前回のあらすじ
茨の魔物なる魔獣を討ち取った二人。
街の人には歓迎されたようだ。
取りつかれていた少年が介抱され、人の輪が徐々に解かれ始め、そして二度目の私の胴上げが終わったころ、ようやく応援らしき衛兵たちがやってきました。
完全武装の重鎧の歩兵で、なるほどこれならあの鋭い茨の相手ができるという訳でした。こんなものを着こんで走ってきてこの時間ですから、全速力でやってきてくれたのは確かでしょう。
「茨の魔物が出たというが、まことか!」
それも事実確認をすっ飛ばして直接応援に来てくれたということですから、これは、レモの町がどれだけ本気で茨の魔物退治に精を出しているかわかるというものです。
町の人たちが次々とそれぞれにがなり立てる報告を、重武装の衛兵は何とか聞き分けて、そして私たちの方へと目を向けました。
「あなたがたが、茨の魔物を退治してくれたという冒険屋か」
「ええ、勝手とは思いましたが」
「とんでもない、実に見事な手並みでけが人もなかったということで、大変助かり申した」
これには私も、ウルウもきょとんとしました。
たいていの町で衛兵というものは冒険屋と張り合うところがあって、むしろ問題ごとを起こす冒険屋の相手も多いもので、所によっては目の敵にしているところさえあるくらいです。
それがこのように素直に頭を下げて感謝の言葉を公然と伝え、そしてそれが全く演技でなく誠意から来るものということがはっきりと伝わってくるのでした。
これは東部でも珍しいほどに、すがすがしいほどに清廉とした衛兵です。
それもこれは彼一人のことではなく、応援として駆け付けた五名の重装歩兵たち全員が同じような気持ちであるということでした。これにはまったく、驚かされます。
ましてこのようなことをおっしゃるものだから、さすがの私も大いに驚きました。
「茨の魔物にはまったく困らされているのです。旅のお方に助けられて礼もなしではレモの町の名が廃ります。ご領主様も是非とも歓待をと仰ることでしょう。ぜひ、ご領主様のお屋敷まで」
「いやいやいやいや!」
大慌て手首を振る私に、ウルウが腰を曲げて耳元で尋ねてきました。
「ご領主様って、放浪伯のこと?」
「ばっ、そんなわけないですよ! 放浪伯の領地はみんな代官がかわりに治めているんです。レモの町は」
「レモの町は郷士ジェトランツォ・ハリアエート様がお治めです」
「郷士?」
「貴族に特別取り立てられた一代貴族です」
「それならリリオも貴族じゃない」
「領地持ちの郷士と貴族の娘とじゃ全然訳が違うんですよ!」
このあたり、ウルウはあまりピンとこないようですけれど、まあ貴族社会というものは奇々怪々ですからね。
私も貴族の娘ではありますけれど、兄が健在で当主になる見込みはありませんし、嫁婿に行くにしろ嫁婿を貰うにしろ結婚はすっかり父に諦められてしまっていて、私は貴族と言っても先のない貴族なのです。極端な話、貴族とつながりのある平民と言って何ら差し支えありません。父には権力がありますけれど、私にはおねだりするくらいしかできないのです。
一方で郷士というのは豪商や豪農といった平民から貴族に取り立てられた一代貴族で、貴族と平民の間にあるとも言われます。基本的にはいくつかの領地を持つ領主が、村々や町に代官としておくのがこの郷士です。
一代貴族とはいえもっぱら一族が代替わりするたびに叙任されていて、古い一族など下手な新入り貴族より歴史があったりします。
同じ一代貴族でも騎士という身分がありますが、こちらは領地を持たないか、主人の領地を一部与えられて、武力を提供する関係となっていますね。
「お偉いさんというわけだ」
「そのお偉いさんにただの旅人が歓待されるなんてとてもとても恐れ多い話なんですよ!」
「なんとなくわかった」
「よかった」
「でもそれを断るのってもっと失礼じゃない?」
「うぐぐ」
そう言われると困りますが、しかしこれはこの衛兵が言っているだけで公式なお誘いではありません。まだ大丈夫なはずです。
「恐れ多いというのでしたら郷士も無理強いはなさらないでしょう。ただ、義理堅い方ですので必ずお礼をと申し上げることでしょう。お泊り先など、差し支えなければ」
そう言われて、私たちは困って顔を見合わせました。
「いえ、それが」
つい先ほど辿り着いたところで、まだ宿が取れていない、どこかいい宿でもないかと探しているところなのですと正直に打ち明けると、衛兵はなるほどとうなずいて、それならばとこう提案してくれました。
「湯治宿ですが、立派な宿を一つ知っております。ささやかではありますが、そちらの宿の支払いを持つということでお礼にかえさせていただくのはいかがでしょう」
「本当ですか!」
「なにしろ小さな町ですので、ひなびた温泉宿ですが、飯もうまいし、温泉もよく効きます」
「ありがたい、ぜひ!」
喜んで私たちが受け入れると、衛兵はにっこりと笑ってこう付け足した。
「それにいまは、聖女様もいらっしゃいますよ」
用語解説
・郷士(hidalgo)
貴族階級と平民の間にある身分。
主に貴族が不在地主である領地で、代官として領地を治める家。
一代貴族であるが、通常は長男が次の郷士として叙任される。
・ジェトランツォ・ハリアエート(Ĵetlanco Haliaeto)
レモの街の代官として代々郷士に叙任されてきたハリアエート家の現当主。
五十を超えていい加減代替わりを考えねばならない年だが、長男がせめて一度でいいから父に土をつけるまではと代替わりを渋っている。
前回のあらすじ
衛兵からも感謝され、困惑する一行。
温泉宿を提供すると提案されてホイホイついていくのだった。
何がどうなって話がまとまったのか、衛兵さんが温泉宿まで案内してくれるというので、あたしはボイの手綱を取って、その後をついていくところだった。
「で、結局聖女様ってのは何者なんです? 来なかったんでしょう?」
応援に来てくれたのは衛兵だけだった様なので、聖女様とやらの姿は見れていないのだ。ウルウたちも、面倒くさそうだったから、とりあえず長そうになる話は放っておいて事態の解決を急いだとのことだったし。
衛兵さんはあたしのぶしつけな質問にも笑顔を絶やさず、こう説明してくれた。
「毎度聖女様に頼っていては聖女様がカローシなさってしまいますから、小さなものは私たちだけで対応しているんですよ」
「カローシ?」
「働き過ぎて死ぬことだそうです」
馬鹿馬鹿しい、そんな死に方があってたまるかとも思ったけれど、辺境で働いていたときは、割とそう言う時もあった。忙しいだけでなく、寒さが厳しかったから、何年かに一度は凍死する下男とかもいたし、凍傷も割とあった。
奴隷かよと思っていたけれど、あれをもう少し厳しくするとそのカローシってやつになるわけだ。
「聖女様は癒しの力に長けた方でして、茨の魔物が出始めたころに、この町に訪れてくださったんです」
「癒しの力? 神官ってことですか?」
「いえ、聖女様はどの神の神官でもないようで、どちらかと言えば、魔術師に近いのでしょうね」
魔術師で癒しの力を使うものはそんなに多くないと聞く。
なんでも癒しの術というものは、簡単な擦り傷や切り傷ならともかく、大きなけがとなるとどんどん工程が複雑になってしまうそうだ。なので魔術師ではその工程をうまく組み上げられなくて難しい。
神の力を借りる神官はそこを問答無用で組み上げるので、癒しの術だけで言えば神官に旗が上がるのだ。
それを、神官よりも頼りにされている魔術師の癒しというのは、相当なものなのだろう。
「ご領主様の覚えもめでたく、町で施療所を開いているほか、レモの町の各所にある施療所や湯治宿にも往診に出かけてくださって、何とここしばらくレモの町では病死したものの数が半分以下に減っているのですよ」
それはすごい話だった。実際に数字が出るほど効果が出ているということもだし、小さいとはいえ一人で町中を行脚しては癒しの術を惜しげもなく使っているという話がまたすごかった。それは聖女と言われるわけだし、それはカローシを心配されるわけだ。
「いや実際、聖女様の癒しの術は見事なものですよ。私の腕なんですがね、ご覧になってわかりますか」
そう言えって衛兵さんはあたしたちに左腕を見せてくれたけれど、よくわからない。鎧に包まれているし、それ以外は特に変わったこともない。
「実はこの腕、以前茨の魔物に斬り落とされましてね。肘から下を落とされて、義手にでもするかと悩んでいたところ、見事にぴたりとつないでくれたんです」
これにはあたしやリリオだけでなく、普段は表情を変えないウルウまで驚いたようだった。
そりゃあ、そうだ。いったん切り落とされてしまった腕をつなぎなおすなんて、帝都の医者であっても難しいことだろう。まして、見てもまるで違和感を覚えないくらい自然に動かせる状態にまで持っていくなんて。
「それに癒しの力ばかりでなく、戦いの技も持っておられて」
「戦うの!?」
「人相手ではありませんけれどね。いざ茨の魔物が出ると、あの方は真っ先に駆けつけて、そして神よりたまわったという神剣で真っ二つにしてしまわれる。その苛烈な様は実に恐ろしいのですが、それだけ民草を思われているのでしょうなあ」
癒しの術にたけていて、それで戦いまでできるなんて言うのは、とんだ規格外だ。まあ、茨の魔物は癒しの力に弱いということだったから、もしかしたらその癒しの力を剣にまとわせて切り付けているのかもしれない。そうすれば茨の魔物もたやすく切り裂けるのかもしれない。
「そんなすごい人がいるなら、あたしたち余計な真似しちゃったかしら」
「いえいえ、とんでもない。聖女様はお一人しかおられませんし、普段からよく働かれるお方で、私たちもどうしたらあの方を休ませられるかいつも考えているほどですよ。ですから今回の件は助かりました。私たちも随分慣れてきましたが、それでも毎回必ず誰かは怪我をして、聖女様のお手を煩わせてしまいます」
それなら、よかったのだが。
それにしても慣れてきたというが、いつもはどのように退治しているのだろうか。
気になって尋ねてみると、こうだった。
「食客の騎士様がおられるときは、弓で遠間から仕留めることもできるのですが、我々では取りつかれたものまで傷つけかねません。ですから、この硬い鎧で茨を抑え込み、剣でひたすら切りつけるという泥臭いやり方です」
「冒険屋を頼ろうとは?」
「お恥ずかしながら、レモの町の冒険屋はみな我々衛兵と大差なく、また数も少ない。即時で対応ができんのです」
成程。
いつもあたしたちを基準に考えているから冒険屋と言えばあの程度あっさり倒してしまえるような印象だけれど、あたしたちって、実は結構強い部類なのだった。乙種魔獣を一人で倒せる冒険屋というのは実際多くないのだ。
それに、今回だってウルウがあっさり茨を被害者から引きずり出せたからあんなに簡単に終わったけれど、仮にあたしとリリオだったらああもうまくはいかなかっただろう。それこそ同じような泥仕合になりかねない。
そのような話をしているうちに、硫黄の匂いが強くなり、あたしたちは郊外の温泉宿に辿り着いたのだった。
用語解説
・カローシ
最近レモの町を中心にはやり始めた言葉で、働き過ぎて死ぬことを言う。
茨の魔物に憑りつかれた経営者などが従業員を手ひどく扱ってカローシに追い込むこともあるという。
・聖女
神官ではなく、どちらかと言えば魔術師のように魔術で癒しを与えるという女性。
茨の魔物を追って旅をしていたところレモの町に辿り着き、この魔物を根絶するため、また人々の傷を癒すために、日々働いているという。
前回のあらすじ
温泉宿までの道すがら、聖女様とやらの話を聞く三人。
どうやらどえりゃあすごい人のようだが。
私たちが宿に向かう間に、領主屋敷まで走っていった遣いが、急ぎ感謝の書状を届けてくれた。
領主は気の利く人のようで、ぜひとも直接会って感謝の言葉を述べたいがそれでは旅の疲れもとれないだろうから、温泉宿では最高のサービスをさせるので是非ともゆっくり休んでレモの町を楽しんでいってほしいという言葉が、たかが旅人に対するものとは思われぬほどに丁寧に書き連ねてあった。
これほど誠実な人物であるから一介の衛兵にも慕われているわけだし、また街の様子も実にさっぱりとしているのだなと何となく思わせられる。
この世界で為政者というものと、間接的にも触れたのはこれが初めてだったけれど、思いのほかにいい人のようである。
辿り着いた温泉宿は、木造建築のひなびた温泉宿で、感動するぐらいにイメージ通りの「ひなびた温泉宿」だった。このまま殺人事件が起きて美人女将が解決してしまいそうな勢いさえある。いや、それはひなびているのか? まあいいか。私のイメージなどいつもいい加減だ。
妙な想像して本当に殺人事件なんか起こった場合、このファンタジー世界で推理できるほど私の頭はよろしくないんだ。ぶっちゃけ《隠蓑》で誰からも気づかれないように行動できる上に超身体能力があるし、いざとなれば《影分身》で分身残してアリバイ造りもできるし、ミステリ殺し過ぎるんだよな。
その上での不可能犯罪を構築するって言うのがファンタジー・ミステリ業界の腕の見せ所なんだろうけれど、なんで私がそんなものを構築したり推理せにゃならんのだ。
妙な想像はいい加減にやめよう。
私は推理小説は推理しないで読むタイプなんだ。
さて、衛兵が事情を説明して宿を取ってくれ、私たちは下にも置かない対応を受けた。
ご領主様のお達しという以上に、この温泉宿の人たちも聖女様のことをよくよく知っていて、その聖女様の仕事を肩代わりしてくれたということに多大な感謝を示してくれているようだった。
「いやあ、何しろ聖女様、崇められるのが苦手みたいで、自分で下々の仕事も率先してなさるもんで、こっちはいつ倒れるんじゃないかとひやひやしていまして」
とんだワーカホリックだ。
なんだか途端に聖女様とやらに親しみを感じ始めた。
「まあ、しかし偶然とはいえお客様方はいい宿を引き当てましたよ。当温泉は旅でやられやすい腰痛肩こりその他筋肉の疲れに効くほか美容にもよく、しかも風呂の神官が常駐していて癒しの力が高められているんですよ」
「ほほう」
「しかも今なら聖女様が癒しの力を注いで下さって、その効能たるや収まるところを知らない高まりぶり!」
なんか裏付けのない健康食品のうたい文句のようではあったが、しかしこの世界では神官の力だのなんだのが現実的に作用することはすでに体感済みだ。ただでさえ心地よさの約束された温泉にそれだけバフを積み上げたら、下手したら私など成仏するかもしれない。
気を強く持っていこう。
部屋まで案内してもらって、私はふと気づいて案内してくれた女中さんに聞いてみた。
「ところで、聖女様が働いているっていうけど、お会いできるのかな」
これには女中さんは困ったように笑った。
「そうおっしゃるお客さん結構いらっしゃるんですけれど、聖女様、あまり目立つことがお好きでない方でして」
「あー」
「一応私ども女中に紛れて仕事はなさってるんですけど、絶対に聖女と呼ばないで欲しいとも言われてますし、そういう扱い受けたら来づらくなるからやめてくれとおっしゃられていまして」
「いえ、いいです。わかりました」
女中は申し訳なさそうだけれど、むしろかなり親近感が増した。
わかる。
すごくわかる。
私だって仮に同じ立場だったら。働かずにはいられないけどでも目立つのは嫌だという相当なジレンマに悩まされることだろう。
願わくは彼女があんまり持ち上げられず、ほどほどな対人関係を築けますように。
対人関係がクソな環境は、労働環境が地獄であるというのと同義だからな。
「もし聖女様にお会いになって、それとお分かりになっても、聖女様聖女様と持ち上げずに、見なかったふりをして普通の女中として扱って、そっとしておいてあげてください。あんまり緊張が続くと吐いちゃうこともありますので」
「わかりました。必ず」
なんて親近感のわく女性だろう。
もはや信仰の対象というより庭先に住み着いた小狸とかみたいな扱いだ。というか吐いちゃうってなんだ。聖女様大丈夫か、いろんな意味で。
女中さんが去って、私たちは荷物を片付け、動きやすい格好に着替えて、それから、どうしようかと相談した。
「先に温泉入ります? お腹に物入れた状態で温泉入ると疲れますし」
「とはいえ、さすがに今日は疲れたわよあたし。今温泉入ったら寝る気がする」
「じゃあ、先にご飯だ」
温泉飯を早速お願いすることにした。
用語解説
・バフ
ゲーム用語。対象者に都合のいいステータス上昇効果、状態異常耐性などを付与する魔法、特技、アイテム、その他。
逆に都合の悪いステータス変動を引き起こすものをデバフという。
・
前回のあらすじ
温泉宿に辿り着いた三人。
風呂に入るか、飯にするか。というわけで今回は飯レポ回。
食事をお願いすると、食前酒の代わりになぜか白湯が出てきました。
「これは」
「当温泉のお湯でございます」
「ほほう」
「当温泉のお湯は飲用でも効果がありまして、お腹を整える効果があるんですよ」
なるほど、飲泉というやつか、とウルウが言いました。
ウルウも温泉には詳しくはないようでしたけれど、それでも聞いたところによればなんでも世の中には温泉に浸かるだけでなく温泉のお湯を飲むという文化があるらしく、そしてこれが実際に効果を持つものもあるということでした
私などは「まさかー」ととても信じられないものでしたけれど、実際に飲み干してみて、お腹がぽかぽかとして、そしてくるくるとお腹が減ってくるのを感じるとこの効果を実感しました。
「リリオ、それは空腹時にただのお湯飲んでも発生する効果だからね」
あれれ。
まあいいです。要は気持ちの問題です。
私たちはそれぞれに飲泉を楽しみ、それから並べられた料理に手を付けることにしました。
料理は源泉の蒸気を利用した蒸し物料理というもので、これは山の温泉などを活用する土蜘蛛たちの料理なのだということでした。当初は自然に沸いている高温の源泉で野菜や肉を煮ることから始まったらしく、今では蒸し物文化が大いに発達したのだそうです。
この温泉宿では料理人に土蜘蛛を招いており、そう言った山の温泉仕込みの土蜘蛛料理がいつでも楽しめるということでした。
さて、殻のままの卵があったのでゆで卵かなと割ってみようとすると、ウルウに皿に開けるようにと不思議な事を言われました。
言われるままに殻を割ってみると、とるん、となんと半熟の卵が柔らかな姿を見せてくれるではありませんか。
「温泉卵っていうやつだね」
なんでも温泉のお湯の中でも、湧くほどではない熱さのお湯につけておくと、卵の黄身の方が先に固まってきて、そして全く固まり切るということはなく、このような不思議にとろとろと半熟卵になるそうでした。
岩塩をかけて召し上がれとは言われましたけれど、ウルウが《自在蔵》から魚醤を取り出したので、私たちもお相伴にあずかることにしました。塩気と風味がたまりません。なんでも鹿節などで取った出汁で割ったものだともっとおいしいとのことでした。あと米。
蒸した葉野菜を布いた上には蒸した根菜や芋が、そしてまた一羽を丸々蒸しあげた蒸し鶏に、きれいに切り分けられた蒸し豚が並べられ、これに塩味のたれ、辛口のたれ、また甘口のたれが添えられていました。
蒸し野菜も蒸し鶏もしっかりとした味はついていて、そのままでも美味しくいただけましたが、このたれというのがまたうまい具合に味を引き立ててくれました。
私は舐めてみるとそれだけで涙が出そうな辛口のものを好み、ウルウは香草や柑橘で香りをつけた塩味のたれが気に入ったようでした。トルンペートはどろっとした味噌のような甘口のたれを好み、こればかりを食べていました。そして三人ともが時折魚醤や他のたれを交えて、全く飽きの来ない味わいでした。
「蒸し物料理ってあんまり食べたことないですけど、美味しいですねえ」
「水をたっぷり使うからかしら。辺境は言うほど水が多いわけでもないし」
「雪降るのに?」
「雪降るからよ」
ウルウはよくわかっていないようでしたけれど、雪が降れば外の井戸は使えなくなりますし、下手すると井戸水も汲み置いていると凍ります。雪を溶かせばいいというのは素人考えで、断熱効果に優れたこの氷を溶かすには相当な燃料が必要なのでした。トルンペートの受け売りですけど。
私は異文化に関しては体当たりが基本で不勉強なのですけれど、成程辺境の冬って蒸し物には向かなそうな気候ですよね。
このほかに私が気に入ったものに、蒸し麺麭がありました。
普通私たちが麺麭と呼んで食べるのは、発酵させるにしろさせないにしろ焼き窯で焼き上げたものです。この蒸し麺麭というものは貴族の娘である私にしても、その侍女でいろいろと調理法にも詳しいトルンペートにしても初めてのようで、そのもっちもっちとした食感には感動しました。
またこの蒸し麺麭の素朴な甘さが、うまいこと蒸し物料理たちをふっくらと受け止めてくれるのでした。
「リリオ、リリオ」
「ふぁんふぇふ?」
「ちゃんと飲み込んでから返事しなさい」
「なんです?」
「こう、蒸しパンにこうやって切れ込みいれるじゃない」
「ふむふむ」
「で、こうやって肉と野菜とたれをはさむ」
「おお」
「おいしい」
「おおー!」
美味しいものは究極的には「おいしい」の一言しか言えなくなるものですけれど、これがまた、たまらなく美味しかったです。そして自分の手で組み立てるという楽しさが、また私を驚かせてくれました。
食事と言えば自分で作り終えた後に食べるか、完成した状態で提供されて食べるのが普通ですから、こうして食べながら組み立て、組み立てながら食べるというのは、成程普段の食事と違って面白いものです。
まして貴族の娘としての教育を受け、何かとトルンペートをはじめとした侍女に世話を見てもらっている私にとって、これは新鮮な楽しみでした。
「魚介の蒸し物もおいしいんだけどね」
「魚を蒸すんですか?」
「魚とか、エビとか、貝とか」
「おおー」
「酒蒸しにするのもいいよね」
「いいわねえ。いつだったか、七甲躄蟹の酒蒸ししたじゃない」
「あれ美味しかったですねえ」
女中に聞けば、川海老や魚の蒸し物も朝食の献立にはあるから、楽しみにしてほしいと太鼓判を押されたのでした。
用語解説
・飲泉
温泉を飲むこと。またそれによって病気の回復などの効能を得ようとする行為。
温泉の性質や採取環境などによっては下痢を起こしたりする場合もあるので、安全が確認されている飲泉用のお湯を飲むことをお勧めする。
・土蜘蛛料理
と言っても、土蜘蛛も多くの氏族を抱え、多くの地方に住んでいるので一口には言えない。
ここでは山に住む地潜たちが、温泉を利用した加熱処理を基本とする蒸し物料理が提供されている。
特に火山地帯に住む者たちは浸かる、飲む、調理に使う、鍛冶に使うと生活のほとんどに温泉がかかわることもあるという。
・温泉卵
温泉のお湯で加熱したゆで卵。
特に全体が半熟であるものを言うが、温泉で加熱したものであれば固ゆでであろうと温泉卵ではある。
・蒸し麺麭
ここでいう蒸し麺麭は、いわゆるチーズ蒸しパンなどの菓子パン系のものではなく、中華料理などで供される饅頭や花巻のような形である。
焼き窯と言えば鍛冶や陶磁器に用いていた地潜は、貴重な焼き窯を食事の為に一つ潰すことを好まなかったのであろう、彼らが麺麭といったらこの蒸し麺麭を指す。
前回のあらすじ
温泉宿自慢の蒸し物料理をたっぷり楽しんだ《三輪百合》。
飯がすんだら、お風呂回。
さて。
お腹がいっぱいになってもうだいぶ横になりたい気持ちにはなってきたけれど、でも温泉だ。温泉に行かなければならない。主人であるリリオが元気に向かうのだから、侍女である私もそれについていかなければならない。というのは建前で実際のところ、折角ただで入れる温泉を逃してはもったいないというのが本音だ。この際リリオはどうでもいい。いや、どうでもよくはないけど。
たっぷり、とは言っても私たち二人よりは少なめに食事を楽しんだウルウは、満腹でお風呂に入るとろくなことがないとはぼやきながらも、準備万端であるあたり誰より楽しみにしている可能性があった。なにしろ温泉の水精晶を箱買いして毎日入っているような女だ。相当な風呂好きであることは間違いない。
この宿でも売っていたので箱で購入しているのを見かけたし。
それが本物の温泉となれば、ウルウがこれを拒む理由など何一つないだろう。
あたしたちは女中の案内で温泉に向かった。
脱衣所は簡素なもので、ちゃちな鍵をかけられる棚が並んでいて、あたしたちは三人で横並びに棚に衣服をしまい込んだ。鍵はヒモが通されていて、首にかけられた。
ひなびた湯治所という印象だったのでそこまで期待はしていなかったのだが、なかなかどうして、浴場は立派なものだった。足元はタイル張りで、湯舟は自然の岩をうまく生かして囲われており、これがまるで野外の露天風呂のような野趣あふれるおもむきだった。
湯気が抜けるように天井近くには外気とりの窓がついていて、そこからもうもうと立ち上る湯気が抜けていっていた。
湯はどこかから樋で流されているらしく、そして流れ出た湯はそのままあふれ、床下に流れ込んで、近くの川なりどこかへと流れていく仕組みのようだった。
浴場はほどほどに人入りがあり、さっそくウルウは嫌そうな顔をしたけれど、それでも帰るとは言いださないあたり随分成長したように思われた。話に聞いていたところ、初期のウルウは姿を消す魔法を使ってまで風呂屋に通ったというから大概だ。
洗い場はどこの風呂屋でも同じような造りで、あたしたちは持ち込んだ石鹸で体を洗い、さっぱりと泡を流し、手ぬぐいで髪をまとめて、早速温泉に浸かることにした。
温泉はうまい具合にお湯の温度を操作しているらしく、恐ろしく熱くて長々と入っていられないようなもの、ほどほどに熱くて心地よいもの、ぬるめで長く入っていられるもの、また冷やされた冷泉などがあった。
リリオが最初戯れに恐ろしく熱いものに浸かろうとしてみたが、足先だけで降参した。ウルウは浸かるところまで行ったが、一分ほどで無理だと出てきた。あたしはそんな二人を眺めてから指先を浸して、無理は止めておこうと決めた。
結局三人で浸かったのは、ほどほどに熱いものである。これは普段はいる風呂屋と同じくらいで、心地よい。隣のぬる湯は、少し物足りない。あちらは本当に、湯治客がじっくりと浸かるためのものであるらしかった。
ほどほどの熱さの湯には旅人が何人か、それに風呂の神官が浸かっていて、どの風呂の神官もそうであるようにのんびりと心地よさげな表情で、そしてまたその肉置きも豊かだった。
こうして見るに、数ある神々の神官の中でも、風呂の神官ほど現世利益にあやかっている連中はいないように思われた。こうして風呂に浸かっているだけで、いやまあ法術などを行使し続けているとは聞くけど、少なくとも心地よい環境にいるだけで祈りにもなり、金も貰えて、法術の技術もバリバリ磨かれていくのだ。おまけに体つきも、いい。
法術だの魔術だのは実戦の中で身につくことが多いので、癒しの術は街中の神官より怪我をすることの多い冒険屋の神官の方が伸びるとは聞くが、風呂の神官に関して言えば何しろ常時癒しの術を使っているのだから、これは伸びない訳がない。うらやましいことである。
しかも、あっ、酒、お酒まで飲み始めてる!
桶に酒瓶とグラス浮かべて、にこにこ笑顔で晩酌してやがる。あれで仕事なのだからうらやましい限りだ。
「あれのぼせないのかな」
「風呂の神官はかなり早いうちから『風呂でのぼせない』加護を受けるそうですよ」
「地味にうらやましい……」
ウルウはお風呂好きだけど、結構のぼせやすいところがあるからね。
いまも色の薄い肌が早速ほてって色づき始めている。
単に色白さで言ったら北国育ちのあたしたちの方が白いんだけれど、なんだかこう、ウルウの色白さは妙な色気があるわよね。ちょっと不健康そうというか病的というか、危うさがあって、それが不思議と魅力的なのだ。
それに、と並んで湯につかっているブツを比べてみる。
リリオはまあ未来に期待すべしだし、あたしはまあ、リリオ程絶望的ではない。
しかしウルウの場合、細いくせに、浮くのだ。やや浮くのだ。この女、持っていやがるのだ。
夜寝るときに抱き着くとよくわかるけれど、細い割に、というか細いからこそ浮き立つのか、柔らかなものをお持ちなのだ。普段は着やせするから気づきにくいけど、ご立派なのだ。
ぼんやりとそんな豊かさやうなじのあたりを眺めていると、一方で、と比べられる自分達の肉体の貧弱さがどうしようもなくどうしようもなく感じられるのだった。
「トルンペート、トルンペート」
「なあに?」
「ウルウの体つきって本当に、その、そそりますよね」
こうはなるまいと思った瞬間だった。
……まあ、あたしもそう思うけど。
用語解説
・どの風呂の神官もそうであるように
バーノバーノといい、風呂の神官は妙にスタイルがいいものが多いようだ。
温泉の癒しの効果が、彼女らの体をよくよく発達させてくれているのかもしれない。
男性の神官も大体高身長で贅肉も少なく、健康であることが多い。
その上、現在は帝国の方針で職場が増える一方だし、給料も安定しているし、実はモテる。
モテるのだが、仕事と祈祷の関係上拘束時間が長いため、偉くなるほど結婚率は低下する。
・『風呂でのぼせない』加護
神官たちはその信仰する神によってさまざまな加護を受ける。
ただ、加護を受けるということはそれだけ神の、つまり既知外の知性に近づくということで、上級神官程話が通じなくなってくる。
例えば帝都の風呂の神殿の司祭は半神クラスの神官であり、『入浴している限り不死身』などの強力な加護を持つが、その精神は「常時茹だっている」と言われる程に会話が通じないし、一年三六五日休むことなく入浴しているのでそもそも一般人と同じ生活が不可能である。
・ブツ
おバスト。
暴れまわることの多い冒険屋にとって胸はそこまで大きいと困るのであるが、かといって無いのは無いで寂しいというのが女心の難しいところ。
前回のあらすじ
温泉の効能を全身でたっぷりと味わった三人。
豊かさと、心地よさと、ほんの少しの切なさと。
たっぷり長々と温泉を楽しみ、少しのぼせ気味の私たちは、ほかほか湯上りを楽しんでいた。
具体的には、体をふいて着替えを終えて、休憩所の長椅子に腰を下ろして、女中さんが淹れてくれてよく冷えた甘茶を頂いていた。
この甘茶って言うのは、冷やしてもなかなかにおいしいものだね。今日頂いているのは味わいとしてはハーブティーの類というか、以前貰ったハスカップ茶に似ているというか、甘酸っぱい感じなんだよね。
でも甘茶って一言にいっても実はいろいろあって、ベリーのものだったり、ハーブのものだったり、要するに甘いお茶はみんな甘茶なんだよね。
歴史的には、西方から茶が入ってきたんだけど、それは最初紅茶みたいな形だったのかな。でも栽培の難しさで育てられなかったり、発酵の難しさで断念したり、渋みとかがあんまり好まれなかったりとかでそこまではやらなかったみたい。
でも貴族を中心に喫茶の文化自体は広まって、自分達でもどうにかできないかなーって色々試した結果が、今の甘茶っていう文化みたいだね。
だから地方をまたぐと同じ甘茶でも全然味わいが違ったりする。これはなかなか面白いね。
今でも少ないながら茶の文化はあるらしいけど、南部で輸入品を飲んだり、貴族が本当に趣味で飲んでたりするくらい。で、南部自体は、珈琲と同系統であるらしい豆茶が流行ってるから、まあ結局一部貴族しかやってない飲み物だよね。
そんなわけで、以前オンチョさんに貰った西方の緑茶みたいな茶葉は本当にうれしかったりする。
甘茶もおいしいんだけど、やっぱり緑茶ってなじみ深いからね。美味しいとか美味しくないとかいう以前に、ほっとする。
まあお茶を飲むとホッとするっていうやつは本当のお茶を飲んだことがないらしいんだけど。
「心臓にアドレナリンをぶち込んだような気がする、だっけ」
「死んじゃいますって」
「ですよねえ」
女中さんに突っ込まれてしまった。
しかし甘茶。甘茶かあ。美味しいんだけど、風呂上りに甘茶頂いても、こう、いまいちピンとこない。そりゃ、湯上りに冷たいもの飲むと湯冷めしにくいとは聞いたことあるけど、でもお茶じゃないんだよ欲しいのは。
「牛乳……」
「え?」
「湯上りに冷やした牛乳飲むと、なぜかおいしいんだよね」
「またウルウが変なこと言い始めました」
まあこっちの世界には乳を冷やして飲むという文化自体があまりないからな。貯蔵の為に冷蔵こそするけど、別に冷たい牛乳をありがたがって飲む文化はない。温めて飲む方が多い。
リリオが呆れるなか、しかし意外にもこれに応えてくれたのは女中さんだった。
「わかります。美味しいですよね」
「おっ、わかります?」
「皆さんなかなかわかってくれないんですけどねえ……美味しいですよね。湯上りの牛乳」
「ああ、久しぶりに飲みたくなってきた……」
ごくりと喉を鳴らすと、内緒ですよと女中さんは番台に入っていき、そしてグラスにひんやりと冷えた牛乳を注いで人数分持ってきてくれた。自分用にこっそりと氷精晶入りの箱で冷やしているらしい。
しかも真っ白な色合いではない。
「もしやこれは……」
「イチゴ牛乳です」
「イチゴ牛乳……!」
あの、いまではイチゴ入り乳飲料とかイチゴラテとか呼ばなければならなくなったあの!
実際何が入っているのかよくわからなかったフルーツ牛乳より、味がはっきりわかってこっちの方が好きだったな。
私はありがたやありがたやと手を合わせて、腰に手を当ててこれを一気に頂いた。
やはり湯上り牛乳を頂く時の正しい作法と言えば、これだろう。
「ぷはー!」
「いい飲みっぷりですねー」
「美味しかった。ありがとう」
「いえいえ」
そんな私たちのやり取りをみて、トルンペートがおもむろにグラスをあおった。
「……成程?」
そんな、そりゃあ美味しいけどそこまでか、みたいな顔されましても。
続いてリリオもあおる。
「あー……美味しいは美味しいです」
うん、それな。
まあ、実際問題として湯上りに飲もうが他の時間に飲もうが牛乳の味が変わるわけではない。
ではなぜこれが流行ったかと言えば、そもそも冷蔵庫が各家庭にない時代にはやったんだよね。
昔、冷蔵庫がまだ普及していない頃、繁盛していた銭湯には必ずと言っていいほど冷蔵庫が置いてあったそうな。家に冷蔵庫がなければ、牛乳を飲む機会なんて朝の配達の一本くらいのもの。それがいつも行っている銭湯に登場したらどうなるか。
このコラボレーションが人気となり、そしてそのまま惰性でその感覚だけが引き継がれていった結果が湯上りに牛乳という組み合わせであって、別にこれで味が変わるわけではなく、大いに気分的な問題なのだ。
ああ、でも、美味しかった。
前世でも数回しかやったことないけど、刷り込みってすごいなあ。
用語解説
・甘茶
甘めの花草茶。というのが大まかな所で、実際には地方によって大いに異なる。
東部では甘めのベリー系のお茶のことを甘茶と呼んで一般的にたしなんでいるようだ。
・ハスカップ
多分読者のかなりの人が知らないだろう北海道産の果物。ベリー系。
生のままの保存が難しいので、もっぱら加工品として流通している。
味はブルーベリーっぽいというか、なんというか、ハスカップ味である。
北海道土産に買っていってもなにそれと言われる可能性の高いフレーバーである。
・心臓にアドレナリンをぶち込んだような気がする
けだし名言だね。
・いまではイチゴ入り乳飲料とかイチゴラテとか呼ばなければならなくなった
西暦二〇〇〇年に雪印集団食中毒事件が発生して以来、「飲用乳の表示に関する公正競争規約」により、乳一〇〇パーセントのものでなければ「牛乳」という名称がつかえなくなったのである。
・
前回のあらすじ
湯上りのイチゴ牛乳を楽しんだ三人。
異世界人にはわかりづらい楽しみだった。
さて、お風呂も終えて、部屋に戻ってきましたけれど、まだ寝るには少し早いですね。まあたまには早めにぐっすり寝入ってしまうのもいいですけれど、折角ただで泊まられている宿ですし、何かもったいないかもしれません。
三人でトランプ遊びでもしようかとも思いましたけど、最近、というか最初からずっと私って勝率かなり低いんですよね。楽しいは楽しいんですけど、一度見たものを忘れないウルウと、たまにいかさま仕掛けてくるトルンペート相手だと、私って顔に出やすいし馬鹿正直すぎるみたいなんですよね。
それでも楽しいは楽しいんですけれど、折角温泉宿に来てやるのがトランプ遊びで、しかも掛け金巻き上げられるって言うのはどうも。
などとぼんやり考えていると、ウルウがふと部屋の中に置かれていたチラシに気付きました。
「フムン」
「どうしました」
「按摩やってるって」
「按摩……フムン」
按摩と言えば、按摩師に疲れた身体のコリを揉みほぐしてもらうというあの按摩でしょうか。
思えば私たちも旅に出てからゆっくり休むということをしていませんでしたし、折角の温泉宿ですし、いい機会と思って徹底的に骨休めするのも良いかもしれません。
そう思って女中さんに頼んでみると、しばらくしてやってきたのは先ほど休憩所で牛乳をふるまってくれた女中さんでした。
「おや」
「あれ、先ほどのお客さん」
「按摩師さんじゃないんですか?」
「今日はお休みでして。私はユヅルと申します。あ、でも按摩はちゃんとしますから、安心してくださいね」
まあ、そういう日もあるでしょう。
私はちょっとがっかりした思いで、寝台に体を横たえました。
「じゃあまずうつぶせでお願いしますねー」
女中さん、ユヅルさんはまだ少女と言ってもいいくらい若い娘さんで、そうですね、精々私と同い年かそこらといったところ、成人したぐらいかなといった感じです。言っちゃあなんですけれど、下働きならともかくこういう仕事に出てくるのは私はどうかと思いますね。
腕も見るからに細いし、指なんかもまあ水仕事も大してしたことがないようなつやつやしたものですし、私のこりにこった体をもみほぐすなんて無理でしょうよと、そう思っていました。
そう……そう思っていたころが私にもありました。
「あふ……っ……くぅ………あー……いい、そこ、そこ……」
「はーい。痛かったら言ってくださいねー」
「あー……い……」
開始数分で私はぐでんぐでんと寝台の上でもみほぐされ、柔らかなこと章魚のごとしみたいにぐんにゃりさせられてしまいました。なんとも恐るべき指先です。
決して力が強い訳ではなく、むしろ弱いくらいかなと思うくらいなんですけれど、その指先がぐいぐいと私の体を遠慮なくもみほぐすたびに、筋肉の芯にまで届くような心地よい快感が走るのでした。
時間にして四半刻もしないうちに私の全身のコリというコリはもみほぐされ、自分でも知らなかった疲労はすべて押し出され、後に残ったのはしびれるような快感に打ちのめされてぐんにゃり転がる情けない身体だけでした。
「はい終わりです。いやー、それにしてもすごいですね。こんなに鍛えられているなんて」
「あー……わかりますー?」
「いろんな人揉んできましたけれど、一番揉みごたえありましたね」
それはまた、うれしいような、なんというか。
私は小柄ですし、魔力の恩恵に頼っている部分も大きいですけれど、それでももともとの体もきちんと鍛えていますからね。
続いてトルンペートが犠牲に、もとい按摩を受けましたけれど、これは見ていて面白いものでした。
いつもはつんとしたおすまし顔が、柔らかくもみほぐされるたびにどんどんとろけていって、最後にはもうあられもない顔をさらしていましたね。嫁にいけなくなるような顔です。
「トルンペートさんもすごいですねえ。針金みたいにこっちこちです」
「あっ、あー……んっ、あたしは、御世話役だから、ね、んっ……このくらい……あっ」
「じゃあその疲れももみほぐしていきましょうねー」
「あっ、らめ、らめえええええ……っ」
人間の体ってあんなにぐんにゃり曲がるものなんですねえ。トルンペートのもともとの柔軟さもあるんでしょうけれど、ユヅルさんも容赦ありませんね。むしろ面白がってやってるんじゃないかというくらいぐにゃんぐにゃんと揉んで曲げて伸ばしてます。
私もあんな、もちでもこねるかのようにもみほぐされていたのかと思うとなかなか恐ろしい光景です。
そうして借りてきた猫どころかすっかり快楽の海に溺れてしまったトルンペートの次は、いよいよウルウです。
触られるの嫌がるかなと思ったら以外にも普通の顔で寝台に横になるので不思議そうに眺めたら、
「この人はちゃんと仕事で触る人だから」
つまり耐えられるということなんでしょうけれど、よくわからない理屈です。
ウルウの体を揉み始めてすぐに、今度もまたユヅルさんは驚きました。
「う、ウルウさんあなた……!」
「んー……」
「全然こってないですね! ここまでこってない人初めてです!」
「あ、やっぱり?」
ああ、うん、もしかしたらと思ってました。ウルウって時々化け物じみてますもんね。
「でも一応揉み解していきますねー」
「んっ……あっ………ふゥん……いっ……………ゃ」
ウルウが揉まれている間、私たちはトランプを取り出して神経衰弱で勝負することにしました。
間が持たないという以上に、魔が差しそうな声が響き渡るからでした。
用語解説
・按摩
マッサージと同じように、押したり揉んだり叩いたりして身体活動を活性化させる技術だが、マッサージと按摩は厳密には違う。
ざっくりいうと、按摩は心臓に近い方から指先へ、マッサージは指先から心臓の近くへ、となる。
いろいろ細かい違いがあるので興味がわいた人は調べてみよう。
なおユヅルがやっているのはなんちゃって按摩ッサージであり、ざっくり教わったものを経験と勘に基づいてアレンジしているので、よい子は真似しないように。
前回のあらすじ
怪しげな按摩ッサージで全身をぐにゃんぐにゃんにさせられた三人であった。
神経衰弱でほどほどにリリオから巻き上げながら、あたしはウルウの色っぽい声に惑わされないように、またちょっと気になっていたので、女中のユヅルさんに尋ねてみることにした。
「ところでユヅルさんは茨の魔物って知ってる?」
「あ、はい、知ってますよ」
「あれって何なの?」
「何っていうと……何なんでしょうねえ」
困ったように応えられて、ああ、違う違うとあたしは頭を振った。質問が悪かった。
揉み解しがあまりにも気持ちよくて、まだ頭がぼんやりしているのかもしれない。
「そうじゃなくて、どういう魔獣なのかなって」
「ああ、そういうことですね」
寝台の上でもちでもこねるかのようにウルウの体をもみほぐしては、その度に声を上げさせつつ、ユヅルさんは答えてくれた。
「茨の魔物って言うのは、異界からやってきた魔獣なんですよ」
「異界から」
「どこか、本当に遠いどこかからやってきた魔獣なんです」
「ふうん」
「それで、茨の魔物は、人の心に取り憑くんです。弱っている人、油断している人、そして心の毒が多い人に」
そうして人に取り憑いた茨の魔物は、人の心の毒を吸い上げていくという。そうすると人の心はなくなった分の毒を満たすように、心の毒を過剰に生産する。だから突然気性が荒くなったり、悪事に手を染めたり、急変するのだという。
そうしてひとの心をすっかり吸い尽くしてしまって、もう新しく心の毒を生み出せなくなると、茨の魔物は成熟して、種を作り、あたりにばらまいてまた新しく人の心に取り憑いて、殖えていくのだそうだ。
「心の毒を奪って増える魔獣ねえ」
「毒なら、別に取られちゃってもいいんじゃないですか?」
確かにそうだ。毒を吸って増えてくれるなら、魔獣どころかとんだ益獣ではないだろうか。
しかし、ユヅルさんはウルウの体をぐんにゃりと曲げながら首を振った。
「心の毒は、なくてはならないんです。例えば誰かを妬む気持ちは心の毒ですけれど、それで相手を乗り越えてやろう、努力しよう、っていう気持ちとも表裏一体なんです。誰かを驚かしてやろうっていう些細な気持ちも心の毒なら、日々を生きていくうえで受けていく些細な刺激もみんな心の毒なんです。心は、毒を受けて、それに抗うために、成長していくんです。毒を受けて、毒を抱えて、それでも頑張って生きていくのが、心というものなんです」
成程、それはわかる話だった。
あたしだって、もし人生が何にもつらいことなんて幸福な事ばかりだったら、つまらなくて死んでしまうかもしれない。こなくそって思うから、前に進んでいけるのかもしれない。あたしの人生は碌なもんじゃなかったし、あたしの育ちは絶対に幸福なものなんかではなかったけれど、それを乗り越えてやろうという気概が、あたしをここまで成長させてくれたように思う。
「すっかり心の毒を吸い取られて、茨の魔物が去ってしまったら、その人の心にはなんの毒も残っていません。一滴も残りません」
「そうなったら?」
「そうなったら、死んでしまいます」
「死ぬ」
「息苦しいということさえ毒と思えないから、呼吸もしなくなりますし、心臓だって働くのをやめてしまいますし、何より、考えることもできなくなってしまうんです。そうして、衰弱して、死んでしまう」
それは、何度も何度もそんな死にざまを見てきたとでも言うように、重い決意の秘められた声だった。
「だから、茨の魔物は退治しなければならないんです。絶対に」
実際のところ、この温泉宿などでも、茨の魔物退治のために協力しているらしい。
「温泉が?」
「神官さんが神様の癒しの力を込めた温泉水って、茨の魔物は嫌がるんです。あんまり茨の魔物が小さい段階だと効かないんですけど、ある程度大きくなったころにこの癒しの力のこもった温泉に浸かったり、飲んだりすると、茨の魔物は嫌がって飛び出してくるんです」
そう言う時の為に、温泉宿にはどこも衛兵が詰めているらしい。
「それで、癒しの力を込めた温泉水を瓶に詰めて、人の多い商店街や衛兵の詰所とかに配ってるんです。大きめのお店なんかは、温泉水を買って、従業員に毎週飲ませたりしてるみたいですよ」
これをユヅルさんは防疫だといった。病を防ぐのと一緒だと。
このやり方をするようになってから、かなりの数の茨の魔物を退治できているらしいけれど、それでも全くなくなるというにはまだ遠いようである。
「難しい話ですけれど、人の心には毒がないと生きていけませんけれど、人の心に毒がある限り、茨の魔物もまた住み着く場所には困らないですからね」
いつか根絶できるときがくればいいのですけれど、と実にしみじみといい話のように言ってくれるのだけど、その下でウルウが見たこともないとろけ顔でぐんにゃりしてるので半分くらいしか頭に入らなかった。
用語解説
・心の毒
ストレス。また、それに抗おうとする心の力。
前回のあらすじ
茨の魔物と心の毒について語ってもらった。
そしてウルウはとけた。
このユヅルという少女に私が何も思わなかったわけではなかった。
いや、別に全身をこってり揉み解されてさんざっぱらアヘ顔をさらされたことを恨んでいるわけではない。かなり気持ちよかった。また立ち寄ることがあればぜひにもお願いしたいくらいだった。
そうではなく、ユヅルというどう考えても帝国標準から外れた名前と、いわゆる西方人めいた顔立ちについてである。
たまに西方から来た人とか、西方人を先祖に持つ人とか本当にいるからあまり気にしたことはなかったのだけれど、というか気にするだけ疲れるのでやめていたのだけれども、このユヅルという少女はどうにもすこし違った。
まず一つに、休憩所で牛乳をご馳走してもらったことである。
リリオやトルンペートの反応からもわかる通り、湯上りの牛乳というものは、普通においしいは美味しいけれど、そこに格別の価値を見出すのは文化的な理由というものでしかない。彼女自身も周りから理解されにくいと言っているように、風呂上りに牛乳というものはこの世界では異質な文化なのだ。
そしてまた彼女はイチゴ牛乳といった。
これは普段の自動翻訳からするとおかしかった。本来であれば苺牛乳とか聞こえるはずだったのだ。まあこれに関しては、バナナワニみたいに訳されたり訳されなかったりすることがあるので結構自動翻訳がいい加減なのかなと思うが……少なくとも、物の名前及び横文字は基本的に現地語で発音されることが多い自動翻訳さんにしては怪しい。怪しませようとしてるのかもしれないが、プルプラあたりが。
まあイチゴ牛乳は半分冗談としても、それがきっかけで気付いたことがある。
彼女自身の発音だ。
私は読唇術などできないが、それでも今発されている音声と唇の動きとに関連性がなければ、そのくらいは見ていれば気付く。つまり、唇の動きと、実際の発音とが違うということだ。
彼女にはその違いがなかった。
本来であれば、例えばリリオあたりなんかでは唇の動きと聞こえてくる音が全く違うにもかかわらず、彼女はそのままの日本語の唇の動きで日本語を私に聞かせていたのである。私が日本語のつもりで話して、しかし周囲には交易共通語として聞こえるのと同じようにだ。
他はこじつけとしても、これは致命的だった。少なくとも神がかった何かがかかわっているのは確実なのだから。
とはいえ、私は彼女が同じ転生者なのかどうかいまいち確信が持てなかった。
というのも、同じプレイヤーだとすれば、あまりにもその気配に力強さを感じないのである。
私もリリオとトルンペートと一緒にそれなりに長くやってきた。魔獣や害獣、盗賊なんかともやりあってきた。この前は長門とかいう化け物と一戦やらされた。
そういう経験から、相手がどれくらいの力量なのか、大体であれば察することができるようになってきていた。
そう言う点で言うと、この少女はちょっと弱すぎるのである。
魔力量はかなり感じるし、成程決して弱くはないのだろうけれど、すくなくともプルプラがゲームの駒として選ぶほどに強いか、そこのところがわからない。
もし弱くてもゲームの駒として成り立つならば、私にあえてゲーム内のキャラクターの体を作って渡すこともなかっただろう。
合理的に考えれば、この少女は少なくとも同じ理屈による転生者ではないことはわかる。
だが合理的という言葉と、あの境界の神とが、私の中で結びつかないのも事実だ。少なくとも人の死後をもてあそんでゲームの駒にするような奴が合理的であるはずがない。あったとして、それは私の知る合理とは全く理屈の異なるものに合致した合理だ。
按摩を終えてもらい、淹れてもらった甘茶を楽しみながら私は少女を眺めた。
では、仮に神が合理的で一貫的だとして、この少女は転生者ではないのだろうか。
それもまた疑問だった。いくらなんでもたまたま日本語の発音で唇を動かす人間がこの世界にいるとは思えない。
では全く別の理由で転生してきたのだろうか、とふと私は思った。
彼女自身茨の魔物を差してこう言った。異界からやってきた魔獣だと。
彼女はそれを追ってやってきたのではないだろうか。退治し、殲滅するために。
「ふふっ」
「?」
「なんでもないよ」
そこまで考えて、私は追及をやめた。
馬鹿馬鹿しい。
そう言うのがありなら何でもありだ。
前提条件である神の手札と内情を知らない以上、いくら考えても答えなどでない。
第一彼女が転生者だったとしてどうするというのだ。
私にはどうこうすることはできないのだ。
私自身が自分のことをどうこうできないというのだから。
だから私はささやかな事を尋ねてみた。
「君、故郷はどこ?」
「遠くです。ちょっとすぐには帰れないくらいに」
「帰りたい?」
「帰りたい……かもしれません。でも今は、帰れないかな」
「そう」
それだけ聞いて私は満足した。
彼女の言葉には、悩みも迷いもあった。
しかし、答えるだけの力が、彼女にはあったのだから。
用語解説
・ユヅル
詳しくは↓
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