あくまでも、契約上の間柄という事で。《序》(※加筆版)

当たり前だが、ただ一方的に言われるだけの彼女ではなかった。

「進学なんて自由でしょ。自分が行きたい学校を選んで何が悪いのさ。私もお母さんも祖母さんの見栄の為に学校に行く訳じゃありません。そもそも私を『まともな霊術も使えない』とか言ってるくせして、霊術士育成クラスがある学校に行かせようとするとか、言ってる事めちゃくちゃだからね?てか、あんな阿呆みたいに学費が高い学校に行く気なんか無いよ。奨学金なんてお荷物を背負いたくもないし。自分が選んだ学校に自分の実力で合格した事を非難される筋合いなんてありません。第一、時代の関係もあるのはわかってるけど、親に言われて試験も無しに女学校に入学した『だけ』、しかもまともに卒業すらしていない祖母さんが、私やお母さんを恥だの何だのとどの口で言うのさ。悔しかったら今からでも勉強して、大お祖父様達みたいに東大にでも合格してみたら?このオール丙」

という感じだった。瑠子や瑤太が瓊子への反論に加わる余地が無い、苛烈極まりない反撃だった。丁度反抗期真っ只中でもあったので、彼女の舌鉾は殊更に鋭く容赦が無い。後で瑤太が言うには「マシンガン通り越してグレネードランチャーをガトリング砲にしたみたいだった」との事だ。攻撃力というか口撃力の凄まじさたるや、一を言ったら十どころか千も万も返ってくると言えよう。

因みに、瓊子の成績の情報源は、言うまでもなく翠子である。成績の付け方は、上から甲・乙・丙・丁だった時代なので、この物言いになった。時代によって差異があるとは思うが、甲・乙・丙・丁が現代の5段階評価や10段階評価に照らし合わせるとどんなレベルになるか、興味がある方は調べてみるといいだろう。

さて、誤解が無いように書いておくが、彼女は学歴至上主義という訳ではないし、祖母を馬鹿にしている訳でもない。単にひたすら、理に適わない事を言って何処までも人を貶める祖母の言動が許せなかっただけである。

このようにして、彼女は大手を振って志望校に通い始めた。そして最初の体育の時間。必ず通る道と言える体力測定の際。フェンスの植え込みに隠れてカメラを構えていた男達の眼球が壊死し、気付いた教員達が慌てて救急車を呼ぶという事態が発生したのである。
彼女としては目に異常をきたすような感染症、いわゆるバイオハザード的な異常事態が発生した訳ではないと、クラスメイト達を安心させる為に言ったのだが、クラスメイト達は『都市伝説だと思っていた霊術士』に興味津々だ。サイレンをBGM代わりに、慌ただしく行き交う救急車を見るともなしに見る彼女に、同級生達は問いかけた。

「その…ビームとか出せないって言ってたけど、一体何をしたの?どうやったの?」
「私はゲームとかで登場するマジックアイテム的な物を作る事だけはできるのさ。盗撮する奴の眼球が壊死するように術を仕込んだ霊具…お守りっぽい物を持ってスイッチオンしておいた。ざっくり言うと、要は見えないバリアみたいなもので校庭を覆っておいて、我々にカメラを向けてくるような輩がいたら、該当する奴のみに反応して、眼球を壊死させるセキュリティシステムだ」
「壊死…」

強烈な言葉に戦慄するような同級生達に、彼女は何の事も無さそうに「そうだ」と答えた。

「女子高は変な人ホイホイで、体育や水泳の授業だと盗撮が絶えないと聞いた事があったからな。変な人を近付けさせないようにする先生達の対処及び対応も大変らしい」

因みに、この情報は当時の彼女が既にプロトタイプとして作成していたサイバー式神『名探偵の手足(ベイカーストリート・チルドレン)』が、ネットの海を泳ぎ回って収集してきたものである。

「しかし先生陣がどう頑張ってくれようと限界がある。何より、こっそりカメラを向けられるなんて、それだけで不愉快だからな。旧約だったか新約だったか忘れたが、聖書の言葉を借りるなら『その目が罪を犯させるなら、その目を潰してしまえ』って奴さ。これで少なくとも今日群がっていた輩は、二度とカメラを使えなくなるだろうよ」

彼女は「まさか初日でここまでになるとは思わんかったが」と校庭を見下ろしながら呟いた。

「やりすぎだと思われるかもしれんが、この手の輩は警察に訴えた所で罪になりにくいし、また同じ事をする率も高い。だから単純かつ決定的な手段として、カメラを扱うに必要な目を使い物にならなくするのが一番なのさ。まあ個人的に出した結論でしかないが」
「でもそれわかるかも。電車やバスで痴漢とかカメラ向けられるとか、しょっちゅうだったもん。制服着てる時とか特に」

1人の生徒を皮切りに「うちも制服切られた子とか汚された子とかいた」「制服着てなくても痴漢される時はされるけどね」と次々に上がる声に、彼女は「うへえ」と顔を顰めた。

「マジか。私は小中は徒歩で高校は自転車だからわからんのだが、変なのが多すぎだろ。ただ通学してるだけだってのに」

尤も、徒歩だろうと自転車だろうと『変なの』に出くわす事はあるのだが、彼女は幸いかな――幸いではなく当たり前であるべきと彼女は思っているのだが――該当する事例に遭遇した事は、これまで生きてきた中で、一度たりとも無い。ある意味では、宝くじに当たるよりも凄い事だと彼女は思っている。
話を聞いていた生徒達の中で、1人が意を決したように「ねえ司さん」と進み出た。

「そういう変態撃退のアイテム、作れない?その…お金はあまり無いけど、払うからさ」
「いいとも」
「いいの!?」

彼女の二つ返事に、言い出した1人だけではなく全員がざわめいた。

「いや何。元から考えてはいたのさ。法で裁く事も行動を封じる事もできないなら、向こうが二度とそういう事ができないようにする、お守り的な物を作って装備なり携帯なりした方がいいってね」

彼女は考える素振りを見せた。

「ここは何かを一から作るより、元からある物に力を込める方が得策だな。何かお気に入りの物とか…『外出する時に絶対に忘れない物』を出してくれれば、それに霊術を仕込む。機能としては『向こうが何かをしようとしたのを感知して、何かをしようとした身体の部位を壊死させる』だ。つまり触られたりする前に、向こうの手だとかを使い物にならなくする。因みに『車内に急病人のお客様が』程度で留める。呪殺まではしない。何でかわかる?」
「…殺人になるから?」
「皆が罪悪感を抱かずに済むようにだよ」

彼女は、ふーうと溜め息をついた。

「私はその手の輩を『知性を持った同じ人間』として認識していない。殺処分で構わないと思ってる。例え殺した所で、虫を潰した程度の感情しか持たないね。でも皆はそこまで割り切れないでしょ。手やら目やらが使い物にならなくなるだけなら、そいつは犯罪者予備軍だって事がわかるだけだし、良心の呵責も生じない。要するに、皆の精神衛生を考えての手加減さ。手加減とか優しすぎると思うがね」
「でも逆に、司さんが罪に問われたりしない?傷害罪とか」
「無いね」

クラスメイトの1人の案じるような言葉に、彼女はきっぱりと断言した。

「日本で呪殺…『呪いで誰かを傷付けました』を裁く事はできないんだよ。それを見越した上でのアイテム作りさ。実際に判例があるから、興味があったら調べてみてちょ。仮に『これは霊術による現象だ』って事で霊術士が捜査に入った所で、『不審者除けの霊術』である事はすぐに解析できる。つまり私はあくまで『自衛』をしていただけで、『自衛』の為にアイテムを作っただけだから、罪に問われる事じゃない。だからそこも安心していい」

顔を見合わせ「そうなんだね」と呟くクラスメイト達を横目に、彼女は「ああそうだ」と手を打った。

「さっきお金がどーたらとか言ってたけど、お金は要らないよ」
「えっ!?」

意外そうなクラスメイト達に、彼女は至極当然のような表情で続ける。

「同じ学生からお金を取るとか鬼みたいな事はしないよ。バイトのお給料とか使える金額とか、どうしても限界があるんだからさ。第一、これって営利目的じゃないし。ボランティアみたいなものだよ。ボランティア」
「でも…」

それでは悪いと思っているらしいクラスメイトに、彼女は考える素振りを見せてから、言った。

「どーしても気が済まないとかだったら、何かお勧めのおいしいお菓子とか買ってくれればいいよ。勿論だけど、そっちの懐が痛まない金額でね。因みに、お守りの効果を確認できた後とかでOK。後払い制ね」

彼女はちらりと時計を見た。

「そろそろ次の授業だから今すぐ仕込むのはできないけど、興味がある人は放課後に残ってちょー。希望者のみのオーダーメイド的な物にするから」

外の騒動をどうにか治めたらしい教師が戻ってきた事で、彼女の話は終いになった。放課後にはクラスメイト全員が残ったのは言うまでもない。

実を言うと、これこそが後に『アイギス・シリーズ』と呼ぶ事になる霊具の、本当の始まりだったのだ。
時間を現在に戻そう。
いつか瑤太が姉を評して言った『えげつなさ』の正体は、おわかり頂けたと思う。

「でも、間違って手がぶつかったりとかで誤作動とかしないですか?」

別の男子生徒が訊いた。彼女は「ごもっともな懸念です」と頷く。

「そのような事故が発生しない仕様にしております。つまり対象を『標的』と定め『意識』を向けない限りは、『アイギス・シリーズ』は発動しないんです。因みに、これは公共交通機関内の加害に限らず、わざとぶつかってきたりだとか、付き纏ってきたりだとかにも有効です。同じように警告発作が起こり、それを無視した場合は、ぶつけようとした肩だとかが壊死しますし、付き纏おうとした足が壊死します。要するに、夜道でも皆さんが安心して歩ける仕様にしております」

女子生徒達がホーウと頷いた。対して男子生徒達は「わざとぶつかられるとかあんの?」と怪訝そうだったが。

「えっと、質問いいですか?」
「どうぞ」

控えめに手を挙げた女子生徒を彼女は促す。女子生徒は意を決したように話し始めた。

「わざと鞄を押し付けてくるとか、傘でつついてくるとか、直接触ったりしない場合もあります。それは防ぐ事はできますか?」
「質問自体が辛いかもしれませんね。訊いて下さりありがとうございます。回答の前に、まずご気分は大丈夫ですか?」

彼女が優しくかつ慎重な口調で訊くと、女子生徒は「大丈夫です」と答えた。

「そういったケースも想定しておりますので、防げます。その場合は、鞄や傘を持つ手を壊死させます。また盗撮の場合はカメラを仕込んだ場所、例えば靴だったら足を壊死させますし、スマートフォン辺りを使おうとした場合は、目が壊死します。つまり、皆さんに加害者を絶対に近付けさせませんし、加害をさせません」
「だから『アイギス』…。『絶対防御の無敵の盾』か…」
「はい。持ち主である女神アテナが『男性を寄せ付けない』女神というのもありますが」

菅凪教授の呟きが聞こえていたらしく、彼女は答えた。

「あの、それって傷害事件とかにならないですか?」
「ああ。『アイギス・シリーズ』で身体の異常を発生させる事そのものが罪になるかならないか?ですね。なりませんよ」

これまた別の女子生徒に、彼女は答えた。

「そもそも近現代の日本の法律において、呪殺を裁く事はできません。実際に判例がありますので、そこは大学のデータベースで調べた方が早いと思います。第一、『アイギス・シリーズ』は呪殺までは行ないませんからね。何より、仮に傷害事件と位置付けられたとしても、それは身体の異常が発生した側が犯罪行為に走ろうとした何よりの証左となりますから、どちらにせよ向こうは訴える事ができません」

彼女は改めて全員を見渡した。

「因みに、これはおまけみたいな機能ですが、妖魔除け機能も搭載しております。もし皆さんに近付こうとした妖魔がいた場合は完全に滅しますので、そもそも皆さんが妖魔に気付いたり追いかけられたりだとか、怖い思いをする事はありません」
「いやおまけどころの機能じゃなくありません?」

ゼミ生の1人の言葉に続き、他のゼミ生達も「凄くね?」「おまけって何だっけ?」「もう兵器じゃん」とざわつき始める。しかしゼミ生達の様子は何処吹く風と、彼女は女子生徒達に語りかける。

「なので皆さん。『アイギス・シリーズ』は『外出の際には絶対に忘れない物』。例えば、ご自宅の鍵やスマートフォン等に取り付けて持ち歩いて下さい。あと、大事な事を言っておりませんでした。勿論ですが、『アイギス・シリーズ』にお代は頂きません。差し上げます」

今度は女子生徒達がざわつき始めた。この場が設けられたきっかけ。彼女に最初に『アイギス・シリーズ』を渡された女子生徒が、困惑気味に手を挙げた。

「あ、あの。本当にただでいいんですか?ここまで凄い物を作ってもらったのに、何のお礼もしないとか、何だか申し訳ないって言うか…」
「世の女性達にあくまでも無償で提供するというのが、弊社の社長の方針ですので」

なお、これは社内の話。晴れて正社員となった彼女の為に、『アイギス・シリーズ』を始めとする霊具作成等、霊術での活躍に対する特別手当を付ける話が上層部で進んでいるのだが、この場では口にする必要が無い事である。とりあえず、彼女がいわゆる『やりがい搾取』に遭っていない事は明記しておく。

「なお『アイギス・シリーズ』は商品として展開はせず、あくまでも希望者のみのオーダーメイド制にするのも社長の方針です。何故なら『アイギス・シリーズ』は、それぞれ所有者の生体反応とリンクして機能する仕様ですので。つまり、お側に置いて下さる限り、一生守ります」

おお、と声が上がった。

「因みに、もし万が一落としてしまって、拾った誰かが転売などしようものなら、転売者は10年間インターネットが使えなくなる転売防止機能も搭載しております」
「10年!?」
「10年って年数を限っているだけ、姉は優しいです…。基本『転売死すべし慈悲は無い』なので…」

揃って素っ頓狂な声を上げる全員に、瑤太はフォローを入れた。
何せ、欲しかったあの限定品やらこのチケットやらが買い占められ転売の市場に出されているのを見て、血の涙を流しながら通称『通報レイドバトル』に参戦していた姉である。俗にいう『転売ヤー』に対しては恨み骨髄。これでも容赦している方なのだ。
彼女はふーうと大きく息をつき、神妙な口調で言った。

「私とて、世に言う『転売ヤー』には、転売に手を染めるに至った、どうしようもない経緯があったのかもしれないと思ってはおります。本当にどうしてもお金に困って、とか。そんな誰かを哀れと思いながら、とどめを刺してあげているだけなんですよ」
「…対妖魔の話だったら、霊術士の鑑ね」

菅凪教授は呟いた。ゼミ生が座るスペースから「戦闘民族かよ」「少年漫画のキャラみたいだ」という声も聞こえる。耳に入っていたらしく、彼女は「恐れ入ります」と軽く頭を下げて、顔を正面に戻した。

「万が一、紛失してしまった場合の話に戻ります。その場合は弊社にお問い合わせを頂ければ、女性スタッフから私に連絡がいきます。再作成も無償で承りますし、もし『もっとこういう機能が欲しい』といったご要望があれば、アップデートも行ないます」
「アフターケアもただでいいんですか?」

彼女は女子生徒の一人に「無償です」と首肯した。

「世の女性達を始め、『弱い立場の人達の味方である』というのが弊社の方針です。ですので皆さん。雇用対象はあくまで女性に限っておりますが、就職活動の際には弊社も視野に入れて下さると幸いです」

彼女が社長を手で示すと、社長は女子生徒達の方を向いて、にっこりと笑った。

「他にご質問が無いようでしたら、以上で『アイギス・シリーズ』の説明会を終了します。もし良かったらですが、お困りの方がいらしたら、口コミで『アイギス・シリーズ』の事を教えてあげて下さい。後は各自で自由に解散で大丈夫です。本日はお時間頂きまして、ありがとうございました」

彼女は全員に向かって一礼してみせた。
「…刀隠美斗先輩と、各務桃李先輩。2人共3年生」
「『各務』ですか」
「知ってるの?司さん」

眉を上げる彼女に、社長は問いかけた。彼女は「曾祖母から聞いただけですが」と前置きする。

「旧くは『火の神様』だから『火神』と。菅凪先生の『(かんなぎ)』…つまり『巫女』と同系統の名字です。とりわけ『各務』は弥籟刀を守る一族『刀隠』の分家の一つであると。ところで『トウリ』とは『桃李成蹊』の『桃李』ですか?いいですね。おっと。話が逸れました」

自力で軌道修正する姉に、瑤太は「あのさ。お姉ちゃん」と呼びかけた。

「弥籟刀とか刀隠とか、色々ついていけない話が多すぎるよ。俺は少しなら知ってるけど、社長は全然知らないと思う。悪いけど、説明してくれる?」
「そうだね。そこから始めた方が良さそうだね」

彼女は「ごめんごめん」と弟に謝った。

場所は変わって、菅凪教授の研究室に彼女達は集まっていた。彼女が「後できちんと話を聞く」と言った事を律儀に守ったのもある。なお霊術士の卵達の指導役として無関係ではないからと菅凪教授も、社員に只事ではない事態が起こったらしいからと孫江社長も同席すると言い出したので、研究室で話をする事になった。瑤太は彼女の弟なので、言わずもがなである。

「まずそもそも、我々生きた人間の世界と、妖魔が住む幽世の境が曖昧なのが、全ての始まりなんです」

社長にも向けた説明なので、彼女は敬語になっていた。

「我々の世界と幽世を『区切る』為に存在するのが『弥籟刀』です。『斬る』のではなく『区切る』為に存在する神刀霊刀です」
「ですが、弥籟刀は、単独では機能しません」

菅凪教授が口を開いた。

「弥籟刀は『境御前』と呼ばれる付喪神が代々守るもの。しかし、弥籟刀がこの世と幽世を区切る力を十全に発揮する為には、『鞘』と呼ばれる人間の伴侶が必要です」
「代々という事はつまり、境御前がいない、あるいは境御前がいても鞘がいない時代もあったという事ですよね?」

社長の問いかけに菅凪教授は「その通りです」と頷いた。彼女も首肯し「実際、」と難しい顔で言った。

「鞘は誰なのか判別しようが無いと聞いています。家柄や血筋ではないし、能力者や一般人も関係ありません。境御前が鞘と会えるのは、天文学的な確率と言われています」
「そのように不安定な歴史の中、幽世からこの世に出てくる妖魔を幽世へ送り返す、たちが悪い妖魔の場合は滅する役割を持つのが、私達霊術士です」

菅凪教授は美斗に視線を向けた。

「そして、霊術士の筆頭にして、刀隠家の次期当主。境御前と呼ばれる事になるのが、こちらの刀隠美斗君です」
「それで、その鞘…力を発揮する為のパートナーが、うちの社員って事ですか…?」
「はい。一目でわかりました」

きっぱりと言い切る美斗に、社長は深刻な表情で呟く。

「…今更だけど。私、凄い子を自分の所の社員にしたのね」
「私は凄くありませんよ。社長。皆みたいに…普通の霊術士達みたいにこう、妖魔に対して直接術は使えません。『アイギス・シリーズ』みたいに霊術を仕込んだ物を作成するか、もしくは元からある物に霊術を仕込むか、どちらかしかできませんから」
「いや。あそこまでの物を作れるのは、十分凄い事だと思うよ?」

否定する彼女だが、桃李は困惑気味に肯定する。

「君は『それしかできない』のではなく、『器物』に対する霊術に特化しているのだと思う。本性が付喪神である俺にとって、運命だとしか思えない」

美斗はいきなり席を立った。彼女が座る席まで回り込むと、左膝を床について彼女の手を取り、真っ直ぐに彼女を見据えた。

「どうか俺の花嫁になってくれ!」
「無理です」
「即答!?」

彼女と瑤太と美斗以外の声が揃った。瑤太は全てを悟ったようでありつつも「あーあ」と呻きそうな表情を浮かべている。美斗は彼女の手を取ったまま「無理…?」と音だか声だかを出し、ぐらりと卒倒しそうな顔になった。どうやら、多大なショックを受けたらしい。

「もしかして…好きな男がいるのか…?」
「いません」
「ならどうして…」
「結婚の失敗例を身近で見ていますので。2件。いや3件ですか」

彼女は何の感情も交えない顔と声で答えた。

「社長も…もしかしたら菅凪先生もある程度はごぞんじでしょうから言いますけど。『霊具の作者の身元がわかってから』と言っていた以上、既にうちの事情は調べておいでだと思います。我が家の事情が影響しているのは大きいです。何より、刀隠は由緒正しき御大家です。その次期当主にして境御前でしたら、許婚の1人や2人や3人や4人や5人いるのでは?」
「いやそれ流石に多すぎだろお姉ちゃん!ってかいないだろそんなに!」
「これでも真面目に言ってるんだけど」

美斗は音がしそうな勢いで首を横に振る。そんなに首を振って、首の筋を傷めはしないかなあと、彼女はマイペースに心配した。

「いない!許婚は1人もいない!信じてくれ!」
「ええ?本当ですかあ?」
「本当だよ。俺が保証する」

あからさまな疑いの目を向ける彼女に答えたのは、桃李だった。桃李は溜め息をついて、幼馴染を見やる。

「確かに、分家から婚約者をって話は、無い訳じゃ無かったんだ。でも、美斗はこう見えて、ロマンチストな所があるんだよ」

美斗は白皙の頬を僅かに赤らめ、視線を泳がせた。

「その…確かに数は少ないが、鞘を見付ける事ができた先祖はいた。鞘を見付けた先祖達は言っていた。鞘がいれば、一目でわかると。ただひたすら心惹かれ、愛を一生捧げる事ができる唯一無二の相手だと。だから俺も、いつの日か先祖達が言うような伴侶に、鞘に巡り会えるかもしれないと思っていて…」

揺らいでいた眼差しが、彼女に据えられる。

「もし鞘に巡り会えたら、その時に婚約者がいた場合、婚約者の事も鞘の事も悲しませてしまう事になる。だから婚約者を作らないでいたんだ」
「そうだったんですね。ふうん…」

相変わらず何の感情も交えない顔と声で、彼女は美斗の手を静かに離すと、ふと立ち上がった。そのまま研究室のドアへと近付き、勢いよく開け放つ。
どうやら、ドアに耳を付けるという恐ろしく原始的な方法を取っていたらしい。どどどっと盛大な音と共に、ゼミ生全員が部屋に雪崩れ込んできた。彼女に無表情に見下ろされ、ゼミ生達は気まずそうに目を逸らす。
菅凪教授はと言うと、「貴方達ねえ」と呆れ顔で髪を掻き上げた。

「確かに気になるのはわかるし、この部屋に盗聴防止の術式を組んでいたけれど、だからって、こんな子供みたいな事する?」
「これじゃまともに話もできないな…」
「そうですね」

同じく呆れ顔の桃李に、彼女は同調した。
「確かに、君が言った通りだ。君の家…司家の事は、調べさせてもらった」

また場所は変わり、今度は車の中である。美斗と桃李が通学用に使っているリムジンの中だ。
あのままだと落ち着いて話ができないというのもあるが、彼女達をあまり長い時間大学にいさせ続けるのもどうかという事で、一旦解散となったのだ。
なお、社長は桃李が手配したハイヤーで、自宅まで送られる事となった。当然だが、ハイヤー代は美斗持ちである。
つまり彼女と社長は完全に別行動だ。彼女と社長は帰り道が完全に逆方向というのもあるが、自分達の都合で拘束してしまったからと、遠慮する社長に対して美斗が譲らなかったからでもある。
そして彼女は美斗の車で送られる事になったのだが、その前に一悶着あった。車で送っていくという美斗に、彼女が難色を示したのである。

「だって『知らない人の車に乗っちゃいけない』って、小学生の時に教わりました」
「小学生とかっていつの時代の話してんだ!お姉ちゃん今幾つだよ!」
「『知らない人』なんて、悲しい事を言わないでくれ」

眉宇に悲しみを滲ませつつ、宥めるように美斗は言った。

「君は俺の鞘。やっと見付けた伴侶だ。俺にとって、君は他人じゃない。何より、俺の都合で遅くまでいさせてしまったというのに、1人で帰らせるのは心配なんだ」
「男の車に乗る事に抵抗があるとは思うよ?でもただ本当に送るだけだから、ここは美斗の気持ちを汲んでもらえないかな?」
「わかりました。弟も一緒に送って下さるなら」
「勿論だ」

美斗の言葉と桃李のフォローに対し彼女が譲歩の条件を示すと、美斗は快諾した。
だがいざ乗車の際にも、このようなやり取りが生じた。

「よし。瑤太は後部座席のドア側に近い場所に乗りなさい。私は助手席に乗るから」
「え?何で?」
「いい機会だし、覚えておきな。車にも上座と下座があるんだよ。運転席の後ろが上座で、ドア側に近いのが下座になる。まあリムジンのポジションは詳しく知らんが、大体そんな感じだ。因みに助手席は一番下座だ」
「俺の伴侶なのに下座に乗せたりしないぞ!?」
「あのさ。遠慮しているんだろうけど、話もしたいから、弟君と一緒に後部座席に乗ろう?」

と、これまた一悶着になりかけたものの、彼女は渋々ながらも後部座席に落ち着いた。勿論だが、美斗の隣である。尤も、可能な限り距離を空けての位置にいるが。
彼女の距離感に対し、美斗は何か言いたそうな顔をしていたが、それでも話を切り出した。

「君が結婚を無理だと言ったのは…その。ご両親の離婚の事か?」
「霊術士達は、いわば『力ある空の器』だと思っています。つまり、保護者の情愛なり何なり『一番最初に何を注ぐかが重要』という事です」

いきなり口を開いたかと思うと、そこまで言い切った彼女は、ふーうと大きく溜め息をついた。

「私の場合、注がれたのが一番身近な異性、つまり父親に対する不信感だったんですよ」

彼女は「まあ父親と呼びたくすらありませんが」と、嫌悪を隠しもしない口調で吐き捨てた。
彼女と瑤太が幼児であった頃に、時間は遡る。
彼女は人並みに生まれついたが、瑤太は幼少期は身体が弱かった。なので瑠子は、病室を出られない瑤太の為に、毎日通院し面倒を見ていた。
その病院に、彼女も父に連れられて通っていた。

「まあうちの父親、電車の中でも待合室でも…ああ。家族専用の待合室みたいな部屋もあったんですけど。ひたすら寝ていた記憶しか無いんですが」
「何しに来ていたんだろうな。親父(アイツ)
「さあ?お母さんが瑤太の荷物なり何なりを持って帰って片付けて欲しいって言っても、『やだよ。重いもん』だったな」
「いやマジで何しに来ていたんだよ。親父(アイツ)

当時の彼女は「何でお父さんは寝てばかりいるんだろう」と思いつつも、「お父さんも毎日お仕事だし疲れているのかな」と幼子らしく父を案じてもいた。
尤も、その子供らしい思いやりは、ある日無残にも踏みにじられる訳だが。

それは、いつものように父に連れられ病院に行ったある日の事だった。彼女が少しうたた寝をしている間に、待合室から父がいなくなってしまったのである。
飲み物を買いに行ったか、お手洗いに行っただけだろう。すぐに帰ってくると思い、いつものようにおとなしく絵本を読み待っていた彼女だが、父は戻ってこない。待合室にたまたま様子を見に来た瑠子が「あれ?お父さんは?」と訊いても、彼女は首を横に振るしかない。
まだ幼稚園に上がる前の娘を1人置いて、何処へ行ってしまったのか。瑠子は無論だが、彼女も流石に心配になった。なので父を探す事にした。

さて当時の彼女だが、実を言うと既に霊術の発現が始まっていた。毎日仕事に出る父親の道中の安全を祈り、『お守り』として渡した折り紙の花に、霊術を無意識に仕込んでいたのである。
彼女は教えられるまでもなく、霊術の使い方を知っていた。だから念じたのだ。お守りに「お父さんの居場所を教えて」と。

「わかった。こっち」
「え?」

彼女は母の手を引いて歩き出した。困惑する母を「こっち」「こっちだよ」と誘導するうちに、病院の外に出てしまった。

「…ねえ。病院の外に出ちゃったよ?本当にお父さんがいるの?そもそも、どうしてお父さんの居場所がわかるの?」
「お守りが教えてくれた」
「お守りって…お母さんにもくれた、折り紙のお花の事?」
「うん」

彼女は「ここ」とカフェを指さした。首を傾げながらも入った母と一緒に見たのは、

「お父さん。そのおばさんは誰?」
「おばっ…!?」

こちらを向いて、件の『おばさん』はショックを受けた顔になった。
そう。カフェで遭遇したのは、見知らぬ若い女性と手を取り合い、それは親密な距離で談笑する父親だったのである。つまり、父の不倫の現場に彼女は母と共に突撃してしまったのだ。その時の父の顔を、彼女は今でもはっきりと覚えている。

「それは…」
「何と言うか…本当に教育に悪いとしか言いようが…」

引きつった顔で、美斗と桃李は呻いた。
なお、人の外見年齢というものをよく理解していなかった当時の彼女にとって、大人の女性は大体『おばさん』だった。件の『おばさん』。即ち父の不倫相手は、当時の父より一回り以上年下だったが。

当然の事ながら、母は激怒した。家事はおろか病弱な息子の世話もろくにせず、文字通りただ病院に『来る』だけ。幼稚園にすら上がっていない幼い娘を1人置き去りにして何をしているかと思ったら、若い女性との密会。これで怒らなかったら、ただのうすら馬鹿である。

「お父さん、よくあのおばさんと一緒にいたけど、お仕事じゃなかったの?」
「『よく一緒にいた?』」

母に彼女は「うん」と頷いた。

「お守りから時々見えたの。お父さんの会社の人みたいだから、夜遅いのもあのおばさんとお仕事だからかなと思っていたんだけど」

時折だが、陽炎のように見えた光景を、彼女はただ伝えただけだ。すると一転して、母は深刻な表情になった。
それからの母の行動は早かった。まず、彼女を連れて実家に戻った。いわゆる「実家に帰らせて頂きます!」も、確かにある。だが最大の目的は、娘を祖母である翠子に見せる事だった。そこで初めて、彼女が霊術に覚醒している事がわかったのである。

「で、私の異能がわかると、父親は気味悪がりましてね」

実際、「お守りのお陰でお父さんが何処かわかった」と言った事、また瑠子を通して彼女の力を知った事で、父はまるで汚らわしい毒虫でも払うかのように、財布に入れていた彼女のお守りをばらばらに引き裂いた。その時の父の顔も、お守りが破り捨てられた事も、お守りを通して彼女には『視えて』しまっていたので、よく覚えている。

続いて父が言い出してきたのは離婚だった。元より不倫相手と一緒になる事を望んでいた事もあるが、彼女の事が怪物のように見えて、恐ろしさに耐えられなかったらしい。

「まあ尤も、有責配偶者から離婚を切り出すなんて、法律上できませんけどね」
「俺、あの時の事はよく覚えていなかったし、詳しい事は中高辺りで母ちゃんから聞いただけなんだけどさあ。ユウセキハイグウシャなんて、普通に暮らしていたら絶対に知らない言葉だよな…」

泥沼と化すかもしれなかった戦いにいち早く終止符を打ったのが、下の孫娘の伴侶のあまりの身勝手さに激怒した翠子だった。翠子は、当然ではあるが全面的に瑠子の味方となり、やり手の弁護士をつけてくれた。その弁護士によって父親と不倫相手は多額の慰謝料を取られ、晴れて離婚は成立。
更に翠子は、幼子2人を1人で育てるのは大変だろうからと瑠子を慮り、瑤太の医療費だけではなく、生活面も全面的にバックアップしてくれた。その一つが離れである。
瓊子と璃子の瑠子に対する扱いは知っているが、しかし目をかけていた下の孫娘と折角授かった曾孫達――しかも片方は霊術が覚醒している――は側に置いておきたい。
自分の目の届く所に置けて、かつ瓊子と璃子とは距離を取る事ができ、母子が安らげるようにしたい。なので屋敷の敷地内に離れを建てさせ、そこに住むように言ってくれたのだ。
また使用人達にも声をかけ、瑤太の看護も彼女の世話も、できる限りの助けとなるよう計らってくれた。
彼女は離れを『真の我が家』と思った事は一度も無いが、そこはそれ。自分達親子が不自由なく無事に過ごす事ができたのは、全て曾祖母のお陰だと心から感謝している。

しかし一連の出来事は、『最も身近な異性』即ち父親の裏切りを発端とする、男性全体への不信感という、決して取り去る事ができぬ腫瘍を彼女の心に植え付けてしまった訳だが。
「いや…全ての男がお父さんみたいな男じゃないよ?」
「そんな事は百も承知ですよ」

桃李の言葉に彼女はきっぱりと返した。

「でも『そうではない』人を見抜くなんて、それこそエスパーでもない限り、あるいは人の本質を看破する霊術の使い手でもない限り無理です。男性全体に対して失礼だと私に怒るなら、それより前に、全ての元凶である父親に文句を言って下さいよ」
「怒っていない。決して、君に怒っている訳じゃないぞ?」

慌てたような美斗のフォローに桃李も頷く。
彼女はふっと息をつき、窓の外に目をやった。

「父親とすら呼びたくないあいつが、結婚を無理だと言った最大の原因というのもありますけど。もう調べておいででしょうから、把握してるでしょ?伯母は流産を機に配偶者…つまり我々と血の繋がらない伯父とうまくいかなくなって離婚していますし、祖母は…まあ時代もあったんでしょうけど、離婚こそしていませんが、祖父が亡くなってからは祖父の悪口ばかりです」

例えば先だって書いた「年金が少ない」は序の口。曰く「お見合い写真が汚れなければ、結婚なんかしていなかった」。曰く「お父様にどうしてもと言われたから犠牲になった」。曰く「落ちぶれた家の落ちこぼれの長男、しかも一般人なんか」。このように、散々な物言いである。

なお祖母が事ある毎に口にする「お見合い写真が汚れてしまったから、お父様にどうしてもと言われて結婚しただけで、そうでなければ一般人の落ちぶれた家の落ちこぼれの長男なんかと結婚しなかった」であるが、これが嘘であると彼女は知っている。
曾祖母は「貴方はお祖父ちゃんが『お爺ちゃん』になってからの顔しか知らないから、想像できないかもしれないけど」と言った。

「善一さんは、若い頃は評判の美男子でね。瓊子ったら昔から凄い面食いだから、すっかり善一さんに惚れ込んじゃって。一般人でも構わないから善一さんと結婚するって聞かなかったの。私達…特に慈朗さん。つまり貴方の曾お祖父様が、結婚くらいは瓊子の好きにさせてあげたいと思っていたから、2人を一緒にさせたのよ」
「そうだったんだ。うん。お祖父ちゃんの若い頃って、全然想像できない」

というやり取りが、翠子存命時にあった。

「つまる所、祖母さんは自分の選択肢が間違いだと思ってるけど、それを自分のせいだって認めたくないから、ひたすら祖父さんの悪口を言っているだけさ。『見合い写真に汚れがどうたら』ってのも、使用人のせいにしていたし。仮に本当であったとしても、大お祖父様が娘に全てをおっかぶせて犠牲を強いるような真似をする訳が無い。大お祖母様から聞いた、大お祖父様の人となりから察するにね。あくまでも、顔で祖父さんを選んで、それが間違いで自分のせいだって認めたくないんだよ。祖母さんは」
「時代ってのもあるだろうけどさ。祖父ちゃんって家庭とか子育てとか祖母ちゃんに丸投げの放ったらかしだったんだろ?」
「ひたすら趣味人で、構われた記憶が無いってお母さんは言ってたね」
「祖父ちゃんも祖父ちゃんで大概だけど、死んでから奥さんにああも悪口ばっか言われるの、可哀想だと俺は思うわ」
「それは同感。第一、祖父さんが定年まできちんと真面目に勤め上げたからこそ、祖母さんは十分な年金をもらえてるってのにね。同じく悪者にされてる大お祖父様も、草葉の陰でお嘆きだろうよ」

これは、祖父が没した後のいつかの双子の会話である。
「とまあ、身近に結婚大失敗例が3例もいますからね。それを見て育ってしまいましたから、結婚には夢も希望も憧れも持ってはいませんよ」

ひょいと肩を竦めた彼女は「もう一つ」と言った。

「あと私、重度のオタクです」
「オタク?」

美斗と桃李の声が揃った。

「オタクってその…アニメとか漫画とか…あと『歴女』とか?」

桃李の問いに彼女は「そんな感じです」と首肯した。

「重度と言うが…どれだけ重度なんだ?」

美斗の問いは瑤太が「あー…例えば…」と引き取った。

「姉は小学生の時、ある小説の主人公が大好きだったんです。なんかもう、恋してるって言ってもいいくらい」
「恋?小説の登場人物にか?」
「理解できないとは思いますが、そもそも生身の存在ですらないと理解していても、創作物のキャラクターに恋慕あるいは恋慕に近い情を抱く人は、一定数います」

怪訝そうな美斗と桃李に、彼女は淡々と答えた。

「その小説自体はもう完結してるんですけど…主人公、死んじゃうんです。小説のラストで」
「それはそれは」

そうとしか言いようが無いらしく、桃李は相槌を打った。

「で、その時の姉なんですけど、主人公が死んだのがショックすぎて、完全に食欲無くして何も食べないくらいに落ち込んじゃって…」
「何故死んだ…」
「いやいやいや落ち込むなお姉ちゃん!単なる例えで出しただけだから、当時を思い出さないでくれ!」

漫画だったらどんよりとした空気を纏っているであろう項垂れる姉に、瑤太は慌てて呼びかけた。きのこを生やして今にも大自然に還りそうな程の落ち込みぶりである。ああ当時もこんな感じの落ち込みぶりだったなあと、瑤太は思い出していた。
ゆるゆると顔を上げる彼女は、幾分かいつもの調子を取り戻した顔で美斗と桃李を見やる。

「瑤太が言ったのもありますけど。私の初恋、日本中の霊術士達の大先輩にして御大家。安倍晴明様ですからね?」
「そうだったの!?初耳だよお姉ちゃん!ってか安倍晴明って、肖像画とかだと髭のおっさんじゃん。そもそも、もう死んでるし」
「それは確かにそうだけど。私が幼稚園の頃に読んだ漫画では、凄くかっこよく描かれていたのさ。正確に言うと、件の漫画の安倍晴明様が、私の初恋だね」
「よ…幼稚園の頃から…」

呻く美斗と桃李に、彼女は「園帽かぶってスモック着てる頃からです」と頷いた。

「まあ尤も、漫画の安倍晴明様には奥さんがいましたので、私のハートはあえなくパリンした訳ですが」
「強く生きろ。お姉ちゃん」
「ありがとう」

姉弟の微笑ましいやり取りの後、彼女は美斗と桃李に視線を戻した。

「このように、私は筋金どころか鉄骨が入ったオタクです。二次元にしか興味を持たないのが、父親を要因とする男性不信と因果関係があるかまでは自分でもわかりませんけど、私に期待しても無駄ですよ」
「そんな…」

美斗の死刑宣告でも受けたかのような顔に、美斗は座っているのに今にも崩れ落ちるのではないかと、桃李は思わず席から腰を浮かせる。

「…と言いたい所ですが、『刀と鞘』が揃う事の重要性は、私も理解しています」

姉が『社会人モードスイッチオン』の表情に切り替わった事に、瑤太は気付いた。

「この世と幽世を完全に区切る事ができるのは、つまり母や弟のような一般人が安心して暮らせるという事に繋がりますからね。なので私から提案があります。決して無関係な話ではないから、瑤太も聞きなさい」
「うちの孫が『鞘』!?」
「この子が!?」

司家本家は母屋。美斗の向かいに座する瓊子と璃子は、一様に驚きの声を上げた。瑠子と瑤太と共に後ろに並んで座る彼女と美斗の間で、視線が忙しく動く。

家庭事情はどうあれ、物事には順序というものがある。まずは日を改めての挨拶は必要だろうという事で、刀隠家から司家に正式に連絡が入った。
何せ霊術士達の筆頭本家。その次期当主直々の訪問である。主に祖母が大騒ぎした。彼女が『シルキー・シリーズ』を全力で総動員させて屋敷を掃除し整えるよう命じられたのは言うまでもない。

そして美斗訪問の当日。予め同席させるように刀隠家から言われていたので、彼女達親子3人も交えて、美斗を出迎える。客間にて美斗が早速切り出したのが、彼女こそが自分の『鞘』である事だった。

「いやでも、この子は霊術士としては出来損ないですよ!?人型の式神すらまともに作れず術も使えない、おまけに傷物の本当に恥ずかしい孫で…」
「おいこら」

お茶を出した折り紙人形の式神を指し、恥じ入ったように瓊子は言う。
尤も、そこで黙っているような人間ではないのが彼女だが。

「その出来損ないが作った式神に生活全般任せているのは誰さ。つか、当人である私を前に、よくまあそこまで悪口を言えるもんだな祖母さん」
「出来損ないという言葉は聞き捨てならないな。先だってにおいては、誠に立派な人型の式神を披露してくれたが」
「そうだったの?」
「具合が悪くなった人用の特別仕様で人型にした」

こっそりと訊く母に、同じくこっそりと彼女は返した。

「そんなの、あたし聞いてないわよ!第一、人型にできるなら何でそうしないの!次期当主様の前にこんな紙切れなんか出して、あたしがどれだけ恥ずかしいか!」
「趣味じゃないからだよ。何より、祖母さんの見栄の為に式神なんて作りません」

痛くも痒くもないといった様子の孫娘に、瓊子は益々激昂した。

「それでも人型を披露したっていうのは何!?あんた、一体何をやったの!」
「瑤太の大学で不審者及び妖魔除けアイテムの説明会。そこに若君様達も見えてた」

若君様こと美斗の「聞き捨てならない」に一瞬怯みはしたものの、一転して咎め立てするような瓊子の言葉に、彼女は至って涼しい顔で返す。瓊子は呆れたような表情で大きく溜め息をついた。

「あんたはまたそんな下らない物作って…。変な人なんて気を付けていれば寄ってこないでしょ?隙がある方が悪いんじゃないの」

璃子も流石に母に呆れ顔を向けた。瑠子は溜め息と共に首を横に振り、瑤太は「駄目だこりゃ」と言うかのように天を仰ぐ。彼女は「わかってないな」と言い返した。

「時代が違うからの価値観の違いもあるだろうけど。そりゃあ、通学もお出かけも運転手付きの専用の車で、しかもきちんとお付きの姉やもいる状態で送迎だった祖母さんには理解できないよね。どんなに『自衛』してようが、不審者なんて寄ってくるものさ」
「あえて市井に身を置き、弱き者の立場を慮って力を使う姿勢は立派だと思うが」
「え、ええ確かに、そういう所がある孫ではあるんですけど…」

美斗の言葉に一転して同調する祖母に「相変わらずのプロペラ顔負けの掌クルクルぶりだな」と瑤太は呻いた。

「しかし『傷物』とは気になる言葉だな。君の負担にさえならなければ、理由を聞かせてくれないか?」
「額の傷の事を言ってます」
「傷?」

慎重かつ優しい口調で美斗が訊いた途端、璃子は僅かに緊張を走らせた。そんな伯母を尻目に、問われた彼女は剝き出しの額を指して答える。怪訝そうな美斗に彼女は続けた。

「小さい頃、縫うくらいにざっくりいった事がありまして。まあ今は、私の顔面に物凄く接近し『傷がある』と意識した上で注意して凝視して初めて『少し皮膚の色が変わっているかな』と気付く程度の痕ですが。しかし祖母にとっては、傷がまだくっきり残っているように見えているみたいです。なので私を『術もまともに使えない上に傷物の恥ずかしい孫』と。私は恥なんだそうです」
「そうだったのか…。それは大変だったな…」

美斗は彼女を労わる口調で頷いた。

「君は決して、出来損ないでも恥でもない。誇り高い君の姿は、誰よりも凛々しく美しい」

あまりにも率直な言葉に、「まあ」「おお」と彼女以外が感嘆の息をつく中、美斗は立ち上がって瑠子の正面に正座した。

「御母堂様。改めて請います。娘さんをどうか、私の花嫁とする事をお許し願えませんか?」
「それは、またとない…ありがたいお話です」

畳に手をつき深々と頭を下げる美斗に、唐突な敬語と改まった態度に戸惑いつつも、瑠子は答えた。同時に横の娘に視線を向ける。

「ですが…最終的には、この子の意志を尊重したいと思います」
「親の鑑ですね」
「お受けします」

美斗の言葉の余韻に浸る間も無く、彼女は即答した。母の「本当にいいの?」と気遣わし気な眼差しと言葉に迷いなく頷く。

「元々言ってはいたけれど。『刀と鞘』システムが起動する事で、この世と幽世を完全に区切る事ができるからね。それはつまり、お母さんや瑤太が安心して暮らせるようになるって事だから、私は構わないよ。まあ正式に『刀と鞘』としての縁を結ぶ儀式、つまり結婚式?みたいなものの準備には時間がかかるでしょうけど、法的な婚姻だったら、この場で結べるんじゃないですか?」
「――弓弦」
「はい」

それまで上座の美斗の傍らに静かに控えていた人物。最初に『各務』と名乗っていた辺り、桃李の縁者だと思われる――後に父親だとわかった――弓弦と呼びかけられた男性は静かに立ち上がると、鞄から取り出した書類を彼女の前に置いた。美斗の署名等がしっかりとされた、婚姻届である。
続いて筆記具を渡された彼女は、礼を言いつつ署名する。筆記具を受け取り書面を確認した弓弦は頷くと、婚姻届をしっかりと鞄に収めた。

「鞘姫様のご署名、確かに確認しました。万事滞り無きように致します」
「頼んだ」
「『姫』なんて柄じゃないから、何かぞわぞわしますね」

うすら寒そうにぼやいた彼女は祖母と伯母の方を向き、しゅたっと片手を挙げた。

「そういう訳で、祖母さん。伯母さん。我々、今日を限りにこの家を出るから」
「へ?」
「え?」
「勿論だけど、お母さんも瑤太も一緒。もう二度と戻らないし、連絡も受け付けないから。つまり完全に縁切りだから、生活費は2人で何とかしてね。あ。式神達も引き上げるから、これからの家事とかも全部自分達でやって。もし次に会うとしても、せいぜい葬式だよ」
「ちょっとあんた、何言って、」
「もう決めた」

彼女は涼しい顔で告げた。