「川田ってさ、なんかいっつもだるそー」
それな、周りの生徒も笑う。私は黙ってそちらを見る。そうすると、彼女らはこちらに一瞬目を向けて、話題を変えてまた話し始める。
あー、だる…。
高校へ入学してから、毎日のようにこんな出来事が続いている。あいつらもよく飽きないなと、感心する。よほど、私に興味があるんだろう。そう思っておくことにする。
夏。始まったばかりの夏だけど、もう気温は三十度近い。暑い。思わず、カーディガンの袖を捲ってしまいそうになり、焦って手を止める。
一日、私は誰にも話しかけられることなく時間を過ごす。授業中に当てられることはほぼ無い。理由は、よく分からない。きっと、私は影が薄いのだろう。
早く放課後になれ、といつも思う。あんなうるさい奴らと同じ空気を吸いたくない。賑やかな一軍は、放課後になった途端に教室を飛び出していく。カラオケにでもいくのだろう。全く羨ましいと思ったことがない。周りに自分を合わせて、楽しんだフリをしてるやつばっかなんだから。俯いて、自分の手先をいじっていると自分の横髪が視界に入る。それが、どうも鬱陶しく、気に入らなくて、やや乱暴に耳にかける。
黒くて、潤いが感じられないパサパサした髪。枝毛が目立つのが少し気になる。
ま、どうせ見てる人なんていないか。
いつもそう思って、手入れしようとはしない。あいつらは、きっと毎日スキンケアやら色々にこだわって、金を注ぎ込んでいるのだろう。その生活に、少しでも幸せを感じてほしい。
うちには、そんな金ないんだから。
私の父は、私が幼い頃にお母さんと離婚して顔も何も覚えていない。ただ、お母さんには「酒とパチンコにしか興味がない男だったのよ」とだけ、伝えられていた。もちろん、いいイメージなんてなかった。
お母さんは、女手一つで私を育てるためにパートを掛け持ちしている。だから、私が家に帰っても顔を合わせることはほとんど無い。偶然家で出会した時には、上から物を言ってきてムカついたから別に会わなくてもいいんだけど。
でも、なんとなく家にひとり、というのは寂しい気がしていつも放課後の教室に残っている。
そうこうしていると、授業終了のチャイムが鳴った。周りの生徒たちは友達と話しながら教室を出ていく。その中で、私は全員がいなくなるまでのんびり荷物を整理して待つ。
二十分もすれば、完全に教室には私以外いなくなっていた。まるで一瞬にして教室そのものが変わってしまったようだった。
黙って宿題をする。ノートに課題を解くと、今度は本を開いて読み始める。時刻は五時過ぎ。まだ周りが明るかった。
本を読んでしばらくすると、胸の奥がじんわりと熱を持ってくる。手足の先は冷たいけれど、体の中だけが熱い。この感覚はいつものことで、初めは気持ち悪くて仕方なかったけど、今となっては快感を感じるようにもなってくる。
私は読んでいた本に栞を挟み、机の端に置く。通学鞄に手を突っ込み、乱暴にカッターを取り出す。百均で買った、なかなか切れ味のいいカッターだ。カッターを取り出す間にも、胸の熱さはどんどん増してゆく。それが気持ちよくて、次第に頬も紅潮するのを感じる。そっちに意識を向けながら腕を動かす。
それを軽く手首に当てる。身につけていたカーディガンと肌の間に空気が入り込んで、涼しい。周りの雑音が全く聞こえないところも、誰も見ていないところも、私が教室を選んだ理由だった。しかも、六時過ぎでないと見回りの教師も来ないところは助かる。
すぅっと優しくカッターを肌に滑らせると、鮮やかな赤色の血液が漏れ出てくる。やっと胸の熱さを癒せて、私はさらに快感を覚える。もう一回カッターを入れると手足の冷たさも引いて、だんだん元の状態に戻る。これが、なんだか寂しい気もするのだが。
スカートの下の腿を軽く擦り合わせる。蒸し暑さで肌は湿っていた。
気持ちいい…。
私はいつからこんなことをするようになったのだろうか。スカートと机に垂れた血液をティッシュで拭き取りながら、そんなことを考える。
百均に自分用のカッターを買いに行ったのはいつだっただろう。割と最近だったような気もする。原因は、学校生活と家でのストレスだということを私は知っている。周りの人間は変えられないし、この時間が作れるのなら、別にこのままでもいいと思っている。
左手首を見ると、五本の傷跡がある。今日の分を合わせて七本。止血された傷口からそのままカーディガンで覆う。
そろそろ帰ろうか、とカッターを鞄にしまったその時、教室のドアがガラリと音を立てた。先生かと思ってびくりと肩を震わせる。後ろを振り向くと、同じ制服を着た一軍の生徒が立っていた。
一軍にいるのって、疲れる。小学生の頃から仲が良い友達が賑やかな性格で、私もなんとなくその友達のグループに加入している。男子四人に女子三人。私を除いた全員がノリの良いタイプだから、私もなんとなくそれに合わせている。みんなが笑った時には私も声を上げて笑い、みんなが泣いたら私もなんとなく鼻を啜る。おかげで演技の方だけは自信がある。今のところは、難なくやれているし、逆に他のメンバーに好かれていると自覚している。だからこそ、一人になったときだけは自分でいられる気がして安心できる。
放課後、週に二度ほどいつものメンバーでカラオケかファミレスへ行く。他愛ない馬鹿な話をして時間を潰している。一軍のメンバーの中で一人、男子の中村という奴がいるのだが、中村はチャラい格好をしながらも家はかなりの金持ちで彼自身も頭がいい。だから平日カラオケに行く日以外の三日は塾や、他の習い事が入っているらしく、そういう日はなんとなくメンバー別々で帰るという習慣になっていた。
その三日が、私にとっては安心できる日で、下校中早い段階で帰路が分かれるためにもう一度学校へ足を運んでいる。幸い、メンバーにはバレていない。
急ぎ気味に学校へ戻ると、そのまま空き教室に直行する。誰もいないしんとした教室に足を踏み入れた途端、私はやっと息を吐くことができるのだった。別に家へ帰っても問題はないのだが、なんとなく教室の方が落ち着く。あと、フォロワーからのコメントもきていたし。
まず、教室と教室周辺に人気がないことを確認してからそっとドアを閉める。一番窓際の後ろの方の席に座って、スマホを取り出す。
写真投稿アプリに届いている通知を確認してから、準備を始める。制服の一番上のボタンを外すと風が通って気持ちよかった。学校の教室でとってほしいというコメントがきていたからもっと教室らしさが出るようにスマホカメラのアングルを調整する。
制服のボタンを三つほど外したら、ピンク色のレース生地のブラが視界に入る。今日初めて着けたものだ。きっと、喜んでくれるだろう。
そう考えながら、いい感じにブラと谷間が見えるように体を傾ける。タイマーをセットして写真を撮る。アプリの機能でシャッター音は鳴らないように設定している。
すぐさま撮った写真を確認する。顔は写さず、胸とスカートが見えるようになっていることを確認できたら、保存しておく。次は、もう少し攻めようかと、シャツの半分くらいまでボタンを外し、軽くはだけさせる。腕で、胸を強調させるようにしてもう何枚か撮る。納得いく写真が撮れたら、またアングルを変えていく。窓から差す光を生かすようなイメージにする。そうすれば、より自然な感じに移るようになるのだ。
スカートを限界まで短くして、ブラとセットのピンク色のパンツが少し見えるように片足を椅子の上に乗せる。やっぱりこのセットを買ってよかった。私の肌によく馴染んでいる。
撮った写真にフィルターをかけて、投稿する。キャプションの欄には、何も書かないのが私のこだわりだった。投稿するとすぐに何十件かのいいねとコメントがくる。少し前からアプリに投稿するようになったけど、すぐにフォロワーは増え続けて、今では千人近い。
『夢ちゃんかわいい』
『新しいの買ったの?めちゃくちゃ似合ってる』
『私もおんなじの買いたいからどこのか教えて!』
『夢ちゃん今日もいいね。大好き』
「夢ちゃん」は、私のハンドルネームだ。本当の苗字は安田。
フォロワーは、成人の男性も女性もいれば、私と同じくらいの高校生もいる。すぐに反響があって嬉しくなる。制服をきちんと着直しながらコメントを閲覧する。
時々、好意的ではないコメントもくるがそういうようなコメントは無視するようにしているし、私を好きでいてくれているフォロワーが追い出してくれているから問題ない。コメントに返信しながらのんびりと放課後を過ごす。私の所謂、裏垢だ。
『今日は放課後の空き教室で、周りの景色も入れてみたよー。みんなコメントといいねありがとね♡』
『これは〇〇で買ったよー。オススメ!』
私の返信にも、どんどんいいねがついていく。
ここでは誰にも合わせなくていいのが本当に気楽だった。しかも、自分を肯定してくれている人たちが、ここにはたくさんいる。ここだけが、本当の居場所のように思えた。
『夢ちゃん、今日も大好きだよ!今度は夢ちゃんが勉強してる教室で撮ってほしいな』
沢山のコメントの中から、一つ、このコメントに目が止まる。ユーザーネーム『あや』私が投稿を始めた頃からずっと支えてくれている子で、私が認知を実際に公表している子だった。年も私と同じ高校生らしい。あやちゃんが、リクエストをしてくれたら大体のことは、するようにしている。今の時間帯なら、教室にも人はいないだろう。
そう思い、席を立った。
「え…安田さん?」
教室のドアを開けて、生徒がいることに驚き、もう少しで声が出てしまうところだった。席に座っているのは、川田さんだった。
「なんで、安田さんがここにいるの?」
「…それは、こっちのセリフなんだけど」
初めて話したというのもあって、お互い気まずく、ぎこちなくなってしまう。時刻は五時半を過ぎたところだった。
「私は、別に…いつもここで宿題やってるから。」
そう、安田さんが答える。いざ話してみたら、すごく透き通った綺麗な声をしていることに気がついた。
「私は……わ、忘れ物をとりに来ただけ」
自分の写真を撮っているなんて言えるはずもなくて、咄嗟に思いついた嘘を口走る。川田さんはそっか、とぎこちない笑みを浮かべていた。
「…じゃ、じゃあ私行くね」
「うん…」
川田さんは、そのまま勢いよく立ち上がって鞄を持ち上げた。その拍子に、鞄の中から何かが落ちた。
「あっ」
川田さんは急いでそれを拾う。何を落としたのかは分からなかったけど、すごく慌てていた。その様子を何の気なしに眺めていると、川田さんの足元に目が止まる。何本も、何かで切った後のようなものがあり、一本か二本かさぶたになっているものもあった。
「…その傷、どうしたの?」
あまりに傷跡が多いのが気になって、尋ねると川田さんはさっきとは比べ物にならないくらい驚いていて、えぁ、とよく分からない声を出した。
「もしかして、」
リスカ?
と聞こうとした。でも、その声は遮られてしまった。
「カッターで切った……とか、言ったら引くよね」
強く言われて、私も動揺してしまう。やっぱり、あの傷は自分でやったものだったのか。そして、先ほど落としたのもカッターだったのかもしれないと考える。
川田さんは、自分でカーディガンの袖を捲る。手首には何本もの傷跡がついていた。私は、動揺で声すら出なかった。
「…ごめんね。勝手に気持ち悪いもの見せて。このことは忘れてね、じゃあ。」
私は急いで、慌てて帰ろうとする川田さんの手首を掴んだ。掴んでしまってから、傷口は痛くないだろうかと気づいて手を離す。
「悩み、分け合わない?」
安田さんが、私にスマホの画面を見せてくる。そのスマホが最新型で、ちょっと羨ましかった。画面には、私の学校の制服を着た女性のピンク色のブラが映っていた。
「これ、私なの」
「…え?」
美人で一軍にいて、悩みがないように見えた安田さんがそう言ってきた時には心底驚いた。
「私の裏垢で、こんな写真ばっか載せてる。バカみたいでしょ?」
そんなことない、そう言いたかったけど表面的な言葉になってしまう気がして口をつぐむ。
「私のこと引いていいよ。これが、本当の私なの。川田さんがどんな悩みを持ってるかはまだわかんないけど、ここだけが私の居場所なの。」
「…なんか、うまく言えないけど、それってすごくいいことだと思う。…自分の、居場所があるって」
そういうと、安田さんは表情を明るくしてありがとう、といった。間近で見た安田さんの笑顔はやっぱり可愛かった。
「お互い、ストレス発散してるってことだよね。」
「うん。」
「…なんかそれって、めっちゃ嬉しい。川田さんとやっと繋がれた気がする」
「…わ、私も」
か細い声で言うと、安田さんはふふっと笑った。その雰囲気が、なぜか私を安心させた。一軍のグループは大嫌いだ。周りを気にしないで人を罵って、騒いで、うるさい。でも、安田さんと二人で話していると、なんだか全然嫌悪感は抱かなかった。むしろ、この状況を楽しんでいる私がいることに気がついた。
「さっきの、忘れ物をとりにきたって話、嘘だったんだね。」
「あはは…そうなんだよね。この『あや』っていう女の子のリクエストで、ここに来たってだけで。」
そう言って安田さんはその『あや』さんのコメントを見せてくれる。夢ちゃんが、勉強している教室で撮ってほしい、か。
「てか、安田さんの名前、夢っていうんだね。」
「…あ、これはハンドルネームで、本当の名前は由美奈。川田さんの名前は?」
「私は、沙羅。川田沙羅。」
かわいい名前だね、と安田さんは言った。そんなこと言われたの、生まれて初めてだった。
「ねぇ、沙羅ちゃんって呼んでいい?」
「…え?あ、うん。」
こうやって、仲良くなっていくのかとひとり納得する。私にはこんなふうに人と関わる機会がないから、緊張した。
「私のことも、由美奈でいいから。」
「…分かった。」
クラスメイトを、下の名前で呼ぶのは全く慣れなかったけど、由美奈ちゃんがそう言ってくれてとても嬉しかった。
「由美奈ちゃん、すごくスタイルいいんだね。」
アプリの写真を見ながら呟く。由実奈ちゃんは少し照れていた。
「ありがと。こういうところくらいしか、取り柄ないし。」
「そんなことないよ。私に比べたら全然。いいとろだらけだよ。」
ふふ、嬉しい、と由美奈ちゃんは言った。
それから、互いの悩みのことを話したり、私のリスカについて説明したりと時間を潰し、六時になったので別れることにした。
「…あ、あのさぁ。今度また、放課後にあってもいいかな」
思い切って言うと、
「もちろん!私ももっと沙羅ちゃんと話したい。」
と言ってくれて、心が叫び出しそうなくらいに嬉しかった。こんな気持ちになったのは初めてだった。めちゃくちゃ、本当に、嬉しかった。由美奈ちゃんも、私と同じ気持ちだったらいいなと思っていた。
「なにこれ…」
翌日の朝、登校すると机の中に一枚のメモが入っていた。
『キモい』
ただ、そう書かれたメモの字は乱雑で、誰が書いたのかはわからなかった。でも、なんだか嫌な予感がしたのは何故だろう。
「唯、これ…」
いつも一緒に行動している友達の唯に、そのメモを見せる。人気者の唯なら何か知っているかもしれないと、思ったからだった。
唯は、私が持っているメモに視線を向けた後、きっ、と私を睨んだ。
「あー、それね。私が入れた。」
「…え?」
まさか。信じられない。あんなにいつも一緒に遊んでた唯が、こんなことするなんて。頭が混乱して、なにも言葉が出てこない。
「だってさー、昨日由美奈が川田と一緒にいるとこ見ちゃったんだもん。いつも私たちがあいつの悪口言ってたのに、あんたはあいつと仲よかったんだね。」
「…それは、」
偶然あっただけ、と伝えるつもりだった。でも、私の声は唯にかき消された。
「別にいいよ、由美奈が誰と仲良くしようが。でもさ、なんか裏切られた気がしてムカついたんだよね。」
「…ごめんなさい。」
唯の真剣な瞳を見ていると、頭がくらくらして、倒れてしまいそうだった。これからも、一緒にいたい、とはどうしても言えなかった。
「もう一緒にいるのやめようか。じゃーね」
その別れの言葉が、あまりにもあっさりしていて驚いた。たった一回、私が沙羅ちゃんといたところを見ただけで、そんなに怒るだろうか。
唯は、私を尾行してきたのだろう。そして、私と紗羅ちゃんが一緒にいるところを目撃した。そこまでは考えればわかる。唯に少し心配性なところがあることを、私は知っているから。
でも、それだけで私を突き放すのは唯らしくない。相当怒っていたからかもしれない。でも、どうも納得できない。
「…ねぇ、なんで」
唯も長年一緒に過ごしてきた私の気持ちなんて、簡単に理解できるのだと思う。きっと、今も。
唯は、私が問いかける前にスマホの画面を私の目の前に突き出した。
「これ、由美奈なんでしょ?」
その画面には、私が昨日撮影した制服姿の投稿が映し出されていた。それを見た瞬間、血の気が引いた。頭から冷や汗が噴き出てくるのを感じる。でも、どこかで、唯は私が何かを隠していることを知っていたのかもしれないことを、私も理解していた。だから、どこか納得していた。
右手の拳を握りしめる。私は、ただ、その場に立っていることしかできなかった。
「私さ、由美奈の友達じゃなかったのかなぁ。由美奈の邪魔でしかなかったのかなぁ。だとしたら、私最低だね。」
「…っ、違う!そういうことじゃないの」
否定しても、唯には伝わらない気がした。でも、言うしかなかった。
「私は、由美奈のこと大好きだけど、あんたは違ったんだね。私のこと、信用してなかったんだ…。」
唯の表情が怒りから悲しみへ変わったような気がした。私が、悩んでいることを唯に相談しないでこんなもの投稿して、紗羅ちゃんにだけそれを教えた。
唯は、私たちの会話も聞いていたのかもしれなかった。
今まで、一軍のグループになっていたくないと思っていた。でも、突き放されてみると今度は悲しい。ひとりぼっちになってしまった気がして。これは、ただの我儘だった。
それから、私と唯は一緒に話すことも、遊ぶこともしなくなった。
そして、私たちはお互いに恋をした。