「これは契約です」
説明会の日。帰り道のリムジンの中。美斗を見据えて彼女は言った。
「そちらは鞘が必要。私は一般人…特に母と弟が安心して暮らせるなら、それでいいと思っています。つまり互いに契約という形で婚姻を結びましょう。契約結婚という奴です。それにあたり、幾つか条件があります」
「条件?」
すっかり彼女のペースに吞まれている美斗に、彼女は「です」と首肯する。
「結婚したら、私は刀隠の家で暮らす事になると思います」
「勿論、君を迎えるにあたって、万全の準備をする」
「ではそれと共に、刀隠の家に程近い場所に、母と弟が暮らす場所を用意して下さい」
「お姉ちゃん」
彼女は弟に顔を向けた。
「いきなり引っ越しって事になるね。お母さんもだけど、通学とか通勤とかいきなり変わるし、ごめんね。瑤太。でもね。私は一刻も早く、2人をあの家から出したいんだよ。これはいい機会なんだ」
彼女は今度は美斗と桃李の方を向いた。
「うちの事情を調べたという話なら、ごぞんじでしょ。私の母が、実の母親と姉からされてきた仕打ちも」
2人は無言で頷いた。
「曾祖母の好意により離れという場所はありますが、あれでは永遠に私の家族が安らげません。もう一つ。『刀と鞘』システムが機能する事を快く思わない者はいるでしょう。妖魔は勿論ですが、人間側も。まあ妖魔が組織化して対策をしてくるかはわかりませんが、警戒はしておいた方がいいでしょうね。どちらにせよ潰しますが」
「お姉ちゃん。普通に物騒なのやめろ」
さらりと告げる彼女に瑤太はツッコミを入れるが、彼女は「私はこれでも大真面目だ」と返した。
「私も当然、可能な限りの加護は付けますが、私の家族を守る手を刀隠側にも打って欲しいんです」
「勿論だ」
真摯な顔で美斗は頼もしげに頷いた。
「君は言うまでもないが、御母堂も義弟も、如何なる危険にも晒さない事を約束しよう」
「お願いします」
「いやあの今さらっと『義弟』って言いませんでした?」
「流石に気が早いよ。美斗」
桃李は苦笑した。
「しかし、君の祖母君と伯母さんが入っていないように聞こえるけど?」
「私の家族は母と弟だけです」
彼女は淡々と言い切った後、ふと考えるような表情になる。
「そうですね。仮に『刀と鞘』システムが機能する事を快く思わない誰かが祖母と伯母を人質に取ったとしても、私でしたら笑いながら2人を見捨てる自信がありますね。むしろ死んでくれたら縁が完全に切れるので助かるのですが」
「うわあ…。そういやお姉ちゃん、2歳か3歳くらいから記憶あるって言うから、尚更か…」
「実の孫で実の姪にここまで言わせるなんて、よっぽどだね」
「御母堂への仕打ちのひどさが伺えるな」
三者三様に3名は呟いた。彼女は視線を美斗に戻す。
「私は、このように怖い所がある女です。それでもいいなら、契約上の間柄と言えど結婚して下さい。引っ越しの準備は式神を使ってこっそりやります。こちらとそちらのやり取りも、式神を通して行ないましょう」
「あ、ああ!全力を尽くして幸せになろう!」
「何か先輩とお姉ちゃんの温度差ひどすぎるんだけど。グッピー何万匹死ぬんだよ」
実は、このような打ち合わせがされていたのである。
「貴方はそれでいいの?」
帰宅した彼女は「家族会議」と称して、瑤太と共に母に全てを話した。とりわけ、母を家から出したいと言う点は強調した。そこで出てきたのが、娘を案じる母の言葉である。
「何だか、私の為に貴方を犠牲にするみたい」
「犠牲じゃないよ。お母さん」
彼女は当然のような口調で母に返した。
「犠牲だと思うなという方が、お母さんの性格的に無理だとは思うけどね。でも2人に平和に暮らして欲しいのも、何よりここから出したいのも本当なんだよ」
「でも、家族を捨てるって事になるんでしょ…?」
「あんな家族の何処が家族なんだよ。俺が覚えてるだけでも十分ひどいぜ?」
「『そんな親なら捨てちゃえば?』案件だよ。完全に」
躊躇する様子を見せる母に、瑤太と彼女は口を揃えて言った。
「母ちゃんもお姉ちゃんも給料せしめられてばっかだし、お姉ちゃんに至っては式神って形でこき使われてるじゃん。完全にいいように搾取されてるだけだって気付けよ。母ちゃん。こんな所にいたら、お金もメンタルもいつまでもゴリゴリ削られるだけだぜ?」
「何より、離れという物理的・距離的な隔たりはあっても、DV女と一つ屋根の下で暮らすなんてできないからね。今まで我慢せざるを得なかったけどさ」
彼女は額に片手をやった。
「ねえ…。その美斗君って子は、実際どうなの?」
「まあ悪くはなさそう。悪しからず思ってはいるってだけだけど。今の所はね」
娘の相手を案じる母に、彼女は答えた。瑤太は「ドライもいい所だな…。お姉ちゃん…」と呻く。
「あくまでも契約上の婚姻である事に了承はもらえたし、引っ越しの準備とか、新しい生活のバックアップとかの約束もしてくれたし。うん本当に、後ろ盾を得られるってのはでかい。まあ正式な取り決めは日を改めてって事になったけどね。刀隠からこっち…母屋の方に連絡してから来るって段取りだから、会ってみればわかるよ。やれやれ。祖母さんが大騒ぎしそうだ。弱きを挫いて強きに諂う権威主義者だからな」
「何も否定できないのが、我が親ながら情けない…」
娘の酷評に瑠子は項垂れた。
「掃除だ何だって、特にお姉ちゃんが忙しくなるだろうから、無理すんなよ?…祖母ちゃん、流石に風呂に入るよな。入るよな?」
「入るでしょ」
「見栄っ張りだから、流石に入ると思う」
これは余談だが、瓊子は極度の風呂嫌いである。瓊子の若い頃の時代は毎日入浴する習慣が無かったという事もあるが、その事実を踏まえても、夏場であろうと3日に1回しか入浴しない程だ。冬場であれば、スパンはもっと長くなる。代謝が落ちている年寄りと言えど流石に汚れは目立ってくるし、香やら香水やらで誤魔化すという頭も無いし聞く耳も持たないから、下手をするとただの小汚い老婆だ。
尤も、彼女達の予想通り、刀隠から連絡を受けた瓊子は大慌てで入浴した。かつてない清潔な姿で美斗を迎えたのであった。
「家を出るって…そんな勝手が許されると思っているの!?」
「勝手も何も、お母さんは大人だよ?私も瑤太も小さい子じゃないんだし」
「そもそも『縁切り』って言われた時点で、自分達が縁を切られるだけの事をしてきたんだって、少しは自分を顧みろよ」
「顧みないのが毒親や毒家族たる所以だけどね」
「祖母ちゃん。あんた、自分を優しくて上品な奥様だって思ってるみたいだけど、優しさや上品さの欠片も無いぜ」
わなわなと震える瓊子だが、彼女と瑤太は抜群のコンビネーションで反撃する。
「第一、お母さんは祖母さんにとって『うちの子』じゃないんでしょ?『何をしても反撃してこない都合のいい相手』と思っているなら、お母さんに対して失礼極まりないし、そんな風に思っている相手と一つ屋根の下になんて、とてもじゃないけどお母さんを置いてなんていられない。『うちの子』であるお気に入りの上の娘と仲良く暮らせばいいじゃない」
「瑠子!あんたはどう思っているの!」
「そうよ!今までの恩を忘れて、私やお祖母ちゃんを捨てるって言うの!?」
「お母さん。聞いちゃ駄目だ」
「罪悪感を持たせる事を言ってくるのも、DVの常套手段だよ。お母さん」
矛先を向けられた母に、双子はそれぞれ声をかけた。
瑠子は目を閉じ、大きく深呼吸をする。目を三角にして怒る母と姉を、正面から見据えた。
「私は今まで、お母さんを反面教師にして、この子達を育ててきた。お姉ちゃんと比べられて、一度も褒めてもらった事が無いのが悲しかったから」
双子は母を庇うようにそれぞれ軽く腕を上げ、さりげなく前に出て母の言葉を聞いている。
「確かに育ててはくれたね。でも、私は精神的にネグレクトされていたようなものだった。恩って何?今までずっと私の味方でいてくれたのも、結婚の時も離婚の時も子育ての時に助けてくれたのも、居場所を用意してくれたのも、大お祖母様と大お祖父様だった。お母さん達が何をしてくれたと言うの?ただ全部私を悪者にして責めただけじゃない」
瑠子は怒りに燃える目で、姉を睨み付けた。
「何より、私の娘を傷付けてのうのうとしているお姉ちゃんも、そんなお姉ちゃんを叱りもしなかったお母さんも許さない」
「ねえ。伯母さん」
彼女は「口出してごめんね」と小さく母に断りを入れ、静かに口を開いた。
「私は妊娠の経験も予定もありません。なので…刀隠の人達も知ってるから言いますけど。折角お胎に宿した子が死んでしまった気持ちとか、霊術まで失ってしまったショックだとか、伯父さんとうまくいかなくなってしまった気持ちだとかはわかりません」
客間にただ淡々と彼女の声が響く。
「当時の辛さは筆舌に尽くしがたかったと思います。だけど、それは妹に暴力と言う形でぶつけていい理由にはなりません。ああ。覚えていないとでも思いました?」
顔色が変わった伯母に彼女は問いかけた。そのまま解説口調で、美斗と弓弦に向かって続ける。
「この人、母の事をずっと殴っていたんです。ベルトで。こう、バックルの所が当たるようにして、鞭みたいに。私はたまたまその現場を見てしまいましてね。母を助けようと近付いた所で、バックルがおでこに当たってざっくり。それが、祖母が私を『傷物』と呼ぶようになった全ての真相です。うちの伯母、男だったら完全にただのDV野郎なんですよ」
曾孫の負傷をきっかけに、翠子は下の孫娘が暴力を受けている事に気付いた。璃子を待っていたのは、翠子による激しく厳しい叱責だった。幼子と一つ屋根の下になんて置いてはおけない、屋敷から出て行け、二度と顔を見せるなと面と向かって言う程の翠子の激怒は、翠子の体調に変調を起こした。心臓に過度の負荷がかかってしまったのである。
それが、翠子の死のきっかけだった。
葬儀の忙しさによって、璃子が屋敷から出ていく話は有耶無耶になった。また、瓊子は例にもよって「子供を亡くした璃子の前で、瑠子が子供達と一緒の幸せそうな姿なんて見せるから」と瑠子を悪者にして璃子を擁護し、璃子を諫める事すらしなかった。
彼女が『DV女』と言ったのは、つまり璃子を指しての事だったのだ。このような経緯がありながらも、彼女達一族は同じ敷地の中でずっと暮らしてきたのである。
「ねえ。伯母さん」
彼女は平坦な声で伯母に呼びかけた。
「私は恐ろしく生活に密着した霊術しか使っていませんけど。でも私はもう、霊術を無意識下で使ってしまうような、つまり制御をできない、何もわからない反撃もできない子供ではないんですよ」
伯母を見据える彼女の目付きが変わった。
「咲け。『焼骨牡丹』」
何処から出てきたのか、折り紙人形達が一気に集まってきた。璃子を後ろ手に拘束し、璃子は宙に浮かぶ方になる。続いて複数の折り紙人形が、ベルトを持って璃子の周囲に集った。そして璃子の顔を問わず体を問わず、バックルの所が当たるようにして、ベルトを鞭のように振るい始めた。
「あの時の再現ですよ。伯母さん。こんな風にして、お母さんをぶっていましたよね」
何の感情も交えない声で、彼女は伯母に呼びかけた。
対する璃子はというと、激痛を覚えはしても拘束の力が強くて身じろぎ一つすらできず、また万力の如き力で顎を締め上げられているので悲鳴は上げられず、呻き声しか出ない。
「や、やめなさい!璃子が死んじゃう!」
「死なないよ。こんな程度じゃ。お母さんも、当時ちびっ子だった私も死ななかったんだよ?ああそうそう。割って入ったら、祖母さんも一緒にぶたれる事になるからね?」
瓊子は身を竦ませた。基本、我が身が可愛い瓊子である。如何にお気に入りと言えど、実の娘を庇って身を投げ出すという事はできないらしい。
「伯母さん。痛いでしょ?お母さんもこんな感じで痛かったんですよ。お母さんは悲鳴を上げる事すらできなかったんです。私達に心配をかけたくなかったから。とりあえず、お母さんがやられた分をお返しするようプログラミングしてありますから。これで少しはお母さんの痛みがわかるといいんですよ」
「もういい」
正座した膝の上で行儀よく組まれた手を握り首を横に振ったのは、瑠子だった。彼女は「え?まだこれ途中なんだけど」と言いたげな顔をするが、瑠子は再度首を横に振り「もういい」と言う。
「貴方がお母さんの事を思ってくれたのはわかる。でも、貴方が霊術で人を傷付ける所を見るのは、お母さんは悲しい。何より、どんな仕打ちをされたとしても、許せなくても、お母さんの実のお姉さんだから」
突然の事で必然的に傍観に徹するしかなかった美斗も、同じく彼女の顔を覗き込んで、静かに首を横に振る。瑤太も「お姉ちゃん」と呼びかけた。彼女は母と美斗と弟を見て嘆息した。
「そこまで言うなら」
言った途端、全ての折り紙人形が、手品の如く消えた。支えを失った璃子は、盛大な音を立てて畳の上に落ちた。瓊子が「璃子!」と呼びかけ駆け寄る。とりあえず、意識はあるらしい。
「私に世話をされるのは嫌でしょうから『パナケア・シリーズ』も呼びません。手当ても病院行きも自分でやって下さい。さて、お母さんも瑤太も、荷造りはきちんとしてあるよね?」
伯母の事を忘れたように、彼女は母と弟に呼びかけた。先述の通り、引っ越しにあたって重量がある荷物の搬出は、式神にこっそりやらせてはいた。だが必要最低限の物は、自分達の手で纏める必要があったのである。
「まあ忘れ物をしたとしても、式神に取ってこさせるだけだけど。さあ行こう。もうここにいなくていい。いざ新天地だ」
彼女は家族を促し立ち上がる。弓弦がいち早く動き、次期当主とその伴侶一家の為に襖を開けた。客間の出入り口で、彼女達親子は室内を振り返る。
「お世話になりました」
「どうもお世話になりました」
瓊子達に頭を下げる母に倣い、双子も揃って頭を下げる。美斗は優雅に、弓弦は慇懃に一礼して、襖を閉めた。室内には、倒れ伏す瑠子と呆然とする瓊子のみが残された。
「この離れともお別れだね」
自分の荷物を手に、彼女は離れを振り返った。
「『住めば都』とは言うし、都の元を作って下さったのは大お祖母様だけど、住んで都としてくれたのは、全部お母さんの努力と工夫のお陰だったね」
子供達が心地よく過ごせるように、母が心を砕いて住まいを整えてくれた事を思い返しながら、彼女は言った。頷く瑤太の目は、心なしか潤んでいるように見える。
「なら、次の所も、住んで都にすればいいよ」
同じく潤んだ目で、瑠子は子供達に笑顔を見せた。彼女達は「そうだね」と頷く。
瑠子の両隣に双子は並び、離れに頭を下げた。また屋敷の門の前でも、屋敷自体に頭を下げる事も忘れなかった。
「書類の上での手続きはしてしまいましたけど、本当に良かったんですか?」
新居へ向かうリムジンの中、彼女は美斗に問いかけた。屋敷の前に停まっていたリムジンには美斗と彼女が、自家用車には瑠子と瑤太がそれぞれ乗り込んだのである。
「先程の行為は見ましたでしょ。私は怖い所がある女ですよ」
「全ては御母堂を想いやった事だろう?」
「そりゃあ」
彼女は、自分が傷を負わされた事については、今や何も思ってはいない。伯母の「自分は子供も霊術も夫も失ったのに、何故妹には子供がいて、その一人は霊術も持っているのだろう」という理不尽な思いから来る八つ当たりと、それが曾祖母の死の原因となった事と、一連に対する祖母の態度に怒っていただけだ。傷を負わされて以来、ずっと。
「『焼骨牡丹』は伯母専用に組んだ仕掛けでしてね。母と弟を連れて家を出る時、絶対に発動させてやろうと思っていたんです。まあ使うのは私が思うより早かったですけど。若君様が連れ出してくれたお陰で」
美斗は悲しげな顔になった。
「その『若君様』と呼ぶのはやめてくれ。君は俺の従者でも何でもない。伴侶なのだから。俺の事は、美斗でいい」
「若君様が若君様だから若君様と呼んでいるだけであって、別に他意はありませんよ。いかん。『若君様』でゲシュタルト崩壊しそうになってきたな。名前呼びは、慣れたらまあおいおいという事で」
「そうか…」
美斗は肩を落とした。
「しかし、伯母君の仕打ちや君の傷の事までは知らなかったとはいえ、君が手を汚さずとも良かったのに」
「生まれながらの人類として、端くれとはいえ霊術を扱える者として、何より一連を把握していた者として。私の全ての誇りをもってして、個人的な復讐を果たしただけですよ。なので若君様が手を汚す事も下す事もありません」
彼女は「何より」と付け加えた。
「うちの祖母は悪口が大好きでしてね。若君様が何かしようものなら、刀隠の悪口をそこかしこで吹聴するでしょうよ。ある事一割、無い事九割くらいの割り合いで。あ。うちの祖母、極度の虚言癖持ちでもあるので」
「そうだったのか。…つまり君は、刀隠の事も考えて自分で復讐を?」
「今や落ち目を通り越して死にかけの死に体と言えど、司家も霊術士の一族の一つですからね。まあ刀隠からすれば吹けば飛ぶような一族でしょうけど、悪い噂は無い方がいいですから」
「…君は今までずっと、そうやって御母堂と義弟を守ってきたんだな…」
美斗は神妙な口調で呟き、静かに首を横に振る。
「いや全く、君は『鞘』である為に生まれてきたような人だ。霊術士達の筆頭として、俺の横に並ぶに相応しい」
「あくまでも、契約上の間柄ですけどね」
「…それなんだが、幾つか頼みがある」
「はい」
改まった様子で彼女に膝を向ける隣の美斗に、彼女も居住まいを正して膝を向けた。
「契約上の間柄と君は言うが、俺達は夫婦だ。御母堂と義弟を守る為に、君一人が矢面に立つ必要は、もう無い。これからはどうか、何事も俺に相談して、俺を頼って欲しい。頼っていいんだ。君の力になりたい」
「…はい。そうですね。自分で抱え込まないようにしようと思います」
真摯な口調に彼女は律儀かつ慎重に返す。
続いて美斗は「それと」と頭痛を堪えるような顔になった。
「…君の父親の一件は、察するに余りある。男性不信は決して拭い切れないかもしれないし、現実の男に失望しているからこそ、物語の中の男を愛するようになったのだとも思う」
「そうですね」
美斗の言う事は的を得ていたので、彼女は首肯した。
美斗は深刻さに満ちた、同時に鬼気迫ると言っていいような表情で、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「だが頼む!君の不信感が晴れるように精一杯努力するから、物語の中の男に対するように、俺に恋をしてくれ!」
「つまりオタクとして愛する者…キャラクターはいてもいいから、三次元即ち若君様を好きになって欲しいと」
「そうだ」
ぽく、ぽく、ぽく、と音がしそうな間の中、彼女は考えた。
「オタクを理解できなくても許容をしてもらえるなら、それに越した事はありません。何せ辛い時苦しい時に心の支えになってくれたコンテンツを親だと思いついていくのが、オタクの習性の一つですので」
「一つなのか」
「オタクの生態は色々ありますよ」
彼女はこれでも大真面目に話している。
「刀隠の一族の本性が付喪神、つまり…あー。馬鹿にしている訳でも差別している訳でもなく。本性が人間ではない以上、人間の男性に当てはまらない所も多いと思います。心変わりをしないとか。その点を理解していけば、少なくとも付喪神の男性に対する不信感は無くなると思います。まずは相互理解からですね」
「あ、ああ!ゆっくりでいいから、俺を好きになってくれればいい!」
感極まって思わず彼女の手を取った美斗だが、その瞬間に彼女に変化が起きた。彼女は「キャッ恥ずかしい!」と叫び、座ったままだというのに思い切り跳び上がって距離を取ったのである。一転して真顔になり「すみません。慣れていないもので」と謝ったが。
ぽかんとした美斗は、同時に彼女の意外な一面に気が付いた。
この花嫁、相当に奥手であるらしい。
先導するリムジンを見ながら、瑤太は運転席の母に言った。
「母ちゃん。もう大丈夫だからな」
「うん」
「もう祖母ちゃんや伯母さんの事とか考えなくていいからな」
「うん」
「祖母ちゃんや伯母さんの機嫌を気にしたりとか、機嫌を取ったりだとか、もうしなくていいからな」
「…うん」
「あの2人が『いる』って事、もう気にしなくていいんだからな」
「うん」
「これからは自由だから、皆で自由にやろうぜ。祖母ちゃんや伯母さんの目を気にしなくていいんだから、好きな所とかにもいっぱい行こうな」
「うんっ」
頷いた拍子に流れた涙を、瑤太は母に断りを入れてティッシュで拭った。優しく「今までずっと頑張ってきたよな。お母さん」と言って。
このようにして、親子は2つに分かれて、それぞれの新生活を始める事となった。
これは、ある一家の話である。