二十三.魔女の代替わり
ジェスリルの寝室に私とネイドリルが呼ばれた。
ジェスリルはベッドに半身を起こし、気怠げな様子で私達を迎えた。あまり具合はよくなさそうだった。
「二人のどちらかにこの館の主人を引き継がなければならない。
この館が主人を失えば人間界、魔界、そして私とランスで作った新世界、この三つの世界の均衡が崩れ混乱に陥るだろう。
まずは二人の意見を聞きたい」
そう言ってネイドリルに目を向ける。
ネイドリルは何度か見た無表情な顔でジェスリルを見返していたが、こくりと一つ頷いた。
「私がこの館の主人になります。エリルの方が強力な魔力を持っている。けれど、今はそれをこの館に使うべきではないわ。
ヴィランと戦う為にエリルは自由に動けるようにしておくべきよ」
ネイドリルはきっぱりとそう告げて私に目を移した。その目が私に同意を求めている。
決して押し付けではない。それしか選択肢は無いのだと私にも分かっていた。
「ジェスリルは、……どうなるの? 」
館の主人でなくなった後、ジェスリルはこのままここに居られるのだろうか。
「心配しないで。ジェスリルもあなたもここから追い出したりはしないわ」
ネイドリルが口の端に微かな笑みを浮かべてそう言った。
「それでいいか? 」
ジェスリルの静かな目が私に問う。
私もその目を真摯に見つめ返して頷いた。
「皆を守りたい。その為に闘います」
誰からともなく手を取り合い、私達は遂に魔女の館の主人の代替わりを迎えることになった。
代替わりの儀式の前に、ネイドリルが魔女の書を返しに行くと言うので、私も一緒に地下の書庫へ降りることになった。
そこで何故ネイドリルがその一冊を持ち出したのかを知った。
「魔女の書があれば、魔力がなくても魔法が使えるの。ここに書かれた呪文を読み上げるだけでね」
王宮の牢から抜け出そうとしてネイドリルに会った時、魔女の書に手を置いて呪文を唱えていた姿を思い出した。
書庫の前にたどり着き、扉の前で足をとめると、ネイドリルはあの時のように左腕に抱えた魔女の書に右の手を置いて呪文を唱え始めた。
何をしようとしているのかとじっと見守る私に、呪文を唱え終わったネイドリルが、寂しげな微笑みを見せて、小さく謝った。
「ごめんなさい、エリル…… 」
何が、と問い返す間もなく視界がゆらゆらと揺れ、立っていられなくなった。急速に不安が押し寄せる。ネイドリルは何をしようとしているの?
「あなたは私なの。……私の魔力を返して」
その言葉を最後に意識が途絶えた。
エリルが魔力を解放してしまった今、最早自分の中にその力を取り戻すことは出来ないと諦めた。
しかし、ヴィルヘルムはエリルの放った魔力を己の中に取り込んだ。
それならば、私にもまだ魔力を取り戻す方法はある。慌てて魔女の書を捲った。呪文を頭に刻み込み、エリルと二人になれる機会を待った。
一時は諦めかけていた復讐を、ヴィルヘルムを目の前にして、再びその炎が燃え上がるのを感じた。人間の王ではなく、ヴィルヘルムに対しての憎しみだった。
優しさから生まれたエリルに、たとえヴィランと言えども誰かを傷付けることなどできはしないだろう。私がやらなければ。ジェスリルも急速に衰え始めている。時間が無かった。
意識を失ったエリルをその場に横たえ、胸に右手を置き、床に置いた魔女の書に左手を添える。
準備は整った。後は呪文を唱えれば、エリルの魔力が自分の中に流れ込んでくる。
呪文を口に載せると、右手から熱を感じた。反対に床についていた足から急速に熱が奪われていくような感じがした。次第に震えが止まらなくなってくる。右手は燃えるように熱く、足は氷のように冷たい。魔力が体に入るのを拒絶しているかのようだった。
何かがおかしい。何か別の魔力が邪魔をしている。そう感じた時に視界の端で何かが光を放つのが見えた。
濃紺のワンピースの裾に水晶のカケラが付いていた。そのカケラが点滅を繰り返す。
ヴィルヘルムだ!
まずい、止めなければ。
ヴィルヘルムは私がエリルの魔力を奪おうとする事を見越して、罠を仕掛けていたのだ。
私が吸い上げた魔力をヴィルヘルムが横取りしている!
「何をしている?? 」
鋭い声が飛んできたかと思うと、強い力で弾き飛ばされ、ドアに背中が勢いよくぶつかった。痛みに意識が遠のく。
銀色の毛が視界を遮った。
魔法が完全に断ち切られるのを感じてほっとしたのもつかの間、ワンピースの胸元をぐいっと掴み上げられ息がつまる。
「エリルに何をした」
人の姿になった人狼の青年が、琥珀の瞳を怒りに滾らせ睨みつけてきた。
「エリルに、……戦うことなど、出来ない。私が、……ヴィルヘルムを、倒す」
苦しい息で必死に言い返せば、少し首元が緩められた。
「お前一人で勝てる相手じゃない」
人狼の言う通りだ。今もまんまと罠に嵌った。悔しさに涙が溢れた。
人狼は私から手を離し、エリルをその腕に抱き上げた。私を掴み上げた時とは違って優しい手つきで、宝物を扱うように。それを見ていて感じた。エリルはもう私とは全く別の存在であることを。
「……ごめん、なさい」
「一緒に戦う気があるなら、二度とこんなことはするな」
人狼の声は優しく耳朶を打った。
目が覚め、ロウから経緯を聞いた私は、改めてネイドリルを見た。
裏切られたのではない。私の代わりにヴィルヘルムと戦おうとしただけだ。
ネイドリルにとって私は彼女の一部だったのだから、失ったものを取り戻そうとしただけ。
何も言わないネイドリルの代わりに、自分を納得させるだけの言葉を思い描いてみる。きっと合っているはずだ。
そして今は、私とネイドリルが別々の心を持った存在だと理解している。
私達は双子のような存在だと思う。姿形は同じでも、全く別の生を生きている。
それでも分かり合える部分もある。
ネイドリルは今度こそ魔女の書を書庫に戻し、私達と一緒に戦う事を約束してくれた。
書庫には厳重な封印を施すことになった。方法をジェスリルに教えられ、私が封印することになった。
「エリル、何度も怖い目にあって辛いでしょ?それなのにまだ血が必要だなんて…… 」
ユリウスは気が進まないようだったけれど、書庫を封印する事は必要だ。私も少しずつ魔法の使い方を覚えていかなければならない。
「大丈夫よ。皆がいるもの。……ユリウス、お願い」
意を決して袖を捲り、ユリウスの方へ腕を差し出した。ユリウスは溜息をつき、ガラス管を手に取った。
ユリウスが私の腕からガラス管に血を抜き取り、数回それを振ると液状だったものが固まり、チョークのようになった。
それを手に取り、書庫の扉に魔法陣を描く。完成した魔法陣は、光を放って吸い込まれるように消えた。
これでここから魔女の書を持ち出すことは出来ないはずだ。
代替わりの儀式も、そう難しいものではなかった。ネイドリルが私から魔力を奪おうとした為、ネイドリルに代替わりさせることをロウとジョシュ、ユリウスは反対したが、私の気持ちは変わらなかった。ネイドリルも償いの意味でもこの館を守る事を誓ってくれたし、早くジェスリルの負担を減らしてあげたかった。
魔女の館の魔力がジェスリルのものから、ネイドリルのものへと書き換えられていく。
三百年の間この館に留まっていたジェスリルに遂に自由が訪れた。
ベッドに横たわるジェスリルの胸元で一つに束ねられた髪に、白いものが混ざっているのが見えた。
「始まりのあるものには、いつか必ず終わりがくる。終わりがあるからこそ、人は生きられる。魔女も同じだよ」
穏やかな微笑みを浮かべた美しい魔女の姿が私の胸に刻み込まれた。
ローレンシア様を王宮まで送り届ける為に、ランスさんとロウと私は薬屋へ続く扉の前に立った。すると向こう側から扉が開き、チェルシーおばあちゃんが顔を出した。
「あぁ、エリル。今は店に出ない方がいいよ。おかしな客が居座ってるんだよ。いい若い者が、困ったもんだねぇ」
チェルシーおばあちゃんの肩ごしに店の中を覗き込めば、そこにいた人物と目があった。
狭いカウンターの椅子に長い足を窮屈そうに組んで頬杖をつき、イライラとテーブルで指をコツコツと鳴らしている。
私と目があった途端に椅子から飛び降りるようにして扉まで来ると、慌てるチェルシーおばあちゃんの頭上で扉に手をかけ、引き開けた。
「エリル!何故エリルがここにいる!? 」
エドガー王子だった。王宮で見た時のような豪華な装飾の施された立派な服装ではなく、白いシャツに黒いズボンだけの簡素な姿で、髪もくしゃりとかき混ぜたような、王子様らしからぬ姿に一瞬誰だか分からなかった。
「エドガー王子こそどうして? 」
「ネイドリルを見張っていたら、この店に入って行って出てこなくなったんだ。お前はどうしてここにいる? 」
エドガー王子にネイドリルが早まった事をしないよう見張って貰っていた事を思い出し得心した。
ネイドリルは霊廟の地下の扉の鍵を持っていない為に、ここから魔女の館に来たのだろう。
「そうか、ここが魔女の館なのか? 」
鋭い王子は私の答えを待たずにそう見抜いたようだ。
私の後から姿を見せたランスさんに詰め寄っている。
その様子を見ていたローレンシア様がエドガー王子の名前を呼んだ。
エドガー王子はローレンシア様を見ると、その姿にゆっくりと目を見開いた。
誰だか分かったのだろう。
「あなたは……、まさか、そんな筈は…… 」
ローレンシア様はゆっくりとエドガー王子に近づき、背の高いエドガー王子の頬に手を伸ばした。
「大きく、なったのね」
ローレンシア様の頬にはらりと涙が溢れる。
エドガー王子はまだ信じられないというように、ローレンシア様に目を止めたままランスさんを呼ぶ。
「ランス、どういう事だ?? 説明しろ」
ランスさんは苦笑しながらも簡単に事情を説明すると、私のおかげだと付け加えた。
「私は何もっ…… 」
何もしていないと言おうとしたのに、最後まで聞かずに王子は私を抱きしめた。
「ありがとう、エリル。どんなに感謝してもしきれないよ」
嬉しそうな王子の姿に私も幸せな気持ちに満たされた。
ここのところ大変な事ばかりだったので余計に嬉しく感じて、思わず嬉し涙がこぼれる。
それを見た王子も破顔し私を高く持ち上げた。驚く私を振り回しそうな勢いに、横からロウが腕を伸ばして私を抱き取る。
睨み合う二人をローレンシア様が可笑しそうに見ていた。