名前の知らない恩人。澪がつけた名前を借りると、あんぱん先輩。
一昨日に続いて、昨日のお昼も助けてもらった。今日こそは、お礼をする。
三つの教室を巡るも、見つからない。
渡り廊下を辿って、昨日出会った購買部。先輩に用があるのかと三年生の教室。とりあえず、目についた順に探していった。けれど、見つからない。
ふぅと息を吐いて、お弁当の鞄を左手に持ち変える。地味に、ビニール袋が指の関節に食い込むのが痛くなってきた。
ふいに外から元気な声が聞こえて、まだ中庭や校庭、体育館を見ていなかった事に気付いた。
「……」
何度か通った渡り廊下へ行って、窓の外を眺める。
遠くの校庭はあまり見えなくて、中庭に目を向ける。――瞬間、とても純粋で綺麗なものしかないような空気が、私の肩をすり抜けていった。
居た。そこにいた。
先輩の背よりも高い花を、先輩は涼やかな表情で見つめていた。
一瞬で考えた近道を、熟考するよりも先に、足が動き出していた。
普段ならしない、廊下を走って、息の方が追いつかない。三つ目の曲がり角を曲がって、突然、視界に飛び込んできた。
「わっ」
避けきれずぶつかって、走った勢いが跳ね返ってくる。やっぱり、廊下は走らない方がいい。
後悔しながら痛みに構えて強張った体が、ふいに、涼やかな香りと一緒に温もりに包まれた。
「ごめん、大丈夫?」
頭上から、焦ったような声が降り落ちてくる。左の手首を、少し湿った手が掴んでいた。
返事が出来ずにいると、両手で優しく体を離し、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? 怪我とか、してない?」
「……」
「もしかして、足挫いた?」
首を振って、無言で答える。喉を失ったみたいに、声が出てこない。
それでも両手を握り締めて、背の高い先輩を見つめると、耐えきれない様子でふっと出た。
「どうして、中庭に」
「中庭?」
順序の整ってないそれに、先輩は戸惑う。先輩以上に、私は動揺していた。
「あなたを、探していました。あんぱんと、助けてもらったお礼を渡すために」
咄嗟に、ビニール袋を胸元まで持ち上げる。そこでようやく、お弁当の鞄が消えていることに気付いた。
「そんなの、全然いいのに」
辺りを見渡すよりも早く、先輩は私の横を通り過ぎて、背後に落ちていた鞄を拾ってくれた。ついたらしい埃まで払って。慌てて近づくと、「はい」と不快な色も見せず、手渡してくれる。
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。どういたしまして」
柔らかな笑みを湛えて、あちこち探していた先輩は言う。変わらない、少し掠れた声で。
近くで触れた爽やかな空気に、胸の辺りが穏やかな心地に染まっていく。
「ありがとうございました」
ビニール袋を差し出すと、「律儀だなぁ」と苦さと微笑ましさが交じった顔をする。じっと見つめれば、遠慮がちに受け取った。私と大きさの違う両手で持って、僅かに目を見開く。
先輩は一度目を伏せて、それから私を見る。だから、私はもう一つ、知ることが出来た。
――花を育てる、日の光のようにぬくぬくとした温かな瞳をしていること。
「良かったら、一緒にお昼食べない?」
瞳に気を取られて、喉の奥に沈んだ声がなかなか引っ張り出せなかった。
「あっ、もう食べた?」
「いえ、まだです」
「良かった。じゃあ、食べよ」
今度は、答えは待たなかった。私が走ってきた方へ小さな歩幅で四歩進んだ後、戻ってきて、棒立ちの私の手首を掴んで歩き出した。
少し、湿っている。横顔を見ると、眉の脇に汗の筋が薄らと見える。
中庭は、暑かったのだろうか、無言で考えているうちに、ふいに先輩が足を止めた。
「ここは、秘密の場所」
「……秘密?」
「少し、大袈裟に言った。本当は、ただの空き教室。あまり人が来ないから、重宝してる」
先輩の秘密の場所。窓の外から差し込む陽光に、空気中の埃が反射して、どこか霧のように姿を変えて、特別な世界を仕立てているように見えた。
思わず、ポケットのスマホに手を伸ばして、先輩が隣にいないことに気付いた。
「おいで」
窓の近くの机の中から、何かを取り出して、机を拭いた先輩が手招いた。近づいていく途中で、先輩は机を間に挟んで、向かい合わせた椅子の一つに座った。
「失礼します」
「どうぞ」
にこにこと変わらない笑顔で、「いただきます」と両手を合わせる。黙って見つめていると、ふいに先輩の視線がぶつかって、「食べないの?」と遠回しに促した。
「いただきます」
鞄からお弁当を出し、蓋を開ける。落としたせいか、少し雪崩が起きていた。
「美味しそうだね」
習慣の、食べる前にスマホを向けると、先輩は僅かに籠った声で誉めてくれた。
「ありがとうございます。ですが、作ったときは、もう少しちゃんとしてました。多分、さっき落としたときに――」
「えっ?」
答えながら持った箸を落としそうになる。「ごめん」と慌てた様子で謝る先輩の目が、月並みではあるけれど、少年のように輝いていた。
「もしかして、自分で作ったの? 毎日?」
「はい、大体は。母が仕事で忙しいので、出来ることは自分でやるようにしています」
うっかり、聞かれてないことまで話してしまう。それに今の言い方では、お母さんのせいにしているみたいだ。
「かっこいいね」
「……」
大変だねとか、偉いとか。そういう間接的にお母さんを責める言葉が返ってくると思っていた。だから、思わず目を丸くしてしまう。
先輩は、確か生チョココロネを小さく齧り、柔らかく微笑んだ。
「俺は朝弱くて、料理も苦手で。家族には、料理しないでって止められるくらいなんだ」
意外と思うには、先輩のことを知らないのに、思った。何となく、手先が器用そうだと。
「だから、かっこいいと思う。料理できる人、みんな尊敬してる。もちろん、君も」
「……」
苦手なことも尊敬してることも、素直に言える先輩の方がかっこいいと思った。それを言葉にするには、躊躇いに似た感情が起きて、だし巻き玉子に箸を伸ばす。
「良かったら、一口貰えないかな?」
動揺し、少しむせてしまい、水筒を口に当てる。ルイボスティーの香りが口の中からお腹の底に流れていく。
「そんな、人に食べてもらえるような出来たものではないです。昨夜の残り物もありますし」
両手でお弁当を引き寄せると、先輩は斜め右に視線を逸らしてから、悪戯な笑みを見せた。
「お礼、お弁当がいいな」
そう言われてしまうと、もう断る理由など見つからなかった。観念して、まだ使っていないフォークと一緒にお弁当を先輩の方へ押し出す。
しっかり両手で受け取って、「ありがとう」と囁きながら、フォークで梅ひじきつくねを口に運ぶ。よりにもよって、最初に選ぶものが昨夜の残り物とは思わなかった。
両親以外で私の手料理を食べたことがあるのは、ゆらだけだ。ゆらは、いつも「おいしい」としか言わないから、あまり自信がない。
「んんー」
鼻から籠った声を響かせて、純粋で温かな目が私を真っ直ぐ見つめる。味わうように咀嚼して、ごくり、とはっきりと喉仏が動いた。
「美味しい」
頬を緩ませて、静かで落ち着いた声で呟く。それが、やけに誠実な響きに聞こえて、咄嗟に窓の外に目を遠ざける。
「ありがとうございます」
手料理を褒められることは嬉しい。ゆらに初めて食べてもらったときに知っていたはずなのに、どういうわけか、自分でも動揺してしまうくらい嬉しく、照れていた。
カタっとガサガサと二つの音がして、そっと横目で見ると、先輩が元の位置にお弁当を戻していた。あったはずのだし巻き玉子が消えていた。
代わりに、パンの袋が三つあった。苦手なもの、だったろうか。
「まるで鶴の恩返しみたいだね」
先輩が粒あん入りのよもぎ蒸しパンを千切って、口に放り入れるから、私もピーマンと人参の塩昆布炒めを箸で拾う。先輩のたとえは分かるようで、けれど受け取り方が分からない。
「お礼をするのは、当然です」
リスみたいに頬を膨らませて咀嚼したまま、先輩の目が窺うようなものに変わる。
「それに、空腹は大敵です。余裕がないと、人に冷たくなってしまうので、昨日のあんぱんは本当に助かりました」
突如、先輩の瞬きが途絶えて、つられて動きを止めてしまい、数秒見つめ合う。
だから、先輩の目が穏やかに和らいで、引き締まった頬が緩んでいくのが見えた。失礼かもしれないと思いながら、私の目は先輩から動かなかった。
先輩はしっかりと咀嚼を終えて、窓の外の青空に負けない、晴れやかな笑顔を咲かせた。
「優しくて、不思議な子だね」
褒められているのかどうか計りかねて、「ありがとうございます」ととりあえず伝えると、先輩はまた、華やかに笑った。どこからか花の甘い香りと潮の風が流れて、頬を撫でていく。
そんな錯覚が現実のものだと、数秒、勘違いした。
一昨日に続いて、昨日のお昼も助けてもらった。今日こそは、お礼をする。
三つの教室を巡るも、見つからない。
渡り廊下を辿って、昨日出会った購買部。先輩に用があるのかと三年生の教室。とりあえず、目についた順に探していった。けれど、見つからない。
ふぅと息を吐いて、お弁当の鞄を左手に持ち変える。地味に、ビニール袋が指の関節に食い込むのが痛くなってきた。
ふいに外から元気な声が聞こえて、まだ中庭や校庭、体育館を見ていなかった事に気付いた。
「……」
何度か通った渡り廊下へ行って、窓の外を眺める。
遠くの校庭はあまり見えなくて、中庭に目を向ける。――瞬間、とても純粋で綺麗なものしかないような空気が、私の肩をすり抜けていった。
居た。そこにいた。
先輩の背よりも高い花を、先輩は涼やかな表情で見つめていた。
一瞬で考えた近道を、熟考するよりも先に、足が動き出していた。
普段ならしない、廊下を走って、息の方が追いつかない。三つ目の曲がり角を曲がって、突然、視界に飛び込んできた。
「わっ」
避けきれずぶつかって、走った勢いが跳ね返ってくる。やっぱり、廊下は走らない方がいい。
後悔しながら痛みに構えて強張った体が、ふいに、涼やかな香りと一緒に温もりに包まれた。
「ごめん、大丈夫?」
頭上から、焦ったような声が降り落ちてくる。左の手首を、少し湿った手が掴んでいた。
返事が出来ずにいると、両手で優しく体を離し、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? 怪我とか、してない?」
「……」
「もしかして、足挫いた?」
首を振って、無言で答える。喉を失ったみたいに、声が出てこない。
それでも両手を握り締めて、背の高い先輩を見つめると、耐えきれない様子でふっと出た。
「どうして、中庭に」
「中庭?」
順序の整ってないそれに、先輩は戸惑う。先輩以上に、私は動揺していた。
「あなたを、探していました。あんぱんと、助けてもらったお礼を渡すために」
咄嗟に、ビニール袋を胸元まで持ち上げる。そこでようやく、お弁当の鞄が消えていることに気付いた。
「そんなの、全然いいのに」
辺りを見渡すよりも早く、先輩は私の横を通り過ぎて、背後に落ちていた鞄を拾ってくれた。ついたらしい埃まで払って。慌てて近づくと、「はい」と不快な色も見せず、手渡してくれる。
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。どういたしまして」
柔らかな笑みを湛えて、あちこち探していた先輩は言う。変わらない、少し掠れた声で。
近くで触れた爽やかな空気に、胸の辺りが穏やかな心地に染まっていく。
「ありがとうございました」
ビニール袋を差し出すと、「律儀だなぁ」と苦さと微笑ましさが交じった顔をする。じっと見つめれば、遠慮がちに受け取った。私と大きさの違う両手で持って、僅かに目を見開く。
先輩は一度目を伏せて、それから私を見る。だから、私はもう一つ、知ることが出来た。
――花を育てる、日の光のようにぬくぬくとした温かな瞳をしていること。
「良かったら、一緒にお昼食べない?」
瞳に気を取られて、喉の奥に沈んだ声がなかなか引っ張り出せなかった。
「あっ、もう食べた?」
「いえ、まだです」
「良かった。じゃあ、食べよ」
今度は、答えは待たなかった。私が走ってきた方へ小さな歩幅で四歩進んだ後、戻ってきて、棒立ちの私の手首を掴んで歩き出した。
少し、湿っている。横顔を見ると、眉の脇に汗の筋が薄らと見える。
中庭は、暑かったのだろうか、無言で考えているうちに、ふいに先輩が足を止めた。
「ここは、秘密の場所」
「……秘密?」
「少し、大袈裟に言った。本当は、ただの空き教室。あまり人が来ないから、重宝してる」
先輩の秘密の場所。窓の外から差し込む陽光に、空気中の埃が反射して、どこか霧のように姿を変えて、特別な世界を仕立てているように見えた。
思わず、ポケットのスマホに手を伸ばして、先輩が隣にいないことに気付いた。
「おいで」
窓の近くの机の中から、何かを取り出して、机を拭いた先輩が手招いた。近づいていく途中で、先輩は机を間に挟んで、向かい合わせた椅子の一つに座った。
「失礼します」
「どうぞ」
にこにこと変わらない笑顔で、「いただきます」と両手を合わせる。黙って見つめていると、ふいに先輩の視線がぶつかって、「食べないの?」と遠回しに促した。
「いただきます」
鞄からお弁当を出し、蓋を開ける。落としたせいか、少し雪崩が起きていた。
「美味しそうだね」
習慣の、食べる前にスマホを向けると、先輩は僅かに籠った声で誉めてくれた。
「ありがとうございます。ですが、作ったときは、もう少しちゃんとしてました。多分、さっき落としたときに――」
「えっ?」
答えながら持った箸を落としそうになる。「ごめん」と慌てた様子で謝る先輩の目が、月並みではあるけれど、少年のように輝いていた。
「もしかして、自分で作ったの? 毎日?」
「はい、大体は。母が仕事で忙しいので、出来ることは自分でやるようにしています」
うっかり、聞かれてないことまで話してしまう。それに今の言い方では、お母さんのせいにしているみたいだ。
「かっこいいね」
「……」
大変だねとか、偉いとか。そういう間接的にお母さんを責める言葉が返ってくると思っていた。だから、思わず目を丸くしてしまう。
先輩は、確か生チョココロネを小さく齧り、柔らかく微笑んだ。
「俺は朝弱くて、料理も苦手で。家族には、料理しないでって止められるくらいなんだ」
意外と思うには、先輩のことを知らないのに、思った。何となく、手先が器用そうだと。
「だから、かっこいいと思う。料理できる人、みんな尊敬してる。もちろん、君も」
「……」
苦手なことも尊敬してることも、素直に言える先輩の方がかっこいいと思った。それを言葉にするには、躊躇いに似た感情が起きて、だし巻き玉子に箸を伸ばす。
「良かったら、一口貰えないかな?」
動揺し、少しむせてしまい、水筒を口に当てる。ルイボスティーの香りが口の中からお腹の底に流れていく。
「そんな、人に食べてもらえるような出来たものではないです。昨夜の残り物もありますし」
両手でお弁当を引き寄せると、先輩は斜め右に視線を逸らしてから、悪戯な笑みを見せた。
「お礼、お弁当がいいな」
そう言われてしまうと、もう断る理由など見つからなかった。観念して、まだ使っていないフォークと一緒にお弁当を先輩の方へ押し出す。
しっかり両手で受け取って、「ありがとう」と囁きながら、フォークで梅ひじきつくねを口に運ぶ。よりにもよって、最初に選ぶものが昨夜の残り物とは思わなかった。
両親以外で私の手料理を食べたことがあるのは、ゆらだけだ。ゆらは、いつも「おいしい」としか言わないから、あまり自信がない。
「んんー」
鼻から籠った声を響かせて、純粋で温かな目が私を真っ直ぐ見つめる。味わうように咀嚼して、ごくり、とはっきりと喉仏が動いた。
「美味しい」
頬を緩ませて、静かで落ち着いた声で呟く。それが、やけに誠実な響きに聞こえて、咄嗟に窓の外に目を遠ざける。
「ありがとうございます」
手料理を褒められることは嬉しい。ゆらに初めて食べてもらったときに知っていたはずなのに、どういうわけか、自分でも動揺してしまうくらい嬉しく、照れていた。
カタっとガサガサと二つの音がして、そっと横目で見ると、先輩が元の位置にお弁当を戻していた。あったはずのだし巻き玉子が消えていた。
代わりに、パンの袋が三つあった。苦手なもの、だったろうか。
「まるで鶴の恩返しみたいだね」
先輩が粒あん入りのよもぎ蒸しパンを千切って、口に放り入れるから、私もピーマンと人参の塩昆布炒めを箸で拾う。先輩のたとえは分かるようで、けれど受け取り方が分からない。
「お礼をするのは、当然です」
リスみたいに頬を膨らませて咀嚼したまま、先輩の目が窺うようなものに変わる。
「それに、空腹は大敵です。余裕がないと、人に冷たくなってしまうので、昨日のあんぱんは本当に助かりました」
突如、先輩の瞬きが途絶えて、つられて動きを止めてしまい、数秒見つめ合う。
だから、先輩の目が穏やかに和らいで、引き締まった頬が緩んでいくのが見えた。失礼かもしれないと思いながら、私の目は先輩から動かなかった。
先輩はしっかりと咀嚼を終えて、窓の外の青空に負けない、晴れやかな笑顔を咲かせた。
「優しくて、不思議な子だね」
褒められているのかどうか計りかねて、「ありがとうございます」ととりあえず伝えると、先輩はまた、華やかに笑った。どこからか花の甘い香りと潮の風が流れて、頬を撫でていく。
そんな錯覚が現実のものだと、数秒、勘違いした。