ポケットに入っているスマホから伝わる振動で我に返る。
慌ててポケットに手を突っ込んでスマホを取り出すと、スマホは僕の手から滑り落ち、音が止まる。
ずっと身体の濃度が薄まったみたいな感覚に包まれていた。全身が麻痺してるみたいだ。
自分の置かれている状況を確認しようと周りを見渡すと、そこは見慣れた空間だった。自分の部屋だ。あの後どうやって家に帰ってきたのかはわからない。ただ、どうにか家に帰ってきたことは確かだった。
僕は両手を見る。心なしか震えている。
静かな部屋の中、ずっと耳鳴りがしていた。
音に意識が入っていたから余計にだろう。またけたたましい音が耳に飛び込んできて、僕の皮膚は大きく波打つ。
今度はなんだ。
確認すると、スヌーズ機能で再度アラームが鳴っただけだ。さっきちゃんと解除しなかったから。
ため息をつく。
毎日家に帰らねばならない時間を登録している。もちろん、自分がその時にいる場所は関係なく音が鳴る。
馬鹿みたいに声を上げ続けているスマホを見ていると、無性に腹が立ってきて、停止を押した後すぐにベッドに投げつけた。ばすん、と虚しい音が鳴る。
よくわからなかった。
いつもだったら何も考えず淡々とこなしている作業に苛立つなんて初めてだった。まして、寝起きでもないのに。
自分で言うのもなんだけど、僕は人より怒りにくい、と言うか、多分感情の起伏が小さい。どうしようもないこともすぐに割り切る。だから母より落ち着いて生活できている。
どうしたんだ。
胸の内を冷静に判断なんてできないけれど、全身に張り巡らされた血管の脈動が自身の動揺をはっきりと伝えてくる。
落ち着けるわけがない。
――私も今聞こえてるの
手を握られた感覚はもうすでに消え去ったけれど、その時の彼女の声が僕を追いかけて耳の奥で再生される。
彼女が言っていたことは、本当のことなのだろうか。
僕と同じように、触れた相手が死のうと思っていることに気づけるなんてありえないはずだ。普通はそんな異質な力を持っているはずがない。
何度か、彼女にはそんな力がないんだから、と思ったことがある。ずっと、こんな力は自分だけが持っているものだと思っていた。
なんだよ、くそ。
声にならない唸り声を上げ、頭をかき回す。
本当に、彼女も。
何に、僕はこんなにも苛ついているのだろうか。
今まで考えてきたことが間違いであったと知らされるのが怖いのだろうか。それとも。
けど、状況を受け入れられない自分の中で、彼女の行動に、僕と同じようなことがあることを思い出していた。
彼女も購買の人混みには近づかなかった。
それも、僕と同じ理由だったのではないか。
電車のラッシュが嫌で時間をずらしていると言っていた。それも。
今から考えたら、僕と同じ理由で同じ行動をしていたのかもしれない。
単純なことだ。自分に備わっている奇妙な力が、他の人にも備わっていたとしてもなにもおかしくなんてない。
どうして僕だけだなんて思ってたんだ。
リビングに出ていくと、母はいつも通り姉の部屋にいるらしく、暗いリビングには光が漏れ出していた。
また。
重い足取りで冷蔵庫の前まで歩いてき、開ける。
中には、食材しか入ってなかった。
深いため息が口から漏れる。
仕方ない。
とりあえず母を呼ぼうと思い、奥に向かって声をかける――
寸前、母のすすり泣く声が姉の部屋から聞こえてきて、僕は出しそうになった声を引っ込める。
少し迷って、そのままリビングを後にした。
どうせ何も食べられる気がしない。耳鳴りのせいで何か口に入れたら戻しそうだ。いや、そんなことどうでもいい。じゃあなんで僕はリビングに来たんだ。
大きくため息をつく。
くそ、くそ。
鼓動の治まらない状況の中で、気づく。
そうか、自分がわからないからだ。理解できない自分の感情に恐れて、苛立っている。
あのときみたいだ。父が死んだと聞いて、体と感情が切り離されたみたいになってわからかなくなって。あれに似てる。
彼女が言ったことを半分しか覚えてないとか、そういうわけじゃない。ちゃんと聞こえていたからこそ、その内容を意識的に避けようとしているのだ。自分と対面することが怖くて。
――芳樹くんこそ死のうとしてる
彼女からはっきりと聞こえた言葉。
電気が消えた部屋に入ると、足を何かに引っ掛けて転びそうになる。慌ててバランスをとり、スイッチを押すと、それは床に置かれてある鞄だった。さっき持って帰ってなにも考えずに放置していたからだ。腹の奥が沸騰しないよう、目を瞑って、何度も深く息を整える。
飛び出た持ち物の中、以前購入した本が鞄から覗いているのに気づく。その本に挟まったままの栞はもう、仕事を終えている。
ああ。
僕は、彼女が死ぬくらいまで追い込まれていることを彼女自身が気づいていないんじゃないかと思い、あの本を買った。
自分がそんな理由で購入したにもかかわらず、逆の視点で物事を見ることができていなかった。
彼女が同じ本を持っていたのも、同じなのか。勝手に、彼女自身が悩みを抱えているからだと思っていた。
止まない耳鳴りの中で考える。
でももし、彼女が僕と全く同じことを考えて買ったたのだとしたら。彼女も、僕が追い込まれていることを自分で認識していないかもしれないと思ってあの本にたどり着いたんだとしたら――辻褄があう。
思えば、彼女は自分からその本についての話題を出してきた。もし彼女が本当に悩んでいて、そのことを僕に知られたくないのなら、その行動はおかしい。
彼女の本を購入するときの疑い。
僕が……自殺。
彼女も同じ力を持っていたということ自体はもう疑っていない。
それに、本当に彼女に聞こえていたのだとしたら、その内容が嘘なんてことはない。事実として、僕自身が既に経験していることなのだ。
ただ、そうだとしても、信じられない自分が一方でいた。
ずっと、姉や父のことは仕方がないこととして受け入れられていたはずだ。だからこそ親戚からもしっかりしていると思われる。
周りから見ても、母よりもっと、ちゃんとしているはずなのだ。だから、今更自分が死ぬなんてことは、ありえない。
まだ立ち直っていないなんてことあるはずがないのだ。そういうものだ。だから絶対。
自分に言い聞かせるように口に出した言葉は、考えを一瞬にして砕き去った。
「だから絶対、僕が自殺することなんか――」
頭で考えていたはずの言葉は、後には続かない。
口に出すと、その内容はやけにすんなりと頭に入ってきた。
ずっと悩み続けていた問題に、解答のきっかけとなる何かを与えられた感覚。
それは一気に広がって、全てを理解する。ずっと心の中で渦巻いていた感情を混ぜて平均したら、矢印がその言葉に向かうんだと、気がつく。
ずっと自分の中にあったのだ。
自殺。
他の誰よりも馴染みがあって、でも誰よりも避けていた言葉。
今までずっと、無意識に他の言い方に置き換えていた。その言葉を、遠ざけようとしていた。
自分の心の奥に、綺麗におさまる感覚があった。
『自殺を考えるくらいにまで悩んでいる人のことを、自分が考えたところで何もわからない』
ずっとそう考えていた。
僕は、憧れていたんだと思う。
姉や父が死んでからもずっと、同じ土俵に立って話ができる人になりたかった。
悩んでいないからわからなくて仕方がない、と諦めることで、逃げていたのだ。
本当は、悩んでいないなんてことないのに。
振り返る。
どうして、自分で設定したアラームに苛ついた? コンビニで遅くまで談笑している学生を見て、足を止めていたのは?
アラームが知らせる内容が、僕にとって納得できないものだから。そして、無意識に、そんなアラームに振り回されない彼らの行動を羨ましいと思っていたからじゃないのか。
母からの謝罪を、見ていられないと思い、母の負担にならないように、いつも気をつけて行動しようとしていた。それで、母の行動に不満を感じた時はため息をついて心を落ち着けようとして。
度々心を落ち着けようとするということは。
その度に負担を感じていたということだ。
感情が暴れ出しそうになるのを抑えるため、僕はベッドに潜り、布団を頭からかぶせる。そうすると、この世界に一人になったみたいで、少しは、楽になると思ったからだ。
深呼吸を、重ねる。
自分の息遣いとやまない耳鳴りが聞こえて、気分が悪くなる。
突如、焦りのこもった勢いで扉が叩かれる。
「帰ってるの⁉︎ 芳樹!」
部屋に母が入ってくるのがわかった。
「帰ってきてたなら言ってよ……何、眠いの?」
「うん、ごめん」
「ご飯、今からになるけど……」
「いいや、ちょっと疲れたから寝る」
布団から顔を出し、なるべく平坦な早口でそう伝えた。
「大丈夫? 体調悪いの?」
なのに、揺れ動く感情が声に乗ってしまったのか、母が心配そうに訊いてくる。
「ううん、平気」
そういうと、母はしばしその場にいたが、ゆっくりと扉をしめ、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
次の朝、母の顔を見たくなくて、いつもより早く家を出た。
毎日やっていたことが、全て色褪せてしまったように僕の目には映っている。それを理解したと同時に、これまでと何も見え方が変わっていないことにも気付いていた。ずいぶん前からそうだったはずなのに、今頃気がついた。
自転車で学校に向かっている間も、教室で過ごしている間も、考えることは一つだった。
姉のこと、父のこと。
姉がいじめを受けて急に目の前からいなくなって、父もいなくなって。
仕方ない、訳ない。
本当に仕方ないと、心からそう割り切れているのであれば、あの時受けていたクラスメイトや担任からの厚意を、無下に断ったりすることなんかないはずだ。
自分の中で姉の死を完全に受け入れていたのだとしたら、姉の部屋に入るのを無意識に避けるなんてことはしない、母を呼ぶ時にわざわざリビングから大きい声を出す必要なんかない。
そんなに、物分かりが良いはずがないのだ。
簡単に、姉をいじめていた人を許せるわけがないのだ。
仕方ないと心から思えているのなら、暗示のように何度も何度も仕方ないから、と考えようとなんかしない。
自分が死のうと思っていることを自覚してから一日も経っていないのに、落ち着いている理由は正直わからない。ずっと知らないところで、覚悟ができていたということなのだろうか。
何も解決なんてしていないけど、納得すれば、問題はすり替わる。これから自分はどうすればいいか。
「なあ、新川」
テスト後、出山に話しかけられるまで、ずっと思考が空回りしていた。
「アイス、食べに行こうぜ」
テスト範囲の詰め込みすぎで空気の抜けた出山の表情を見ると、いくらか気分がましになる気がする。
どうせこの後どうするかなんて考えていなかったから、流されるまま頷く。
昼食の時間まではまだ結構時間があるけれど、食堂の席は半分ほど埋まっていた。早めの昼食をとっている生徒もいれば、ただだべっている人もいる。
みんなに共通していることは、明日もテストがあるということだ。学年末テストへのそれぞれの不満が大きな塊となってそこに存在しているみたいだった。
隣の出山もその塊の中にすんなりと溶け込む。
自分だけがこの空間から浮いてるような気がした。
「お、これこれ」
アイスクリームの自販機を眺めていた出山が、硬貨を入れてボタンを押す。
出山が買っている間もずっと考えていたのに、決められなかった。
「珍しいな」
特に欲しいものも決められないのなら適当に押せばいいのに、なぜか手が出ない。柑橘系のアイスもあるのに、なぜかそれを選択することができなかった。理由は、わからないし知りたくもない。
「じゃあ、これでいいんじゃね」
彼は横から、まだ硬貨もいれていない自販機に自身の財布から出した百円玉を二枚入れ、クッキークリームのアイスのボタンを押す。そして受け取り口から取り出したそれを、目の前に差し出してきた。
「ほい、あげるわ」
「……」
「何、これ嫌だった? 交換するか?」
先ほど購入していたサイダーのアイスを出してくる。
「いや、こっちがいい。ありがとう」
その後、席を確保し、二人でアイスを貪った。
「疲れたー」
彼は爽やかなそのアイスで疲弊した集中力を回復させて、テストに対する不満を溶かしていた。僕は、何か回復したのかわからない。
「テストやばいんだけど」
出山は、完全に回復したのか、いつもの調子で呻く。
「新川はどうよ。また余裕?」
「……ん、どうだろ」
「相変わらずだなあ」
彼は大きく息を吸い、アイスで冷えたであろう空気を一気に吐いた。
「なぁ、俺の勝手な意見、聞いてくれるか?」
出山の少しだけ改まったその言い方に、ただゆっくりと頷く。
「新川はさ、基本的に心の中にあることを他の人に言わないところあるだろ? それがまあ、なんていうかな。俺だったら何かあったらすぐ誰かに言って楽になろうとするけど――ほら、ちょうど今みたいに。けど新川の場合、自分で自分のことはこなして、悩みとかも自分自身で受け入れて解決してるのかなって思ってて、だから会った時からすごいなこいつー、とか思ってたんだけどさ」
少しだけ間を置いたのは、恥ずかしさを紛らせるためだろうか。
「たまーにしんどそうな表情してると、心配になる。爆発すんじゃねえかって。まあ、新川が言ってこないならわざわざ聞かないけど。一応何かあるんだったらいつでも聞くからな?」
「ありがとう」
「おう、テスト期間中、勉強以外だったらなんでも大歓迎」
自分が自殺しようとしていることはわかった。正直、そこに関しては、別によかった。ずっと思ってた気持ちを理解できた。
改めて考えると、思う。姉に対するいじめも、父の死に何もできなかった自分も、二人の死自体も、勝手に立ち直ることが正解だと考える人への鬱憤も、何も割り切れてない。でも、割り切れていないことを理解した。それで十分だ。週末、僕がどうなるのかは、考えても無駄だと思った。別に生きることに執着もしていない。
だから、晩ご飯を食べた後、僕は自室でテスト勉強なんかせずに彼女のことを考えていた。
とりあえず、彼女にはもう一度ちゃんと謝らなければならない。自分自身が人との関わりを避けるようになった原因、それと同じことを彼女にしたのだから。
彼女はずっと、周りを見て生きていた。
気を使いながら周りの人と関わってきた。
あれ。ふと何かがひっかかるのを感じた。
ずっと、死のうとしてる彼女が自ら他の人と関わろうとする理由がわからなかった。だから、僕は彼女に対して疑問を持ったのだ。
その疑問は今でも変わらない。死ぬことを理解しているのであれば、関わりを増やす必要は全くない。
消極的な人付き合いに慣れた頭で考えてみる。
人はどういう時に仲良くする?
必要なコミュニケーションを取るために、と言っていた。
必要な時。
彼女の言ったことがその言葉通りの意味なら。
死ぬつもりなのに、必要なコミュニケーションって、なんだ。わざわざ行っていなかった部活にまで参加して人と話す理由って、なんだ。
僕と同じ?
冷たい汗がつつっ、と背中に流れる。
なにか、とんでもない思い違いをしてる予感がおもむろに湧き上がってくる気がした。
ある仮説が浮かぶ。
同じ日に死ぬ、と言っていた。
それなら彼女は――
父の時も彼女の時もちょうど一ヶ月前に聞こえたのだから、彼女が聞こえたのも、初めて僕をご飯に誘ってくれた日なのだろう。
彼女の今までの行動を思い出す。
僕をご飯に誘ってくれた彼女。
帰る前、彼女は財布を持った手を握った。そこで僕は二回目の声を聞いた。彼女も二回目の声を聞いていた。
それ以来、彼女が僕に触れることはなかった。
バスの中では、彼女が席を一つ離すように促した。あれも、遊ぶため以外の理由があるのかもしれない。
それに。
彼女に疑問を持ち始めた頃、ちょうど彼女から誘われたケーキのイベントに行った。何も考えず、せっかく誘ってくれたんだから、と考えていた。チャンスだ、なんて。
その後も、彼女は僕を誘おうとしてくれていた。
思えば毎回彼女が誘ってきた。
いつも、彼女は僕のことを心配していた。
あれだけ人のことを考えて行動する彼女が、他の人から僕の情報を集めることに違和感を感じていた。彼女ならば、それによって僕に及ぶ影響を考えられるだろう。それに、やっぱり彼女の性格なら、なにも考えずバイト先を言うなんてことはないと思う。しかも彼女は、僕が嫌がることを理解しているようだった。
連絡先を聞きにわざわざ教室に来た時もだ。
今から考えたら彼女がする行動には思えない。
そんなにタイミングよく、彼女が誘うなんてことが起こりうるのだろうか。
僕は今までしてきた大きな間違いに気づく。
ずっと、彼女が僕のために関わる機会を作ってくれていたのだとしたら。
僕にとってタイミングが良いのなら、彼女にとってもそうで、その状況は彼女によって作り出されていたなら。
全て、コミュニケーション能力の高さで片付けていた。何も、彼女のことを見ていなかった。
彼女は、僕と同じなんかじゃない。
振り返る。僕はなにをした?
彼女に触れて声が聞こえ、彼女が死ぬとわかった。自殺するはずの彼女が楽しそうにしていることに疑問を持った。それだけ、それだけだ。
彼女のために何もしてしない。
彼女がずっと僕のために動いていてくれたのにもかかわらず、僕は彼女が掴んだチャンスにおんぶに抱っこだった。
父の時と何も変わっていない。
僕は、またみていただけだ。
自分の感情に気づき、背中に怖気が走る。
どうしようもないと思っていた、それ以前の問題だ。
未だなお、本心で彼女のことを救おうとさえ思っていなかった、のだろうか。
身近に人が二人も死んで、目の前で死のうとしている人がいるにも関わらず、彼女が自殺することを、仕方ないとでも思っていたというのか。
ひとでなしだった。
そうか。自分が死ぬから、彼女が死ぬのはダメだとか言いながら、実際は周りなんて、どうでもよかったのだ。
挙げ句の果てに彼女を傷つけた。身をもって体感したはずの鋭利で優しい言葉を、彼女に投げつけた。
遅いけど。もう、絶対に綾さんを傷つけてはいけない。今更かもしれないけど、せめて今からはもっと彼女のことをしっかり見なければならない。
そのために僕はどうすればいい。
周りから正しいと思われる行動が正しくないかもしれないと気づいている今、僕は何をすればいい。
視線をずらせば彼女に渡そうと買ったチョコレートの箱が机に載っている。僕はそれを見えないところにずらした。
その後、部屋を出てゆったりと歩き、リビングに行く。
食事が終わった後はいつも部屋に篭っている僕がリビングに現れたことに驚いたのだろう、ダイニングテーブルについていた母の声は少し上ずっていた。
「どうしたの?」
「ねえ、お母さん。お姉ちゃんは」
テーブルの上に載っているものが視界に入り、僕はそれ以上言えなくなる。
――お姉ちゃんは、死んで幸せになれたのだろうか。傷ついた心を癒すことができたのだろうか。お父さんは、命を絶つことで逃げたい何かからちゃんと解放されたのだろうか。
母は、最初からずっと割り切っていないのだろう。眼下には昔撮ったアルバムが広げられていた。
普段話さない話題に僕が触れたことで、空気が張り詰めているのがわかる。
「お姉ちゃんがどうかしたの?」
「いや……」
「何よ」
「いや、なんでも」
「最近どうしたの。なんか変よ」
それはそうかもしれない。
母は喉をつまらせたように呻く。
「芳樹まで死んでしまったら……」
「やめて」
僕は話を切る。母が目を見張るのがわかった。
「そういうのはやめて」
ただ、そう言い残して部屋に戻った。
彼女を一番傷つけない方法を、僕は慎重に考えなければならない。
「出山、アイス食べよう」
僕が言うと、「おう」と素っ気なく相槌を打ち、後ろをついて来てくれる。
食堂には、昨日より多くの人がいた。みんなテストへの不満をアイスにぶつけでもしているのだろうか。
どうやら僕の予想は当たっていたらしく、自販機のボタン全てに売切の光がついていた。
「うそー、最悪」
大袈裟に嘆いた後、出山が悪い顔をしてこっちを向く。
「抜け出して駅前に買いに行くか? あ、けどバイトあるから時間無理か」
彼がおどけて走るそぶりを見せる。
「いや、まだ時間ある。行こうか」
聞くことが聞くことだからもう少し、落ち着きたい。
「よっし」
二人して自転車で駅に向かう。
自転車を漕ぎ始めてすぐ、後悔する。
「さっむー」
三月に入ったと言っても、外は肌寒く、自転車に乗ると顔に当たる風が痛い。
けど、全身に当たる冷たい風が僕の心の乱れも取り去ってくれる気がした。自然と口が開く。
「聞いていい?」
「勉強の話じゃなけりゃ何でも」
出山は空気が重くならないように促してくれる。
「……大切な人が死ぬほど悩んで、自殺するって決めたらさ、出山ならどうする?」
「ええ! 新川死ぬの!」
そうなるか。彼の驚きを宥めるように僕は言う。
「ああ、違うよ。そうじゃなくて。昔、近くで死んだ人がいて」
嘘は言ってない。
「ああ、そういうこと」
彼はすぐ、何か納得したように頷き「んー」と考えてくれた。僕は駅に向かって足を回しながら、彼の反応を待つ。
「これ、思ったこと正直に言っていいんだよな?」
しばらく考えた後、彼は口を開く。
「もちろん」
「……じゃ、あくまで俺の意見だけど」
彼は自転車のスピードを緩め、話を始める。
「死ぬほど悩んで自殺するってなったんだから、どうしようもないかなって思うかな。自分の大切な人なら話聞いて一回は止めようとするだろうけど、真剣に悩んだ結果なんだったら、納得してしまうかも」
「どうして?」
「……一回痛い目見たからかな」
僕が黙っていると、彼は訥々と話し出した。
「死ぬとかじゃないけど、部活でも同じようなことあったんだよ。ずっと小学生の時から一緒にやってた友達が高校入学してすぐに大怪我して、一年半は運動できないってなってさ。俺も長い間続けてるからなんとなくわかるんだけど、大袈裟じゃなくて部活が全部なわけ。だから、そいつからしたら生きる楽しみ取られたようなものなんだよ。で、そいつがそんなにブランクできるんだったら続けてても意味ない、って言い出して。俺、その時必死になって引き留めようとしたんだよ。結局、溜まってたストレスが爆発して、そのまま喧嘩してそいつ部活も辞めちゃったんだけど、その時に理解したんだよ。俺が一緒に部活やりたいと思ってる気持ちに嘘はないし、けど、それでも怪我もしてない俺がただ続けようって言うのは、そいつにとっては負担でしかないんだって。続けたいのに一年半棒に振ることになって一番絶望してるのそいつなんだから。で、それ以降ずけずけと人の心に入り込もうと思わなくなった」
そう言って「でもまあ」と付け足す。
「ただ、そんな冷静に言ってるけど、実際命がかかってたら勢いで止めてしまうかもな、どうだろ」
「そっか」
「まあ、正解とかはわかんねぇけど」
出山の言ったことは、真っ直ぐに染み込んでくる。
「出山、ありがとうな」
「なんだよ」
僕はもう一度、大切に大切に、今までで一番心を込めてお礼を言った。
昨日の放課後の出来事は、ただ、綾さんに、次の日つまり土曜日にある場所に付き合ってもらう約束をしただけだった。
綾さんも、もう覚悟を決めた様子で頷いた。
その覚悟が、僕と反対を向いているのは知っている。
朝。
姉の部屋に置いておけば、母は読むだろうか。母が起きてくる前に、姉の部屋に忍び込み、読み終えた本を仏壇に立てておいた。
長い間避けていたその部屋に足を踏み入れるのは、意外と難しくなかった。けど、中にいると感情が揺れ動きそうで、少しも埃が見当たらないその部屋から急いで出る。
そっと扉を開け、家を後にした。
今日、墓に行くということは綾さんに伝えていた。
正直、なにも結論は出ていなかった。
二つ返事で首を縦に振った彼女も、何を考えているのかはわからない。僕だって、何をすれば彼女が救われるのかいまだに理解できていないのだ。
彼女の自殺を無理やり止めるとか、そういう単純なことじゃだめなことだけはわかっている。そんなことしたところで、彼女がまた後日自殺を図る可能性は取り除けないのだ。だからひとまず、一ヶ月僕のことを気遣ってくれた彼女に、姉と父に会って欲しかったのだ。会ってもらってから、話をしようと思っていた。何か変わるかどうかもわからない。けど、そうする他にどうしようもないのだ。
そもそも、彼女のためを思うなら、彼女の自殺を認める方がいいのではないかという考えも僕の中に存在していた。
待ち合わせの駅にいた彼女はいつもより心なし控えめな服装をしていた。それが意味するところは、わからない。
「私も昨日、お墓参りしてきたの」
向かう途中、彼女は平坦な口調でそう告げた。
僕はその彼女の発言に無為な詮索をすることなく「そうだったんですか」と相槌を打つ。なぜか心が落ち着いてる自分がいた。ゆったりと流れていく雲を眺めながら訊く。
「言ってた友達、ですか?」
「うん。家の仏壇とおばあちゃんのお墓にもお供えしたの」
言って、鞄の中から真っ赤な甘栗の紙袋を取り出す。
「で、これ」
「相変わらず好きですね」
「うるさいなあ、もう。お墓に供えておいた分は一日晒してるから食べられないけど、仏壇のは一日経ったら食べなきゃ」
彼女はそんな持論を持ち出しながら栗を一つ口に入れる。
「いる?」
僕が素直に手を出すと、栗を持った彼女の手が僕の上に載せられる。
何度目だ。僕は聞こえる声に耳を傾けることなくお礼を言う。
口に入れ、歯で噛み砕くと、ふわりと甘い味が広がる。
「美味しいです」
「でしょ」
そこから僕たちは他愛もないことを話しながら歩いていた。本当に他愛もないことを。別に意識的にそうしていたわけじゃない。けど多分、二人とも話すタイミングを待っていたのだろう。
他愛もないこととは主に、向かっている場所についてで、話していると、彼女の家族も今向かっている場所に納骨されているということを知った。
他にした会話といえばこのくらいだ。
「これなかったら、綾さんとこうやって話してることもなかったんですよね」
手を見ながら言ったから彼女にも何のことか理解できただろう。
「そうかもね、芳樹くんあまり近づくなオーラ出てるし」
「そうですか?」
これでもうまく隠しているつもりだ。
「わかるんだよ、何となく」
「そうなんですか。あ、そういえば」
同じように声が聞こえるなら。
「綾さんも耳鳴りします?」
「そう、毎朝。嫌になっちゃう」
明日になればどうなっているかわからない二人でするなんでもない会話は、すぐに終わりを迎える。到着したのだ。
中へと進む僕の後ろを彼女がついて歩いてくる。
ゴクリと唾を飲み込む。
母に連れて来られる時以外でここにくることはなかった。姉や父の記憶が呼び起こされる場所に自分からは近づかないようにしていたのだ。それに、墓を見て心が動かされるのが嫌だった。そこには、新川ではない苗字が彫られているから。数年前まで毎日のように書いていたその苗字を見ると、心の奥がかき乱されそうになる。今から思えば、その事実に気づきたくないから、ずっと来なかったのだろう。
けど、もうわかっている。
自分が、割り切ることなんかできないと、僕はもう知っている。
「僕、一回中学の時に苗字変わってるんです。姉が死んで、父が死んで、それで。学校で知らない人にも苗字が知られてしんどかったから」
彼女は黙って僕の話を聞いている。沈黙が、ありがたかった。
近寄りづらく今まで命日くらいしか来ていないのに、僕の足は迷うことなく目的の場所へと進んでいく。
今日なら、その墓を見ても大丈夫な気がした。
母だろう。雑草などは全くなく、石碑が日の光を反射している。毎週のように母はこの場所を訪れているのだろう。
『最上家之墓』
そこに書かれている姉と父の名前。
母の旧姓に戻す前の、数年前までは毎日のように書いていたその苗字。
姉と父の顔が頭の中に浮かび、僕は思わず目を瞑る。
ただ耳の奥では、それほど不快に思えない耳鳴りがしているみたいだった。
その音に耳を傾けながら、僕は頭の中に浮かんだ姉にゆっくりと話しかける。少し、姉が微笑んだ気がした。
お姉ちゃん、僕。
気づく。いや、それより先に。
先に紹介すべき人がいる。
僕は父と姉に綾さんのことを紹介しようと、僕は少し後ろで待っている彼女の方を振り向く。
――と、そこには彼女の姿がなかった。
「綾さん?」
え、さっきまでちゃんといたはず。
辺りを見回す。今通ってきた道にも彼女はいない。不意にねっとりと暗闇に取り囲まれたような不安が生まれ、僕はもう一度彼女の名前を呼ぶ。
その呼び声が空気に溶けても、彼女からの返事は返ってこなかった。
ふと、墓石の方へと目をやると、端に赤いなにかが映る。
右端にある小さめの墓石。姉の墓石の足下、そこに赤い紙袋が立てかけられてあった。
――天津甘栗
それを目にした瞬間、全身の毛穴から汗が噴き出すのがわかった。