前回のあらすじ
温泉の効能を全身でたっぷりと味わった三人。
豊かさと、心地よさと、ほんの少しの切なさと。
たっぷり長々と温泉を楽しみ、少しのぼせ気味の私たちは、ほかほか湯上りを楽しんでいた。
具体的には、体をふいて着替えを終えて、休憩所の長椅子に腰を下ろして、女中さんが淹れてくれてよく冷えた甘茶を頂いていた。
この甘茶って言うのは、冷やしてもなかなかにおいしいものだね。今日頂いているのは味わいとしてはハーブティーの類というか、以前貰ったハスカップ茶に似ているというか、甘酸っぱい感じなんだよね。
でも甘茶って一言にいっても実はいろいろあって、ベリーのものだったり、ハーブのものだったり、要するに甘いお茶はみんな甘茶なんだよね。
歴史的には、西方から茶が入ってきたんだけど、それは最初紅茶みたいな形だったのかな。でも栽培の難しさで育てられなかったり、発酵の難しさで断念したり、渋みとかがあんまり好まれなかったりとかでそこまではやらなかったみたい。
でも貴族を中心に喫茶の文化自体は広まって、自分達でもどうにかできないかなーって色々試した結果が、今の甘茶っていう文化みたいだね。
だから地方をまたぐと同じ甘茶でも全然味わいが違ったりする。これはなかなか面白いね。
今でも少ないながら茶の文化はあるらしいけど、南部で輸入品を飲んだり、貴族が本当に趣味で飲んでたりするくらい。で、南部自体は、珈琲と同系統であるらしい豆茶が流行ってるから、まあ結局一部貴族しかやってない飲み物だよね。
そんなわけで、以前オンチョさんに貰った西方の緑茶みたいな茶葉は本当にうれしかったりする。
甘茶もおいしいんだけど、やっぱり緑茶ってなじみ深いからね。美味しいとか美味しくないとかいう以前に、ほっとする。
まあお茶を飲むとホッとするっていうやつは本当のお茶を飲んだことがないらしいんだけど。
「心臓にアドレナリンをぶち込んだような気がする、だっけ」
「死んじゃいますって」
「ですよねえ」
女中さんに突っ込まれてしまった。
しかし甘茶。甘茶かあ。美味しいんだけど、風呂上りに甘茶頂いても、こう、いまいちピンとこない。そりゃ、湯上りに冷たいもの飲むと湯冷めしにくいとは聞いたことあるけど、でもお茶じゃないんだよ欲しいのは。
「牛乳……」
「え?」
「湯上りに冷やした牛乳飲むと、なぜかおいしいんだよね」
「またウルウが変なこと言い始めました」
まあこっちの世界には乳を冷やして飲むという文化自体があまりないからな。貯蔵の為に冷蔵こそするけど、別に冷たい牛乳をありがたがって飲む文化はない。温めて飲む方が多い。
リリオが呆れるなか、しかし意外にもこれに応えてくれたのは女中さんだった。
「わかります。美味しいですよね」
「おっ、わかります?」
「皆さんなかなかわかってくれないんですけどねえ……美味しいですよね。湯上りの牛乳」
「ああ、久しぶりに飲みたくなってきた……」
ごくりと喉を鳴らすと、内緒ですよと女中さんは番台に入っていき、そしてグラスにひんやりと冷えた牛乳を注いで人数分持ってきてくれた。自分用にこっそりと氷精晶入りの箱で冷やしているらしい。
しかも真っ白な色合いではない。
「もしやこれは……」
「イチゴ牛乳です」
「イチゴ牛乳……!」
あの、いまではイチゴ入り乳飲料とかイチゴラテとか呼ばなければならなくなったあの!
実際何が入っているのかよくわからなかったフルーツ牛乳より、味がはっきりわかってこっちの方が好きだったな。
私はありがたやありがたやと手を合わせて、腰に手を当ててこれを一気に頂いた。
やはり湯上り牛乳を頂く時の正しい作法と言えば、これだろう。
「ぷはー!」
「いい飲みっぷりですねー」
「美味しかった。ありがとう」
「いえいえ」
そんな私たちのやり取りをみて、トルンペートがおもむろにグラスをあおった。
「……成程?」
そんな、そりゃあ美味しいけどそこまでか、みたいな顔されましても。
続いてリリオもあおる。
「あー……美味しいは美味しいです」
うん、それな。
まあ、実際問題として湯上りに飲もうが他の時間に飲もうが牛乳の味が変わるわけではない。
ではなぜこれが流行ったかと言えば、そもそも冷蔵庫が各家庭にない時代にはやったんだよね。
昔、冷蔵庫がまだ普及していない頃、繁盛していた銭湯には必ずと言っていいほど冷蔵庫が置いてあったそうな。家に冷蔵庫がなければ、牛乳を飲む機会なんて朝の配達の一本くらいのもの。それがいつも行っている銭湯に登場したらどうなるか。
このコラボレーションが人気となり、そしてそのまま惰性でその感覚だけが引き継がれていった結果が湯上りに牛乳という組み合わせであって、別にこれで味が変わるわけではなく、大いに気分的な問題なのだ。
ああ、でも、美味しかった。
前世でも数回しかやったことないけど、刷り込みってすごいなあ。
用語解説
・甘茶
甘めの花草茶。というのが大まかな所で、実際には地方によって大いに異なる。
東部では甘めのベリー系のお茶のことを甘茶と呼んで一般的にたしなんでいるようだ。
・ハスカップ
多分読者のかなりの人が知らないだろう北海道産の果物。ベリー系。
生のままの保存が難しいので、もっぱら加工品として流通している。
味はブルーベリーっぽいというか、なんというか、ハスカップ味である。
北海道土産に買っていってもなにそれと言われる可能性の高いフレーバーである。
・心臓にアドレナリンをぶち込んだような気がする
けだし名言だね。
・いまではイチゴ入り乳飲料とかイチゴラテとか呼ばなければならなくなった
西暦二〇〇〇年に雪印集団食中毒事件が発生して以来、「飲用乳の表示に関する公正競争規約」により、乳一〇〇パーセントのものでなければ「牛乳」という名称がつかえなくなったのである。
・
前回のあらすじ
湯上りのイチゴ牛乳を楽しんだ三人。
異世界人にはわかりづらい楽しみだった。
さて、お風呂も終えて、部屋に戻ってきましたけれど、まだ寝るには少し早いですね。まあたまには早めにぐっすり寝入ってしまうのもいいですけれど、折角ただで泊まられている宿ですし、何かもったいないかもしれません。
三人でトランプ遊びでもしようかとも思いましたけど、最近、というか最初からずっと私って勝率かなり低いんですよね。楽しいは楽しいんですけど、一度見たものを忘れないウルウと、たまにいかさま仕掛けてくるトルンペート相手だと、私って顔に出やすいし馬鹿正直すぎるみたいなんですよね。
それでも楽しいは楽しいんですけれど、折角温泉宿に来てやるのがトランプ遊びで、しかも掛け金巻き上げられるって言うのはどうも。
などとぼんやり考えていると、ウルウがふと部屋の中に置かれていたチラシに気付きました。
「フムン」
「どうしました」
「按摩やってるって」
「按摩……フムン」
按摩と言えば、按摩師に疲れた身体のコリを揉みほぐしてもらうというあの按摩でしょうか。
思えば私たちも旅に出てからゆっくり休むということをしていませんでしたし、折角の温泉宿ですし、いい機会と思って徹底的に骨休めするのも良いかもしれません。
そう思って女中さんに頼んでみると、しばらくしてやってきたのは先ほど休憩所で牛乳をふるまってくれた女中さんでした。
「おや」
「あれ、先ほどのお客さん」
「按摩師さんじゃないんですか?」
「今日はお休みでして。私はユヅルと申します。あ、でも按摩はちゃんとしますから、安心してくださいね」
まあ、そういう日もあるでしょう。
私はちょっとがっかりした思いで、寝台に体を横たえました。
「じゃあまずうつぶせでお願いしますねー」
女中さん、ユヅルさんはまだ少女と言ってもいいくらい若い娘さんで、そうですね、精々私と同い年かそこらといったところ、成人したぐらいかなといった感じです。言っちゃあなんですけれど、下働きならともかくこういう仕事に出てくるのは私はどうかと思いますね。
腕も見るからに細いし、指なんかもまあ水仕事も大してしたことがないようなつやつやしたものですし、私のこりにこった体をもみほぐすなんて無理でしょうよと、そう思っていました。
そう……そう思っていたころが私にもありました。
「あふ……っ……くぅ………あー……いい、そこ、そこ……」
「はーい。痛かったら言ってくださいねー」
「あー……い……」
開始数分で私はぐでんぐでんと寝台の上でもみほぐされ、柔らかなこと章魚のごとしみたいにぐんにゃりさせられてしまいました。なんとも恐るべき指先です。
決して力が強い訳ではなく、むしろ弱いくらいかなと思うくらいなんですけれど、その指先がぐいぐいと私の体を遠慮なくもみほぐすたびに、筋肉の芯にまで届くような心地よい快感が走るのでした。
時間にして四半刻もしないうちに私の全身のコリというコリはもみほぐされ、自分でも知らなかった疲労はすべて押し出され、後に残ったのはしびれるような快感に打ちのめされてぐんにゃり転がる情けない身体だけでした。
「はい終わりです。いやー、それにしてもすごいですね。こんなに鍛えられているなんて」
「あー……わかりますー?」
「いろんな人揉んできましたけれど、一番揉みごたえありましたね」
それはまた、うれしいような、なんというか。
私は小柄ですし、魔力の恩恵に頼っている部分も大きいですけれど、それでももともとの体もきちんと鍛えていますからね。
続いてトルンペートが犠牲に、もとい按摩を受けましたけれど、これは見ていて面白いものでした。
いつもはつんとしたおすまし顔が、柔らかくもみほぐされるたびにどんどんとろけていって、最後にはもうあられもない顔をさらしていましたね。嫁にいけなくなるような顔です。
「トルンペートさんもすごいですねえ。針金みたいにこっちこちです」
「あっ、あー……んっ、あたしは、御世話役だから、ね、んっ……このくらい……あっ」
「じゃあその疲れももみほぐしていきましょうねー」
「あっ、らめ、らめえええええ……っ」
人間の体ってあんなにぐんにゃり曲がるものなんですねえ。トルンペートのもともとの柔軟さもあるんでしょうけれど、ユヅルさんも容赦ありませんね。むしろ面白がってやってるんじゃないかというくらいぐにゃんぐにゃんと揉んで曲げて伸ばしてます。
私もあんな、もちでもこねるかのようにもみほぐされていたのかと思うとなかなか恐ろしい光景です。
そうして借りてきた猫どころかすっかり快楽の海に溺れてしまったトルンペートの次は、いよいよウルウです。
触られるの嫌がるかなと思ったら以外にも普通の顔で寝台に横になるので不思議そうに眺めたら、
「この人はちゃんと仕事で触る人だから」
つまり耐えられるということなんでしょうけれど、よくわからない理屈です。
ウルウの体を揉み始めてすぐに、今度もまたユヅルさんは驚きました。
「う、ウルウさんあなた……!」
「んー……」
「全然こってないですね! ここまでこってない人初めてです!」
「あ、やっぱり?」
ああ、うん、もしかしたらと思ってました。ウルウって時々化け物じみてますもんね。
「でも一応揉み解していきますねー」
「んっ……あっ………ふゥん……いっ……………ゃ」
ウルウが揉まれている間、私たちはトランプを取り出して神経衰弱で勝負することにしました。
間が持たないという以上に、魔が差しそうな声が響き渡るからでした。
用語解説
・按摩
マッサージと同じように、押したり揉んだり叩いたりして身体活動を活性化させる技術だが、マッサージと按摩は厳密には違う。
ざっくりいうと、按摩は心臓に近い方から指先へ、マッサージは指先から心臓の近くへ、となる。
いろいろ細かい違いがあるので興味がわいた人は調べてみよう。
なおユヅルがやっているのはなんちゃって按摩ッサージであり、ざっくり教わったものを経験と勘に基づいてアレンジしているので、よい子は真似しないように。
前回のあらすじ
怪しげな按摩ッサージで全身をぐにゃんぐにゃんにさせられた三人であった。
神経衰弱でほどほどにリリオから巻き上げながら、あたしはウルウの色っぽい声に惑わされないように、またちょっと気になっていたので、女中のユヅルさんに尋ねてみることにした。
「ところでユヅルさんは茨の魔物って知ってる?」
「あ、はい、知ってますよ」
「あれって何なの?」
「何っていうと……何なんでしょうねえ」
困ったように応えられて、ああ、違う違うとあたしは頭を振った。質問が悪かった。
揉み解しがあまりにも気持ちよくて、まだ頭がぼんやりしているのかもしれない。
「そうじゃなくて、どういう魔獣なのかなって」
「ああ、そういうことですね」
寝台の上でもちでもこねるかのようにウルウの体をもみほぐしては、その度に声を上げさせつつ、ユヅルさんは答えてくれた。
「茨の魔物って言うのは、異界からやってきた魔獣なんですよ」
「異界から」
「どこか、本当に遠いどこかからやってきた魔獣なんです」
「ふうん」
「それで、茨の魔物は、人の心に取り憑くんです。弱っている人、油断している人、そして心の毒が多い人に」
そうして人に取り憑いた茨の魔物は、人の心の毒を吸い上げていくという。そうすると人の心はなくなった分の毒を満たすように、心の毒を過剰に生産する。だから突然気性が荒くなったり、悪事に手を染めたり、急変するのだという。
そうしてひとの心をすっかり吸い尽くしてしまって、もう新しく心の毒を生み出せなくなると、茨の魔物は成熟して、種を作り、あたりにばらまいてまた新しく人の心に取り憑いて、殖えていくのだそうだ。
「心の毒を奪って増える魔獣ねえ」
「毒なら、別に取られちゃってもいいんじゃないですか?」
確かにそうだ。毒を吸って増えてくれるなら、魔獣どころかとんだ益獣ではないだろうか。
しかし、ユヅルさんはウルウの体をぐんにゃりと曲げながら首を振った。
「心の毒は、なくてはならないんです。例えば誰かを妬む気持ちは心の毒ですけれど、それで相手を乗り越えてやろう、努力しよう、っていう気持ちとも表裏一体なんです。誰かを驚かしてやろうっていう些細な気持ちも心の毒なら、日々を生きていくうえで受けていく些細な刺激もみんな心の毒なんです。心は、毒を受けて、それに抗うために、成長していくんです。毒を受けて、毒を抱えて、それでも頑張って生きていくのが、心というものなんです」
成程、それはわかる話だった。
あたしだって、もし人生が何にもつらいことなんて幸福な事ばかりだったら、つまらなくて死んでしまうかもしれない。こなくそって思うから、前に進んでいけるのかもしれない。あたしの人生は碌なもんじゃなかったし、あたしの育ちは絶対に幸福なものなんかではなかったけれど、それを乗り越えてやろうという気概が、あたしをここまで成長させてくれたように思う。
「すっかり心の毒を吸い取られて、茨の魔物が去ってしまったら、その人の心にはなんの毒も残っていません。一滴も残りません」
「そうなったら?」
「そうなったら、死んでしまいます」
「死ぬ」
「息苦しいということさえ毒と思えないから、呼吸もしなくなりますし、心臓だって働くのをやめてしまいますし、何より、考えることもできなくなってしまうんです。そうして、衰弱して、死んでしまう」
それは、何度も何度もそんな死にざまを見てきたとでも言うように、重い決意の秘められた声だった。
「だから、茨の魔物は退治しなければならないんです。絶対に」
実際のところ、この温泉宿などでも、茨の魔物退治のために協力しているらしい。
「温泉が?」
「神官さんが神様の癒しの力を込めた温泉水って、茨の魔物は嫌がるんです。あんまり茨の魔物が小さい段階だと効かないんですけど、ある程度大きくなったころにこの癒しの力のこもった温泉に浸かったり、飲んだりすると、茨の魔物は嫌がって飛び出してくるんです」
そう言う時の為に、温泉宿にはどこも衛兵が詰めているらしい。
「それで、癒しの力を込めた温泉水を瓶に詰めて、人の多い商店街や衛兵の詰所とかに配ってるんです。大きめのお店なんかは、温泉水を買って、従業員に毎週飲ませたりしてるみたいですよ」
これをユヅルさんは防疫だといった。病を防ぐのと一緒だと。
このやり方をするようになってから、かなりの数の茨の魔物を退治できているらしいけれど、それでも全くなくなるというにはまだ遠いようである。
「難しい話ですけれど、人の心には毒がないと生きていけませんけれど、人の心に毒がある限り、茨の魔物もまた住み着く場所には困らないですからね」
いつか根絶できるときがくればいいのですけれど、と実にしみじみといい話のように言ってくれるのだけど、その下でウルウが見たこともないとろけ顔でぐんにゃりしてるので半分くらいしか頭に入らなかった。
用語解説
・心の毒
ストレス。また、それに抗おうとする心の力。
前回のあらすじ
茨の魔物と心の毒について語ってもらった。
そしてウルウはとけた。
このユヅルという少女に私が何も思わなかったわけではなかった。
いや、別に全身をこってり揉み解されてさんざっぱらアヘ顔をさらされたことを恨んでいるわけではない。かなり気持ちよかった。また立ち寄ることがあればぜひにもお願いしたいくらいだった。
そうではなく、ユヅルというどう考えても帝国標準から外れた名前と、いわゆる西方人めいた顔立ちについてである。
たまに西方から来た人とか、西方人を先祖に持つ人とか本当にいるからあまり気にしたことはなかったのだけれど、というか気にするだけ疲れるのでやめていたのだけれども、このユヅルという少女はどうにもすこし違った。
まず一つに、休憩所で牛乳をご馳走してもらったことである。
リリオやトルンペートの反応からもわかる通り、湯上りの牛乳というものは、普通においしいは美味しいけれど、そこに格別の価値を見出すのは文化的な理由というものでしかない。彼女自身も周りから理解されにくいと言っているように、風呂上りに牛乳というものはこの世界では異質な文化なのだ。
そしてまた彼女はイチゴ牛乳といった。
これは普段の自動翻訳からするとおかしかった。本来であれば苺牛乳とか聞こえるはずだったのだ。まあこれに関しては、バナナワニみたいに訳されたり訳されなかったりすることがあるので結構自動翻訳がいい加減なのかなと思うが……少なくとも、物の名前及び横文字は基本的に現地語で発音されることが多い自動翻訳さんにしては怪しい。怪しませようとしてるのかもしれないが、プルプラあたりが。
まあイチゴ牛乳は半分冗談としても、それがきっかけで気付いたことがある。
彼女自身の発音だ。
私は読唇術などできないが、それでも今発されている音声と唇の動きとに関連性がなければ、そのくらいは見ていれば気付く。つまり、唇の動きと、実際の発音とが違うということだ。
彼女にはその違いがなかった。
本来であれば、例えばリリオあたりなんかでは唇の動きと聞こえてくる音が全く違うにもかかわらず、彼女はそのままの日本語の唇の動きで日本語を私に聞かせていたのである。私が日本語のつもりで話して、しかし周囲には交易共通語として聞こえるのと同じようにだ。
他はこじつけとしても、これは致命的だった。少なくとも神がかった何かがかかわっているのは確実なのだから。
とはいえ、私は彼女が同じ転生者なのかどうかいまいち確信が持てなかった。
というのも、同じプレイヤーだとすれば、あまりにもその気配に力強さを感じないのである。
私もリリオとトルンペートと一緒にそれなりに長くやってきた。魔獣や害獣、盗賊なんかともやりあってきた。この前は長門とかいう化け物と一戦やらされた。
そういう経験から、相手がどれくらいの力量なのか、大体であれば察することができるようになってきていた。
そう言う点で言うと、この少女はちょっと弱すぎるのである。
魔力量はかなり感じるし、成程決して弱くはないのだろうけれど、すくなくともプルプラがゲームの駒として選ぶほどに強いか、そこのところがわからない。
もし弱くてもゲームの駒として成り立つならば、私にあえてゲーム内のキャラクターの体を作って渡すこともなかっただろう。
合理的に考えれば、この少女は少なくとも同じ理屈による転生者ではないことはわかる。
だが合理的という言葉と、あの境界の神とが、私の中で結びつかないのも事実だ。少なくとも人の死後をもてあそんでゲームの駒にするような奴が合理的であるはずがない。あったとして、それは私の知る合理とは全く理屈の異なるものに合致した合理だ。
按摩を終えてもらい、淹れてもらった甘茶を楽しみながら私は少女を眺めた。
では、仮に神が合理的で一貫的だとして、この少女は転生者ではないのだろうか。
それもまた疑問だった。いくらなんでもたまたま日本語の発音で唇を動かす人間がこの世界にいるとは思えない。
では全く別の理由で転生してきたのだろうか、とふと私は思った。
彼女自身茨の魔物を差してこう言った。異界からやってきた魔獣だと。
彼女はそれを追ってやってきたのではないだろうか。退治し、殲滅するために。
「ふふっ」
「?」
「なんでもないよ」
そこまで考えて、私は追及をやめた。
馬鹿馬鹿しい。
そう言うのがありなら何でもありだ。
前提条件である神の手札と内情を知らない以上、いくら考えても答えなどでない。
第一彼女が転生者だったとしてどうするというのだ。
私にはどうこうすることはできないのだ。
私自身が自分のことをどうこうできないというのだから。
だから私はささやかな事を尋ねてみた。
「君、故郷はどこ?」
「遠くです。ちょっとすぐには帰れないくらいに」
「帰りたい?」
「帰りたい……かもしれません。でも今は、帰れないかな」
「そう」
それだけ聞いて私は満足した。
彼女の言葉には、悩みも迷いもあった。
しかし、答えるだけの力が、彼女にはあったのだから。
用語解説
・ユヅル
詳しくは↓
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前回のあらすじ
彼女はそうなのだろうか。
それは悩むだけ無駄な事なのかもしれない。
だからただ、彼女のこの後に幸あらんことを祈ろう。
按摩を済ませたユヅルさんにお茶を淹れてもらって、そうして次の仕事があるからと去っていった背中を見送って、私は改めてウルウを眺めてみました。
ウルウはもう先ほどまでのあられもない姿などどこ吹く風、ちょっとつやつやしながらも落ち着いた様子で甘茶を楽しんでいますけれど、私は先ほどのウルウの様子が少しおかしかったことに気付いていました。
普段は私たち三人でいるときでもだんまりでいることが多いウルウが、珍しく人にものを、それも至極個人的な事を尋ねたのには、驚かされました。
「君、故郷はどこ?」
「遠くです。ちょっとすぐには帰れないくらいに」
「帰りたい?」
「帰りたい……かもしれません。でも今は、帰れないかな」
「そう」
私にはそのやり取りの意味は分かりませんでしたけれど、しかし、その短いやり取りで、ウルウが何かを考えることをやめ、満足したことには気づきました。
思えば、あの少女、ユヅルさんは、ウルウと同じように西方寄りの顔立ちをしていました。そしてまた名前の不思議な響きも、西方のものと思えるかもしれません。
けれど彼女の交易共通語は実になめらかで訛りもなく、それこそウルウのようにきれいな発音でした。
ウルウのように。
そこでハタと気付きました。
もしかするとあの少女は、ウルウと同郷だったのかもしれませんでした。
はっきりとはわからないまでも、ウルウはそれを察してあんな質問をしたのかもしれませんでした。
思えばいまだに私はウルウの生まれも育ちも知りません。
境の森で出会った時が私にとってウルウの始まりの時であり、そして今こうしてここにいるのがウルウのもっとも新しい姿です。それ以前のウルウのことを、私は本当に何も知らないのでした。
いままでも気にならなかったわけではありませんでした。しかし、ウルウが何も語らないこと、冒険屋として旅人として、あまり詳しく詮索するのは野暮だということ、そしてまた私自身踏み込み切れない何かがウルウとの間にはあって、そのこともあって、私は今まで何も聞けずにいました。
だからでしょうか。私はついつい気になって、ウルウの隣にまで椅子を運んで、そっと尋ねていました。
「ねえウルウ」
「なあに」
「あの……」
私は何度かそうして、言葉を出そうとしても出せず、うまく言い出せないまま、もごもごとして、それでも、ウルウがしっかりとこちらを見て、言葉を待っているのを見て、えいやっと勇気を振り絞って尋ねてみました。
「さっきの、ユヅルという娘ですけれど」
「うん」
「もしかして、その」
「うん」
「ウルウと、同郷の方だったのですか?」
ウルウは片眉をあげてじっとわたしを見つめ、それからゆっくりと、曖昧な笑みを浮かべました。
「さあ」
「さあって」
「本当に分からないんだ。もしかしたらそうなのかもしれないと思ったけれど、そうでないような気もする。確認しようとも思ったけれど、野暮かなと思ってね」
その言葉にはまったく嘘というものはなさそうでした。あっさりと言い切ってしまうくらいには、ウルウにとっては大したことではなかったのかもしれませんでした。
私がなんだか肩透かしのような気分でいると、ウルウはくすくす笑いました。
「でも、驚いたよ。そんなこと聞きたがるなんて」
「そんなことって」
「君がユヅルのことだけど、って言ったときね」
「はい」
「私が珍しく他の娘に構うから嫉妬でもしたのかと思ってね」
「は……はあっ!?」
ぽかんと呆れる私に、ウルウはくすくすと笑って、トルンペートもまた寝台の上でくすくす笑いました。からかわれたのです。
「もう、ウルウ、もうっ」
「ごめん、ごめん。でも、嫉妬はしてくれなかったのかな」
「そんなのしませ……すこしはしたかもですけど!」
「うふふ」
「ふふふ」
「もう、ふたりとも!」
私がすっかり拗ねてしまうと、ウルウはまだ笑いながら、それでも優しく頭をなでてくれました。
「ごめん、ごめん」
「ふーんだ」
「でもねえ、本当に意外だったんだよ、そんなことを聞きたがるなんて、本当に」
「そんなことって」
「私の故郷のこととか、あの娘が同郷かなんて」
「私だって、そのくらい、気にしたりしますよ」
「全然気にしてないのかと思ってた」
「聞くのも野暮かと思って、それなのに」
「ごめんって。でもねえ、本当に、私にとっては大したことじゃないんだよ」
ウルウの手が優しく頭をなで、頬を撫で、肩を撫で、気づけば腕の中ですっかりあやされて、これではまるで子供みたいだなんてぶーたれていると、ウルウは困ったように笑いました。
「私の故郷のこととか、昔のこととかは、少し、説明しづらいけれど、でも、大したことじゃあないんだよ」
「むう」
「もし私の故郷とか、昔のこととか、そういうのを聞いたとして、私たちの関係がいまさら変わるのかな」
「えっ」
「変わってしまうのだとしたら、私は少し、悲しい」
「か、変わりません! 全然変わりません!」
「ふふ、うふふ」
「くふふふ」
「もう、ふたりとも!」
かしましくもそうして、夜はふけるのでした。
私たちは、そうですね、こんな具合で、いいのかもしれません。
用語解説
・曖昧な笑み
ウルウ特有の、そしてまたユヅルも浮かべていた笑み。
転生者を見分けるいい特徴かもしれない。
前回のあらすじ
ウルウの過去。
それは気になるような、気にしても野暮なような。
そして気にしてもしょうがないことなのかもしれなかった。
温泉に浸かってゆっくり茹だり、按摩を受けて全身を揉み解されて、そうして暖かな寝台に丸まって、いつの間にやら夢の中にもぐりこんで、そして、そうして、朝が来た。
やはり朝になって最初に目覚めるのはあたしだった。
しかし、今朝の目覚めは素晴らしいものだった。全身の疲れという疲れが、気づいていたものも気づいていなかったものも、残さずにきれいさっぱり洗い流され、磨き上げられたばかりの新品のように調子のよい身体は、朝日が差し込むやぱっちりと目を覚ましたのだった。
しかし完璧な朝にも瑕はあった。
昨夜はそれぞれの寝台で寝たはずなのに、結局朝になってみれば、一つの寝台で絡まりあうように寝ていたのだった。せっかく広々と寝台がつかえるのに、これじゃあ意味がない。
あたしは呆れたようにウルウの腕の中から抜け出し、しがみついたリリオを引きはがし、窓の外から差し込む朝日に目を細めた。
振り向けば、そんな朝日にじわりじわりと眠りの国を追い出されつつある二人が、それでもまだ抵抗を続ける気のようで、もぞもぞとお互いを盾にしようともみ合っているところだった。
全く、仕方のない連中だ。
あたしはなんだかおかしくなってその姿をしばらく眺めた後、卓の上のチラシの裏に、走り書きの書置きを残した。
なにというわけではない。せっかくの温泉宿なのだから、朝風呂を楽しもうというのだ。
早朝の宿は、まだ日が出たばかりということもあって人は少なく、時折すれ違う女中が、お早いですねえと笑顔を返してくれるくらいだった。そりゃあ、そうか。私も侍女だし、女中たちと目覚める時間が同じようなものでも、仕方ないのかもしれない。
旅暮らしだし、もう少し生活が乱れてもおかしくはないのだと思うのだけれど、三等武装女中としてしっかり刻み込まれた教育は、なかなか抜けきらないようだった。いや、抜けても困るんだけどさ。
早朝の浴場には朝の早い老人が一人、二人、それに昨夜とは違う交代要員らしい風呂の神官が浸かっているだけで、静かでいいものだった。
あたしは少し考えて恐ろしく熱い浴槽に体を沈めてみて、そして百数える前に諦めて出てしまった。
やはり、無理は良くない。
冷泉で体を冷やした後、程よい暑さの湯に足先からゆっくりと浸かっていく、このピリピリと血管が開いていくような感覚がたまらない。腰ほどまで浸かって、少しこらえて、それからゆっくりと肩まで体を沈めていく。冷泉で冷やされた体に、お湯の温かさがじんわりとしみ込んできて、心地よい。
昨夜のように人が多くて、三人でおしゃべりしながら浸かるような、賑やかなお風呂もいいものだけれど、時にはひとりの時間も必要だ、なんてウルウのようなことを考えてみる。
しかしこうして実際に一人で過ごしてみると、確かにそのようなものかもしれないとも感じる。
そりゃあ、あたしは頭の底まで洗脳教育を受けたといっていい、立派な三等武装女中だ。でも完璧な武装女中というものは休まなくていい生き物のことではない。自分をきちんと使える状態にいつでも持っていける女中のことを言うのだ。
こうして一人で過ごす時間は、時計のぜんまいをまく仕事と似ている。
館にあった立派な柱時計は、許されたものしか触ることができなくて、あたしはそれを眺めていることしか許されなかったけれど、あれは静かで、厳かで、そしてこれ以上ない緻密な仕事だった。
ぜんまいを差し込み、ぎりぎり、ぎりぎり、と程よく巻き上げ、磨き上げられた柱時計を見上げて、ふん、と鼻先で笑う女中の顔には、確かな満足があったものだ。
ああして時計という繊細な道具は、決められた仕事を完ぺきにこなせるような状態に仕上げられ、そうして実際、一分一秒と間違うことなく、毎日正しい仕事をしていたものだ。
人間の体は機械よりいくらか丈夫だけれど、それでも繊細なものだ。
あたしは自分という道具をいつでも万全の状態で使えるようにこうして調整してあげなければならない。
などと気取っていたら、
「あ、トルンペート発見」
「あっ、いました!」
などと馬鹿二人に発見されてしまった。
「もう、置いていくなんてひどいですよ。起こしてくれてよかったのに」
「嘘だ。私が起きてもまだ眠いって散々ごねたくせに」
「それは言わないお約束ですよう」
「ああもううるさいわね、他のお客さんの迷惑にならないようにね」
「はーい」
「はーい」
まあ、結局のところいくら格好つけたって、冒険屋リリオの侍女である三等女中トルンペートには、こういう落ちがお似合いだ。
つまり、あたしは今日も万全だってこと。
そういうことなのだ。
用語解説
・柱時計
東部では懐中時計がすでにある程度作られ、帝都人などがちらほらと持ち歩いていたりもするが、一般的に時計と言えば大きな柱時計のことである。
それも一般的と言っても、貴族や金持ち、また組合の館などにあるくらいだ。
製造はほとんど東部の職人によるもので、何もないとさげすまれながらも、大体進んだものは東部から生まれる。
前回のあらすじ
温泉の町レモを骨の髄まで楽しんだ《三輪百合》。
次なる町は、港町バージョ。
チェマーロ伯爵領バージョの町は、河によって東西に分かれた、河口に面する海辺の町です。河口を中心にして丁度三角形に広がる町並みは、規模としてはおよそヴォーストと同じくらい。賑わいはもしかしたらバージョのほうが上かもしれません。
街門が東西のそれぞれに一つずつ存在し、それとは別に水門が北に一つ、合わせて三つの門で守られており、私たちはこのうちの東の門から入門しました。交易の町だけあって入り口辺りも非常に賑やかで、宿も充実し、ボイちゃんと幌場所を預かってくれる宿も無事に見つけることができました。
馬車持ちは旅の道中は便利ですけれど、泊まるのに少し不便するのが困りものです。とはいえ歩いたり、乗合馬車で旅なんてすればもっと面倒ですから、やはりボイちゃんには感謝ですけれど。私が感謝の気持ちでワッシャワッシャと撫でてあげると、いつもボイちゃんは目をつむって気持ちよさそうにしてくれます。
「悟ってる……」
「大人だわ……」
外野がなんか言ってますけど。
その後、背の高いウルウが丁寧にブラッシングしてあげて、たっぷりのご飯も上げて、それからあたしたちも宿の部屋で腰を下ろして一息つきました。
「ようやく南部、それも海辺までたどり着きましたねー」
「宿場でも魚の干物なんかが良く出回ってたね」
「南部では魚の方が安いんでしょうねえ」
さて、私たちはこれからどうしようかと相談しました。まだ日も高いですし、できることはたくさんあります。
「私は南部入りも果たしましたし、それに船舶の護衛依頼付き旅券でもないか、冒険屋組合に顔を出してこようと思いますけれど」
「うーん……私は少し眠いし、人混みがだるいから宿で留守番してるよ」
「じゃあ、あたしは散歩がてら何かお昼ご飯でも買ってくるわ」
「なにか変わったものがあるといいですねえ」
「ゲテモノばっかりじゃないといいけど」
そのように決めて、私たち三人は分かれて行動を始めました。
いつもなんだかんだ三人でわちゃわちゃ行動していることが多いので、一人の時間もたまにはいいものです。
バージョの冒険屋組合は面白い立地にありました。
というのもなんと、東街と西街をつなぐ大きな橋の上にその建物があったのです。
この橋は実に大きく、下を河船がくぐれるようになっているだけでなく、その上も、馬車が何台かすれ違えるほど広く、そのうえでいくつもの建物が並んでいるのでした。
これは川の上の街と言っていい具合でした。
冒険屋組合はちょうど橋の真ん中あたりにある一番立派な建物で、これは東西のどちらから緊急の知らせがあってもすぐに受け取れるよう、また東西のどちらに特別肩入れするということがないように、大昔に決められた立地ということでした。
「ようこそ《バージョ冒険屋組合》へ!」
受付であいさつを済ませて、さっそく私はハヴェノへと向かう船の旅券と、そしてそれ丁度良い護衛や輸送の依頼がないかどうかを尋ねました。船旅は何しろやることが少なくて拘束時間が長いので、お仕事を入れておかないとお金を消費してしまうばかりなのです。
組合の方でもそのような尋ねはよくあることのようで、ここしばらくのハヴェノ行きの船の予定と、そしていくつかの具合のよさそうな依頼を示してくれました。
「一番早いのですと、風の具合にもよりますけれど、明日の朝出るプロテーゾ社の輸送船に便乗するのがよさそうですね。海賊相手の護衛依頼が出てます。武装して甲板の上を歩くのがもっぱらの仕事で、ほとんど海賊は出ないそうですから、安全ですよ」
「ほとんど出ないのに雇うんですか?」
「出る時もありますし、そして保険屋嫌いなんです、社長が。最近払い渋りがあったみたいで」
「ははあん」
そう言うことでしたら、都合のよさそうな依頼です。こういう時、ちゃんとしたパーティなら一度相談するのがよいのですけれど、我がパーティ《三輪百合》はそこのところ私一人で決定しても特に問題がありません。というか私が決めないと誰も決めません。
ウルウは端から私の冒険を眺めているのが趣味という趣味人ですし、トルンペートは口ではいろいろ言いますけれど、最終的な決定はもっぱら私に求めることが多いです。
そして二人とも私の勘を妙に信頼しているので、たまにちょっとこの人たち大丈夫だろうかとヒヤッとしたりします。まあ私自身も私の勘を疑ったことあんまりないですけど。
「それにしても、この時期に北部からはるばる南部までいらっしゃるなんて、何か御用でも?」
と小首を傾げたのは受付嬢でした。
普通南部の観光と言えば夏です。夏は人口が増えると言われるくらい、夏場の南部は大人気の観光地でもあります。
ところが今は秋も下ってそろそろ冬。辺境ならもう雪が降って積もり始めている頃です。海で泳ぐ馬鹿はまずいませんし、南部特有の心地よい日差しも味わえません。魚は冬場が脂がのって美味しいですけれど、そこまで通な事を言う人はそうそういません。
私は亡くなった母の実家を訪ねてみたいのだとそう答えました。
すると受付嬢は申し訳ないことを聞いたという風に縮こまりました。
「まあ、そのお年でお母さんをなくされて……それはそれは」
ブランクハーラさんというお家なのですけれどとそう答えてみました。
すると受付嬢は恐ろしいことを聞いたという風に縮こまりました。
「エッ、ブランクハーラというと……あのブランクハーラですか?」
「他にどのブランクハーラがあるのか知りませんけれど、冒険屋のブランクハーラです」
「ひゃああ」
悲鳴とも何とも言えない声を漏らして、受付嬢はマジマジと私の頭からつま先までを眺めました。
「白髪のブランクハーラって、いわゆるホンモノじゃないですか」
なぜか恐縮され、握手を求められ、そして母の名を尋ねられました。
「マテンステロと言います」
「ひぇえええ……暴風マテンステロの、娘さん!」
大いに畏れられ、そして再度握手を求められ、いつの間にか話が広がったのか、周囲の他の職員にも握手を求められました。これは敬意の上からというよりは、珍獣を見かけてちょっと触ってみたというそう言う勢いでした。
「すげえ、俺直系のブランクハーラに触っちまった」
「ご利益ありそうだな」
「魔獣も恐れて逃げ出さぁ」
「嵐除けになりそうだ」
母よ、あなたは何をして回ったのでしょうか。
穏やかな母の微笑みが思い出の中でひび割れるのを感じるのでした。
用語解説
・チェマーロ伯爵領(ĉemaro)
南部貴族チェマーロ伯爵の治める領地。
バージョの外に内陸に二つの町を持つ。
伯爵が直接治めるのはバージョである。
・バージョ(barĝo)
河口に広がる港町。
河口を中心に三角形に広がり、川で東西に分断されている。
その東西を結ぶ橋は巨大で、その上に各組合の館や、商店などが立ち並ぶほどである。
漁港として有名で、特に新鮮な海鮮を食わせる店が雑誌によく載る。
・プロテーゾ社
ハヴェノに本拠地を置く海運商社。
護衛船なども持っており、帝都とのパイプも太く、ハヴェノでも一、二を争う大企業である。
・いわゆるホンモノ
いわゆるホンモノ。
前回のあらすじ
河口の町バージョへとたどり着いた《三輪百合》。
リリオは組合で珍獣扱いされるのだった。
ああ、眠い眠い。
朝早いのもあるし、道中が暇すぎた。今更ちょっとした魔獣が出たり、盗賊が出たりしたくらいじゃあ、《三輪百合》の道をふさぐにはしょぼすぎるんだよな。何しろニューメンバーのボイがまず強いから、あれにほえられると弱い魔獣なんか逃げるし、あれに呻られると大抵の盗賊は逃げるし、要するに冒険がなさすぎるんだよ。
旅路が安全なのは世間一般的にはいいことなのかもしれないけど、そもそも人様の冒険をポップコーン片手に眺めて楽しもうというのが私の旅のスタイルというか目的であるので、女優が二人そろって馬車から降りもしないで片付くオート戦闘とか退屈で仕方ないんだよね。
まあ降りたところでこの二人の足止めできる障害ってそうそうないんだけど。
最初会ったころからレベル高かったけど、その頃から比べても随分レベル上がってるからね、この二人。
ヴォーストを出た時点で七十代半ばくらい。これってこの世界でも結構高レベル帯のはずだ。
メザーガみたいな規格外がすぐそばにいたからそこまで目立たなかったけど。
そう、メザーガのせいだよね、大概。
私がたわむれにと思って稽古というか、鬼ごっこしてあげたりしたのも鍛錬になってたんだろうけれど、暇してんだろとばかりに次から次に高難度の魔獣をけしかけたメザーガのせいだよね、ここまで急成長したの。しかもあれ本人自覚ないんだよ。
ブランクハーラさんちの教育方法、ナチュラルにえげつない。
それでも死なないというかうまい具合に成長するあたりを見当つけるスキルは、メザーガが教育上手な証拠だよな。ものぐさなくせにあれで面倒見いいし、事務所のほかの冒険屋も優秀だったし。まああんまり話したことないけど。
さて、そんな風に暇な毎日が続いたせいで、私の体はすっかり錆付きつつあるし、忘れることのない灰色の脳細胞もぼんやりしつつある。そういえば脳細胞って生きている間はピンク色っぽいんだっけ。それに原語からするとこの訳し方って、ああ、まあ、どうでもいいやそんなことは。
とにかく、暇で暇で仕方がないということだ。
こういうときは、掃除や整理などをすると心の整理もできてよい。というか掃除や整理ができる精神状態を保つことが大事だ。メンタルがやられてくるとまずそう言うことができなくなってくる。
せっかくなので私は、この際だからインベントリの中身をこの世界向けに整理整頓しておくことにした。全て覚えているとはいえ、実際にこの世界で手に取ったことのないものも多い。この暇な時間を利用してチェックしてみるのもいいだろう。
私はベッドの上にインベントリの中身を少しずつ広げてみることにした。
まず、《濃縮林檎》。これは《HP》回復アイテムで、ただの《林檎》よりも回復量が高い。これを素材とした《濃縮林檎ジュース》は回復量も高く重量も比較的軽かったが、そもそも私って攻撃食らったら死ぬというか、回復が間に合わないくらいの紙装甲の上、《HP》自体も貧弱だったので、回復アイテムってそこまで回復量必要としてなかったんだよね。
似たようなのが、《SP》回復アイテムである《凝縮葡萄》。そこまでスキル使わない私のスキル編成だとやっぱり高効率の回復アイテムってあんまり使わないので、フレーバーテキストが気に入って所持していた。あと、狩場で手に入りやすかったのもある。
それから面白いのが《コウジュベリー》。見た目はクランベリーみたいな感じ。食べると甘酸っぱい。《HP》の最大値を少量増やす効果があったけど、回数が限定されていて、必要数だけ取ったらあとは売りに出すというのが普通なので、店売りで手に入れたっていう人の方が多いんじゃないかな。
木とかのオブジェクトを調べると確率でドロップするんだけど、他の低確率ドロップアイテム狙いで調べまくってるといつの間にか懐に入ってるんだよね。
これらは境の森の中で、ウルウのご飯を分けてもらった代わりにそっと食べさせてみたアイテムだ。初の人体実験ともいう。食べた翌日かなり好調そうだったから、回復効果はこの世界でも立派に働くということが分かった。
そしてもしかしたらだけど、熊木菟の攻撃を無防備で受けておきながら何とか瀕死で済んだのは、コウジュベリーで《HP》の最大値が増えていたからかもしれない。そう考えると、なかなか侮れない。
ので、実は回数限界までひそかにおやつ代わりに二人には食べさせてある。持っててよかった。
《巻物》の類は結構種類がある。
尻拭くために使おうか迷ったやつだけど、まあ使わなくよかった。これは《魔術師》なんかが覚える《技能》を、他の《職業》が利用できるようになる便利なアイテムだ。
また、《魔術師》自身が、《SP》切れの時に咄嗟の手段として持っていることもある。
《SP》の消費もなく、必要な前提《技能》もなく、誰でも扱えるのがいい。ただ、ドロップは相当確立が渋いし、店売りは相当高いし、自作するのも相当手間と金がかかる。
私は生物相手には無類の殺傷力を誇るけれど、自分自身の素の攻撃力が低すぎて、物理攻撃無効の相手と無生物相手には、まともに相手できないので、この手の攻撃用属性アイテムをいくつも用意している。
《魔術師》のギルド仲間が生産できたので、せっせと素材を集めて作ってもらったものだ。いくら貢いだかちょっと悲しくなるほどだ。
今日もベッドの上に勝手に敷いているのが、何気に使用率が一番高いアイテム、《鳰の沈み布団》だ。これは状態異常である睡眠を任意で引き起こすことができるという面白いアイテムだ。
不眠という行動が鈍る状態異常を解消することもできるし、特定の場所でこれを使うことで夢の世界に侵入できるなんて言う面白いダンジョンもあった。
今はもっぱら、私の睡眠障害解消のために使用している。
もしかしたら睡眠障害はもう治っているのではないかという疑いもあるんだけど、なにしろこれは単に効果があるというだけでなく、非常に寝心地がいいので、もう普通のお布団では耐えられないのだった。朝になると二人が潜り込んでいるくらいだ。
いろいろ並べてみたが、こういったアイテムはゲーム内の効果をしっかり再現するように作られており、私自身、ちょっと驚くくらいだ。いやまあ私が用意したわけじゃないんだから驚くよな、そりゃ。
ただ、プルプラが特に考えずにそのまま再現したという疑いがあって、一部はよく考えずに使うには危険すぎるんじゃないかと思われるアイテムもあって、困る。
その筆頭が私の主武器にして、こっちの世界では緊急時以外使うまいと決めている《死出の一針》だ。これは刺した相手を極々低確率で、どんな生物であれ生きている限り即死させる効果がある。ただし、幸運値極ぶりの私が使った場合、その確率は絶対とそこまで差異がない。相手の幸運値も絡むから本当に絶対とは言えないが。
どのくらいやばいかと言えば、戯れに木に刺したら、木が死んだ。目に見えて瞬間的に枯死したわけではないけれど、その時点で生命活動が停止して、それ以上成長も維持もなされることなく立ち枯れて腐っていくことが判明した。《生体感知》で見てぞっとしたもんな。
そういえばこの《生体感知》でよくよく凝らしてみると、大気中の微生物の生気なども見える。最初はかなり気持ち悪かったが、もっと気持ち悪いのはこれを《死出の一針》で撫でた時だ。どうなるかはわかるだろう。まさか殺菌効果まであるとは私も思わなかったよ。しかも群体に対してまで効果があるとは。
持ち歩くだけで危ないので、普段はインベントリにしまい込んでいる。
あとは何があったかな。
「ちょっと、あんまり散らかさないでよ!」
などと思っていたら、帰ってきたトルンペートに叱られてしまった。狭い部屋でアイテム広げてたらそりゃそうなるか。私はそそくさとアイテムをしまって、そして相変わらず気持ち悪い収納力だと不本意な呆れ方をされるのだった。
用語解説
・灰色の脳細胞
アガサ・クリスティの著作に登場する名探偵エルキュール・ポワロの口癖「私の灰色の小さな脳細胞 (little grey cells) が活動を始めた」より。
・
前回のあらすじ
久しぶりにゲーム内アイテムを整理してみるウルウ。
そのうちアイテム図鑑とかが必要になるかもしれない。
宿で二人と別れて、あたしは早速バージョの町を散歩することにした。
散歩と言っても、買い出しも兼ねているから、街門を抜けてそのまままっすぐ進んで市の方へと出る。
市は実に賑やかなものだった。
河に二つに割られ、東西で荷物も人間も二分しているはずなのに、とてもそうは思えないほどの賑わいで、これはヴォーストよりもずっと賑やかかそうだった。つまり、辺境から出てきて、一番都会的であるヴォーストから旅立ってきたあたしにとって、人生で最も賑やかな市だったと言っていい。
市には本当に様々なものが並んだ。
近隣の村々が運んでくる、野菜や、苗、家畜、薪、変わったところでは石材や木材、土、煉瓦、また河や海を通ってやってくる遠隔地の品々に、香辛料、それに、新鮮な魚介。
つい楽しくなって見て回ると、全く見たことのない、鮮やかな色合いをした魚や、一抱えもありそうな二枚貝、もしかしたらウルウより大きいんじゃないかというくらい大きな怪魚、なんだか何者かもわからずどうやって食べるのかもわからない奇々怪々な生き物などが並んでいて、大いにあたしを驚かせた。
季節は秋頃で、道行く人々はからっ風に備えるように厚着をしていたけれど、正直、辺境から出てきた身としては、このくらいではまだ寒いとは思わない。むしろまだまだ暖かいなと思ってしまう自分の感性に、少し苦笑いしてしまう。
この土地では、そんな自分の感性の方がおかしいのだ。ずいぶん遠くまで来たものだ。
きっちりと武装女中の制服に身を包んでいるけれど、それでも道行く人々には寒そうだと思われるらしくて、安くしておくよという言葉に負けて、つい襟巻など買ってしまった。地味だけど、肌触りが良くて、悪目立ちしないし落ち着いたデザインだ。なんでも北部からの輸入品だというから、成程暖かいはずである。
あたしは辺境から来たのよと言うと、そいつは負けたよと笑って更にもう少し値引いてくれた。さすがに悪いので、リリオとウルウの分も買って、あたしたちは良い取引を交わした。
あたしはそのように、これという目的もなくしばらくの間市を歩いて、面白そうなものを見かけては冷やかし、胡散臭いものにはケチをつけ、久しぶりの買い物を楽しんだ。
「へえ、辺境からの輸入品、ね」
「そうだよー、飛竜革の品がこんなに安く手に入るのはここだけだよー」
「あらまあ、本当に安い。よく採算取れるわね」
「特別な販路があってね。お客さんにも内緒」
「ところで、あたしの前掛け飛竜革製なのよ」
「げっ」
「ついでに言うと、この紋章何かわかんない?」
「うげげ、まさか辺境の武装女中!?」
「丁度新しい財布が欲しいと思ってたのよ」
「……他のお客さんには内緒ね」
「よしきた、安くしてよ」
「もってけドロボー!」
勿論、こういうことをしていると、からまれることもある。
「おう、嬢ちゃん、いちゃもんつけてんじゃねえぞ!」
「あらまあ、この紋章が目に入らぬか、ってやつね」
「武装女中がなんだ! たかが女中なんぞおばっ」
「たかがね。吐いた言葉は取り消せないわよ」
「ちょっまっいぎぶっ!」
ただまあ、乙種魔獣をおやつ代わりにしているとかなんとか言われている《三輪百合》の一輪が、その程度でどうにかなると思われているとしたら心外だ。
辺境を出たばかりのあたしならさすがにちょっと身構えたかもしれないけど、何しろリリオに付き合って乙種魔獣を毎日のように相手させられて、時々は甲種魔獣なんてものまで相手にしていたのだ。そこらのちょっと腕っぷしに自信がある程度の男なんて目ではない。
「まあ……もう少し弁が立ったら無用な争いは避けられたわねってことは謝っておくわ」
勿論あたしだって反省くらいはする。
たいていの場合は手を出した後に反省するのだけど、まあ、反省ってそう言うものでしょ。いつだって後から悔いるから後悔だし、ふりかえって省みるから反省なのだ。
「で、いくら負けてくれるのかしら」
「も、もってけドロボー!」
それとこれとは別だけれど。
このようにして遊び惚けて、ようやく昼飯を買って帰ることを思い出したあたしは、屋台で適当なものを見繕った。
「これなあに?」
「何お嬢ちゃん、こいつを見たことがないのかい。そりゃ人生損してるよ」
「そんなに」
「こいつは鮭の燻製さ。燻製と言ってもかっちこっちにしちまうわけじゃあない低めの温度でじっくり燻製にしたもんで、火は通っているけど、生みたいに柔らかいのさ」
「へえ! 食べて大丈夫なの?」
「煙で燻してあるからね。ちょっと切り分けてあげるから、味見てくかい」
「いただくわ!」
そうして端の方を、細長いナイフでするりと薄切りに切り分けてもらって食べてみたのだが、成程これは面白いものだった。魚と言えば焼いたり煮たり、またたまに蒸したりしたことしかなかったけれど、こうして燻製にしてみると、また違った味わいが楽しめた。
塩漬けにした後、低い温度で燻製にしているということだったけれど、この塩気がきつすぎず、うまい具合に魚の甘みというものを引き出しているのだった。生っぽくてちょっと驚くけれど、でも大丈夫だという。
煙をたくのに香りのよい木を使っているらしいけれど、これも香木というほどいやらしくない、余計な所がない。
あたしはこの燻製鮭をすっかり気に入って、これをお昼にすることに決めた。
屋台のお兄さんはあたしがこれくらい欲しいと伝えるとちょっとびっくりしたけれど、いっぱい食べるのはいいことだと笑って、少し時間はかかったけれど、その全てを、薄切りのパンに挟んでサンドヴィーチョにしてくれた。
そしてまた飽きないようにと、いくつかには酸味の強い柔らかな乾酪をぬりつけ、いくつかには風蝶という酢漬けの香辛料を散らしてくれた。これがいい具合に味を引き締めてくれるのだという。
あたしはこの包みを大事に抱えて、早足に宿に戻るのだった。
用語解説
・燻製鮭
いわゆるスモークサーモン。
しっかり塩漬けにした鮭を、塩抜きして乾燥させたのち、二〇度前後で時間をかけて冷燻にしたもの。
欧米では一般的に火を通したものを言うが、作者が個人的にこっちの方が美味しいのでこうした。
・サンドヴィーチョ
サンドウィッチ。
・酸味の強い柔らかな乾酪
クリームチーズ。帝都の乳製品加工業者が知人からアドバイスを受けて製造、広まったとされる。
・風蝶
ケーパー。つぼみを酢漬けにして用いることが多い。
独特の香味と苦みがあり、ソースの香辛料として用いたり、魚料理に付け合わせたりする。
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