僕は僕の心を知らない


 気持ちの変化で、時間の流れる速さは変わるのだと思う。実際そうだった。

 後一週間しかない。

 部活は今週から期末考査の準備期間に入ったので活動自体ないし、彼女と会うのはバイト中だけだ。逆に言えば、バイトでは会うはずだと信じていた。

 月曜日、僕が『Ete Prune』に行き控室に入ると、綾さんの鞄がなかった。そして、バイト開始の時間になっても彼女が現れることはなかった。

 間が悪い、そんな言葉で片付けていいのかわからないけど、この世界はそういう風にできているのかもしれない。姉の帰りが遅かった時もそうだ。

 不安になり樺さんに聞くと「家のことで忙しいらしいから」と言っていた。その口調は、僕が綾さんの家庭事情を知っていることを理解しているふうだった。

「バイトも有給使えるんだし、芳樹も疲れたりしていたら遠慮せずに休んでいいんだからな」
「ありがとうございます」

 言葉通りの優しい表情を浮かべている樺さんにお礼を言う。

「まあ正直、来てくれて助かってるけどな」

 彼女がいない分、いつも以上にテキパキと作業をこなす。

 帰り道、彼女にメールを送った。

 次の日、学校でも綾さんの姿を探していたが、彼女に会うこともなかった。もしかして学校も休んでいるのだろうか。

 けど、綾さんとは違い僕は他のクラスに突撃できないので、誰かに確認をとることもできない。柏井が知っているとも思えなかった。

 しばらくして彼女からの返信が入っていることに気づき、急いで確認する。

 連絡が遅れたことの謝罪と、心配しないで、という 内容だった。

 なぜか、そのメールの文面が恐ろしく乾燥し切っているように感じてしまい、一層不安が助長される。

 樺さんにも連絡が行ってるのだから、本当におばあちゃんの関係で忙しいいだけなのだろう。しかし、僕の中にはずっと拭えない違和感があった。なんだろう、これは。

 心配を抱えたまま日々を過ごすと、時間が一瞬で流れていった。

 本当に、一瞬だった。

 気づけば一日が始まり、終わる。

 父の時と同じように頭の中で残りの日数を毎日考えていて、だから僕の心の中に焦りが出ていた。

 落ち着かないまま授業を受け、焦りのような感情を抱えながら寝る。

 朝僕を襲う耳鳴りが、いつも以上に大きくなっている気がしていた。

 昼休み、まだかすかに残る煩わしい音を咀嚼音でかき消していたら、小テストの用紙を広げながらご飯を食べている出山が顔をこちらに向けた。

「どうしたー、新川。恋煩いでもしてんのか?」

 テスト前の出山はいつも死にそうな表情をしている。勉強が苦手なのだ。そんな彼が休息の場を見つけたとばかり、嬉しそうに訊いてきた。

「なに、いきなり」
 僕は胡乱な視線を飛ばす。

「なんか変じゃねえ? 新川が宿題やってくるの忘れるのも、英語の授業なのにぼーっとしているのも珍しいじゃん」

 今日提出の宿題の存在をてっきり忘れていて、朝礼の前の時間と休み時間を使って急いで終わらせた。

 それに僕が好きな英語の授業中、自分が指名されていることに全く気づかず、先生に注意された。

「いや、大丈夫だよ」
「やっぱなんかあるのかよ」
「なんでそうなるの」
「いや、何もないならちゃんと何もないって言うだろ。まして、新川って外野からちょっかいかけられるのとか嫌いだろうし。だから、なんかあるからこそ――なんかあるんだけど「大丈夫」っていう言い方選んだんじゃねえの」

 唐揚げを頬張りながら話す出山の聡さに一瞬ひやりとする。けど、彼は相変わらずだった。

「まあ、別になんでもいいんだけどさ、何か面白い話あったら教えろよ」

 大して興味がないみたいな空気でそう言ってくれるのは本当に助かる。

「ありがとう」
「おお。て言うか、そんなことよりマジでテスト勉強やべーんだけど」

 彼は、視線を横に広げられたプリントに戻す。

 テストは明日から始まる。全部見直す時間がないから、小テストだけを復習するつもりらしい。

 聡い出山はちゃんとやればいい成績を取れるだろう。「頑張れ」と僕は本心からそう言った。

「新川もなー」

 彼の言葉に頷く。



 自分の中の感覚は変わってしまっているのに、周りの時間はいつもと変わりなく動いている。

 それを証明するかのように、以前言っていた通りバイト先に柏井が現れた。

 真面目な柏井がこのテスト直前のタイミングで顔を出したことに驚く。てっきり春休みの話だと思っていた。

「来ました!」
「いらっしゃいませ! ……お、芳樹の友達か?」

 突然登場した女子高生に気づいた樺さんが、横から話に入ってくる。

 樺さんに笑みを返しながらも、僕の意識は控室に向いていた。まだ綾さんに会えていなかった。

 しばらく樺さんと柏井の話を横で聞いていると、控室の扉が開く音が聞こえた。少しして綾さんが入ってくる。

 その彼女の表情を見て、僕は違和感を感じずにはいられなかった。何が、とは言えないけれど、彼女の纏う空気が濁っているような気がした。

 思わず彼女に話しかけようとすると、

「あ、あかりちゃんだ!」

 僕が綾さんに声をかける前に、柏井の姿を認めた綾さんが、表情を咲かせて彼女のもとへと駆け寄る。少し、僕を避けているように感じたのは、僕の思い過ごしだろうか。

 彼女と話す綾さんの様子は、やっぱり少しだけ違って映った。多分、僕だけがなんとなく――

 その時、樺さんと目があう。

 樺さんも心配そうに綾さんの方を眺めていた。月曜日にも浮かんでいた表情だ。

 もしかしたら、僕の予感は間違っていないのかもしれない。



 柏井を見送りに、店を出る。

「今日はありがとうねー」

 日が落ちるのが早いから、あたりはずいぶんと暗かった。

「こちらこそ」
「あの、さ」

 彼女の顔が店から漏れた光に照らされる。

「新川くん、もう直ぐバイト終わるんだよね」
「うん、後三十分くらいかな」
「じゃあよかったら一緒に帰らない?」
「ごめん、今日は」

 僕も、柏井の気持ちが全くわからないわけではない。

 けど、今日は。

 綾さんと話さないといけない。

 柏井は少し残念そうな顔をしたけど、すぐに気を遣わせない笑顔を見せてくれた。

「そっかぁ、わかった!」
「ごめん」
「ううん、全然。ありがとね。なんか新川くんがバイトしてるの新鮮だった。じゃあ、来週、テストがんばろうね」
「うん、来てくれてありがとう。頑張ろうね」

 彼女が一歩前に出て、振り返る。

 なぜか神妙な顔つきをしていた。

「……一つ聞いても、いい?」
「なに?」
「新川くん、大丈夫?」

 柏井が言い方を探る口調でそう訊いてきた。

「ええと、何が?」
「勘違いだったらごめんなんだけど……なんとなく新川くん最近元気ないように見えるっていうか」
「え、そう?」
「そうだよ。なんか教室でも上の空っていうか」

 その話か。

「ありがとう……けど、大丈夫」

 言えない、言ってどうにかなる問題じゃない。

「そっか。ならいいんだけど」
「うん、ちょっとテスト勉強で疲れたのかな」

 僕は彼女が心配しないようにわざと元気を出して笑う。

「いつも成績いいもんね新川くん」

 本当はテスト勉強なんか一つもやっていない。

「柏井はテスト勉強どう?」

 誤魔化そうと訊き返す。ただ実際、気にはなった。
 彼女はいつもならテスト前の放課後は教室で自習しているはずだ。

「知ってる? 私ね、実は成績いいんだよ」

 おどけた様子で彼女が言う。

「知ってるよ」

 彼女の成績はクラスでいつも上位だった。何度か順位表で僕と彼女の名前が並んだことがあるから覚えている。

「ほんと!」
「うん」
「そっか、よかった……あ、じゃそろそろ帰るね。引き留めてごめん」

 彼女は嬉しそうにそう言うと、手を振って帰っていった。その後ろ姿を見ていると、少しだけ気持ちが楽になった気がする。

 クラスメイトにバイト先に来られるのは嫌だったけれど、思っているほど気にしなくてもよかったのかもしれない。

 そう思わせてくれた柏井に少し感謝した。



「お疲れさま」

 バイトを終えた後の綾さんは、いつもと変わらない様子で僕に向かって手をあげた。

「お疲れ様です」

 バイト中に感じた違和感、彼女の意思を知っている僕だけじゃなく、樺さんも気づいている違和感だったのだから、多分この普通さは彼女が意識して作り出しているものなんだろう。

「綾さん、何かありました?」

 僕はいきなり話を振る。

「……」

 全く予想していなかったわけじゃない、むしろ話を聞きたかったはずなのに、彼女が動揺したのが見て取れて、正直驚いた。

 彼女はすぐに表情を塗り替え、とぼける。

「大丈夫だよー。うん、大丈夫。どうして?」

 大丈夫、彼女はそう言った。ああ、そういうことだったのか。出山の聡さ、それを思い出し、身体が震える。

「ああ、もしかして私が休んだから? おばあちゃんの四十九日の話しなくちゃいけなくって休ませてもらっただけだよ」
「それはメールでも聞きました」
「そんなことより、あかりちゃん」

 彼女はわかりやすく話を変えてきた。

「なんか仲良さそうだよね、最近」

 彼女はなぜか少し嬉しそうにそう言う。

 柏井と僕が、という意味だろう。

「そんなことないですよ」

 無理やり聞きだすよりいいだろうと思い、話に乗る。

「ほらでも、バイト先にまでわざわざ顔出してくれるっていいじゃん、でしょ?」

 少し、彼女の話し方が引っ掛かった。

 彼女が何かに焦っているように見えた。

 その意味を探ろうと、僕は応える。

「綾さんが仲良くなってバイト先教えちゃったからですよね」
「それはほんとに、ごめん……」
「大丈夫ですよ」
「いやいや、私が悪かったから。ごめんね」

 彼女は深々と頭を下げる。何か、その後の僕の反応を考えないような謝罪だった。そこまで謝ったら僕が困ってしまうとわかるはずなのに。彼女らしくない。

 彼女の言葉と行動の隅をつついて、そんなことを思うのは彼女が死ぬと知っているからかもしれない。でも、彼女から感じられる不可解な感覚は話せば話すほどはっきりと浮かんでくるようだった。

 彼女はその話を続ける。

「あかりちゃん、いい子だよね」
「綾さんもすぐに仲良くなってましたよね」
「だって話しかけてきてくれたから」
「綾さんが話しかけやすいからだと思いますよ」

 客観的な事実として「僕がこんなに話する女子は綾さんぐらいなので」と伝えると彼女は「いやいや」と困ったふうに笑った。

「尊敬します」

 彼女顔にのせたその困惑の表情のまま首を傾げる。いきなりそんなことを言い出して、戸惑っているらしかった。

 やっぱり、おかしい。

 今あえて、彼女が困る言い方をした。

 だから、彼女が困った表情をしたのは、反応としては間違ってない。

 けど、いつもの彼女だったら、もっとうまく躱すか、少なくとも困ってもその表情を隠そうとする。

 彼女は「違うよ」と首を横にふった。

「そんなのじゃないの、私は人のことなんか考えてない。いじめられないようにずっと周りの目を見て、周りの人が不快な思いをしないようによく観察して、相手が欲しい反応をできるだけ返すようにしてきただけ。必要なコミュニケーションを取るために、自分の身を守るためにはそうしなきゃ仕様がなかったから――ただの逃げだよ」

 彼女はそう言って自嘲気味に笑う。

「言ったでしょ、私のは全部演技なの。染み付いただけの――自分のためだけの演技」

 もう一度目を合わせる。

「だから全く、褒められるものじゃないんだよ。あかりちゃんの方が……」

 彼女は僕の反応を待っているのか、そこで少しの沈黙を挟んだ。

「いや、けど――」

 その彼女の――相手を考えて行動する力というのは、非常に大事なもので、そんな簡単に獲得できるものではないんじゃないだろうか。

 直接的ではないにせよ、僕たちが昔から『善いこと』として教えられてきたことなのではないのだろうか。

 それを彼女は、ただの逃げだと断言した。

 彼女が卑下している理由はわかる。後悔していることに絡みついて離れない自身の性格なんて、単純に良く感じられるわけがない。

 母と話している時を頭に浮かべる。先手を打つような話し方は手段としてはいいけど、あまり後味の良いものではない。僕も彼女と同じような経験をしたから、それはわかるし、彼女の話すその感覚は何となく理解できる。

 けど、褒められるものじゃないなんて。その行為は時として必要だし、彼女もそれはわかっているはずだ。それを演技だと断言する彼女の吐き捨てたような言葉の間の歪みは、異様に僕の感情にのしかかった。

 倒錯したことを言う彼女の言葉が、重く感じられた。

 けど。彼女がそう思っていたとしても。僕が彼女の気持ちを理解しているとしても。

 そんなことない。人のことを考えて、そのために動いているなんてすごいことだよ。

 何かに焦っている彼女にそう言うべきだと思った。

 彼女のためにそうフォローする方がいいと思った。

 綾さんは大丈夫だ。もっと自由でもいいと思う。その亡くなったという友達のことも、ずっと引きずって生きるより、割り切る方が、いいはずだ。

 そう頭の中で考えながらも少しだけ、疑問が胸の中に渦巻いていた。
 たぶんこれまで彼女と関わってきて境遇を知って。僕が今まで生活してきて、そのおかげで
持った疑問。

 彼女の諦めたような眼差しを見る。その眼差しの先にあるのが死への感情だとわかっていたから、僕は一瞬浮かんだ疑問を無視し、なんとか彼女を肯定しようとした。彼女が正しいのだと伝えようとした。

「でも、すごいですよ」

 言った瞬間に、後悔した。周りから音が消える。

 徐々に変化する彼女の表情。その奥にはっきりと、沈んだ感情が見て取れた。
取り消したいと思った。けど、その口から出た彼女を傷つける刃物は、まっすぐ彼女に突き刺さってしまった。

 彼女の目の奥に映る感情が中学の時の自分のものと重なる。

 彼女が求めていたのは、そんな上っ面の言葉じゃなかった。

「ごめ――」

 とっさに撤回しようと思って出した声を上塗りするかのように、彼女は言葉を重ねてきた。

「優しいね」

 悲しそうな表情で言うその言葉は、彼女からの拒絶に感じられた。

 さっき、僕は彼女の気持ちを理解していると考えた。だから彼女の気持ちをわかると。

 そんなことを思った自分を恥じる。

 似てるから、ってなんだ。わかったつもりになってるだけだった。いや、理解した上での行動なんだから、もっとたちが悪い。

 彼女のために、なんて、とんだ思い上がりだ。

 後から思えば、自分に似ていると思っている彼女の気持ちもわからない僕は、自分のことだって何もわかってなかったのかもしれない。

 彼女の境遇を知っているから、彼女の性格がそうなったのは仕方ないことだと思った。

 その上で、彼女の話を聞いて、それでもその彼女の行動がそんなにも悪いものじゃない、そう言うべきだと思った。周りからすればその彼女の立ち回りは正しいのだからそんなに卑下することない、そう思った方が彼女にとってはいいと思った。

 正しい彼女は死ぬべきじゃない、なんて。そう思っていた。

 ――優しいね。

 気づく。

 それはただの一般解で。

 たぶん、心のどこかで彼女のことを、関わっても仕方がない、そんな風に思っていた。他の人がなにを言っても、どうしようもないんだと、割り切っていたのだと思う。

 彼女が死ぬべきじゃないと思うことは、それは多分、自殺はよくない、と世間的に言われているそんなありふれた意見と同じで、家族を亡くした少年に対して慰めの言葉をかけるのが正解だとされているから、話しかけたり話を聞いたりする、そんな行動となんら変わらない。

 そりゃ、確かに彼女のことを信じられる自分がいたことも確かだ。信じられる人に死んで欲しいと思わないこともそうだ、けど。

 ただ、どうしようもないだなんて思っていたから、馬鹿みたいに一般的で無責任な答えを彼女に示した。

 何も知らない人が無責任に投げる優しい刃物を、僕も彼女に投げつけてしまったのだ。

 それが一番負担になると、痛いほどわかっていたはずなのに。

「……ごめんなさい」

 僕は彼女に深く頭を下げた。

「ううん、いいの」

 彼女はそう言ってくれたけれど、数秒間、僕と彼女の間に沈黙が生まれた。

 彼女は何か迷っているようだった。

 やっぱり。

 彼女のことを傷つけておきながら、罪悪感と焦りに駆られた頭で、はっきりと、今日の彼女は変だと思った。いつもだったら、僕に気にさせないように、むしろ何の憂いもないように僕に話してくるところだ。

 それなのに何故か彼女は静かに首を振って黙ったままだった。こんな状況を作ったのは僕なのに、違和感を拭うことができなかった。

「やっぱりおかしいですよ。本当どうしたんですか」
「……」

 彼女は口をつぐんだまま下を向く。気まずい空気の中で、僕もただ彼女の足元を見つめる。彼女は言葉を選んでいるようだった。

「ねえ、芳樹くん?」

 その言葉に釣られるようにして彼女の顔を目で捉えた僕の呼吸が止まる。

 目の前にいる綾さんは、可哀想なものを見るような表情をしていた。

 何、その目は。
 彼女は声を絞り出す。

「おかしいって、どっちが……?」

 彼女は自分の髪の毛を潰すように握る。

「どっちがっ」

 初めて出したその感情の爆発に――僕は。

 やっと、本当にやっと気づく。

 どうして、それを違和感だと思っていたんだ。

 彼女が感情をそのまま出すことの、なにに引っかかった。

 違うからだ。普段と異なる彼女の様子に、違和感を感じていた。

 やっぱりおかしいですよ、って。

 どこが、おかしい、のだろうか。

 彼女がこうやって、自分の感情を隠せずに表現していることが、それだけのことが。

 何かおかしいのだろうか。

 わかっていたんじゃないのか、さっき僕が彼女に謝ったのは、理解したからじゃないのか。

 僕が気を使わないように話を進めてくれたり、家族のことを話すときに僕のテンションを尊重してくれたり。

 彼女が今までずっとやってきていた行動は、悪意に晒されないために仕方なくやってきたことだ。ならば。


 今、彼女が僕に気を使わせないように取り繕っていない、取り繕えない、それだけじゃないのか。

 おかしいってなんだ。

 感情を隠すことと、感情を隠さないこと。

 言葉を選び表情を作って人と接することと、気持ちをそのまま顔や言葉に乗せること。

 仕方ないと割り切って過ごすことと、なにも割り切れないままでいること。

 考えをまとめる前に、僕は切り出した。考えて、理解してまた間違わないように。

「自殺しないでください」

 唐突すぎたかも知れない。僕の言葉を待っていた彼女は、今までで一番驚いた顔をした。

「自殺? 何言ってるの?」

 驚愕の表情は崩れなかったが、彼女がとぼけたように首を傾げた。実際、とぼけたのだろう。

 僕は何も言わなかった。

「え、どういうこと? なに言い出だすの、芳樹くん」

 彼女の驚きの表情は次第に収まり、今度は、自分の意思で取り繕ったのだろう、いきなり変なことを言われて困っている、というような表情に変わっていく。

 普通の反応だ、彼女からしたらいきなりそんなことを言ってくる僕の頭の方がどうにかしている。

 誰も、自分が死のうと考えていることを、言ってもないのに他の人に知られているとは思わない。姉だって、父だって、亡くなった綾さんの友達だってそうだろう。

 みんな、隠してるつもりになってる。

 そして大体は、隠せている。

「どうしたの、急に」

 彼女はそう言って、訳がわからないというふうに笑う。

 僕が憶測でそんなことを言っているのだと思っているのかもしれない。確かに、普通だったら遺書でもない限り彼女の意思なんて証明できない。

 だからこそ、今の表情だろう。

 彼女は、何も知らないから。

 姉が死んでから僕が持つことになってしまったものを、知らないから。

 僕は、彼女にはっきりとわかるように口に出した。

「綾さんが、土曜日に死のうしようとしていること、僕は知ってますから」

 彼女が絶句する。

 そりゃそうだろう、僕に誰にも話していないはずのそれを、知られているんだから。

 彼女がこの後どんな反応をするだろうか、頭の中ではそんなことを考えていた。

 僕の憶測だと思い込んで白を切るのだろうか。

 声のことを言ったら、信じるだろうか、見抜かれたとわかった後なんだから、全く信じないなんてことはないと思うけど。

 彼女が思い違いなんてしないよう、もう一度言う。
「綾さんが死のうとしてるって、知ってたんです」

 何も言葉を発さない彼女に説明する。

「僕、自殺する人がわかるんです。いつ死ぬか、とか……触れた時に、声が流れてくるんです」

 初めて言葉にすると、その内容は全くもって現実味を帯びてなくて、信じられるわけがないと思った。

「え……」

 だから、戸惑いを隠せない彼女の様子は、至極当然に見えた。

 別に彼女の反応を受け止める準備を怠っていたわけじゃない。彼女の反応に合わせた説明の必要性を感じ、その準備はしていた。

 それなのに。

 斜め上、なんてもんじゃない。彼女が搾り出した言葉は、僕の思考を完全に置き去りにした。

「なんで芳樹くんも――」

 彼女は続ける。

「……芳樹くんこそ死のうとしてるのに」

 今度は僕が絶句する番だった。

 ……え?

 彼女は、何を?

 芳樹くんこそ、死のうとしてる? はっきりとそう聞こえた。

 そう言った彼女は、続く言葉はないとでも言うかのように、口をつぐんでいる。

「は……え」

 声にならない声が口からこぼれ落ちる。

 何を言っているんだ? 急に何を?

 ……死のう? そのまんまの意味だとでもいうのだろうか。

 彼女はさっき、「なんで芳樹くんも」と言った。

 芳樹くん、も。

 ……も?

 何が同じなんだろう。

 彼女と同じ、同じって。

 何が?

「私も、聞こえるの」

 聞こえる……。

 聞こえる?

 熱を持った脳を動かすが、置き去りにされた僕の脳は、彼女の言葉を理解できない。

 何が聞こえるというのだろう。

「私も、芳樹くんと同じなの」

 数秒間の沈黙の後、導き出された答えは、僕が何もわかってなかったことを示していた。いや、わかるとかわからないとか以前の問題。

 客観的な視点の欠落を意味していた。

 ――私も「声が」聞こえるの。

 ――芳樹くんこそ「自殺して」死のうとしてるのに。

「こうでしょ?」

 彼女がだらんと垂れた僕の腕をとり、手を握る。

「今、聞こえてるんだよね」

 彼女のその言葉に重なって、耳鳴りを想起させるその声は、はっきりと僕の耳に届いていた。

 僕の沈黙を肯定と捉えたのか、彼女はなおも続ける。

「私も同じ。今、聞こえてるの。土曜日でしょ? 同じなんだよ。芳樹くんからも、そう聞こえるの」

 彼女も。

「だから言ったんだよ、同じだって。ご飯に誘ったあの日からずっと、芳樹くんが辛いの知ってるよ」

 ポケットに入っているスマホから伝わる振動で我に返る。

 慌ててポケットに手を突っ込んでスマホを取り出すと、スマホは僕の手から滑り落ち、音が止まる。

 ずっと身体の濃度が薄まったみたいな感覚に包まれていた。全身が麻痺してるみたいだ。

 自分の置かれている状況を確認しようと周りを見渡すと、そこは見慣れた空間だった。自分の部屋だ。あの後どうやって家に帰ってきたのかはわからない。ただ、どうにか家に帰ってきたことは確かだった。

 僕は両手を見る。心なしか震えている。

 静かな部屋の中、ずっと耳鳴りがしていた。

 音に意識が入っていたから余計にだろう。またけたたましい音が耳に飛び込んできて、僕の皮膚は大きく波打つ。

 今度はなんだ。

 確認すると、スヌーズ機能で再度アラームが鳴っただけだ。さっきちゃんと解除しなかったから。

 ため息をつく。

 毎日家に帰らねばならない時間を登録している。もちろん、自分がその時にいる場所は関係なく音が鳴る。

 馬鹿みたいに声を上げ続けているスマホを見ていると、無性に腹が立ってきて、停止を押した後すぐにベッドに投げつけた。ばすん、と虚しい音が鳴る。

 よくわからなかった。

 いつもだったら何も考えず淡々とこなしている作業に苛立つなんて初めてだった。まして、寝起きでもないのに。

 自分で言うのもなんだけど、僕は人より怒りにくい、と言うか、多分感情の起伏が小さい。どうしようもないこともすぐに割り切る。だから母より落ち着いて生活できている。

 どうしたんだ。

 胸の内を冷静に判断なんてできないけれど、全身に張り巡らされた血管の脈動が自身の動揺をはっきりと伝えてくる。

 落ち着けるわけがない。

 ――私も今聞こえてるの

 手を握られた感覚はもうすでに消え去ったけれど、その時の彼女の声が僕を追いかけて耳の奥で再生される。

 彼女が言っていたことは、本当のことなのだろうか。

 僕と同じように、触れた相手が死のうと思っていることに気づけるなんてありえないはずだ。普通はそんな異質な力を持っているはずがない。

 何度か、彼女にはそんな力がないんだから、と思ったことがある。ずっと、こんな力は自分だけが持っているものだと思っていた。

 なんだよ、くそ。

 声にならない唸り声を上げ、頭をかき回す。

 本当に、彼女も。

 何に、僕はこんなにも苛ついているのだろうか。

 今まで考えてきたことが間違いであったと知らされるのが怖いのだろうか。それとも。

 けど、状況を受け入れられない自分の中で、彼女の行動に、僕と同じようなことがあることを思い出していた。

 彼女も購買の人混みには近づかなかった。

 それも、僕と同じ理由だったのではないか。

 電車のラッシュが嫌で時間をずらしていると言っていた。それも。

 今から考えたら、僕と同じ理由で同じ行動をしていたのかもしれない。

 単純なことだ。自分に備わっている奇妙な力が、他の人にも備わっていたとしてもなにもおかしくなんてない。

 どうして僕だけだなんて思ってたんだ。

 リビングに出ていくと、母はいつも通り姉の部屋にいるらしく、暗いリビングには光が漏れ出していた。

 また。

 重い足取りで冷蔵庫の前まで歩いてき、開ける。

 中には、食材しか入ってなかった。

 深いため息が口から漏れる。

 仕方ない。

 とりあえず母を呼ぼうと思い、奥に向かって声をかける――

 寸前、母のすすり泣く声が姉の部屋から聞こえてきて、僕は出しそうになった声を引っ込める。

 少し迷って、そのままリビングを後にした。

 どうせ何も食べられる気がしない。耳鳴りのせいで何か口に入れたら戻しそうだ。いや、そんなことどうでもいい。じゃあなんで僕はリビングに来たんだ。

 大きくため息をつく。

 くそ、くそ。

 鼓動の治まらない状況の中で、気づく。

 そうか、自分がわからないからだ。理解できない自分の感情に恐れて、苛立っている。

 あのときみたいだ。父が死んだと聞いて、体と感情が切り離されたみたいになってわからかなくなって。あれに似てる。

 彼女が言ったことを半分しか覚えてないとか、そういうわけじゃない。ちゃんと聞こえていたからこそ、その内容を意識的に避けようとしているのだ。自分と対面することが怖くて。

 ――芳樹くんこそ死のうとしてる

 彼女からはっきりと聞こえた言葉。

 電気が消えた部屋に入ると、足を何かに引っ掛けて転びそうになる。慌ててバランスをとり、スイッチを押すと、それは床に置かれてある鞄だった。さっき持って帰ってなにも考えずに放置していたからだ。腹の奥が沸騰しないよう、目を瞑って、何度も深く息を整える。

 飛び出た持ち物の中、以前購入した本が鞄から覗いているのに気づく。その本に挟まったままの栞はもう、仕事を終えている。

 ああ。

 僕は、彼女が死ぬくらいまで追い込まれていることを彼女自身が気づいていないんじゃないかと思い、あの本を買った。

 自分がそんな理由で購入したにもかかわらず、逆の視点で物事を見ることができていなかった。

 彼女が同じ本を持っていたのも、同じなのか。勝手に、彼女自身が悩みを抱えているからだと思っていた。

 止まない耳鳴りの中で考える。

 でももし、彼女が僕と全く同じことを考えて買ったたのだとしたら。彼女も、僕が追い込まれていることを自分で認識していないかもしれないと思ってあの本にたどり着いたんだとしたら――辻褄があう。

 思えば、彼女は自分からその本についての話題を出してきた。もし彼女が本当に悩んでいて、そのことを僕に知られたくないのなら、その行動はおかしい。

 彼女の本を購入するときの疑い。

 僕が……自殺。

 彼女も同じ力を持っていたということ自体はもう疑っていない。

 それに、本当に彼女に聞こえていたのだとしたら、その内容が嘘なんてことはない。事実として、僕自身が既に経験していることなのだ。

 ただ、そうだとしても、信じられない自分が一方でいた。

 ずっと、姉や父のことは仕方がないこととして受け入れられていたはずだ。だからこそ親戚からもしっかりしていると思われる。

 周りから見ても、母よりもっと、ちゃんとしているはずなのだ。だから、今更自分が死ぬなんてことは、ありえない。

 まだ立ち直っていないなんてことあるはずがないのだ。そういうものだ。だから絶対。

 自分に言い聞かせるように口に出した言葉は、考えを一瞬にして砕き去った。

「だから絶対、僕が自殺することなんか――」

 頭で考えていたはずの言葉は、後には続かない。

 口に出すと、その内容はやけにすんなりと頭に入ってきた。

 ずっと悩み続けていた問題に、解答のきっかけとなる何かを与えられた感覚。

 それは一気に広がって、全てを理解する。ずっと心の中で渦巻いていた感情を混ぜて平均したら、矢印がその言葉に向かうんだと、気がつく。

 ずっと自分の中にあったのだ。

 自殺。

 他の誰よりも馴染みがあって、でも誰よりも避けていた言葉。

 今までずっと、無意識に他の言い方に置き換えていた。その言葉を、遠ざけようとしていた。

 自分の心の奥に、綺麗におさまる感覚があった。


『自殺を考えるくらいにまで悩んでいる人のことを、自分が考えたところで何もわからない』


 ずっとそう考えていた。

 僕は、憧れていたんだと思う。

 姉や父が死んでからもずっと、同じ土俵に立って話ができる人になりたかった。

 悩んでいないからわからなくて仕方がない、と諦めることで、逃げていたのだ。

 本当は、悩んでいないなんてことないのに。

 振り返る。

 どうして、自分で設定したアラームに苛ついた? コンビニで遅くまで談笑している学生を見て、足を止めていたのは?

 アラームが知らせる内容が、僕にとって納得できないものだから。そして、無意識に、そんなアラームに振り回されない彼らの行動を羨ましいと思っていたからじゃないのか。

 母からの謝罪を、見ていられないと思い、母の負担にならないように、いつも気をつけて行動しようとしていた。それで、母の行動に不満を感じた時はため息をついて心を落ち着けようとして。

 度々心を落ち着けようとするということは。

 その度に負担を感じていたということだ。

 感情が暴れ出しそうになるのを抑えるため、僕はベッドに潜り、布団を頭からかぶせる。そうすると、この世界に一人になったみたいで、少しは、楽になると思ったからだ。

 深呼吸を、重ねる。

 自分の息遣いとやまない耳鳴りが聞こえて、気分が悪くなる。

 突如、焦りのこもった勢いで扉が叩かれる。

「帰ってるの⁉︎ 芳樹!」

 部屋に母が入ってくるのがわかった。

「帰ってきてたなら言ってよ……何、眠いの?」
「うん、ごめん」
「ご飯、今からになるけど……」
「いいや、ちょっと疲れたから寝る」

 布団から顔を出し、なるべく平坦な早口でそう伝えた。

「大丈夫? 体調悪いの?」

 なのに、揺れ動く感情が声に乗ってしまったのか、母が心配そうに訊いてくる。

「ううん、平気」

 そういうと、母はしばしその場にいたが、ゆっくりと扉をしめ、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 次の朝、母の顔を見たくなくて、いつもより早く家を出た。



 毎日やっていたことが、全て色褪せてしまったように僕の目には映っている。それを理解したと同時に、これまでと何も見え方が変わっていないことにも気付いていた。ずいぶん前からそうだったはずなのに、今頃気がついた。

 自転車で学校に向かっている間も、教室で過ごしている間も、考えることは一つだった。

 姉のこと、父のこと。

 姉がいじめを受けて急に目の前からいなくなって、父もいなくなって。

 仕方ない、訳ない。

 本当に仕方ないと、心からそう割り切れているのであれば、あの時受けていたクラスメイトや担任からの厚意を、無下に断ったりすることなんかないはずだ。

 自分の中で姉の死を完全に受け入れていたのだとしたら、姉の部屋に入るのを無意識に避けるなんてことはしない、母を呼ぶ時にわざわざリビングから大きい声を出す必要なんかない。
 そんなに、物分かりが良いはずがないのだ。

 簡単に、姉をいじめていた人を許せるわけがないのだ。

 仕方ないと心から思えているのなら、暗示のように何度も何度も仕方ないから、と考えようとなんかしない。

 自分が死のうと思っていることを自覚してから一日も経っていないのに、落ち着いている理由は正直わからない。ずっと知らないところで、覚悟ができていたということなのだろうか。

 何も解決なんてしていないけど、納得すれば、問題はすり替わる。これから自分はどうすればいいか。

「なあ、新川」

 テスト後、出山に話しかけられるまで、ずっと思考が空回りしていた。

「アイス、食べに行こうぜ」

 テスト範囲の詰め込みすぎで空気の抜けた出山の表情を見ると、いくらか気分がましになる気がする。

 どうせこの後どうするかなんて考えていなかったから、流されるまま頷く。

 昼食の時間まではまだ結構時間があるけれど、食堂の席は半分ほど埋まっていた。早めの昼食をとっている生徒もいれば、ただだべっている人もいる。

 みんなに共通していることは、明日もテストがあるということだ。学年末テストへのそれぞれの不満が大きな塊となってそこに存在しているみたいだった。

 隣の出山もその塊の中にすんなりと溶け込む。

 自分だけがこの空間から浮いてるような気がした。

「お、これこれ」

 アイスクリームの自販機を眺めていた出山が、硬貨を入れてボタンを押す。

 出山が買っている間もずっと考えていたのに、決められなかった。

「珍しいな」

 特に欲しいものも決められないのなら適当に押せばいいのに、なぜか手が出ない。柑橘系のアイスもあるのに、なぜかそれを選択することができなかった。理由は、わからないし知りたくもない。

「じゃあ、これでいいんじゃね」

 彼は横から、まだ硬貨もいれていない自販機に自身の財布から出した百円玉を二枚入れ、クッキークリームのアイスのボタンを押す。そして受け取り口から取り出したそれを、目の前に差し出してきた。

「ほい、あげるわ」
「……」
「何、これ嫌だった? 交換するか?」

 先ほど購入していたサイダーのアイスを出してくる。

「いや、こっちがいい。ありがとう」

 その後、席を確保し、二人でアイスを貪った。

「疲れたー」

 彼は爽やかなそのアイスで疲弊した集中力を回復させて、テストに対する不満を溶かしていた。僕は、何か回復したのかわからない。

「テストやばいんだけど」

 出山は、完全に回復したのか、いつもの調子で呻く。

「新川はどうよ。また余裕?」
「……ん、どうだろ」
「相変わらずだなあ」

 彼は大きく息を吸い、アイスで冷えたであろう空気を一気に吐いた。

「なぁ、俺の勝手な意見、聞いてくれるか?」

 出山の少しだけ改まったその言い方に、ただゆっくりと頷く。

「新川はさ、基本的に心の中にあることを他の人に言わないところあるだろ? それがまあ、なんていうかな。俺だったら何かあったらすぐ誰かに言って楽になろうとするけど――ほら、ちょうど今みたいに。けど新川の場合、自分で自分のことはこなして、悩みとかも自分自身で受け入れて解決してるのかなって思ってて、だから会った時からすごいなこいつー、とか思ってたんだけどさ」

 少しだけ間を置いたのは、恥ずかしさを紛らせるためだろうか。

「たまーにしんどそうな表情してると、心配になる。爆発すんじゃねえかって。まあ、新川が言ってこないならわざわざ聞かないけど。一応何かあるんだったらいつでも聞くからな?」
「ありがとう」
「おう、テスト期間中、勉強以外だったらなんでも大歓迎」



 自分が自殺しようとしていることはわかった。正直、そこに関しては、別によかった。ずっと思ってた気持ちを理解できた。

 改めて考えると、思う。姉に対するいじめも、父の死に何もできなかった自分も、二人の死自体も、勝手に立ち直ることが正解だと考える人への鬱憤も、何も割り切れてない。でも、割り切れていないことを理解した。それで十分だ。週末、僕がどうなるのかは、考えても無駄だと思った。別に生きることに執着もしていない。

 だから、晩ご飯を食べた後、僕は自室でテスト勉強なんかせずに彼女のことを考えていた。

 とりあえず、彼女にはもう一度ちゃんと謝らなければならない。自分自身が人との関わりを避けるようになった原因、それと同じことを彼女にしたのだから。

 彼女はずっと、周りを見て生きていた。

 気を使いながら周りの人と関わってきた。

 あれ。ふと何かがひっかかるのを感じた。

 ずっと、死のうとしてる彼女が自ら他の人と関わろうとする理由がわからなかった。だから、僕は彼女に対して疑問を持ったのだ。

 その疑問は今でも変わらない。死ぬことを理解しているのであれば、関わりを増やす必要は全くない。

 消極的な人付き合いに慣れた頭で考えてみる。

 人はどういう時に仲良くする?

 必要なコミュニケーションを取るために、と言っていた。

 必要な時。

 彼女の言ったことがその言葉通りの意味なら。

 死ぬつもりなのに、必要なコミュニケーションって、なんだ。わざわざ行っていなかった部活にまで参加して人と話す理由って、なんだ。

 僕と同じ?

 冷たい汗がつつっ、と背中に流れる。

 なにか、とんでもない思い違いをしてる予感がおもむろに湧き上がってくる気がした。

 ある仮説が浮かぶ。

 同じ日に死ぬ、と言っていた。

 それなら彼女は――

 父の時も彼女の時もちょうど一ヶ月前に聞こえたのだから、彼女が聞こえたのも、初めて僕をご飯に誘ってくれた日なのだろう。

 彼女の今までの行動を思い出す。

 僕をご飯に誘ってくれた彼女。

 帰る前、彼女は財布を持った手を握った。そこで僕は二回目の声を聞いた。彼女も二回目の声を聞いていた。

 それ以来、彼女が僕に触れることはなかった。

 バスの中では、彼女が席を一つ離すように促した。あれも、遊ぶため以外の理由があるのかもしれない。

 それに。

 彼女に疑問を持ち始めた頃、ちょうど彼女から誘われたケーキのイベントに行った。何も考えず、せっかく誘ってくれたんだから、と考えていた。チャンスだ、なんて。

 その後も、彼女は僕を誘おうとしてくれていた。

 思えば毎回彼女が誘ってきた。

 いつも、彼女は僕のことを心配していた。

 あれだけ人のことを考えて行動する彼女が、他の人から僕の情報を集めることに違和感を感じていた。彼女ならば、それによって僕に及ぶ影響を考えられるだろう。それに、やっぱり彼女の性格なら、なにも考えずバイト先を言うなんてことはないと思う。しかも彼女は、僕が嫌がることを理解しているようだった。

 連絡先を聞きにわざわざ教室に来た時もだ。

 今から考えたら彼女がする行動には思えない。

 そんなにタイミングよく、彼女が誘うなんてことが起こりうるのだろうか。

 僕は今までしてきた大きな間違いに気づく。

 ずっと、彼女が僕のために関わる機会を作ってくれていたのだとしたら。

 僕にとってタイミングが良いのなら、彼女にとってもそうで、その状況は彼女によって作り出されていたなら。

 全て、コミュニケーション能力の高さで片付けていた。何も、彼女のことを見ていなかった。

 彼女は、僕と同じなんかじゃない。

 振り返る。僕はなにをした?

 彼女に触れて声が聞こえ、彼女が死ぬとわかった。自殺するはずの彼女が楽しそうにしていることに疑問を持った。それだけ、それだけだ。

 彼女のために何もしてしない。

 彼女がずっと僕のために動いていてくれたのにもかかわらず、僕は彼女が掴んだチャンスにおんぶに抱っこだった。

 父の時と何も変わっていない。

 僕は、またみていただけだ。

 自分の感情に気づき、背中に怖気が走る。

 どうしようもないと思っていた、それ以前の問題だ。

 未だなお、本心で彼女のことを救おうとさえ思っていなかった、のだろうか。

 身近に人が二人も死んで、目の前で死のうとしている人がいるにも関わらず、彼女が自殺することを、仕方ないとでも思っていたというのか。

 ひとでなしだった。

 そうか。自分が死ぬから、彼女が死ぬのはダメだとか言いながら、実際は周りなんて、どうでもよかったのだ。

 挙げ句の果てに彼女を傷つけた。身をもって体感したはずの鋭利で優しい言葉を、彼女に投げつけた。

 遅いけど。もう、絶対に綾さんを傷つけてはいけない。今更かもしれないけど、せめて今からはもっと彼女のことをしっかり見なければならない。

 そのために僕はどうすればいい。

 周りから正しいと思われる行動が正しくないかもしれないと気づいている今、僕は何をすればいい。

 視線をずらせば彼女に渡そうと買ったチョコレートの箱が机に載っている。僕はそれを見えないところにずらした。

 その後、部屋を出てゆったりと歩き、リビングに行く。

 食事が終わった後はいつも部屋に篭っている僕がリビングに現れたことに驚いたのだろう、ダイニングテーブルについていた母の声は少し上ずっていた。

「どうしたの?」
「ねえ、お母さん。お姉ちゃんは」

 テーブルの上に載っているものが視界に入り、僕はそれ以上言えなくなる。

 ――お姉ちゃんは、死んで幸せになれたのだろうか。傷ついた心を癒すことができたのだろうか。お父さんは、命を絶つことで逃げたい何かからちゃんと解放されたのだろうか。

 母は、最初からずっと割り切っていないのだろう。眼下には昔撮ったアルバムが広げられていた。

 普段話さない話題に僕が触れたことで、空気が張り詰めているのがわかる。

「お姉ちゃんがどうかしたの?」
「いや……」
「何よ」
「いや、なんでも」
「最近どうしたの。なんか変よ」

 それはそうかもしれない。

 母は喉をつまらせたように呻く。

「芳樹まで死んでしまったら……」
「やめて」

 僕は話を切る。母が目を見張るのがわかった。

「そういうのはやめて」

 ただ、そう言い残して部屋に戻った。
 彼女を一番傷つけない方法を、僕は慎重に考えなければならない。



「出山、アイス食べよう」

 僕が言うと、「おう」と素っ気なく相槌を打ち、後ろをついて来てくれる。

 食堂には、昨日より多くの人がいた。みんなテストへの不満をアイスにぶつけでもしているのだろうか。

 どうやら僕の予想は当たっていたらしく、自販機のボタン全てに売切の光がついていた。

「うそー、最悪」

 大袈裟に嘆いた後、出山が悪い顔をしてこっちを向く。

「抜け出して駅前に買いに行くか? あ、けどバイトあるから時間無理か」

 彼がおどけて走るそぶりを見せる。

「いや、まだ時間ある。行こうか」

 聞くことが聞くことだからもう少し、落ち着きたい。

「よっし」

 二人して自転車で駅に向かう。

 自転車を漕ぎ始めてすぐ、後悔する。

「さっむー」

 三月に入ったと言っても、外は肌寒く、自転車に乗ると顔に当たる風が痛い。
 けど、全身に当たる冷たい風が僕の心の乱れも取り去ってくれる気がした。自然と口が開く。

「聞いていい?」
「勉強の話じゃなけりゃ何でも」

 出山は空気が重くならないように促してくれる。

「……大切な人が死ぬほど悩んで、自殺するって決めたらさ、出山ならどうする?」
「ええ! 新川死ぬの!」

 そうなるか。彼の驚きを宥めるように僕は言う。

「ああ、違うよ。そうじゃなくて。昔、近くで死んだ人がいて」

 嘘は言ってない。

「ああ、そういうこと」

 彼はすぐ、何か納得したように頷き「んー」と考えてくれた。僕は駅に向かって足を回しながら、彼の反応を待つ。

「これ、思ったこと正直に言っていいんだよな?」

 しばらく考えた後、彼は口を開く。

「もちろん」
「……じゃ、あくまで俺の意見だけど」

 彼は自転車のスピードを緩め、話を始める。

「死ぬほど悩んで自殺するってなったんだから、どうしようもないかなって思うかな。自分の大切な人なら話聞いて一回は止めようとするだろうけど、真剣に悩んだ結果なんだったら、納得してしまうかも」
「どうして?」
「……一回痛い目見たからかな」

 僕が黙っていると、彼は訥々と話し出した。

「死ぬとかじゃないけど、部活でも同じようなことあったんだよ。ずっと小学生の時から一緒にやってた友達が高校入学してすぐに大怪我して、一年半は運動できないってなってさ。俺も長い間続けてるからなんとなくわかるんだけど、大袈裟じゃなくて部活が全部なわけ。だから、そいつからしたら生きる楽しみ取られたようなものなんだよ。で、そいつがそんなにブランクできるんだったら続けてても意味ない、って言い出して。俺、その時必死になって引き留めようとしたんだよ。結局、溜まってたストレスが爆発して、そのまま喧嘩してそいつ部活も辞めちゃったんだけど、その時に理解したんだよ。俺が一緒に部活やりたいと思ってる気持ちに嘘はないし、けど、それでも怪我もしてない俺がただ続けようって言うのは、そいつにとっては負担でしかないんだって。続けたいのに一年半棒に振ることになって一番絶望してるのそいつなんだから。で、それ以降ずけずけと人の心に入り込もうと思わなくなった」

 そう言って「でもまあ」と付け足す。

「ただ、そんな冷静に言ってるけど、実際命がかかってたら勢いで止めてしまうかもな、どうだろ」
「そっか」
「まあ、正解とかはわかんねぇけど」

 出山の言ったことは、真っ直ぐに染み込んでくる。

「出山、ありがとうな」
「なんだよ」

 僕はもう一度、大切に大切に、今までで一番心を込めてお礼を言った。




 昨日の放課後の出来事は、ただ、綾さんに、次の日つまり土曜日にある場所に付き合ってもらう約束をしただけだった。

 綾さんも、もう覚悟を決めた様子で頷いた。

 その覚悟が、僕と反対を向いているのは知っている。

 朝。

 姉の部屋に置いておけば、母は読むだろうか。母が起きてくる前に、姉の部屋に忍び込み、読み終えた本を仏壇に立てておいた。

 長い間避けていたその部屋に足を踏み入れるのは、意外と難しくなかった。けど、中にいると感情が揺れ動きそうで、少しも埃が見当たらないその部屋から急いで出る。

 そっと扉を開け、家を後にした。

 今日、墓に行くということは綾さんに伝えていた。

 正直、なにも結論は出ていなかった。

 二つ返事で首を縦に振った彼女も、何を考えているのかはわからない。僕だって、何をすれば彼女が救われるのかいまだに理解できていないのだ。

 彼女の自殺を無理やり止めるとか、そういう単純なことじゃだめなことだけはわかっている。そんなことしたところで、彼女がまた後日自殺を図る可能性は取り除けないのだ。だからひとまず、一ヶ月僕のことを気遣ってくれた彼女に、姉と父に会って欲しかったのだ。会ってもらってから、話をしようと思っていた。何か変わるかどうかもわからない。けど、そうする他にどうしようもないのだ。

 そもそも、彼女のためを思うなら、彼女の自殺を認める方がいいのではないかという考えも僕の中に存在していた。

 待ち合わせの駅にいた彼女はいつもより心なし控えめな服装をしていた。それが意味するところは、わからない。

「私も昨日、お墓参りしてきたの」

 向かう途中、彼女は平坦な口調でそう告げた。

 僕はその彼女の発言に無為な詮索をすることなく「そうだったんですか」と相槌を打つ。なぜか心が落ち着いてる自分がいた。ゆったりと流れていく雲を眺めながら訊く。

「言ってた友達、ですか?」
「うん。家の仏壇とおばあちゃんのお墓にもお供えしたの」

 言って、鞄の中から真っ赤な甘栗の紙袋を取り出す。

「で、これ」
「相変わらず好きですね」
「うるさいなあ、もう。お墓に供えておいた分は一日晒してるから食べられないけど、仏壇のは一日経ったら食べなきゃ」

 彼女はそんな持論を持ち出しながら栗を一つ口に入れる。

「いる?」

 僕が素直に手を出すと、栗を持った彼女の手が僕の上に載せられる。
 何度目だ。僕は聞こえる声に耳を傾けることなくお礼を言う。
 口に入れ、歯で噛み砕くと、ふわりと甘い味が広がる。

「美味しいです」
「でしょ」

 そこから僕たちは他愛もないことを話しながら歩いていた。本当に他愛もないことを。別に意識的にそうしていたわけじゃない。けど多分、二人とも話すタイミングを待っていたのだろう。

 他愛もないこととは主に、向かっている場所についてで、話していると、彼女の家族も今向かっている場所に納骨されているということを知った。

 他にした会話といえばこのくらいだ。

「これなかったら、綾さんとこうやって話してることもなかったんですよね」

 手を見ながら言ったから彼女にも何のことか理解できただろう。

「そうかもね、芳樹くんあまり近づくなオーラ出てるし」
「そうですか?」

 これでもうまく隠しているつもりだ。

「わかるんだよ、何となく」
「そうなんですか。あ、そういえば」

 同じように声が聞こえるなら。

「綾さんも耳鳴りします?」
「そう、毎朝。嫌になっちゃう」

 明日になればどうなっているかわからない二人でするなんでもない会話は、すぐに終わりを迎える。到着したのだ。

 中へと進む僕の後ろを彼女がついて歩いてくる。

 ゴクリと唾を飲み込む。

 母に連れて来られる時以外でここにくることはなかった。姉や父の記憶が呼び起こされる場所に自分からは近づかないようにしていたのだ。それに、墓を見て心が動かされるのが嫌だった。そこには、新川ではない苗字が彫られているから。数年前まで毎日のように書いていたその苗字を見ると、心の奥がかき乱されそうになる。今から思えば、その事実に気づきたくないから、ずっと来なかったのだろう。

 けど、もうわかっている。

 自分が、割り切ることなんかできないと、僕はもう知っている。

「僕、一回中学の時に苗字変わってるんです。姉が死んで、父が死んで、それで。学校で知らない人にも苗字が知られてしんどかったから」

 彼女は黙って僕の話を聞いている。沈黙が、ありがたかった。

 近寄りづらく今まで命日くらいしか来ていないのに、僕の足は迷うことなく目的の場所へと進んでいく。

 今日なら、その墓を見ても大丈夫な気がした。

 母だろう。雑草などは全くなく、石碑が日の光を反射している。毎週のように母はこの場所を訪れているのだろう。


『最上家之墓』


 そこに書かれている姉と父の名前。

 母の旧姓に戻す前の、数年前までは毎日のように書いていたその苗字。

 姉と父の顔が頭の中に浮かび、僕は思わず目を瞑る。

 ただ耳の奥では、それほど不快に思えない耳鳴りがしているみたいだった。

 その音に耳を傾けながら、僕は頭の中に浮かんだ姉にゆっくりと話しかける。少し、姉が微笑んだ気がした。

 お姉ちゃん、僕。

 気づく。いや、それより先に。

 先に紹介すべき人がいる。

 僕は父と姉に綾さんのことを紹介しようと、僕は少し後ろで待っている彼女の方を振り向く。

 ――と、そこには彼女の姿がなかった。

「綾さん?」

 え、さっきまでちゃんといたはず。

 辺りを見回す。今通ってきた道にも彼女はいない。不意にねっとりと暗闇に取り囲まれたような不安が生まれ、僕はもう一度彼女の名前を呼ぶ。

 その呼び声が空気に溶けても、彼女からの返事は返ってこなかった。

 ふと、墓石の方へと目をやると、端に赤いなにかが映る。

 右端にある小さめの墓石。姉の墓石の足下、そこに赤い紙袋が立てかけられてあった。

 ――天津甘栗

 それを目にした瞬間、全身の毛穴から汗が噴き出すのがわかった。
ーーー

 同じバイト先で働いている新川芳樹くんの表情はいつも、少しだけ冷めていた。

 彼は高校に入学するタイミングでバイトを始めた。私は一年先輩で、同じ高校だったし、何度か話しかけようとした。話しかけるといつも普通に応えてくれる。それなのにいつも、どこか一線を引かれているようなそんな感覚があった。

 私は中学のいじめで転校してから、自分の性格を無理やり変えた。人に嫌われない接し方を研究して、高校生活でもそれを使って上手くやっていたと思う。中学の時は妬まれていじめに発展した容姿も高校ではむしろプラスに働いて、誰からも嫌われることはなかったと思う。

 だから、芳樹くんと話す時も、いつものように、彼が求めるであろう行動をとって、愛想よく話しかけたりしていたのだけど、彼は、心を開いてくれなかった。

 そんな彼のことを純粋に気になった。もっと一緒に話をする機会があれば、と思っていたけど、私はおばあちゃんと二人で住んでいて、お金に余裕があるわけでもないから、どこかに誘ったりして話す余裕はなかった。

 だから祖母が亡くなって、その間シフトを代わってくれていたと知った時はチャンスだと思った。

 どうせ私は死ぬと決めていたし、もうお金はいらない。

 そして、彼をご飯に誘った日、それは聞こえた。

 彼の肩に手を置いた瞬間だ。最初、どこかから放送でも流れているのかと思った。割れた金属音のような不快な音が耳に入ってきていた。

 ただ、音が聞こえたことに対する驚きはすぐに消え去ることになった。

 内容が、今私がご飯に誘った彼が一ヶ月後に自殺をするという内容だったから。

 まるで自分のことを言われているみたいだった。

 怖くて話をすぐ終わらせようとしている最中も動悸が収まらなくて、ただその中でもちゃんと私は続いて声を聞いていた。耳をふさがなかった。

 彼を救えば、それまでの関係する記憶が両者から消えるという訳のわからない内容が耳に届いていたのだ。小説みたいだ、なんて思う一方で、私はよこしまな――自分に都合の良い解釈を始めていた。
 これはもしかすると天国にいる葉月に対する償いになるんじゃないか、と思った。

 もし今聞こえてきた内容が本当なんだとしたら、そして私も葉月と同じように人を救ってから死ねば、自殺した彼女も少しは許してくれるかもしれない。

 そのための試練なんじゃないか、と。

 体力の限界で座り込む。ずっと墓から逃げるように走り続けていた。

 体が震えていた。疲れて、じゃない。事実を理解して。

 私は思い上がっていた。なにが償いだ、なにが罪滅ぼしだ。

 彼を苦しめていたのは私自身だった。

 私が、芳樹くんの姉ーー葉月を死に追いやった。自殺じゃない、殺したんだ。

 違和感が全くないわけじゃなかった。

 芳樹くんの最寄り駅と、家庭環境。お姉さんは、自殺していると言っていた。その話を聞いたときに、もちろん私の頭の中には私のせいで自殺した親友の顔がはっきりと浮かんでいた。

 たまたま似た境遇を抱えている人なんだ、と思っていた。

 だから、彼の考えていることを理解できると思った。彼が、私と同じように自殺を考えているも、納得できた。彼の苦しみは、自分が一番わかっているだなんて思っていたりもした。

 くだらない。馬鹿だ。ただの、思い上がりだった。

 私が彼の苦しみの一番の元凶なのに。

 苗字。新川……芳樹。いつもバイト中の名札でいつも目にしている。
 新川、それは間違いじゃない。

 逃げる前に聞こえた彼の言葉を思い出す。

 ああ、そうか。

 私のせいだ。私が、彼から全てを奪った。

 私のせいで、彼の苗字も変わって。

 自殺に追い込んだんだ。

 心臓が、捻れる。

 そうか。この声が聞こえるという状況。なんで私たちだけが、なんて思ってたけど、二人とも、原因が同じだから。

 彼も気がついただろう。もう近くになんていられない。私にはどうにもできない。どうせ何もできなかったのだ。

 わからない。もう私は一人で。彼には生きてほしい。もし私だけが死んだら、彼は私のことを忘れてくれるはずだ。

 けど。そんなことを願う資格さえ私にはない。

 もう、彼に会うことはできない。


ーーー


 綾さんが、姉を自殺に追いやった、のか。自分で言っていた。

 ――私が自殺まで追い込んだから。
 ――墓参りに行ってきたんだ

 本当、なのだろう。

 彼女の、本性、とかじゃない。

 ずっと、姉の自殺は仕方ないものだと思っていた。

 姉のいじめに関わった奴全員――とか、復讐まがいのことを一度も考えなかったと言うと嘘になる。けど。僕はずっとその感情を抑えていた。それに対面した所で、恨みの感情をぶつけたりした所でどうしようもないんだからって。

 許せないし、納得してないけど、そこは間違ってないと思ってた。

 反省して欲しいのか、お詫びに死んで欲しいのか、そんなことを考えるのも嫌で。

 ずっと、その感情自体、不必要なものだと自分の中で決め込んでいた。そんなことをした所で自分の姉が生き返るわけでもないのだから、と。

 けど、実際、目の前に、生きてほしいと思うくらい近くに姉のいじめの原因になった人物がいるならば。ずっと保留していたから、その蓋を開けられて、停滞していた醜いけど正直な感情が急に動き始めていた。

 だから、彼女の姿が見えなくなってすぐ、彼女を探せなかった。



 内臓が浮いたみたいな感覚の中、僕はある場所に向かっていた。

 心の中、奥底、見えないはずの、これからも誰にも見せないはずの場所にこびりついていたどす黒いものが、ザワザワと騒ぎ出す。

 真っ直ぐに怒りを出しているよりもタチが悪かった。感情の、落としどころが分からなかった。母みたいに、他に影響を与えながらも、自分の感情に正直でいられたなら、どんなに楽だろうか。

 正しい道だと思っていたから、そうやってしっかりしていると言われるような体裁を作ってきたから、それしか方法がなかったから。

 わかってる。綾さんよりもっと悪い人もいると、理解している。

 それじゃあ、このこみ上げてくる感情はなんだ。怒り、焦り――いや、失望、だろうか。

 綾さんが姉をいじめたわけじゃない、わかっている。

 けどそんな話をしている訳じゃない。いつだって手の届く範囲のことしか考えることもできないのだ。だからこそ僕は蓋を閉めて考えることさえも保留にしていたのだ。これからもその蓋は開くことがないと思っていたのに。

 なんだ。

 なんなんだ。

 脳味噌が掻き回されているみたいで、自分の感情が理解できなかった。

 彼女のことをずっと知ろうとしてきたけれど、知らない方が、よかったのかもしれないと、始めて思った。

 ああ、そうか、僕たちが同じ能力を持っているのはそういうことだったのか。そりゃ、こんな力、みんなに生まれ始めたらキリがない。

 彼女に会えば、わかると思っていた。彼女を傷つけないために何をすればいいか。彼女に会って話して、選ぶしか方法はないと思った。けど、違った。

 もっと、わからない。

 どうすればいい。

 分からないから、その感情を、一番わかっている人に聞こうと思ったのだろうか。

 家に着くと、昨日よりもふらふらした足取りで廊下を通り、リビングへ。僕はその奥にある姉の部屋の扉を開けた。

「え……芳樹」

 リビングにいた母が、急に姉の部屋に入っていく僕に対し驚愕の声を上げる。

 その言葉は無視して、僕は扉を閉める。

 変だ。今朝は何ともなかったはずなのに、急に胸の奥からもぞもぞと悪いイメージが溢れ出す。

 深呼吸するのも忘れて、僕は久しぶりに姉の部屋を見回す。

 仏壇以外、昔見たものと何も変わっていなかった。

 埃ひとつ積もっていない勉強机。姉は高校に行くためにずっとここで勉強していた。僕はが今の学校に入ることに決めたのも、姉の影響だ。

 机の隣にある本棚に見覚えのある本が入っているのに気づき、心臓が跳ねる。

 姉も、同じ本を持っていたのか。僕も綾さんも持っている本。姉の苦しんでいるサインを見逃していたんだと、今頃になって気づく。

 の、横。

 姉が高校になったらすると言っていたメイク、その勉強のために購読していた雑誌。

 その雑誌の天の部分から栞の紐が飛び出しているのを、僕の目がしっかりと捉えていた。

 ――無くしちゃって。

 綾さんの言葉が頭の中に浮かんできて、気がつけばその雑誌に手を伸ばしていた。

 開くと、確かにそこには紅葉の栞が挟まってあった。

 ホテルのロゴ入りの、紅葉の栞。

 しおりをそのままポケットに入れる。そしてその雑誌を元あった場所に戻そうと――

 視界の端に何かが見え、ことん、と床に落ちる音が聞こえた。

 ――紙?

 白い便箋が足元に落ちていた。手紙、だろうか。

 お姉ちゃんの字……だろうか。今まで注意して見てもいなかったのに、その字体だけで全身が懐かしい空気に包まれる。

『 綾へ 』

 その書き始めで理解する。姉で間違いない。

 そんなふうに始まった姉の手紙は数枚に渡っていた。

 姉がいつ、どういう気持ちで書いたものなのかはわからない。

 一緒にケーキのイベントに行ったこと。

 紅葉を見に行ったこと。

 ケーキを食べたこと。

 勉強をしたこと。

 図書館で話したこと、怒られたこと。
 いじめのこと、救いたかったけど救えなかったこと。

 勉強のストレスのこと。

 したかったバイトと部活のこと。

 綾さんと高校で会うことが目的だということ。

 しばらく周りの世界が泊まったかのようにその手紙を読み続けていた。

 ほぼ全て、知っていることだった。綾さんが、思い出しながら語っていたことが全て、姉の手紙と同じことだった。

 楽しかったことだけが綴られているその便箋を見て僕は。

 もう一度雑誌を開く。

 雑誌の中、いろんなところが丸で囲われていた。

 その全てに、誰かに読ませることを目的としたコメントが記載されていた。手紙と同じ字体で書かれたそれ。

 僕は急いで本棚にしまってある雑誌を見返す。

 そのファッション雑誌は毎月刊行されているもので。

 見ると、姉が死ぬ前の月の号まで全部。

 全てにその書き込みはされていた。

 二人で幸せな時間を共有していたことが、伝わる。ずっと、姉は――

 姉の言葉を読んで。

 誰よりも辛いはずのお姉ちゃんのその覚悟を知って。

 どうすれば良いか分からなくなったその自分の心を、姉がそっと支えてくれている感覚になった。

 大きなため息が口から漏れる。

 安心しきっている自分に気がついた。

 今日までずっと彼女と過ごしてきて。彼女が僕のためにこの一ヶ月間考えてくれて。僕が悩んでいるから話を聞こうとしてくれて。僕のことをわかろうとしてくれて。

 そういうことが積み重なって今僕はここにいる。

 姉が死んでから長い間人と深く関わることを避けてきた僕が、彼女を信用できると思った。

 僕が、誰かに会って尊敬するなんて、積極的に人と関わるなんて。

 それも全て、彼女のおかげだ。

 気づく。

 一番大事なことを、まだ僕はわかっていなかった。

 何でこんなにも気づかないのだろう。

 こんなにも単純なことなのに。

 また自分の気持ちを押し込めて、気づかないふりをしていた。

 僕は駆け出す。



「どこ行くの!」

 姉の部屋を飛び出して家を出て行こうとすると、母親の焦った声が聞こえてきた。もうすぐ午後七時だ。一瞬止まりかけ、再び無視することを決める。

「芳樹! 待ちなさい!」

 そう叫びながら僕の腕を掴んだ母親は血相を変えていた。僕の必死そうな様子に、姉を重ねているということが容易に想像できた。

「お願い、待って」
「ごめん」

 そう言って母の手を振り払う。

 ごめん、あとで怒られるから、ちゃんと後で話すから。

 大丈夫。確認した。この僕の行動で母が自殺をするなんてことはない。

 今は、ちょっと。

「僕は大丈夫だから!」

 外に止めている自転車にまたがり、つい一年前まで毎日のように通っていた道の記憶を追いかける。

 人も車も全く通っていない。飛ばせる。

 急げば数分で着くはずだ。冷静に中学校までの道を考えている頭の端で、不安が脳を侵食するみたいにねっとり貼りついていた。

 ――もう死んでるなんてことないだろうな。

 嫌な想像から逃れるように、僕は必死に足を動かす。
 心拍数が上がっている。さっきからずっと耳鳴りが響いている。

 徐々に膨れ上がる胸騒ぎが、僕を焦らせる。

 ちゃんとペダルを踏んでいるはずなのに、足の骨が抜けてしまったみたいになって、何度もペダルを踏み外す。

 ――早く。もっと早く。早く動け。

 ついさっき通ってきた道を逆走する。

 必死に足を動かし、住宅街を抜ける。周りに意識を集中していたけれど、道を走っている間も彼女らしき人物を見つけることはできなかった。が、信号が僕に味方してくれているのか、ほとんどノンストップで墓地へとたどり着くことができた。

 姉の墓の前に行くと、甘栗の袋は置いたままになっていた。綾さんはあの後も戻ってきていないのか。

 どこだ、どこに行ったんだ。

 彼女がまだ近くにいる可能性を考えて周りを見回す。

 空が深い藍色に染まっていた。あの日、窓から見た景色を思い出してしまう。

 体がざわつき始める。ずぶずぶと、胸の中に重りが突き刺さるようだった。

 手の汗が止まらない。

 じわりじわりと生暖かいセメントで足元を固められていくような感覚。覚えがあった。

 父の死んだ日にも感じた胸騒ぎと同じ類のものだ。

 戻り、自転車に乗り直すも、手が震えてハンドルをうまく握れない。

 僕がもっと早く動いていれば。受け身じゃなく、僕からもっと彼女に話そうとしていれば。そしたら一日でも二日でも猶予があったかもしれないのに。

 彼女がいなくなってすぐに探していたら。

 急いで見つけなければ彼女は死んでしまう。こうしている間にも。

 いや。僕は首を振る。

 後悔はあとだ。

 後悔したってなんにもならない。

 どこにいる。彼女が行きそうな場所はどこだ。

 けど普通、時間的に無理だろう。

 わからない。

 けど。僕はペダルを必死になって回した。

 どくどくと血流が暴れている。

 ほとんどスピードを落とさないまま自転車を飛ばしてきたから減速が間に合わず自転車が勢い良く転がる。かろうじて飛び降りたおかげで怪我はない。

 自転車が地面と擦れる大きな音のせいで近所の家の人が出てくるかもしれない。

 目の前にある中学校を見上げる。

 それが予想以上に小さいことに驚く。なんと言うか、全体的に背が低い。こんなに小さいものだなんて思わなかった。一年弱来ていないだけで、こんなにも印象が変わるものなのだろうか。

 校門も、校舎も、設備の整った今の高校と比べるとかわいらしく見える。



 果たして彼女は、その場所にいた。

「綾さん」

 声を掛けると綾さんはゆったりとした動きで僕の方を振り返る。

「見つかっちゃった」

 彼女は感情の抜けた声でそう言う。

「何してるんですか」
「何って」

 彼女は屋上の端に立っている。

「やめてください」

 もう、迷わない。

 彼女が姉を傷つけてないんだと確かめて安心した僕は。

 心の中では、彼女を嫌いになってしまうことが嫌だと思っていたのだ。彼女を恨まなければならなくなることを、心配していたんだ。安心したというのはつまりそういうことだ。

 簡単なことだったのに、全然わかってなかった。また勝手に想像してわかった気になっていた。

「死なないでください」

 何も言わない彼女に僕は自分の心を曝け出す。

「なんで僕だけがこんな声を聞いて、辛い環境にいるんだって。ずっと思っていたけど、その気持ちを隠そうとしてました。実際自分でも深く考えないように、誰にも話さなかった。けど、よかったって思うこと少しはあるんですよ」

 自分の耳に手を持っていく。

「こんな力なかったら、綾さんと親しくなることもなかったです。ずっと誰にも言わなかったようなことを、綾さんにだけ言ったんです。言わせてもらえたの、綾さんが初めてなんです」

 おかげで僕は自分が背負っているものをちゃんと見ることが出来た。

 そんなことを話す僕に、彼女は少し不思議な表情をして、それから息を漏らすように笑う。

 その表情の意味は、多分いつまで経ってもわからない。

 でも、彼女の口を開くことが出来た。

「うん、私もよかったよ」

 彼女も自分の耳朶を細い指で触る。

「だから、今までありがとう」
「今までじゃないです。死なないでください」
「何で? 私は芳樹くんのお姉ちゃんの敵だよ」

 彼女は本気で困惑しているようだった。

「そんなこと――」
「どうでもよくない!」

 僕の言葉は彼女の大声で遮られる。

 はっと驚いて顔を上げると、綾さんは肩で息をしていた。
「どうでもよくなんかないよ」

 彼女はもう一度繰り返す。ああ、そうか。

「知ってる。知ってます」

 彼女も姉のことをずっと背負って生きている。

 宥めるように言った後、僕は自分の心を確かめるように話す。

「……確かに、どうでもいいわけがない」

 それを聞いた彼女の瞳が微かに揺れるのがわかった。

「どうでもよくないんですよね、綾さんにとっては」

 僕も姉の死はずっと抱えている。これからもだ。ただ、彼女の考える彼女の罪はそこにはない。

 彼女は僕の言葉の意味を探っているのか、顔を歪めたまま何も言わない。

「それでいいんじゃないですか? 僕も同じ状況だったらそう思うなんて、言いません。ただ、今綾さんがどうでもよくなんかないと思っているんだったらそうなんでしょう」

 一呼吸おく。

「でも、みんながみんなそう思ってるとは思わないでくださいね」

 言い放ったその言葉は予想以上に冷たかったかもしれない。こういう風な言い方が正しいのかはわからない。ただ、その声に彼女が怯むのがわかった。僕は続けて言う。

「綾さんは自分が姉を傷つけたって考えているんですよね。けど、そう考えてない人もいるんです。というか、それぞれみんな考えることがあるんです」

 だから、今から言うことは、全て僕の勝手な意見だ。その代わり、偽りだけはないと断言できる。もしかしたらこの考え方は一般的には狂っているのかもしれないし、他の人に言ったら非難される内容なのかもしれない。けど、それでも言わずにはいられなかった。

 彼女になら信じて話せる。

「けど、綾さんが死ぬことが姉に対する贖罪になるとは思わないんです」

 僕はずっと自分が彼女のことを気にして彼女のことを知るために動いていると勘違いしていた。彼女の行動に乗っかっただけなのにそんな勘違いをしていた。彼女はそんな僕と違い、ずっと僕のことを知るために動いていた。僕がしたかったことをそのまま彼女がしていたのだ。

 だから彼女も勘違いを、してるかもしれない。

「僕はそう思ってますし、綾さんのせいで姉が死んだなんて、思わないというか思いたくない」

 だから動揺して確かめて安心したのだ。ポケットの中の便箋に触れる。

「僕は綾さんに死んで欲しくない」

 彼女の目が一層大きくなる。しかしすぐに我に返ったみたいに首を振る彼女。

「だとしても! 葉月はそんなこと思ってないよ! 嫌ってる!」

 彼女はため込んだ気持ちを爆発させる。

「最低だって、逃げやがってって! だから私は死ぬべきなの」

 その彼女の表情は抱えているものを見ないようにしてきた自分を見ているかのようだった。

 彼女も自分の気持ちを無理やりごまかそうとしてる。

 彼女に嫌われるつもりで言う。

「本当に、逃げじゃないんですよね」

 核心をつく。

「姉を殺した自分が死んだら、それで終わりだと思ってるんじゃないですよね」

 彼女が息をのむ。

「逃げじゃない! ちゃんと償うために、私はこれから死ぬの」

 依然として荒れている言葉とは裏腹に、彼女の意思が少しだけ緩んだ気がした。

 違う。彼女は、待っていたんじゃないだろうか。この場所からだと、校門のあたりがよく見える。僕の自転車が大きな音を立てて転がった音は確実に聞こえていたはずだ。その時点で飛び降りることもできたはずなのに飛んでいないと言うことは、僕が来るのを待っていた。

 そういうことなんじゃないのか。彼女も、その行動が合っているのかどうか、引っかかるところがあるんじゃないのだろうか。

 全く迷いがないなんて、そんなことはないはずだ。

 彼女の中にほんのちょっとでも迷う気持ちがあるのなら、それを彼女が見て見ないふりしようとしているのならば、まだ。

 首を振る。

「綾さんに死んで欲しくない」

 姉の気持ちを汲み取ろうなんて、そんな殊勝な思考じゃない。二人の自殺を目の当たりにして、その上でも僕は、別に自殺という選択が悪い手段だとは思えない。

 ただ、自分の心の中の感情に、正直に。

 許すのが正解、だとか許せない感情が当たり前、けどそれを抑えないことには仕方ない、そんなふうに意味づけされた行動じゃなくて。

 ただ僕は、もう。

 僕が――これまでにいろんなことを知った僕が、彼女のことを信じた僕が、彼女が死ぬと言う事実をたまらなく許せないだけ。

 綾さんを傷つけないことが、彼女に生きることを選択してもらうことと同意じゃないのではないかと疑っている自分がいて。

 そして、綾さんの親友が自分の姉だと気づいた時に、彼女のことを信じきれなかった自分がいて。

 けど、彼女が姉を傷つけたんじゃないって知って、ほっとした自分が本当で。だから。

「綾さんに死んで欲しくない」

 口から出た自分の声がすっと、身体中になじむような感覚があった。

 いつの間にか耳鳴りが治まっていることに気づく。

 正直、姉の本当の気持ちはわからない。僕がわかるのは、姉が死ぬ直前までずっと綾さんのことを考えていたということだけだ。

 姉が実際どういった経緯でいじめられて自殺したのかもよくわかっていない。綾さんのいじめと姉のいじめが全く関係していないのかどうかは定かじゃない。

 けど。

 自分の中途半端なところ、母の様子、姉と父の死、綾さんの気持ち。中学のクラスメイトや担任。

 全て納得できなくても、でも、考えた上で、納得できなくて当たり前だとちゃんと知れて。

 ずっと何か重いものを背負わないようにしなければと思っていた。けどどれだけ意識を逸らそうとしても、背負わないことなんてできない。だからたぶん、そこにあることをわかった上で、重さを忘れられただけなんだと思う。全てを諦めて、全てを認められた。

「綾さんのおかげで僕は生きますよ」

 手に触れる。

 綾さんが目を見張る。声が聞こえないのだろう。

「そっか、よかった……芳樹くん死なないんだ」
「死なないでください」

 僕は耳に届いた声に対して言う。

「いいや、私は死ぬの」

 依然として首を振り続ける彼女に姉の言葉を渡す。

 彼女は不可解そうにそれを受け取ったが、中に書かれている文字の筆跡でピンときたのだろう。やっぱり敵わない。

 彼女が視線を落としている間に、僕は歩いていく。読み切ったのを確認して、もう一歩、空に近づく。意味がなくてもいい、後少し、もう一息で彼女が僕のことを見てくれる気がした。それで僕の気持ちが彼女に見せられればいい。

 穏やかな表情を作って、彼女に言う。

「今まで、ありがとうございます」
「何してるのよ!」
「落ちるんです」

 端に立っている僕を見て声を荒げる彼女に、極めて冷静に言う。

「何考えてんの! 死なないって言ったでしょ!」

 ほら、そう言う。綾さんは絶対に止めようとする。ただのバイト仲間である僕のためにいつも考えて動いてくれて。

「だめ、戻って」

 もう、彼女の凄さは身に染みてわかっている。

 ねえ、綾さん、もっと考えてください。もうちょっとでいいから考えてください。

 それで良いんだと思う。人が死んでいるのを見て、止めようと思う。僕はそんなふうには思えないんだけど、そういうことだから。

「同じです。僕は綾さんが生きていないことを考えられない」

 これはお願いでしかない。僕は彼女の意思を蔑ろには出来ないから、頼むことしかできない。だから僕は彼女の元へと戻り、深々と頭を下げる。

「だから死なないで。お願いします」
「敬語抜けたね」

 彼女の瞳から涙が溢れる。

「生きてください」
「話聞いてくれないね。今日」
「いや、聞きますよ。けど、今日じゃないです。これからもです」

 彼女が心の拠り所がなくなってそんな勘違いをしているのなら。僕が拠り所になればいい。

「これからも、綾さんが背負っているものを曝け出してもらいます」

 どうして? と悲しそうに首をわずかに傾けた彼女はしばらくして呟いた。

「……しんどいよ」
「大丈夫です」
「重いよ」
「僕はちょっとのことじゃ動じないですから」

 もう、同じ土台に立っている。

「だから、死なないでください」

 綾さんが泣きながら笑う。今までで一番人のことを考えていない美しい笑顔だった。それでいい。

 僕は微笑む。

「一緒に、生きましょう」

 彼女に向かって彼女が無くしていた栞を持った手を伸ばす。

 彼女がその栞を見て、息を吸って吐き、手を伸ばしてくる。

 渡すとき、彼女の手に触れる。

「芳樹くん、本当に今までありがとう」

 少しだけ寂しそうに言ったその言葉の意味は、まだ僕にはわからなかった。
 エピローグ

 随分と心地が良い朝を迎える。

 最近、すっかり耳鳴りを感じなくなっていた。最近まで慣れてしまうくらいに耳鳴りに悩まされていたからこそ、それがない生活というのは心地良いことなのだと痛感する。

 いや、それだけじゃないのかもしれない。今日はいい匂いに反応し、自然に目が覚めた。

 自室を出て廊下を進んでいくと、甘いバターの香りが鼻を刺激する。すっきりとした耳には、フライパンが熱される軽快な音が飛び込んできた。

 お母さんがこんな朝早くから料理をしているのは久しぶりだった。

「おはよう」

 少しだけ開いたリビングの扉を開ける。

「おはよう」

 少しだけ恥ずかしそうにそう言う母の挨拶。

「朝ごはん……」

 そこでどう言おうか迷う前に口から言葉が出る。

「いい匂いする。フレンチトースト?」
「……ええ」

 机の上に、皿が四枚並べられてある。その隣に本が置いてあった。僕が買った本。

「芳樹の本、借りてる」
「うん、いいよ」

 すっきり目覚めたおかげで朝ごはんを食べ終えてもまだ時間が余っていた。

 冬季講習期間に入っていたのでいつもと持っていく教材が違う。ただでさえ期末のテストが悪かったから、忘れ物までして本格的に先生に目をつけられてはかなわない。

 変則的な時間割を確認しながら荷物を整理していたら、見覚えのない箱が目に入ってきた。

 見ると、チョコレートの箱だ。リボンが付けられている。

 思い出す。ああそうか、明日はホワイトデーだ。多分部活でも今日はいつもより豪華なものを作るのだろう。

 それにしても。僕は手の中にあるその小洒落た箱を眺める。いつ買ったのだろうか。

 すぐに気がつく。僕はバレンタインの日にプレゼントをもらっていた。彼女のお返しのためにこれを購入していたのだ。

 よかった。忘れていたらとんだ失礼だ。どうしてこんなに大事なものを忘れていたのだろう。

 鞄の中で箱がずれないよう慎重に入れて、ファスナーを閉める。上着を着て自室を出た。



 講習の後、家庭科室でホワイトチョコのケーキと、スノーボールかマフィンを各自作る。

 僕はスノーボールを作った。

 部活が終わって、持って帰るお菓子を詰めてから立ち上がると、ちょうど彼女も家庭科室を出るところだった。

 追いかけて行って、声を掛ける。

 彼女はどこか緊張しているようだった。
 ここだと出てくる人みんなに見られてしまう。僕は彼女を促し、二人並んで校舎を出た。

 いつもならもっと話しかけてきてくれる彼女との間に沈黙が続くせいで、僕もなんだか気まずくなってしまう。その気持ちを振り払うように声をかけた。

「柏井」
「はいっ」

 彼女は少し肩をびくつかせて立ち止まる。

 僕は、鞄の中に手を入れ、中にある箱を探す。その箱に触れた時、僕の手は少し止まってしまう。

「……これ、バレンタインのお返し」

 今、何を迷ったのだろう。

 少し疑問に思いながらも、今朝鞄に入れたそれを取り出し、彼女に渡す。彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。

「それじゃあ、また明日」

 彼女が笑顔のまま、早足で帰っていく。

 駐輪場で彼女に追いついてしまわないように、僕は足を緩めた。



 次の日、僕はバイト先の先輩とご飯に行く約束をしていた。少し前、彼女が祖母の四十九日のために休んだ時、バイトのシフトを交代した。そのお礼で彼女が夕食に誘ってくれたのだ。

 僕が先に支度を終えて裏口を出たところで待っていると、綾さんが遅れて現れる。

「お待たせーお疲れー」

 互いに労い合った後、僕たちはレストランに入った。落ち着いた音楽はなんとなく、聴き覚えがあるみたいだった。

「好きなの食べて、今日は私の奢りだから!」
「悪いですよ」
「いいのいいの、お礼なんだから」

 メニューを僕の方に寄せてくれる彼女を見て思う。

 嬉しいけど、バイトを交代したくらいで大袈裟だ。

「デザートも頼んでいいよー、ほら、ケーキもあるよ! 好きなの頼んで」

 彼女はあくまでも全て奢ってくれる気だ。

 閃く。

 そういえば、綾さんは確か昨日マフィンを作っていたはずだ。

 昨日家で食べなくてよかった。

 そんなことを考えていると、僕の顔を覗き込んで楽しそうに笑う彼女が言う。

「私たち、こうやって一緒にご飯食べるのは――あれ」

 首をひねる。

「私……芳樹くん誘ったの、初めてだっけ」

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