それは、まだ日差しの淡い初夏の日のこと。咲子(さきこ)はいつものように小高い丘から眼下に広がる穏やかな湖を見つめていた。凪いだ湖はキラキラと太陽の光を反射して輝いている。
今日の海も綺麗、いつ見ても広いなぁ
 今年五つになったばかりの咲子は、この大きな湖を海だと思い込んでいた。水面に船を浮かべたら、遥か遠くにあるという大陸の国にでも行けるのだと信じていたのである。
 さわさわと風の鳴る音に混ざって、かすかな泣き声が聞こえて来た。
あれ、誰か泣いているのかな
 誰かいるのだろうかと辺りを見渡してみれば、花を咲かせ始めた桐の木の下で自分よりも少し年嵩(としかさ)の男の子がしゃがみこんで泣いている。絹のような滑らかな衣の裾が土で汚れていた。
「どうしたのかしら?」
 咲子は男の子を励まそうと思い、そっと傍に歩み寄ると、優しい声で歌を紡いだ。亡き母が幼い咲子をあやすためによく歌っていた子守歌である。
 お願い、どうか泣き止んで。
 一度、二度、歌を繰り返すうちに男の子は泣き止んだ。ようやく 人の気配に気がついたらしい男の子ははっと顔を上げて咲子を見た。
「その歌は?」
 顔を上げた男の子を見て、咲子は息をのんだ。
 とっても綺麗な顔……。
 子供の咲子から見ても、とても美しい顔をしている。涼やかな目元は涙に濡れて赤く染まっていた。
 咲子は一瞬男の子に見とれてからほほ笑んだ。
「これは、私のお母様が歌ってくれた歌です。私はこの歌を聞くと元気が湧いてくるのです」
「そうか、とてもよい歌だ。あなたのお母様は元気にしているのか?」
「いえ、お母様は昨年亡くなりました」
 咲子が悲しい気持ちを打ち消すように凛とした声で答えると、男の子ははっと息をのんだような表情になる。
 きっと、この子もお母様を亡くしたんだ……。
 男の子の表情を見て、咲子にはその涙の理由がわかった。昨年、春を待たずに死んだ母を思って、咲子もこの場所で散々泣いた後だった。
「顔を上げて、ほら、桐の花が咲いています。私のお母様は、桐の花が好きでした。私も好きです。下を見ていては、美しい花を見逃してしまいますよ」
 どうか、元気を出して。
 咲子は祈るような気持ちだった。男の子の悲しい気持ちを和らげようとして上を見上げる。つられてその子も顔を上げた。桐の花が風に吹かれてそよそよと揺れている。瞳に残っていた涙が一滴頬を伝い落ちた。咲子は自分の着物の袖で男の子の目元を拭いてあげる。
「私も、お母様を思うときにここにくるのです。広がる海を見れば、遥か遠く、お母様の住む黄泉にすらつながっている気がしますから」
「そうか――」
 男の子は眼下に広がる湖を見ると、どこか腑に落ちたような表情になる。咲子の言う通り、母のいる黄泉にすらつながっているような気がしたようだ。
 この先に母がいる――そう思うことができたのだろう。男の子の瞳から自然と涙が引くのがわかった。
 良かった、泣き止んでくれた。
 男の子の瞳に明るい色の光が見えると、咲子は嬉しい気持ちになる。
「私がずっと泣いていると、お母様も悲しむとお父様が言うのです。だから私はもう泣き止むことにしました。悲しい悲しいと思っていても、お母様が帰ってくるわけではありませんから。思い出すお母様はいつも笑っておられます。だから私は悲しくなるとお母様の笑顔を思い出すのです」
 咲子は木から落ちた一輪の花を拾い上げて男の子の手に乗せる。
「花だっていつまでも美しいままではいられません。いつかは朽ちて次に成る花の糧となるのです。あなたのお母様も、ここで生きていらっしゃる」
 咲子は勇気づけるように微笑んで男の子の胸に手を当てた。ドクンドクンと鼓動の音がする。
「そうか、ここにおられるのか――」
 男の子は咲子の手に自分の手を重ねて微笑んだ。
 なんて優しい手なんだろう。
 温かな手のぬくもりに、幼い咲子の心は小さく震えた。今までに感じたことのない熱い波が咲子の心に流れ込んでくる。自然と鼓動が早くなった。
 この人に、笑っていてほしい。
 咲子はそんな願いを込めて言葉を紡いだ。
「同じ時を生きていくのなら、笑っていた方が得なのだとお母様は申しておりました。ですから私は、悲しい時も笑っていられるように強くありたいと思うのです」
「素敵なお母様だ」
「はい、あなたのお母様もきっと素敵な方だったに違いありません」
「そうだな、素敵な人だった」
 男の子は咲子につられるように笑顔で頷く。それから落ちていた桐の花を一輪取ると、咲子の髪に飾った。
「よく似合う」
 男の子がそう言って笑ったので、咲子は胸が高鳴るのを感じた。男の子の笑顔に思わず見とれていると、丘の下の方から女の声がした。
「姫様! どこにいるのですか!」
 屋敷に仕える女官の声である。咲子は慌てて立ち上がった。触れ合っていた手が自然と離れる。
「いけない、内緒で来ていたの。もう帰らなくっちゃ、さようなら!」
 咲子は男の子に大きく手を振って丘を駆けていく。
「待って、あなたは!」
 そう叫ぶ声は咲子の耳には届かなかった。転がるように丘を下ると、父の屋敷に仕えている女官は呆れたような顔で笑っている。
「勝手に抜け出してごめんなさい」
「出かけるのは構いませんが、供の一人くらい連れて行ってください。あらあら、またお着物を汚して。毎日のように丘に登っておられますがなにか面白いものがあるのですか?」
 問われて咲子はわずかに頬を赤らめた。
「はい、丘に登ると水面がキラキラと輝いて見えるのです。それに、今日はとてもよいことがありました」
「それはようございました。あら、その髪飾り、よくお似合いですよ、桐の花ですか?」
 女官の言葉に、咲子は顔を赤らめる。
「さぁ、戻ったら着替えないといけませんね」
「このくらい平気よ」
 さっきしゃがんだ時に土が付いたのだろう。着物の汚れなど、咲子は気にも留めていなかった。
「だめですよ、今日はお屋敷に旦那様がお帰りになられていますから、特別綺麗になさらないと」
「本当! 嬉しい、お歌を教えていただきたかったの!」
「あらあら、姫様は本当に勉強熱心でいらっしゃること」
「だってとても楽しいんだもの。私も早くお父様のように素敵なお歌を作れるようになりたいわ」
 早足で屋敷に戻ると、咲子は仕事から戻って寛いでいる父親の背に抱き着いた。
「おかえりなさいお父様! 咲子もただいま戻りました!」
「こらこらはしたない、まったく、このお転婆は誰に似たものか。母様似の綺麗な髪がぼさぼさになってしまっている」
「だって仕方がありませんよ、お父様がお仕事から戻られているんですもの、嬉しくって! お父様、お歌を教えてくださいませ、あと一緒に貝覆(かいおお)いもいたしましょう!」
 父はほほ笑み、優しい手つきで髪を()いた。
「ほら、これで元通りの綺麗な髪だ」
 使用人たちはそんな仲睦まじい親子の様子に目を細めた。
「本当に仲の良い」
「姫様はどんどんお美しくなられて奥方様に似てこられましたわ。旦那様も可愛さ一入(ひとしお)でしょう」
「幼いながら旦那様に似てお歌も本当にお上手で、字もとても綺麗に書かれます。成長されるのが楽しみですね」
 この頃、咲子の父は国守として大国(たいこく)近江(おうみ)の国へと赴任していた。体の弱かった母は病勝ちで、咲子が四つになる年に亡くなったが、父は溢れんばかりの愛情を咲子に注ぎ、咲子は真っ直ぐで優しく、心の強い子に育っていた。
 近江での暮らしは、琵琶(びわ)()の湖面のように穏やかな日々だった。思い返せば、この場所での生活が幼い咲子にとって最も輝く思い出となったのである。一つキラリと輝く星のような、淡い初恋とともに。

 その年の冬のこと、都で流行り始めた病は近江の地まで広がった。咲子の父も病に倒れ、床に伏す日々が続くこととなった。
「お父様、お加減いかがですか?」
「咲子様、いけませんよ。うつってしまいます」
「ですが……」
 少しでもお役に立ちたいのに、私には何もできない。
 父を心配して様子を見ようとすれば、使用人たちに止められる。咲子は自分の無力さを感じ、ますます悲しい気持ちになっていた。
 必死の看病が続けられたが、その甲斐なく、父の病状は悪化するばかりで、時間だけが過ぎていった。
「お父様、しっかりなさってください! お父様、死なないで……」
「姫、私は母様のもとへ逝く。どうか幸せになっておくれ……」
「お父様! 待って、咲子を置いていかないでください、また、一緒にお歌を詠んでください」
「姫様……」
 近江での仕事ぶりが買われ、春に都に戻れば正五位の職を得ていたというのに、多くの人々に惜しまれながら、父は咲子を一人残して母のもとへと旅立った。
咲子は一人丘に登り、広がる湖を見ていた。咲子の心を投影したかのように、湖面がゆらゆらと揺れている。
「私はこれからどうなるのだろう……」
 押し寄せてくる不安を振り払うように、咲子は涙を拭う。
「お父様、お母様、安心してください。私はもう泣きません」
 湖に向かってそう告げると、咲子は丘を下って行った。

父親という後ろ盾を失った咲子は一人、母方の伯父のもとに身を寄せることになった。
 近江を離れ、咲子が住むことになったのは都の南に位置する屋敷だった。春になれば見事な八重桜の咲くその屋敷は人々から八重邸と呼ばれ、屋敷の(あるじ)である咲子の伯父は八重殿と呼ばれていた。伯父のもとには娘が一人おり、名を慶子(けいこ)といった。
「大荷物だな。本当に全部必要なものなのか」
 八重殿は咲子の荷物を見て眉をひそめた。
「おまえには必要ないものばかりですね。おまえを食わせるのにはたくさんのお金がかかるのだから、ほんの少しとはいえ足しにさせてもらいますよ」
 咲子の荷物を見て目を輝かせた伯母は、咲子の母の形見の装飾品や父がそろえてくれた着物を見ながらそう告げると、咲子からすべてを取り上げてしまった。
「それは、お父様が私のために用意してくれたものです。どうか返してください」
 咲子が必死に訴えると、伯母は冷たい目を向けた。
「おまえを食わせるのにはお金がかかると言ったでしょう? おまえを預かる我が家に貰らわれるなら、おまえのお父様も本望でしょう」
 そんな……。ひどいわ、大切なものばかりなのに。
 代わりに咲子に与えられたものは下女が着る粗末な着物ばかり。咲子が近江から持ち込んだ着物や装飾品は、そのまま従姉の慶子に与えられることになった。
「おまえにはこれから我が屋敷の使用人としてきちんと働いてもらう。今は出来ることも少ないだろうからまずは慶子の身の回りの世話をしろ、年が近い方が慶子も使いやすいだろう」
 咲子が着物を着替えるなり、伯父はそう命じた。
「わかりました」
 咲子は落ち込んだ気持ちを打ち消すように凛とした声で答える。
「お父様がお元気だったら、このような粗末な扱いは受けなかっただろうに」
「あんなに幼いというのに、お可哀そうな咲子様……」
 父が存命ならば、伯父の役職よりも上の職についていたはずである。慶子の気性の荒らさを知っていた使用人たちは、姪であるはずの咲子の扱いがあまりに不当であることに憐れむばかりだった。

 八重邸での生活は辛いものであったが、咲子は悲嘆に暮れることなく懸命に日々を過ごし、十七歳の春が来ようとしていた。
 持ち前の美しさは日に日に増すばかり、加えて慶子の傍に侍り、その類まれなる才能を咲子自身も気がつかないうちに育てていた。だが、そのやつれようは著しく、身に着けている物もひどくみすぼらしいものばかりであった。
 着飾りでもすればどこの美姫だろうかと噂されるであろう咲子の容姿を、慶子は今まで以上に憎むようになり、自然と咲子への当たりも厳しくなる。咲子は慶子や伯母からの苛めに耐える日々が続いていた。
 耐えられないくらい辛くなると庭に出て東の空を見上げる。すると、幼いあの日に出会った男の子の顔が自然と頭に浮かぶのだ。
「どうか、あの人はもう泣いていませんように」
 自分は辛くても、彼は泣いてはいないかもしれないと思うと、少しだけ心が軽くなる。
 遥か遠く、近江の国に繋がる空を見上げては母の子守歌を歌う。虚しくなる今の自分を、伯母や慶子に屈しないよう必死に支えていた。
「咲、毎日毎日(ふみ)が届いて返すのが面倒だわ。この文にはおまえが返事を書いておきなさい」
 ある日、慶子はそう言って咲子に文を放ってよこした。家柄の悪い男からの文である。聞こえのよい殿方には(こう)()()めた上等な紙に、渾身の歌を添えた文をしたためる慶子であったが、つまらないと思う男にはろくに文を返していなかった。
「私などが書いてもよろしいのでしょうか? 慶子様宛のお手紙なのでは」
 普段はご自分で書かれるのに、私が書いてもよいなんてどういうことだろう。
 慶子の意図がわからず咲子は困惑した。
「えぇいいのよ、私には釣り合わないのだから。よろしく頼むわ、ぜひよい文を書いてちょうだい」
 慶子がそう言って文を投げ渡してくる。
「どのような内容でお返ししたらよいでしょうか?」
「そうね、おまえがよいと思うように書いてみなさい。この紙が調度いいわね」
「わかりました、よい文を書いてお返ししておきます」
 咲子は仕方なく慶子がよこした粗末な紙に歌を書くことにした。
「咲子様はろくに字の勉強もしていないのだから困っているんじゃないか?」
「それが慶子様の嫌がらせなのだろうよ。文を上手に書くことが出来なかった咲子様を罰するおつもりなのだろう。本当に意地の悪いお方だ」
 使用人たちがささやき合う声は咲子には届いてはいなかった。慶子の意図が分からぬまま、咲子は一通の手紙をしたためたのである。
 周りの予想に反し、咲子の書いた文を受け取った男は他の誰よりも慶子に熱をげた。八重邸の慶子殿は文字も歌も素晴らしい、粗末な紙すら逆に趣を感じると評判になったと聞いて、咲子は慶子に恥をかかせずに済んだとほっとしていた。だが、当の慶子は眉を釣り上げた。
「咲! おまえはなんてことをしてくれたの! さてはおまえ、自分では歌が書けないものだから私の作った歌を盗んだのね!」
 咲子が歌など書けるはずがないと思い込んでいた慶子は咲子が自分の歌を盗んだのだと思ったようである。
「滅相もございません!」
「嘘をおっしゃい! そもそもあんな男の歓心を買ってしまうなんて、おまえは本当に使えない! 歌を盗んだばかりか、まともに私が頼んだ仕事もできないようね。誰がきちんとした文を返せと言いましたか! 私があんな男を相手にするわけがないでしょう! 咲、あんな男はおまえにくれてやるわ」
 慶子はそう言って咲子をひどく叱りつけた。
「申し訳ございません、慶子様」
 歌を盗んでなどいないが、慶子の気分を害したのは事実である。咲子は素直に謝った。
「いいわ、きちんと罰を与えますから、覚悟なさいね」
 珍しく慶子はすぐに怒りを鎮めた。かわりににやりと不気味な笑顔を浮かべている、なにか思いついたのだろう。罰を受けることには慣れていた咲子であったが、慶子の表情が気になった。
「今夜は私の部屋を使いなさい」という慶子の命令で、咲子は慶子の部屋で休むことになった。慶子は伯母の部屋で眠るようである。いつも堅い板の間で眠っている咲子は、幾年ぶりかに眠る柔らかな布団に慣れず、なかなか寝付くことができなかった。
 深夜、月が空を渡っていくのをぼんやりと眺めて時間を過ごしていると、なにかが忍び込んできたような気配がした。盗人だろうか――必死で恐怖を押し殺し、目を凝らして姿を確認しようとしていると、突然大きな手で肩を掴まれる。
 誰!?
 咲子は叫ぼうとしたが恐ろしさで体が震えて声が出せない。
「慶子殿、先日は素晴らしい歌をありがとうございました。あなたも私のことを想ってくださっていたのだと、返事を待つ時間が惜しくて忍んできてしまいました。お慕いしております」
 体を押さえつけてくる人影が耳元でそう囁いたので、文の男が夜這いに来たのだとようやく気がついた。何をされるのか理解が追い付かず、恐ろしくてたまらなくなった咲子は必死に抵抗した。
「人違いです、私は慶子様ではござません、どうかお許しください」
「今更何を恥ずかしがっておられるのです。思い合う仲ではございませんか」
 男は咲子の手足を押さえつけ、着物の隙間から手を入れようとしてくる。
「誰か、助けて!」
 そう震える声で叫んだところで誰かが助けに来てくれるはずもない。これが、慶子が思いついた罰なのだろう。
 咲子は必死にもがいて外に逃げだすと、馬屋に逃げ込んで夜を明かした。もう少しで男の手が肌に触れるところだったかと思うと、恐怖で体が震える。咲子は自分の身を守るように両腕で体を抱き締めた。男に捕まれたところから恐れが染み込んでくるようで吐き気がしてくる。伯母や慶子からの折檻で感じるのとは違う、初めて感じる(たぐい)の恐怖だった。
 明け方、男の気配が消えてから、咲子は音を立てないよう静かに庭に出て空を見上げる。白みかけた朝焼けの空では、ぼんやりとした月が優しく輝いていた。
「怖かった……」
 気がつけば歌を口ずさんでいた。幼い日に母が歌ってくれた子守歌――。
「もうすぐ夏が来るわ、あの桐の花は咲いているかしら――」
 咲子は遠く離れた近江の地を思った。同時にあの日泣いていた男の子のことも思い出す。そのときに覚えた胸の高鳴りも一緒に。
 どうか、あの子の涙が止まっていますように――。
 そう願わずにはいられない。あれから何年も経ったのだ、あの美しい男の子はすっかり元服して立派な大人になっていることだろう。咲子はあの日見上げた美しい空を思った。
「もう一度、あの人に会いたい……」
 顔を上げなくては、笑わなくては――。そう思って自分を奮い立たせようとしたが、この夜の咲子には空元気を出す気力すら残っていなかった。

 桜の木で蝉が鳴き始めた初夏のころ、伯父は慌てた様子で八重邸に戻ってきた。
「慶子、喜べ! 朝廷からおまえを入内(じゅだい)させたいと連絡があった。すぐにでも支度をしなさい」
「本当ですかお父様!」
 十九歳になる慶子は、都でも噂が立つほど美しい姫に成長していた。朝廷から入内の声がかかるのも自然なことである。(むし)ろ遅すぎるくらいだと、八重殿も慶子自身も大層喜んだ。
「なんでも、この八重邸に美しい声の娘がいると噂になったそうなのだ。どこかでおまえの声を聞いた(きん)(だち)が噂を広めたに違いない」
「あぁ、心当たりがありすぎてどなたが仰ったのかわかりませんわ。嬉しいことでございますね」
「早まっておまえを中納言(ちゅうなごん)などの嫁にやらなくて本当によかった。幸いなことに瑛仁(えいじん)帝は帝になられて日も浅く、まだ子がおらぬ。左大臣(さだいじん)の娘などが形ばかりの妃になってはいるが、女にひどく真面目な方でなかなか妃を迎えないことで有名な帝だ。それがおまえの美しさを耳にして手にしたくなったのだろう。長く左大臣に取り入って機嫌を取ってきたがこれは好機だ、おまえは世継ぎを産み、わしは帝の外戚(がいせき)となる。左大臣も右大臣(うだいじん)も蹴落とし、太政大臣(だじょうだいじん)に、ゆくゆくは摂関(せっかん)になるかもしれない、これは歴史に残る大出世だ!」
 伯父はいつになく上機嫌であった。慶子は目を細めて咲子を見る。咲子は悪い予感がした。
「咲、おまえも私の侍女として一緒に後宮にいらっしゃい。屋敷に残ってもおまえは大した役には立たないし、これからも私の世話が出来るなんて嬉しいでしょう? おまえには私が帝に寵愛されるさまを見届けてもらいましょうね。後宮はおまえなどとは縁遠い世界、そこで後に皇后となる私の世話ができるなんて光栄なことよ、皇子が生まれたらおしめくらい替えさせてあげるわ。大いに感謝してちょうだい」
「皇子などと気が早いな」
「あら、意外とすぐかもしれませんわ」
 親子は声を立てて笑い合った。
 悪い噂を立てぬためにも朝廷から賜った女官に今のような我がままを言うわけにはいかない。その点、子飼いの咲子は慶子にとって都合がよかった。咲子はどんなにぞんざいに扱われても泣きつく相手がいないのである。咲子に対しては、今までのように振舞えると思い、慶子は機嫌良く入内の準備を進めていたのである。

 瞬く間に入内の日となり、咲子は慶子と共に内裏(だいり)へと足を踏み入れた。八重邸など比べ物にならないほど豪華な造りの御所に、慶子は目を輝かせているようだ。
「これから帝が私にお会いになってくれるのよ。おまえは部屋に戻って荷でも解いていなさい。帝はおまえのような下賤の者が会えるようなお人ではないのだから」
 慶子が帝と対峙している間、荷を運んでいた咲子はすれ違う女官たちがそわそわと落ち着きがないことに気が付いた。
「今日は新しいお妃様がいらっしゃったから珍しく帝が後宮を訪れているそうですね」
「えぇ! お見かけしましたよ、相変わらず麗しいお姿に思わずため息が漏れてしまいました」
「羨ましい、私も一目でいいからお見かけしたいわ。どのようなお姿でしたか?」
「すらりと背が高く、目元も大変涼やかなのです。まるで絵巻物から出てきたような美しさでしたわ」
「そんな方に声をかけられたら、嬉しさのあまり気を失ってしまいそうですね」
「本当に!  お妃様たちが羨ましいわ、私も帝の目に留まりたい」
「私たちのようなただの女官では無理ですよ、せめてかぐや姫のように美しくないと」
 噂には聞いていたけれど、瑛仁帝は大変な美丈夫らしい。
 しかし、咲子の心を搔き立てるのは、美しいという帝ではなく、思い出の男の子だった。
 きっとあの人も、美しい男の人になっているのでしょう。もしかしたら、この都のどこかにおられるかもしれない。だけど、このように見すぼらしい私では、恥ずかしくて会うことなんてできないわ。
 慶子は後宮、七殿五舎のうち東の昭陽舎(しょうようしゃ)、通称梨壺(なしつぼ)に住まうことになった。
弘徽殿(こきでん)承香殿(じょうきょうでん)も空いているというのに、どうして私がこのような場所に住まなければならないの」
 入内早々、慶子は機嫌が悪かった。自分の住まいが帝の寝所から遠いということもあるだろうが、帝がわずかな謁見だけで慶子を梨壺に帰したことが気に入らないらしい。父親の身分を考えるなら自分の部屋を賜っただけでも光栄なことであるのだが、気位の高い慶子が意に介せるはずもなかった。
「いったいどうしたのでしょうね! 帝はわざわざ望んで迎えた妃の顔もろくに見られないほどお忙しいのかしら?」
 慶子の問いかけに、近くに侍っていた女官は困ったような表情を浮かべた。慶子は女官たちを睨んでいたが、朝廷より賜った女官を怒鳴りつけるわけにはいかないと思ったのだろう。どの女官が誰の娘であるのかまだ把握できていないのである。怒りの矛先は自然と咲子へと変わった。
「咲、なにか思うところがあるようね、遠慮せず言ってみなさい」
 いつものことだ、なにか面白くないことがあると、咲子に当たり散らして憂さを晴らすのである。かと言って後宮に来て早々咲子を怒鳴り散らすわけにもいかないと、優しい声で尋ねて来たが、その目は少しも笑っていない。
 慶子様は帝に思うように構ってもらえず腹を立てているんだわ。どうしたらなだめることができるかしら……。
 咲子は悩みながらも言葉を返した。
「失礼ながら申し上げますと、帝はお恥ずかしかったのではないかと思います」
「恥ずかしいですって! 何がよ!」
「はい、あまりにお美しい慶子様を前に、照れてしまったのではないでしょうか」
 そう答えると、慶子は少し機嫌をよくしたようで、ふんと鼻で笑った。
「そうね。別に今お会いできなくてもいいのよ、(ねや)にさえ呼んでいただければ良いの。そうすれば私の魅力をわかっていただけるわ」
 慶子の癇癪(かんしゃく)がおさまったことに、咲子を始め、他の女官たちも安堵した様子を見せた。
 だが、いつまで経っても一向に帝からの声が慶子にかからない。日に日に慶子の苛立ちは募っていくようだ。女官たちの話によると、どうやら慶子を苛立たせるのは帝だけではないらしい。
「梨壺に入内された女御は実に美しい下女をお連れだ。実家からお連れになったのだそうで、後宮にまで連れてくるほどよくできた女なのでしょう」と、行事などで顔を合わせる公達たちが慶子ではなく咲子を褒めるのがなにより面白くないのだろう。
 私は極力目立たないようにしておかなければ……。 
 咲子はそう肝に銘じた。帝の声がなかなかかからないことに加え、自分よりも目立つ咲子のことが気に入らないのだろう。入内当初は大人しくしていた慶子であったが、憂さを晴らすために次第に実家にいたころのように咲子をいびり始めた。おかげで咲子はどの女官よりも忙しく働かされることになったのである。

 咲子が後宮に足を踏み入れてから一月ほどが過ぎた頃、慶子が入内して初めての大きな宴が開かれることになった。
「今回の宴には珍しく帝も参加されるそうなの、しっかりと着飾って帝の目に止まらなくてはいけないわ! 咲! 新しい着物を用意なさい!」 
「わかりました」
 宴には女御たちだけでなく、帝も出席されるとのこと。帝のお目通りのない慶子はここぞとばかりに飾り立てたのである。咲子はその準備で新しい着物に香を焚き染めたり、慶子の髪を()かしたりと駆け回らされた。咲子の頑張りによって、慶子は見る見るうちに美しく着飾られていく。
「咲、いいわね! 目立たないよう私の後ろに控えていなさい。見すぼらしいおまえがでしゃばったりしていると私の美しさも台無しよ!」
「わかりました、私はお邪魔にならぬよう隅の方におります」
「目立たないところにいるからって怠けたりするんじゃありませんよ、私の言うことはすぐに聞きなさい」
 宴が始まり、美しく着飾った慶子の傍に咲子も質素ながらも小綺麗にして侍っていた。慶子は自慢の歌を披露し、上機嫌であった。
「梨壺様は歌がお上手なのですね」
 女官たちから誉められ、満足げな笑みを浮かべた慶子は、傍にひっそりと侍っていた咲子に視線を向けた。咲子に恥をかかせることを思い付いたのである。
「ほら、咲、おまえも一つ歌を詠んでごらんなさいよ」
「いいえ、私は歌など──」
「あら、謙遜なんかしないでちょうだい、私の付き人なら歌くらい詠めないと恥ずかしいわ」
 慶子様はどういうおつもりだろう。また恥をかかせるつもりだろうか。だけど、梨壺付きの自分が歌の一つも詠めないとなると、慶子様の教養を疑われるかもしれない。
「ほら、早くしなさい」
 慶子がそう促してくるものだから、咲子は仕方なく青々と茂る新緑を見上げて一句詠む。咲子の凛とした声が辺りに響く、初夏を歌った爽やかな歌は慶子が詠んだものよりもずっと優れていた。
「素晴らしい!」
 それを聞いた女官たちは咲子を褒め、その主である慶子のことも褒めたが、慶子は驚きのあまり、困惑した表情になる。咲子が歌を詠めるとは思っていなかったのだろう。
「梨壺様のもとにはこんなにも歌の上手な女官がおられたとは、容姿も大変お美しいですし、今まで隠れておられたのは奥ゆかしさの現れですね。素晴らしいですわ」
「え、えぇ──これには幼いころから私が歌を教えましたから、このくらい出来て当然ですわ」
「まぁ、さすが梨壺様ですね」
 歌など一つも教えていないというのに、慶子はどうにか咲子の歌を自分の手柄にすると、作り笑いを浮かべていた。
 しまった、きちんと歌を詠んではいけなかったのだわ……。
 咲子は慶子の不機嫌な様子を見て後悔した。
「梨壺の女御のところにいる下女のお話を聞きましたか?」
「もちろん、なんでも大層美しい娘だとか」
「その上、先日の宴では見事な歌を詠んだそうですよ」
「それは一度拝見したい」
 その日、結局帝は宴に姿を見せなかった。その上、宴を機に、梨壺に歌の上手な美貌の女官がいるらしいと、咲子は一躍時の人になったのである。大勢の人の前で咲子に恥をかかせてやる腹づもりであった慶子としては一つも面白くなかったのだろう。噂を聞けば眉を吊り上げ、咲子に無理難題を出すものだから咲子は困ってしまった。
 咲子の噂はあっという間に後宮に広がり、ぜひ一緒に歌合せを――といった類の誘いが頻繁に来るようになった。当然慶子はこの噂に焦りを感じたようだ。噂が帝の耳に入り、自分よりも早く咲子がお手つきになったりでもしたら、たまらないとでも思ったのだろう。
「帝が私に声をかけないのはどういうことかしら! きっとおまえのせいよ、おまえみたいな見すぼらしい下女を連れているせいだわ。この前の宴といい、私の邪魔ばかりして本当に目障りね! 今日からこの頭巾を被って過ごしなさい。そうすれば、その見苦しい顔も少しはすっきりするでしょう!」
 咲子はそう言う慶子に尼のような布を被せてられてしまった。
 頭巾を被らされるなんて恥ずかしい。でも、慶子様が癇癪を起すと他の女官たちにも迷惑がかかる。私が、我慢すればいいだけよ、仕方がないわ。
「梨壺の女御、そちらの娘はどうしてそのような頭巾を被っているのですか?」
 周りの者たちは不思議そうな顔で咲子を見た。
「この子は鈍くさいから火鉢で火傷をしてしまったの。とてもひどい火傷だから、見られるのが可哀そうで、ねぇ咲」
 そう言って楽しそうに答える慶子のことを、咲子は気に留めてなどいなかった。慶子の神経を逆なでしないのであればそれでいい。
 すっかり顔が隠れてしまったことで、咲子の容姿を褒めそやしていた公達たちは咲子のことなど目にも留めなくなった。あんなにしっかりと顔を隠さなければいけないほどの火傷ならば、とてもではないが見られた顔ではないだろうと憶測したのだろう。咲子にはその方がありがたかった。
 だが、一方で一緒に働く女官たちは咲子の奇妙な白い頭巾を見ては陰で笑うのである。優れた歌を詠む下女という咲子への評価は煙のように消えていた。
「見てごらんなさい、あの娘は頭巾なんか被ってどうしたのでしょうね」
「なんだか着物も薄汚れていて滑稽ですよ、見苦しい」
「本当に、なんてざまでしょう。私だったら恥ずかしくて実家に戻ってしまいますよ」
 女官たちが咲子を笑うのが、慶子には面白くて仕方がなかったようである。帝から声がかからぬ憂さを、今まで以上に咲子を苛め抜くことで晴らしたものだから咲子への風当たりはいっそう酷くなった。慶子に苛められている弱い立場の咲子は、後宮の女官たちの間においても格好の苛めの的となったのである。
「梨壺の女御からのお使いでお願いしていたお香を受け取りにきました」
「あらおかしいですね、そんな話は聞いていませんよ」
 首を傾げる女官に咲子は困ってしまった。
「先日確かにお願いしたはずです」
「記憶違いではございませんか? そのようなものは頼まれていません」
 大変、慶子様に何て伝えよう。きっとひどくお怒りになられるわ……。
 頼んだはずの香がないという。このままでは慶子の機嫌がまた悪くなることだろう。咲子は頭を抱えた。
「では、大変申し訳ないのですが、麝香(じゃこう)を用意しておいてください」
「えぇえぇ、今度用意しておきますから早く梨壺にお戻りなさい」
 女官に追い払われ、梨壺に戻ると、咲子は「申し訳ありません」とひれ伏した。
「香を頼み忘れていたですって! 今夜帝に呼ばれたらどう責任を取るつもりなの、咲!」
「申し訳ありません」
「謝れば済むとでも思っているの!」 
 慶子は持っていた扇をいつものように咲子目がけて振り降ろす。何度か咲子を激しく叩くと、慶子の怒りはいくらか落ち着いたように見えた。
 このように慶子からの指示を邪魔されることや、わざと衣服を汚されることなど日常茶飯事のこと、そうなると今度は慶子にひどく叱られ、罰を与えられた。咲子の体には日に日に痣が増えていく。その数は八重邸にいたころよりもずっと多かった。後宮はまさに針の(むしろ)であった。
 それでも咲子は悲嘆に暮れることなく、ただひたすらに黙々と仕事をこなす日々を送った。
 私が悲しい顔をしていると、お母様もお父様もきっと悲しむから――。
 そう思い、辛い日々も強くあろうと必死に耐えていたのである。

 ある日、咲子が慶子の命令で花を摘みながら庭の掃除をしていると、茂みの中から幼い男の子が飛び出してきた。結い上げた髪の毛や上質な着物のところどころに葉っぱをくっつけている。
「ねぇ、この子の治療をして!」
 咲子が男の子の差し出した手のひらを見ると、小さな(うぐいす)が乗っていた。(からす)にでもつつかれたのだろうか、痛々しい傷があり、羽根に血がにじんでいる。
 とっても苦しそう……。
「可哀そうに、怪我をしているのね、今手当をいたします」
 咲子は男の子の手から鶯を受け取ると、自分の着物を裂いて包んだ。
「傷口を洗って、温めてあげましょう」
「ありがとう!」
 どうか、元気になって……!
 咲子は手際よく傷口を水で洗い、傷の手当てを始める。
「綺麗な鶯ですね、あなたの飼い鳥ですか?」
「違うよ、私は見つけただけ。向こうの茂みに落ちていたんだ」
「そうですか、飛べるようになるまではもう少し時間がかかると思います。治るまで私が面倒を見させてもらってもよいですか?」
「いいの?」
「もちろんでございます」
 咲子がほほ笑むと男の子はにっこりと笑った。
「あなたは誰? 誰に仕えているの?」
「私は咲子と申します。梨壺の女御、慶子様にお仕えしています」
「あぁあの癇癪持ちの梨壺様か。私は千寿丸(せんじゅまる)、小鳥を助けてくれてありがとう咲子殿。それでは私は戻ります」
 千寿丸と名乗る男の子は安堵した様子で咲子に鶯を預けると、庭の向こうへと駆けて行った。
「まぁ、元気なこと」
 咲子は鶯を隠すのに安全な場所はないかと探し回った。慶子は大の動物嫌いなのである。見つかれば捨てられてしまうだろう。どうにか雨風をしのげる場所を見つけると、咲子は着物で包んだ鶯をそっと置いた。
「また様子を見に来るから、じっとしていてね」
 鶯にそう声をかけると、箒を片付け、集めた花を抱えて梨壺に戻る。束ねた花を慶子のもとに持っていくと、慶子はジロリと咲子を見てから興味なさそうにそっぽを向いた。
「なあに、そんな花なんかいらないわ。牛車(ぎっしゃ)を引く牛にでも食べさせたらどう? そうよ、おまえにはこの美しい梨壺なんかよりも牛舎(ぎゅうしゃ)の方がずっとお似合いだわ」
 慶子の言葉に、他の女官たちはくすくすと笑ったが、咲子は気にもとめず言われた通り花を牛舎へ運んだ。
 大丈夫、こんなのいつものことじゃない。
自分にそう言い聞かせる。それよりも怪我をした鶯のことが気がかりだった。急いで庭に戻ると鶯の様子を見に行く。着物の切れ端に包まれ、すやすやと眠っているのを見て咲子は安堵した。
 それから、仕事の合間に鶯の様子を見る日々が数日続いた。咲子の看病のおかげで鶯は日に日に元気を取り戻し、傷ついた部分には毛が生え、もうすぐ飛べるのではないかと思われるほどに回復していた。
「もうすぐ飛べそうね」
 咲子が嬉しそうに鶯を眺めていると、背後に誰かが来たような気配がした。
「咲、そんなところで何を怠けているの」
 振り返ると慶子がこちらを覗き込んでくる。咲子は慌てて鶯を隠そうとしたが、遅かった。
「まぁなんて汚らしい! そんな汚い鳥を私に隠れて飼っていたなんて! 早く捨てなさい」
「ご容赦下さい、怪我をしていたのです。もう少しで飛べるようになりますから!」
「知ったことですか! 私は鳥が大嫌いなのよ! 知っているでしょう!」
 慶子は足を払うようなしぐさをして、鶯を蹴とばそうとした。咲子が慌てて鶯を守るように覆いかぶさると、腹部に鋭い痛みが走る。慶子の足が咲子のわき腹を蹴り上げていた。
「痛いじゃない! 足に怪我をしたらどうしてくれるの!」
 慶子が叫ぶと、鶯は驚いたようにバタバタと羽根を羽ばたかせた。そのまま飛び上がり、清涼殿(せいりょうでん)の方へと向かって飛んでいく。
 咲子はその姿に安堵して「よかった、飛べるようになったのね」とつぶやいた。
「なにがよかったものですか! 咲、私の足を見なさい。傷がついていたらただじゃおきませんよ!」
 慶子の足には傷などありはしなかったが、慶子の癇癪はおさまらない。
「咲、罰として明日の夜まで食事は抜きよ。今夜は寝ずに庭で草でもむしっていなさい!」
 そう言い放ち、咲子をもう一度蹴り上げるとようやく腹の虫がおさまったのだろう。踵を返して部屋へと戻っていった。 
 翌日、梨壺に帝からの使いが訪れたが、咲子は罰として荷を運ぶ仕事を押し付けられていたので梨壺にはいなかった。
「こちらに帝の鶯を手当した者はおりますか?」
「鶯でございますか?」
 鳥嫌いな慶子は眉をひそめた、だが使いの者が続けた言葉を聞いて、ぱっと表情を明るくする。
「そうです。先日帝の飼っている鶯が誤って逃げてしまいまして。長く見つからなかったのですが、昨日こちらの梨壺の方より飛んで戻ってきたのです。どうやら傷を負っていたようで、それを手当したような跡がありました」
 咲子が隠していた鶯に違いない、そう思いついた慶子はにっこりと笑みを浮かべる。
「えぇえぇもちろん存じております。それは私が見つけて、私が一生懸命に世話をしていた鶯ですわ。昨日飛んで行ってしまってとても心配していたのです。無事に帝のもとに戻り安心いたしました」
「そうでございますか。帝が褒美を贈りたいと仰られておりました。何かご入用の物がございますか?」
 問われて慶子はいくつかの調度品と新しい着物を所望し、最後にこう付け加えた。
「鶯の様子も見たいですわ。どうか近々閨にお呼びくださいと帝にお伝えください」
「承りました」
 これで近いうちに帝に呼ばれることだろうと慶子は上機嫌になった。仕事を終えて戻ってきた咲子に「咲、髪を梳かしなさい。一度でも(くし)にひっかけたりでもしたらその爪を剥いでしまいますよ」と命じ、うっとりとした表情で鏡を覗き込んでいた。

 ある夜のことである、咲子は梨壺の庭に出て小さな月を見上げた。月は厚い雲に見え隠れする。
「あの月は、きっと幼い日に見た月と一緒――」
 そう思うとずっとこらえていた涙が零れ落ちた。涙ながらに歌を口ずさむ。母の歌ってくれた歌だ。
 二度、三度、心が落ち着くようにと何度も繰り返し歌っていると草を踏む音が聞こえた。月が雲に隠れると辺りは暗くなり、人の気配はあっても姿は見えない。
 怖い……。でも、梨壺に誰が訪れたのか確かめなくちゃ、ここで逃げてはけないわ。
 雲の切れ間に月が現れ、辺りを明るく照らすと咲子は涙をぐっとのみ込んで闇を睨んだ。
「夏の日の――」
 咲子がじっと睨んでいると、心地よい低音の声が響いた。男の声である。
 男の方が後宮にいるなんて、帝と血縁関係のある殿上人(てんじょうびと)かしら――。もしも危険を顧みず慶子様のもとに通おうとするならば、追い返さなければならない。
 いつかの夜のような恐怖がよみがえってきたが、咲子は勇気を振り絞り、声を殺して問いかけた。
「どなた様でしょうか」
 答える声はない。
 尋ねたところで答えるはずはないわよね……。
 咲子は小さく息をのむ。だが、男は答える代わりに歌を詠む。
「夏の日の 桐の下陰(したかげ)風過ぎて 水面に響く幼子の歌」
 その歌は……!
 咲子の脳裏に近江の夏の日が蘇る。美しく晴れ渡る空、花の咲き誇る桐の木影、眼下に広がる穏やかに輝く湖――。
 夏の日、花の咲く桐の下で悲しむ男の子を元気づけたくて子守唄を歌ったこと。そんなことを知っている人は、一人しかいない。
もしかして、もしかして、あの人なの……?
「やっと見つけた、桐花姫(とうかひめ)――。ずっと、あなたを探していた――。愛しい姫……。必ず迎えに来る、だから待っていてくれ」
 咲子が近江のことを思い出して目頭を熱くしていると、男の声が咲子の耳に届く。
 「あなたは――!」
 あの人に違いない、夏の近江で出会った美しい人――!
 だが、咲子が駆け寄ろうとした時には、もうそこには誰の気配もなかった。男は霧のように消えてしまったのである。月は再び雲に隠れ、辺りは暗闇になった。
私も、お会いしたかった……ずっと。もしかしたら幻であったのかもしれない――。
 咲子は夢を見たのだと思った。辛い日々にあって、生きる希望は幼い日の記憶だけ。
 咲子にとって最も輝かしい記憶――それは、近江での日々だ。そこで出会った美しい男の子へ抱いた淡い憧れは、咲子の心の中で小さな星のように光を放ち、苦境にある咲子を支え続けていた。
「もしも、もう一度彼に会うことができたら……」
 二度と会えないことは咲子にもわかっていた。このような場所に彼の人がいるはずはない。ただ、願いを持つことが生きる希望になっていたのである。
 幻でもいいからもう一度会いたいと、咲子は強く願った

 あくる夜、慶子のもとに帝の使いが訪れた。ついに帝から慶子に声がかかったのである。喜ぶ慶子にあれこれ命じられ、咲子は慶子を着飾ることになった。
「さぁ、しっかり香を焚きしめなさい! 髪もしっかりと梳かすのよ!」
 咲子は慶子の支度で目が回るほどに忙しかった。すっかり仕度が終わると、鼻が曲がりそうなほど麝香の香りが焚きしめられた衣をまとって、意気揚々と梨壺を出て行く慶子の姿を見送った。
 よかった。これで慶子様の機嫌も少しはよくなるかもしれない。
 これで帝の寵愛を得ることができれば、慶子の機嫌もよくなるだろう。咲子はそう胸を撫でおろすと同時に、昨夜庭で聞いた声の(ぬし)のことを思い出すと心が落ち着かなかった。
 幻だって、わかっているのに……。
 夢だと、そう思えば思うほど、その声を鮮明に思い出すことが出来た。記憶にあるものではない、初めて聞く声だった。
 翌朝、夜が明ける前に梨壺に戻ってきた慶子の機嫌は今までにないくらい悪かった。どうやら昨夜は何もなかったようなのだ。
「帝は相変わらずお美しい人でしたとも! ですが殿方としてはどうでしょうね。寝間着姿の私を前に、『少し話を聞きたい』と仰って、この私が少し身の上話をしたら『もうよい』と言って梨壺に帰してしまわれたのよ! 何のために私を閨に呼んだというのか!」
 慶子は檜扇(ひおうぎ)を投げ、香炉(こうろ)を蹴とばし、仕舞には咲子をひどく叩いた。
 いったい帝は何のために慶子様を呼んだのだろう……。とにかく慶子様をなだめないと、このまま暴れていると大きな怪我をしてしまうかもしれない。
「慶子様、あまりに暴れてはお体に障ります。怪我でもなされたら――」
 咲子は暴れる慶子を必死になだめようとした。
「えぇいうるさいわね! 本当におまえは可愛げがない! それで私の心配をしているつもりなの! 腹の中では私をあざ笑っているのでしょう! えぇい本当に忌々しい! 可愛げの欠片もない醜い顔だわ!」
「慶子様、どうかおやめください!」
 慶子は投げた扇を手に取ると激しく咲子を強く叩いた。おかげで咲子の手や顔には赤黒い痣が出来た。
「これで少しは見られる顔になったでしょう! あぁ、本当に腹が立つ。咲、水が飲みたいわ、もたもたしていないで早く汲んできなさい!」
 慶子に命じられて水を汲みに部屋を出た咲子は(かめ)の中に映る自分の顔を見てため息を吐いた。
「酷い姿……、なんて醜いんだろう。こんな(なり)ではみんなに笑われて当然だわ……」
 咲子は思わず弱音を吐いた。美しかった母に似てはいるが、傷だらけでやつれた自分は随分と見すぼらしい姿である。
 今の自分を見たら、母も父も嘆くかもしれないと思うと悲しかった。
 これで少しでもましにならないかしら……。
 手拭いを濡らして、顔を冷やす。母からもらった容姿である。母のように美しくありたかった。
 咲子は胸に手を当てる。ドクンドクンと、確かに脈を打つ音が聞こえた。
「ここにいる。お母様も、お父様も。そして、あの日出会ったあの人も――」
 だから、泣いてはだめ。 
 水を汲み終えた咲子は大きく深呼吸をして瞳に強い光を宿すと梨壺へと戻って行った。

 清涼殿に坐した帝は頭を抱えていた。
「おうい、いつになく難しい顔をしてどうした。昨夜は珍しくお楽しみだったんじゃないのか?」
 現れたのは若くして近衛中将(このえちゅうじょう)に上り詰めた男である。母は帝の乳母(めのと)であり、幼いころより帝と兄弟のように親しく育ち、帝は彼を(りゅう)と呼んでいた。巷では龍の中将と呼ばれている。
「違ったのだ」
「違ったって? 梨壺の女御かい?」
 昨夜帝が慶子を寝所に呼んだことを知っている龍の中将は首を傾げた。
「あぁ、彼女は桐花姫ではなかった」
 慶子の入内には、帝が中将から八重邸に美しい歌声で子守唄を歌う女がいると聞いて、迎え入れた経緯がある。
 早く確かめたい気持ちが強かったが、違うとなると膨らんだ期待の分、落胆することは目に見えていた。
 慶子をすぐに閨に呼ばなかったのは、怖かったからだ。
 一昨日の夜、梨壺で出会った女が長年の想い人であると確信を得てからの昨夜のことであった。慶子がその女ではないとわかって、帝は失望していた。
「ふぅん、おまえも困ったやつだね。妻なんか誰でもいいだろう? 後宮にはおまえの声がかかるのを心待ちにしている女がごまんといるというのに。おまえみたいに一人の女にこだわっていると本当に世継ぎが生まれなくなるぞ。女たちも一向におまえから声がかからないものだから気を揉んでいることだろうよ」
「そうなればおまえの子を養子に貰い受ける」
 無茶なことをはっきりと言い切る帝に、中将は声を上げて笑った。
「それは母が喜ぶな。それなら俺も早く嫁を迎えるか。そうだ、梨壺に歌の上手い下女がいるらしい」
「梨壺の、歌が詠める下女?」
「そうさ、面白いだろう? おまえが昨夜呼んだ梨壺の女御の下女さ。下女風情が歌を詠めるなんて面白い。聞けば容姿の美しい女だというじゃないか、いつからか火傷を理由に尼のような格好をしているが、あれを妻の一人に貰っても悪くないかもしれない」
「おまえは物好きだ」
「思い出の幼女に恋をしているようなおまえに言われたくないね」
 中将の言葉に帝は不機嫌そうな顔になった。
「あれから十年以上もの時が過ぎた、彼女ももう成人している」
「ふぅん、まあなんでもいいさ。でも世継ぎは作れよ。皇子がいないとなるとジジイどもは誰を跡継ぎにするかで大騒ぎするからな」
「皇子がいたって騒ぐのだろう。母は私を産んだせいで死んだ」
「なにもおまえのせいじゃないさ」
 先の帝には十二人の妻がいた。瑛仁帝の母は父親の身分はそれなりに高かったが、母の身分が低かった。後宮においても位は低く、皇子を産んだ後は中宮(ちゅうぐう)を始めとした他の妃たちから執拗な苛めを受けていたのである。帝自身も長く肩身の狭い思いをしてきた。
 母は心を病み、後宮を離れることになった。別荘のある近江の地にて療養をしている間に病で亡くなった。痩せ細り、次第に美しさを失っていく母が哀れであった。
 帝は病勝ちの母に代わり、中将とともに乳母に育てられた。瑛仁帝の帝位継承権(ていいけいしょうけん)は低く、中将とは兄弟のように育った。
 近江へ赴いたのは、母の葬儀の時。誰にも泣き顔を見られまいと丘に登った時に桐花姫に出会った。
「ジジイどもが目を血眼にして帝位継承権の高い皇子たちで帝位争いをしていたっていうのにな、皇子たちが皆、流行り病で亡くなっちまって。なりたくもないおまえが帝になるなんて皮肉なもんだ」
「一つ上の異母兄を帝にしようとしていた左大臣はさぞ面白くなかっただろうな」
 日々運ばれてくる死への恐怖と戦い、望まずして手にした帝の地位である。周りに信じられる者といえば乳兄弟の中将のみ。あの手この手で自分にすり寄り、騙そうとしてくる大臣たちに手を焼いた。
「わかっていると思うが左大臣には特に気を付けろよ、皇子が次々に死んだのはおまえが呪いをかけたからだってまことしやかに言いふらしていたそうじゃないか」
「好きにさせておけ」
「そうもいくか、おまえ以外に帝の適任なんかいないんだからな。おまえにはもう少し頑張ってもらわないと」
「厳しいことを言うな龍は」
 孤独だった。その孤独を紛らわせるように、思い出すのは幼い日に出会った美しい少女のこと。自分を皇子とは知らぬ彼女は、なんの含みもなく真っ直ぐな心で自分を癒してくれた。その優しさがずっと帝を支えていた。
「弘徽殿を空けているのは、その思い出の女を迎え入れるためだろう? その女の身分だってわからないじゃないか? どこぞの馬の骨ともわからぬ女では弘徽殿に迎え入れるわけにはいかないぞ」
「身なりのよい格好をしていた」
「身なりだけじゃぁなぁ。地方には金だけは山ほど持っている商人だっているだろう?」
「姫様と呼ばれていた」
「じゃああれだ、当時近江を治めていた国守(こくしゅ)の姫だな。近江は大国、父親は誰だか知らんが今では正三位(しょうさんみ)くらいにはついているんじゃないだろうか? その姫ならゆくゆくは弘徽殿に迎え入れてもさほど問題ないだろう?」
 中将の言葉に帝は表情を暗くした。
「そんな姫はいなかった」
 帝はすでに調べをつけていたのである。近江の国守は流行り病に倒れ、都に戻る前に亡くなっている。その一人娘は血筋を頼ってどこかに身を寄せているはずであるが、それらしい姫はどこにもいないというのである。
「なるほどな。でもおまえ、昨夜は少し興奮した様子で梨壺の女御を待っていたじゃないか、それはどうしてだ?」
「それは――」
 帝は一昨日出会った女の話を始めた。
 雲間に見える月の美しい夜であった。帝は眠れずに後宮を散歩していたのだ。梨壺の近くを訪れたときに女の歌う声が聞こえて来たそうだ。その歌は、幼い日に聞いた少女の歌と同じだったというのだ。
「その歌なら俺も知っている子守歌だ。歌える女も多いだろう?」
「夏の日の桐のことを知っているようだった。あの少女と出会ったのは夏の日、花咲く桐の木の陰だ」
「ふぅん、それが梨壺でのことだったからって梨壺の女御だと勘違いしたのか? おまえらしくもない」
「早計だった、自分でも驚くほどに興奮していたのだ。あれを治療したのも慶子殿だと聞いたしな」
 帝は籠の中で大人しくしている鶯に視線を向ける。
「あの鳥が誤って逃げてしまったことがあったろう?」
「あぁ、烏にでも食われたかと思えば元気に戻ってきたようだな。運のいいやつだ」
「いや、傷を負っていたようなのだ。それを梨壺の慶子殿が助けてくれたと聞いたものだから、心優しい女に違いないと思ってな。今度こそと思ったが、違った」
 閨にやってきた慶子は近江のことなど一つも知らなかった。記憶違いかもしれないが、面影の一つもない。美しい女に違いはなかったが、本能がこの女は違うと訴えてくるようだった。
「あれが、あの少女であるはずがない」
 当然夜を共にする気にはなれず、早々に梨壺に帰すことになった。見間違いでなければ、帰り際に慶子が障子戸を蹴り飛ばしたようにも見えた。腹を立てていたのかもしれない。
「ふぅん。じゃあ梨壺の他の女を探してみろ。そうだ、ちょうど俺の気になっている頭巾の女も梨壺だ。今度宴でも開いたらいいんじゃないか。後宮の女たちを集めて桐花姫を探すと良い。他でもないおまえの想い人を探すために俺も協力してやる」
「なるほど……それはよい考えかもしれない」
 中将の言葉に頷いた帝はすぐに指示を出し、宴の準備に取りかからせた。
 後宮で宴が催されるという噂はあっという間に広まった。帝の声のかからない女ばかりなのである、みな目の色を変えたように躍起になって自らを着飾った。当然、慶子も例外ではない。
「咲! 何をもたもたしているの、早く私の髪を梳かしなさい! 香も焚いて! あぁ、麝香は駄目よ、以前帝にお目通りした際にあまり好印象ではないようだったわ、今日は白壇(びゃくだん)を焚き染めなさい!」
 一度は慶子に帝から声がかかったことで、しばらく他の女御たちからの嫌がらせがあったが、慶子はその嫌がらせすら気分がよいようであった。実際に男女の営みは何もなかったのだが、帝に呼ばれたという事実だけで、優越感に浸たることができたのである。
 だが、それも一度きりのこととなると今度は他の妃はおろか、女官たちも慶子のことを鼻で笑い始めるのだ。
「梨壺の女御は帝のお気に召さなかったのですよ」
「酷い癇癪持ちですもの、仕方がありませんよ」
「お父上の八重殿だって左大臣様に取り入っただけで、大した功績もありませんものね」
 こう噂されると慶子は面白くなかった。陰口を言う妃たちに面と向かって文句を言う勇気はないが、持ち前の気の短さを発揮して、弱い立場の咲子に当たり散らすのである。
「今回の宴で必ず帝の気を引いて見せるわ! 咲! いつものように私の足を引っ張るようなことをしたら絶対赦しませんから、心しておきなさい!」
 咲子はただただ慶子の𠮟責に耐え、慶子の支度を整えるのだった。慶子の仕度を整え終わると、自分の支度は手短に終える。
「やっぱりおまえは出なくていいわ。おまえのように醜い女を連れているなんて帝に知れたら私の格が下がるのよ。奇妙な頭巾のおまえは宴には出ずにここで大人しくしていなさい」
 すっかり支度を終えた慶子はそばに侍る咲子を上から下まで値踏みするように眺めるとそう告げた。
 小綺麗にした咲子にはにじみ出る気品があり、たとえ頭巾を被っていたとしても気を引くものがあった。慶子は万が一にでも帝が咲子に興味を抱かないよう、咲子をのけ者にしたのだ。
「わかりました、梨壺のお留守を預かっております」
 咲子に異論はない。以前の宴のように、下手なことをすれば慶子の怒りを買ってしまう。表に出なくて良いのならば、それに越したことはなかった。
 父が存命であったならば、類まれなる咲子の歌の才能は大いに発揮され、咲子の美しさをより一層際立たせるものになっただろう。
 だが、その美しさも才能も、自分よりも優れた者を憎む慶子の下では余計なものでしかなかった。
 どうやら宴が始まったようだ。遠くから聞こえてくる楽しそうな笑い声や、優雅な楽器の音などは、今の咲子にはあまりに場違いなものに感じられた。
「近江に帰りたい――」
 一人梨壺に残った咲子は東の空を見上げた。本当に近江に帰りたいわけではない。今の近江に戻ったところで、咲子を迎える者は何もないのだ。
 もう一度、あの頃に戻ることができたらよいのに……。
 あの夏の日の美しい思い出を胸に、咲子は東の空を見上げるのだった。

 内裏の西側では後宮の女たちの集まる盛大な宴が催されていた。宴には妃たちの家族や帝に近しい殿上人なども呼ばれ、賑わいを見せている。宮廷楽師たちの奏でる笛や琵琶の心地よい音色が宴をより一層盛り上げていた。
「帝はどちらにおられるのかしら」
 少しでも帝の目に留まろうと、女たちは血眼になって辺りを見回していた。だが、帝らしい人物の姿はどこにもない。
「まだ来ていらっしゃらないのかもしれないわ! まったく、帝がいらっしゃらないならこんな宴など時間の無駄よ!」
 慶子もまた苛立ちを隠そうともせず、悪態をついていた。咲子が居ないので辺り散らす相手がいないことも慶子の苛立ちを助長した。
 しばらくして、上座に帝らしき人物が姿を現した時には、ほっとしたように胸をなでおろし、今度は目に留まろうと必死で近くに寄ろうとするが、周りに侍る護衛が多くて近寄ることもままならない。
 日差しを遮るための扇と傘のせいで、姿すらろくに見えないものだから慶子は余計に腹を立てた。
「帝からこちらの姿は見えているのでしょうね! あぁ、せめてもう少し近くに寄ることが出来たら――!」
 護衛たちを忌々しく思いながらも、何もできない現状に苛立つばかりであった。

 いったい帝はどこにいるのか――実のところ、宴の始まる前に、帝は秘密裏に龍の中将と衣を取り換えていた。
「これでおまえは俺として自由に女たちを見て回ることが出来るだろう? 感謝しろよ」
「あぁ、感謝しているさ龍。おまえを取り立ててやらないといけないな」
「いやぁ、これ以上上に行くとジジイどものやっかみが酷くなる。特に左大臣のジジイだ、あれが居なくなったら俺を持ち上げてくれたらいいさ」
「お安い御用だ」
 護衛には代理を立てることを説明している。帝の顔などろくに見たことのない妃たちは、万が一顔を見たところで帝であるのか龍の中将であるかの違いなど判らないだろう。
 帝は龍の変装に満足すると、宴の中に紛れて行った。
 宴の席に集まった妃たちは皆ピリピリと苛立っているのがわかった。なるほど、帝の姿が見えないので苛立っているのだろうと容易に予想が付く。
「まったく、一体いつになったら帝は声をかけて来てくださるのかしら」
「せっかく着飾ってきたというのに、本当に退屈だわ!」
 妃たちはみな面白くなさそうに悪態をついていた。こうも苛立ちを表に出されては、せっかくの美貌も教養も台無しだと帝は失笑する。
 帝としての私の前では取り繕うのだろう。だが、なんの地位も持たぬ『私』の前では本性が出るということか。これは悪くないかもしれない。
 帝はそう思い、桐花姫を探す傍らで真剣に妃たちの観察を行った。互いの視点が変われば、自分の妃にはどういった女がいるのかがよくわかる。
「あちらの女官の髪飾りをご覧になって、なんて下品なのでしょう」
「それならあちらのお着物も大変趣味が悪い」
 退屈を紛らわせようと、妃たちは互いに陰口を叩いては笑い合っている。清涼殿で会う姿とはずいぶんと異なる姿に驚きを通り越して呆れてしまった。
「いったい帝はいつになったらこちらにいらっしゃるのかしら! あぁ腹立たしい、こんなことなら退屈しのぎにあののろまを連れてくるんだったわ!」
 梨壺の慶子などは苛立ちを隠そうともしていない。閨に呼んだ日のしおらしさはどこへいったのかと呆れるばかりだ。
「やはり、彼女が桐花姫であるはずがない」
 そう結論付けるとともに、中将の言う頭巾の女の姿が見当たらないことに首を傾げた。
 身分の垣根なく後宮の女をみな呼び寄せたはずである。頭巾を外しているのだろか――だが、火傷の痕のある女など見当たらなかった。
 あまりに執拗に梨壺の女たちを見て回っていたからだろう、ついに慶子に腹を立てられた。
「帝の妃である私をジロジロと見るなどと、なんと無礼な男でしょうか! 私は梨壺の女御ですよ、おまえのような男に見初められるような下賤の女ではない! おまえは女官にでも声をかけて居たらよいのです、早く立ち去りなさい!」
 青筋を立てた慶子にピシャリと言い放たれ、帝は宴の席を離れることにした。
「酷いものだ、慶子殿はかなり気性が荒いようだな」
 宴の席を離れ、後宮に戻ってきた帝は苦笑いした。
閨と今では人が違うようではないか――。
女というのは実に恐ろしいと呆れるばかりだった。顔を見ているはずなのに、自分のことが帝だとわからないことにも呆れ返った。
 慶子殿は、『私』ではなく『帝』を見ていたのだ。
 慣れたことだと思いつつも、あの日の少女が恋しくなる。足は自然と東へと向かい、梨壺へと来ていた。月のか細い夜に出会った女が、もしかしたら残っているのではないか――そんな予感がしたのだ。
 だが、梨壺にその姿はなかった。帝は自分の思い違いに苦笑いして、諦めて戻ろうとしたその時だ。
「あれは――」
 聞き覚えのある歌が聞こえた。幼い日に聞いた子守歌である。歌声は北側の桐壺から聞こえてくる。
 今の後宮において、桐壺は空席であるはず。いったい誰だ……?
 足音を殺して近づいてみると、東の空を見上げながら歌を歌っている女がいた。
 ずいぶんと見すぼらしい格好をした女である。だが、艶やかな黒髪に、強い光を宿した瞳の、それはそれは美しい女だった。 
「あなたは――」
 数秒見とれてから思わず声をかけると、女は慌てた様子でひれ伏した。
「申し訳ございません、勝手に別の庭に来てしまって」
「咎めたわけではない。あなたはどこに仕えているのか、教えてくれ」
 女を怯えさせないよう、努めて優しい声を出した。すると、女はゆっくりと顔を上げた。横顔も美しかったが、正面から見ると尚一層美しい。着飾ればどの妃も及ばない美貌の持ち主だと思った。
 何より面影がある。自然と拍動が早くなった。
「私は梨壺の慶子様に仕えております」
「もしや、以前近江の国にいたことはないか。湖の近くに」
 耐え切れずに尋ねると、女は目を見開いた。
「どうしてそれを――」
 やはり、やっと、やっと見つけた――! 帝は女を今すぐにかき抱きたくなる衝動を必死に抑えた。
「幼い日に、桐の花の下であなたの歌声を耳にした者を覚えているか。あの幼子は私だ。ずっと、あなたを探していた。どうしてももう一度あなたに会いたくて……どうか、名前を教えてくれ」
 だが、女はなかなか口を開かない。
「教えてくれ」
 もう一度請うように尋ねると、女はようやく口を開いた。 
「……咲子と申します」
「咲子、やっと名前を知ることが出来た。どうか今一度あなたの歌を聞かせてくれ」
 請われるままに歌を歌い始めた女は、仕舞には涙を流し始めた。その涙につられるように、帝も涙を流す。
 歌い終わると、女は帝の背に手を当て、ゆっくりとさすり始めた。温かな手であった。
「あなたも、お辛いお立場におられますか? どうか今はそのしがらみを取り払い、心穏やかにお過ごしください」
 女の言葉は、その歌声と同じように温かなものであった。帝は涙に濡れたその頬に手を当てる。こんなに美しい女は見たことがなかった。容姿だけではない、その心根も美しいと思った。思惑の渦巻く後宮で、初めて裏も表もない優しさに触れた。
「あなたも辛い立場にあるのだろう? 今日は宴が催されていたはず、それなのになぜあなたはここに残っているのか? それに……」
 帝は咲子の痣だらけの手に視線を落とし、顔を歪めた。痛々しい痣だ、きっと、辛い目に遭っているのだろうと容易に想像がつく。
「私は大丈夫ですよ。今日は体調が優れず、私の方から宴に参加しなくてもよいよう慶子様にお願いしたのです」
 だが、帝の心配を消そうとするかのように女はほほ笑んだ。すぐにわかる嘘だ、気丈に振舞う女を、帝はより一層愛しく思った。
「咲子、私はあなたを妻に迎えたい。この苦境から、必ず私が救い出す」
 一度強く抱きしめ、思わずそう口にすると、女は儚げな表情を浮かべ、首を横に振った。
「どのように高貴なお方か存じませんが、なんの後ろ盾もない卑しい身分の私などがあなた様の妻になることなど、望めることではありません。今一度、お会いできただけで、私は救われました。もう十分幸せでございます。ずっと、お会いしたかった――。その夢がようやく叶いました。さようなら」
 女はそのまま帝の手をすり抜けて、霧のように消えて行った。背を撫でてくれた温かな手のぬくもりだけが残る。幻のように消えた女は、帝の心に一層強く残った。
 短い逢瀬のあと、火照る体のまま咲子は乱れた心を整えた。
 どうしよう、本当に会ってしまった……。しかも、その腕に抱かれる日が来るなんて、想像もしていなかった。
 十年以上も思い続けた彼の人に、後宮で再会できるとは思いもしなかった。それも、あまりに美しい青年に成長していたのである。一瞬でもあの腕に抱かれたのかと思うと、頭はのぼせ上がるばかりであった。
「もう一度あの人に会うことが出来るなんて、夢みたい。ここにいるということは、帝に近しい殿上人の方々――彼の人はあのようにお声掛けをしてくださったけれど、本来なら私のような下女がお目通りできるようなお人ではないはず。今度こそ、もう二度と会うことはない……。大丈夫、私はこの思い出だけで十分幸せです」
 咲子は体に残る男のぬくもりを思い出して首を横に振り、湧き上がる思いを胸に秘めた。もう、二度と会えることはないだろうと――。
 宴から戻ってきた慶子は不機嫌であった。咲子を見るなりあれをしろ、これをしろと散々命令をしてから、自分は梨壺で寛ぎ始めたのである。
 ここまではいつものことである。だが、今日に関して異なっていたことと言えば、慶子が目ざとく咲子の機嫌のよさに気がついたことである。どことなく色気を帯びた咲子が一層美しく見えたのも面白くなかった。
「おまえ、私がいない間になにか悪さをしたんじゃないでしょうね!」
「そんな、滅相もありません」
 咲子はそう言ったが、慶子の不機嫌さが直るはずもない。慶子は鋏(はさみ)を取り出し、咲子の美しい髪を鷲掴みにした。
「この見苦しい髪を少し切ってあげましょう!」
「おやめください!」
 抵抗する咲子を押さえつけ、慶子は咲子の美しい髪を切り刻んでしまった。
 美しかった髪は無惨に切り刻まれ、辺りに散らばる。
「咲、その汚らしい髪をさっさと片付けておしまいなさい。一本でも取り忘れたら赦しませんよ!」
 これには咲子も大層ふさぎ込んでしまった。
 お父様がいつも美しいと褒めてくれたお母様似の髪だったのに……こんな無様な姿になってしまった……。
 無惨に散らばる髪を片付けながら、悲しみの色を滲ませる咲子を見て、慶子はようやく腹の虫もおさまったようである。上機嫌に歌などを口ずさみながら菓子をほおばった。

 その夜のことである。誰もいない桐壺まで来た咲子は頭巾を目深に被り、欠けた月を見ていた。
 元気を、出さなくちゃ……泣いてなんかいたらだめよ。
 だが、今まで自分を勇気づけようと歌っていた歌すらも声にならない。
 どうしよう涙が止まらない……。
 艶やかな黒髪は尼のように短くなっていた。こらえきれない涙が止めどなくあふれ出る。
「いっそ、このまま出家してしまいたい」
 そう涙ながらに声に出した時のことである。
「それはだめだ」
 昼間に聞いた愛しい人の声がした。このような姿になってはもう会わせる顔などありはしない。咲子は頭巾を深く被り、その場から逃げようとした。だが、その手を男に掴まれる。
「待ってくれ我が君。逃げないでくれ。ただでなくとも夜の闇があなたの姿を隠してしまうというのに、どうしてそのような頭巾を被っているのか教えてくれ」
「……お許しください、あなた様に見せられるような姿ではございません」
 涙ながらに答えると、頭巾の隙間からざっくりと切られた髪が流れ落ちた。
「髪を、切られたのか――」
「……」
「誰がこんなことを――いや、尋ねるのは愚問だろう。あなたが苦境にあることをわかっていたというのに、今まで何もできなかった自分が赦せない」
 男は苦しそうな表情でそう言うと、熱のこもった瞳で咲子を見つめた。
「愛しい我が君、どうかもう少し辛抱してくれ。私は必ずあなたを迎えに来る。このような闇の中ではなく、明るい日のもとで」
 優しく力強い男の声に、咲子は一層苦しくなった。
 このような無様な姿、絶対に見られたくなかった、この人にだけは――。せめて、この人の中では、美しい思い出でありたかった……。もうこの場から消えてしまいたい――!
 自分があまりにみじめに思え、咲子は首を横に振った。
「いいえいいえ! このような見苦しい髪の女を、誰が娶るものですか! もうよいのです。私のことなど、もう忘れてください。どうか――」
 泣きはらす咲子を、男はしっかりと抱きしめてきた。嫌だ嫌だと抵抗していた咲子は、男の心臓の音を聞いて次第に落ちつきを取り戻す。しばらくすると、とめどなく頬を伝っていた涙もようやく止まった。
「やっと泣き止んでくれたな、桐花姫――いや、咲子」
 月明かりに照らしだされた美しい男の顔は、優しく微笑んでいた。
 あぁ、この人はこんなにも美しいのに……。
 そう思うと、再びこみ上げてきそうになる涙を必死に飲み込む。これ以上、愛しい男に心配をかけたくはなかった。
 男は強い意志を持った眼差しで咲子を見つめてくる。
「私は、あなたを傷つける者を決して赦さない。そのために与えられた天からの力なのだろう。今までは不要と思っていたが、今ほど自分の地位を頼もしいと思ったことはない」
 咲子には男の言葉の意味が少しもわからなかった。ただ、意を決したような男の顔は、いっそう精悍に見える。
「どうかこれ以上涙を流さないでくれ。私はあなたを必ず救い出す。だからもう悲しむな。私を信じて待っていてくれ」
「ですが私は……」 
「自分を大事にしてくれ、これ以上痩せ細ってしまっては、抱きしめる度に折れてしまいそうだ。この髪も、私がいずれもとの美しい髪に戻してやる。だからもう安心して良い」
「そのような無理を仰らないでください。よいのです、私は、この思い出だけで十分なのです……」
 自然と涙が流れ落ちる。涙に濡れた瞳で男を見ると、男は苦しそうに顔を歪めて咲子をかき抱いた。
「どうか、泣かないでくれ」
 男は咲子を抱きかかえると桐壺の扉を開けて中に降ろした。男は咲子が腰かけた場所の隣りに座ると、空を見上げる。
「あの月は、近江で見たものと同じだ。私たちも、あの日と何も変わらない」
 柔らかい光を放つ月が、空からこちらを照らしている。男の言葉に、咲子は首を横に振った。
「いいえ、私は変わってしまったのです。変わらざるを得ませんでした」
 咲子は視線を落とすと切られた自分の髪を見つめた。なんの不安もなく、父に守られ天真爛漫(てんしんらんまん)だったあの頃とは、何もかもが違う。
 見窄らしい着物に、無残に切り刻まれた髪。手は赤切れだらけ、体中には赤黒い火傷の痕――。
「この後宮に、私よりも醜い女はいないでしょう」
 咲子が独り言のようにつぶやくと、男は咲子の手を取った。
「咲子、あなたは美しい。この後宮、いや、どこの国を探しても、あなた以上に美しい人などいるはずがない」
 雲が途切れ、月明りが辺りを照らす。美しい男の顔が視界に入ると、咲子は恥ずかしくなって。つながれた手を振りほどいた。
「いいえいいえ! どうかお許しください、私のような醜い下賤の者――どうかお捨て置きください。このような醜いさまをあなたに見られるなど、耐えられないのです」
 あなたのことを愛しいと思えば思うほど、自分がみじめで悲しくなる。
 再び涙があふれてくる。両手で顔を覆い再び泣きじゃくる咲子に、男は優しく声をかけてくる。
「咲子、私はずっとあなたに支えられてきた。辛い日々を乗り越えてこられたのは、あなたとの思い出だった」
 男の言葉を聞いて、咲子ははっと顔を上げた。
「私も、同じです。辛い日々、思い出すのはあなたとの近江の思い出でした。あなたは、私の希望でした……」
 咲子の言葉に、男は優しい笑みを浮かべた。
「ずっとあなたのことを想って来た。その想いは、髪の毛の長さや身分の違いごときで変わるはずがない。咲子、ここに在るのは想い合う男と女でしかない。今だけは、心のままに振舞っても、誰にも咎められることはないのではないか?」
「私は……」
「私は、あなたのことが好きだ」
「私も、ずっとお慕いしていました。あなたのことを、ずっと……」
 咲子の頬に男の手がそっと触れる。流れる涙を拭い取ってから、男は名残惜しそうに顔をゆがめた。
「そろそろ戻らなければならないのが口惜しい。このままあなたと夜を過ごすことができたらどんなに幸せだろうか……。もう少しだけ待っていてくれ。必ず、あなたを迎えに行く、私を信じろ」
 男の言葉に、頬を赤く染めた咲子は首を横に振った。
「どうか無理をなさらないでください、私はもう十分幸せです。あなたの言葉で、私は救われました。これ以上は、私には不釣り合いの幸せというもの――」
 そう言って笑顔を見せる咲子の頬を涙が伝う。男は顔をゆがめ、咲子をもう一度固く抱きしめると名残惜しそうに咲子を見つめた。
「どうか忘れないでくれ、私があなたを愛しているということを」
 再び月が雲に隠れると、男はそう言い残して暗闇の中へと去って行った。
 もっと美しい私でありたかった……。 
 三度目の逢瀬の喜びよりも、見苦しい髪を見られたことの方が悲しかった。体に残るぬくもりを愛しいと思うと同時に苦しいと感じる。
 あの人を信じたい。だけど、叶うはずがない。私のような女を妻にするなど、無理に決まっている。期待など、してはいけない。あの人が私にくれた温かな想いだけで、私には十分だ。
 愛しい彼の人は、決して結ばれることのない相手なのだからと咲子は自分に言い聞かせた。
 明くる朝のことである。清涼殿に顔を見せた中将は帝がいつになく上機嫌であることに気がついたようだ。
「おい、どうした、気持ちが悪いくらいに機嫌がいいじゃないか」
「おはよう龍。そうだな、私は今日、これまでの人生で最も機嫌がよいと言っても過言ではない」
「へぇ、それは面白い。何があった? まぁ、概ね見当はつくがな」
 帝の顔つきを見て中将には何があったのか大方わかったようである。
 帝は押し黙って思案したような顔になるとしばらく沈黙した。それから、涼やかな瞳で前を見据える。
「龍、私はこの時のために帝になったのだとさえ思う」
「おいおい、大袈裟だな」
「龍、私はやっと見つけたのだ、あの少女を」
「まぁ、そんなところだろうと思ったよ。よかったな」
「あぁ、桐花姫はおまえの言っていた頭巾の女だった。おまえには悪いが、彼女は私が妻に迎える」
「それは構わないが……あれは梨壺の女御の下女だろう? 弘徽殿には迎えるのは到底無理だ」
「問題はそこだ」
 中将の言う通り、女を妻に迎えるためには大きな障害があった。
「彼女を右大臣家の養女に出来ればと思っているのだが、今の朝廷では左大臣の力が強すぎる」
「この状態で右大臣が娘を迎え、おまえの中宮にでもなろうものなら左大臣は黙っていないだろうな。下手をすればその下女が暗殺されるかもしれない」
「そうなんだ、だからどうすべきかと悩んでいる」
 咲子を妃に迎えるという選択肢は絶対に譲れない。だが、自分の我がままで咲子を中宮にすれば、あまりに反発が大きいだろう。そのしわ寄せは必ず咲子にいく。
 帝は頭を悩ませていた。
「彼女を守りたいが、手放す気はさらさらない」
「珍しくおまえが我がまま言うものだな。実によいことだ、そういうことなら俺も知恵を絞ってやろう」
 帝と中将は、秘密裏に咲子を妃に迎えるための算段を立て始める。話が決まると、帝は一つ中将に言づけた。
「一つ、咲子に手紙を書く」
「手紙だと?」
「もう一度彼女と話しがしたい。だからおまえに一肌脱いでもらいたいんだ、手紙が誰の目にも触れずに咲子に渡るよう手を回してくれ」
「人使いの荒い奴だな」
 帝の言葉に、中将は嬉しそうなため息を漏らした。

 咲子のもとに、一通の手紙が届いたのは、男と会ってから数日後のことである。 
 中には一言、「桐花姫、今夜桐壺に来てほしい」とだけ書いてあった。差出人は容易に想像がつく。咲子は悩んだ。
 もう一度彼の人に会えば、自分はきっと今度こそ離れがたくなってしまう。だめだとわかっていても縋ってしまうかもしれない。彼の人は私を妻にと言ってくれたけれど、それが非常に難しいであろうことは誰よりも私が一番よくわかっている。だから、もう会わない方がいい。
「行くのはやめよう」
 そう固く誓った。会ってしまえば未練が残るだけに違いない、往生際の悪いことはやめようと、咲子は男に会いたい気持ちを諭した。
「こちらに咲子という娘はいますか?」
 そろそろ眠りに就こうかと、慶子の支度をしていた時、一人の女官が梨壺を訪れた。
「咲子ならそこにいるわ。咲子がどうかしたの?」
 慶子が咲子を指さすと、女官は咲子に仕事を命じた。
「梨壺の女御、この者に桐壺の掃除をさせよという命令がきております」
「掃除を? 今からしろというの?」
「はい、今からでございます」
 こんな夜から仕事をさせられるなど、何かの罰だろう。だが、咲子には思い当たる節がなかった。
「もちろんいいわ、朝までこき使ってやってちょうだい。咲、きちんと桐壺の掃除をしてきなさい。一睡もしては駄目よ。もちろん朝からは当然いつも通り私のもとで働くのよ」
 にんまりと嬉しそうに笑う慶子にそう言われ、咲子は隣りの桐壺に赴く。どこから掃除を始めようかと扉を開けたところで、誰かが近くにいる気配がした。
 誰……!
 咲子が月の光を頼りに暗闇の中を探すと、心地よい低音が響く。
「よかった、来てくれたな」
「あなたは……!」
 咲子は大きな声を出しかけて、はっとして声を沈める。桐壺では、愛しい男が待っていた。
「私はここの掃除を命じられて来たのです。どうしてあなたが……」
「もちろん、私が掃除を命じたからだ。手紙を出しはしたが、こうでもしないと、あなたのことだから桐壺には来ないだろうと思ってな」
 咲子はすっかり心の中が読まれていることに驚いた。
 この人は、私のことなど全てお見通しなのだ。私は、この人のことを何も知らないというのに……。
「無礼を承知でお尋ねします。あなたは、一体何者なのですか?」
 咲子の言葉に、男は酷く驚いたような表情になる。
「私のことを知らないのか……」
「も、申し訳ありません……! 私には教養がないのです」
 男の気分を害したのだろうと思い、咲子はひれ伏した。だが、男の声は酷く優しい。
「どうか顔を上げてくれ。そうか、あなたは私が何者であるのか知らずにいたのか」
 男に促されてゆっくりと顔を上げると、男はどこか嬉しそうな顔をしていた。
「咲子、人は私のことを帝と呼んでいる」
 その言葉を聞いて、咲子は驚きのあまり眩暈がした。
 私はなんて無知だったのだろう! まさか、帝だったなんて……。そうとは知らず、私はなんて恐れ多いことを……!
 そもそも帝と面と向かって会話をするなど恐れ多いと、慌ててその場にひれ伏す。
「愚かな私はあなた様が帝であるなど露知らず数々の御無礼を……どうか、どうかお赦しください! この罪は私だけのもの、どうか梨壺の女御のことをお叱りにならないでください」
 思わず声が震えた。後宮で再会してからのこと、また幼い日の出来事を思い出す。帝であるとは少しも思わず、数々の非礼が頭を過った。
「頭を上げてくれ、私は少しも腹を立ててはいない。むしろ嬉しいくらいだ」
 帝の言葉は本心からの物だろう。咲子の目に、穏やかにほほ笑む帝の顔が写る。
「あなたにどうしても話しておきたいことがあったのだ」
「私に……ですか?」
「そうだ、先日話したことを覚えていてくれているか?」
 帝の言葉に、咲子は顔を赤らめる。
「私を、迎えにいらっしゃると……」
「そうだ。私は必ずあなたを迎えに行く。だが、今は少し状況が悪い。この国では私の思い通りになることが思ったよりもずっと少ないのだ」
「帝ともなると、私の想像もできない苦労がおありだとお察しします」
「いや、帝といってもそんなに偉いものではないということだ」
 咲子の目には、帝が悲しそうに笑ったように見えた。
「だが、今回ばかりは少し無理を通す。だから、信じて待っていてくれ」
「……帝のような高貴なお方が私のような女を妻にするのはやはり難しいと思います」
「そう言うな、私を信じてくれ」
 咲子は揺れる瞳で帝を見つめた。
本当に、信じても良いのだろうか――。
「どうか、私の我がままを聞いて欲しい。私は必ずあなたを妻にする。あなたのことだけは、他の誰にも譲らない」
 だが、咲子は首を横に振った。男がどのような身分であるか知りもしなかったが、まさか帝その人であったとは――。
 自分とではあまりに不釣り合いである。それこそ、月のように遠い存在だと思った。
 帝が自分のような下賤の女を妻にするなど、周りが認めるはずはない。このことが帝の地位を揺るがすことになってもいけない。
 どうか、ご自分の立場を危うくするようなことはなさらないで……。
 咲子は祈るような気持ちだった。
「私はそろそろ戻る。咲子は少し桐壺で休んでから戻るといい。桐壺はもとより掃除など必要ないのだから」
 帝は咲子にほほ笑みかけると、桐壺を去ろうとする。咲子はその背に声をかけた。
「どうか、どうかお気をつけてお帰りください」
「あなたも」 
 だめだとわかっていても、離れがたくなってしまう――。
 桐壺から離れていく帝の後姿を、咲子はいつまでも見送っていた。

 その夜から一月ほどが過ぎた日のことである。慶子のもとに帝の使いが来た。閨への誘いではと喜ぶ慶子に下されたのは離縁であった。
「いったい、私がどんな粗相を!」
 金切り声をあげる慶子に告げられたのは、「桐壺の更衣への度重なる非礼である」という言葉だった。
 桐壺の更衣など初耳の慶子は使いの者に食い下がる。
「桐壺の更衣など、この後宮にはまだおられなかったはずです! 帝の思い違いかと!」
「いえ、桐壺の更衣はあなたとともにすでに入内されていたのです」
 そう述べた従者は頭巾を目深に被る咲子のもとに跪いた。
「桐壺の更衣、帝がお待ちでございます」
 それを聞いた慶子は大声を張り上げた。
「咲が桐壺の更衣ですって! なにかの間違いです! これは私の叔母の子! 父親はとっくの昔に病で亡くなっています。そんな何の後ろ盾もない娘が更衣とはいえ帝の妃になどなれるはずがない!」
 金切り声をあげる慶子の前に、すらりと背の高い人影が現れる。
「やはり慶子殿、あなたは知っていたのか、かの姫が自分の従妹であることを……赦し難い」
 姿を見せたのは帝、その人であった。
「血のつながりのある姫をあなたは下女としてぞんざいに扱った。姫の存在をこの世から消して――。私はずっと探していた。私の妃を――」
 帝は咲子の手を取った。その声を聞き、咲子は震え上がるほど驚いていた。帝が、本当に自分を迎えに来てくれたのだと。
「我が君、約束通り迎えにきたぞ」
「そんな、恐れ多い……あなたの妻など、私には分不相応です」
「いや、そんなことを言われては困る。私にはあなたが必要なのだ。お願いだ、どうか私の妃になってくれ咲子」
「そんな……そんなことが……あってよいはずがありません」
 咲子は両の手で顔を覆って泣き出した。
「泣かないでくれ咲子」
 帝は咲子を優しく抱きしめ、その背を優しくさすり始める。かつて、咲子が帝にそうしたように。温かなぬくもりに包まれ、咲子は次第に落ち着きを取り戻したようで、涙を拭った。
「さぁ、身なりを整えないといけない。あなたの髪に合いそうな(かもじ)もようやく用意できたのだ。あなたの美しい髪には遠く及ばないが、もとのように伸びるまで少しの間我慢してくれ。髪が伸びるまで待てば良いのかもしれないが、私は今すぐあなたを妃に迎え入れたい。どうか、頷いてくれ」
 帝の言葉に咲子は戸惑った。自分を妻に迎え入れることは容易ではなかっただろう。帝がどれほどの苦労を重ねてくれたことか、またこれからどれほどの犠牲を払うことになるのか――。
 そう思うと、思いのままに頷いてよいのか悩んでしまう。
「こんな幸せなことが、あってよいはずがありません」
「あってよいのだ。これは、私が心から望んだことなのだから」
 帝の熱い眼差しを受け、咲子は戸惑いながらも頷いた。
「よかった、ようやく頷いてくれたな。さぁ、こちらへ」
 帝に連れられて梨壺を出ていく。慶子のそばを通りすぎた時、絶望の眼差しで咲子を見つめる慶子と目が合った。
 慶子のこれからを思うと慶子が哀れに思えてくる。
「そのような目で見ないでちょうだい! あなたなんか、すぐに捨てられてしまうのが目に見えているわ!」
 慶子が咲子に向かってそう叫ぶと、帝は酷く冷めた目で慶子を見た。
「慶子殿を八重邸に連れていけ」
「お待ちください帝、私は、私はあなたをお慕いしております。心から……! ですから、どうか離縁だけは……!」
「おまえの言葉に真実はない。後宮から去れ」
 帝に冷たく突き放され、慶子はその場に泣き崩れていた。
 帝に離縁され、実家に帰らされた慶子であったが、父の八重殿は左大臣に見限られて失脚し、その職を失っていた。
 没落貴族となった八重殿一家は屋敷を追われ、その行方を知る者はいないという。
 帝の手によって桐壺に足を踏み入れた咲子は、目の前に広がる景色に目を疑うばかりだった。美しい着物や装飾品に、侍る女官たち。
「質素なものばかりで申し訳ない。本当はもっと良い部屋を用意したかったのだが……」
 謝る帝に咲子は首を横に振った。
「とんでもございません。身に余るものばかりです、本当に、夢のよう……本当に、私などでよいのでしょうか?」
「往生際の悪いことをいうな。夢ではない。私はあなたがよいのだ、あなたでなくてはならないのだ。さぁ、みんな、私の妃を着飾ってくれ」
 帝に指示されるとすぐに女官たちは咲子を着飾り始める。
「桐壺の更衣、まずは体を綺麗にいたしましょう。髪を洗って、長さも整えて、美しい髢もありますから」
「大丈夫ですよ、自分で出来ます」
「そう仰らないでください。私たちの仕事がなくなってしまいます。さぁ、身なりを整えましょう」
 咲子は女官たちに言われるまま、遠慮がちに頷く。体を拭き、髪をすき、切りそろえると、あっというまに咲子の美しさが際立った。
「肌理の細かい美しいお肌ですこと。傷が癒えたらもっと美しくなられることでしょう」
「真っ白いお肌には何色の着物でも似合いそうですね、桐壺の更衣、お召し物は何色になさいますか」
「私は今のままでかまいません。そのような上等な着物を着るわけには……」
 咲子が戸惑っていると、女官は首を横に振った。
「なにを仰いますか、帝のお妃がそのような格好でどうします」
「ですが……」
 部屋に用意されている着物はどれも上質で美しく、自分にはとても似合わないような気がする。
「お選びいただけないのでしたら、私の方で更衣に似合うものをお選びしましょう。そうですね、薄紫色の着物が一番お似合いになると思いますよ」
「よいですね、帝もこれが似合うだろうと仰っていましたよ。あぁ、焚くのは何の香りがいいでしょうか」
 楽しそうに着飾ってくれる女官たちの手によって、咲子はあっという間に美しい姫君になった。
「本当にお美しいですわ、桐壺の更衣」
「みなさん、ありがとうございます」
 深々と頭を下げる咲子に、女官たちは優しく微笑んだ。
「桐壺の更衣、堂々となさってください。私どもに頭など下げなくともよいのです。私どもは、桐壺の更衣のお(そば)(づか)えに選ばれてとても光栄に思っているのです。桐壺の更衣は、今や帝の寵愛を一身に受ける存在なのですから」
「いいえいいえ、とんでもございません。それに、お礼はきちんとしたいのです。どんな間柄であっても、それが当たり前だとは思いたくありません」
 慌てた様子で答える咲子に、女官たちは優しい笑みを向けた。
「帝が部屋の外でお待ちですよ、いってらっしゃいませ」
 美しく着飾った咲子を前に帝は目を細めた。
「まるで天女のようだ」
「実感がわきません。私が、本当にあなたのお妃になれるだなんて……」
「まだそんなことを言っているのか。どうしたらあなたに信じてもらえるのだろうか。そんなに疑って、このまま、物語の天女のようにいつか私のもとからいなくなったりしないだろうな」
「私からいなくなることはありません。決して……!」
 懸命に訴える咲子に、帝は優しい笑みを向ける。それから、小さくため息をついた。
「もっと長く一緒に居たいのだが、仕事を片付けに行かねばならない。咲子、今日は桐壺でゆっくり休んでくれ」
 名残惜しそうに桐壺を去っていく帝の後ろ姿を、咲子はいつまでも見送っていた。