露川祠は、文芸創作愛好会のOGで、今も一線級で活躍する作家だ。そして俺の憧れでもある。中学の時に読んだ作品に衝撃を受けて、小説家になりたいと思ったのだ。
 彼女の経歴は異色だ。学生時代に新人賞を受賞し作家デビュー。何本か作品を発表した後、漫画原作やゲームのシナリオの世界へ転身。後に名作と呼ばれる物語を何本も手がけ、数年前に一般文芸字の世界へ帰還した。
 舞い戻った露川祠の作風は大きく変わっていた。現代ミステリが専門だったデビュー当時から、ジャンルの幅は広がり、歴史小説やらSFやらファンタジーやらまで手がけるようになり、今では幅広い層から支持されている。去年の夏には、ファンタジー作品がアニメ映画にもなった。

「最近の壮大な話もいいけど、やっぱり初期露川が好き。そう言ってたよね?」
「ああ、言った気がする。間違いない。隣にいたのお前だわ」
「初期露川の、登場人物の心理をトリックにしているところが好き。そう言ってたよね?」
「ああ、言ったな」
「ロジカルに積み重ねられた謎なのに、その要素のひとつひとつが情感的で、血の通ってるところがいい、とも言った」
「だな」
「で、自分もそんな小説が書きたいって」
「間違いありません。言いました。てか、なんで尋問されてるんだ俺?」
「じゃあ、その話題のきっかけになったのは?」
「ああ、もう。全部思い出したよ。俺が手元に置いてたメモ帳だろ?」

 日常生活の中で気がついたことや、思ったこと、そのときに湧きあがった感情をメモする。この癖は俺が入学する1年くらい前から始めていたことだ。
 新歓コンパのころには、ごくごく当たり前の習慣になっていた。どんな時でも……例えば居酒屋で先輩にウーロン茶を注がれた直後とかでも、誰の邪魔もせず、話のコシを折らずにササッと書き留める。そのくらいの術は心得ていた。

「正直さー、アタシも最初は引いたよね。新歓からさっそく創作頑張ってますアピール? アタシらにマウント取るつもりかって」
「いや、それは……」
「あはっ、安心しなよ。その後のアンタ見てたらわかるって、アレがマウンティングじゃなくてアンタの素だってことくらい」

 俺の悪癖が、変な目で見られていることは知っていた。いくら話の流れを壊さないように気を遣っていたと言っても、話の途中で突然メモ帳を取り出すのが異常だってのはわかる。
 決して、他者へ向けてのアピールなんかじゃない。自分の執筆のために必要なことだ。

 けど同時に、こうも思っていた。なんでお前らが変な目で見る? 創作に興味のない人が引くのは仕方ない。けどお前らは文創だろ? 書く人間だろ? 自分の感情なんていう格好の取材対象に、どうしてそうも無神経でいられるんだ? ……と。

「で、メモの習慣は露川祠の影響なんだよね?」
「ああ。高校の時に、彼女のブログに書かれてるのを見つけてさ。自分の感情を徹底的に観察する。そのために、思ったことや感じたことをメモしていくって」

 露川祠のような作品を書きたい自分は、その記事を見た十秒後には近所のコンビニに走っていた。そしてメモ帳とボールペンを買い最初のページに自信たっぷりに書き込んだものだ。

 【最初の一歩】【露川祠】そして【高揚感】と。

「アタシもさー、祠ちゃんの習慣のことは知ってたんだ。まさか他にやってる人がいるとは思わなかったけど」

 祠ちゃん? 変な呼び方をするな、と思った。
 好きな作家を「さん」付けで呼ぶのならわかる。ファンとの距離が近い作家の中には、あだ名呼びが浸透している人もいるだろう。
 けど、露川祠を「ちゃん」付けで呼ぶ人を、俺は知らなかった。付き合っていた頃、俺と露川作品について語ったときも「露川祠」とフルネームを呼び捨てにしていたはずだ。

「で、他にやってる人がいるなら、アタシもネタメモ習慣やってみよーって思ったワケ。ま、アタシの場合、タブレットにアプリ入れてやってたから、他人に見られるようなヘマはしなかったけど」
「ぐっ!」

 琴那は、また邪悪な笑みを浮かべながら、メモをひとつひとつ確認するように目を通していった。というか、なんでこいつはこのメモをこんなに見たがっているんだ?

「なあ、もういいだろ。お前の言う通り、それは俺の排泄物みたいなもんだ。そんな風に読まれるの、結構しんどい……」
「ごめんねー。でもちょーっとだけ我慢して。アタシもこれ見るためにわざわざ雨の夜に見ず知らずの住宅地までやってきたんだから」

 俺の部屋に上がるためにわざと夜遅くに連絡し、このメモを見つけるためにシャワーのブラフを仕込んだ。そこまでして見たいものなのか? 行動が不可解すぎる。コイツの真意が見えない。

「いやー、電話で引越準備と言われた時はちょっと焦ったよ。万が一にでも処分されていたらどうしようって。廊下で段ボール箱見たときはマジで焦った」

 それなら本当に、早いところ捨てておけばよかった。俺にはもう、必要無いものなのに、なんで踏み切れなかったんだろう。そればかりか未分類の菓子箱の中には、新しいメモが増えていく有様だった。

「いやー、ホントすごいね。アタシと別れた後もちゃんと続けてたんだ。4年間ここまでガチにさ」

 同じような事を何度も言いながら、琴那は視線をメモから離さない。何かを探している様子でもあった。何をだ? もしかしたら、コイツと別れた後のメモだったりするのか? それだけは勘弁してくれ!

「これに比べると、アタシやったのなんて、只の体験版だったわ。きっと似てるんだね、祠ちゃんと匠のスタイルが」

 まただ。また露川祠をちゃん付けで呼んだ。

「匠はさ、きっと最初に、登場人物にこんな感情を抱かせたいって思って、そこから逆算してストーリーを作っていくタイプでしょ?」
「え、ああ……そうかもな」

 突然の質問に戸惑った。けど、多分そんなやり方だ。
 読者にこう思わせたい。そのためには登場人物にこう思わせる必要がある。それならばストーリーはどうなるか。こんな三段論法でプロットを作っていく。
 その二段階目のプロセスでこのメモが必要になる。

「祠ちゃんもさ、そんな感じ」

 ちゃん付けがいちいち引っかかる。そして、いかにも露川祠のことをよく知ってる、みたいな言い方も何かイラッとくる。
 けど、それ以上に……。

「アタシはその真逆。まずシチュエーションがあってさ、そこにキャラを放り込んだ時にどんな行動を取るか、って所からストーリーを作ってた」

 それ以上に、琴那の話には違和感があった。

「まあ執筆方法なんて作家が100人いれば100通りあるものだから、何が正解とかは……って、何その顔?」
「いや、なんか意外だから。お前からまた、そんな話が聞けるなんて」

 確かに付き合っていた頃はそう言う話も日常的にしていた。けど、コイツはあの頃の藤原琴那じゃない。一度も創作論を語らなかった「創作論を語り合う会」の企画者だぞ。
 お前は書かない側の人間になったんだろ? 少なくともこの2年はずっとそうだったじゃないか。

「えー何それ? アタシのこと、脳みそお花畑で小説のことなんかこれっぽちも考えない宴会部長とでも思ってた?」
「いや、それは……」

 図星をつかれて、思わず琴那から目を逸らす。
 
「ははっ、匠ってさ、相変わらず顔に出やすいよね」
「うるせーな。でも実際その通りだろ。お前がまともに創作の話するなんて、ありえねえ」

 そして俺は、一言付け足す。

「あの頃のお前ならまだしも、さ」
「あの頃、ねえ。まあ確かにアンタと付き合ってた頃はね。アタシも真っ当に書いてたし、なんならサークル内で一番実力あったし」
「ははっ大した自信だな」
「だって本当のことでしょ? なにせ、シェヘラザードで最終選考までいったんだよ、アタシ」

 シェヘラザード新人大賞は、新人作家を発掘する、日本でも有数の公募新人賞だ。エンターテインメント作家の登竜門のひとつであり、露川祠も在学中にこの賞を取ったことで、プロ作家の道が開けたという。
 露川祠を意識し続けてきた俺も、当然この賞には憧れがあって、この賞の締め切りに合わせて書いていた。文創には、そういう奴が俺以外にも何人かいたと思う。けどその中で、実力を示したといえるような結果を出したのは、琴那ただ一人だった。琴那は全部で三次まである選考のうちふたつを通過し、ファイナリストに選ばれたのだ。

「それがどうして、こんなんなっちゃったんだか」
「こんなんって……失礼なヤツだな」
 
 不満そうな視線を返してくる琴那。
 本人がどう思おうが、書かなくなったシェヘラザードのファイナリストなんて「こんなん」としか言いようがない。
 あれだけの文才の持ち主と、文創を堕落させた奴が同一人物だなんて、今でも信じられない。

「あの時は、先輩たちも大騒ぎだった。とんでもない才能が入ってきたって」
「そう、サークルではね。師匠の見方はちょっと違ったけど」
「師匠?」
「昔から、アタシに文章の手ほどきをしてくれた、いとこのお姉ちゃん」
「そんな人がいたのか」

 初耳だった。コイツが中学の頃から創作をしているのは知っていた。けどその指導をしている存在は初めての情報だ。

「うん、一応プロの作家でさ。露川祠ってペンネームで活動してる」