「えーと、【団地】【静か】【凍った時間】……あー、あるよね。全く人の気配が感じられなくなる時間帯」
「やめろ」
「こっちが【猫の背】【意外と固い】【体温】か。わかるわかる!思ったよりモフモフ感がないっていうか。でもあったかくて生命は感じるんだよね」
「やめろって」
「【初日】【突き刺す痛み】【缶コーヒー】……あっ、コレ一年の元旦に、江ノ島行った時のでしょ? 日の出より寒さが気になってるとことか、匠らしいや」
「勘弁してくれ!」

 俺の抗議も素知らぬ顔で、琴那はメモを読み上げていく。
 コルクボードと一緒に置いてあるクリアホルダーと菓子の空き箱も押収された。クリアホルダーにはある程度系統を整理してメモをまとめてある。菓子箱は未分類のメモが乱雑に放り込まれている。そしてコルクボードは、断片的なメモを繋げて、小説のネタを作り出すために使っていた。
 これらは、俺のこの数年間の全てだ。見たもの聞いたもの味わったもの、そしてその際に覚えた感情。それらを全てメモとして残していた。

「なんだよーそんな恥ずかしがんなよ。作家なんて自分の感情を排泄して人に見てもらうのが仕事じゃん」

 なんて言い草だ。琴那はあの邪悪な顔でケタケタ笑っている。
 けど同時に、何か腑に落ちる感覚もあった。排泄物を見てもらう。その露悪的な表現が妙にしっくりきた。

「付き合ってた時もそのメモにはびっくりしたけどさ。よく4年間も続けられたねえ。丁寧に系統を分けたりして。大変でしょコレ?」
「別に、慣れてるから」

 むしろ、完全に身体が覚えてしまい、やめたいのに勝手に体が動く有り様だ。

「いやいや、アタシも一時期、似たようなことやってたからわかるよ。一朝一夕じゃできないって!」
「は? お前がやってた? なんで?」
「なんでって、書くために決まってんじゃん」

 琴那はそんなこと聞く必要ある? と言わんばかりの顔だ。
 書くために……? コイツからそんな言葉が出てくるなんて思わなかった。創作より飲み会が、小説より世間話が好きな藤原琴那だぞ? メンバーの創作意欲をスポイルして、文創を壊滅させた、あの藤原琴那だぞ?
 いや、違う。それよりも前、付き合ってた頃の話か? 執筆している時の姿はお互いに見せないことが、当時の二人の不文律になっていた。だから俺は、コイツがどんな風にして書いていたのかを知らない。

「てか覚えてないの? アンタきっかけなんだけど?」
「え?」
「一年の時の新歓コンパ、アタシ隣の席だったでしょ?」
「そうだっけか?」
「やだな、忘れちゃったの? 二人の出会いみたいなもんじゃん!」

 記憶の掘り起こしを再開する。
 4年前。4月の、そうだ、まだ花粉が目に厳しい時期だったはずだ。キャンパスからそれほど離れていない駅のチェーン居酒屋だった。
 確かあの時は掘りごたつ式の座敷席に通された。6人くらい座れる横長のテーブル。「一年生、先に座っちゃって」と先輩が指示したのに、誰も動かなかったので、俺は率先して座敷に上がり、手近な席に着いた。その後、俺の他に4人いた新入生が続く。俺の隣に座ったのは、黒いショートカットの女子だった。

「あの時の女子、お前だったっけ?」

 まだ右も左もわからないうちに引っ張り出された新歓コンパではメンバーの名前を覚える余裕なんてなかった。コイツの名前と顔が一致したのは、コンパの後。サークル部屋で徐々に、といった感じだ。
 
「うわーサイアク。本当に忘れてるよコイツ……」

 少し明るめの茶色にしたロングヘアを弄りながら、琴那が冷ややかな視線を向けてきた。あのころから髪型も雰囲気も大きく変わっている。けど確かに面影も残っていた。

「初々しいアタシらはあそこで、初々しい話題で盛り上がっていたんだけどなー。小説は書いてるのか、とか。どんな本読むのか、とか。それと……」

 琴那はぐいと顔を近づけてきた。大きな黒い瞳に、俺の顔が映るんじゃないかというほどに。

露川祠(つゆかわほこら)は好きか、とか」
「そうだ、そんな話をしたな」

 急接近した顔から、気持ち距離を取りながら、俺は応えた。