灰かぶり王子と薄紅の魔女


 “……娘を虐げていた継母は、とうとう隠していた恐ろしい本性をあらわにしました。王国を我が物にするため娘を亡き者にし、王子の心を操ろうとしたのです。

 けれど、二人の心はそんな事では離れません。悪い魔女の魔法は、真の愛により打ち破られました。

 悪い魔女は灰になり消え去り、王国に新しい朝がやって来たのです。
 
 そうして、王子と娘はお城にもどり、たくさんの人達に祝福され、盛大な結婚式を挙げました。

 二人を結びつけてくれた善い魔女が杖を一振りすると、色とりどりの花が二人の上に降り注ぎます。

 人々がわっと歓声を上げました。

 その中には、娘を助けようとして怪我をした、姉達も混じっていて、嬉しそうに手を振っています。

 娘は白い手を振り返しました。その手はもう、薄汚れてはいません。娘はもう、灰を被る必要はありません。

 花に触れても、美しさを損なってしまう事は二度と無いのです。

 ああ、なんて幸せなのかしらと歌うように口にした娘に、王子は微笑みました。

 これからもっともっと、みんなでたくさん幸せになろうと――。”


 訪れた教会にて通された部屋、そこでリュンヌは、コントドーフェ王国一番売れている物語の終盤を思い返していた。

 悪の魔女は灰になり死に、残った娘達は最後は娘を助けようとしたため恩赦を与えられた。物語は主役二人のめでたしめでたしで締めくくられ、姉達のその後については一切触れられていない。

 ――現実の彼女たちにしてもそうだ。

 王妃を虐げてきた義姉二人が、いまだ王都にいる事を知っている人間は、もしかしたら少ないのではないだろうか。

「あの神父様、知り合いだったのね」
「ああ、昔の……な」

 リュンヌとカルケルが訪ねると、最初は神父から、有無を言わせぬ笑顔で、そんな人達はいないと言われたのだ。

 しかし、カルケルがわずかにフードから顔をのぞかせると、対応は一変した。
 すぐに別室へ案内され、初老の神父は懐かしそうに目を細めたのだ。

『……お久しぶりです、カルケル様。大きくなりましたな』

 しみじみとした口ぶりにリュンヌが驚くと、カルケルは気まずそうに目を逸らして言った。

『……まさか、俺なんかを覚えていてくれたなんて……』
『覚えておりますとも。カルケル様は小さい頃、たいそうやんちゃでしたから』
 
 神父は優しい目をしていた。
 カルケルの現状は、彼の耳にも届いているだろうに、嫌がる素振りもみせない。
 ここに来た目的を聞いたりもしなかった。

『あの二人は、間もなく来るでしょう』
『……すまないが、俺がここに来たことは――』

 席を外そうとした神父に、カルケルが秘密裏の訪問だからと口止めしようとすれば、すでに心得ているという体で頷かれた。

『はい。他言無用で。……陛下からも、いずれ訪ねてきたときは、内密に協力して欲しいと言われております』
『……父上が――?』
『はい。……カルケル様。陛下は、貴方様が健やかな生を送られることを望んでおいでなのです』

 そして、神父は一礼して部屋を出て行った。
 最後の最後に、気になる発言を残して。

「……父上が、なぜ」
「……知っていたのかも」
「え?」
「私達が、ここに来るって、最初から分かっていたのかもしれないって事」
「……まさか。……俺の不要と思っている人だぞ」

 リュンヌは頬杖をつくと「それなんだけどね」と続けた。

「それ、お父さんから直に言われたの?」
「…………え?」

 カルケルが、戸惑ったように声を震わせた。

「い、言われたわけではない。……だが、実際俺は持て余されていた。王太子には相応しくないという意見だって上がっていたし……」
「……私、“カルケルの話”をしているんだけど?」
「……俺の……?」

 迷子のような顔をしていると、リュンヌは思った。

 不安で心細くて、自分が今どこにいるかもわからない……そんな表情のカルケル。
 放っておけない気持ちになるじゃないと内心で呟き、リュンヌは手を差し出した。

「はい」
「……なんだろうか?」
「手を繋いでいれば、安心できると思って」
「…………は? ――はぁ……!?」
「カルケルは、いつもだいたい寂しそうな顔をしているのよ。物事を悪い方にばっかり考えるのも、一人で延々と難しく考え込んでいるからに違いないわ」

 だから、とリュンヌは強引にカルケルの手を握り、続けた。

「これからは、私と一緒に考えればいいのよ」
「――……っ……」
「家族のことだってそうだわ。カルケルは、一度もお父さんに直接なにか言われたわけじゃないのよね」
「……それは……」
「やることが追加されたわね。呪いが解けたら、家族ともちゃんと向き合わなきゃ」

 カルケルは「だが……」と小さな声を発した。

「もしも、全て俺の考えていた通りだったら……?」

 だったら、やっぱり俺は一人ではないか。

 言葉にしないまでも、これまでずっと、呪いのせいで孤独に陥っていたカルケルの目はそう語っていた。

 リュンヌは、カルケルの根っこをみた。孤独だ。

 向き合う自分の胸が痛くなるほどに、カルケルの中にある孤独感は強いのだ。
 だから、リュンヌはあえて明るく笑ってみせる。握る手に、力を込めて。

「それでも一人になんてならないわ。私がいるもの」
「…………魔女殿、が?」
「私と一緒に、茨の森で暮らせばいいわ。料理も教えてあげるし、なんならランたんだっているし、きっと楽しいと思うの!」
「…………っ」

 声を詰まらせたカルケルが、不意にリュンヌの手を両手で包んだ。

「か、カルケル?」
「……いて、くれるのか? ――全部終わったとしても、それでも……君は、俺と一緒にいてくれるのか?」
「もちろんよ! ……か、カルケルが、嫌じゃなかったら……だけど」

 見つめられて、リュンヌの頬が熱くなった。
 大切そうにリュンヌの手を包み込むカルケルは、返事を聞いてふと、微笑んだ。

「――殺し文句だな、魔女殿。……俺はもう、君から離れられなさそうだ」

 優しい声音の後、カルケルはリュンヌの手を持ち上げて、自分の唇を押し当てた。

「あ、あ、あ」
「……ま、魔女殿? おい、顔が真っ赤だぞ、魔女殿……!」
「あああああああ」
「どうした、しっかりしろ!」
「貴方って王子様! 王子様が過ぎて恥ずかしい!!」

 ぱっと自分の手を抜き取ったリュンヌは椅子から転げ落ちる勢いで床にしゃがみ込んだ。

「……い、いや……過ぎるも何も……俺は、王子なんだが……」
「恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい! なんなの? 本のヒロイン達は、なんで平然とこういうのを受け入れられるの? 心臓に毛が生えてるの? ああああああああっ!」

 理想の瞬間だったというのに、リュンヌはカルケルにそうされた瞬間、顔から火を噴くかと思うほど熱くなり、心臓が苦しいほど早くなった。

 初めて――そう、茨の森で、挨拶のようにされたときは、王子様だとはしゃいだだけで終わったのに。
 今は、恥ずかしくてカルケルを直視出来ない。

 すると、小さな小さな笑い声が聞こえてきた。

 指の隙間からカルケルを見ると、彼はフードを引っ張りつつ笑っていた。

「……君は、照れ方が激しいんだな」
「……っ……知らない……!」
「というか、君でも照れるんだな。よかった」

 だって、俺を意識してくれた……という事だろう?

 そう言って満足そうに笑ったカルケルは、パラパラと灰を降らせた。

 それに気付くと、満足そうだった笑みは、あっという間にやるせないものへと変わる。
 
「……魔女殿、俺は呪いを解きたい。……他でもない、俺自身のために」
「う、うん。もちろん、協力するわ」
「ありがとう」

 カルケルは安心したように笑い、リュンヌに手を差し伸べる。

「お手をどうぞ、魔女殿」
「…………王子様みたい」
「みたい、じゃなくて……本物なんだがな」

 軽口を叩く二人の手がしっかりと繋がれたとき、こんこんと控えめなノックの音が扉から聞こえた。


 扉を開けると、立っていたのは二人の修道女だった。

 ――王妃の義姉達だ。

 二人は、自分たちを訪ねてきたのが誰なのか分かっているようで、リュンヌはともかく、カルケルが名乗るよりはやく、深く頭を下げる。

 面食らったカルケルが顔を上げてくれというと、二人はようやく……けれども恐る恐る頭を上げた。

「突然の訪問、申し訳ない。どうしても、二人に聞きたいことがあったので」
「とんでもございません。……わたくし共が分かる事でしたら、なんなりとお話しいたします」

 リュンヌとカルケルが聞きたいことは、一つだった。

 どうして過去、王妃に酷い事をしたのか――それだけだったが、義姉達の顔色はたちまち青ざめた。

 そして、醜い言い訳に聞こえるかもしれないが、と前置きし重く口を開いた。

「……わからないのです……」
「……わからない?」
「――自分たちがしでかした事なのに、なにを……と思われるでしょう? 当然です。わたくしたちだって、これが他人ならばそう思いましたし、憤りすら感じたでしょう。でも本当に、わからないんです」

 どうして彼女にだけ、あんな酷い事が出来たのか分からない。
 いまでも、どれだけ考えても、分からない。
 当時の自分たちの行いが信じられない。

 ――理解が出来ないほど、あの頃の自分たちは醜悪で、許されない罪を犯した。

 そう語る二人は、深く反省しているように見えた。

 ただひたすら贖罪の日々を送る彼女たちは、過去の行いを悔い、また過去の自分たちを恐れているようだった。
 
「幸い、寛大な王妃様はわたくしたちの事を許して下さいました。恐れ多くも、会いたいとすら言って下さいます。……ですが、酷い事をした過去は消えません。思い出し、深く傷つくかもしれません。それに、わたくしたちも顔を合わせた途端、また以前の悪魔のような自分たちに戻ってしまいそうで、恐ろしいのです……」

 二度と繰り返したくないと思うから、二人は王妃には会わない。
 手紙のやり取りにとどめている。それだけでも、身に余る事だと語る義姉達。

 話を聞いた時、リュンヌとカルケルは目配せした。
 同じだと。
 屋敷の前で会った女性と、同じだった。

「なぜあんな酷い事を平然と行えたのか。いつも考えるのですが、わからないのです。自分自身のことなのに、わからない……。わたくしたちは、そんな自分自身が恐ろしい……」

 直接害を加えてきた分、義姉達の方が混乱も自己嫌悪も大きかった。

 彼女たちは、生涯教会で過ごすつもりだと語った。贖罪のために生きると。

 ――リュンヌは、そんな姉妹達に、ある質問を投げかけた。

「貴方達の母親は、どこへ?」

 びくっと二人の肩が跳ねた。

「貴方達が教会から出ないのは、罪滅ぼしという意識はもちろん本当だけど、もう一つ……母親から自分たちを守るためよね」
「な、なにを……」
「自分たちを先導した母親だけが、姿を消した。……それに、何も感じないわけがないわよね」

 姉妹は顔を見合わせる。
 そして、覚悟を決めたように口を開いた。

「母親を庇っていると思われるかもしれません」
「あるいは、罪を軽くしたいがための、言い訳と思われるかもしれません」

 でも……と、姉妹は声を揃え言った。
 昔の母は、あんな風ではなかったと。


 義姉達と別れ、教会を出たリュンヌとカルケルは浮かない顔で一度教会を振り返り仰ぎ見た。

「……まるで人が変わったようだった……か」

 カルケルが独りごちるように口にしたのは、先ほど義姉達が言っていた言葉だった。

 昔の母は、あんな風ではなかった。
 ある日突然、人が変わってしまった。

 家を空ける事も多くなり、心配して話しかけてもおざなりな返事しかかえってこなくなり……、そして急に再婚の話をされたのだ。
 ずっと、死んだ父を思って涙するような繊細で愛情深い人だったのに……。

 ――父を亡くした悲しみを乗り越えようとしているのかもしれない。

 当初はそう考えた姉妹だったが、後から考えればあまりにも不自然だったと思い返していた。

 母と父は恋愛結婚で、見ている方が胸焼けするほど仲が良かった。

 ――女三人の暮らしは物騒だから、次の相手を見つけたと考えれば一応の筋は通るかもしれないが……あれだけ父を愛していた母が、父が死んで三ヶ月で次の相手を見つけるはずがない。

 それなのに、姉妹は母に再婚を告げられた時「わかった」と従ってしまったと言うのだ。

 その後は、初めて会った義妹が可愛らしく、連れ子である自分たちを自然に受け入れてくれて、安心した。

 仲良くなれそうでよかったと、姉妹は本心で思っていたし、義父となった人が仕事先で事故に遭い亡くなるまで、三人の関係は良好だった。

 なにかが明確に狂ったのは、義父の死の後だ。

 気が付けば義妹を召使いのようにこき使い、気に入らなければ手を上げ、名前すらまともに呼ばなくなった。 

 ――義妹が、魔法使いの手助けを得て舞踏会に出席し、王子に見初められたその時まで、二人は今の自分たちがおかしい事に気が付かなかったという。

 近所の女性と、義姉達。

 別々の場所で、別々の人間が、全く同じ事を言っている。

 つまり、これは……。

「やっぱり、悪い魔法ね」

 歩き出しながら、リュンヌは言った。
 カルケルは、渋い顔で隣を歩く。

「自分の娘達にまで、か?」
「……本当に、娘かしら? ――っ」

 不意にリュンヌが顔をしかめた。
 カルケルが気付いて、身をかがめる。

「どうしたんだ、魔女殿?」
「……ん、なんでもない。ちょっと、足がチクッとしただけ」
「痛めたのか? 見せてみろ」
「そんなんじゃないから、大丈夫よ」

 リュンヌは誤魔化すように、つま先でトントンと地面を叩く。
 のぞいたガラスの靴が、光を受けて、ちかっと輝いた。

「……君は、その靴が気に入りなのか?」

 ガラスの靴を示され、リュンヌは笑った。

「どうして?」
「いや、俺が知る限り、君はいつでもその靴だろう? ……だが、気に入りにしても、こうして歩き回るような場合は適していないのではないかと思って……」
「…………」
「だから、足に疲労がたまったのだと思ったのだが……すまない、出過ぎた事を言ったか?」

 最後は、顔色を窺うように尻すぼみになったカルケルに、リュンヌは首を振った。

「別に。……貴方の言う通りだから」
「だが、顔が怒っているぞ」
「怒ってないわよ」
「断じて、君の好きな物を否定するつもりはないんだ。ただ、そういう靴は、長時間歩き回るのに向いていないと言うだけで……」

 慌てて言い訳めいた事を口にするカルケルを、リュンヌは「分かってるってば」と強い口調で遮ってしまう。

「私が、そんな事もわからないほど馬鹿に見える?」
「いや、見えない。……もしかして、その靴は修行の一環か何かだったのか? 特別な事情があったのならば……俺の言葉は無粋な上に的外れだったな、すまない」
「……修行では、ないけど……特別なものなの」

 リュンヌは、汚れ一つすらないガラスの靴を見下ろす。

「……あのね、カルケル……本当は……本当は、私……」
「あ! 孫じゃない!」

 ある決意をもって、リュンヌは口を開いた。

 しかし、狙い澄ましたかのように誰かの揶揄を含んだ声が被さってくる。
 リュンヌとカルケルが声の方を振り向くと、四人組の男女がにやにやした笑みを浮かべ、二人の方を見ていた。

「うわ、本当だ、孫だ。王都に出てくるなんて珍しい!」
「もしかして、お使い? あ~、でも“見習い孫”は、王都に近付いちゃ駄目っていわれてたんだっけぇ~、じゃあ、とうとう見習い卒業できたの?」
「馬鹿、孫さんは、永遠に見習いから抜け出せないから、孫さんなんじゃないか」

 遠慮無しに近付いてくる四人組は、馬鹿にした態度を隠さない。

 様子がおかしいと察したカルケルが「知り合いか?」と耳打ちしてくるが、リュンヌは答えられない。

「あれ? 連れもいるの? 見たところ、魔法使いじゃなさそうだけど……。あ! もしかして、ようやく才能のなさに気付いて諦めたの!? わぁ~おめでとう! よかったね! 自分の身の程ってやつを認められてさ!」

 明るい笑顔なのに、口調は刺々しい。
 けれども他の三人はどっとわいた。

「やめてないわよ……!」

 噛み付くようにリュンヌが言い返すと、とたん四人は白けた目を向けてくる。

「は? まだ? いい加減、茨の森の魔女におんぶに抱っこはやめなさいよ」
「迷惑を考えろ」
「貴方、何年見習いやってるの? 私達と同じ頃に魔法使いの勉強を始めて、まだ見習いなんて……普通だったら恥ずかしくて自分から先生のところを辞するでしょう」
「お前達、そうやって責めてやるなよ。なんてったって、この人は、あの偉大な魔女の孫なんだから」

 にんまりと笑う目が、リュンヌを捕らえた。

「才能ないのに立場にしがみつく、“永遠の見習い孫”なんだからな!」

 笑い声を上げる四人に言い返す言葉を、リュンヌは持ち合わせていなかった。
 言い方は嫌味だが、内容はほぼ事実なのだから。

「隣のあなた、その“見習い”とどういう関係なのかはわからないけれど……頼る魔法使いは選んだ方がいいわよ? その子は、何年たっても初歩魔法しか使えない、魔法使いの恥さらしなんだから」
「…………なんだと?」

 カルケルが発した声は、険がこもっていた。
 四人はもちろん、リュンヌもたじろぐほどに。

「だ、だから……その子の祖母が高名ってだけで釣られたんなら、やめておけって言ってんの。貴方のために、わざわざ忠告してるのよ」
「そうそう。なんて言ってだまされたか知らないが、そいつは何年経っても初歩中の初歩魔法しか使えない、見習い以下のエセ魔法使いだからな」

 唇を噛んで我慢していたリュンヌの目に、じわっと涙がたまった。

 エセではない。
 自分は、魔法使いだ。

 見習いでも、半人前以下でも、それでも祖母のように人を助ける、そんな魔法使いになる気だし、あきらめてもいない。

 けっして、魔法使いを自称して人を騙すようなことなんてしていないから、エセだなんて呼ばれるいわれはないのに……――言い返せない自分が悔しくて、こんな形でリュンヌの隠し事を知ったカルケルが憤っているのが分かり、怖くなった。

 見習い以下とまで馬鹿にされたリュンヌと、立派な魔法使いとなった彼ら。
 比べれば、どちらがより優れているかは明らかだ。

 絶対に呪いを解きたいと決意を固めたカルケルは、より優れた方を選ぶかも知れない。

 肝心な事を内緒にしていた、“永遠の見習い”である自分よりも……――そう考えたら、自業自得なはずなのに、とうとうリュンヌの目からぽろりと涙がこぼれた。

「……っ……」

 カルケルの視線を感じるけれど、顔を上げられない。かわりに、彼が息を呑む気配がして……――。

「おい貴様ら、今すぐその口を閉じろ」

 次の瞬間、地を這うような低い声とともに、大量の……今までの比ではない量の灰が、げらげら笑っていた四人組へ降り注いだ。


 突然、頭上から灰が降ってきたことで、四人組は悲鳴を上げた。

 我に返ったようにカルケルが舌打ちしたが、四人に向ける目には、まだ激しい怒りが浮かんでいる。

 ただ――悲鳴を聞きつけたのか、人のざわめきが近付いてきた。
 リュンヌは、慌てて涙を拭うとカルケルの手を引いた。

「魔女殿?」
「逃げましょう……!」

 リュンヌを散々笑っていた四人は、魔法ですぐに脱出できるから心配はないが、その後はきっとカルケルを罵倒するはずだ。

 その様子が人目にさらされれば、カルケルが傷つく。

 うぬぼれでなければ、自分のために怒ってくれたのだろうカルケルを、今度はリュンヌが守りたかった。

 ――けれど、逃げるしかできない力のなさに、悔しくて泣きたくなる。

 以前だったら、馬鹿にされたことによる悔しさだったが、今は……カルケルの役に立てない悔しさで、いっぱいだった。

 自覚すれば、リュンヌの足を刺すような痛みが走る。
 カルケルの手を引いて駆け出そうとしたリュンヌはよろめき、思わず膝をついた。

「魔女殿……!」

 カルケルが焦ったような声を上げる。
 二人の背後では、四人の魔法使いが、降り注いでいた灰を処理している。

 そして、人々が遠巻きながら集まってきた。
 こちらの様子をうかがう人々の目には、多かれ少なかれ好奇と恐れの色がある。

 あんな視線に、カルケルを触れさせたくない。
 リュンヌは、強く思った。

 ちょっと後ろ向きで、冗談が通じないほど生真面目、けれどとびきり優しい顔で笑う、この王子様が……――好きな人が、傷つくところは見たくないと、強く強く思った。

「っい、……たっ……!」
「魔女殿? 足が痛むのか?」

 カルケルに答えられないほどの激痛が、両足に走ったのはその時だ。
 同時に、それまでずっと袋の中で大人しくしていたランたんが飛び出してくる。

「おい、お前よくもやってくれたな!」
「どこの魔法使い!?」
「人を灰塗れにするなんて……! あの、呪われ王子じゃあるまいし!」
「同感だわ、悪趣味すぎる。灰にまみれるのは、灰かぶり王子だけで充分でしょう」 

 灰を片付けた四人が、口々に罵り声を上げ近付いてこようとする。
 けれど、飛び出してきたランたんがそれを制す。

 リュンヌと、彼女を抱え起こそうと膝をついていたカルケルを守るように両手を広げ――くりぬいた口の中を、ぴかっと光らせた。

 それはすぐに周囲をくらませるほどの大きな光となり、四人はおろか、野次馬達も目を覆う。

 そして、ゆっくりと目を開けたときには、リュンヌもカルケルも……カボチャお化けの姿も、綺麗さっぱりそこから消えていたのだった。


 ◆◆◆


 目を開けていられないほどの眩しさのあとの、体が浮かぶような感覚。そこで気が遠くなり……。

 ――なにか音がしたような気がして、徐々に意識が鮮明になる。

 手から伝わる木の感触に、カルケルが目を開けると、そこは茨の森にある魔女の館の玄関だった。

「……もどって、きたのか? ――うわぁ!」

 呆然と呟く彼、その視界ににゅっと現れたのは、カボチャお化け……ランたんだ。

「ランたん、まさか……今のはお前が?」

 くるり、とランたんは一回転する。

 それが肯定を意味する返事なのか、はたまた否定しているのか……カルケルには分からない。

 言葉を発しないこのカボチャお化けと、意思疎通が出来るのは、薄紅色の髪の魔女だけだ。

 ――カルケルは、その魔女の姿を求めて周囲を見まわした。

「……魔女殿? ランたん、魔女殿はどうしたんだ? 一緒に戻ってきたのではないのか?」

 直前、足の痛みを訴えていたはずの彼女の姿が、見当たらない。
 かわりに、外へ続く扉が半開きで揺れていた。

「……ランたん、彼女はもしかして、外にいるのか?」

 カボチャの頭が、大きく上下する。
 この仕草が肯定であることだけは、カルケルにも理解出来た。

「馬鹿な! あんなに足の痛みを訴えていたのに、なぜ……!」

 渋い顔で立ち上がる。
 外に行くよりも、足の様子を見て、必要な処置を施すべきだろうにと、憤りすら覚えた。

(彼女は、もっと自分を大切にするべきだ……!)

 カルケルは、自分の呪いと誠実に向き合ってくれた魔女の姿を思い描く。

 ときに拗ねたりいじけたり……こんな面倒くさい男に、根気よく付き合ってくれて、時に叱咤してくれる、優しい少女の顔を。

 彼女が涙をこぼしたことも衝撃的だったが、立ち上がれないほどの痛みを堪えようとする姿にも、胸を抉られた。

 彼女を傷つけようとする者達には、かつてないほどの怒りを覚えたし、彼女には頼って欲しいと思った。

「もしかしたら、どこかで動けなくなっているのかも知れない……探しに行こう、ランたん」

 カルケルはフードをかぶり直し、外に向かう。
 カボチャお化けは、ふよふよと不規則な動きで着いてきた。

 探し人は、ただ一人。

 感情なんて消えてしまえと思っていたカルケルの意識を変えた、薄紅色の魔女だけだ。

 彼女に対して、自分が抱いた感情は、何と呼ぶものなのか……、カルケルはとうの昔に知っている。

 ――呪いを解くことに協力する。そのかわり、自分と恋に落ちて欲しい。

 そう言った薄紅色の少女に、カルケルは二度目の恋をしていた。


 ずきん、ずきん。
 足が痛みを訴える。それと同時に、ガラスの靴が耳障りな音を立てる。
 リュンヌは木によりかかり、足首をさすった。
 
(……どうしよう……)

 足の痛みもそうだが、カルケルのことも……。

 彼に、自分は役に立たない魔法使いだと露見してしまった。

 それも、リュンヌ自身から打ち明けたわけではない、他者からの揶揄という形で暴露されてしまったのだ。

 王都にて、あの四人の前から上手く逃げおおせたのは、ランたんのおかげだ。

 もともとは“茨の森の魔女”が呼び出した使い魔だ。
 あのカボチャお化けは、有能だった。事実を言えば、リュンヌなどよりもずっと。

(私、なにもしてない……)

 危機に、何一つ満足のいく働きが出来なかった。

 人を助ける魔法も、人を守る魔法も、リュンヌは何一つ使えずにいた。

 ――合わせる顔がないと、目を覚ましてすぐ衝動的に飛び出したが……。

(うぅ、結果的には気絶したカルケルを床に転がしたまま逃げたし……私って、なんでこう……)

 逃げるのかと、カルケルに偉そうに言っておいて……いざとなれば、逃げ出したのは自分の方だったなんて、なんという体たらくだろう。

「なんでこう、突発的な事態に弱いのかしら……」
「ああ、本当にな」
「――っ!」

 自己嫌悪にかられ、思わず声に出した言葉。
 それに、まさか返事があると思わなかったリュンヌは、飛び上がらんばかりに驚いた。

 顔を上げれば、カルケルとランたんが木々の間に立っている。

「か、カカカカカカッ!」
「こら、笑い事ではないぞ。足が痛いのに、外に出るなんて何を考えている」
「笑ってない! 動転していたの!」


 生真面目な王子は、真剣な顔でリュンヌを注意してきたが、リュンヌは悪びれなく笑ったわけではない。

 言葉通り、動転していただけで、本当はただ「カルケル」と彼の名前を呼びたかっただけなのだ。

 少し怒ったような顔をしていたカルケルは、リュンヌが気丈に言い返すと、安心したように目尻を下げた。

 そして、当たり前のように手を差し伸べてくる。

「あまり、俺を心配させないでくれ。……ほら、早く帰ろう?」

 声は、あまりにも優しかった。

 もしかしたら彼は、王都であの四人組の言った事なんて、一切聞こえていなかったのではないかと思うほど、リュンヌに対する負の感情が欠片もなかった。

 あるのは善意の塊のような、優しさだけ。
 
「か、カルケル……」
「ん? もしかして、歩けないほど痛むのか? 無理をするからだ。俺でよければ、背中を貸すが……。……灰、がな……」

 足は痛い。
 たしかに、足は痛いけれど、それよりももっとずっと、痛むところがある。

「なんで……?」
「魔女殿?」
「なんで、お、怒らないの……?」

 カルケルが優しすぎて、胸が痛い。
 勝手なことだと思うけれど、露見した“真実”に、触れないようにしている彼の優しさが、針のように胸をチクチクとついてくる。

「怒る? 俺が? ――どうしてだ?」
「だって、……聞いたでしょう、あの人達が言ってたこと」
「……ああ、あの失礼な四人組か。あまりにも腹が立って、自制が効かなかった。目立つような事態を招いて、悪かった」

 謝るのは彼ではないと、リュンヌは首を横に振った。
 むしろ謝るべきなのは……。

「ごめんなさい、カルケル。私は……」
「魔女殿?」
「あの人達の言う通り、見習い以下の、ダメ魔法使いなの……! 黙っていて、ごめんなさい!」

 もう隠していられない。リュンヌはバッと頭を下げた。
 自分で言っていて、ひどく恥ずかしかった。

 きっとカルケルの目には、失望が浮かぶだろう。傷ついた顔をするだろう。

 彼は呪いを解くことを望んでいるのだから。
 
 そう思っていたリュンヌに、かさりと草木を踏む音が届く
 近くで聞こえた音に、顔を上げると、カルケルがすぐ傍まで来ていた。

「な……殴る?」

 怒っているのだ。
 なにせカルケルは人生がかかっている。それを、リュンヌの見栄のために台無しにされたとなれば、怒りは相当だろう。

 恐る恐るたずねてから、リュンヌは「どうぞ」とばかりに歯を食いしばった。

「誰が誰を殴るんだ。女性に手を上げるはずないだろう」
「……じゃあ、叩く……?」
「叩かない。――魔女殿、君は何か勘違いをしているぞ? ……俺は、君に腹を立ててなどいない」

 困ったように微笑んだカルケルからは、確かに怒りを感じなかった。

「……どうして?」
「どうしてって……」
「もしかして……諦めちゃったの? だめよ、そんなの! たしかに私は駄目駄目かもしれないけど……約束は、ちゃんと守るから! 呪いを解く手助けはするし、集めた情報もあるもの……、もっと立派な魔法使いに頼めば、きっと――」
「……そこで、“茨の森の魔女に頼むから、祖母が戻るまで待て”とは言わないんだな」

 微苦笑のまま祖母の名前を出され、リュンヌはびくっと肩を跳ねさせた。

「……魔女殿、俺は怒ってなんていないし、諦めるつもりもやい。……ただ、この先も一緒に悩むのは、君が良いと言っているんだ」
「……私……?」
「どんな立派な魔法使いよりも、俺は君がいいんだ。……俺のために、あれこれと一生懸命力を尽くしてくれたのを知っているから、君以外は考えられない」
 
 リュンヌは今まで、魔法が全てだと思っていた。
 魔法が使えない自分は馬鹿にされる。必要とされない。

 そして、それが事実だった。

 今まで彼女に、“魔法が使えなくてもリュンヌがいい”と言ってくれる人は、いなかった。

「だから魔女殿、これからも、俺に力を貸してくれないか?」
「……本当に、いいの?」
「もちろんだ。……俺は、一生懸命な君がいい」

 優しく和むカルケルの双眸に、泣きそうな顔になっている自分の姿を見つけたリュンヌは、みっともないと思い笑おうとした。
 けれど失敗して、たまっていた涙がぽろぽろと流れる。

「……す、すまない……嫌だったのか?」

 慌てたカルケルに、リュンヌは首を横に振る。

「それじゃあ、俺と帰ってくれるだろうか?」

 うん、と大きく首を縦に振り、リュンヌは差し伸べられた手を握る。
 そして、伝えなければと口を開いた。

「ありがとう、カルケル……! 私……っ、わた……し……っ」

 不意に舌が、凍り付いたように動かなくなった。
 繋いだはずの手から力抜け、彼の手を離してしまう。

「魔女殿? ――おい、魔女殿……!!」

 カルケルの目が大きく見開かれ、大声が耳朶を打つ。

 視界に灰が降ってくる。
 カルケルが大きく動揺しているのが分かった。それなのに、リュンヌはもう返事が出来なかった。

 足の痛みが、全身をねじ切るような激痛に変わり、リュンヌはそのまま意識を失った。



「魔女殿! 魔女殿、しっかりするんだ!」

 すんでの所で抱き留めたカルケルは、意識を失った彼女に向かって大声で呼びかけた。

 しかし、魔女はぴくりとも反応しない。
 ふわりと近付いてきたランたんが、ぺしんとカルケルの頭を叩いた。

「なんだ、ランたん。今は遊んでいる場合では……!」
『足を見せて』

 落ち着いた大人の女性の声が、目の前のカボチャお化けから発された。

「……今の声は、まさかお前か?」
『いいから、この子の足を見せなさい』

 ぺんっと再度頭を叩かれたカルケルは、どうやら自分の幻聴ではないと思い、カボチャお化けの指示通り、腕の中にいる少女のローブの裾を、少しだけめくった。

 そして、うっと息を呑む。

「……なんだ、これは……」

 ガラスの靴が、どす黒く変色していた。そしてまるで蔦のような痣が、リュンヌの足先から上へ上へと伸びている。

『……ああ……やっぱり……』

 カボチャお化けが発した女の声は、悲しみを帯びて震えていた。

『カルケル王子、この子を館へ運んで下さい』
「それは、言うまでもない。だが、この足は……」
『――呪いです』

 カボチャお化けは、言った。

『貴方と同じように、この子もまた、呪われている』

 ふわり、ふわり。
 カボチャお化けの動きは、いつもより精彩を欠き、どこかおぼつかない。

『……呪いはもう、止められない』

 一度、カルケルを振り返ったランたん。
 この使い魔の顔は、カボチャで出来ているので、当然表情変化などない。

 けれど、今のランたんには、カルケルを責めるような雰囲気があった。

『――この子は、恋を知ってしまったから』
「……恋……?」
『身に覚えがやいとでも、罪な王子様?』

 カルケルは言葉に詰まり、横抱きにした少女の顔を見下ろす。

 解呪の手助けと引き換えに、恋をしてくれという不可思議な条件を出してきて以降、彼女からそういった類いの話をされたことはない。

 ただ、時折見せる表情からは、嫌われていないとは推測できた。

 好かれているのだとうぬぼれることが出来たのは、あの教会での一幕で……。

「……それでも、こんな形で知りたくはなかった」
『――…………』

 呪いが解けたら、カルケルは改めて彼女に言おうと思っていたのだ。

 自分の事を忘れている彼女に、思い出してくれと縋るつもりはなく、ただこれから新しい関係を始めたいと。

『――恋を知らなければ、この子はずっと、小さな魔女さんでいられたのに……貴方のせいですよ、贅沢者の王子様』
「――っ……」

 あとは無言で歩いた。
 ほどなくして、館が見えてくる。

 ランたんが、大きく扉を開いた。
 カルケルは中に入り、カボチャお化けの誘導の元、一室へリュンヌを運ぶと寝台に寝かせた。

「靴……そうだ、この靴を脱がせなければ」
『無理です。そのガラスの靴は、呪いの靴。持ち主をとり殺す日までは、決して脱げません』
「とり殺すだと……!?」
『おかしいとは思いませんでした? どうして毎日毎日、舞踏会でもないのに、日常生活には不便な事この上ない、ガラスの靴をはいているんだと』
「……それは……思ったが」
『強い呪いです。夜、靴を脱いで寝ても、朝が来るとまた無意識にこの靴を選んでしまう。成長すると、靴もぴったりの大きさになる』

 そして、呪われたガラスの靴は待ってたのだ。
 少女が誰かに恋する瞬間を。

『恋なんて知らなければ、この子の呪いは発動せずにすんだのに』
「……お前は、一体何者なんだ?」

 今までは一度も口を開かなかった、カボチャお化け。

 急に饒舌に話し出した使い魔は、芝居がかった仕草で一礼した。

『この小さな魔女さんからは、カボチャお化けのランたんと呼ばれています。……“茨の森の魔女”がこの子に遺した、最初で最後の魔法です』


 リュンヌは夢の中にいた。

 あの忌々しいガラスの靴ではなく、木のサンダルをはいて、庭先で父と走り回っていた。

『ほーら、捕まえたぞ! じょりじょりの刑だ~』
『きゃー! おひげ、いたーい!』

 あごひげを生やした父に頬ずりされ、小さなリュンヌはきゃらきゃらと子供らしい笑い声を上げる。

 そんな風にじゃれ合っていた父と娘は、ふわふわと箒に乗って家に向かってくる人物を見て『あっ!』と声を上げ、顔を見合わせた。

『みて、おとーさん! おかーさん、かえってきた!』
『本当だ。ほらリュンヌ、手を振ってごらん』

 父に肩車され、リュンヌは満面の笑みで箒に乗った魔女に向かって手を振る。
 微笑んだその人は、片手を振り返すと、ひゅんと一気に降りてきた。

『ただいま、二人とも。変わりはない?』
『うん、ないよー』
『ああ、大丈夫だよ。君が心配するようなことは、何もない。それより、君のお師匠様の方はもう良かったのかい?』
『ええ、ひとまず。家出娘を捕まえられたみたいだからね』
 
 ゆるく曲のついた薄紅色の髪をたなびかせた母は、父と軽く抱擁を交わすと、リュンヌに向かって両手を広げた。

『さぁ、お帰りのキスをして、小さな魔女さん? そして、お母さんが留守にしている間、お父さんと、どんな大冒険をしたのか聞かせてちょうだい?』
『うん!』
 
 とびつくと、優しい両手がリュンヌを包み、頭を撫でてくれた。
 そして、ひとしきり話を聞くと、リュンヌの頬を挟んで笑顔をくれる。
 
『貴方は、私達の宝物よ。とっても可愛い、小さな魔女さん』
『うちの魔法使い二人が、世界一だな』

 愛おしそうに自分を見下ろし、微笑む両親。
 リュンヌが小さい頃の……一番幸せだった頃の夢だ。


 ――それは、突然ひっくり返る。


 その日。
 リュンヌは、両親が誕生日にくれたカボチャお化けのぬいぐるみを、母お手製の布袋にいれて背負い、帰路を急いでいた。

 手には、色とりどりの花。

 今日は、いつもより長いお仕事に出ていたお母さんが帰ってくる日だ。
 お父さんは、もうお家について、お母さんのために、ご馳走を作っている。

 リュンヌは、お母さんのために綺麗な花を摘んでいこうと、ちょっと寄り道したのだ。

 丘の上にある我が家が見えてきたところで、リュンヌは足を止めた。

 家の前に、誰かいる。

 もしかしてお母さんかも、と一瞬期待に目を輝かせたが、リュンヌに気付いて振り向いたその人は、全く知らない人だった。

 その人は、フードを後ろに押しやりながら微笑む。

「こんにちは、お嬢ちゃん。ねぇ、お母さんはまだ帰っていない?」
「……おかあさんの、お友達ですか?」

 にっこりと笑った人は、しゃがみ込むとリュンヌに視線を合わせて頬を撫でた。
 その爪は、母と違って長く、つやつやとした色が塗られている。
 
「ええ、ええ、お友達よ。わたしの母が、貴方のお母さんの、魔法の先生なの。わたしたち、一緒に魔法を習った仲なのよ」

 そんな大親友に、今日は是非にと頼まれていたものがあるの。

 そう言って、母の友達を名乗った女性は、リュンヌの前に一足の靴を置いた。
 きらきらと光るそれは……――。

「ガラスの靴よ。女の子を幸せにしてくれる、魔法がかかっているの。……ねぇ、コントドーフェ王国の“灰かぶり”……彼女のお話は知っていて?」

 リュンヌは、こくこくと何度も頷いた。
 子供向けの絵本にもなっているそのお話を、リュンヌはとても気に入っていたのだ。

 自分もいつか、こんな素敵な魔法使いになって、困っている人を助けてあげたいと思っていた。

「それにも出てくるでしょう、ガラスの靴。あれと、おんなじ靴なの。貴方のお母さんがね、可愛い娘に贈り物がしたいっていうから、特別に用意したのよ」

 さぁ、はいてみて。 
 帰ってくるお母さんを、喜ばせてあげましょう?

 優しい声が、リュンヌを誘う。

 リュンヌがもう少し大きかったら、状況の不自然さに気づけただろう。

 客人が来ているにもかかわらず、父が家の外に出てこない、その異常さに気づき、女の手を振り払えたかもしれない。

 けれど、リュンヌは幼かった。

 お母さんを喜ばせる。
 その一言で、幼い少女は木のサンダルを脱ぎ、用意されたガラスの靴をはいた。

 ぎゅっと締め付けられるような感触に、尻餅をつく。

 その瞬間、にこにこと笑っていた女の人は、指を差して大笑いを始めた。

「あはははははははは! はいちゃった! はいちゃったわねぇ、あなた! ――わたしが、あの女の友達? そんなわけないじゃない! あんな女、わたしを裏切って自分だけ幸せになろうとした、あんな女……!」
「――っ、お、おとうさん……!」

 変貌に怯えたリュンヌは、助けを求め父を呼んだ。

 すると、女は三日月のように目と口を細め、リュンヌを見下ろした。

「あら、あのつまらない人間のこと? 外見は全然わたしの好みじゃないし、うるさいから、薪に姿を変えて、火にくべてやったわ!」
「……っ、ぉ、おとうさん……! おとうさん、たすけてぇ! おとうさん……おとうさん!!」
「あはははは! 薪は火の中、もっくもく~、煙になってもっくもく~」

 意味はわからなかったが、目の前の女の人がとても恐ろしいことを言っている気がして、リュンヌは懸命に父を呼んだ。

 優しくて強い父だ、すぐに自分の声を聞いて飛び出してきてくれる。そして、この怖い女の人を追い払ってくれる。

 信じてあげた声は、女の笑い声によってかき消される。

「おとうさ……っ、おかあさん……っ、たすけ……」

 父は、この女の人になにかされた。
 母はいま、家にいない。
 じわじわと迫ってくる、得体の知れない恐怖心。 

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、リュンヌは両親を呼んだ。

 鋭い声とともに、二人の間に小さな雷が落ちたのはその直後だった。

「娘から離れなさい!」

 怖い顔をした母が、息を切らせて立っていた。

「おかあさん……!」
「あらぁ、はやいのね? 茨の婆は? 置いてきたの?」
「……娘から離れろ、と言ってるの」
「いいわよ、別に。用事はもう、終わったもの」

 母の眉が、ぴくりと動いた。

「貴方の宝物に、わたしからの贈り物よ。ねぇ、うれしいでしょう? いつか恋して花開く娘に、ガラスの靴の贈り物!」

 満面の笑みを浮かべる女と対照的に、母の顔からは血の気が失せた。

「あ、貴方……!」
「でも丁度良かったわ。この子、頭が弱いのか、せっかく教えてあげても、理解出来ないみたいで。やっぱりこういうのは、あなたに直接教えてあげないとね。――あのむさ苦しい人間、薪に変えて、火にくべてやったわ。う~ん、今取り出せば、体だけなら取り戻せるかもね! もっとも……焼きすぎのパンみたいに黒焦げで、余計見れたものじゃないでしょうけど!」

 優しい母は目を見開き、見たことも無いほど恐ろしい形相になり――女に掴みかかった。

「よくもっ!」
「裏切り者へ、当然の報いだわ」

 言いながら、女はリュンヌを蹴りつけた。
 「あっ!」と叫んだ母の関心が、リュンヌの方へ向く。
 その瞬間、女は笑みを浮かべ――リュンヌの母へ向かって杖をふった。
 一気に地面を、茨の蔦が這う。
 そして蔦は――転がった娘の方へ駆け寄ろうとした母の心臓を、貫いた。

「……ぁ……」

 一拍の間のあと、母の口からはかすれた声とともに赤い血がこぼれた。茨に貫かれた胸も同様に、真っ赤に染まっていく。

「お、おかあさん……?」
「……は――やく……にげ――」

 あはは、うふふ。

 耳を塞ぎたくなるような笑い声が響く。
 勝利に酔った、悪辣な笑い声だ。

 聞きたくない、見たくないと思うのに、体が動かない。

「おかあさん、いや……いやだ……おきて、おかあさん……! おとうさん、どこ……! おかあさんがっ……! ねぇ、おかあさん、おとうさん……!!」

 強く優しく逞しい父。
 優しくお淑やかで愛情深い母。

 今までたしかにあったはずの幸せが、ぐらぐら揺らいでいく。

 リュンヌはがたがた震えて、ただ見ていた。女が、母に近付いて――。

「コレはもう、いらないわ」

 自らの体もまた、茨で貫く瞬間を。

「もぉーらったぁ」

 不気味に歪んだ顔。
 そして、母とは違って血も流さない体。
 服か皮のように、ずるりと脱げた、人の姿。

 そして現れたのは、とても人間とは思えない、とんがった耳に小さな羽を背中にもった、リュンヌより少しだけ大きい程度の少女。

 可愛らしい顔に、いやらしい笑みを刷き、彼女はリュンヌの母の体ごと消えた。

 貰った。

 その言葉通り、母を連れて行ってしまったのだ。

「か、かえして……! かえしてよぉ! おかあさん、かえして! リュンヌのおとうさんとおかあさん、かえして……!!」

 誰もいなくなった虚空に向かって、リュンヌは大声で叫んだ。

「……あぁ、これは……なんてことを……なんてことを……!」

 箒に乗った魔女がやって来たのは、その後だった。

 白髪の魔女は、リュンヌが何を言わずとも状況を察し、痛ましそうに一人取り残された娘を見下ろした。

「わたしとおいで、小さな魔女ちゃん。一緒に、あの二人を追いかけよう」

 憐憫と罪悪感で溢れた魔女の目を、リュンヌはボンヤリ見つめ返す。

 うながされるまま、“茨の森の魔女”と名乗った彼女の手を取る。

 ――その日から、リュンヌの世界は怖いものでいっぱいになった。


 小さなリュンヌの世界は、怖い物だらけだった。

 何に対しても怯え、ぬいぐるみを抱いたまま隅で震えるだけの幼子を一人にしておけないと思ったのか。魔女は、自分の行く先々に、リュンヌを伴うようになった。

 あるときは山。あるときは川。あるときは船の上。そしてあるときは――お城。
 お城には、仲の良い友達がいるのだと話してくれた。

 そしてリュンヌはいやいやお供していたお城で、王子様と出会った。

 怖がりだったリュンヌの手を引いて、怖いだけでは無い世界を見せてくれた王子様は、あっと言う間にリュンヌの中で世界一かっこいい存在になっていた。

 王子様に恩返しがしたい。
 それじゃあ、立派な魔法使いになって役に立とう。
 
 決意したリュンヌを、魔女は孫のように可愛がり時に厳しく接してくれた。
 リュンヌも次第に祖母のように慕い始めた。

 それもこれも、全部王子様のおかげ。
 これからきっと、上手く行く。
 
 そう思った矢先に、リュンヌは灰に埋められた。

 自分を潰そうとするかのような灰に、あの怖い女の人が残していったガラスの靴と同じものを感じたリュンヌは――この時、一度は薄れかけた魔法への恐怖心を爆発させた。

 目を覚ました後、大好きな王子様のことを忘れた彼女は――初歩中の初歩魔法しか使えなくなっていた。

(……あぁ、そうだった……)

 魔法が怖い。
 心の奥底に根を張る、この感情。

 これこそが、自分が魔法使いになれない原因だと、リュンヌは浮上していく意識の最中で、自覚した。

 魔法は怖い。
 魔法は、人を傷つける。
 ――それくらいなら、魔法なんて使えないほうがいい。

 幼いリュンヌが、自らにつけた枷。
 良いことも悪い事も、全て忘れたリュンヌは、呪いの靴のせいで魔法が使えないのだと思い込み、呪いさえ解ければ自分は素晴らしい魔法使いになれるのだと考えていた。

 王子様がお姫様を救い出す――そんな、幼い頃両親に読み聞かせて貰った数々の物語のように、思い思われることで悪いものを退けられると信じていた。

(逃げていたのは、わたしの方だわ)

 カルケルに、逃げるのかと言った事。
 それはそのままそっくり、自分自身へ向けた言葉だったのだ。

 カルケルに自身を重ね見ていたのかも知れない。
 諦めない彼に、希望を見いだし、慰められていたのかも知れない。

 ――自分の世界を広げてくれた王子様が、また自由に外の世界へ飛び出していく姿を、この目で見たかったのかもしれない。

(思い出した。……泣いてばっかりだった私の手を引いてくれたのは……貴方だったんだわ、カルケル)

 あの王子様のためなら、自分も……逃げない。

 ――そう心に決めて目を開けると、心配そうな灰の双眸とぶつかった。

「魔女殿! 気が付いたか!」
「……カルケル」
「よかった……!」
「……ありがとう、カルケル」

 繋がれたままの手を見て、リュンヌの口から自然とお礼の言葉がこぼれた。

「いつだって……私が迷ったときに手をひいてくれるのは、貴方なのね……王子様」
「魔女殿?」

 リュンヌは寝台で上半身を起こす。
 そして、きょろきょろと辺りを見まわした。

「ランたんは?」
「……君の足元だ」
「……あ」

 リュンヌが目を覚ましたら、強烈な頭突きでもお見舞いしてきそうだったランたんは、足元で丸くなり動かなくなっていた。

「すまない。さっきまでは、君の足をさすったりして動いていたんだが、急に……」
「……ランたん……、私達を王都からここまで運んだりして、疲れたのかも……」

 足の痛みはなくなっている。
 ランたんが、なにかしてくれたのだとしたら……リュンヌの正式な使い魔ではないランたんにはかなりの負担がかかったはずだ。

「……靴の色、君が倒れた時は真っ黒だったんだ。ランたんが手でさすっていたら、少しずつ色が薄くなってきて……俺は、君の手を握って呼びかけることくらいしか出来なかったんだが……」
「それでも、帰ってこれたわ。二人のおかげよ」
「……そうか。俺でも、君の役に立てたなら、よかった」

 リュンヌは、眠っているランたんに近付いて、そのカボチャ頭を撫でた。

「ありがとうね、ランたん」

 反応はなかったが、中の灯がかすかに光った気がした。

 そっと、ランたんが普段休むときに使っている籠の中に移動させ、リュンヌは改めてカルケルと向かい合った。

「……それじゃあ、カルケル、話をしましょう。……少しだけ長い、昔話を」
「……」
「私が知っている限りのことを、今から貴方に話すわ。……例えば、貴方の呪いとわたしの呪い……貴方が見てしまった、ガラスの靴にかけられている呪いね。……これは、根本が同じなのよ」
「何だって……?」

 リュンヌは一度深呼吸して、きゅっと目尻をつり上げた。

「昔ね、嫉妬に狂った魔女がいたの。彼女は悪い魔法をあちこちで使って、いろんな人を不幸にした。……それが、茨の森の魔女の、たった一人の娘よ」

 茨の森の魔女の、最愛唯一の娘。
 彼女は、母の字にあやかって、“野茨の魔女”と呼ばれていた。



 コントドーフェ王国にその名を轟かせる、茨の森の魔女。

 リュンヌを引き取り、孫同然に育ててくれた彼女には、行方知れずの娘がいた。


 血の繋がりはない。娘の生まれは特殊で、精霊と人間との間に生まれた存在だった。

 人間とも精霊ともつかなかった娘は、独りぼっちで泣いていたところを茨の森の魔女に拾われたという。

 そして茨の森の魔女を実母のように慕い、魔女もまた半人半精の少女を、実の娘のように慈しんだ。

 そこまでは、よかった。
 誰も不幸にならず、幸せで終われた。

 娘が、精霊の気質を引き継いでいなければ、きっと良好な親子関係でいつまでも幸せに暮らせたのだ。

 気まぐれ、悪戯好き、愛されたがり――そして、それを抑える理性を持たなかった娘は、次第にあちこちに嫉妬するようになった。

 魔女の友人、そして魔女の弟子。
 数多くいた弟子は、娘の苛烈な気性に参り、残ったのは一人だけだった。

 娘は、その弟子だけは認め、ともに魔女の元で修行する姉妹弟子となった。
 
「その、唯一残った弟子というのが、私のお母さんなの」

 少しだけ誇らしげに、リュンヌは母のことを口にする。

「――でもね、二人が仲良くなって、それで終わりにはならなかったのよ」

 娘は自分を姉弟子と名乗った。

 そして、妹弟子が自分を差し置いて、母である魔女の関心をひくことを許さなかった。

 結果、妹弟子は常に姉弟子の下にいた。
 姉弟子は、あの魔女の娘ということでいろんな人にかこまれ、ちやほやされた。

 すでに、性格の苛烈さは知れ渡っていて、まともな者は近付こうとはしない。
 娘を囲むのは、いいように利用しようとしている者ばかりだったのに、娘は母の忠告も妹弟子の諫める声も聞かなくなった。

 自分の心を満たす、耳に優しい甘い言葉を選んだのだ。

「……そのうち、今度は口うるさい母親が嫌いってことで家出したそうよ」

 反抗期を迎えた子供の行動だったかもしれない。――娘が、普通の人間だったなら。

 けれど、彼女の半分は精霊であったため、本能的に人の理に縛られることへの不満があった。

 幼子のような無邪気で残酷な心に、強い力。
 人の気を惹くために、あるいは自分を無視した者への報復に、娘は自由気ままに振る舞っていたという。

「でも、とうとう茨の森の魔女に捕まって、連れ戻されたらしいの。しばらくは、家から出るなって閉じ込めたんだけど……また逃げたんだって」
「……それは……、やはり、魔法使いとしてはかなりの腕だったという事か?」
「うん、そうみたい。……でも、ばば様は今度は追いかけなかった。……引退した親友が赤ちゃんを産んでから、体調を崩しがちで、お見舞いに行っていたんだって」
「…………」
「そのお友達は、残念ながら亡くなっちゃったんだけど……。でも、赤ちゃんは元気に大きくなっていったんだよ……それが、カルケルのお母さん」
「――なんだって?」

 つまり、カルケルの母の母……実の祖母に当たる人こそ、茨の森の魔女の親友だった事になる。

 親友の忘れ形見だからこそ、茨の森の魔女はカルケルの母を見守り続け、真に愛し愛される存在の元へ導いたのだ。

「――自分が一番じゃなきゃ気が済まない野茨の魔女は、それがとっても気に食わなかった。……だから、人とは違う魔法の質を利用して、ある未亡人の体を乗っ取ったのよ。――自分よりも母の関心を惹きつけた、憎たらしい存在に、とっておきの意地悪するために」
「……嘘だろう? たかが、その程度で? そんな、普通のことに腹を立てて、いろんな人の人生をめちゃくちゃにしたって言うのか?」
「私も、初めてばば様に話を聞いたとき、そう思った。……でも、違うの。私達人間にとっては、その程度で片付けられる事でも、精霊の質が混ざっている彼女には、とても理不尽な事なんだって」

 理解が出来ないと首を振るカルケルに、リュンヌは言った。

「――カルケルは、理解出来ない。……つまり、そういう事よ。彼女も、私達の考えている事が理解出来ない。到底受け入れがたい。相容れないんだって」
「だったらなぜ、人の世界に固執するんだ?」

 隠遁生活を送るでも、色々な方法があっただろうに……と呟いたカルケルだが、ハッとしたようにリュンヌを見た。

「……こういう考え方が、ないのか?」

 自分が引く、という概念がないのだ。

「うん。……人間と精霊は違う。愛し方すら違うの。精霊は、恋した人間に思う相手がいれば、その人を呪う。そして、やめて欲しいと懇願する相手に、無理矢理愛を誓わせる。そこまでしておいて、飽きたら簡単に捨ててしまう。……精霊と人が結ばれる事なんて、滅多にないけど、文献に残っている記録を辿ると、そんなのばっかりだったわ」

 違う理で生きている存在。
 その気質を受け継いでしまった野茨の魔女は、人の世に馴染もうとはしなかった。

 もしかしたら、散々迷惑を振りまくことが、彼女の親愛表現だったのかもしれないが……そんな方法では、他者は悪意しか感じない。

「もう一つ、気に入らなかった事があるらしいの」
「なに?」
「ばば様が、貴方の両親を結びつけたことよ」
「は?」
「――二人はきっと結ばれるって、ばば様は一目見た時思ったんだって。二人の波長はぴったりだから、時が来れば必ず出会って結ばれる、運命の相手だって」

 ――母の関心、他者の関心、運命の相手という特別な響き。

 それは全て自分のものだという肥大した考えは、咎める者のいない場所で手が付けられないほど大きくなった。

「ばば様は、親友を亡くしてから少しの間、貴方のお母さんの成長を見守って、……それから、逃げ出した自分の娘を探す旅に出たんだって。……入れ違いで、野茨の魔女は国に戻って来た。たぶん、隙を狙っていたんだと思う」

 そして、後は誰もが知っての通り。

 意地悪な継母が、継子いじめに走るのだ。少なくとも、対外的にはそう見えただろう。

 けれど、咎め立てするよな良識のある人々をも、野茨の魔女は自らの力で操った。

 ――結果として、近隣住民総出で、あの家の暗部を隠蔽するような形になったのだ。
 
「人の意思を、ねじ曲げるなんて……」
「凄い魔法でしょう? でもね、悪い魔法は強力だけど、その分負担が大きくて、報いが返ってくることがあるの」
「……報い?」
「……野茨の魔女は、いろんな人の心を操った。人の体を奪い取った。やってはいけない事ばかりなのに、罰を受けていない」

 リュンヌは、視線を落とす。
 ぎゅっと握った自分の拳を、ただ睨んでいた。

「……肩代わりさせたのよ」
「え?」
「……知ってる、カルケル? 魔法使いはね、年を取らない……っていうと大げさだけど、力の強い魔法使いほど、ゆるやかに年を取るの」
「……だが……」

 カルケルの物言いたげな視線を受け、リュンヌは続けた。

「――ばば様は……茨の森の魔女は、この国一番の魔法使いなのに、頭が真っ白のおばあちゃんだったでしょう?」
「……ああ」
「それが報いよ、カルケル」
「――は? 待ってくれ……。悪事を働いているのは、娘の方だろう? なぜ……」
「……ばば様が――茨の森の魔女が、そう願ったから」

 リュンヌが覚えているのは、かさかさにひび割れた唇で、愛しげに誰かを呼ぶ魔女の姿だ。
 
「私のお母さんが、茨の森の魔女の弟子だって、さっき言ったでしょう? ……だからもう、気付いていると思うけど……、私とばば様には、血のつながりがないの」

 周りは、私の事を“あの人”が生み捨てた子供だと思っているみたいだけれど、と呟く。

「――茨の森の魔女の娘は、あの……嫉妬に狂って不幸をまき散らしているあの人だけ。私は孫同然に扱われても、孫じゃない。ばば様が大事だったのは、あの迷惑な人だけ」

 自分を象徴する文字を一つあげた、野茨の魔女だけなのだ。
 リュンヌの言葉を、悲観と受け止めたのか、カルケルが憂い顔になる。

「……魔女殿……」

 痛ましげに呼びかけられたため、慌てて首を横に振って、明るい声で否定した。

「勘違いしないでね。別に、悲しいわけじゃないから。いじけているわけでもないし!」
「……だが」
「本当に、本当よ。私は、あの人にとって仮初めの家族だったけど……だけど、ばば様にはよくして貰っていたもの……だから、約束したの」

 思い出すのは、老いた魔女の姿と声だ。

『お嬢ちゃん、どうかあの子を止めておくれ』

 ひび割れたカサカサの声は、いつも決まって、最後に同じ懇願をした。

 過去を忘れたリュンヌには、老いた魔女がどうして自分にそんな大事なことを話すのか分からなかった。

 ツギハギだらけの記憶しか持たなかったリュンヌには、才能のない自分を孫のように育ててくれる魔女がなぜ申し訳なさそうに、苦しそうに、そんなことを願うのか分からなかった。

 でも、今ならすべてが繋がる。
 分からないまま、それでも育ての親の必死の願いを無下にしたくなくて答えていた言葉を、今ならば決意を込めて口にできた。

 ――いちばん最初に交わした魔法使い同士の約束。

「もしなにかあれば……私が、ばば様に変わって、あの魔女を止めるって」
「…………」
「独りぼっちになった子供を引き取り、実の孫同然に育て、魔法の心得を教える。かわりに子供は、恩人の身になにかあれば、代わりに……両親を奪い自分を呪った魔女を捕まえる。……それが、私と茨の森の魔女が交わした、約束なの」
「……そうか……」

 カルケルが、目を伏せた。

「……やはり、茨の森の魔女は……――もう、この世にいないんだな」

 察していたのだろう。
 カルケルは、落ち着いた様子で受け止めた。
 だから、リュンヌも静かに頷く。

 祖母と呼んだあの人は、この館にいない。留守にしている。不在だ。
 並べた言葉は、どれも事実だ。
 ただ……もう二度と、帰ってくる事はない。

「――……もしも自分が死んだら、あの子を捕まえるまで、絶対に死んだことを明かしてはいけないって……」

 自身の死が明るみに出て、どこぞへいる娘の耳に入れば……――完全に箍が外れ、今まで以上に暴走するだろう。

 それを、茨の森の魔女は恐れていた。それくらい、茨の森の魔女は道を踏み外した娘を愛していた。

 皮肉なことに、それを一番伝えたかった存在には、届くことがなく終わったのだけれど。