寝台でうなされている幼子の元へ、彼女はそっと近付いた。

 苦しげに寄せられた眉に、乱れた呼吸。
 目尻からは、幾筋もの涙が伝う。
 また、新たに流れた涙を拭ってやろうと手を伸ばし――彼女は、自身の手が幼子をすり抜けたことで、ハッと我に返った。

 幼子に……可愛い娘に触れられないのは、彼女がすでに魂だけの存在になって久しいからだった。
 
 肉体を失くした自分では、またも魔法による悪行のせいで恐ろしい目にあった娘の涙を拭うことすら出来ない。
 怖がる娘を救い出し、もう安心よと抱きしめてやることも出来ない。

 今、出来る事といえば……意味もなく漂う事だけ。
 それが、何になるのだろうと彼女は悔しさに唇を噛む。

 だけど、痛覚などとうにない。
 暑さも寒さも、空腹すらも感じない。
 体はすでに“あの魔女”に奪われおり、人としての自分は死んでしまったと理解している。

 それなのに、いつまでも天の門へ行けないのは、一人残していく娘が心配だったからだ。
 
(それでも……ようやく安心して逝けると思ったのに……)

 両親を亡くした娘は、全てのモノに恐怖を抱く、ひどく臆病な子供になってしまった。

 心を痛め、大丈夫よと手を差し伸べても、彼女の手は我が子を素通りするばかりで触れらず、ただ日々神経をすり減らす娘をそばで見ているしかない。

 そんな無力な己に歯がゆさを覚える毎日に、希望が差し込んだのはある日の事だった。

 可愛い娘が、一人の王子様と出会ったのだ。

 以降、娘の表情はだんだんと明るくなっていった。生気に満ちていく顔を見て、どれほど嬉しかったか……。

(これならもう、大丈夫) 
(この王子様との出会いが、この子の救いになった)
(私は、いつ逝っても大丈夫ね……)

 ――しかし、差し込んだ希望は、またしても“あの魔女”によって粉々に砕かれた。

 向かい合う、二人の子供達。
 照れたような顔をした、幼いながらも利発な王子。そんな王子を、きらきらした目で見上げる娘……二人の姿は、たちまち灰に埋もれた。

 またしても、魔法で恐ろしい目にあった娘は、灰の中から救出された後……今も、まだ目を覚まさない。
 恐ろしい夢に囚われているのだろう。
 こうしてずっと、魘されては泣いている。
 うわごとで「おかあさん」と呼ばれて、彼女は泣きたくなった。

(――ここにいるわ。ずっと、ここにいるから、大丈夫よ……)

 呼びかけて、手を握ってやりたかったのに――彼女はもう、娘に触れる事が叶わない。

「……まだ、そこにいたのかい」

 ふいに呼びかけられた彼女は、娘から視線を外すと、振り返った。
 この館の主にして、かつての師である、茨の森の魔女がいた。

 全盛を誇ったあの頃より、だいぶ老け込んでしまった師は、皺の増えた顔でじっと彼女を見ていた。

 (見えるのですか、お師匠様?)

 そう問いかければ、師は頷く。

「いつまでそうしているつもりだい?」

(――いつまで?)
(――いつまでですって?)

 カッと怒りがこみ上げてきた。

「……怒るんじゃないよ。魂だけの存在で、長らくこちらに留まるのは良いことではないと、お前も知っているはずだよ?」

 そんな事は分っていた。
 分っていたけれど、割り切れないのだ。

「……死んだことを認識できていないと思ったら、そうでもなさそうだ。……そんなに、この子が心配かい?」

(――当たり前です。私とあの人の、宝物ですよ?)

 本当は、もっとずっと、一緒にいられるはずだったのだ。

(――冒険が好きなこの子だもの。あの人と二人、もう少し大きくなったら、家族でいろんな所へ行きましょうと話していたのに……!)

 なんて意地悪な質問だろうと、彼女はかつて師と仰いだその人を睨み付ける。
 すると、茨の森の魔女は薄汚れたぬいぐるみを差し出してきた。
 
 灰のせいで煤けたそれは、悪戯好きの妖精“カボチャお化け”を模したぬいぐるみ。
 娘の誕生日祝いに贈ったもの。可愛い娘の、大のお気に入り。

「野茨の魔女は、コントドーフェ王国の王子にまで呪いをかけた。……私は、この子に忘却の魔法をかけるけれど……魔法による二度の恐怖体験を、心の奥底では決して忘れないだろう」

 恐怖は後々まで影響すると告げられ、彼女は痛ましげに我が子を振り返る。

「……天の門へたどり着けないまま消えるのを待つよりも、この子のそばで見守ってはくれないかい?」

 彼女は、師の申し出を訝かしんだ。

「――このぬいぐるみには、強い思いがこもっている。お前のもの、お前の夫のも、そしてこの娘のもの……だから、このぬいぐるみを魂の容れ物にする」

 それは、奇跡に近い魔法だ。
 死者の魂を呼び寄せることは出来ても、長時間とどめることは出来ない。とどめようとすれば、多大な力を使う。
 ……現在の師に、そんな力が残っているとは思えなかった。

「もちろん、私一人の力では無理だ。けれど、お前もまた魔法使い。二人分の魔法を込めれば、多少は持つだろう。――その分、制約も多くなるけれど」

 どうする? という問いかけに、彼女は頷いた。
 同じ娘を持つ親として、師は答えを予想していたはず。

 自分もまた、師の最愛である“あの魔女”のための駒として使う気なのだろうが、乗らない手はなかった。

「では、魔法を使おう。……私がお前達親子に出来る、唯一の贖罪。全てを奪ってしまった小さき魔女に遺せる、唯一の魔法を」

 そして、二人の魔女による魔法により、ただのぬいぐるみに魂が宿った。


 ◆◆◆


 一目散に、うなされ泣いている娘の元へ向かうと、自分と同じ色で……けれど髪質は夫譲りのさらさらした手触りの髪を、優しく撫でた。
 すると、まつげが震え――ようやく、娘の目が開く。

 こぼれた涙を拭いてやると、娘は状況を確認するように、ぱちぱちと瞬きを繰り返して不思議そうに言った。

「あなた、だぁれ?」

 夢から覚めたばかりの、けれど夢の内容を忘れてしまったせいで、どこか目覚め切れていない、舌足らずな問いかけ。

 それに答える術を――今の彼女は持ち合わせていない。

 長く続くようにとかけた制約は、少女の前で喋らない事。正体を悟られないこと。

 声を発せば魔力が弱まる。
 正体を知られれば魔法が解ける。

 たしかに不便だろうが、それがどうした。
 これからは、なにを話すことも出来なくても、名乗ることは出来なくても、それでも魔法が長く続けば、それだけ我が子のそばにいる事が出来る。
 
 いつか魔法が切れる、その時までは。
 あるいは、この子を託せる、誰かが見つかるその時まで。

  ――自分が守る。
 
 決意を声に出すかわりに、彼女は胸に手を当てて優雅に一礼してみせる。

「……カボチャおばけ……?」
「そうだよ」

 後からやって来た茨の森の魔女は言った。

「これは、お前がいつも抱いていた、あのカボチャお化けさ。晴れて力を得て“使い魔”になれたんだよ。さっき試しに呼んだら、出てきてね。これから先、お前の手助けをしてくれるというから。まず、名前を付けてあげようね」
「名前……? じゃあ……」

 この時から、娘が自身の王子様と出会い呪いを断ち切るまで、彼女は母親ではなく“カボチャお化けのランたん”になった。

 全てを託せる青年に、娘を任せると決めるその時まで、ランたんは一度も言葉を発さなかった。


 そして、今度こそ本当に、彼女の望みが叶う時が来た。
 娘は、自らガラスの靴を脱ぎ捨てて、立ち向かう強さを得たのだ。

 野茨の魔女を天の門へと送った道へ、彼女自身もランたんのまま飛び乗って、可愛い娘に別れを告げた。

 あの子の涙を拭う手はもうないけれど、きっとその役目は隣の王子様が果たしてくれる。

『小さな魔女さん。……お母さんとお父さんの、可愛い可愛い宝物。どうか……幸せに』

 最愛の娘が作ってくれた天の門へ続く道。最後の言葉は聞こえなかっただろうけれど、彼女は満足だった。

(――私の愛するあの子とあの子が愛する者、二人がどうかいつまでもいつまでも幸せでありますように)

 カボチャお化けのランたんが、母親として最後に遺した魔法。
 それは、解けることのない永遠の魔法になった。