使用していない空き部屋に通されて、俺はことの経緯の説明を求められる。言えるわけがなかった。なんで俺が激昂したのか、その理由を話したくなかった。話せば、天音のことも口にしなければいけないから。たとえ、担任教師が彼女の家庭の事情を知っているのだとしても、話したくはなかった。
 だから俺は、嘘を吐いた。
「あいつと仲良くしてるのが許せなくて。ついカッとなって、やりました」
 担任教師の目には、俺が青臭いガキのように映っているだろう。それで良かった。天音のことを話さなくて済むのなら、それくらいの恥(ち)辱(じょく)は甘んじて受け入れるつもりだ。
「工藤は、この年まで彼女ができたことがなかったんだろう」
「……はい」
「男と女っていうのはな、何度も引っ付いたり別れたりして成長していくんだよ。辛いかもしれないけどな、工藤が経験したことは、大人になればよくあることで、社会に出てから同じことをやったら傷害で警察に捕まるんだ」
「……はい」
「お前なら、先生の言いたいことがちゃんとわかるよな?」
 俺は、聞き分けのいい子どものように頷いた。目の前の大人は、未だ子どもの俺を憐れむような目で見つめてくる。
「お前はしばらく学校に来てなかったんだから、あまり親御さんに迷惑を掛けるんじゃないぞ。そうしないと、父も母も悲しむ」
 言葉にした後、気まずそうに頬を掻いた。
「……そうだった。工藤のお母さんは、確か今年の冬に亡くなったんだったな。傷を掘り返したみたいで、すまない。たぶん、いろいろ整理ができていないんだろう。不安定だったんだよな」
「はい……」
「工藤は真面目な奴だから、もうあんなことはしないって信じてるぞ。先方の親御さんには、俺から説得しておくよ。保証はできないけど、学校には戻れるようになんとか掛け合ってみるから」
「すみません……」
「それは落ち着いたら、橋本に言ってやれ。謝る相手は、先生じゃないだろ?」
 俺は、何も答えなかった。
「とりあえず、しばらくの間は自宅謹慎になると思う。明日は、朝一で先生と飛行機に乗って帰ろう」
「……わかりました」
「それじゃあ、布団敷いてこの部屋で寝なさい。荷物は明日の朝、明坂にまとめさせるから」
 最後にそれだけ言って、担任教師は部屋を後にする。俺は、布団も敷かずに畳の上に横になった。何も、考えたくなかった。けれどただ一つだけ。
春希に対しては、本当に申し訳ないことをしてしまった。
何度もポケットの中のスマホが振動したけれど、一晩中それを無視して過ごした。

翌日、担任教師は俺の旅行カバンを持ってきた。みんなは朝食を食べている時間だったから、誰ともすれ違うことはなかった。旅館を出て、空港までタクシーに乗って、飛行機に搭乗する。
思考を停止していると、驚くほどすぐに杉浦市へと帰ってきた。担任教師と自宅へ行くと、事前に報告をしていたのか父親が俺を出迎えた。
「本人も動揺しているみたいなので、しばらくは自宅で過ごさせてください」
「……わかりました。この度は、うちの息子がご迷惑をお掛けしてしまって、本当に申し訳ございません……」
「若者ですから。よくあることですよ。ははっ」
 最後に担任教師は俺を見て「反省するんだぞ」と釘を刺し、帰っていった。父親に「とりあえず、入りなさい」と言われて、素直に従った。
 リビングには、朝食の匂いが立ち込めていた。見ると、テーブルの上には一人分の目玉焼きと、ウインナーと、ご飯が置かれている。
「先生が、朝ご飯は食べてないって言ってたから」
 喉を通りそうだったら食べなさい。優しく言うと、お母さんに「春希が帰ってきたよ」と報告した。
「……ごめんなさい」
「朝ご飯は食べられない?」
「そうじゃなくて……」
 平日だというのに、仕事も休ませてしまった。俺は、わかってなかった。誰かを殴ると、いろんな人に迷惑が掛かるということを。
「とりあえず、食べなよ。お腹いっぱいになったら、いろいろ聞いてあげるから」
「……うん」
 気分は死んでいるも同然だったのに、人間の欲求に逆らうことはできなくて、出されていたものをすべて胃の中へ入れた。すると今度は、温かいお茶を用意してくれる。父親はブラックのコーヒーを淹れて、隣に座った。
「まずは、修学旅行の楽しかったことから話してみる?」
 優しく笑った。怒ってこないのが、逆に怖くもあった。
「それとも、いきなり本題から入ってみる?」
 控えめに頷いた。今楽しかった思い出を振り返ると、虚(むな)しさでどうにかなってしまいそうだった。
「それじゃあ、どうしてクラスメイトの子を殴ったの?」
 わずかな間の後、口を開く。
「……許せなかったんだ」
「馬鹿にでもされた?」
「……天音を、守ってあげたかった。必死だったんだ。放っておけば、無責任に彼女のことをもっと傷付けそうだったから、黙らせたかった……」
「そっか」
 噛みしめるように呟いた後、父親は言った。
「理由はどうあれ、手を上げるのはダメだよ」
「……先生にも言われたよ」
「でもお母さんが傷付けられてたとしたら、お父さんも手を上げてたかもしれない。男って、単純な生き物なんだ」
「……浅はかだった」
「そうだね。可能ならば、話し合いで解決するべきだった」
「話を聞いてくれないような奴だったら……?」
「それでも話をするんだよ。暴力で従わせる解決に、意味はないんだから。天音さんだって、きっとそんなことを望んだりはしないだろう」
 当たり前だ。天音はどれだけ苛立ちを覚えても、決して暴力で解決したりしない。
けれど、そんな優しい人が、匙(さじ)を投げるような奴だったんだ。あまつさえ、暴力を振るわれていた。父親が言っているのは理想論で、ただの絵空事だ。
「手を出さなきゃ、きっと今度は俺が殴られてた。あいつは、天音を突き飛ばしたから……天音にだって、もっと暴力を振るったかも」
「暴力を振るった理由はどうあれ、君は無傷だ。第三者だったはずなのに。やり返すとしたら、君じゃなくて天音さんの方だろう?」
「あいつは、暴力なんて振るわないから……だから代わりに、俺が……」
「天音さんはそんなことを望まないって、お父さんさっき言ったよね?」
 優しく、諭(さと)すような話し方をする。それに苛立ちを覚えてしまう自分が、恥ずかしかった。けれど見ていないからそんなことが言えるんだと、思った。
「……それじゃあ、天音が殴られるのを黙って見てれば良かったって言うの?」
「そうじゃない。本当に大切なら、天音さんの代わりになって説得を試みれば良かったんだ」
「それで上手くいかなかったら、殴られろって……?」
「ああ。殴るより、殴られる方がずっと強いよ」
 断言してくる。わけがわからなかった。そんなのは、格好が悪い。
「厳しいことを言うけれど」
 一度カップの中のコーヒーを口に含んでから、畳み掛けるように父親は話した。
「誰かのためという理由は、偽善だとお父さんは思う」
「偽善……?」
「もっと端的に言うなら、体の良い言い訳だよ。自分の行動理由を、相手のためだと言い張るのは。人間は往々にして、誰かのために人を殴ったりはしないと思うんだ。お父さんは人を殴ったことはないけれど、きっと手を出す瞬間は誰かのためというよりも、自身の怒りの感情の方が大きく勝っていると思う。無責任なことは言えないからあらためて聞くけれど、君は殴った瞬間に何を考えていた?」
 問われて、思い出したくもない昨日の出来事を回想した。二人の話を盗み聞いていた俺は、誰かが倒れる音を聞いて飛び出した。そこへ行くと、橋本が立っていて、天音が倒れていた。許せないと、思った。天音が忠告をしたというのに、彼は聞き入れもせずにそれを無視したからだ。
 誰かがわからせないといけないと思った。痛みを伴わなければ、人は理解しようとしない。だから天音の代わりに、踏み出した。
 それでも俺は、最後に彼に訊ねていた。ストラップは、お前が捨てたのかと。その返答を聞いて、頭で理解して、血が上って、殴った。
誰かのためじゃなくて、自分自身の義(ぎ)憤(ふん)を晴らすために。
それに気付いた途端、愚かだったのは自分だったということを思い知った。
「……あの場所で一番強かったのは、天音だった」
 突き飛ばされても、天音はやり返さなかった。女のくせに体力のある彼女なら、少しは抵抗することもできたはずなのに。担任教師が来た時も、三人で話し合うことを望んでいた。
 それに比べて、俺はどうだ。橋本を恐怖で立てなくなるほど強く殴り飛ばした。誰も来なければ宇佐美の分だと言い訳して、もう一発殴っていたかもしれない。
俺は本当に、愚か者だ。気付いた瞬間に後悔が溢れてきて、涙が頬を濡らした。そんなどうしようもない俺の背中に、優しく手のひらを添えてくれる。
「殴られるのは痛いかもしれない。それでも、やりかえすよりはずっとマシさ。本当に強い人は、暴力で訴えたりしない。誰かを守れるほどの強さがあるなら、受け流すことはできるんだ。だからどんな理由があるにせよ、最初に拳を握ってしまった人は負けだよ」
 心のどこかで、上手くやれていると思っていた。春希よりも、工藤春希をやれていると、自(うぬ)惚(ぼ)れていた。彼の守ることができないものを、俺なら守ることができると高をくくっていた。そんな慢(まん)心(しん)が招いてしまった、本当にどうしようもない間違いだった。
 ごめんなさい。いろんな人に、謝らなければいけなかった。一番変わらなきゃいけなかったのは、他ならぬ俺だった。
変わることが、できるんだろうか。
救いようのない、こんな俺でも。
「とにかく、やったことは反省しなさい。反省して、やり直すことさえできれば、君はちゃんと強くなれるよ」
「……はい」
 涙が溢れる。後悔のしずくだった。それが、とめどなく流れた。
 変わらなきゃいけないと、強く思った。

 しばらくの間、自室に引きこもった。気付くと夜が来て、夕ご飯だと言われてリビングへ行き食事をして、また閉じこもった。そうして反省をすることが、今の俺にできる最大限の償(つぐな)いだと思った。
 また気付けば、朝になっていた。もうとっくに、みんなもこっちへ帰ってきているだろう。今日は、振替休日。天音からの着信は、昨日から鳴り止まなかった。一時間おきに、かかってきた。自宅謹慎をしているんだから、放っとけよ。今は合わせる顔も、掛ける言葉も見つからないんだから。
 お昼に、宇佐美から着信があった。天音の連絡を無視して出るのは気が咎めたが、誰かの声が聞きたくて、応答をタップしていた。誰でもいいから、俺をなじって欲しかった。最初に戻るみたいに、死ねと言われても良かった。けれど彼女の第一声は『大丈夫?』だった。
 本当に、宇佐美真帆は変わった。その事実が余計に心を刺激して、涙が溢れてきた。
『ちょ、本当に大丈夫……?』
「……昨日よりも、ちょっとは落ち着いた」
『……そっか。天音からは、一向に電話に出てくれないって聞いてるけど。なんで私には出てくれたの?』
「声が、聞きたかったから……」
 電話の向こうの彼女が、赤くなったような気がした。もちろんそんな意味で言ったんじゃない。
『天音には、繋がらなかったって言っておくよ』
「ごめん、ありがとう」
『ごめんはいらないから。鳴海くんが言ったんでしょ?』
 そうだった。落ち着いた俺は、思わず苦笑した。
「……天音から、事情は聞いたの?」
『ううん。教えてくれなかった。でも、噂で聞いたよ。橋本を殴ったって』
 宇佐美曰く、突然帰宅した工藤春希と、顔に痣ができている橋本康平と、意気消沈している高槻天音という状況証拠から、そんな噂が広まっているらしい。概ね、間違いはなかった。こんな時だけとても正確なのが、なんだかやりきれないと思った。
『それで、なんで殴ったの?』
「許せなかったんだよ」
『天音がなんか言われたから?』
「……いや、もっと個人的な。どうかしてた。だから今、ちゃんと反省してる」
『そっか』
「引いたよな」
『別に。私も橋本のこと叩いたし。だから仲間だね』
 冗談を言う時みたいに、笑みを含ませながら宇佐美は言った。そのおかげでちょっとだけ、元気がもらえた。
「天音、結構参ってると思うから。宇佐美が見ていてあげて欲しい。お願いできるかな?」
『言われなくてもそうするつもりだよ。でも鳴海くんがいなくて不機嫌になられても困るから、早めに戻ってきてね』
「……ありがと。橋本は、どんな感じだった?」
『天音と一緒。怖いくらい黙り込んでた。天音と顔合わせる時もあったのに、一言も会話してなかったし。まるで、人が変わったみたいだった』
「そっか……」
『それが原因で、みんな根拠のない憶測ばかり言ってる。また、ちょっと前に戻ったみたいで、なんか嫌だった。前のは、私が蒔(ま)いた種だったけど……』
「今回ばかりは仕方ないよ。俺が殴ったんだから。本当に、春希に申し訳ない。また学校を居心地の悪い場所にしちゃった」
『大丈夫だよ。今度は私が、鳴海くんのことも春希のことも助けてあげるから』
「いいよ。宇佐美もいじめられたら、かわいそうだし」
『それで私がいじめられるなら、一緒にいじめられるよ。というか、私の疑惑もまだ解消されてないし。だから、本当に大丈夫。安心して戻っておいで』
 何も大丈夫なんかじゃないけれど、宇佐美の優しさが身に染みた。
「ありがとう」
 最後にもう一度だけお礼を言って、通話を切った。スマホを机の上に置いて、ベッドに横になる。いろいろと、考えなきゃいけないことがあった。
春希のことと、これからのこと。それと、どんな顔をして天音に会えばいいのかが、未だにわからなかった。元の体に戻るまでに、やらなければいけないことが増えてしまった。元通りになるまでに、全部それを解決することはできるんだろうか。
考えても、ネガティブな未来しか今は思い浮かばなかった。