所はもう少しじっくり聞けば詳しくわかったかもしれないが、初対面の相手と裸の付き合いでじっくりと話を聞けるほど私のメンタルは強くないし、第一知ったところで得があるようにも思えない。
 見ればリリオもそれほど詳しくはないようだから、一般教養程度のところを浚えておけば問題はない。

 知る必要がある事であればそのうち嫌でも知るようになるだろうし、そうでないなら今あえて無理を押して知ろうというほど興味はない。

 いや、もともとフレーバーテキスト収集を趣味にしているようなところもあって、この世界の宗教観なんかにも興味は十分にあるのだけれど、残念ながら私の好奇心は見ず知らずの他人のもたらす言い知れない圧迫感に勝てるほど強いものではなかった。無念。

 それになにより、どうしようもない問題として、これ以上はのぼせそうだった。

 もともと長湯どころかシャワーで済ませていたような人種で、入浴自体に慣れていないせいか、頑強な肉体の割に早々にのぼせそうになっていたのだった。適当な所で話を切り上げ、湯から上がった時には少し足元がふらつき始めていた。

 それでも倒れてしまわない程度にはやはり頑丈なようで、なんとか洗い場までたどり着いて、無心に石鹸を泡立てて大型犬もといリリオを磨き上げている間に落ち着いてきた。

 さすがに昨夜あれだけ綺麗に磨いたおかげもあって、さほど汚れてもいない。
 いないが、わしゃわしゃとこすってやると犬よろしく喜ぶので、北海道で動物王国やっていた人よろしくよーしよしよしと全身磨き上げてやり、ざばーふとお湯で流してやる。
 調子に乗って泡立て過ぎたようで、何度か流してやらねばならなかった。

 私が自分の体を洗っていると何を調子に乗ったのかお背中流しますなどと言ってくるが、もちろん拒否だ。遠慮ではない。拒絶だ。
 無防備な背中を他人にさらすとか恐ろしいことできるか。ましてや触られるなど。
 私の悲壮なまでの断固たる拒否にリリオもさすがに折れてくれた。生暖かい視線がつらい。

 仕方がないので、ヘア・トリートメントとしてまた《目覚まし檸檬》を湯に絞って、髪をすいてやった。このくらいのことで機嫌が取れるのだから、まったくちょろい。

 温泉のお湯はすっかり流してしまうと効能が減るとかなんとか聞いたこともあるが、正直ピカピカに磨いた後にまたあの不特定多数が入る湯船に進入したいとは思えず、そそくさと後にすることにした。

 かなり不審かつ非常に不愛想で不敬な奴であろうにもかかわらず、バーノバーノと名乗った神官は私たちに湯冷めしにくくなるという法術をかけてくれた。

 地味だが、しかしありがたい術ではある。

 ありがたくはあるのだが、どうやらリリオには見えないらしい、なにやらウーパールーパーみたいなものがにゅるりと肌をはい回っていったのは(おぞ)ましいとしか言いようがなかった。叫ばなかった私を褒めてほしい。

 だってウーパールーパーだぞ?

 あのなんか、ぬめぬめして、びらびらしたエラみたいのが飛び出てて、ぺとぺとしてて、顔が間抜けな、あのウーパールーパーだぞ?
 しかもサイズ的には私の腕よりでかい感じの。

 さっきは反射的にひっつかんでしまったが、正直近寄りたくない。首根っこひっつかんで全力で体から遠ざけたい。

 ともあれ、リリオはなんだかくすぐったいなどととぼけたことを言っているし、私は私でぬるぬるぺとぺとしているような気がする肌を必死でこするし、折角の風呂の余韻も台無しだ。
 いや、まあもともとそれほどでもなかったけど。

 着替えてからも何となくあのウーパールーパーもどきがはい回った後が気持ち悪くてごしごしこすりながら旅籠に戻ると、早速夕餉の支度を整えてくれた。
 木賃宿とは比べ物にならない料金を請求してくるだけあって、きちんとした料理のようだ。接待じゃない、自分のためのご飯としてこんなにしっかりした形でご飯を食べるのはいつぶりだろうか。

 本来ならコース料理として一品ずつ出してくれるようだけれど、旅でお疲れでしょうし気疲れしませんように一度にお出ししましょうかと言ってもらったので、そのようにしてもらった。

 それなりに格式もあるだろうとはいえ、何しろ旅人の多い宿場町の旅籠だ。
 実際旅で疲れて面倒なのは御免だという客もいるだろうし、たまの旅位少し奮発しようという低層民もいるだろうから、そういった対応に慣れているようだった。

 少し待って、一通り料理がテーブルに並べられると、御用があればお呼びくださいと言い残して給仕は部屋を去った。これもまた、いかにも旅人といったくたびれた様子の私たちを見て、気疲れしないように気を使ってくれたのだろう。

 リリオは見たところきちんとした家で教育を受けたらしいところが見えるが、私はそう言ったお上品な世界とは縁遠い一般庶民だ。アルカイックスマイルの給仕を気にせず美味しくご飯を頂けるほど慣れちゃあいない。

 ともあれ、さて、ご飯だ。
 森の中でリリオのサバイバル飯は食わせてもらったし、茶屋で軽食は取ったけど、こういったきちんとした料理というのはこの世界では初めてだ。

 食前酒には、発泡性の果実酒が供された。

 思いの外濁りのない綺麗なガラス瓶を手に取り手酌でやろうとしたらリリオに分捕られ、思いのほかに楚々とした手つきで注がれるのでありがたく頂戴し、私もお酌し返した。
 なんだかちょっとおかしくなって鼻先で笑うと、リリオもまたおかしそうに笑った。

 陶製のゴブレットになみなみと注がれた果実酒が、しゅわしゅわと泡を立てては甘い匂いを立ち昇らせている。

 リリオがゴブレットを軽く掲げて「とすとん!」と変な鳴き声を上げる。

 いや、違うか。楽しげなこれはきっと乾杯の音頭なのだろう。
 私も真似するように「とすとん」と返すと、リリオは満足そうに笑ってゴブレットをあおった。

 むせるでもなく美味そうに干すさまは、どう考えてもこいつ成人前から飲み慣れていやがりそうだったが、まあそのあたりは私がどうこう言うところでもない。

 私は特別酒に強いほうでもないのでちびちびやらせてもらったが、これがなかなか、うまい。

 味わいとしては林檎酒(シードル)に近い。
 酸味の強い林檎(リンゴ)を使っているようで一瞬きつく感じるが、しかしさっぱりとした飲みごたえで、すきっと切れもいい。炭酸と一緒に鼻に抜けていく芳香が鮮烈で、内側からすっきりとする。

 リリオによれば北方ではこの林檎のような果物が名産で、成人したての若者たちがまず親しむのがこの飲み口の軽い酒であるらしい。
 とはいえ、飲み口が軽いとは言っても酒は酒で、リリオのように手酌でかっぱかっぱとやるほど弱くはない、はずだ。

 食前酒で程よく胃が開いたところで、早速料理に手を付けていこう。

 カトラリーは立派な刃の着いたナイフと三本歯のフォーク、それにスプーンが一つずつで、前菜も肉もすべてこれでやれということらしいが、これも略式コースの気遣いだろう。フレンチなら外側から使えばいいが、こちらの世界のマナーは知らないので助かった。

 まずは前菜、らしいのを頂こう。

 まだ若い薄緑のアスパラらしいものをさっと湯引きして、チコリーのような白い葉野菜とともに色濃いオレンジ色のソースをかけたものだった。
 盛り付けこそ素朴なものだったが、色遣いがいい。目を引く。
 フォークの先にちょっとソースだけをつけて嘗めてみたが、ぴりり、と甘辛い。

 アスパラにソースを絡めて穂先をかじってみると、ぱきりぺき、と歯応えが心地よい。
 森で食べた白アスパラの柔らかくしっとりとした触感もよかったけれど、こちらの硬すぎず、しかししっかりとした小気味よい歯応えもよい。
 甘さでは劣るけれど、僅かな苦みと、ぎゅっと詰まったうま味がいい。

 そしてまた、この甘辛ソースがいい仕事をしている。平坦になりそうなところに、うまい具合にアクセントになってくる。
 辛い!というほど刺激的ではないが、うまいこと持ち上げてくれる。
 
 チコリーもまた、ソースとうまく絡む。
 これはちょっと苦味の強い葉野菜なのだけれど、今度はソースの甘味がうまいこと取り持ってくれる。しゃきさきとした歯応えもまた、いい。
 アスパラと言い、チコリーと言い、舌で食べる以上に、歯と歯茎で食べるといった具合だ。

 前菜でぐにぐに胃袋が刺激されたところで、じっくり構えてスープを頂こう。

 スープはいかにもどろりとした濃厚そうな黄色いポタージュ・リエだ。旅人向けの、いかにも腹にたまりそうな食べるスープといった貫禄だな。

 スプーンですくって口にしてみると、まず、熱い。恐ろしく熱い。
 とろみをつけているせいか、マグマもかくやと言わんばかりの熱さだ。
 ハフハフとなんとか必死に飲み下し、今度は落ち着いて、しっかりと息を吹きかけて冷まして、ゆっくり味わう。

 まずやってくるのは濃すぎるほどに甘いな、という猛烈な甘さのパンチだ。それもカボチャやイモといった、でんぷん質特有のどっしりした甘さだ。砂糖の甘さではない。むしろ甘さを引き立てるためにほんの少しの塩、恐らく調味はそれだけだ。液体状のカボチャ、いや、半固形状のカボチャと言っていい。

 しかしこの甘さが、どうにも、後を引く。
 くどいかくどくないかと言えば、ややくどい。
 ややくどいが、しかしギリギリ内角高めといったくどさ。
 アウトよりの、セーフ。
 ストライクとは言わないがしかし、ありだ。全然ありだ。
 どっしりしすぎて小食の私にはちょっと重いが、しかし健啖家ぞろいだろう旅人にとっては嬉しい一杯じゃなかろうか。

 付け合わせのパンにも手を伸ばしてみたが、これはどうにもな。
 というのも、いささか硬すぎる。日持ちするよう焼しめてある、というのもあるのだろうが、恐らく酵母が違うのだな。それに麦も違う。
 これは小麦というより、ライ麦や、雑穀に近い感じがある。少し酸味のある黒パンだ。

 これはちょっとな。
 うん。
 ちょっといただけない。
 こういう硬くてパサついたパンってのは、あんまり黄色人種には合わないんだ。西欧人は唾液量が多いからこういうのも平気で食べられるって聞くが、こっちはそうでもないんだ。

 むしっと力を入れて割いて、口の中に放り込んでもっちゃもっちゃと噛んでみるが、これがまた顎が疲れる。
 唾液がなかなかでないのでほぐれない。
 噛んでいるうちにライ麦だか雑穀だか特有の酸味が感じられてくるんだけど、それにしたってドバドバ唾液が出るほどじゃあない。

 これはなあ、これはちょっときついな。

 こらリリオ。食べないとは言ってないでしょうが。
 意地汚く伸ばしてくる手をはたいて落とし、さて肉料理だ。

 肉料理は、これがまた、ごつい。

 分厚いプレートにどんと分厚い肉がのっているのだけれど、これがほかほかと湯気を立てているっていうのは、全く視覚の暴力だ。
 肉も分厚けりゃ脂も分厚い。付け合わせの塩茹でした根菜もごろっとでかい。
 しかし決して皿をはみ出すようなことはないし、派手に見せようという風情でもない。
 この食い方が一番うまいからこうして出すのだという、実直さすら感じる。粗にして野だが卑ではないといった風情だ。

 こりゃごついナイフがいるわと思いながら力を込めて解体しようとフォークを刺すと、思いのほかに手ごたえが軽い。
 するりと歯が入る。
 おっ、と思いながらナイフの刃を立ててみると、これもまたぎちぎち言わせることなくするりするりと刃が入る。
 肉だけでなく脂身までもとろりと切れる段に至れば、どうやら単に焼いただけではないなと唸らせられる。

 はてさて一体こいつは何者か。
・前回のあらすじ
目には見えないウーパールーパーに全身を這い回られる悍ましい経験にも耐えきった姫騎士もといウルウ。
彼女を待ち受けていたのは満腹中枢を破壊せんと襲い掛かる旅籠飯であった。



 バーノバーノさんと別れてお風呂屋を出ましたけれど、湯冷めしない法術などというなんとも胡散臭い謳い文句の法術も効き目は確かなようで、夜も更けて少し肌寒い初夏の夜気の中を歩いても、ぽかぽかと温かく全く冷えません。便利です。

 ウルウが急かすのでちょっと速足で旅籠に戻ると、早速夕ご飯の支度をしてくれました。
 部屋の食卓には敷き布が敷かれ、火精晶(ファヰロクリステロ)の行燈に火が灯され、久しぶりに豪勢な感じです。商人や貴族という風には見えない組み合わせのためか、旅でお疲れでしょうし気疲れしませんように一度にお出ししましょうかと気を遣ってもらったので、そのようにしてくださいとお願いしました。

 一品一品出してもらうのも落ち着いて食事ができてよいのですけれど、そういうお上品な食べ方は家にいるときだけで十分です。せっかくの旅の宿なのですから、普段できないことをしなくては。

 給仕が次々に温かな料理を運び入れてくれ、支度が整ったところで、あとはいいからと目配せすると、用聞きのベルだけ残していってくれました。私は給仕され慣れていますけれど、不思議なことにウルウは育ちはよさそうなのに人に何かされるのに慣れていなさそうなんですよね。商人の出なのか、いやでもある程度いいところの商人なら給仕くらいはなあ、と少し考えたりしますけれど、まあ、でも、野暮ですよね、うん。

 さてさてさて。それはともあれご飯です。
 久方ぶりにきちんとしたご飯ですから楽しみです。

 ウルウが何でもないように手酌で酒を注ごうとするので、慌てて取り上げて注いであげます。
 なんかもうウルウの一人仕草がこなれ過ぎてていっそ哀れなくらいです。
 とっとっとっ、と酒杯に林檎酒(ポムヴィーノ)を注いであげると、ウルウもまた同じように私の酒杯に注いでくれます。ウルウがなんだかはにかんだように笑うので、私も照れ隠しするように笑って酒杯を掲げます。

乾杯(トストン)!」
「……とすとん」

 私が勢いをつけて小さく叫べば、ウルウもはにかむように小さく続いてくれました。本当に、もう、本当にウルウはずるいです。
 私はちびりちびりと味わうように楽しむウルウを尻目に、泡立つ林檎酒(ポムヴィーノ)を呷ります。強めの炭酸が喉を焼きますが、それでかえってすっきりしました。

 ウルウが興味深そうに酒杯を覗き込んでいるので、私は少し得意になって、このあたりで採れる林檎(ポーモ)や、それから作られるいろんな林檎酒(ポムヴィーノ)のことを説明しました。
 ウルウはなんだかんだ言ってそういったこまごまとしたことに興味を抱いてくれて、私のつたない説明にもいちいち耳を傾けてくれるのでした。

 そういえば、以前ウルウがくれた不思議な果実は、どこか林檎(ポーモ)に似ています。
 もちろん林檎(ポーモ)はあんなに甘くはありませんし、あんなに綺麗でもありませんけれど、もしかしたら近い品種なのかもしれませんね。あの不思議な果実でお酒を造ったらどれほど美味しいことでしょう。

 ウルウが実に綺麗な手つきで食器を扱うのは、なんだか納得は納得ですけれど、不思議は不思議ではあります。さほど慣れている感じではないのですけれど、危うげなく器用に食べていますし、若干礼儀に疎いところはあるようですけれど、少なくとも見苦しいようなことはない及第点ですし、うーん、謎です。

 謎と言えばこの前菜のタレも謎です。
 緑松葉独活(アスパラーゴ)の素朴さにも、菊苦菜(チコリオ)の苦みにもうまく絡む甘辛いタレで、ちょっと見ない香辛料を使っていそうです。でもどこかで食べたような気もします。ここらへんで採れるのでしょうか。これが手に入るのだったら野営ももう少し楽しくなるのですが。
 まあ手に入らないことを嘆くより今美味しく食べられることを喜びましょうえへへ。

 汁物(スーポ)はどろりと濃厚なポタージョで、色といい香りと言い、これは南瓜(ククールボ)と芋の類、それに豆を何種類か裏ごししたもののようです。
 とても濃厚な味わいで、疲れた体とぺたんこのお腹にはとてもうれしい一品です。
 さらっと上品に仕上げた汁物(スーポ)ももちろん美味しいものですけれど、こういう素材そのものといった素朴な味わいの方が力強くて私は好きです。

 ウルウがちょっと顔をしかめたのは麺麭(パーノ)でした。
 小さな口でもそもそと食べづらそうにしています。汁物(スーポ)に浸したりしていますがどうにも硬いという顔をしています。
 もしかしたら柔らかく白い小麦の麺麭(トリティカ・パーノ)しか食べたことがないので、いくらか硬い黒麦の麺麭(セカル・パーノ)は食べ慣れていないのかもしれません。

 確かに黒麦の麺麭(セカル・パーノ)は、小麦の麺麭(トリティカ・パーノ)と比べるといささか味が落ちますし、柔らかさでいえば随分劣ります。けれど北の方では小麦より黒麦の方がよく取れるのでこの辺りではもっぱら黒麦の方が育てられていますし、私もどちらかというと黒麦の方が馴染みがあります。

 もしウルウが南の方の生まれであまり慣れていないというのなら、この硬さや独特の酸味に苦手を感じてしまうのも無理はありません。私はウルウが慣れない食事で辛い思いをしないようにとそっと手を伸ばして麺麭(パーノ)を食べてあげようとしましたが、真顔で手をはたき落されました。ちぇっ。

 ウルウの顔は素直じゃなさすぎると思います。
 美味しいと悪くないと好きじゃないの間が微妙過ぎます。

 まあよろしいです。ウルウがこうしてご飯をおいしく食べられているというのならばそれが一番です。
 昨日の木賃宿で堅麺麭粥(グリアージョ)を食べさせた時は、ものを食べる顔というより焚火に火をくべるような無関心さでしたからね。粥を食べているというより無を食べているというような概念的抽象的な顔でした。

 人間、美味しいものを食べている時が一番の幸せというものです。

 さあ!
 そして!
 いまこそ!

 その幸せの絶頂、この旅籠の名物のお出ましです!

 分厚いお皿にドンと鎮座ましましたるこちらのお肉。
 実は、あの角猪(コルナプロ)のお肉なのです。

 境の森の中で遭遇したあの角猪(コルナプロ)なんですけれど、確かに手ごわいは手ごわいですし、猛獣は猛獣なんですけれど、手練れの狩人にしてみると十分狩りの対象なんですよね。

 勿論、あの()()()のように立派に成長したものはなかなか一筋縄ではいかないのですけれど、若くてもう少し小振りなものは割とよく獲られて、このあたりに着くまでに程よく熟成して食べごろになるのです。

 森の中で食べた時は採れたてで、新鮮ではありましたけれど熟成はしていませんでした。お肉は腐りかけが一番おいしい、とまで言うのはやりすぎかもしれませんけれど、程よく熟成させた頃が確かにおいしいのです。

 この旅籠では、専属の狩人が獲った角猪(コルナプロ)をその場で解体、適切な形で保存して運搬し、その道のりの間で程よく熟成させ、さらに旅籠の氷室で適切な状態まで熟成を重ねさせ、最高の状態で提供してくれるのです。
 他で使う路銀を精一杯節約してでもこの旅籠に泊まるつもりだったのですけれど、それというのもこの名物を食べたいが一心だったのです。

 そして名物とまで(うた)えるのは、なにもお肉の熟成だけの問題ではありません。

 ウルウも驚いた顔をしていますが、これだけ分厚いお肉なのに、何ととても柔らかいのです。小刀がすっと通って皿にカチンと当たるほど、とてつもなく柔らかいのです。硬い臭い旨いで評判の角猪(コルナプロ)とはとても思えない柔らかさです。

 この柔らかさこそが名物《角猪(コルナプロ)の煮込み焼き》なのです。

 その秘訣は旅籠の料理人たちに口伝でのみ伝えられている秘密だとかで詳しいことはわからないのですけれど、表面を焼いて旨味を閉じ込めた後、匂い消しも兼ねた香辛料と何種類かの野菜、香草類とともにじっくりことこと、とろっとろに柔らかくなるまで特殊な鍋で煮込み、崩さないように再度表面を鉄板で焼いて、特製のタレをかけて提供してくれるという、とても手の込んだ一品です。

 まあ、これでも私、角猪(コルナプロ)は食べ慣れてますし、本当にこれでもって自分で言っちゃうくらいこれでもいいとこの育ちなので、割といいもの食べてきてるわけです。

 その私の舌をうならせたら大したもんで「うまかーッ!!」

 失敬。思わず魂の叫びが。
 ウルウも目を丸くして見てきますけれど、しかし仕方がありません。
 何しろ、美味しい。そりゃ舌もうなるどころか叫び出します。

 小刀がするりと入るほど柔らかいお肉を切り分けて口に含むと、繊維が口の中でほろほろとほどけていくほど柔らかいんです。そしてただほどけていくだけじゃないんです。ほどけながらとろっとろの肉汁がとろっとろとろっとろうへへへへ。幸せが口の中で溢れます。

 脂身なんかも驚くほど柔らかかくて、口の中でぷりっぷりぷるっぷるとした独特の食感で踊りながら、やがてフルフル溶けていくんです。大きく頬張ってぎゅむぎゅむっと噛み締めると、一瞬強い歯応えがあったっと思うと、ぶりゅんっとはじけて脂の強い味わいと、香辛料のぴりりとした辛味が来ます。

 そして柔らかいばかりではないんです。

 お肉をぎゅむっと噛み締めるとですね、繊維がほろほろと崩れていくんですけれど、その繊維一本一本は確かに力強いお肉のままなんです。それを奥歯でぎむぎむと噛み締めると、細い繊維の一本一本からまた滋味があふれてくるんです。

 何しろお肉の味も濃厚なら肉汁の味も濃厚ですから、これだけの大きさだと食べ切る前に飽きが来ちゃうんじゃないかって少し不安になるんですけれど、そこで活躍してくれるのが、皿に添えられた二種の香辛料と一瓶の液体なんです。

 まず一種類目の香辛料は、粗目に挽かれた灰色っぽい粒なんですけれど、これね、これ角猪(コルナプロ)の角なんです。これをぱらりっとかけまして、そして一口頂くと先程のまったりとした味わいに、ぴしゃんと走る刺激があります。胡椒(ピプロ)のような、山椒(ザントクシロ)のような、ピリッとしたしびれるような辛味が程よく引き締めてくれるのです。

 二種類目の香辛料はもっとシンプルで、黄色くねっとりとした練り辛子(ムスタルド)です。こちらはもうシンプルに辛いのでつけすぎると大変なのですけれど、さっぱりと後を引かない辛さで、ともすれば重くくどく感じてくるお口を回復させてくれる心強い子です。
 私はたっぷりつけるのが好きですけれど、つけすぎたウルウは目を白黒させて林檎酒(ポムヴィーノ)を口にして、その酒精でちょっとくらっと来ていました。

 そして最後の一瓶ですけれど、これが一番シンプルで、一番身近で、そして一番効果がある、お酢です。それも葡萄(ヴィート)のお酢ではなく、このあたりで盛んな林檎(ポーモ)で作った林檎酢(ポムヴィナーグロ)なのです。
 実は角猪(コルナプロ)って、雑食ではあるんですけれど、野生の林檎(ポーモ)を好んで食べるんですよね。だからなのか林檎酒(ポムヴィーノ)のタレや林檎酢(ポムヴィナーグロ)ととても相性がいいんです。

 このお酢をちょっとかけてやるとあら不思議。さっぱりとした味わいに再び食欲がわいてくるじゃあありませんか。角猪(コルナプロ)の角、練り辛子(ムースタード)、そして林檎酢(ポムヴィナーグロ)、三度味を変えればどんなに分厚いお肉だってペロリと食べられますね。

 小食気味のウルウも、さすがにちょっと苦しそうではありますけれど見事完食して、脂でてかてかと光る唇をそっと拭っています。

「ブタノカクニっぽい」

 よくわかりませんが大変ご満悦のようで私も幸せです。

 美味しいお酒を頂いて、美味しいお肉を頂いて、そしてなんとこの後のお楽しみもあるのがお高い旅籠の素晴らしいところです。

 私が呼び鈴を振って給仕を呼ぶと、さすがに手慣れたもの、察しておりますよと言わんばかりの顔で手早く食卓を片付け、そして食後のお茶と、お菓子を持ってきてくれました。

 そう、お菓子!
 きっちりお金を取る旅籠だけあって、きっちりとったお金分だけ、きっちり最後までもてなしてくれるのです!

 街の宿でも食後のお菓子まで付くのは結構お高いところだけ。そこをしっかりともてなしてくれるこの旅籠は、実は旅してでも訪れたい宿として結構な人気だったりするのです。

 さて、お茶は林檎(ポーモ)の皮で煮出した林檎茶(ポムテーオ)で、さっぱりとした甘みと香りで少しくどくなった口の中を洗ってくれます。

 そして気になるお菓子は、こちらも名物《黄金林檎(オーラ・ポーモ)》!
 皮をむいた丸のままの林檎(ポーモ)を蜜の中でじっくり煮込んだという贅沢な一品で、名前の通り黄金色にとろりと輝く柔肌はもう犯罪的な輝きです。貴族の食卓に並んでいてもおかしくないというか、私、実家でもこんな素晴らしいお菓子そうそう食べたことないんですけど。

 至高の存在に飾りなど要らぬと言わんばかりに、堂々と皿の上にただ一つ鎮座ましましたるこちらの《黄金林檎(オーラ・ポーモ)》に小刀の刃を通し、わくわくしながらえいやっと間二つに切ってみますと、何と内側からぽろぽろと零れ落ちてくるのは干し林檎(ポーモ)林檎酒(ポムヴィーノ)漬けでした。

 不思議なことに一度干すことで甘さと旨味が増し、それをお酒に漬けることで、甘味だけでなく酒精の辛さとが合わさって大人の味わいになっています。

 これらを絡めて、切り取った林檎(ポーモ)をぱくり。
 ほう。
 思わずため息が出るほどの幸せたっぷりの甘さです。
 それも甘いばかりではありません。
 林檎(ポーモ)を煮込む際に香草の類を一緒に入れているようで、単調になりがちな甘さに、辛味、渋み、また香りを加えて複雑で立体的な味わいを作り出しています。

 また歯応えが独特で溜まりません。煮込んでいますから柔らかいは柔らかいのですけれど、崩れてしまうほどの柔らかさではなく、向こうが透けるんじゃないかというほどきれいな黄金色に均一に染まりながら、しゃくりしゃくりと確かに林檎(ポーモ)らしい小気味よい歯応えと酸味が残っていて、歯茎にキュンキュン来ます。

 そしてその合間合間に林檎茶(ポーモテーオ)の香り豊かな味わい。

 黄金郷(ウートピーオ)です。
 今この瞬間、ここに林檎の黄金郷(ポムトピーオ)が誕生しました。
 幸いと喜びに満ち溢れた、安らぎの世界がここに広がりました。

「リリオ」
「えへへぇ……」
「気持ち悪い」
「ぐへぇ」

 釘を刺されてしまいました。

「リリオ」
「はい」
「お腹一杯だし、ちょっと私には甘すぎるからあげる」
「………」
「リリオ?」
「神はここにいまし……!」
「気持ち悪い」
「ぐへぇ」







用語解説

火精晶(ファヰロクリステロ)
 火の精の宿る橙色や赤色の結晶。暖炉や火山付近などで見つかる。
 可燃物を与えると普通の火よりも長時間、または強く燃える。
 希少な光精晶(ルーモクリステロ)の代わりに民間では広く照明器具の燈心に用いられている。

林檎酒(ポムヴィーノ)
 林檎(ポーモ)と呼ばれる果物から作られた酒。発泡性のものが一般的。

林檎(ポーモ)
 赤い果皮に白い果実を持つ。酸味が強く、硬い。主に酒の原料にされるほか、加熱調理されたり、生食されたりする。森で採れるほか、北方では広く栽培もされている。

苦菊菜(チコリオ)
 笹の葉状の幅広い葉を持つ野菜。やや苦味がある。生でサラダとして食べるほか、軽く加熱したりする。

南瓜(ククールボ)
 分厚い果皮を持つ野菜。加熱すると柔らかくなり、甘味が強い。煮込むことが多いが、薄く切って焼いて食べることもある。料理のほか、甘味を利用して菓子の材料にもなる。

麺麭(パーノ)
 穀物の粉を水で練り、発酵させ、焼き上げたもの。つまりはパン。

小麦の麺麭(トリティカ・パーノ)
 いわゆる普通のパン。小麦の生育の悪い北方ではちょっとお高い。
 黒麦の麺麭(セカル・パーノ)に慣れた北方民にとってはやや物足りないようだ。

黒麦の麺麭(セカル・パーノ)
 ライ麦のような穀物をもとに作られたパン。黒っぽく、硬く、製粉も甘いが、栄養価はぼちぼち高い。

堅麺麭粥(グリアージョ)
 堅麺麭(ビスクヴィートィ)を砕いてふやかして作った粥。普通は旅している間もっぱらこれと干し肉と乾燥野菜のお世話になるため、旅人の最も馴染み深い食事ランキング一位にして二度と見たくない食事ランキングも上位。

・《角猪(コルナプロ)の煮込み焼き》
 ヴォースト直近の宿場町に店を構える旅籠《黄金の林檎亭》の名物料理。後述のデザートもあって、ここの料理を食べたいがために用もないのに宿場町まで訪れるお客さんもいるのだとか。宿泊客限定の料理で、レシピは門外不出。

胡椒(ピプロ)山椒(ザントクシロ)辛子(ムスタルド)
 この世界にも胡椒や山椒、辛子といった香辛料が存在し、そしてそれなりに出回るくらいには廉価のようだ。

林檎酢(ポムヴィナーグロ)
 葡萄の取れる地域では葡萄酢が、米の取れる地域では米酢が盛んなように、林檎の栽培が盛んな北方では林檎酢が盛んなようだ。

林檎茶(ポムテーオ)
 林檎(ポーモ)の皮などと甘茶などから煮出されるお茶。《黄金の林檎亭》ではとろっと甘いデザートに合わせて渋めに仕上げているようだ。

黄金林檎(オーラ・ポーモ)
 看板にも名を掲げる名物菓子。贅沢に林檎を丸々一つ使ったもので、こちらも門外不出のレシピ。貴族でもなかなか真似できないという。

黄金郷(ウートピーオ)林檎の黄金郷(ポムトピーオ)
 黄金郷、理想郷、天国。
 高品質の甘味が脳にもたらす幻覚。

・神はここにいまし
 神は応えない。