山々に降り積もった雪が解け始め、桜の花が綻び始めたころ、咲子は初めて藤壺の女御の催す宴に招待された。藤壺の女御は今まで一度も咲子を自身の宴に招待したことはない。
 今まで見向きもされなかったのに突然宴に招待してくださるなんて、いったいどういうことかしら……。
 どうしたことかと不思議に思いつつも、断るわけにはいかない。宴当日、咲子は藤壺へと出向いた。
 清涼殿からほど近くにある藤壺には、藤の花が植えられ、季節になるとそれは美しい花を付ける。藤壺の女御は婚前、優れた知性や容姿から、かの有名な源氏物語の登場人物になぞらえ『紫の君』と呼ばれていた。そのため、藤壺を賜ったという経緯がある。だが、実際に入内した藤壺の女御は非常に気が強く傲慢で、かの『紫の上』とは程遠いと後宮内ではささやかれていた。
 藤の季節は過ぎたが、藤壺の庭には美しい花々が咲き、咲子の住まう桐壺とは比べ物にならないほど豪華な造りだった。
 藤壺の女御からの誘いに遅れるわけにはいかない。咲子はそう思い、開催の時間よりも早めに桐壺を出た。
 だが、咲子が約束の時間よりも少し早めに藤壺に着くと、すでに宴は始められていた。どうやら咲子が聞かされていたよりも早い時間より始まったらしい。当然遅れてくることとなった咲子は深々と頭を下げた。
「遅れてしまい申し訳ございません。この度はご招待くださりありがとうございます」
 咲子が謝罪と礼を述べると藤壺の女御は咲子をギロリと睨んでからにっこりと目を細めた。
「桐壺は遠いですからね、遅れてしまうのも無理はありません」
 藤壺の女御が言うと、女御の周りに侍っていた女官たちがクスクスと笑い声を立てた。
「下賤の者は時間に疎いようですね」
「礼儀に欠けているのですよ」
「せっかく藤壺の女御がお声掛けしてくださったというのに、無礼なことです」
 藤壺付きの女官たちの言葉を咲子は気に留めることなく、空いていた末席に腰かける。
 藤壺の女御が歌を詠み、それに返すように他の妃たちも次々に歌を披露していく。最後に咲子のところまで来ると、咲子はこれから盛りを迎える藤の美しさを歌に詠もうとしたが、咲子が口を開く前に藤壺の女御が口を開いた。
「そろそろ喉が渇いてきました。お腹も空いたところでしょう? みなさんに菓子と白湯をふるまいましょう」
 咲子が和歌を詠む前に、女官が菓子を運んでくる。妃たちの目の前には、次々と菓子と湯のみが置かれた。誰一人として、咲子には目もくれない。仕方なく咲子は歌を詠むことを諦めた。
 なるほど、これは自分を貶めるための宴なのだろう。
突然宴に招待するなど、どういう腹づもりかと思ったが、藤壺の女御の今までの行動からしても合点がいった。
 この宴では、よくよく注意をしなければいけない。咲子は藤壺の女御の動きに注意を払うことにした。
 次々と菓子と白湯が運ばれてくるが、当然、咲子の前には菓子も白湯も置かれない。女官たちはまるで咲子が見えていないかのようにふるまった。
 どうするべきか、咲子が注意深く周りをうかがっていると、藤壺の女官がいる辺りから微かな悲鳴が聞こえてきた。咲子が声のした方へ視線を向けると、青い顔をした女官が茣蓙の上にひれ伏している。
 その前では、藤壺の女御が怒りを露わにしているのが見えた。
和子(わこ)! またおまえですか、本当に鈍くさい。私が火傷でもしたらどう責任を取るつもりです! おまえのような女官、父親がお父様の部下でなければあっという間に首を切ってしまうところですよ」
 金切り声をあげる藤壺の女御のそばには湯のみが転がっている。着物から覗く女官の細い腕には、赤黒い痣がいくつもついていた。女官の姿が、かつて慶子に虐げられていた自分と重なる。
「おまえという女は本当に使えない。お父様に言いつけて父親ごと仕事を奪ってやろうかしら」 
「も、申し訳ございません! これは私の粗相、父とは関係のないことでございます。どうかご慈悲を……!」
「関係ないことがあるものですか、おまえのような出来の悪い娘を育てた親には多大な責任があります。少しくらい反省できないものかしら!」
 藤壺の女御はそう言うと、持っていた扇を振り上げた。女官の顔目がけて扇を振り降ろそうとする瞬間、咲子が止めに入る。
「おやめください」 
凛とした咲子の声が藤壺の庭に響き、女御はぴたりと手を止めた。
「今、私に指図をしたのは誰かしら?」
 誰もが藤壺の女御から視線を逸らす中、咲子だけはじっと藤壺の女御を見据えた。
「失礼ながら、失敗は誰にでもあることでございます。今一度お見逃しください。幸いお怪我はない様子」
 そう言ってから、咲子は藤壺の女御のもとへと歩み寄りその場に跪くと懐から上等な手拭いを取り出した。帝からの贈り物の一つだ。
「お着物が濡れてしまったようですので、こちらをお使いになってください」
 藤壺の女御の怒りは女官から咲子へとその矛先を変えた。女御は立ち上がり、咲子の頬目がけて手を振り降ろす。
 パンッと尖った音が響いた。女御の扇が、咲子の頬を叩く。辺りに妃たちの小さな悲鳴が響いた。
「野良犬には躾が必要というもの。目上の者に指図をするなど、躾がなっていない証拠です。帝が気まぐれにどこからか拾ってこられたようですが、おまえのようにろくな躾もされていない下賤の者、慈悲深い帝もすぐに飽きておしまいですよ。今は帝に可愛がられているようですが、それも長くは続かないでしょう。精々哀れに思われている今に縋ることです。後ろ盾のない更衣など、すぐに後宮を追われることでしょう。大きな顔をして私にものが言えるのも今のうちですよ、今に見ていなさい!」
 藤壺の女御は咲子に向かってそう吐き捨てると、庭から部屋の中へと戻ってしまった。自然と宴はお開きになる。咲子は残された来賓たちに深々と頭を上げた。
「楽しい宴に水を差してしまい、申し訳ありませんでした。みなさま、どうぞ各お部屋にお戻りになり、お休みになられてください」
 そろそろと戻り始める妃たちは、みな、咲子を憐れむような目で見た。こうも正面を切って女御に対してものを言った妃は他にはいない。もとより藤壺の女御に目を付けられていた咲子であったが、藤壺の女御は咲子を徹底的に排除するべき敵だと判断したことだろう。いくら帝の愛が深くとも、左大臣を父親に持つ藤壺の女御に睨まれれば、いずれひどい目に遭うだろうと誰もが思った。今度後宮を去るのは桐壺の更衣に違いない、と。
「では、私もお暇しましょう」
 周りを心配させないよう、咲子は柔らかい笑顔を見せてから桐壺へと帰った。
 その夜、咲子は満月を過ぎて欠けていく月を見上げていた。昼間、藤壺の女御に叩かれた頬がわずかに痛むが気になるほどではない。誰かが土を踏む音がして振り返る。
「帝、ようこそおいでくださいました」
 咲子が笑顔で迎えると、帝は咲子の傍らに立つ。
「龍から聞いたぞ。藤壺の女御から女官を救ったそうだな」
「救ったなど、とんでもありません。身分もわきまえず藤壺の女御のなさることに口を挟んでしまいました。お恥ずかしい限りです」
「いや、よくやった。正直に言うと、藤壺の女御には私も手を焼いているのだ。彼女の父上は左大臣を務めているから無下にはできない。咲子も知っての通り、左大臣は朝廷において多大な権力を持っているのだ。私は常々左大臣と反りが合わず、意見がぶつかってばかりいる。左大臣も、私のことが疎ましくて仕方がないだろう」
 帝はそう言うと疲れたように目を閉じた。
 お疲れなんだわ……。
 咲子は疲れた様子を見せる帝の背にそっと手をあてる。
「私などでは想像もつかぬようなお辛いことがおありなのでしょう。どうか、ここにいる間は政のことは忘れてくださいませ」
「そうだな、この時間だけは、私が私でいられるのだから」
 二人は並んで空を見上げ、他愛無い話をしたり、月の美しさに歌など詠み合ったりと穏やかなひと時を過ごした。帝と過ごすこのわずかな時間が、咲子の中に広がる大きな不安を払拭していくのだった。
 藤壺の女御の宴から数日後、桐壺を一人の女官が訪れた。宴の日に白湯をこぼした女官である。
「藤壺の女御に、異動を命じられました。縫殿寮(ぬいどのりょう)からは桐壺の更衣にお仕えしろと申し付けられました」
「私は聞いていないのですが、誰か異動を聞いている人はいますか?」
 そのような話しは咲子には届いていない。咲子が女官たちを見回しても、みな首を傾げた。急な人事異動だったのだろう。先日の宴が影響していることは確かである。困惑の色を見せる女官たちに、咲子は微笑んで見せた。
「急な決定だったのでしょう。私は歓迎いたします。よく来てくれました、これからよろしくお願いいたします」 咲子の言葉に、女官は深々と頭を下げた。女官は左少弁(さしょうべん)の娘で、名を和子といった。
 和子は少々不器用であったがおっとりとした性格の、気性の穏やかな女官で、桐壺の女官たちにもすぐに溶け込んだ。
 あくる日、帝から見事な琴が届いた。生憎咲子は琴を弾くことができない。誰か弾ける女官がいたら教えてもらおうかと思い、女官たちを見回すと、和子が目を輝かせていることに気がついた。
「和子は琴が弾けるのかしら?」
 声をかけると、和子は少し遅れてから返事をする。
「は、はい、ほんの少しだけ」
「本当ですか! では、良かったら弾いてくれませんか?」
 咲子が促すと、和子は慌てた様子で頭を下げた。
「とんでもございません、その琴は帝が桐壺の更衣に贈ったもの。私が弾くわけにはいきません」
「ですが、私は琴を習いたいと思っているのです。帝が贈ってくださった琴を弾けるようになりたいですし。和子が弾けるなら、教えてくれませんか?」
 咲子が尋ねると、和子は頬を赤らめた。
「私、自分の琴を持って来てもよろしいでしょうか? 幼いころから母に仕込まれましたので、私などでもよろしければ、少しお教えできると思います」
 数日の後、和子は実家から琴を持ち込んだ。慣れた様子で爪をはめ、琴を鳴らす。耳障りのよい音が、桐壺を包んだ。
 和子の琴に聞き入り、曲が終わると咲子は和子を褒めた。
「素晴らしい演奏でした! ぜひ、私に琴を教えてください」
「本当に、私などでもよろしいのでしょうか?」
「もちろんです、私は和子に教わりたいと思っていましたから。よろしくお願いしますよ」
 和子は嬉しそうに笑顔を見せてから、咲子に琴の扱い方を教え始めた。和子の教え方は丁寧でわかりやすく、咲子は見る見るうちに琴を弾けるようになった。
「桐壺の更衣は筋がいいですね」
「いえ、和子の教え方が良いのです」
「この調子で上達なさったら、すぐに帝にも披露できるようになりますよ」
 和子も咲子の上達が嬉しいようであった。

 桜が咲き誇る時期になると、咲子は庭に琴を持ち出して演奏をするようになった。和子と一緒に琴を並べ、演奏される音は後宮のみならず、朝廷に足を運ぶ貴族たちの耳も楽しませたのである。
 夜の帳が下りると、桐壺を訪れた帝も咲子の演奏を大層褒めた。
「清涼殿まであなたの弾く琴の音が届く。心地よい音色にとても癒されるのだ。あなたに琴を贈って本当に良かった。今度は私のためだけに弾いてもらいたいものだ」
「私などの演奏でもよろしければ、喜んで!」
「よい琴を見つけて、あなたに弾いてもらいたいと思ったのだが、実際に贈って正解だった。あなたに琴を弾くのかどうか確認する前に贈ってしまったのだが、あなたが琴の名手だと知っていたらもっと早くに贈ればよかった」
 そう言う帝に咲子は首を横に振った。
「私はもともと琴を弾くことはできなかったのです。習ったことがありませんでしたし、そもそも琴に触れる機会がありませんでしたから」
 慶子は琴の練習を嫌い、八重邸でも後宮でも咲子が琴に触れる機会はなかった。
「では、どうして弾けるように?」
「琴を贈っていただいてから習ったのです。素晴らしい先生がいたのです」
 首を傾げる帝に、咲子はほほ笑んで答えた。
「藤壺の女御のもとから異動してきた和子という女官がいるのですが、彼の者が琴の名手だったのです。教え方も上手で、私のような不慣れな者でもすぐに上達いたしました」
「咲子のもとにそのような女官がいたとは知らなかった。咲子に関する人事は一通り目を通しているつもりだったのだが、見落としていたのだろう。だが、よかった」
「はい、以前から琴を弾いてみたいと思っていたのです。帝のおかげで琴を弾けるようになりました、贈ってくださって本当にありがとうございました」
 嬉しそうにほほ笑む咲子に、帝は愛おしそうな眼差しを向ける。
「そういえば、もうすぐ賀茂祭だ、あなたも楽しんでくるといい」
「はい、桐壺の女官たちと見に行こうと思います。私は初めて見に行くことになるので、とても楽しみにしているのです」
「そうか、あなたは都に住みながらもずっと賀茂祭を見に行く機会がなかったのだな……」
「はい、それだけ今年の楽しみが大きくなりました」
「なるほど、そういう考え方もあるな。あなたには学ぶことが多い、今年からは毎年楽しんで来てくれ」
 優しくほほ笑む帝に、咲子も笑顔を返した。

 桜の季節は瞬く間に過ぎ、花びらが散るのとともに新緑の眩しい五月が訪れると、後宮の妃や女官たちは賀茂祭の話しに花を咲かせた。 
斎院(さいいん)様はさぞお美しいことでしょう」
勅使(ちょくし)のお姿が見られるのが楽しみです。よい位置で見ることができるかしら」
「久しぶりに市にも寄りましょう」
 咲子は賀茂祭を見たことがない。八重邸にいるときは、伯父家族が出かけていく中、留守を預かるのが常だった。今年は見に行けるのかもしれないと思うと心が弾む。
 すごく楽しみだわ、桐壺のみんなにも楽しんでもらいましょう。
 咲子の気持ちを察したように、一人の女官が口を開く。
「牛車をご用意いたしますから、桐壺の更衣もお出かけになってはいかがでしょう」
「ぜひそうできたらと思っていました、牛車の用意を頼めますか?」
「もちろんです、お任せください」
「私だけ行くわけにはいきません、みんなも楽しんできて」
 咲子の言葉に、女官たちも嬉しそうに声を上げた。咲子は部屋の隅で少し元気のなさそうな様子の和子に声をかける。
「和子は賀茂祭を見るのは初めてかしら?」
 咲子の問いかけに、和子は少し間をおいてからはっとしたように「いえ」と答える。
「後宮に来るまでは毎年家族で見に行っておりました。こちらに来てからは、女御がお気に召した女官しか連れて行かなかったものですから、私は留守を預かっておりました」
「では今年は一緒に行きましょう」
「よいのですか?」
「もちろん、一緒に参りましょう」
「で、では、あ、あの、私が牛車の手配をいたします」
「そうですか? そうしてもらえると助かります」
「お、お任せください」
「よろしくお願いね、和子。楽しみですね」
 咲子は話に聞く賀茂祭の奉幣(ほうべい)使(し)の行列を見るのを楽しみにしていた。

 賀茂祭当日、和子が牛車を手配してくれることになっていたのだが、どうやら上手く連絡が取れていなかったらしい。咲子が出かける時には、紫糸の牛車は皆出払ってしまった後だった。他に咲子の身分で乗ることができる牛車は残っていない。
「も、申し訳ございません」
 謝る和子に咲子は首を横に振る。
「なにも賀茂祭は今年に限ったことではありません。用意できなかったものは仕方がありませんから。来年また出かけることにいたしましょう」
 賀茂祭に出向けなかった咲子に対し、和子は「せめて市にだけでも行きましょう」と声をかけた。和子の心意気を受け取った咲子は、そろそろと戻ってきた牛車に乗り出かけて行ったのである。
 何か帝にお贈りできるものが見つかればいいのだけれど……。
 通りは人々で賑わっていた。咲子はなにか帝へ贈るものが見つからないかと品物を探すことにする。
「何かお探しですか?」
 色々と見て回っていると、和子が声をかけてきた。
「えぇ、帝から贈り物をいただいてばかりなので、今日は私から贈るものを探したいと思っているのです」
「そうですね、何か素敵なものはないでしょうか……」
 咲子と一緒に市に並ぶ品々を見ていた和子は、一軒の店の前で立ち止まった。
「ご覧ください桐壺の更衣、見事な銀細工がありますよ」
 和子が示す店を見ると、精巧な作りの銀細工が並べてあった。どれも美しい作りのものばかりである。
「どれも素敵ですね」
「帝への贈り物をお探しなのですよね?」
「えぇ、日頃のお礼や、先日の琴のお礼もしたいなと思うのです」
「で、では、やはり銀細工などが美しくてよいと思います」
「銀細工、そうですね……」
 咲子が銀細工を眺めながらどれを選ぼうかと首をひねっていると、和子が話しかけてくる。
「銀の箸や器などはいかがでしょうか?」
「箸や器?」
「はい、これなど細工も美しいですし、帝もお喜びのことと思います。銀は全てとは言いませんが、毒を見分けるのにも役立ちますから」
「毒……ですか……」
 帝の命から、少しでも危険を遠ざけることが出来るなら――。
 何を贈るべきか悩みに悩んで、咲子は結局銀の箸を贈ることに決めた。
 銀細工の箸は、毒を見分けることもできると和子が言ったのが決め手である。気休めにすぎなくとも、帝の命を少しでも守ることができたらと、願いを込めて買って帰った。
 その夜、帝がいつものように桐壺を訪れた。
「賀茂祭は楽しかったか?」
 咲子の感想を求めるように尋ねる帝に対して、咲子は答える。
「申し訳ありません。少し体調が優れず、部屋で休んでおりました。ですが、おかげで来年の楽しみが増えましたよ」
 すると、帝は血相を変えた。慌てた様子で咲子の顔色を確認しようとしてくる。
「それはいけない! 大丈夫なのか? 疲れているのかもしれないし、風邪を引いているのかもしれない。私は戻るから、早く横になって休め」
 慌てて咲子を部屋へと帰そうとする帝に、咲子は首を横に振る。体調が優れないと言ったのは、牛車を取り逃した和子の失敗を隠すための嘘なのだ。本当に体調が悪かったわけではない。
「大丈夫です、休んでおりましたらもうよくなりました。帝も会いに来てくださいましたし、今はすっかり元気です。賀茂祭には行けませんでしたが、市が開いていると聞きまして、後から買い物にも出かけたのですよ」
「そうだったか、それならよかった」
 安堵する帝に咲子は大事に持っていた箸を差し出す。
「市で銀細工の箸を買い求めました。帝にお贈りしたくて」
「私にか?」
「はい、日頃からの感謝の気持ちを形にしたくて。帝の身を守ることに、少しでも役立てば嬉しく思います」
 咲子の言葉に、帝は嬉しそうに頬を緩ませた。
「ありがとう、あなたから贈り物をもらえるとは、こんなに嬉しいものはない。大切に使わせてもらう」
 帝が箸を受け取ったところで、咲子ははっとしたように顔を上げた。
「ですが、そういえば帝には薬子(くすこ)がついておられますよね。食事は薬子が調べるのでしょうし、帝の箸は銀である必要がなかったですよね、うっかりしていました。あ、あの、どうか違うものを贈らせていただけませんか」
「いや、咲子が私のために用意してくれたものだ、これはありがたくもらい受ける」
「ですが……」
「薬子があてにならないこともあるだろう。自分で確かめられるならより安心だ」
 そう言って顔をほころばせながら箸を受け取った帝に、咲子は笑顔を返した。

 帝に箸を贈ってから十日ほどが経った。桐壺の庭では桐の木がぽつりぽつりと美しい花を咲かせて始めている。花を綻ばせる桐を見つめる咲子は浮かない顔をしていた。
 今まで二日と空けず咲子のもとを訪れていた帝が、ぱたりと姿を見せなくなったのである。頻繁に届けられていた贈り物も、最近は届かなくなっていた。
「体調を崩されているのではないかしら……」
 心配する咲子の耳に、帝が毎晩のように藤壺の女御を閨に呼んでいるとの話しが届いた。ただの噂ではない、左大臣などが「女御が懐妊した時のために屋敷に部屋を整えておかねばならない」と、嬉しそうに言いふらしているようなのだ。
「突然藤壺の女御をお呼びになるなんて、きっと左大臣の方からなにかお話があったのでしょう」
「帝がお心変わりされることなどありえません、またすぐに桐壺の更衣に会いに来られるようになりますよ」
 桐壺に使える女官たちは口々にそう言って咲子を励ました。
「ありがとう、私は大丈夫です。私にはみんながいてくれますし、仕事も琴の練習もしなければいけません。忙しさもあって寂しい気持ちも薄れます。なにより帝の気持ちを信じておりますから」
「そうですよね……、どうか気を落とされないよう」
 桐壺に仕えている女官たちから心配される咲子であったが、極力笑顔で過ごすよう努めていた。だが、聞き流せるような噂ではない。
「帝が藤壺の女御と一緒に過ごしておられるかもしれない……」
 そんなの嫌だ、耐えられない……!
 一人になるとたまらない不安が押し寄せてくる。心を痛めるには十分すぎる噂話に、咲子は一人苦しんでいた。
 そんなある日、廊下で藤壺の女御とすれ違うことがあった。咲子は藤壺の女御たちに道を譲るために、わきによけて頭を下げる。
 女御は咲子のところまでゆったりとした足取りで歩くと、にっこりと笑みを浮かべて立ち止まった。
「あら、誰かと思えば桐壺の更衣ではありませんか。あまりに質素なので気が付きませんでした。ごめんなさいね」
 藤壺の女御は咲子に向かってにっこりと笑顔をむけてくる。
「私の言っていた通り、いえ、思ったよりも帝の心変わりは早かったようですね。夜中に時折帝が桐壺を訪れていたようですが、それもすっかりなくなりましたでしょう? あのように気まぐれなことをなさる帝がいけないのです。桐壺の更衣も勘違いなさってしまいましたよね、自分は愛されているのだと」
 咲子はじっと頭を下げたまま黙っていた。すると、女御は言葉を続ける。
「ほら、顔を上げてごらんなさい」
 ここで悲しい顔をしてはだめよ、藤壺の女御の思う壺だわ。
 女御は咲子の辛そうな顔を見るつもりだったのだろう。だが、咲子はぎゅっと口を引き結び、笑顔を浮かべた。
「私は少しも気にしておりません。後宮とはそういうところでございます」
 藤壺の女御の顔をしっかりと見据え、凛とした声で答える。少しも悲壮感を見せない咲子を見て、藤壺の女御はひどく気分を害した。
「本当に可愛げのない娘だこと、強がりが言えるのも今のうちですよ! 私が懐妊した後は、帝に頼んでおまえを後宮から追い出しますから。せいぜい泣いて八重殿か堀川殿のところで働かせてもらうのですよ。おまえには下女がお似合いだわ」
 ふんと鼻を鳴らしてから踵を返した女御は、その足で咲子をわざと蹴り飛ばした。咲子はわずかによろめいたが、しっかりと自分の足で立つと、去っていく藤壺の女御の後ろ姿を苦しい表情で見つめた。
「わかっています。後宮とはこういう場所、今までが満たされ過ぎていたのです」
 ここは帝一人の愛を、幾人もの女性が取り合う場所である。
 そこには純粋な愛情だけではなく、政治的な思惑が混ざり合ってくる。仮に帝が咲子のことを強く愛してくれていたとしても、左大臣の娘である藤壺の女御を無下にすることはできない。だが、帝が藤壺の女御と過ごしていると考えただけで、咲子は胸が張り裂けそうになった。
 わかっている。それでも、悲しいと思ってしまう。苦しいと感じてしまう……。帝のそばに居られるのが、私一人だったらよいのにと、願ってしまう……!
 帝の妃として桐壺に迎え入れられただけでも奇跡的なことである。その上、今までは毎夜のように語り合うことができていた。
 少しでも風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど、弱い立場の咲子にとって、そのわずかな時間がいかに大きな支えであったことか。そして、自分がいかに帝を愛しているのかということが、会えない日々が続く中で日に日に浮き彫りになってくるのである。寂しさばかりが募っていく。
「桐壺の更衣、琴でも弾きましょう。少し気分もよくなるでしょうし、琴の音は帝の耳にも届きます。琴の音を聞けば、きっと帝も桐壺の更衣に会いたくなるに違いありません」
 和子がそう言って琴を勧めてくれるので、咲子は琴を爪弾くことにした。
 寂しい気持ちを紛らわせようと、琴をかき鳴らしていた咲子であったが、帝から贈られた琴を見るたびに胸が痛くなる。自然と琴を弾く手にも力が入らなくなってきた。琴の音も鈍く、くぐもった音になる。
「ごめんなさい、今はよい音が出せそうにありません」
 咲子は毎日のように弾いていた琴を部屋の隅に置いて触れないようにした。 
そんな咲子の心を具現化したかのように、あくる日、琴を見ると弦が切れていた。
「帝がくださった琴の弦が切れてしまうなんて、帝に、何かよくないことが起こっていなければよいのだけど……」
 帝が私にとくださった琴の弦が切れてしまうなんて、なんて不吉なのだろう。まるで私と帝の縁を引き裂いてしまうかのよう……。
「きっと、琴を弾くのはやめた方がよいという天の声なのでしょう。このような私に弾かれたら、琴だって可哀そう、琴はしばらく修理に出しましょう」
 咲子は他に没頭できることがないかと考え、ふと、堀川の女御が編んだ組紐のことを思い出した。
「私も、紐を編んでみようかしら」
「それは名案です。さっそく糸を選びましょう」
 弦が切れてしまったのなら、もう一度糸を結び直せばよい。
 咲子は帝のことを思い、編みこむ糸を選んでいく。帝はどんな色がお好きだろう、どんな色が似合うだろうと考えているうちに、自然と心が静まってくるような気がした。
 糸を選び終えると、想いを編みこむように紐を組み始めた。帝が好みそうな色、似合いそうな色を、一つ一つ編みこんでいく。
 紐を編んでいる間は、帝のことだけを考えることができ、心を落ち着けることができた。
 だが、咲子の心を乱すかのように、藤壺の女御はどんな用事があるというのか、毎日のように普段通りもしない桐壺の廊下を歩いては咲子に声をかけていく。
「ごきげんよう、桐壺の更衣。昨夜はよく眠れましたか? 私は……、あぁ、昨夜もなかなか眠らせてもらえずに大変でした。午睡が必要ですわ――。一人寝というものはさぞかしゆっくり眠れるのでしょうね、私はしばらく一人では寝ておりませんから、その快適さをすっかり忘れてしまいました」
 などと聞いてもいないのに話しかけてくるのである。咲子はそのたびに無理に笑顔を作った。
 ここで負けてはだめよ、私は帝を信じているのだから大丈夫。
「それは大変、このような場所で長居などされず、すぐに藤壺でお休みになられてください、お体に障ります」
 咲子がそう返すと、藤壺の女御はにっこりと笑顔になった。 
「そうね、私一人の体ではありませんもの。きっと今夜も帝に呼ばれますから、今のうちに休んでおかないといけませんわ」
 咲子を見てはくすくすと笑いを漏らす女官たちを引き連れて、藤壺の女御は部屋へと戻っていった。
「桐壺の更衣、どうかお気になさらないでください」
 言葉をかけてくる和子に笑顔を向ける。
「ありがとう和子、私は丈夫ですから」
 大丈夫……。
 そう思いはしても、心は苦しくなるばかりだった。
 帝が咲子のもとを訪れなくなってから二十日ほどが過ぎた。その間、やはり藤壺の女御は毎晩のように部屋に呼ばれているようである。その様子を、藤壺の女御と顔を合わせるたびに聞かされるものだから咲子は苦しくてたまらなかった。
 帝の想いを信じている。だけど、このままでは心が壊れてしまいそう……!
 夜が来るたびに苦しさが押し寄せ、咲子は食事もろくに喉を通らず、少しずつやせ細っていった。

 帝は頭を悩ませていた。朝廷においても左大臣の力は日に日に強くなり、抑止力であった右大臣も苦しい状況に置かれつつある。左大臣の悪事は分かっていても決定的な証拠が見つからない。
 このままでは力の均衡が今以上に大きく傾くと考え、右大臣に多くの意見を求め、均衡を保とうとしていると、左大臣は帝にこうささやいてきた。
「どうやら、帝は桐壺の更衣と秘密裏に会っていらっしゃったようですね。帝が桐壺の更衣を必要以上に贔屓にしていることが他の妃たちに知れ渡れば、後宮は今以上に更衣にとって居心地の悪い場所になるでしょうな」
 誰にもばれぬよう、細心の注意を払って会いに行っていたはずである。桐壺の女官たちにいたっても、更衣に不利益をもたらさないものばかりを集めたはず。
 いったいどこから夜の短い逢瀬がばれたというのか――。
「そのような事実はない」
「どうでしょう、桐壺で寄り添っておられる帝と更衣を見たというものがおります。証言させたら、ただでなくとも危うい更衣の立場など、とても安泰とは言えないでしょうな」
「何を要求している」
「簡単なことでございます。私の娘を閨に呼んでいただければよいだけのこと。帝が娘に入れ込んでいると分かれば、後宮も落ち着くことでしょう。なんといってもこの私、左大臣の娘なのですから、誰にも文句は言わせません。娘が懐妊するまでの、ほんの短い間で構いませんから」
 左大臣はそう言ってにっこりと目を細めたが、藤壺の女御が自分の子供を身籠る日は永遠に来ないだろうと帝は思った。
 皇后は、咲子以外に考えられない。左大臣の力をこれ以上強めるわけにはいかない。私自身のためにも、そして朝廷のためにも――。
 そう思いはしても、実際にどうしたらよいのか帝は頭を悩ませていたのである。
 そんなある日、突然の人事の異動があり、龍の中将に代わり、左大臣の息のかかった男が帝の護衛に加わったのである。毎晩のように桐壺を訪れ、咲子と過ごすことに唯一の幸せを感じていた帝は、桐壺へと赴くことができなくなり疲れと苛立ちをためるようになっていた。
 それだけではない、毎晩のように呼んでもいないのに藤壺の女御が閨にやってくるのだ。追い返そうとすれば「私の機嫌を損ねてしまわれると、しわ寄せは桐壺の更衣にゆきますよ」と脅してくるものだから無下にもできない。
 かと言って無理に褥を共にすることはできず、帝は藤壺の女御とは離れた場所に布団を敷き、「申し訳ないが、疲れている」と言って早くに横になるのが常だった。
 時には遅くまで書物に目を通し、藤壺の女御に先に寝るよう促すこともあった。
 考えるのは咲子のことばかりだ。藤壺の女御が後宮内で毎夜帝のもとに呼ばれていると触れまわっていることは知っていた。咲子は心を痛めていないだろうかと心配になる。自分が心変わりしたのではないかと、苦しんではいないかと、今すぐにでも咲子のもとを訪れたい気持ちと必死に戦った。
 咲子に会いたい。
 言葉に出来ない想いを胸に、帝は桐壺のある方へと視線を向けた。
 思うように咲子に会えず、夜になれば藤壺の女御が寝所へと訪れてくる。日に日に苛立ちが募り、眠りの浅い日が続くと政にまで支障をきたし始めた。迂闊に欠伸をかみ殺そうものなら左大臣が嬉しそうに「昨夜はいかがでしたか?」と声をかけてくるのだ。思わず睨むと「怖い怖い」と言ってへつらうように笑うのも癪に障る。
 このままではいけないと思い、気分をよくしようと少し散歩に出かけたところで藤壺の女御の声がした。帝は思わず身を隠す。話している相手は父親の左大臣のようであった。
「お父様、帝はちっとも私に興味を抱かないのです。男性として問題がありますわ」
「確かに、おまえのような美しい妃がそばにいるというのに何もないというのはおかしなことだ」
「えぇえぇ、すべてはあの忌まわしい桐壺の更衣のせいでございます。本当に疎ましい、お父様、お父様のお力であんな小娘早く後宮から追い出してください」
 どうやら咲子のことを話しているようだ。これには帝もひどく腹を立てた。自分のことを悪く言うなら聞き流せるものを、咲子のこととなると話は別である。
「そうしてやりたいのは山々なのだが、帝が首を縦に振るまい。それにしてもあの帝は本当に扱いにくい。私の言うことを少しも聞かず、右大臣などと相談することすらある。本当に目障りだ」
「まぁお父様、あまり大きな声でそのようなことを仰っては……」
「おまえ以外に誰が聞いているというのだ。おまえが帝の子を身籠らないとなればことを急いだほうがいい。あの桐壺の更衣が帝の子を身籠る前に今の帝を廃し、東宮を新しい帝に立てることも考えねばならない」
「東宮はまだ六つでございますよ」
「だからよいのだ。幼い帝が立てば、左大臣の私が政治を牛耳ることができる」
「なるほど、さすがお父様」
「おまえにも協力してもらうことになる、その時はまた手紙などを書いて知らせるから待っていなさい」
「あら、直接仰ってくれたらよろしいではありませんか」
「誰かに聞かれでもしたら大事だ。段取りを書いた手紙を持ってくるから、読んだ後は必ず処分しなさい」
「えぇ、わかりましたわ。朝廷がお父様のものになる日もそう遠くはありませんね」
「その通りだ」
 楽しそうに声を立てて笑う親子の会話を、帝は苦々しい顔で聞いていた。
この場で姿を見せ、左大臣を糾弾することも出来るが証拠が弱い。いつものように『世迷い事を申しました」と言われてするりと逃げられてしまうのが落ちだろう。もっと、確実な証拠が欲しい。左大臣が自分を廃そうとしている決定的な証拠が……!
 帝は表情を引き締め、来たばかりの道を戻る。左大臣に気取られないよう、音を立てず慎重に歩いた。今はまだ時ではない。だが、いずれ必ず決着をつけてやると、心に強く誓ったのである。

 帝が咲子のもとを訪れなくなって一月余りが過ぎた。咲子が編み始めた組紐は、すっかり編み上がり、美しい紐が出来上がっていた。
「この頃、藤壺の女御の機嫌が大変悪いようですよ。いつも以上に気が立っていると、藤壺の女官たちが怯えておりました」
「毎夜帝に呼ばれているというのに、何が気に入らないのでしょうね」
「下手に女御に目を付けられないよう、大人しくしていましょう」
 後宮の女官たちがみな、藤壺の女御の機嫌を気にしているのが咲子にもよくわかった。桐壺の女官までもが女御の話をしている。
「一向に懐妊しないものだから腹を立てているのですよ。もともと気の短い方ですもの。藤壺の女官も可哀そうなことです」
「こら、桐壺の更衣がいらっしゃるのに、そんな話を……」
「も、申し訳ありません」
 女官は咲子に向かって深々と頭を下げた。咲子は何でもないことのように首を横に振る。
「よいのですよ、私は気になどしていません」
 そう答えつつも、来ない人を待つ時間というのは、本当に長いものだと咲子は苦しい気持ちを抱えたまま、日々を過ごしていた。
 そんなある日のこと、朝廷は大騒ぎになった。幾人もの役人たちが清涼殿から出たり入ったりしている。騒ぎの真相は、瞬く間に後宮にも広がった。
「なんでも帝の食事に毒が盛られていたらしい」
「帝はご無事だったのですか?」
「わかりません」
「薬子は見抜くことができなかったのでしょうか」
「銀では見抜けないものだったようですよ」
「では、どうして毒だとわかったのでしょう」
「なんでも、帝が自ら気づかれたそうです」
「一体誰がそんなことを」
 女官たちが口々に噂するので、帝が食事に毒を盛られたという話は瞬く間に咲子の耳にも届いた。
「帝はご無事なのでしょうか!」
 咲子は気が気ではなかった。もしも、帝の身に何かあったらどうしようかと、飛び交う噂に心を痛め、帝の無事を切に祈った。
「大丈夫ですよ、帝はきっとご無事です」
 そう言って声をかけてくれる和子の言葉にも、咲子は表情を沈めたまま、食事もろくに喉を通らない日々が続く。
 帝にもしものことがあったら、私は生きてなどいけるはずがない……。
 藤壺の女御に何を言われても気丈にふるまっていた咲子であったが、今回ばかりはすっかり元気を失ってしまった。
「幸い帝は毒の入った食事には手を付けておらず、ご無事なようです」
「それは幸いなこと、よく口を付ける前に毒が入っていると気づかれましたね」
「本当に、帝は聡明でいらっしゃる」
 帝が無事であったという噂もほどなくして後宮に広がり、咲子の耳にも届いた。
「よかった、本当に、よかった……」
 帝の身が無事であったことを知ると、咲子はひとまず安堵した。だが、帝が命を狙われたことは事実である。咲子の心は穏やかではなかった。犯人が捕まらないことには安心するわけにはいかない。
「桐壺の更衣、大変でございます! 中将様がお越しです」  
 桐壺つきの女官が、龍の中将を伴って部屋に戻ってきたのは、帝の無事が分かってから数日後のことだった。
 咲子は慌てて御簾の向こうに隠れると、龍の中将の言葉を待つ。御簾越しに見た中将の表情を見て、咲子はよい知らせではないことが一目でわかった。中将は御簾の前にしゃがみこみ、小声で咲子に語りかけてきた。
「桐壺の更衣に帝暗殺の疑いがかかっております」
 中将の言葉に、咲子は驚きのあまり身を乗り出した。
「何かの間違いです。そのようなことを、私がするはずありません」
 動揺する咲子に、中将は続けた。
「もちろんそれはわかっております。だからこそ先だって俺がこちらに来たのですよ。再び、あなたに濡れ衣を着せようとしているものがいる。あなたのそばにいて、あなたに危害が加わらないようにしろと帝に言われて参ったわけです」
 中将の言葉に、咲子はうろたえながら首を横に振る。
「中将様、私のことなどどうでもよいのです。このたび帝は命を狙われたのでしょう? 犯人が捕まっていない今、とても安全とは言えません。どうか帝のそばにいて、守って差し上げてください。帝にとって、信頼が置けるのは中将様しかいないはずです」
 必死に訴える咲子に、中将は呆れたような笑みを浮かべる。
「本当にあなたたちは似た者同士だな、帝も同じことを言っていましたよ。自分のことはいいから桐壺の更衣を守ってくれと」
「私に危険はありません!」
「だが、現にあなたは疑われる身。つまり、あなたを陥れようとしているものがいるということです。あなたの身も、安全であるとは言えません。むしろ、帝よりも危うい立場におられるのではないかと」
「そんなことはありません! 私は大丈夫ですから、どうか帝のもとに!」
 帝のもとに戻るよう必死に訴える咲子に、中将は安心させるような表情になる。
「大丈夫、帝のそばにはもう一人、信頼のおける方が残っていますから。あなたにもしものことがあったら、あいつ……いえ、帝の方こそ気が触れてしまうでしょう」
「本当に、信頼のおける方がもうお一人いらっしゃるのですか?」
 帝にとって信頼のおけるものが一人でも多くいることは、咲子にとってたまらなく嬉しいことであった。
「そうですよ、俺よりもずっと口うるさくて、力のある方がついていますから心配ありません。ですから桐壺の更衣、あなたには俺と一緒に成していただきたいことがあります」
「それはいったいなんでしょうか?」
「あなたの身の潔白を証明することです。それが帝を守ることにもつながりますから」
 中将の言葉に、咲子は間を置くことなく頷いた。
「帝のために出来ることがありましたらなんでも申してください」
「それは心強い。一緒に帝を守ってやりましょう。俺は一度戻りますが、後ほど再び参ります。表向き、俺は監視ということになっていますから、あまり気安く話しかけないようにしてください。俺もあなたに気安く話しかけることはしません」
「わかりました」
 中将は手短に話し終えると、桐壺を後にした。一体、どういう経緯で自分が帝を暗殺しようとしたという話になっているのか、まったくわからない。そもそも(くりや)には近づいたことすらないのである。嫌疑がかかるようなことがあったとは思えない。だが、咲子の疑問はすぐに解決した。中将が去ったのち、時を置かずして役人たちが桐壺を訪れた。中に先ほど訪れたばかりの中将も混ざっている。中将は何食わぬ顔をして役人たちに混ざり、咲子からわずかに視線を外して立っていた。
 咲子は御簾越しに役人たちから話を聞くこととなる。
「桐壺の更衣、帝に毒を盛ったのはあなたのところに仕えている女官であることがわかった。女官も罪を認めている」
「それは、いったい誰だと仰るのでしょうか?」
「白々しい、桐壺では和子という女官をお抱えでしょう。和子はあなたの指示で毒を盛ったと申しております」
 咲子は頭を強く叩かれたかのような衝撃を感じた。視界が黒く染まり、眩暈がする。
 和子が、本当に帝に毒を盛り、私を犯人にしようとしているの……? 信じられないわ。
 堀川の女御の一件が頭を過る。
 私はまた、裏切られるというの……?
 咲子は頭を横に振るとぐっと奥歯をかみしめ、役人を見た。
「私がそのようなことを指示するはずがありません」
 咲子は気を取り直し、凛とした声で答える。咲子のあまりに堂々とした様子に、役人たちはわずかに動揺を見せた。
「和子をこちらにお連れください。直接彼の者に話を聞きたいと思います」
「あの女官はすでに捕らえている。父親ともどもすでに処分は決まっている。決定が覆ることはないだろう」
 役人の言葉に咲子は息をのんだ。和子が単独で毒を盛ることなどありえない。そもそも和子が毒を入手することなどできないだろう。どこかに共犯者がいる、いや、和子が望んで帝を暗殺しようとするはずはない。共犯者ではなく、和子に指示を出した真犯人がいるはずだと咲子は思った。
 当然、私の指示ではない。では、いったい誰が……。
 和子はもともと藤壺に勤めていた女官である。そうなると、誰が裏にいるのかはっきりと見えてくるような気がした。
 だけど、あの人が帝に毒を盛ったなんて、俄かには信じられない。あの人だって、帝のことを愛しているはず……。
 咲子は頭に浮かぶ人物をに対して眉をひそめる。その人物が咲子に危害を加えてくることはあっても、帝自身に害を成すとは思えなかった。そんなことをしても、得になることなどないはず。そうなると、帝に対してなにか強い殺意を抱くようなことがあったのだろうか――。
 咲子に一つの考えが浮かんだ。
 もしかしたら、全ては藤壺の女御の偽りで、帝は藤壺の女御とは一緒に夜を過ごしていないのかもしれない。一向に懐妊しない理由も、女御の機嫌が悪い理由も、帝の態度に原因があるのだとしたら……。帝は、私のことを思って藤壺の女御と褥を供にされてはいないのかもしれない。藤壺の女御の帝への愛情は憎しみに変わり、毒殺することを思いつかれたのではないかしら。私のせいで、帝は命を狙われることになったのかもしれない……!
 そう思うと、いっそう心が苦しくなる。
 帝に何かあったら、私は生きてなどいけない……!
「桐壺の更衣の処分に関しては、今の段階では証拠が不十分として据え置くと帝は申している。証拠が挙がるまではこの桐壺から一歩も出られないようにしてください」
 役人の言葉をどこか遠くで聞きながら、咲子は帝のことを想った。
 帝はこのような状況でも私のことを守ろうとしてくださっている。なんて心強いのだろう。私も、強くあらなければ……!
「女官の処分は近いうちに行われる」
 咲子は捕らえられているであろう和子のことを思い、心を痛めた。
 きっと、和子は命令されただけ。指示を出したのは、藤壺の女御に違いない。堀川の女御が後宮を去るときに忠告してくれていたというのに、また同じことを繰り返させてしまった……。
 咲子は悔やんだ。
 和子は私があの日助けたことで藤壺の女御に利用されることになったのだろう。和子のお父様は左大臣のもとで働いていると話していた。堀川の女御以上に弱い立場の和子は、藤壺の女御や左大臣に対して逆らえるはずがない。罪になるとわかっていても、命令をはねのけることができなかったのでしょう――。
 咲子は目の前の役人を見上げると、凛とした声で言い放った。
「今一度、帝にお願いしたいことがございます」
「桐壺の更衣、あなたに帝殺しの嫌疑がかかっているのをお忘れか、どの口が言っているというのか、口を慎みなさい」
 咲子は役人たちに言っているのではない、中将に対して言っているのだ。
「帝に、和子の処分をお待ちくださいとお伝えください。彼の者が私の指示でやったというのならば、どうか私の処分が決まるまで、和子と和子のご家族の処分をお待ちください」
 睨みつけてくる役人たちに臆せず、咲子はそう告げた。中将の耳には間違いなく届いたはずである。そうなれば、帝の耳にも届くことだろう。
中将様なら、必ず私の言葉を帝に届けてくれるはず。
「帝の命令で中将殿が桐壺の更衣の監視に着く。下手な真似をなさらぬよう」
 中将を残して役人が去ると、中将は今まで我慢していたように小さく笑いを漏らした。
「さっきは驚いたな。あの役人の顔を見ましたか? 面食らっていましたよ。思わず笑ってしまいそうでした。本当に、桐壺の更衣は本当に肝が据わっておられる」
「私には帝以外に失うものがございませんから。帝を失わないためならば、何だっていたします」
「なるほど。では先ほどの女官の件、夜に交代の時が来たら必ず帝に伝えましょう」
「よろしくお願いいたします」
 御簾越しに中将に向かって深々と頭を下げると、「それと」と咲子は続けた。
「和子を私のもとに戻していただきたいのです」
「彼の女官はあなたを裏切ったのでしょう? ひどい濡れ衣を着せてきたじゃありませんか、信用できません、危険です」
「今回のこと、私は和子が独断で行ったとは到底考えられません。恐らく、後ろに和子を操っておられる方がいるはず。私は、和子を罰するべきではないと考えております」
「それは帝の一存では決められないとは思いますが、一応帝に伝えておきますよ。左大臣、右大臣を含めた場で決定を下すことになると思いますから、ことがどう転ぶかはわかないのですが、出来る限りのことはしてみましょう」
「よろしくお願いいたします」
 咲子は中将に帝への言葉を託した。
 桐壺の更衣が帝を暗殺しようとしたのではないかという噂が後宮に広がると、咲子に追い打ちをかけるように藤壺の女御は声を大にして話し始めた。
「桐壺の更衣と例の女官がなにやらひそひそと話しているのを見たのです。もともとは私の部屋の女官でしたから、なにをしているのだろうかと心配しておりましたらあのような大変なことを……。きっと女官は桐壺の更衣に脅されたのでしょう、可哀そうに」
 女御はそう言って会う人会う人に触れまわった。藤壺の女御は「きっとあの時、帝の暗殺を画策していたに違いありません。きっと私ばかりを愛するようになった帝を恨んでいたのでしょう」と話し、咲子を追い詰めていったのである。
「大人しそうな顔をして、恐ろしいことを考えること」
「以前、宴で藤壺の女御に楯突いたそうではありませんか。育ちの悪い者は身分というものが弁えられないのでしょう」
「本当に、何を考えているのかわからないものですね」
 後宮では、桐壺の更衣が自分を捨てて藤壺の女御を愛するようになった帝を憎んで暗殺に踏み切ったのだろうと、ありもしない噂がまことしやかにささやかれるようになり、咲子はますます孤立していったのである。
「桐壺の更衣、例の女官をこちらに戻せるようになりましたよ」
「本当ですか! 処分の方は……」
「帝が左大臣の言葉をはねのけて先延ばしになりました。あんなに強い口調で物を言うあいつを初めて見ましたよ。さすがの俺も驚きました」
「そうですか。よかった、本当に……」
 和子の処分が先延ばしになったと聞いて咲子は安堵した。帝が自分の願いを聞き届けてくれたのだと思うと、嬉しい気持ちにもなる。会うことはできなくても、気持ちは傍にいられるような気がした。
 咲子が桐壺に軟禁されることとなってから数日のうちに、中将の言葉通り桐壺に和子が戻ってきた。和子の父親の処分も、咲子の処分が下るまで先延ばしになったようである。帝が咲子の思いを察し、親子ともどもすぐに処分すべきとの左大臣の言葉をはねのけた結果であった。
「よく戻ってきてくれました」
 優しく声をかける咲子の前に、和子は泣き崩れる。和子の涙の理由はわからない。咲子は自分が思う通りに語りかけた。
「和子、私の想像でしかありませんが、あなたにはこうするしかなかったのだと思っています。帝に毒を盛ったことは赦されることではありません。ですが私はあなたの一存でことに及んだとは考えておりません。あなたも、きっと辛い立場にあったのでしょう。やりたくものないことを命じられたのではないかと考えております」
 咲子の言葉に、和子ははっと顔を上げて、涙ながらに謝罪の言葉を述べる。
「申し訳ございません。桐壺の更衣、私は、私は……」
 やはり、和子は藤壺の女御に脅されていたに違いない。
 和子の様子を見て咲子はそう確信した。優しく和子の背をさすっていると、和子はひとしきり泣いてから、ようやく落ち着きを取り戻した。そして真相を語り始める。
「私の父はもとより左大臣様にお仕えしており、その甲斐あって左小弁に命じていただきました。ですから、父は当然のこと、私も左大臣様と藤壺の女御に逆らうことはできません。帝に毒を盛ることが大きな罪であることは百も承知でございました。ですが、その罪を桐壺の更衣に擦りつけることができれば、私のことも父のことも左大臣様が助けてくださると仰ったのです。出来なければ親子ともども今すぐに解雇すると仰られました。家族が路頭に迷う姿が目に浮かび、私には、断ることが出来なかった……。私には勇気がなかったのです……」
 和子は藤壺の女御の指示通りに帝に毒を盛り、咲子に罪を擦りつけるような証言をした。左大臣たちの望んだ通りにことが運んだはずである。だが、結果として、左大臣は和子親子を切り捨て、咲子ともども処罰されるように計らった。真相を知る和子の存在は危険そのもの、端から和子のことを助ける気などなかったのだろう。
「私は、なんと愚かなことを……」
 ハラハラと涙を流す和子の背を、咲子は優しく撫でた。そして勇気づけるように声をかける。
「和子、幸いにして帝は無事でした。その点において、私は本当によかったと思っております。私は帝のことも、あなたのことも、そしてあなたの家族のことも守りたい。そのために、私に出来ることがあればなんでもしたいと思っています。ですから和子、あなたにも協力してほしいのです。なにか知っていることがあったら話してくれませんか?」
 咲子の言葉に、和子は涙を飲み込み、ぐっと表情を引き締めた。
「桐壺の更衣、私も自分に出来ることがあるなら何でもしたいと思います。どうか、罪を償わせてください。あなたを信頼してお話したいことがございます」
 和子は声を潜め、咲子にしか聞こえないような小さな声で話し始めた。
「私に帝に毒を盛るよう指示を出したのは、他でもない藤壺の女御でございます。お察しかもしれませんが、私は藤壺の女御の間者として桐壺に送り込まれました。帝と桐壺の女御が秘密裏に会っていることを女御に報告し、賀茂祭のときには牛車の準備を怠り嫌がらせを……。琴の弦を切ったのも私です。桐壺の更衣の琴の音があまりに素晴らしかったからでしょう、藤壺が耳障りだと仰って……。保身のため、女御の指示を聞いてまいりましたが、桐壺の更衣のお人柄に触れるたびに心苦しく思っておりました」
 和子は瞼を伏せ、一息つくとぐっと奥歯をかみしめる。
「藤壺の女御宛に、左大臣から手紙が届いていたはずです。その中に懐紙に包まれた毒がありました。私はそれを受け取り、炊飯時の忙しさに紛れて帝の食事に毒を混ぜたのです。その手紙が残っていれば、決定的な証拠となるのですが……」
 和子はその紙質や色、香りまでもをよく覚えているようだった。
「そのように危険なものはすでに燃やされている可能が高いかもしれませんね」
「……そうですよね、仰る通りだと思います。お役に立てず申し訳ございません」
 咲子の指摘に和子は表情を暗くしたが、咲子は明るい声で答えた。
「いいえ、よく話してくれました。これは有力な情報です。なにより犯人が確定しましたし、もしかしたら手紙も残っているかもしれません。話は大きく進展しましたよ。私は、帝の命を脅かす者たちをけっして赦したくはありません。どんな手を使ってでも追い詰めたいと思っています」
 咲子が瞳に強い光を宿してそう言うと、和子にも思いの強さが伝わったようであった。
「女御は手紙を箪笥(たんす)の一番上の抽斗(ひきだし)にしまっておられました。そこを確認することができたらよいのですが」
 和子の言葉に、咲子は難しい顔をする。咲子が箪笥の抽斗を見せてほしいと頼んだところで、女御は鼻で笑うだけで取り合わないだろう。そもそも自分は桐壺から出ることが出来ないのだから無理な話である。
 だけど、万が一手紙が残っていたら、これほど確実な証拠はないわ。帝を守るための、大きな武器になる。
「中将様、話を聞いておいででしょうか?」
 咲子は近くに控えていた中将に話を振る。だが、中将も難しい顔をしていた。
「聞いておりましたが、手紙はないと考えた方がいいですよ」
「ないことが分かればそれでもかまいません、見ていただくことは難しいでしょうか?」
「それはさすがの俺にも無理な話です」
 話が暗礁に乗り上げてしまったところで、ひょこりと小さな頭が咲子の視界に入った。
「咲子殿、その話は私が引き受けましょう」
 姿を見せたのは千寿丸である。
「東宮! 今は桐壺にいらしてはいけません。桐壺の更衣は表向きは罪人ということになっているんですよ」
「堅いことを言わないでください龍、私は帝の代理のようなもの。帝だって咲子殿のためにはなんだってすると思いますよ。私だってそうです」
「危険です、ただでなくとも藤壺の女御は子供が大嫌いなのですから」
 心配する中将に、千寿丸は何でもないことであるかのように続けた。
「大丈夫ですよ、だって左大臣は藤壺に遊びに来てくださいって再々言っていましたし。私が遊びに来たと言えば、藤壺の女御だって無下にはできないはずです」
「いいえ千寿丸様、中将様の仰る通りです。あなたにそんな危ないことはさせられません。藤壺の女御の機嫌を損ねることになるかもしれません、そうなればあなたが叱られてしまいます」
 咲子も慌てて首を横に振ったが、千寿丸は続けた。
「咲子殿、これは私にとっても大切なことなのです。咲子殿が後宮を追われることになったら私はとても悲しい。危ないことにならないよう細心の注意を払いますから、どうか私を信じて。私は私のために、咲子殿をお助けしたいのです」
 千寿丸があまりに必死に訴えるので、咲子はついに首を縦に振った。
「くれぐれも、お気を付けください」
「大丈夫ですよ咲子殿、私は遊びに行くだけですから、どうか安心して待っていてください」
 ぽんと小さな胸を叩いてから桐壺を出て行く千寿丸を、咲子は心配そうな面持ちで見送った。
 その夜、咲子は一人庭に出て空を見上げていた。月がすっかり姿を消してしまっている。新月の夜は暗く、いつもよりもずっと静かなものに思えた。
 帝はお元気だろうか――。
 会えなくなってからもう幾日経ったことか――。咲子は愛しい帝のことを思い、肌身離さず持っていた組紐を手に取ると言葉を紡いだ。
「逢はむ日を 近江の桐の待ちつつぞ 我が身一つの月にはあらねど」 
 自分一人の帝ではないと、頭ではわかっていても心は苦しくなるばかりだわ。いつ再びお会いできるのかと、私は桐の木ようにひたすら待ち続けることしかできない……。
 咲子がこらえきれなくなった寂しさを歌に詠んだ時だ。
「私は月ではない」
 歌に応えるように、低い声が聞こえてきた。咲子は幻聴だと思った。会いたい気持ちが強すぎて、愛しい人の声を聞かせているのだと――。
 疑いがかかっている私に、帝が会いに来てくださるわけがない。
 振り向けずにいると、そっと背中から抱きしめられる。 
「どうして振り向いてくれないのか」
「本当に、本当に、帝であられるのですか……?」
「他に誰がいるというのだ」
 振り返ると、会いたくてたまらなかったその人がほほ笑みを浮かべている。視界がみるみるうちに滲んだ。
 まさか! 本当に会いに来てくださったなんて……!
 咲子はその胸にしがみついた。帝が無事であったことを肌で感じる、安堵した咲子は涙を流した。
「なぜ泣いている?」
「あなたがご無事でよかった。毒を盛られたと耳にしました。私は、心配で……もしもあなたに何かあったらと思うと、苦しくて、悲しくて……。本当に、よかった……」
「そうか、あなたは私の無事を喜んで泣いてくれるのか……」
 帝は咲子を一層強く抱きしめてきた。
「愛しい咲子、私が無事だったのは他ならぬあなたのおかげなのだ」
「私の、ですか?」
「あぁ、以前あなたが銀の箸を私に贈ってくれただろう? あれが、私の命を救ったのだ」
「ですが、銀では見分けられない毒であったと耳にしました」
 咲子の問いかけに帝は首を横に振った。
「それは違う。私の食器や薬子が使っていた箸は、どうやら本物の銀ではなかったようなのだ。偽物で毒が見分けられるはずがない。薬子を信じ、毒に気づかず食事を続けていたら、私は無事ではなかっただろう。あなたが贈ってくれた本物の銀の箸が、私を救ってくれた」
 帝の言葉を聞いて、咲子は驚きのあまり言葉を失った。もしも、あの箸を渡していなかったらと思うと恐ろしくてたまらなくなる。
「ありがとう咲子」
「わ、私は、何も……。ですが、贈り物をして本当によかった……。あなたがご無事でいることが、嬉しくてたまりません……」
「咲子、あなたは唯一無二の愛しい人でもあり、命の恩人だ。安心してくれ、悪いことばかりではない。これは好機だ、全てを日のもとに晒し、必ずあなたを皇后にする」
 帝は咲子の頬に触れると、その唇に口づけを落とした。
「無理を言って龍に身代わりを頼んできたから長居ができない。あなたが犯人ではないことはもちろんわかっている。あなたの無実を証明し、一日も早くあなたに会える日が来るよう、私は全力を尽す。あと少しの辛抱だ」
「私は大丈夫です。帝がご無事なのがわかって本当に安心いたしました。どうかご無理をなさらないでください」
 咲子は手に持っていた組紐を帝に手渡す。
「これは?」
「あなたにお会いできぬ間に、あなたを想って編みました。どうか、お受け取りになってください」
「あなたが私のために? こんなに嬉しい贈り物はない。箸以上に嬉しい、大事にする。では……代わりにこれを受け取ってほしい。これは、私の母が幼い私にくれたものだ。母はこれが必ず私を守ってくれると言っていた」
 帝は組紐を大切そうに懐にしまうと、かわりに美しい桃の花が細工された銀の懸守(かけまもり)を取り出した。それを咲子の手のひらに乗せる。
「いけません、このように大切なものを私に……」
「いいや、あなたに持っていてほしいのだ。あなたが私を守ってくれたように、私もあなたに護符を渡したい」
 咲子は手のひらに乗せられた銀細工を見つめた。大切にされていたであろうその懸守は、美しく磨かれ輝いて見える。
 なんて、美しい懸守だろう。きっと、帝のお母様が帝の幸せを願って渡したものに違いないわ。
「大切にいたします」
 咲子は受け取った懸守を大切に両手で包んだ。
「名残惜しいがもう戻らなければ。忘れないでくれ、私が愛しているのは、あなただけだということを。つまらぬ噂など、けっして鵜呑みにするな」
 咲子は名残惜しそうに何度も振り返りながら戻っていく帝を、その背が見えなくなるまで見送った。