二十.記憶

 私の魔力を解放する為、私とランスさん、ロウとジョシュの四人で海辺に続く扉をくぐった。
 石の壁に囲まれた小さな砂浜に立つと、潮の香りが押し寄せ、波音に包まれる。
 今までの事が夢の中の出来事だったように現実感が薄れ、何かを忘れてきたような気分になった。
 下ろした髪を風が靡かせ、足元の砂を波がさらっていくのをひとつひとつ感じながら少し歩いた。
 しばらく海を眺めていたが、ランスさんが崖に近い場所に持ってきた敷物を広げ、私にその上に横になるように言った。
 私の足の方にロウとジョシュが少し離れて立ち、ランスさんは私の頭の方に膝立ちになっている。
 ついに、私の中にあるという魔力を解放する時がきたのだ。
 自分がどんな風になるのか、その力を受け止められるのか、考えると不安になるので出来るだけ考えないようにした。
 ランスさんに任せよう。
「目を閉じて、私の魔力を感じてみてください」
 私は言われた通り目を閉じ、意識を集中させた。
 額に暖かな光を感じた。
「次は記憶を辿ってみましょう。幼い頃のあなたを思い出してみて」
 落ち葉を踏む音、冷たい秋風と、暖かな木漏れ日。
 私を抱いて歩いているのはロウだ。
 私はロウの片腕にすっぽり収まるような、まだ小さな赤ちゃんだった。
 キラキラした光に、茶色い癖毛が時折揺れるのを飽きずに見ていた。
 それが私の思い出せる一番古い記憶だった。
 それ以前に自分がどこで、何をしていたのかは思い出せなかった。
「では、私の記憶を少しお見せしましょう」
 ランスさんがそう言って暫くすると、目を閉じているのにここではない景色が見えた。
 驚いて目を開けると青い空に重なるように、どこかの街の景色がやはり見えている。
「もう一度目を閉じて」
 ランスさんの穏やかな声に目を閉じる。
 街の景色の中に人々の姿が浮かび上がり始めた。
 隣に立っているのは、……ランスさんから見たネイドリルだ。
 ネイドリルは笑顔を見せていた。
 私の心の中にも、その笑顔のように暖かな喜びが浮かんできた。
 何だろう、と考えていると、むくむくと湧き上がってくる熱を感じる。その熱は体の中心から手足の方へ広がっていこうとしている。
『ランス、絵が完成したら一緒に…… 』
 ネイドリルがランスさんに向けて言った言葉が終わらないうちに、熱は私の体の外まで溢れ出していこうとするように、体のあちこちで渦巻き、全身に痛みをもたらし始めた。
 あまりの熱さに無意識に水を求める。
 すぐ目の前にある海に飛び込みたいような気持ちでそちらを見ると、波のうねりが変化し始めた。規則的に寄せては引くを繰り返していた波が渦を巻き始めた。その間も体は熱さに痛みを訴え、やがて目の前が真っ赤に染まり、何も見えなくなった。
 痛みを堪えていると、冷たい水が優しく体を包む感触があった。
 痛みが徐々に引いて行く。
 息をしているのかどうかさえ分からない。ふわふわと浮いているようだった。
 ネイドリルはランスさんと何か約束をしようとしていた。優しく暖かな、希望に溢れた気持ちで、未来を見ていた。
 なぜ捨ててしまったのだろう。
 なぜ捨てなければならなかったのだろう。
 私の中にあったのは優しさだろうか。それともネイドリルの悲しみの涙だったのだろうか。
 そんなことを思いながら意識を手放した。
 心地よい微睡みの中から、再び意識が引き戻され、目を開くと景色が歪んでいた。
 目の前を水の壁が覆っているらしく、手を伸ばせば水の壁に手が吸い込まれる。
 前も後ろも、右も左も全てが同じだった。水の部屋に閉じ込められている。
 ロウたちの姿を探そうとしても、水の壁はゆらゆらと揺らめいていて、外がはっきりと見えない。
 どうやってここから出ればいいのか分からず、暫くじっとしていたが、思い切って水の壁の中を通り抜けられないかやってみることにした。
 息を吸い込み腰の辺りまで前に進んでみたが、外には出られそうになかった。苦しくなって元の場所に戻る。場所を変えて何度もやってみたがだめだった。
 皆が心配しているに違いない。
 私の魔力はどうなったのだろう。解放できたのか、実感がない。試す方法も分からなかった。
 何も出来ない自分が情け無くて涙が込み上げた。
「ロウ、ジョシュ、ランスさん」
 名前を呼んでみても返事はない。
「ジェスリル…… 」
 魔法を自在に操る、美しく気高い魔女の名を呼んでみても答える応えは無い。
 涙が頬を滑り落ちた。
 下も同じように水の揺らめきがあるだけなのに、自分の体が沈んでいないことを不思議に思いながら、その涙が揺らめきの中に吸い込まれて行くのを見ていた。
 ひどくゆっくりと、時間の流れが急に遅くなったみたいに、涙の雫は静かに落ちて行く。
「……! 」
 水が弾けた。
 一気に水の世界から投げ出され、私の体は宙にふわりと舞い、弾けた水が細かな霧雨となって降り注いでいる。
 明るい光がキラキラと反射して無数の虹を描いた。
 まるで噴水の中にいるようだった。
 あるいはそれ以上に幻想的で、眩しい光景に見とれていると、下の方から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 私の体はゆっくりと地面に向かって落ちていた。
 背中や膝の裏に暖かい熱を感じ、つい最近もこんな風に抱きとめられた事を思い出す。見上げればそこには思った通り、大好きな焦げ茶の癖毛と琥珀色の瞳があった。
 ロウの目がどれ程心配をかけたかを物語っている。
「……私が受け止めようと構えていたのに」
 そんなジョシュの声も聞こえてきた。
「無事なようですね」
 ランスさんの穏やかな声もする。
「エリル、どこも痛くないか? 」
 ロウに問われてコクリと頷いた。
 皆が無事なことにほっと息を吐いた。
 砂浜の上に降り立つと、さっきまでのふわふわと浮いているような感覚との違いに足が重く感じる。
 皆、降り注ぎ続けている霧雨に濡れ、ロウは呆れたように空を見上げ、濡れた髪をかきあげた。
 また助けられた。
 いつになったら私が助けることが出来るんだろう。
 せめて今、ジェスリルのように魔法で皆を乾かしてあげられたら良いのに。
 そう思った瞬間、暖かな風が吹いた。
 いつの間にか霧雨は降り止み、服や髪も乾いている。
 不思議に思っていると、ロウが少し寂しそうな、複雑な笑みを浮かべながら私の髪を撫でた。
「魔力の解放に成功したようだな」
 体の中に溢れた熱が魔力だということは分かったが、解放出来たという実感が無いままだった私は、首を傾げた。
 説明を求めてランスさんを振り返ると、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「先ほどの水球の爆発も、一瞬で私達を乾かした風も、エリルさんの魔法ですよ」
 ジョシュも私を抱きしめながら続ける。
「エリルは素晴らしい魔女だよ。ジェスリルにも負けないくらい強い魔力だ。頑張ったね」
 自分の手の平を見てみるが、もちろん何も変わっていない。
 ただいつもより鮮明に、周りの景色が見えるような気がした。風の音や波の音も一つ一つはっきりと聞こえる気がする。
 感覚が研ぎ澄まされたように、世界が瑞々しい光を放って見える。
 これが魔女の視界なのだろうか。ジェスリルの見ている世界は、こんなにも輝いていて美しいのだろうか。
 呆然と立ち竦む私の耳には、今は姿の見えない魔女たちの、はるか昔に交わした囁きさえ聞こえるようだった。







































 二十一.囚われの王妃

「お助けくださいっ、どうか…… 」
 魔女の館に帰ろうとしていたところに、駆け寄って来る人影があった。
 淡い水色のシンプルなドレスを纏った女性だった。波打つ蜂蜜色の長い髪は夕陽を浴びて輝いている。とても美しい女性だった。
 息を切らせて走ってきたかと思うと、ジョシュの前で足を縺れさせ、彼の方へ倒れ込んだ。
 驚いた表情で女性を抱きとめたジョシュと、苦しげな表情で見つめ返す女性の姿が、夕焼けの海岸で一枚の絵のような美しさだった。
 突然の出来事に皆が息を飲んで成り行きを見守っていると、ロウが私を背にして立ち、誰何した。
「何者だ? 」
 女性はロウを振り返り、ジョシュの腕から身を起こすと、胸の前で手を組み合わせ、もう一度先ほどの言葉を繰り返した。
「お助けください。魔物に捕らえられていたところを逃げてきたのです。
 どうか、王宮に連れて行って頂けませんか? 」
 ランスさんが呆然としたように呟いた。
「……ローレンシア王妃」
 私は目の前の女性をまじまじと見つめた。確かに髪と目の色はエドガー王子と同じだった。顔立ちも似ている。
 それに魔物に捕らえられていたという点が、ローレンシア王妃の状況に似ている。
 ランスさんを見れば、私の視線に気付いたのか、こちらを見て表情を緩めた。
「王宮でローレンシア王妃の肖像画を見たことがあります。
 確かに王妃に似ています。ですが…… 」
 何か気になることがあるのか、ランスさんは考えこむように顎に手を当てて、もう一度その女性に目を向けた。
「そうです。私はアームスデン王の妻、ローレンシアです」
 女性はホッとしたように笑みを浮かべてそう言った。
 ロウの背中はずっと私を守るように緊張している。
 女性に対してこんなにも怖い雰囲気を纏ったままなのはどうしてだろう。いつものロウらしくないような気がして、そっと背中に手を伸ばせば、突然振り返って伸ばしかけた私の手首を掴み、引き寄せるようにして耳元に囁いた。
「何か嫌な感じがする。気を許すな」
 ロウの真剣な目に見つめられ、私は言葉が出て来ず、ただその目を見つめ返した。ロウはローレンシア王妃に疑いを持っているようだ。何故だろう。
「とりあえず、ジェスリルのところに帰りましょう。いつまでもここに居るわけにもいかない」
 溜息と共に発せられたランスさんの言葉に、ロウが反論する。
「素性の分からない者を連れて行くのか?」
 ランスさんもそれには思うところがあるようだったけれど、置いて行くわけにもいかない。苦渋の選択だと返した。
「エリルはどう思う? 」
 ジョシュが私に選べと言うように、皆を見回して言った。
 私はもちろんローレンシア王妃をアームスデン王の元へ連れて行ってあげたい。その為には一緒に魔女の館を通って人間界へ行く他はない。
 私はローレンシア王妃に向かって言った。
「アームスデン王とエドガー王子が待っています。一緒に王宮へ行きましょう」
 ローレンシア王妃は嬉しそうに少女のような笑顔を見せた。その笑顔に少しだけ心に引っかかるものがあったが、それが何なのか、その時の私には分からなかった。
 ロウだけが厳しい表情で王妃をじっと見ていた。
魔女の館に戻る扉を潜ると、時を同じくして隣の扉が開かれた。街の薬屋に通じている扉だ。
 そこから現れた人物に、皆一様に息を飲んだ。
 濃紺のフードを被った小柄な人影が、一瞬怯えたように後退り、踵を返しかけた。私は咄嗟にその手を掴んだ。
「待って!」
 瞬間、ガタガタと家が揺れた。ほんの僅かな時間だったが、今までにこんな事は一度もなかった。
 廊下に置いてある小さな台に乗った花瓶や、燭台が倒れていた。
 驚きに目を見開いたネイドリルと目があった。何故急に魔女の館が揺れたのかも気にはなったが、今はネイドリルを捕まえておくことが優先だった。
「待って、話したいの」
 私はネイドリルを離すまいと腕に力を込めた。
 ネイドリルの目が私の後ろにいる人たちに向けられ、やがてある一点で驚きが恐怖に変わるのが分かった。
 その手が小刻みに震えている。
 私はネイドリルの視線を追って振り向いた。そこに居たのは、……ローレンシア王妃だった。
「何故、あなたがっ…… 」
 私と同じ声がローレンシア王妃に向かって発せられる。
 現王妃であるネイドリルにとって、亡くなったはずの前王妃が現れたとなれば、地位を追われかねない一大事だろう。でも、それだけではない、何かがあるような気がした。
「ネイドリル、私知りたいの。あなたに何があったのか。話をしたいの、お願い」
 ネイドリルは私に視線を戻し、しばらく逡巡した後に小さく頷いた。
 私はほっとして、そろりと掴んでいた手を放した。ネイドリルは逃げたりはせず、ローレンシア王妃を気にしながらも、付いてきてくれた。
 ジェスリルはまだ起き上がることは出来ないようだったので、ユリウスに付いていてもらい、ローレンシア王妃にも別室で待っていて貰うことにした。それ以外は皆食堂に集まった。
 皆の視線がネイドリルに注がれる中、ネイドリルは私を改めて見直し、私の中にあった魔力が解放されたことを悟ったようだった。その目には諦めの色が少なからず浮かんでいた。
「十数年前、魔界と人間界を隔てていた結界が一時的に緩んだ時があった。今思えば、お姉様も三百年という時を、その結界を守り続けてきたんですもの。とうに限界が来ていてもおかしくは無かった。
 でも私はどうしても人間に、魔物狩りなんてもので罪の無い者達を無残に殺して来た王に復讐したかった。
 心に渦巻く黒い感情につけ込むようにヴィランが現れた。ヴィランは自分が王になりたがっていたのよ。
 私は王に近づこうとして王妃であるローレンシアと仲良くなってしまったの。その為に復讐を躊躇っていたら、ヴィランは私に薬を差し出した。これを飲めば迷いが無くなると。
 その薬は私の中にあった穏やかな幸せな気持ちを吐き出させたの。綺麗だったわ。キラキラ輝いていた。私はそれをヴィランに壊されたくなくて、お姉様のいるこの館の近くに置いていった。それをお姉様が育ててくれたのよ」
 ネイドリルは私を捨てたんじゃなくて、守ろうとしたんだ。ネイドリルの瞳に私を愛おしむ優しさがあった。
「でもいざ復讐をしようとすると、魔力まで失っていたの。私は魔力が回復するのを待った。
 その間にヴィランは魔力の無い私に興味を失って姿を現さなくなった。
 私がここへ来たのは、あなたと王が話しているのを聞いて、ローレンシアが魔物に連れ去られたと知ったから。ヴィランが連れ去ったに違いない、そう思って彼女を連れ戻しに行く為にここへ戻ったのよ」
 ネイドリルの話を誰一人口を挟まず聞いていた。
 私はネイドリルの魔力が回復するのと共に、その失くしたはずの優しさも再び彼女の中に育っているのを感じた。そうでなければ、ローレンシア王妃を探しに行こうとは考えなかっただろう。
 私がそう言うと、ネイドリルは静かに涙を零した。
 その震える肩をランスさんが抱き寄せ、しばらく二人だけにしてあげようと、私達は部屋を出た。
 あとはランスさんが復讐を辞めさせてくれるだろう。
 私は一人自分の部屋に戻った。ロウとジョシュは何やら二人で話があるらしく、私は皆が揃うまで部屋で休む事にした。
 疲れていたのか、ベッドに横になるとすぐに眠ってしまった。
 気がつくと部屋は真っ暗だった。
 灯を点けようとベッドから降り、手探りでドアの方に進むと誰かがそこに立っていた。
 暗闇に目を凝らせば、ぼんやりと長い髪が見えた。さらによく見ようとすると、魔力のせいか、暗闇でもよく見えるようになった。
 そこにいたのはローレンシア王妃だった。
「ローレンシア様、すみません。早く王宮に帰りたいですよね。私眠ってしまって…… 」
 なかなか部屋から出てこない私を呼びに来たのだろうと思ったが、ローレンシア王妃は何も言わない。
 気分でも悪いのだろうかと一歩前に出たところで、ローレンシア王妃の手が私の首に伸ばされた。
 抵抗する間も無く、首を絞められ壁に押し付けられた。
 声も出せず、必死にその手を解こうともがいていると、私を呼ぶ声と共に銀狼姿のロウが飛び込んで来た。ローレンシア王妃に飛びかかると、王妃は私から手を放し、ひらりと身をかわして机の上に飛び乗った。とても王妃様とは思えない。
 物音を聞きつけたのか、ジョシュも部屋に飛び込んできて、すぐさま私を抱き起こし、避難させてくれた。
 私は咳込みながら部屋の隅でその光景を見ていた。
 一体何が起こっているのだろう。
 ロウが飛び掛るとローレンシア王妃はそれをかわして、ベッドや窓枠の上を飛び回る。
 やがて、真っ暗だった部屋に月の光が差し込んできた。今まで雲に隠れていたのだろう。その光にローレンシア王妃の首元にあるペンダントが光を反射した。
 私の目はそのペンダントの大きな楕円の水晶に引き寄せられた。水晶の中に何かが動いている。
 よく見ようと意識を集中し、その水晶の中にもう一人のローレンシア王妃がいるのを見た。姿が映りこんでいるというわけでもなく、水晶の中で壁を叩くようにその手が動いている。何か叫んでいるようにも見える。
 水晶から、飛び回るローレンシア王妃に目を戻すと、そこに居たのは王妃とは似ても似つかない、尖った耳を持つ黒服の男だった。
 光沢のある黒いベストに、一見黒に見える真紅のシャツ、長い髪を後ろで一つに結わえているが、その髪の色もよく見れば赤だった。
 窓枠に斜に腰掛け、長い足をぶらつかせながら面白そうにこちらを見ている。
「何者だ? 」
 ロウが問うと、男は嬉しそうにパチンと指を鳴らして立ち上がる。
「私は魔界の王ヴィルヘルム様だ」
「何故ここにいる? 」
 重ねて発せられた問いに、ヴィルヘルムと名乗った男はやれやれといったように左右に首を振った。
「お前達がここへ招いたのではないか。もう忘れたのか? 」
 ランスさんとネイドリルが戸口に立っていた。が、ヴィルヘルムが魔法を使っているのか、部屋に入って来ようとして入れずにいるようだった。
 ヴィルヘルムはロウとの間合いを取りつつも、部屋の中を行ったり来たりしている。
 そうしてロウの方に近づくと、私を見ながら大袈裟な身振りでロウに囁く。
「稀代の魔女ジェスリルが手塩にかけて育てた至高の宝玉、垂涎の的だ。あんたも本当は欲しくて堪らないんだろう?」
 ロウは何も言わずじっと男を見据えている。
 男は面白くなさそうに、今度はジョシュの方へ近づき同じように囁く。
「あの娘が欲しいって顔に書いてあるぜ」
 ジョシュも挑発に乗るような事はなく、厳しい目で男を見ていた。
 男は次に私を見て笑った。
 ぞっとするような獲物を狙う目だ。
「かわいいお嬢さん、あんたにゃその力は大き過ぎる。私と手を組まないか?共に世界を支配しようじゃないか」
 何処からどう見ても怪しいことこの上ない。
 私はプルプルと首を左右に振る。誰もヴィルヘルムの言葉に耳を貸さないと知ると、残念そうに肩を落とした。かと思えば、また赤い両眼をギラつかせてニヤリと嗤う。
「こいつを助けたいんじゃないのか? 」
 そう言って手にペンダントをぶら下げて見せた。ペンダントがゆらゆらと左右に揺れる。その水晶の中にはローレンシア王妃の姿が相変わらず映っていた。もしかしてあの水晶に閉じ込められているのだろうか。
「俺と来るんだ。さぁ、いい子だ。ローレンシアを助けたいんだろう?」
 男の声がしきりに私を揺さぶり、私は水晶から目が離せなくなっていた。次第に何も考えられなくなっていく。
 体が勝手に動いて、男の方へと足を踏み出した。
「エリル、惑わされるな! 」
 ロウが叫んで、私の方に駆け寄ろうとして何かに弾き飛ばされた。
 ロウの体は壁に打ち付けられ、床に落ちた。何度か立ち上がってはヴィルヘルムに飛びかかろうとして、同じように弾かれる。
 ジョシュも同じようにヴィルヘルムに向かって行っては弾き返されて床に転がった。
 二人を助けなきゃと思うのに体が思うように動かない。
 その間にヴィルヘルムは窓を開け放ち、私を抱えて外に飛び出そうとした。
 その時再び魔女の館がガタガタと揺れ始めた。ジェスリルの魔法が弱くなっているのか、それとも他の理由なのか、先ほどよりも長く大きく揺れている。
 ヴィルヘルムも立っていられず、私を抱えたまま開け放たれた窓の方に倒れた。
 一瞬の後に、私の体は窓の外に放り出された。
 ジョシュの伸ばしてくれた手が、辛うじて私の腕を掴み、私は二階の窓からぶら下がった状態になった。
 建物の揺れが収まると、ジョシュが私を引き上げようと腕に力を入れた。その時、ヴィルヘルムがジョシュの背中に足を掛け抑えつけた。
 ヴィルヘルムはその状態で私を見下ろしている。
「残念だがあんたは一緒には行けない」
 ジョシュに言ったのか、私の腕を掴んで支えていたジョシュの顔色が変わる。
 私は二階の窓からぶら下がった状態で二人を見上げるしかできなかった。
 こんな時こそ魔法の力でなんとかしたいのに、どうすればいいのか分からない。
 ヴィルヘルムがキラリと光る物を取り出した。細身の小さな刃物だ。ペロリとその刀身に舌を這わせ、にやりと口許に笑みを浮かべたかと思えば、躊躇いもせずに、その刃をジョシュの首筋に突き立てた。
 私は声にならない叫びを上げた。
 流れ出した血が私の腕にも伝い落ちる。
 それでもジョシュは腕を離そうとせずにいる。ロウが男に飛びかかったようだが、男はひらりと外の木に飛び移った。
「ジョシュ、ジョシュ! もういいよ放して。早く手当しないとジョシュが…… 」
「エリル、心配要らないよ。今、助けるからね」
 ジョシュが力を込めて私を引き上げる。ロウも手を伸ばして私を引き上げてくれた。
 そのまま床に倒れ込んだジョシュの顔は蒼白で、床にドクドクと血を流し続けている。
 ロウが素早くジョシュの襟に巻かれていたタイを抜き取り、傷口に巻き直す。
「エリル窓から離れろ! 」
 私は震える足を必死に動かして窓から距離をとった。
 何でもいいからジョシュを助ける魔法をと祈る。
 それと同時にヴィルヘルムに対して沸き起こる怒りに身を任せ、窓の外に向かって込み上げてくる熱を放った。
 目の前が白く染まり、暫くすると闇の中にぼんやりと光るヴィルヘルムの姿が浮かび上がった。
 ヴィルヘルムには魔力の攻撃は効かない。逆に魔力を吸収してしまう、その事を知ったのは全てが終わった後のことだった。
「今日はお嬢さんの代わりにこの魔力をいただいておくよ。
 お礼に私からのプレゼントだ」
 ヴィルヘルムは笑い声を響かせながら消えた。後には水晶のペンダントが残されていた。
 





















二十二.魔王

ランスさんとネイドリルが部屋に入ってきた。ランスさんがジョシュの傷の具合を確かめ、ロウと二人でベッドに運ぶ。
 血は止まっているようだった。けれど、顔面は蒼白で瞼はきつく閉じられたままだ。
 ジョシュには血が必要だ。私のせいで怪我をした。私の血でジョシュが助かるなら……。私は急いでジェスリルの元に向かった。
「ジェスリル、ジョシュが…… 」
 ジェスリルは分かっていると言う風に私の背を撫で、銀色の小箱を枕元から取り出した。
「今は私の血を与える方がいい。エリルの血は今のジョシュには強過ぎるだろう」
 ジェスリルには私がジョシュに血を与えたがっている事がお見通しだったようだ。
「ユリウス、チェルシーを呼んでおくれ」
 ジェスリルが言うと、ユリウスが静かに部屋を出て行き、すぐにチェルシーおばあちゃんと一緒に戻ってきた。
 ジェスリルが銀の小箱をチェルシーおばあちゃんに渡すと、ユリウスに見ておくように言う。
 チェルシーおばあちゃんは慣れた手つきで箱の中からガラスの瓶を取り出した。それをそっとジェスリルの首筋に当てて呪文を唱えると、ゆっくりとガラス瓶の中に赤い液体が満たされていった。
「覚えておきなさい。これは自分でやるのは良くない。チェルシーかユリウスにやって貰うんだよ。自分でやろうとすると、血の流れと魔力の流れが廻って止められなくなる事がある」
 ジェスリルはぐったりと枕に体を沈めながらも、私にそう教えてくれた。
「さっき館が揺れたのは……? 」
 気になっていた事を聞いてみると、悪意を持つ者は本来魔女の館には入れないように魔法がかけられているのだという。ところが、それより強い魔力を持った者が無理に侵入してきた為、館の魔力とぶつかって揺れが起きたのだろうということだった。
 それは取りも直さず、ヴィルヘルムの魔力がジェスリルのそれを上回っているということだ。
 ヴィルヘルムがローレンシアの姿で入ってきた時にも確かに館は揺れた。あの時気付くべきだったのだ。
 ローレンシアを偽物と見抜く事ができず、魔女の館に導き入れ、ジョシュに大怪我を負わせた。ジェスリルにも余分な魔力を使わせてしまった。全て私の落ち度だった。
「ジェスリル、ありがとう。本当にごめんなさい」
 ジェスリルの頬に口付け、チェルシーおばあちゃんとユリウスにもお礼を言った。
 ユリウスは私にジェスリルの血の入ったガラス瓶を手渡してくれながら、胸を叩いて、ジェスリルのことは任せて、と笑顔を見せた。
 ジョシュの元に戻り、無事を確認すると、ランスさんが不意に私に謝った。
「エリルさんを危険な目に合わせてしまいましたね。申し訳ありません」
「何故ランスさんが謝るんですか。ヴィルヘルムを引き入れてしまったのは私です。謝るのは私の方…… 」
 俯く私の頭に、ぽんとロウの手が乗せられた。
「最初に浜辺で見た時、おかしいと思ってたんだ。ただ、何か知っていそうだったから、わざと引き入れたんだよ。
 だから謝るのは俺たちの方だ」
「おかしいと思ってたって、何故?」
「エドガーの母というにはどう見ても若過ぎるし、逃げてきたと言う割には身なりが整い過ぎていた」
 私は驚いてロウを見上げた。
 確かにエドガー王子のお母様は十五年前に行方が分からなくなっていたのだ。その時王子は五歳だったはず。浜辺で見たローレンシア王妃は二十歳くらいに見えた。あの時感じた違和感はこれだったのだろう。
「早く教えてくれれば良かったのに」
 ロウはすまないと言って私の髪を撫でた。
 ネイドリルがそっと私の前に来て、ヴィルヘルムが置いていったペンダントを見せた。
 楕円の水晶の中で、ローレンシア王妃と思われる小さな人影がこちらを見ていた。
 そっと手を伸ばして触れてみる。
 ーー帰りたい
 そんな思いが伝わってきた。
 エドガー王子に会わせてあげたい。そう思った瞬間、水晶が弾けた。キラキラと水晶のカケラが光を反射しながら舞い降りる中に、ゆっくりと姿を現したのは、先ほどまでは指の上に乗せられる程の大きさだったローレンシア王妃だった。
 輝く蜂蜜色の長い髪に、エドガー王子によく似たグレーの瞳。
 さっきロウが言った若過ぎる姿で、ローレンシア様はそこに立っていた。またヴィルヘルムが化けていないとも限らないが、伝わってきた帰りたいという思いは、本物のローレンシア様であることの証明のような気がした。けれど、何故歳をとっていないのだろう。
 ロウはさっと私を背に庇うように立ち位置を変え、ランスさんはネイドリルを庇いながら、問いかけた。

「あなたは誰ですか?本物のローレンシア王妃なら、攫われた時のままの姿の筈がない」

 ローレンシア王妃は悲しげな表情を見せ答えた。

「助けていただきありがとうございます。
 私はアームスデン王の妻、ローレンシアです。
 ヴィルヘルムは私が年老いる事を許さず、水晶の中に閉じ込め、時を止めていたのです」
 言いながらもローレンシア様の様子が変わっていく。水晶から出たことによって、その身体が急速に時を追いかけ始めたようだった。
 美しい顔に皺が薄っすらと浮き、髪のツヤがややくすんだように見えた。
 ローレンシア様は急速な変化に眩暈を起こしたのか、額を押さえて体を傾がせた。ロウがそれを支え、長椅子に座らせる。
「十数年もの間閉じ込められていたのですか?そんな…… 」
 ヴィルヘルムの恣意によってローレンシア様の人生は大きく狂わされてしまった。エドガー王子やアームスデン王もずっと苦しんできたに違いない。
 ヴィルヘルムを許せないと思った。
 躊躇いもせずにジョシュの首に剣を刺した光景が思い出されて、目の前が赤く染まった。
 許せない。
「私に薬を渡したヴィランはヴィルヘルムよ」
 ネイドリルが私を見つめて言った。
 全ての災いの始まりがヴィルヘルムだったのだ。
 体の奥から湧き上がる熱の奔流に飲み込まれそうになる。ヴィルヘルムに対する怒りの感情が、抑えきれない程の魔力を生んでいた。
 足元から上昇する風に髪が舞う。真っ赤に染まる視界。
 ーー許せない
 一方で、これ以上進んではいけないと警鐘を鳴らす声が聞こえる。
 怒りに任せて力を放出しようとする気持ちと、そうしてはいけないと抑える気持ちが葛藤する。
「エリル! 」
 私の名前を呼んだのは、ロウ?
 両の肩を掴まれ、揺さぶられる感覚に、少しずつ視界を取り戻すと、心配そうに見つめる琥珀色の瞳がそこにあった。
 力を放出しかけていた私を現実に引き戻す。
 見渡せばランスさんもネイドリルも心配そうに私を見ていた。
 私はロウを見上げ、その琥珀色の瞳の中に何かを探し求めた。
 私はどうすればいいのだろう。
 私に何が出来るのだろう。
 焦りと不安、怒りや苦しみ、様々な感情が混ざり合い、どうしていいか分からず喘いだ。
 魔力はまだ思うように制御出来ず、このまま暴走していたら、ここにいる皆を傷付けていたかも知れず、恐怖が襲ってくる。
 縋るように見上げる私を、ロウがその腕の中に強く抱きしめた。
「心配しなくていい。俺たちがいるから」
 大丈夫、と何度も繰り返される声に、次第に熱が引いていく。
 膝から力が抜け崩折れそうになった私を抱き上げ、ロウはランスさんに声をかけた。
「エリルを休ませてくる。
 ユリウスに言って皆を休ませてくれ」
「ネイドリルはローレンシア様と話があるようなので、向かいの部屋をお借りしますよ。
 ジョシュは私が見ていますから、エリルさんについていてあげてください」
 ランスさんの声を聞くうちに私は眠りに落ちていった。自分で思う以上に体力を消耗していたらしかった。
 目を覚ますと、部屋は薄っすらと明るく、椅子に座って腕を組み、目を閉じているロウの姿が見えた。
 額に乱れて降りかかる焦げ茶の癖毛の下で、きつく寄せられた眉根が数瞬後にふっと緩み瞼が上がった。
「気がついたか?気分はどうだい?」
 優しく問いかけてくれる声はいつもの優しいロウのものだった。
「大丈夫よ。ロウ、ありがとう。心配かけてごめんなさい」
 何も言わなくても分かってくれているような気がした。
「ジェスリルが言っていたよ。
 エリルにたくさんの感情が芽生えているから、混乱しているだろうと。
 本来はゆっくり時間をかけて消化していくべきものだけど、ヴィルヘルムのこともあって急激に変化が起きたからね。魔力もまだ安定していないし、不安だろう」
 私は正直に是と頷いた。
「エリルが一人で悩む必要はない。魔力のことも、ヴィルヘルムのことも、一緒に考えよう。
 俺も、一人ではエリルを守りきれないってことが分かったよ。情けないけど、自分の力を過信し過ぎていたみたいだ。
 あの時、ヴィルヘルムに連れ去られていたらと思うと…… 」
 ロウは腕を伸ばして私を抱き寄せた。いつもは見せないロウの不安そうな表情に胸が締め付けられた。
 私もあの時のことを思い出し体が震えた。もしヴィルヘルムに連れ去られていたら、もし窓から落ちていたら、もしロウやジョシュを失っていたら……
 ロウにしがみつくようにして、その想像を振り払った。まだ大丈夫。皆ここにいる。
「今のままじゃ奴には勝てない。皆で考えるんだ。これ以上彼奴に好き勝手はさせない」
ロウの強い決意が伝わってきた。私も出来る限りの事をしよう、そう誓った。


















二十三.魔女の代替わり

 ジェスリルの寝室に私とネイドリルが呼ばれた。
 ジェスリルはベッドに半身を起こし、気怠げな様子で私達を迎えた。あまり具合はよくなさそうだった。
「二人のどちらかにこの館の主人を引き継がなければならない。
 この館が主人を失えば人間界、魔界、そして私とランスで作った新世界、この三つの世界の均衡が崩れ混乱に陥るだろう。
 まずは二人の意見を聞きたい」
 そう言ってネイドリルに目を向ける。
 ネイドリルは何度か見た無表情な顔でジェスリルを見返していたが、こくりと一つ頷いた。
「私がこの館の主人になります。エリルの方が強力な魔力を持っている。けれど、今はそれをこの館に使うべきではないわ。
 ヴィランと戦う為にエリルは自由に動けるようにしておくべきよ」
 ネイドリルはきっぱりとそう告げて私に目を移した。その目が私に同意を求めている。
 決して押し付けではない。それしか選択肢は無いのだと私にも分かっていた。
「ジェスリルは、……どうなるの? 」
 館の主人でなくなった後、ジェスリルはこのままここに居られるのだろうか。
「心配しないで。ジェスリルもあなたもここから追い出したりはしないわ」
 ネイドリルが口の端に微かな笑みを浮かべてそう言った。
「それでいいか? 」
 ジェスリルの静かな目が私に問う。
 私もその目を真摯に見つめ返して頷いた。
「皆を守りたい。その為に闘います」
 誰からともなく手を取り合い、私達は遂に魔女の館の主人の代替わりを迎えることになった。
 代替わりの儀式の前に、ネイドリルが魔女の書を返しに行くと言うので、私も一緒に地下の書庫へ降りることになった。
 そこで何故ネイドリルがその一冊を持ち出したのかを知った。
「魔女の書があれば、魔力がなくても魔法が使えるの。ここに書かれた呪文を読み上げるだけでね」
 王宮の牢から抜け出そうとしてネイドリルに会った時、魔女の書に手を置いて呪文を唱えていた姿を思い出した。
 書庫の前にたどり着き、扉の前で足をとめると、ネイドリルはあの時のように左腕に抱えた魔女の書に右の手を置いて呪文を唱え始めた。
 何をしようとしているのかとじっと見守る私に、呪文を唱え終わったネイドリルが、寂しげな微笑みを見せて、小さく謝った。
「ごめんなさい、エリル…… 」
 何が、と問い返す間もなく視界がゆらゆらと揺れ、立っていられなくなった。急速に不安が押し寄せる。ネイドリルは何をしようとしているの?
「あなたは私なの。……私の魔力を返して」
 その言葉を最後に意識が途絶えた。


 エリルが魔力を解放してしまった今、最早自分の中にその力を取り戻すことは出来ないと諦めた。
 しかし、ヴィルヘルムはエリルの放った魔力を己の中に取り込んだ。
 それならば、私にもまだ魔力を取り戻す方法はある。慌てて魔女の書を捲った。呪文を頭に刻み込み、エリルと二人になれる機会を待った。
 一時は諦めかけていた復讐を、ヴィルヘルムを目の前にして、再びその炎が燃え上がるのを感じた。人間の王ではなく、ヴィルヘルムに対しての憎しみだった。
 優しさから生まれたエリルに、たとえヴィランと言えども誰かを傷付けることなどできはしないだろう。私がやらなければ。ジェスリルも急速に衰え始めている。時間が無かった。
 意識を失ったエリルをその場に横たえ、胸に右手を置き、床に置いた魔女の書に左手を添える。
 準備は整った。後は呪文を唱えれば、エリルの魔力が自分の中に流れ込んでくる。
 呪文を口に載せると、右手から熱を感じた。反対に床についていた足から急速に熱が奪われていくような感じがした。次第に震えが止まらなくなってくる。右手は燃えるように熱く、足は氷のように冷たい。魔力が体に入るのを拒絶しているかのようだった。
 何かがおかしい。何か別の魔力が邪魔をしている。そう感じた時に視界の端で何かが光を放つのが見えた。
 濃紺のワンピースの裾に水晶のカケラが付いていた。そのカケラが点滅を繰り返す。
 ヴィルヘルムだ!
 まずい、止めなければ。
 ヴィルヘルムは私がエリルの魔力を奪おうとする事を見越して、罠を仕掛けていたのだ。
 私が吸い上げた魔力をヴィルヘルムが横取りしている!
 「何をしている?? 」
 鋭い声が飛んできたかと思うと、強い力で弾き飛ばされ、ドアに背中が勢いよくぶつかった。痛みに意識が遠のく。
 銀色の毛が視界を遮った。
 魔法が完全に断ち切られるのを感じてほっとしたのもつかの間、ワンピースの胸元をぐいっと掴み上げられ息がつまる。
「エリルに何をした」
 人の姿になった人狼の青年が、琥珀の瞳を怒りに滾らせ睨みつけてきた。
「エリルに、……戦うことなど、出来ない。私が、……ヴィルヘルムを、倒す」
 苦しい息で必死に言い返せば、少し首元が緩められた。
「お前一人で勝てる相手じゃない」
 人狼の言う通りだ。今もまんまと罠に嵌った。悔しさに涙が溢れた。
 人狼は私から手を離し、エリルをその腕に抱き上げた。私を掴み上げた時とは違って優しい手つきで、宝物を扱うように。それを見ていて感じた。エリルはもう私とは全く別の存在であることを。
「……ごめん、なさい」
「一緒に戦う気があるなら、二度とこんなことはするな」
 人狼の声は優しく耳朶を打った。




 目が覚め、ロウから経緯を聞いた私は、改めてネイドリルを見た。
 裏切られたのではない。私の代わりにヴィルヘルムと戦おうとしただけだ。
 ネイドリルにとって私は彼女の一部だったのだから、失ったものを取り戻そうとしただけ。
 何も言わないネイドリルの代わりに、自分を納得させるだけの言葉を思い描いてみる。きっと合っているはずだ。
 そして今は、私とネイドリルが別々の心を持った存在だと理解している。
 私達は双子のような存在だと思う。姿形は同じでも、全く別の生を生きている。
 それでも分かり合える部分もある。
 ネイドリルは今度こそ魔女の書を書庫に戻し、私達と一緒に戦う事を約束してくれた。
 書庫には厳重な封印を施すことになった。方法をジェスリルに教えられ、私が封印することになった。
「エリル、何度も怖い目にあって辛いでしょ?それなのにまだ血が必要だなんて…… 」
 ユリウスは気が進まないようだったけれど、書庫を封印する事は必要だ。私も少しずつ魔法の使い方を覚えていかなければならない。
「大丈夫よ。皆がいるもの。……ユリウス、お願い」
 意を決して袖を捲り、ユリウスの方へ腕を差し出した。ユリウスは溜息をつき、ガラス管を手に取った。
 ユリウスが私の腕からガラス管に血を抜き取り、数回それを振ると液状だったものが固まり、チョークのようになった。
 それを手に取り、書庫の扉に魔法陣を描く。完成した魔法陣は、光を放って吸い込まれるように消えた。
 これでここから魔女の書を持ち出すことは出来ないはずだ。
 代替わりの儀式も、そう難しいものではなかった。ネイドリルが私から魔力を奪おうとした為、ネイドリルに代替わりさせることをロウとジョシュ、ユリウスは反対したが、私の気持ちは変わらなかった。ネイドリルも償いの意味でもこの館を守る事を誓ってくれたし、早くジェスリルの負担を減らしてあげたかった。
 魔女の館の魔力がジェスリルのものから、ネイドリルのものへと書き換えられていく。
 三百年の間この館に留まっていたジェスリルに遂に自由が訪れた。
 ベッドに横たわるジェスリルの胸元で一つに束ねられた髪に、白いものが混ざっているのが見えた。
「始まりのあるものには、いつか必ず終わりがくる。終わりがあるからこそ、人は生きられる。魔女も同じだよ」
 穏やかな微笑みを浮かべた美しい魔女の姿が私の胸に刻み込まれた。

 
 ローレンシア様を王宮まで送り届ける為に、ランスさんとロウと私は薬屋へ続く扉の前に立った。すると向こう側から扉が開き、チェルシーおばあちゃんが顔を出した。
「あぁ、エリル。今は店に出ない方がいいよ。おかしな客が居座ってるんだよ。いい若い者が、困ったもんだねぇ」
 チェルシーおばあちゃんの肩ごしに店の中を覗き込めば、そこにいた人物と目があった。
 狭いカウンターの椅子に長い足を窮屈そうに組んで頬杖をつき、イライラとテーブルで指をコツコツと鳴らしている。
 私と目があった途端に椅子から飛び降りるようにして扉まで来ると、慌てるチェルシーおばあちゃんの頭上で扉に手をかけ、引き開けた。
「エリル!何故エリルがここにいる!? 」
 エドガー王子だった。王宮で見た時のような豪華な装飾の施された立派な服装ではなく、白いシャツに黒いズボンだけの簡素な姿で、髪もくしゃりとかき混ぜたような、王子様らしからぬ姿に一瞬誰だか分からなかった。
「エドガー王子こそどうして? 」
「ネイドリルを見張っていたら、この店に入って行って出てこなくなったんだ。お前はどうしてここにいる? 」
 エドガー王子にネイドリルが早まった事をしないよう見張って貰っていた事を思い出し得心した。
 ネイドリルは霊廟の地下の扉の鍵を持っていない為に、ここから魔女の館に来たのだろう。
「そうか、ここが魔女の館なのか? 」
 鋭い王子は私の答えを待たずにそう見抜いたようだ。
 私の後から姿を見せたランスさんに詰め寄っている。
 その様子を見ていたローレンシア様がエドガー王子の名前を呼んだ。
 エドガー王子はローレンシア様を見ると、その姿にゆっくりと目を見開いた。
 誰だか分かったのだろう。
「あなたは……、まさか、そんな筈は…… 」
 ローレンシア様はゆっくりとエドガー王子に近づき、背の高いエドガー王子の頬に手を伸ばした。
「大きく、なったのね」
 ローレンシア様の頬にはらりと涙が溢れる。
 エドガー王子はまだ信じられないというように、ローレンシア様に目を止めたままランスさんを呼ぶ。
「ランス、どういう事だ?? 説明しろ」
 ランスさんは苦笑しながらも簡単に事情を説明すると、私のおかげだと付け加えた。
「私は何もっ…… 」
 何もしていないと言おうとしたのに、最後まで聞かずに王子は私を抱きしめた。
「ありがとう、エリル。どんなに感謝してもしきれないよ」
 嬉しそうな王子の姿に私も幸せな気持ちに満たされた。
ここのところ大変な事ばかりだったので余計に嬉しく感じて、思わず嬉し涙がこぼれる。
 それを見た王子も破顔し私を高く持ち上げた。驚く私を振り回しそうな勢いに、横からロウが腕を伸ばして私を抱き取る。
 睨み合う二人をローレンシア様が可笑しそうに見ていた。
































 二十四.魔女の書

「エドガー王子、直ぐに王宮にお戻りください。火急の事態です」
 店に飛び込んできた兵士は、王宮に魔物が現れた事を私達に告げた。
 エドガー王子は一刻も早く王宮に戻らなければならない為、ランスさんの案内で霊廟へ通じる扉を使うことになった。
 霊廟に入ると王子は私達に一旦そこで待つよう言い置いて、兵士と共に王宮へ向かった。
 ランスさんとロウは私とローレンシア様を守る為に霊廟に残っている。
 十数年ぶりに帰ってこられたというのに、王子とゆっくり話す間も無いローレンシア様がお気の毒だった。
 それでもローレンシア様は落ち着いた様子で、私達の為に自らお茶を用意してくださり、ランスさんからエドガー王子の話を聞いたりして、不安な様子を見せることも無かった。
 窓から外を伺えば、黒い雲が立ち込めている。やがて雨音が聞こえ始めた。
 私は窓際に立って外を眺めていたが、王宮の様子が気になってしまい落ち着かない。
 それを察したロウが、様子を見に行こうと立ち上がった。その時、降りしきる雨の中を一人の兵士が駆け込んで来るのが見えた。
「お逃げください!王宮内は既に壊滅状態です」
 皆が一斉に息を飲んだ。
 ランスさんが詳しく話すよう言っても、兵士はただ一刻も早くと伝令に出されただけのようで、まるで中の様子が分からなかった。
「仕方ありませんね。鏡を使いましょう」
 ランスさんはそう言うと、大きな深皿に水を湛えた物を持ってきた。
 呪文を唱えると、水面に見たい場所の景色が映し出される。ジェスリルもよく水鏡を使っていたので見慣れた魔法だった。
 覗き込めばそこにエドガー王子の姿が浮かび上がった。その目にはいつもの力強さが無く、だらりと下がった腕には血濡れた剣を握っている。王子の前に倒れている人影は、胸から血を流しており、生きているのかどうかそこからは判別出来なかった。
 足元に転がる王冠、玉座にはそこに座るべきはずの王ではない、別の誰かがいる。
 ローレンシア様が小さく悲鳴をあげた。
 倒れているのはアームスデン王だろうか。その状況だけを見れば、そんな筈はないが、王を刺したのはエドガー王子、というようにも見えてしまう。
 そして玉座にいるのは紛れも無い、ーーヴィルヘルムだった。
 酷薄な笑みを浮かべて、王と王子を見下ろしている。
 魔女の館で見た時よりも近寄りがたいような禍々しさを増しているように思えた。そして、まるで私達を手のひらで踊らせて楽しんでいるかのようだ。
 エドガー王子は水鏡の中で狂ったように剣を振り回したかと思うと、立ちすくみ、両手で剣を逆手に握り直した。
 振り上げた剣の鋒はエドガー王子自身に向けられていた。
 その手を振り下ろせば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。
 ヴィルヘルムに操られているのかもしれない。私はそれ以上考える余裕は無く、ただエドガー王子を助けに行かなければ、と強く願った。私の中にある魔力は私の強い願いに呼応して力を発揮する。
 次の瞬間、目の前にエドガー王子がいた。
 驚きに目を見張る王子の顔が、直ぐ至近距離で私を見ていた。
 私は背中に衝撃を感じてよろめいた。痛みなのか熱なのか、体を突き抜けるようなそれが、剣により貫かれたものだと理解するのに、少し時間がかかった。
 エドガー王子の腕の中に転移した私は、王子が自身に向けて振り下ろした剣を、自分の身に受けたようだった。
 ほっとして力が抜けた。
 エドガー王子が呼びかける声が聞こえたが、答えることが出来ず目を閉じた。酷く寒かった。
 いつも誰かに守られてきた私は、こんな痛みを感じたことはなかった。でも恐ろしさは不思議と感じていなかった。
 帰りたい、魔女の館に……
 そんな願いが胸に去来する。
 まだ何も終わっていない。まだ帰れない。でも今は……
 最期の力で私はヴィルヘルムからエドガー王子と皆を守る方法を考えていた。
 ほんの一瞬だったか、或いは数時間だったのか、空から魔女の書が無数に舞い降りて来る幻を見ていた。何代もの魔女の歴史の中に、その方法がある。答えを探して流れこんでくる膨大な記憶の断片を見ていた。
 キラリと光るカケラから魔法陣が広がる。
 私の体から流れ出す血が、その魔法陣を染め上げていき、やがて王宮を包み込むほどの大きさになった。
 ヴィルヘルムを封印する為の魔法陣だ。
 私がネイドリルの優しさや良心から生まれた存在であるように、ヴィルヘルムは誰かの悪意から生まれた存在だった。
 ヴィルヘルムを消すことは出来ない。
 殺そうとする悪意こそがヴィルヘルムの存在そのものだからだ。
 歴代の魔女は封印によってその存在を閉じ込めてきた。
 数々の戦争、疫病、飢饉といったものをもたらすヴィルヘルムを魔力の続く限り抑え込む。それが私達魔女の役目だ。
 私の血の全てをかけてこの役目を終えなければならない。
 魔女の書がそう私に語りかける。
 白い輝きを放つ魔法陣の中で、私とヴィルヘルム、二人だけが立っていた。
「また私を閉じ込めるのか? 」
 ヴィルヘルムの声は怒りと諦め、悲しみ、孤独、そんな思いを伴って私の耳に届いた。
 これまでに何度となく封印されてきた事で、これからどうなるのか分かっているようだ。
「あなたのした事が大勢の人の悲しみや怒りを生んでいる。このままにしておけない」
「私とお前が一緒になればどうだ?私が悪さをしないようにお前が見張ればいい。
 もう、一人で閉じ込められるのは嫌だ」
「一緒になるってどういうこと?」
「二つの心を持つ一つの存在になるのさ。私たちの力を合わせれば何だって出来る。
 この世界を人間と魔物が共存出来るようにする事だって容易い。どうだ?」
「…… 」
「私をお前の中に入れてくれよ。一人で閉じ込められるよりは、お前の中にいる方がいい」
 魔法陣によってヴィルヘルムの力はどんどん吸い取られていく。
 その姿は次第に小さくなっていき、子どものようになった。
 ヴィルヘルムは赤い髪を振り乱しながら私に手を伸ばす。
「助けてくれ! 」
 魔女の書が見せた記憶に中には、同じように助けを求められる場面もあった。けれど、ヴィルヘルムは助けた魔女を食い破り、再び悪意の塊となって君臨する。
 受け入れた魔女の心の中にも、必ず悪意は存在する。そこにヴィルヘルムは付け入る。
 助けられるものなら助けたい。
 けれど、ここで私がヴィルヘルムに支配されてしまえば、その後に起きる惨劇は想像に難く無い。
「あなたの中にも他の感情が芽生えるといいのに…… 」
 私がヴィルヘルムを制することができないなら、ヴィルヘルム自身が変わるしかない。
 そうしている間にもヴィルヘルムは小さくなっていき、遂に小さな黒い珠となった。
 魔法陣は消え、空中に浮いていた私の体は落下していく。
 黒い珠も一緒に落ちていく。私はそれを手に掴んだ。
 せめてこれから先、私の生きる生をヴィルヘルムに見せてあげよう。美しく優しいものを、この黒い珠が虹色に輝くまで注ぎ続けよう。
 ゆっくりと落ちていた体が受け止められた。見上げればそこにロウの琥珀色の瞳がある。
 あぁ帰ってきた、そう思えた。
 私が帰りたい場所はロウのいる場所だった。
 辺りを見回せば、アームスデン王の傍らにはローレンシア様とエドガー王子がいる。二人の様子から王は助かったようだ。
 ランスさんも兵士達を治療して回っている。
 エドガー王子が私に気付き駆け寄ってきた。
「エリル…… 」
 エドガー王子は声を詰まらせた。その瞳に後悔や心配、自責の念といったような様々な感情が浮かび、どうしていいか分からないようだった。
「……良かった」
 体に力が入らず、言葉に出来たのはそれだけだった。それでもエドガー王子には伝わったようだ。王子の頬に涙が一筋流れた。
「……ありがとう」
 絞り出すような声で言って、私の手をとりそこに口付けを落とす。ローレンシア様も私に礼を執ってくださった。
「魔女の館に帰ろう」
 ロウの言葉に頷き、私はエドガー王子達に別れの挨拶をした。
 また魔女の館で平穏な暮らしを送ろう。
 一日一日を大切にしながら。


 エドガー王子から私への求婚の手紙と夜会への招待状が、薬屋に毎日のように届けられるようになった。
 ロウはすかさず破り捨てている。
 ジョシュも前にも増して頻繁に魔女の館を訪れている。
 毎日が賑やかだった。
 私とネイドリルは姉妹のように一緒に本を読んだり、チェルシーおばあちゃんに料理を習ったりしている。
 ジェスリルは旅に出た。
 今まで出来なかった事をするのだと、楽しげに魔女の館を後にした。
 ユリウスはチェルシーおばあちゃんに薬の作り方を習いながら、魔女の館で暮らしている。
 ランスさんはエドガー王子の補佐をしながら、新世界に逃れた人たちを人間界に戻す為に働いている。
 私の首にはヴィルヘルムを封印した黒い珠がペンダントとして下げられている。
 ヴィルヘルムはここから見ているだろう。この美しく輝く世界を。


<了>

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