梅まつりは家から電車で四十五分、そしてそこからホテルが手配してくれた送迎バスで十五分ほどかかる場所で開催されていた。

 バスの中で横に座る彼女から声が聞こえてくることを覚悟していたけれど、バスには空席が結構あって、一番後ろの五席が貸し切り状態だったおかげで一つ開けて座ることができた。彼女が間の座席にトランプを置いてゲームをしようと言ってきたので、快く頷いた。

 チラシについていたチケットのおかげで送迎バスと入場料の半分が割引される。
 到着後、バスを降りて歩いていくと、大きな看板が僕たちの来場を迎えてくれた。通った途端、目に梅の鮮やかな赤色が映り込んできて思わず足を止めてしまう。

 奥に向かう坂に沿うように、道の両側に梅の木が立ち並んでいる。

 僕と彼女も含め、同じバスで来た人がみんな驚嘆の声を上げる。

 奥へと進むにつれどんどん梅の木が増えていく。

 参加者には特典として梅のジュースがついてくるので、道なりに設置されてあるテントで受け取り、それを飲みながら進んでいく。

 上の方に向かってとぐろを巻くような形で坂が進んでいくから、進むごとに違った景色が視界に入ってくる。

 少し前を歩く彼女が立ち止まり、大きく息を吸う。

「良い匂いですね」
「ね」

 ここに来て分かったことは、梅の花の一番の特徴は香りなんじゃないかということだ。

 ふわっと風が吹くたび、心地いい香りに包み込まれるような感覚になる。何か、安心感のある、それでいて爽やかな空気。

 周りの人も、風に乗って運ばれてくる儚げな香りを味わうようにゆっくりと歩いていた。

 先週のイベントでもらったチケットを使って来場している人が多いのか、参加者の多くは僕たちより上の世代がほとんどだ。だから、自然と僕たちが集団の先頭を歩くことになる。

 綾さんと並んで傾斜のきつい坂を登っていく。

 しばらく歩いて行くと、視界が急に開け、瞬間強い風が頬に当たる。

 一番上の広場に着いたらしい。広場の外周を囲うようにたくさんのベンチが並んでいて、数人が座って休憩していた。

 彼女について風を感じようと広場の端まで歩いて行く。

 息を呑む。雲ひとつない青空と、その手前に見える山、そして自分の足元から一面に梅の花の絨毯が広がっている。

 色の対比に圧倒され、周りを包む優しい景色に、一瞬にして春が訪れたみたいだった。

 風が吹くとその絨毯がふわりと漣のように揺れ動く。

 二人の口からため息が同時に漏れる。

「きもちいいー」

 彼女は、手を広げて斜面から吹き上がってくる風を気持ちよさそうに受ける。何か答えようと思い、僕は――

 言葉を出すことができなかった。

 目を奪われていた。

 色素の薄い彼女の瞳と、微笑みを表す顔の動き。

 風を感じている彼女とその奥に広がる景色。今このシーンを切り取ったら映画のワンシーンにな理想だな、と、そんな柄でもないことを思った。

 出山の言葉が頭の中で聞こえる気がした。

 ふっと彼女の表情の色が戻り、振り向く。

「なに?」
「なんでもないです」咄嗟にそう笑うと、
「ね、あそこ何か売ってるよ」

 と特に気にした様子も見せず彼女が奥にある小屋を指差す。

「行ってみよ」

 彼女の後をついていく。入ると、小さなカフェとお土産屋がくっついたような店になっていた。

 店の中が半分ずつカフェとお土産屋さんに分かれていて、カフェ側に設置されたいくつかのイス全てが先客でうまっている。休日ということもあるのだろうけど、予想以上に賑わっているらしい。

 逆側には様々なものが売っていた。

 梅のジャムから、いろんな種類のお菓子まで。コンビニでも買えそうな文房具なんかも置いてあった。

「ほら見て、可愛い」

 僕の認識としてこういうところでその場所でしか買えないお土産は少ないというイメージがあったが、意外にも豊富なお土産揃えられていた。

 梅の花をデザインにしたキーホルダーとか、アクセサリーとか。

「すごいね、いっぱいある。ちょっと見てくるね――あ、これ渡しとく」

 彼女は僕にホテルでもらったチラシを渡した後、ひとつずつ何かを探しているみたいに眺め始めた。

 並べられた商品を、ざっと見ていく。

 と、一つの商品が目につく。薄い板が梅の花の形に切り取られたしおりだ。

 手に取る。買った本に挟めるしおりをちょうど探していたのだ。

「あ! それ」

 彼女が僕の手に持ったしおりに反応する。

「裏見せて、ホテルのロゴ入ってるやつだよね」

 言われてしおりを裏返すと、確かに小さくホテルの紋様が焼き付けられている。

 その模様が似合っている。

 それを見た瞬間、買うことに決める。

「前一回同じイベント行ったって言ってたでしょ」
「ああ」

 確か、秋に。

「その時は紅葉狩りの割引券ついててさ。で、友達と一緒にそれのもみじバージョン買ったの。ホテル監修の商品って大体ロゴがでっかく載ってたりするからあまり好きじゃないんだけど、このくらいの大きさだったらむしろ可愛いよね」

 彼女は僕の思っていたことを代弁してくれる。

 彼女からの称賛も受け、購入することを決める。

「これ買ってきますね」
「はーい」

 カフェのレジとお土産を買うところが同じだから、レジ前には客の列ができてしまっている。僕は最後尾に回り込む。急に割り込まれてぶつかられると困る僕は、前の人と少しだけ距離を離して立つ。

 数分待った後、やっと僕の番が来る。

 商品をカウンターに置くと、店員のお姉さんが営業スマイルを崩さないまま顔を上げて質問してくる。

「ホテルのチラシお持ちではないですか? もし持っていらしたら、店内の商品全て一割引きになるんですが」

 そんなことまでしてくれるのか。ああ、それで。

 言われた通りに綾さんから預かっていたチラシを彼女に渡すと、五十円引きになった。

 購入を終え、綾さんの姿を探そうと思い振り返ると、彼女は僕を待っていたらしく、すぐ声をかけてきた。

「やっぱり私もこれ買う」

 手には、僕が今購入したのと同じ栞。

「あれ……」
「……前のは引越しの時に無くしちゃって。最近はずっと本屋で無料でもらえる紙の栞使ってたんだけど、ちゃんとしたやつのほうが読書の時の気分上がるし」

 そういうことか。それに、その感覚はなんとなくわかる。あとは、ちゃんとしたブックカバーを被せたり。

「ちょっと待ってて」

 それだけ言い残し彼女は列の最後尾に並ぶ。

 彼女が並んでいる間、別に他に見たいものもないので、僕は人の動きがなるべく少ない入り口付近で待つことにした。

 しばらく見ていると、彼女の番が回ってくる。彼女が持っていた商品を渡して、チラシを手渡し、その後何か店員のお姉さんに話しかけているのが見て取れた。そして、対応していたお姉さんの表情にさっき僕に見せた営業スマイルとは別の自然な笑顔が浮かぶ。

 店員さんが笑いながらレジの上に書かれてあるメニュー表を指差す。何か買うのだろうか。

 少し待って奥から出てきた店員からカップを受け取る。

 スリーブをつけた紙カップを抱えてこちらに歩いてくる綾さんは、相変わらず顔に笑みをたたえていた。

 彼女が死ぬ意思を持っていると確信したことで、彼女の行動がなにに基づいているのかがこれまで以上にわからなくなっている。

 だからこそ。

 目的を再確認する。

 彼女から何かを聞き出さなければならない。

 最初からそのつもりだ。ただ、なにを切り出せばいいのか全くわからない。

 誰かみたいに思ったことをまっすぐ言えればいいのに、と思う。こんな時に人と深く関わってこなかった自分の弱点を思い知らされる。

 だからその後、彼女がその笑顔のまま会話を踏み込んだ内容に持っていってくれたことは、少々の驚きと同時に良い機会だと思った。

 歩いてきた彼女は両手に持っていたカップのうち一つを僕に見せる。

「あげるね。レモネード飲める?」

 もちろんレモネードは好きだ。ただ、前から綾さんからは貰いっぱなしなので、申し訳なかった。

「悪いですって」

 言って財布が入った鞄の中に手を入れる。

「いいよこのくらい。あ、じゃあさ――」

 彼女はもともと用意していた言葉のようにさらっと言う。

「君のこと教えてよ」

 そして、柔らかい笑顔のまま僕のことを見据えた。

「前も言ってくれましたけど、なんでそんなこと―ー」

 言いかけて止まる。想像してみても、死を考えている人がどうして他人のことに興味を持つのかわからなかった。それとも、僕が周りの人と不必要に関わらないように過ごしてきたからわからないだけで、彼女のような性格であればそんな風に思うのだろうか。

 ――いや。

 僕は、このタイミングで彼女に乗ろうと思った。

 心の中を出せば、彼女の心のハードルも下がるかもしれない。中学の時に話しかけてくれた委員長と樺さんから学んだことだ。

「わかりました。その代わり、綾さんのことも教えてくださいね」

 彼女に乗っただけなんだから、別に変じゃないだろう。

 彼女は表情に少し驚きをにじませた。そして悪だくみの顔で手に持った紙カップを揺らす。中の液体がたぷんと音を鳴らすのが聞こえた。

「あれ、釣り合わないよ。このジュース分お釣り出ちゃう」
「だから払いますって」
 彼女が自然な笑い声をあげる。

「うそうそ。いいよ、飲んで。店員さんが一番美味しいって教えてくれたの。蜂蜜梅レモネード」
「ありがとうございます」

 綾さんに続いて僕たちは店の外に出て、並んだベンチに座って休憩することにした。ベンチの脇にも木が植わっていて、陽の光が梅の花に遮られ、肌寒い。

「相変わらず、すぐ人と仲良くなりますね」
「うん、そうしようって決めてるからね」
「そう決めて、その通りになってるのがすごいんですけど……」
「ちゃんとできてるなら良かった」

 彼女が本気で安心したようにそう言うのが、僕には意外に思えた。同時に、その言い方に引っかかる。ちゃんと「できてるなら」良かったって。なんか、母を前にしたときの僕みたいだ。

「もしかしたら、私ってすごく話しかけやすいのかも」

 そんなことを考えていたから、彼女のおどけたその言葉に微妙な相槌しか打てなかった。

「そうなのかもしれないですよね」
「いや、真面目に返さないでよ恥ずかしい。せっかく冗談言ったのに。ってか、喋りにくくない? 芳樹くん」
「――え?」

 何が?

「ほら、そうなのかもしれないですよね、って。違和感。いいよ、そんなに気にしなくて」

 彼女はなぜか早口でまくしたてる。

「そんなことないですよ。年上に敬語抜くの得意じゃないので」
「お姉さんと話すときはどうしてた?」
「それは普通ですよ流石に」
「何歳差?」
「一つ上です」

 綾さんと一緒です、という言い方はしなかった。

「私も普通でいいよ」
「ありがとうございます、けど、普通がこれです」
「そっかー」

 言う割に彼女はあっさりと引き下がる。

「ね、じゃあさ、なんで一緒についてきてくれるの?」
「それ前にも聞かれた気しますけど」
「前よりすんなり来てくれたじゃない」
「それは……」

 言葉に詰まる。死のうとしているのがわかってるから、なんて言えない。だから僕は、前言ってた柏井のことの訂正をすることにした。

「前言ってた話ですけど、僕別に誰かと楽しむのは嫌いじゃないですよ」
「うん」
「そりゃみんなとワイワイするのが大好きって感じではないですけど、それでも普通に遊びますし……ただ」
「ただ?」

 門限と、自分の気持ちも両方姉の死につながっている。僕は余計なことを考えないために、彼女の相槌にかぶせるように言った。

「僕基本的に夜七時には家に帰ってないといけないってだけで」
「えっと、それは……」

 彼女が会話を掘り下げていいのかどうか迷う雰囲気で僕の目を窺う。

 空気が重くなるのは僕も嫌なので、軽い口調を意識した。

 これを誰かに言うのは初めてだと思う。いつも、クラスメイトには母の体調が悪いから、で通していた。

「母が、すごく心配するんです。部活もバイトも終わるの六時半だから、普通に帰ったら七時には家に着くんですけど、帰るの七時過ぎちゃったら酷くて」
「でも、前一緒にご飯食べに行った時……」
「はい」
「バイトの後だったから家帰るのもっと遅くなったよね」

 彼女は少し心配そうに言う。

「あの日は先に言っておいたので大丈夫ですよ」

 まあ、ちゃんと上手くしなければいけないけど。

「そっか」
「はい」
「もしかして、それって……」
「姉が亡くなったからですね」

 多分彼女も僕に合わせてくれているのだろう。さほど大きな反応をすることなく淡々と頷きを返してくれる。

「姉が亡くなるまでは門限とか一切なくて、連絡も母から来たらそれに返すだけ、みたいな感じだったんですよ。けど、姉が飛び降りた夜は母が送った連絡に何も返事がなくて。で、そのまま死んじゃったので」

 僕は努めて明るく言う。

「それがあってから、僕の帰宅時間が遅くなることにすごい敏感になって。前部活で遅くなった時とか、電話鳴りっぱなしでしたよ」
「そっか、それで」
 彼女の頷きを見て、言い切ったはずなのに言葉が溢れた。

「あとたぶん、もう一つ大きいのは僕から誘うことがないからだと思います」
「それはどうして?」
「まだ同級生に対して苦手意識が完全には拭えなくて」

 中学の時と比べたら随分とおさまっているけど、その意識は高校に入学してからもまだ心のどこかに残っていた。

 彼女の相槌に合わせ、僕はその感情に至った経緯を説明する。普段なら絶対に言わないことを、呆れられると分かっているから心の奥の部屋に仕舞い込んでいることを何の躊躇いもなく話してしまっていた。

 彼女が、真剣でいて、僕の負担にならないように考えて頷きや相槌を使ってくれているからだろうか。

 事実、綾さんはその間、おおよそそんなことを聞いたら大抵の人がすると予想されるような表情をしなかった。つまり、そんなことを言う僕に対して、不快な顔や、幻滅した様子を見せなかった。

「――ずっと苦手なんです」

 だから言い方なんて選ぶことなく、そして自分の中にある考えを隠すことなく、安心して全てを彼女にさらけ出した。

「そっか」

 彼女は僕の話を受け止めたように、ゆっくりと呟く。

 僕がして欲しくない反応がわかっているのかもしれないと、そう思った。

 どうして、わかるのだろう、と。

 いつも、どうしてそんな風に相手の気持ちをうまく推し量ることができるんだろう、と。

 だから全てを話し終えた後、僕はそれを彼女に訊いてみることにした。

 彼女は僕の質問に、少しだけ困ったような顔をしてから口を開く。

「私もね、大切な人が死んだの」

 そのニュアンスで、おばあちゃんのことを言っているのではないんだとすぐに理解する。

「私ね、昔学校でいじめられてたの。ずっと一人ぼっちで、周りの人がみんな怖くて。そんな時にね、ずっとそばに居てくれた子がいたの」





 中学生の頃、私はいつも図書室で勉強していた。

 両親は私が幼い頃に亡くなっていたから、おばあちゃんの家に住んでいて、自分で言うのもなんだけど真面目だった。しっかりしなければ、と、そう思っていた。

 毎日、学校にも通っていた。

 ただ、私は周りの人と仲良くなるのは壊滅的に苦手だった。小学校の時はそれで担任の先生に心配されることも多かったけれど、中学に入ってからは違った。

 ちゃんと勉強していたら文句を言われることはないし、友達なんていなくていいと思っていた。

 テスト期間だったと思う。私が放課後、図書室で勉強していると、

「ねえ、綾ちゃん」

 いきなり女子生徒が話しかけてきた。

 話したこともないクラスメイトに下の名前で呼ばれたことに私は目を白黒させる。

「あはは、驚きすぎ」

 彼女は何が面白いのか笑っていた。

「…………」
「えっと、わかる? 私のこと」

 私の反応の鈍さに気づいたのだろう、話しかけてきた彼女は心配そうに自分の顔を指差した。

「う、うん……わかるよ」

 クラスメイトとの関わりは全くと言っていいほどなかったけれど、クラスメイト全員の顔と名前は頭に入っていた。

「最上……葉月さん」

 彼女はまた笑う。

「何それ、先生の点呼みたい」

 その言葉で入学式の後のホームルームで担任の先生がみんなの名前を呼ぶのにてこずっていたのを思い出す。みんな笑っていた。

「ふふ――」

 その笑みが自分の口から漏れたものだと気づき、思わず口を押さえる。

 私はその笑いに驚きを隠せなかった。

 学校でこんなふうに自分が笑うのを初めて見た気がする。

 そんな風に外から自分を観察するくらい、私にとっては驚くべきことだった。

 一方で、今の笑いは変ではなかっただろうかとそんなことを考えてしまう自分もいた。

「何、その驚いた顔」
「いや……」
「綾ちゃん面白いねぇ」

 彼女はなぜか楽しそうに私のことを見ている。

「……そ、そんなこと、ないよ」

 私は恥ずかしくなり首を振る。

「えぇ――」
「こら! 静かにしなさい!」

 彼女の返答は司書室から届いた怒鳴り声に遮られる。図書室では大きな声で話すのを禁止されていた。

 私たちは同時に顔を見合わせる。

 他の生徒の視線が私たちの方に集まっているに気づき、背中に冷たい汗が流れる。

「すみません!」

 彼女が控えめに謝り、

「ちょっと外出よう」

 そう言う彼女に促されるように一旦図書室の外へと出る。

「怒られたねー」

 外に出てすぐにけたけたと笑い始めた彼女の表情を見て、思わず声を出していた。

「最上さんが笑うからだよ」

 普段人に言い返すことのない私がそうやって言い返していることに気がつき、さらに驚く。
 けど、彼女の微笑みによって会話のハードルが下がったのか、その後も私は普通に彼女と話していた。

「ごめんって」

 謝っているのに全然申し訳なさそうに見えない彼女が話しかけてきた理由は、宿題でわからない問題があったかららしい。

「綾ちゃんならわかるかなって思って」
「どうして?」

 思わず訊く。

「綾ちゃんが授業で当てられて間違ってるの見たことないもん」

 私は返事をすることができなかった。

 見てて、くれたんだ。

「これなんだけど、わかる?」

 何も含みのない様子でそう続けたあとに彼女が見せてきたそのプリントは先週出た宿題で、私は既に解いていた問題だった。

 教えると彼女は目をキラキラさせてお礼を言う。

「すごい! やっぱりすごいね、綾ちゃん」

 嬉しかった。

 成績の良さで褒められることはあったけれど、彼女のその言葉はもっと純粋でまっすぐなものに感じられて、ただ自分のためにこなして来た――友達付き合いをしないことの言い訳のためとして使っていた勉強がその瞬間、自分の中で存在を認められたみたいだった。

「ありがとう」
「じゃあ、また明日ね」

 しばらく図書室で勉強をした後、そう言って彼女とは別れたけれど、少しだけ、心配だった。じゃあ、また明日という言葉。本当に明日も話せるのだろうか、と思った。教室で自分が誰かと今日みたいに話している姿が全く想像できなかった。

 楽しいと思ったから、その感情を知ってしまったから、その明日がこない可能性を危惧したのだ。

 けれど彼女はその次の日、私が登校すると真っ先に話しかけに来てくれた。

 それから私たちは、放課後図書室で宿題をして、その後何処かに出かけて遊ぶようになった。

 性格が真逆の私たちは、なぜか馬が合った。

 葉月はどんな人にも気さくに話しかける性格で、明るかった。そして、引っ込み思案な私をいろんなところに連れ出してくれた。

 私たちは二人とも甘いものが好きだったので、休みの日にはよくカフェを巡っていた。

 目指している高校も同じで、一緒にその高校の学園祭に行ったりもした。

 出会う前では想像もつかなかった程に毎日が楽しく、葉月と仲良くできるその生活がずっと続けばいい、そう思っていた。

 けど、今まで人付き合いをしていなかった私が、そんなことを望んだのが間違いだったのかもしれない。

 その生活が壊れるのは葉月と仲良くなってから一年ちょっと経った頃だった。

 中学二年生の時、私はクラスでいじめを受けることになる。

 きっかけは単純だ。クラスの中で声を張り上げることの許されている女子の好きな人が私に告白したから。

 別にその告白に私が断ったことがどうとかいう話じゃない。ただ、いじめる側の主張は「なに調子乗ってるの?」の一言だったから。「なに、色目使ってんの」とも。

 中学一年の終わり頃から急激に身長が伸びて、学年が変わりクラス替えの後、周りから向けられる視線が今までと違っていることに気づいた。その時の身長は既に一六○センチメートルを超えていた。

 おそらくそれが原因なんだろうけど、中学二年に入ってから数度、同級生や先輩から告白された。

 ただ、性格は変わっていなかったから、友達と呼べる存在は葉月しかいなかった。

 それはつまり、告白してくる男子の中に誰一人元から仲の良い人はいなかったということだ。そんな男子が私に告白をしてくる理由がわからなかった。少し、怖かった。

 だからいつも断っていた。

 告白の時、誰も、私のことをどうして好きなのかはっきりと言ってくれる人がいなかったということもある。

 今回も、同じだった。

 そう思っていた。

 なのに、告白があってすぐ、クラスの中で私に対するいじめが始まった。

 といっても初めは、聞こえるように嫌味を言われたり、聞きたくもないあだ名をつけられたりしているだけだった。気分は悪かったが、私は何も言わずに無視をし続けていた。

 クラスでの居場所がなくても、私には葉月の隣にいることができた。

 葉月とは二年生になってクラスが変わってしまったけれど、相変わらず放課後は一緒に勉強したり、遊んでいた。彼女と遊んでいれば学校の中でのストレスなんか自然と消えていく。だから、そんな陰口くらい耐えられた。

 変わったのは、一度断った例の男子生徒が私にもう一度告白してきてからのことだった。その情報を何処かから仕入れてきたいじめ主犯格の女子は、我慢ができなくなったのだろう。いじめが一気に加速した。

 不幸なことに、その彼を好きな女子生徒はクラスの中での地位が高かった。一方、私は言うまでもなく地位が低い。

 気づけば、クラスの中で私は、完全に切り離された存在になっていた。

 勉強ばっかりしていた時の一人ぼっち、とは全く違う。

 みんなの意思が働いて一人だけ切り離されるというのが、こんなにも異質で気持ちの悪いものなんだと、知らなかった。

 今までは一部から睨まれていただけだったのに、教室にいる間ずっと、他の生徒からどこか遠巻きに観察されているような感覚。

 酸素が薄くなったみたいな息苦しさを毎日感じていた。

 少しでも気に触ることをすれば、彼女らの悪意は私を容赦無く襲ってくる。

 私は怯えることしかできないでいた。

 正直頭が追いついていなかった。何でいじめをする人はそんな行動ができるのだろう、楽しいのだろうか、ムカつく相手が傷ついているのを見るのが清々しいのだろうか。

 声を上げて助けを求めることも、教師に相談することもできなかった。同時に、そんなことしたら、もっといじめが陰湿かつひどいものになると本能的に理解していた。いじめることを楽しんでいるような彼女たちの顔を見ていたら、邪魔が入れば容赦しない人間であることは誰にでもわかる。

 だからこそ、おかしいとわかっているはずの周りの人も誰一人として声を上げないのだ。

 これまでとの落差に、私は深い崖に突き落とされたような感覚になった。

 直接的に向けられる敵意が、私の精神をすり減らす。

 正直、疲弊していた。

 クラスが違うから知られていないはずだけど、毎日顔を合わせる私の表情の変化に気づいたのだろう、葉月が心配そうな表情で聞いてくれた。

「最近元気ないけど、どうしたの?」
「ううん、大丈夫だよ」

 でも、彼女に迷惑をかけてはいけないと思い、私は慌ててごまかした。

 いじめを行う人はみんななぜかわかっている。

 大人たちが本気で止めに入らないギリギリの限度というものを狡猾に理解している。

 だから、私の持ち物が壊されたり隠されたりすることや、授業中にゴミを投げつけられるようなことはあっても、身体にはっきりと傷をつけるレベルの暴力はふるってこなかった。

 葉月も、直接的に私が傷つけられたとわかる証拠がないから、私の「大丈夫」の言葉を、納得はせずとも信じてくれていた。

 月日が経ち――実際はそれほど経っていないけど、苦痛を強いられる生活は自分にとって一年くらいの長さに感じられ、終業式が近づいたある日、たまたま私のことを汚い言葉で罵ったクラスの女子の言葉を、葉月が聞いてしまった。ちょうど葉月がトイレに行くために私のいる教室の前を通るタイミングと重なってしまったのだ。

 それで葉月は、その女子に対して文句を言い、その女子たちと口論になった。

 私はずっとその間に挟まれて黙っていることしかできず、葉月が果敢に女子たちと交戦している様子をただその場で佇んで見ていた。

 クラスの女子と葉月の口論の末、葉月に手を握られ、私は教室から連れ出される。

「あれ、何?」

 彼女が憤りをあらわにする。

「…………」
「いつからあんなこと言われてるの!」
「いや、ちょっと……ちょっと前に、気に触ることしちゃって」
「気に触ること?」
「それは…………」
「綾がなんかした? 本当?」
「…………」
「何をしたっていうの⁉︎」

 彼女の剣幕を前に黙っていることもできず、いじめの経緯を説明すると、葉月の怒りが爆発した。

「許せないっ」
「誰にもこの話は言わないで」

 私はとっさに言葉を放っていた。そう言わなければ、彼女はこのままの勢いで職員室に突撃するような気がした。

「なんで?」

 私は、彼女の言葉に答えられなかった。

「それでいいの?」
 彼女は私の言葉を呑み込めない様子でさらに訊く。

「……うん、ちょっとした喧嘩みたいなものだから」

 大丈夫。これを言ってしまうと逆に葉月は怒るだろうけど、余計なことをしてあの女子たちの感情を刺激なんかしたら、何が起こるかわからない。そんなリスクのあることはしない方が絶対にいい。

「本当にいいのね?」

 繰り返し葉月にお願いすると、彼女は渋々といった感じではあったけれど首を縦に振ってくれた。

 教室に戻ると、異様な空気が流れていた。私が入ると教室内の空気が変わる。

 その日から、終業式までの間、私に対する悪意が穏やかになったことに気がついた。

 たぶん、私に味方がいると理解したからだろう。別に、彼女らは攻撃の手を休めたわけじゃない。おそらく葉月と私の距離感を探っていただけなのだろう。それと、ただのタイミングだ。人をいじめることに慣れた老獪な女子たちからすると、葉月が学校に彼女たちのいじめを報告することで、もうすぐ始まる自分たちの春休みが潰れる可能性を察知し、恐れたのかもしれない。

 単なる一瞬の、落ち着きだった。

 だからそこからの行動は、完全に自分の責任だ。

 葉月に巻き込まれて欲しくないと思っていたにもかかわらず、いじめが少しだけ和らいだ瞬間、私の心の中には確かに安堵が生まれた。

 今のうちに逃げ出そう、と思ってしまったのだ。

 葉月と仲良くできるその生活がずっと続けばいい、その気持ちを破ったのは自分だった。

 祖母に頼み込んで、三年生から違う学校に転校することをきめた。

 転校した後はもう、何も考えないようにしていた。

 葉月からは、それ以来メールが来なかった。

 葉月のことだから、私を守れなかったことに罪悪感を感じていたかもしれない。

 馬鹿だ。葉月が巻き込まれないようにと思うなら、もっと早い段階で――葉月がいじめに気づく前に転校してればよかったのに。

 葉月を、学校に残してきてしまった。

 結果的に、私だけが学校から逃げることで、葉月がいじめのターゲットになってしまっていた。

 ずる賢いのは、私だ。

 可能性を全く考えなかったわけじゃない。

 ただ、葉月なら、すぐに人と仲良くなる彼女なら、うまくいじめから逃れることができるだろう、そんな風に思い込んだ。

 自分の気持ちをごまかしている罪悪感があったから、怖くて、何も連絡をしなかった。葉月の存在を、どうにか心の奥に仕舞い込もうとまでしていた。

 転校してからは、表情の使い方と、相手に合わせて自分の行動を変化させる術を身につけることに必死になっていた。ただ考えて、考えて相手の空気を読み取り、合わせて、愛想をよくする。

 新しい環境が幸いしてか、何とかクラスに馴染めるくらいの形にはなってくれた。

 だから、今みんなが褒める私のコミュニケーション能力は、そんな良いものじゃない。

 それのおかげでいじめは完全になくなったから、そういった立ち回りが必要ないとは口が裂けても言えないけど、全く誇れるものなんかじゃない。

 彼女が死んだと聞いたのは、転校してから随分時間が経ってからだった。結局、転校してから一度も葉月と連絡を取っていなかった。





 私のせいでその子は死んだの。綾さんは最後にそう締めくくった。

「前言ったでしょ? 一緒にケーキのイベントに行った子の話」
「はい」
「それが、その子なの」

 あの時、彼女は思い出すように天を仰いでいた。

「じゃあ、紅葉狩りも」
「そう、一緒に行った」
「そうなんですか……」
「うん。だから、私も大切な人が死んでるから。少し、ほんの少しかもしれないけど、芳樹くんの気持ちがわかるの――私も、その子が亡くなったって知ったあと、おばあちゃんが私に何も聞かずにいつも通り接してくれたの、随分助かったから」
「同じ……なんですね」
「そうだね」

 それを訊くと、彼女の今までの行動が納得できる。

「おばあちゃんがずっと心の拠り所だったんだ」

 彼女は、また空を見上げながら、笑う。
 僕は思わず口を開く。

「だから――」

 死のうと思ったのだろうか。その祖母が亡くなったから。

「だから?」
「……いや」

 彼女とご飯の約束をした日。ちょうど声が聞こえたその日は、彼女の祖母の葬式が終わってすぐだった。もし、それがきっかけならば筋は通っている。

「何でもないです」
「気になるなあ……まあ、いいけど。芳樹くんの話は終わり?」
「聞いてくれますか?」

 理解していた通り、人間は相手のことをよく知っていればいるほどに自分のことを曝け出すことに抵抗がなくなる。

 本来ならばこんなに急速に話が進むなんてこと、よっぽどじゃないとありえないはずだけど、彼女が死にたいと思う原因を知りたい僕の思いと、彼女の人のことを考える能力の高さが合わさるとよっぽどじゃなかったらしい。

 その日、僕は高校になって初めて、今まで起こった全てのこと――もちろん声の話は言わないけど、僕の記憶に一生残り続けるはずの記憶を話したんだから、全てのことと言っても過言でないと思う――を彼女に聞いてもらうことになった。

 姉が死んだあの日から、誰にもしなかったことを彼女に対して行った。

 ただ話をする、とかそんな単純なことじゃない。話すだけなら、中学の担任に対して何度もしている。

 熱さと同じで、人のことを信じる感情も、その感覚から離れてしまえば忘れるものなのだと思う。

 多分その日、僕がずっと長い間忘れていた、誰かに心を開くということを思い出したんだと思う。

 つまるところ、綾さんに対して完全に気を許してしまったのだ。

 自分が心を開くことのできる相手が死ぬことを、何とも思わないわけがない。さすがに僕はそんな人でなしじゃない。

 だから、話を真剣に聞いてくれる彼女の目を見て、僕はあることを考えた。

 彼女は、死ぬべきじゃないと思った。



 駅の構内、改札に向かう通路に甘い香りが広がっている。

 ホワイトデーが近づいているからか、駅の構内には常に出店している店舗の他、いろんな限定出店があった。三月十四日のイベントを示すボードのはられたスイーツ系の店が多い。

「ちょっと並んでいいですか?」

 僕は彼女にそう言ってケーキ屋の列に並ぶ。

「ホワイトデー?」
「違います」
「じゃ、お供え?」
「はい」
「優しいね」
「違いますよ」

 僕の行動は、基本的に母親の機嫌をとるためだ。

 首を振ると、聡い彼女は僕の感情を理解してくれたらしく、温かい表情のまま続ける。

「違うんだ」
「はい」
「私も、何かお供え買おうかなあ」
「何買うんですか?」

 うーん、と周りを見渡していた彼女は、何かを見つけたらしい。

「あれ」

 そう言って彼女が一つの店を指差す。その指は、常に出店しているらしい一つの店舗に向いていた。

「甘栗」
「専門店って珍しいですよね」

 店舗を構えているのを初めて見た。どちらかと言うと、屋台のイメージが強い。けど、人気店なのか店の前には結構な列ができていた。

「そうなの。結構有名らしいよ。お供えにぴったりでしょ?」

 彼女は自信げな表情をする。

「みんな好きだったの、甘栗。と言うか、私が好きになったのは完全におばあちゃんの影響」
「そうだったんですか」
「そう、いつでも家にあったから」

 話しているうちに列は減り、僕はケーキを購入する。

 そして僕たちは新たな列に並び直した。

 彼女と別れた後、晩ご飯の時間まで時間があったので最寄り駅と違う駅で降りて、併設された大きなショッピングモールに寄った。

 中に入ると、さっきの駅と同じでホワイトデーのイベントブースが設置されていて、様々な種類のスイーツ店が出店していた。

 チョコレートを買うなんて、初めてだったから、なにを買えばいいのかわからなかった。
 綾さんに返すチョコレートだ。いつももらってばかりではいけない。それに。

 ――来月何かお返ししてくれたらいいからさ

 彼女にはホワイトデーなんか存在しないんじゃないのか。また浮かびかけた言葉は首を振ってかき消す。

 ちゃんと、彼女に渡そうと、そういう気持ちになった。