私は急いで、慌てて帰ろうとする川田さんの手首を掴んだ。掴んでしまってから、傷口は痛くないだろうかと気づいて手を離す。
「悩み、分け合わない?」
安田さんが、私にスマホの画面を見せてくる。そのスマホが最新型で、ちょっと羨ましかった。画面には、私の学校の制服を着た女性のピンク色のブラが映っていた。
「これ、私なの」
「…え?」
美人で一軍にいて、悩みがないように見えた安田さんがそう言ってきた時には心底驚いた。
「私の裏垢で、こんな写真ばっか載せてる。バカみたいでしょ?」
そんなことない、そう言いたかったけど表面的な言葉になってしまう気がして口をつぐむ。
「私のこと引いていいよ。これが、本当の私なの。川田さんがどんな悩みを持ってるかはまだわかんないけど、ここだけが私の居場所なの。」
「…なんか、うまく言えないけど、それってすごくいいことだと思う。…自分の、居場所があるって」
そういうと、安田さんは表情を明るくしてありがとう、といった。間近で見た安田さんの笑顔はやっぱり可愛かった。
「お互い、ストレス発散してるってことだよね。」
「うん。」
「…なんかそれって、めっちゃ嬉しい。川田さんとやっと繋がれた気がする」
「…わ、私も」
か細い声で言うと、安田さんはふふっと笑った。その雰囲気が、なぜか私を安心させた。一軍のグループは大嫌いだ。周りを気にしないで人を罵って、騒いで、うるさい。でも、安田さんと二人で話していると、なんだか全然嫌悪感は抱かなかった。むしろ、この状況を楽しんでいる私がいることに気がついた。
「さっきの、忘れ物をとりにきたって話、嘘だったんだね。」
「あはは…そうなんだよね。この『あや』っていう女の子のリクエストで、ここに来たってだけで。」
そう言って安田さんはその『あや』さんのコメントを見せてくれる。夢ちゃんが、勉強している教室で撮ってほしい、か。
「てか、安田さんの名前、夢っていうんだね。」
「…あ、これはハンドルネームで、本当の名前は由美奈。川田さんの名前は?」
「私は、沙羅。川田沙羅。」
かわいい名前だね、と安田さんは言った。そんなこと言われたの、生まれて初めてだった。
「ねぇ、沙羅ちゃんって呼んでいい?」
「…え?あ、うん。」
こうやって、仲良くなっていくのかとひとり納得する。私にはこんなふうに人と関わる機会がないから、緊張した。
「私のことも、由美奈でいいから。」
「…分かった。」
クラスメイトを、下の名前で呼ぶのは全く慣れなかったけど、由美奈ちゃんがそう言ってくれてとても嬉しかった。
「由美奈ちゃん、すごくスタイルいいんだね。」
アプリの写真を見ながら呟く。由実奈ちゃんは少し照れていた。
「ありがと。こういうところくらいしか、取り柄ないし。」
「そんなことないよ。私に比べたら全然。いいとろだらけだよ。」
ふふ、嬉しい、と由美奈ちゃんは言った。
それから、互いの悩みのことを話したり、私のリスカについて説明したりと時間を潰し、六時になったので別れることにした。
「…あ、あのさぁ。今度また、放課後にあってもいいかな」
思い切って言うと、
「もちろん!私ももっと沙羅ちゃんと話したい。」
と言ってくれて、心が叫び出しそうなくらいに嬉しかった。こんな気持ちになったのは初めてだった。めちゃくちゃ、本当に、嬉しかった。由美奈ちゃんも、私と同じ気持ちだったらいいなと思っていた。
「なにこれ…」
翌日の朝、登校すると机の中に一枚のメモが入っていた。
『キモい』
ただ、そう書かれたメモの字は乱雑で、誰が書いたのかはわからなかった。でも、なんだか嫌な予感がしたのは何故だろう。
「唯、これ…」
いつも一緒に行動している友達の唯に、そのメモを見せる。人気者の唯なら何か知っているかもしれないと、思ったからだった。
唯は、私が持っているメモに視線を向けた後、きっ、と私を睨んだ。
「あー、それね。私が入れた。」
「…え?」
まさか。信じられない。あんなにいつも一緒に遊んでた唯が、こんなことするなんて。頭が混乱して、なにも言葉が出てこない。
「だってさー、昨日由美奈が川田と一緒にいるとこ見ちゃったんだもん。いつも私たちがあいつの悪口言ってたのに、あんたはあいつと仲よかったんだね。」
「…それは、」
偶然あっただけ、と伝えるつもりだった。でも、私の声は唯にかき消された。
「別にいいよ、由美奈が誰と仲良くしようが。でもさ、なんか裏切られた気がしてムカついたんだよね。」
「…ごめんなさい。」
唯の真剣な瞳を見ていると、頭がくらくらして、倒れてしまいそうだった。これからも、一緒にいたい、とはどうしても言えなかった。
「もう一緒にいるのやめようか。じゃーね」
その別れの言葉が、あまりにもあっさりしていて驚いた。たった一回、私が沙羅ちゃんといたところを見ただけで、そんなに怒るだろうか。
唯は、私を尾行してきたのだろう。そして、私と紗羅ちゃんが一緒にいるところを目撃した。そこまでは考えればわかる。唯に少し心配性なところがあることを、私は知っているから。
でも、それだけで私を突き放すのは唯らしくない。相当怒っていたからかもしれない。でも、どうも納得できない。
「…ねぇ、なんで」
唯も長年一緒に過ごしてきた私の気持ちなんて、簡単に理解できるのだと思う。きっと、今も。
唯は、私が問いかける前にスマホの画面を私の目の前に突き出した。
「これ、由美奈なんでしょ?」
その画面には、私が昨日撮影した制服姿の投稿が映し出されていた。それを見た瞬間、血の気が引いた。頭から冷や汗が噴き出てくるのを感じる。でも、どこかで、唯は私が何かを隠していることを知っていたのかもしれないことを、私も理解していた。だから、どこか納得していた。
右手の拳を握りしめる。私は、ただ、その場に立っていることしかできなかった。
「私さ、由美奈の友達じゃなかったのかなぁ。由美奈の邪魔でしかなかったのかなぁ。だとしたら、私最低だね。」
「…っ、違う!そういうことじゃないの」
否定しても、唯には伝わらない気がした。でも、言うしかなかった。
「私は、由美奈のこと大好きだけど、あんたは違ったんだね。私のこと、信用してなかったんだ…。」
唯の表情が怒りから悲しみへ変わったような気がした。私が、悩んでいることを唯に相談しないでこんなもの投稿して、紗羅ちゃんにだけそれを教えた。
唯は、私たちの会話も聞いていたのかもしれなかった。
今まで、一軍のグループになっていたくないと思っていた。でも、突き放されてみると今度は悲しい。ひとりぼっちになってしまった気がして。これは、ただの我儘だった。
それから、私と唯は一緒に話すことも、遊ぶこともしなくなった。
そして、私たちはお互いに恋をした。
あれから六年後の夏。
「由美奈ー、準備できた?」
「…え、ちょっと待って。てか、紗羅のそのドレスちょっと地味すぎない?」
「…そうかなぁ」
私たちは、今から結婚する。同性愛が認められた今、私たちは式を上げる準備をしていた。
六年前の夏、お互いに心が壊れかけていた私たちを救ったのは、紛れもない、私たち自身だった。なんの遠慮もいらない、全てを曝け出せる人は私にとって由美奈ちゃんだけだった。
もうあのときみたいに手首を切ることはない。お気に入りにしていたカッターも、卒業すると共に処分した。もう自分を傷つけるのはやめよう、と由美奈と約束したから。
由美奈も、写真を投稿するのはやめたらしい。アカウントも削除したそうだ。だから、私たちは今、ここで幸せになることができている。
「沙羅ー準備できたよ…って、ドレス変えたの?ちょっと派手すぎない?」
「え〜?由美奈が地味すぎだって言ったじゃん。」
「あれは、沙羅らしくて似合ってるって意味だったんだけど。」
「…そんなの分かんないよ!」
聞こえないくらいの声で、「由美奈かわいい」と呟くと、由美奈に聞こえてしまって抱きしめられる。
「…私たち、結婚できるんだね。」
「うん。」
「沙羅ー大好きだよ」
「……私も」
結婚式には、母を呼ぶことにした。学生時代、友達はいなかった私に呼べる人はいなかった。しかし、由美奈は唯ちゃんを招待することにしたらしい。唯ちゃんと言い合いになったままの関係を取り戻したいのだとか。
でも、私は知っている。唯ちゃんが今でも由美奈のことを大切に思っていることを。あの言い合いの後、唯ちゃんは私に耳打ちしてきた。「由美奈、めっちゃいいやつだから絶対傷つけんな」と。正直、めちゃくちゃ怖くて震えそうになったけど、それくらい由美奈への思いは大きかったのだと思う。それと、唯ちゃんはいずれ私たちが今のような関係になることをなんとなく察していたのかもしれないと思う。根拠はないけど、きっとそうだとわかっていたような雰囲気が、唯ちゃんからはあったのだ。
由美奈と出会った六年前、私の人生は一変した。自分のことを肯定できたし、母とも話し合って、一緒に食事をする時間も増えた。すべては、由美奈のおかげなのだ。
これからの未来は、眩しすぎるほどに、明るい。
「沙羅、行こっか」
式場に向かおうとする由美奈の手首を掴んで、そっと唇を重ね合った。