「ねぇ。最近噂になってる不思議な郵便局の話、知ってる?」
夜空にぽっかりと浮かぶ月を見上げながら、髪の短い女が思い出したように口を開いた。
「不思議な郵便局? 何それ?」
「都市伝説の一種なんだけどね、夜にしか行けないちょっと変わった郵便局があるらしいの」
「夜? ……まぁ遅い時間に営業してるのは確かに珍しいけどさ、騒ぐほどじゃなくない? それのどこが都市伝説なわけ?」
隣を歩いていたもう一人の女が怪訝そうな顔で聞く。
「その郵便局はね、届けたい相手が何処の誰であろうと、必ず手紙を届けてくれるんだって」
「は? そりゃそうでしょ。だってそれが郵便局の仕事じゃん」
「いやいや違うんだって! 相手が何処の誰であろうと必ず届けてくれるんだってば!」
「……どういう事?」
女は眉間にぐっとシワを寄せて言った。
「つまりね、受取人・差出人が例えこの世ならざる者であろうと、その郵便局から手紙を出せば届けたい相手に絶対届けてくれるってこと!! あ、この世ならざる者ってのは簡単に言えば幽霊とか妖怪とか宇宙人みたいな奴ね。もちろん人間もオッケーだけど!」
「えー何それ。うっそくさー」
顔を顰める彼女を余所に、髪の短い女は得意げな表情をして更に言葉を続けた。
「〝御入用の方はどうか月にお祈りください。さすれば、月の光があなたを此処まで案内してくれるでしょう〟」
「……は?」
「郵便局に行けるおまじない。その郵便局はね、強い想いを持った人しか行けないんだって。だから届けたいものがある人はまず月に祈るの。その気持ちが本物だって認められたら、月の光が案内してくれるらしいわ」
「月の光?」
「うん。細く長く伸びる光を辿って行くとね、いつの間にか目的の郵便局に着いてるんだって。そこは特別な空間で、色んな場所に通じてるらしいの。だから手紙や荷物が届けたい相手に必ず届けられるってわけ! すごくない?」
「うわ……ますます胡散臭い」
「え~? いかにも都市伝説って感じでいいじゃんか!」
二人はゆっくり歩みを進める。
「……で? その郵便局はなんていう名前なの?」
「あれ? あれあれ~? あんた散々文句言ってたくせに興味あんの?」
「う、うるさいな! ちょっと気になっただけじゃない!」
からかわれた彼女は顔を赤くして反論した。ケタケタという笑い声をかき消すように先を促す。
「で!! なんていう名前なのよ!」
「えっとそれが……」
髪の短い女はすっと目をそらすと、ばつが悪そうに言った。
「……実はちょっとど忘れしちゃって」
「はあ!?」
「ええと……なんだったかな。確かつ……つ……」
「ちょっと!! なんで肝心なとこ忘れてんのよ!!」
「だって~!」
夜の空と同じ、濃紺色の着流しに身を包んだ背の高い男が、楽しそうに会話を続ける彼女たちとすれ違った。
彼は空に浮かぶまるい月を見上げて歩みを止めると、ぽつり。独り言のように呟く。
「月の光に祈る者よ。抱えきれないその想い、届けたいというならば……」
──来たれよ、月野郵便局へ。
月の光がやけに眩しい、そんな夜のことだった。
大正浪漫を彷彿させる木造二階建ての擬洋館。入口の出っ張った小屋根は三角破風の瓦屋根で、ガラスがはめられた木製扉が特徴的だ。すぐ隣には丸くて縦長の真っ赤なポストが、自分の出番を待っているかのようにちょこんと置かれている。
そんな趣のある建物の前で、呆然と立ち尽くす一人の男。
食い入るように見つめていた『準備中』というプレートからようやく目を離すと、落ち込んだようにがっくりと肩を落とした。
「……やっぱりあの噂は嘘だったのだろうか」
私のようなモノが存在しているのだから、少し期待して来たんだけどな。
自嘲気味に独り言を吐いて、男は右手に持っていた箱に視線を移す。それは、プレゼント用に個装された小さなギフトボックスだった。
……どうしようかなぁ、これ。
男は眉尻を下げ、力無さげにもう一度目の前の建物を見つめた。
──その時。
「あれ? まだ開いてないんスか?」
背後から誰かの声が聞こえてきて、驚いた拍子にビクリと肩が跳ね上がった。
慌てて振り返ると、そこには白地のシャツに細身のパンツを穿いた青年が立っていた。前ボタンを三つほど開けた首元からは金色のネックレスが丸見えだ。指通りの良さそうな銀色の髪が、青白い月の光を浴びてキラキラと輝いている。年齢は二十代前半といった所だろうか。……なんていうか、チャラい。ホストクラブが似合いそうな男だった。
彼は鋭くつり上がった目を細め、品定めでもするように顎に手を当ててこちらを眺めている。なんだか居心地が悪くなって、逃げるように顔をそらした。
「お兄さん、もしかしなくてもお客さん?」
その一言で慌てて顔を元に戻すと、こちらを見続けていたらしい切れ長のつり目と視線がぶつかる。男はごくりと生唾を飲むと、小さく口を開いた。
「あ……あの。ここは月野郵便局で合ってるんでしょうか? 噂を聞いて探していたらここに辿り着いたんですけど……」
ホストのような彼は何も言わない。代わりにニコリと胡散臭い笑みを顔に浮かべると、銀髪を靡なびかせながら建物に向かって歩き出した。
入口にぶら下げられた木のプレートを慣れた手付きで裏返して『営業中』にすると、ポケットからキーケースを取り出して鍵穴に差し込む。カチャリという小さな音がして、木製の扉は簡単に開いた。
「オ〜プ〜ン!! じゃ、行きましょっか! あ、緊張しなくても大丈夫ッスよ。うちは安心・安全の誠実なお店ッスから!」
三日月のように細くなった目を見て、思わず眉間に力が入った。……怪しすぎる。なんだ? 彼はホストじゃなくて詐欺師なのか? 不安でいっぱいになっている男の様子など気にも留めず、彼は颯爽と中に入って行く。
戸惑いながらも、男はその薄っぺらい背中を追う事にした。頭の後ろでゆるく結ばれた長い銀髪が歩くたびにちょこちょこ揺れるのが目に入る。まるで猫の尻尾のようだった。
「ちょっとここで待ってて下さいね。あ、そこのソファーとか適当に座ってて良いんで。ごゆっくり〜!」
相変わらず胡散臭い笑顔でそれだけ言うと、彼は奥の扉へと消えてしまった。
言われた通り近くのソファーに腰を下ろす。自分の口からは自然とため息のようなものがこぼれ落ちた。
……果たして、ここは本当に月野郵便局で合ってるのだろうか。
男の胸にぐるぐると不安が渦巻いた。もしここが月野郵便局じゃなく、怪しい宗教団体の本部や詐欺グループの隠家とかだったらどうしよう。ホストのようにも詐欺師のようにも見える彼は結局答えをくれないままだし。
なんだか落ち着かなくなって、ぐるりと辺りを見回してみる。
目の前には窓口のようなカウンターがあり、その奥には先ほど彼が入って行った焦げ茶色の扉があった。
自分を含め三人が座れるか座れないかほどの小さなソファーの横には、観葉植物を植えた白いプランターが飾られている。緑の葉っぱが上に向かって元気よく伸びていた。
少々狭い感じもするが、室内の様子を見る限り郵便局のような造りをしている。そういえば外に赤いポストもあったしな。
ほっとしたのも束の間、男はふるふると首を横に振った。いやいや待てよ。仮にちゃんとした郵便局だとしても、ここが噂の月野郵便局なのかは確かめようがないじゃないか。第一、あんな胡散臭い男が働いてるなんて怪しすぎる。
何か手掛かりはないだろうかとキョロキョロしていると、男の心情とは裏腹な明るい話し声が扉の奥から聞こえてきたので思わず耳を澄ませる。
「てか月さん、また表のプレートひっくり返すの忘れてたっしょ〜? ずっと準備中のままになってたからお客さんめっちゃ困ってましたよ?」
「いやぁ、申し訳ない。折り紙で七夕飾りを作ってたらすっかり夢中になっちゃって。反省してます」
「オレは別に良いッスけど、お客さんにはちゃんと謝って下さいね」
「もちろん。きちんと謝罪するつもりだよ」
「でもま、宇佐美さんにバレる前で良かったッスね。もしバレてたら月さんめちゃくちゃ怒られてましたよ」
「……はははは。…………うん」
カチャリと音をたてながら扉が開いた。入ってきたのはさっきの銀髪ホストと、もう一人。
夜の暗い空をそのまま染め上げたような濃紺色の着流しを身に付けた、背の高い華奢な男。病的なまでに青白い肌の色が、着流しの濃紺のせいで余計に目立って見える。年齢は二十代半ばぐらいだろうか。
黒髪のふわふわな猫っ毛、タレ目がちな二重まぶたにやわらかい口調も相まって、儚げだが人の良さそうな印象を受けた。……彼は一体誰だろう。
「あ、月さんあの人です」
銀髪ホストがこちらを指差す。ソファーから立ち上がって軽く会釈すると、着流しの男は申し訳なさそうに口を開いた。
「お待たせしてしまって申し訳ございません。僕は月野郵便局の局長を務めている月野十五と申します」
〝月野郵便局〟
その名前を耳にして男はようやく胸をなでおろした。どうやらここは探していた月野郵便局で間違いないらしい。ああ……良かった。
「こちらの彼は七尾くん。コミュニケーション能力の高さが自慢の、何でもこなせるハイスペックなうちのイケメン配達員です」
「ハーイ! ご紹介通りハイスペックなイケメン配達員の七尾でーッす! イェーイ!」
ハイテンションな銀髪の彼はこちらに向かって元気良くピースサインを送ってきた。しかも、ウィンクといういらないオマケ付きで。なんだか今にも「飲ーんで飲んで飲んで!」なんていう騒がしいコールが聞こえてきそうである。男はどう反応すればいいのか分からなかったのでとりあえず曖昧に笑っておいた。……ああ。昔からどうもこういうタイプは苦手だなぁ。
「本日はどのようなご用件で?」
月野は人当たりの良い笑顔を浮かべて言った。
「ええと。その前にいくつか確認したいのですが、ここは噂の〝月野郵便局〟で間違いないんですよね?」
「噂ですか? そうですね……。どのような噂なのかは分かりかねますが、ここが月野郵便局という事は間違いないですよ」
困ったように答えた月野を真っ直ぐ見ながら男は続ける。
「じゃあ、この郵便局から手紙を出せばどんな相手にも必ず届けてくれるという話は本当ですか?」
「ええ。本当です」
ハッキリとした口調で頷いた月野に男は少しばかり驚いた。なるほど。ここまで言い切れると言うことは余程の自信があるらしい。
「それって、手紙だけじゃなく荷物の配達も取り扱ってます?」
「もちろん。郵便局ですからね」
「そうですか。良かった」
男は手に持っていた小さなギフトボックスを持ち上げ、二人の前に差し出した。
「これを、ある人に届けてほしいんです」
真剣な顔の男と視線を合わせると、月野はニコリと笑顔を見せた。
「荷物の配達ですね」
「はい」
「では早速手続きを致しますのでこちらのカウンターへどうぞ。七尾くん」
「はーい」
軽く返事をした七尾は引き出しの中から一枚の紙とボールペンを持って来ると、それをカウンターの前に置いた。
「それでは、こちらに必要事項の記入とサインをお願いします」
「あ、はい」
送り状と印刷された紙面にはこちらの住所や氏名など、個人情報を記載する欄が並んでいた。言われた通り、男はもくもくと手を動かす。
「……あ」
とある欄でその手を止めると、小さく声を漏らした。
「何かありましたか?」
「いえ、その。すごく今更なんですが相手の住所を知らなかった事に気付いて。……さすがにそれじゃ届けられませんよね?」
「ああ、大丈夫ですよ」
不安げな男を余所に、月野はあっさりと言った。
「と、届けられるんですか?」
「ええ。何か手掛かりさえあれば。名前が分かれば早いんですけどね」
「あ、名前なら分かります」
「でしたらご記入頂ければお届け致しますよ」
「……はぁ」
噂には聞いていたけれど、本当に常識外れの郵便局だ。一体どういうシステムで配達しているんだろう。
……面白い。
口の端が自然とつり上がる。こんな不思議な場所が実在してるなんて、この世もまだまだ捨てたもんじゃないな。
書き終わった送り状を手渡すと、月野はそれにさらりと目を通す。
「配達日時の指定がなければ最短で明日の配達になりますが、よろしいでしょうか?」
「大丈夫ですけど……随分早いですね。住所もわかってないのに」
「ふふっ。うちの局員はみんな優秀ですからね」
局員というと……ウィンクを飛ばしながらピースサインをする胡散臭い銀髪が頭に浮かんだ。無意識のうちに眉間に力が入る。あの彼が、優秀? 失礼ながら少々疑ってしまう。
考えが顔に出ていたのだろう。月野が苦笑いを浮かべてこっちを見ていた。
「お荷物に何かあった場合などこちらから連絡させて頂く場合がございますが、大丈夫でしょうか?」
「構いませんよ。……ただ、ひとつお願いがあります」
「なんでしょうか?」
「差出人の私のことは口外しないで頂きたいのです。特に、この荷物の受取人には私のことは一切話さないで頂きたい」
月野は一瞬きょとんとするが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「個人情報はきちんと守りますのでご心配はいりませんよ」
「……それを聞いて安心しました。すみません、失礼なことを言ってしまって」
「いえいえ。では、こちらで新しい送り状を用意致しますね。住所などの記載はせず匿名希望で出しておきます。ただし、今書いて頂いたものは控えとして当局に保存させて頂きますがよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、男はそのまま郵便局を後にした。
*
「……〝鈴木浩〟ねぇ」
黒のボールペンで書かれた癖のない文字が並ぶ送り状を見ながら、七尾は不満そうに言った。
「なぁ~んか怪しいんスよねぇ」
「怪しいって、今のお客様が?」
「ハイ。なんか雰囲気っていうかオーラっていうか。自分のこと誰にも言うなってのも気になるし。ほら、この名前も」
名前の欄を指差しながら送り状を突き出す。
「……普通の名前だと思うけど?」
「そう、普通なんス。どこにでもあるような当たり障りのない名前。ありきたり過ぎず珍し過ぎずの絶妙な普通感。なんつーか、これが逆にわざとらしいっていうか、ぶっちゃけオレらと同じニオイがするんスよねぇ」
「……つまり?」
七尾は狐のように目を細めて言った。
「あの人、普通のニンゲンじゃないッスよね?」
語尾に疑問符は付いているものの、彼は既に確信を持っているようだった。
「てか月さんも気づいてたっしょ?」
「…………まぁ、なんとなくね」
月野は小さな声で言った。その答えに満足したのか、七尾は座っていた椅子でくるくると回り出す。目は送り状から離れていない。
「宛先は〝中原百合〟さんか。荷物の中身は髪飾りだって。ん~、プレゼント? それともなんかワケありの品?」
「七尾くん、余計な詮索はしないように。お客様のプライバシーに関わりますからね」
「うぃーす」
「でも……」
カウンターに置かれた小さな箱を見つめて、月野は眉尻を下げる。
「彼に何か事情があるのは確かでしょうね。月の光に導かれて、こうしてここに来たんですから」
月野の呟きは、カツカツと床を鳴らすヒールの音と凛としたソプラノ声によって一瞬で掻き消された。
「戻りました」
胸の辺りで揃えられた艶やかな黒髪を揺らしながら入って来たのは、道を歩いていたらおそらく十人中十人が振り返るであろう美貌を持った女性だった。タイトスカートから伸びる脚はスラリと細長い。
「おかえり、宇佐美くん」
「お疲れ様ッスー!」
彼女はこの月野郵便局の副局長兼秘書を務める宇佐美羽留だ。宇佐美は肩に掛けていた大きな紙袋をカウンターに置くと、ふぅと息を吐いた。
「どうだった? 天国の様子は」
「相変わらずでしたよ。そろそろお盆に向けて準備しなくちゃならないって蓮川さんが嘆いてましたけど」
「出入国届けの申請か。彼岸とお盆はみんな故郷に還るからねぇ」
「ええ。その時期の入国管理局は地獄みたいになるって今から憂鬱そうでした」
「はははっ」
宇佐美は紙袋から長方形の形をした水色の箱を取り出した。
「これ、皆さんから預かって来ました。今日の回収分です」
そう言って蓋を開けると、中には緑、紅、黄、白、黒といった五色の短冊が入っていた。色紙を縦長に切った手作りの短冊だ。その一枚一枚に、マジックやボールペンで様々な願い事が書かれている。
「おおーっ! だいぶ集まりましたね!!」
七尾は箱を覗き込むと嬉しそうに言った。
月野郵便局では毎年、七月七日の七夕に合わせてみんなの願い事を集めている。
訪れたお客さんや各関係者の老若男女に願い事を書いてもらい、それを笹竹に飾って郵便局の入り口に立て掛けておくのだ。みんなの願い事を届ける手助けになればという月野の想いから始まったものだが、子供たちを中心に評判は中々だ。
「あっ!」
月野が思い出したように大きな声を上げた。二人は何事かと一斉に月野を見やる。
「鈴木さんに願い事書いてもらうの忘れた……」
二人はしゅんと肩を落とすその姿を呆れたように見つめ、溜息をこぼした。
「鈴木さんってもしかしてお客様?」
「そッス。さっき来たばっかのお客サマ。ってことでハイ、これ」
持っていた送り状を手渡すと、宇佐美はすぐに読み始めた。ぱっちりとした大きな目が文字を追って左から右へと動き出す。
顎の辺りにそっと左手を添え、考え込むように送り状と対峙する宇佐美を観察するように見ていた七尾は、ニタニタと笑いながら口を開いた。
「いやぁ~。それにしてもあれッスね。宇佐美さんの口元のホクロっていつ見てもホントにエロいッスよ、痛っだああああああ!?」
「バカなこと言ってると殴るわよ。グーで」
「もう殴ってるじゃないッスか!! グーで!!」
「正当防衛です」
「どこがぁ!? 暴力反対! パワハラ反対!」
「セクハラ野郎が何言ってんのよ」
「オレセクハラなんかしてないッスよ!! 冤罪だ冤罪! ですよね月さん!?」
「いや、完全にアウトだね」
「つ、月さんまで……!?」
完全に味方を失った七尾はがっくりと項垂れる。
「ちょっとしたジョークじゃないッスかぁ。局員同士の仲を深めようっていうオレなりのコミュニケーションだったのに……ひどいや」
「今は昔とは違うんだから発言には気を付けなさいよね。この御時世、アンタなんか喋るたび訴えられるわよ? もちろんセクハラで」
「人を歩くセクハラ野郎みたいに言うのやめてくれません!?」
「は?」
宇佐美は、まるで床に溢れた牛乳を拭いて異臭を放つボロ雑巾を見るような、不快感丸出しの冷たい視線で七尾を睨んだ。
「うっ……あの、謝りますから。謝りますからその蔑んだ目でオレの事見るのやめてくれませんか? こう見えてめっちゃメンタル弱いんで。めっちゃハート傷付きやすいんで」
「傷付けば? そしてそのまま割れればいいのよ」
「はい割れたー!! たった今オレの繊細なハートがパリーンと音を立てて粉砕されました! 謝るなら今がチャンスですけどどーします!?」
「放置」
「うわああああ……」
七尾は心臓のあたりを抑えながらよろよろと壁に手をつく。
「……そういえば」
七尾を完全にスルーした宇佐美は、紙袋の中からもう一つ箱を取り出した。淡いピンク色の包装紙に丁寧に包まれた箱だ。
「蓮川さんから皆さんで食べて下さいとお土産をいただきました。極楽堂の白桃饅頭だそうです」
「えっ! マジッスか!!」
真っ先に食い付いたのは大ダメージを受けてライフがゼロになっていた七尾だった。その目はキラキラと輝きを取り戻している。
それもそのはず。極楽堂の白桃饅頭とは、天国にある老舗菓子店極楽堂で製造・販売されている大人気のオリジナル饅頭である。
白い皮の上部は薄いピンク色に色付けされ、葉を模した緑色の練り切りがちょこんと飾られている。見た目はまさに桃そのものだ。何を隠そう、この白桃饅頭は七尾の大好物だ。
「わーい!! 早く食べましょうよ!!」
七尾のライフはもうすっかり回復していた。まったく現金な奴である。まぁ、その切り替えの早さは彼の良いところでもあるのだけれど。
「そうだね。じゃあ早速頂こうか」
「お茶は私が用意しますね」
「本当かい? 宇佐美くんの煎れてくれるお茶は美味しいから嬉しいなぁ」
「お粗末さまです」
月野は預かった荷物をしっかりとしまうと、浮き足立っている七尾と奥の部屋へと歩き出した。
*
……ええと、ここがそうなのかな。看板も何も見当たらないけど……合ってる、よね?
ある女性が月野郵便局を訪れたのは、それから三日後のことだった。
女性は暫くキョロキョロと顔を動かしていたが、意を決したように『営業中』のプレートが掛けられた扉に手を掛ける。ゆっくりと扉を開くと、緊張した面持ちで歩みを進めていった。
「いらっしゃいませ」
中に入ると、優しそうな笑顔を浮かべた男性がすぐに彼女を迎えてくれた。彼は現代にしては珍しく、濃紺色の着物を着ていたので彼女は少し驚いてしまった。しかもその着物がえらく似合っているので思わず見惚れてしまったほどである。
「……あの、お客様?」
不思議そうな声色に我に返ってハッとする。
「あ、す、すみません! ぼーっとしちゃって!」
「大丈夫ですよ。ええと、本日はどのようなご用件で?」
女性は少し戸惑うように俯いたあと、ぐっと力を込めて顔を上げた。
「……失礼ですが、月野郵便局とういのはこちらで合ってますか?」
「ええ。合ってます」
「そうですか……よかった」
答えを聞くや否や、女性は鞄から小さな箱を取り出した。
「実は、一昨日これが届いたんですけど……」
おずおずと差し出されたそれは見覚えのある荷物だった。プレゼント用に個装された、小さなギフトボックス。
「何かお話があるんですね?」
「……はい」
「では、こちらへどうぞ」
不安そうな彼女の心を安心させるようにやわらかく微笑むと、男は静かに歩き出した。
カウンターの中を通って案内されたのは小さな部屋だった。扉の右上に応接室と書かれたプレートが埋め込まれている。室内には小さな机と、それを挟むようにして椅子が二つほど置いてあった。
パタリと扉が閉まり、二人は向かい合わせで座る。ニコニコと優しそうな笑みを浮かべる目の前の男性の顔がえらく整っていることに今更気付いて、彼女の頬が赤く染まった。
「改めまして。僕は局長の月野十五と申します」
「…………中原百合です」
その名前を聞いて月野はやはりな、と内心で思った。
受け取った荷物を持ってここに来たのだ。何か事情があるのは間違いない。そして彼女にも、どうしても届けたいと願う大切なものがあるのだろう。ここはそういう場所だから。
机に置かれたギフトボックスに目をやると、中原百合は弱々しい声で言った。
「……あの。家にこの荷物を届けてくれたのって月野郵便局さんで間違いないんですよね?」
「ええ。そちらのお荷物は確かにうちが預かり、中原さんの元へお届けしました」
「……もしかして、荷物を頼みに来たのってこの人じゃありませんでした?」
百合は難しい顔をしながら一枚の写真を差し出す。
それは、ポニーテールの長い髪を花の髪飾りで彩り、裾の広がったワンピースを着た可愛らしい女性と、緊張からかぎこちない笑みを浮かべている男性のツーショット写真だった。その写真は随分昔に撮られたもののようで、今では貴重な白黒写真である。
「これ、あたしの祖母なんですけど……」
写真を見つめたまま、百合は話を続ける。
「その隣。ここに来たのって、この男性によく似た方じゃありませんでしたか?」
百合の指差した男性には確かに見覚えがあった。つい先日この郵便局を訪れた鈴木浩。その男で間違いない。
……しかし。この写真の男が鈴木浩だとすると少し、いや、かなりおかしい話だ。
だって、先日見た鈴木の姿は写真の中の姿と何ひとつ変わっていないのだから。二十代半ばの、優しそうな好青年。まるで歳を取ることを忘れてしまったかのように、容姿にまったくの変化がない。
他人の空似、あるいは親族、血縁者。確かにその可能性も否定出来ない。だが、月野には分かっていた。この写真の人物が、先日ここに来た鈴木浩本人であるということを。
「申し訳ありませんが、個人情報ですのでお答えする事は出来ません」
「そこをなんとか……!! お願いします!」
机に付きそうなほどの勢いで頭を下げた百合に、月野は優しく語りかける。
「何か事情がお有りなんでしょう? もし良ければお話を聞かせて頂けませんか? 力になれるかもしれません」
ゆっくりと顔を上げ、百合は逡巡するように視線をさまよわせる。ふぅ、と小さく息を吐くと、ぽつぽつと話し出した。
「この荷物の中身は、すみれの花が付いた髪飾りだったんですけど……」
「髪飾り?」
「はい。ほらこれです。この写真の頭に付けてるやつ。実はこれ……祖母の形見なんです。あたし、毎日鞄に入れてお守り代わりに持ち歩いてたんですけど、何日か前にどこかに落としてしまって……」
百合はあの日を思い出す。
*
「……ない。ない! ない!?」
鞄をひっくり返してもポケットをひっくり返しても、花の髪飾りを入れた小さな巾着袋はどこからも出てこなかった。……嘘でしょ。だってあれは、おばあちゃんから貰った大切な髪飾りなのに。
「…………どうしよう」
百合は泣きそうな顔で呟いた。
どこかに落としたのだろうか。でも、どこで? 百合は頭を振り絞って自分の行動を思い出す。
今日は大学に行って講義を受けて、友達とカフェでお茶してたら話が盛り上がりすぎてバイトに遅れそうになっちゃって。近道だからって通り抜け出来る駐車場の中をおもいっきり突っ走って、電話が鳴ったから慌てて鞄から取り出して…………ん? 電話?
……そうだ。あの時あたし、走りながら手探りで鞄からスマホ取ったんだ。めちゃくちゃ慌ててたし、もし落としたとすればあの時だ。
チラリと時計に目をやると、時刻は午後六時を少しだけ過ぎたところ。
外はまだ明るいし、あの駐車場は歩いて行けない距離じゃない。百合は財布と鍵とスマホを手に取ると、勢いよく立ち上がった。
「お母さん! ちょっと出掛けてくるね!」
「えっ、今から?」
「すぐ帰ってくるから! 行ってきます!」
母に一言告げると、あたしは急いで走り出した。
▲
「……ない。ないよ~」
人気のない駐車場を隈なく探し歩く。
ここはアパートの月極駐車場のようで、部屋番号らしき数字が書かれた古い木の板が金網にぶら下がっていた。何台か車が停まっていたので、その車体の下をスマホのライトを点灯させながら這いつくばって探してみるけれど、水色の巾着袋はどこにも見当たらない。こんなに探してもないなんて……。百合は途方に暮れる。
溜息をついて立ち上がった、その時。
「…………あの」
「ひっ!?」
背後から突然声を掛けられ、驚いて変な声を上げる。勢いよく振り返ると、アーモンド形の目を丸くさせてあたしを見ている若い男性が立っていた。
えっ、何? もしかして不審者!?
自分の事は棚に上げ、あたしはスマホのライトを相手の顔面にパッと向ける。
「わっ!? 眩しい!!」
「な、なんなんですかあなた!! 警察呼びますよ!」
男性は慌てて目を覆うと、顔を背けながら叫ぶように言った。
「突然声を掛けてすみません! でも不審者じゃないんで警察呼ぶのはやめてもらっていいですか!? あと、出来ればライトも! 消してくれると助かるんですけど!」
いやいや。不審者が自ら不審者なんて名乗るはずがないじゃない。百合は警戒心を強める。
「お、驚かせてしまったことは謝ります! でも、何か困っていた様子だったので! 車の鍵でも無くしたのかなって気になって! ただそれだけだったんです!!」
まぁ……確かにそう思うかも。男性の言葉を聞いて、百合はそっとライトを消した。ぱちぱちと何度も瞬きをしていた彼は、苦笑い混じりで口を開く。
「……いやぁ。たまたま通りかかったら女性が居たんでびっくりしました。キョロキョロして何か探してるみたいだったし、なんだかほっとけなくて」
「そう、だったんですか。そうとも知らずにすみません」
「いえ、私も不用意に声を掛けてしまって申し訳ない」
お互いぺこりと頭を下げる。……マジか。善意で声を掛けてくれた人にライトで攻撃しちゃうなんて……失礼にもほどがあるでしょうがあたし! ああもう! これも全部物騒な世の中のせいなんだから! 自己嫌悪と八つ当たりをしながら頭を上げる。
…………あれ?
男性の顔を見ると、その顔に見覚えを感じて思わずじっと見つめてしまった。どこかで見た事ある気がするけど……どこで見たんだっけ。
「ところで。何か探してたみたいですけど、どうかしたんですか?」
彼の問いにはっとする。そうだ! 髪飾り!!
「あ……そう! 実は落し物をしてしまって!」
「やっぱり。何を落としたんです?」
「えっと、髪飾りです。水色の小さい巾着袋に入ってるんですけど、それごと落としちゃったみたいで」
「なるほど」
彼は少しばかり考えるような仕草をすると、口を開いた。
「もしよかったら私も手伝いましょうか?」
「えっ!?」
「だって、あれだけ一生懸命探してたってことは大切な物なんでしょう?」
「そうですけど、でも」
百合が戸惑っていると、男性は「どの辺を通ったか覚えてます?」と有無を言わさず聞いてくる。
「え? えっと、入り口から真ん中を走ってたら電話がかかってきて。鞄の中から手探りで取ったんですけど……たぶん、あの四台目か五台目あたりのところで」
「分かりました。じゃあもう一度一緒に歩いてみましょう」
「えっ!? でも、あの! これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきませんし!」
「私のことなら気にしないで。好きでやってるだけですから。ね?」
ニコリと笑って言うと、男性は入り口に向かって歩き出してしまった。爽やかな見かけによらず意外と強引な人である。
ていうか、初対面なのに色々と大丈夫なの? 確かに悪い人ではなさそうだけど。折角手伝うって言ってくれたし、本人もやる気になってるし……お言葉に甘えちゃおうかな。
そう自己完結すると、百合は小さくなっていく背中を慌てて追いかけた。
それから三十分ほどかけて駐車場の中を探し歩いてみたけれど、残念ながら巾着袋は見つからなかった。
「やっぱりないですねぇ」
「……自分から言い出したくせにお役に立てなくてすみません」
「いえいえ! 逆にこんな事に付き合わせちゃって申し訳ないです。探してくださってありがとうございました」
「これは私が勝手にやった事ですから気にしないで下さい。それより……」
男性は困ったように眉尻を下げる。
「落とし物はどこに行ったんでしょうね。大事な物なのに……」
「ええ。ホント。失くした自分が情けない……」
百合は小さく息を吐き出すと、ぽつりと言った。
「実はそれ、亡くなった祖母に貰ったものなんです」
「……え?」
「すみれの花が付いた髪飾りなんですけどね。祖母が若い頃、初恋の男性から貰った思い出の品だったそうなんです」
「……すみれの……髪飾り……」
男は噛みしめるように百合の言葉を繰り返す。ほんの一瞬、切なげに顔を歪めた男の表情には気付かず、百合は言葉を続けた。
「祖母の家は当時下宿屋をやってたそうなんですけど、相手はそこの住人だって言ってました。……お互い好きだったけど、事情があって離れてしまったって」
「……そうですか」
「その髪飾り、すごく綺麗な紫色なんです。おばあちゃんの名前が〝すみれ〟だから、彼はその花が付いた髪飾りを選んで買ってきてくれたのよって、おばあちゃんいつも嬉しそうに言ってました。箱に入れてずっと大事に取っておいたみたいなんですけど、お見舞いに行った時あたしに譲ってくれたんです。……それなのに……あたし……」
百合はぐっと下唇を噛む。
「…………ごめんなさい。こんな話までしちゃって。後味悪くなっちゃいますよね、すみません」
「いえ、そんな事は……」
「とりあえず今日は帰ってまた明日探しに来ます。手伝ってくださって本当にありがとうございました」
百合は深々と頭を下げると、男に背を向けて歩き出した。
「……あの!」
「はい?」
呼び止める声に立ち止まって振り返る。男は戸惑うように、でも、何か決意のようなものを宿した目で百合を見ていた。
「もし良かったら、あなたのお名前を教えて頂けませんか?」
百合は少し躊躇ったが、彼の懇願するような瞳を見て思わず自分の名前を口にした。
「……中原……百合です」
「…………百合、さん」
確認するように百合の名前を呟くと、困惑気味に彼の様子を伺っていた百合に小さく笑いかける。
「呼び止めてしまって申し訳ない。……すみれの髪飾り、見付かるといいですね」
「はい。ありがとうございます」
もう一度軽く会釈して、今度こそ自分の家に向かった。
……どこに落としちゃったんだろう。とぼとぼと歩きながら考える。明日は朝早く起きて駐車場以外の場所も探してみよう。とにかく行動あるのみだ。
それにしても……今のあの人。なんだか不思議な人だった。突然現れたと思ったら見ず知らずのあたしの手伝いしてくれたり、急に名前を聞いてきたり。
それに、実はずっと引っかかっていたのだ。初めて会ったはずなのに、どこかで会ったことがある気がするのは何故だろうって。あーあ。あたしも名前ぐらい聞いておけば良かったなぁ。そしたら何か分かったかもしれないのに。百合はひどく後悔した。
▲
気休めにかけていたテレビから「スマホ画像を写真にしよう!」なんていうCMが流れ出す。それを見て、百合のシナプスは唐突に繋がった。
……写真……そうだ、写真だ!!
あの人どこかで見たことあると思ったら、おばあちゃんとの写真に写ってたあの人だ!!
百合は慌てて引き出しから一枚の封筒を取り出し、逆さに振って中身を取り出す。これは髪飾りを貰った時、おばあちゃんから預かった大切な封筒だ。
「…………やっぱり」
中から出てきたのは、一枚の古い写真だった。百合はその写真をじっと見つめる。
髪をポニーテールに結び、ワンピースを着た若々しいおばあちゃんの隣に写っていたのは、ジャケットを羽織った男の人だった。
アーモンド形の目元に、すっと通った鼻筋。緊張したようなぎこちない微笑みを浮かべ、目を離せば消えてしまいそうな儚い雰囲気を持っている。白黒の写真だけど間違いない、この人だ。
すみれの髪飾りを贈ってくれた、おばあちゃんの初恋の人。
駐車場で出会ったあの男の人は、この写真の男性にそっくりなのである。
……そういえばおばあちゃんがいつも笑いながら言ってたっけ。〝私の初恋の人は不老不死だったのよ〟って。
ただの冗談だと思って一緒に笑ってたけど……まさかね。漫画じゃあるまいし、そんなこと絶対ありえない。そんなこと……あるわけが……。
写真の中の二人をもう一度じっくり見つめる。
でも……もしも。もしもあの人がおばあちゃんの初恋の人だとしたら。
百合は封筒に入っていたもう一枚の細長い紙を手に取った。
あたしは彼に、どうしても伝えたいことがある。
*
百合があの日の出来事を話し終えると、月野は納得したように「なるほど」と頷いた。
「次の日探しに行ってもやっぱり見つからなくて、もうほとんど諦めてたんです。そしたら急にこの荷物が届いて。中身が探してた髪飾りだったから驚いちゃって」
百合はギフトボックスを開けて中身を取り出した。
出てきたのは、鮮やかな紫色をしたすみれの花の髪飾り。多少の劣化はあるが、それは何十年の年月が経ったとは思えないほどつやつやと輝きを放っていた。持ち主である百合の祖母がよほど大切に使ってきたのだろう。
「あの時の男の人が送ってくれたんだってすぐに分かりました」
「ええ」
「ただ、あたしの住所とかどうやって知ったのかなって不思議だったんですけど、判子にあった月野郵便局っていう名前を見て噂の事を思い出したんです。でも、どうやって行けばいいのかわかんなくて。調べたら月に祈れば光が案内してくれるって曖昧なことしか書かれてないし。それであたし、とりあえず月に向かってお願いしたんです。月野郵便局に行かせて下さいって。そしたら一筋の光が伸びてきて……それを追ってきたらここに辿り着いてて。でもまさか本当にあったなんて……正直今でも信じられません」
「ははっ、よく言われます」
月野は苦笑いを浮かべた。
「あたし、あの人にお礼と……伝えたい事があって。出来れば直接会って言いたいんです。なんとか連絡を取りたいと思ったんですけど、あの人に繋がりそうなものは何もなくて。だからここだけが頼りなんです!! 何か分かる事があったら教えて下さい! お願いします!」
百合は再び机に付きそうなほどの勢いで頭を下げる。
「事情は分かりました。しかし、規則は規則ですから……破るわけにはいきません」
「そう……ですよね」
百合はゆっくり元の体勢に戻ると、落ち込んだように肩を落とした。
「ですが、微力ながら力になれるかもしれません」
「えっ?」
「手紙なら、僕たちはお客様の届けたい相手に必ず届けることが出来ますから」
その言葉にはっとした。……そっか。ここは相手が誰であろうと届けたいものを必ず届けてくれるという噂の、不思議な郵便局。
あたしが手紙を書けば、この人は絶対に彼の元へ届けてくれるのだ。
月野は垂れ気味の大きな目を更に下げた優しい表情で百合の答えを待っている。
手紙……か。
もしその手紙が届いたとしても、実際会ってくれるかどうかは分からない。それに、彼がおばあちゃんの初恋の人だっていう確証はどこにもないわけだし……。ううん。でも、ここでうじうじ悩んで何もしないより、無駄になってもいいから何かしら行動を起こした方がいいに決まってる。
「……あの、レターセットって売ってますか? あと、ボールペンも」
百合が意を決して口を開くと、月野は嬉しそうに微笑んだ。
「失礼します」
凛としたソプラノ声が室内に響く。静かに開いた扉から入って来たのは、思わず魅入ってしまうほどの美貌を持った女の人だった。その細い腕には湯呑みを二つほどのせたお盆を抱えている。
「ちょうどよかった。宇佐美くん、隣の部屋からレターセットとボールペンを持ってきてくれないかな? 花柄で白と淡い紫色のやつ」
「分かりました。すぐに取ってきます」
宇佐美と呼ばれた女性は部屋を出ると、頼まれた物を持ってすぐに現れた。黒髪を靡かせながら、颯爽と百合に近付いてくる。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「お茶でも飲みながらゆっくり書いて下さいね」
「あ、いえ、でも!」
「僕らは違う部屋にいますから大丈夫です。時間も人も、何も気にしなくていいですから。ね?」
こうもにこやかに笑顔を浮かべて言われては、断る理由が見つからない。
「……すみません。じゃあお言葉に甘えてここで書かせてもらいます」
「どうぞどうぞ。何かあったら気軽に声掛けて下さいね。では」
月野は静かに部屋を出て行った。百合はふぅ、と短く息を吐くと、花柄の便箋を取り出し、机の上に一枚置いた。
何をどう書いたらいいのか、正直考えはまとまらない。百合はすみれの髪飾りを手に取った。
〝これはね、おばあちゃんの一番大切なものなの。だから、百合にあげる〟
〝ええっ!? 大事な物なのにいいの!?〟
〝大事な物だからこそ百合に持っててもらいたいのよ。あたしの代わりに大切にしてあげて。それにほら、いつか百合も会えるかもしれないからね〟
〝会える? 誰に?〟
〝そりゃ、あたしの初恋の人に決まってるじゃない。……そうね、その時は──〟
〝うん。分かった〟
〝ふふっ。おじいちゃんには内緒よ?〟
百合はボールペンをしっかり握りしめると、カリカリと文字を書き始めた。
*
書き終わった便箋を封筒に入れ、しっかりと封をする。タイミングを見計らったように扉が開き、月野がひょっこりと顔を覗かせた。
「書き終わりました?」
「あ、はい」
「ではお預かり致します」
月野は淡い紫色の封筒を懐にしまった。
「……ありがとうございました。長々と部屋まで使わせてもらっちゃって。あの、レターセットとペンはおいくらですか?」
「ああ、あれは差し上げますから。お代はいりませんよ」
「ええっ!? そんなわけには!」
「いいんですよ。ほら、ご利用初回サービスってことで。ね?」
月野は悪戯っ子のようににんまりと笑った。
「でも私、ご迷惑ばかりかけてるのに……心苦しいです」
「あ、それじゃあ」
申し訳なさそうな顔をしている百合に、月野は黄色い短冊を差し出す。
「これに願い事を書いてくれませんか?」
「……短冊?」
「ええ。ほら、もうすぐ七夕でしょう? うちでは毎年皆さんの願い事が届くよう、短冊を吊るして表の入口に飾ってるんですよ。なので、ご協力頂けると非常に助かります」
百合は短冊を見つめたまま動かなくなった。
「百合さん?」
「え? あっ、ごめんなさい」
慌てて短冊を受け取る。百合は少し悩んだ様子だったが、ゆっくりとペンを動かし始めた。
「終わったらこの箱に入れて下さいね」
「はい」
四角い箱に、黄色い短冊がポトリと入れられる。
「……おばあちゃんとその初恋の人が別れたのは、七夕の日だったそうなんです」
百合はたくさんの短冊が入った箱を見つめながらぽつりと言った。
「実は、おばあちゃんの願い事が書かれた短冊がその写真が入ってた封筒と一緒に入ってたんです。願い事っていうか……あれはメッセージなのかなぁ」
「そうだったんですか」
「だからもし彼に会えたら、その短冊あげたいなって思ってるんです。きっと喜ぶと思うから」
百合は月野を見て笑みを浮かべた。
「今日はありがとうございました。手紙、よろしくお願いします」
「はい。あなたの想いは我々が責任を持ってきちんとお届け致します」
百合は深々と頭を下げると、月野郵便局を後にした。
*
百合がいなくなった後、局内は慌ただしく動いていた。
「宇佐美くん、情報は集まったかい?」
「ええ。大体は」
宇佐美はカタカタとリズミカルに動かしていた手を止め、印刷した数枚の紙を手渡した。
「予想していた通り、送り状に記載されていた住所も電話番号も偽物でした。ただし、名前は同じものを使っていたので比較的探しやすかったですね。で、こっちが現在の住所です」
「食品会社の営業勤務か。ホテルに一週間の予約って……へぇ、有給使ってこっちに来たんだね。会社結構遠いけど、七尾くん大丈夫かな?」
「戻りましたぁー!」
やけに元気の良いその声は渦中の人物のものだった。しかし、現れたのはホストのような格好をしたいつもの七尾ではない。
黒く長い髪をひとつに結び、紺色のジャケット、タイトスカートにヒールの高いパンプス。目元を飾る銀縁の眼鏡が知的な印象を与える、大層な美女の姿がそこにはあった。彼女はズカズカと大股で月野の元に近付いて行く。
「おかえり。今ちょうど君の話をしてた所だったんだよ。会社の方はどうだった?」
「ただいまッス! いや~、偶然その食品会社の下請けに勤めてる知り合いが居たんでね。ソイツにちょっと話聞いたんスけど、やっぱオレの勘は当たってましたよ!」
彼女の口調はまるで七尾そのものだった。……違和感が半端ない。
月野はその様子を大して気にしていないようだったが、宇佐美は違った。不機嫌そうにぐっと眉をひそめると、その口を開く。
「ねぇ、見てて不快だからさっさとその変化解いてくれない?」
「え〜? せっかく化けたんだからもう少しこのままでも良くない?」
「くだらない遊びに付き合ってる暇はないのよ」
「宇佐美さんってばノリわる~い」
ぶつぶつ文句を言いながら、ぱちんと指を鳴らす。その瞬間、女性の姿はぼわっと真っ白い煙に包まれた。煙が消えて現れたのは、銀髪にネックレス、胸元の開いた白いシャツに細身のパンツを穿いたいつもの七尾の姿だった。
そう。あの女性は他でもない、七尾本人だったのである。
七尾は英国紳士さながらに片腕をお腹のあたりで折り曲げると、宇佐美に向かって一礼した。
「……うざ」
「はい、今日も宇佐美さんから蔑んだ視線頂きましたー!」
宇佐美は無視してパソコンに向かった。
「宇佐美さんってばいっつもオレにだけ冷たいッスよね。愛情の裏返しってやつ?」
「冗談もほどほどにしないとその隠してる邪魔な尻尾引っこ抜くわよ?」
「こっわ! 声が本気すぎてめっちゃ怖いんですけど!?」
苦笑いを浮かべて二人の様子を見守っていた月野は七尾に問いかける。
「それで? 何か分かったことはあるかい?」
「あ。そういやズッキーのことだっけ」
「……ズッキー?」
「そう。鈴木だからズッキー」
月野は苦笑いを継続し、宇佐美は呆れて突っ込むことを放棄した。そんな二人の様子を物ともせず、七尾はニヤリと得意げな表情で言い放つ。
「どうやら彼、不老不死の身体を持ってるみたいなんスよね」
〝不老不死〟
それは一生老いることなく、若い時の姿のまま死ぬことのない状態。
「つまり月さん達と一緒ってことッスね」
「……ははっ。まぁね」
「なんでもズッキーは男児に限り二十五歳になると不老不死の身体になるっていう呪いを受けた特殊な一族の生まれみたいで。あの姿のまま何百年も生きてるみたいッス。オレの知り合いも会った瞬間コイツ普通の人間じゃねぇなって直感したって言ってました。やっぱ通ずるもんがあるんスよね、オレ達みたいなのって」
……なるほど不老不死か。確かにそれなら百合の写真と今の容姿がまったく変わっていないというのも頷ける。
「バレないように暮らしていくのは結構大変みたいッスよ。オレらみたいに容姿が変えられるわけじゃないから同じ場所に留まってるのは無理だし。だから各地を転々として、そのたびに名前も住所も経歴も全部変えて。親しい友人も温かい家族も作れないし、目立たないよう大人しく暮らさなきゃならないし。苦労は絶えないっつーか」
「……そっか」
「ま、オレらもかなり長生きだし。人間に化けて社会に紛れて生活してる奴もいっぱいいますけどね」
そう言った七尾ももちろん普通の人間ではない。
彼の正体は妖狐。こう見えて数百年は生きている狐の妖怪だ。
変化の術でヒトの姿に化け、この郵便局で月野達と一緒に働いているのだ。
「やっぱり、あの写真の人物は鈴木さん本人で間違いないんだね」
「はい。百合ちゃんのおばあちゃんにすみれの髪飾りを渡したのもズッキー本人で間違いないッス」
「……でも、それならどうして鈴木さんはこの町に戻って来たのかしら?」
宇佐美が腕組みをしながら言った。
「どうしてって?」
「正体がバレるのを避けて各地を転々としてるなら、この町に戻って来るのは早すぎると思わない? 机に置いてあった写真をチラッと見たけど、あれを見る限りここに居たのは五十~六十年くらい前。鈴木さんは容姿を変えられないわけだから、住んでいた町に来れば自分を覚えている人に会ってしまう可能性が高い。まぁ、息子だとか孫だとか通じそうな言い訳は出来るけど、普通リスクは避けるでしょ? 結果的にこうして知り合いの血縁者に会ってるわけだし。行動が矛盾してるわ」
言われてみれば確かにそうだ。
「もしかしてズッキー、百合ちゃんのおばあちゃんに会いに来たのかなぁ。二人は恋仲だったんっしょ?」
「それは……わからないわ。お互い好きだったのは確かだろうけど、離れたって言ってたし」
宇佐美と七尾は悲しそうに眉尻を下げると、小さく溜息をついた。
「もし本当に彼女に会いに来たのなら……随分勝手ね。自分から離れることを選んだくせに今更現れるなんて……」
「いやいや。その選択は好きな人に幸せになってもらいたいっていう気持ちの表れッスよ。もちろん苦渋の決断ッスけどね。この町に来たのはもしかして……彼女の幸せそうな笑顔を見に来たのかもしれないなぁ」
「……そんなの自己満足じゃない。幸せなんて人それぞれなのに。それに、私なら何があっても一緒に居たかったって思うわ」
「それは……そうかもしれないッスけど」
しんみりとした空気を入れ替えるように、月野がパン、とひとつ手を叩いた。懐から淡い紫色の封筒を取り出す。
「さて。七尾くんにお仕事の依頼です。これを届けて来てくれるかな?」
「ズッキーにッスよね? 任せてください!!」
七尾はビシリと敬礼のポーズで答えた。
「んー……次は何で行こうかなぁ。営業ってことはスーツの方が怪しまれない感じ?」
「何でもいいから早く行けば?」
「はーい」
七尾が再び指を鳴らすと、あっという間に白い煙に包まれる。一回瞬きをしている間に、彼は黒縁メガネの真面目そうなサラリーマンへと姿を変えていた。
「住所はスマホに送っといたから」
「さすが宇佐美さん仕事が早い! じゃ、行ってきまーす!」
そう言って七尾は慌ただしく出て行った。
月野はその後ろ姿を見つめながら心の中で祈るように呟く。
どうか彼女の想いが彼に届きますように、と。
*
「……あの」
彼が来たのは数日経ってからだった。やけに強張った顔で来た彼を、月野はいつものふんわりとした笑顔で迎え入れる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ、鈴木さん」
その声に、カウンターの中で作業をしていた七尾も身を乗り出して挨拶をする。
「いらっしゃいズッキー! こないだぶりッス!」
「ああ。……先日はどうも」
鈴木は困ったような、それでいて感心したような複雑な表情で七尾の全身を眺めた。
「いやぁ……こないだは容姿が全然違うからまったく分からなかったよ。変装がお上手ですね」
「んー、変装じゃなくて変化の術なんだけどなぁ」
「たいして変わんないんだから名前なんて別にいいでしょ化け狐」
「わぁ、宇佐美さんってば相変わらずオレにだけ辛辣!!」
七尾の叫びを華麗にスルーして、宇佐美はパッと営業スマイルを浮かべる。
「鈴木様ですね。初めまして、私宇佐美と申します。先日は残念ながらお会いできず、ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
「ああ、あなたが宇佐美さんですか。お話は七尾さんから聞いてますよ、色々と」
「……色々と?」
「ええ。クールビューティーな毒舌副局長兼秘書の宇佐美さん。仕事が出来て料理が上手い、自分に対して氷対応だけどそれは全て愛情の裏返しなんだ、と楽しそうに語ってましたよ。皆さん仲が良いみたいで羨ましいです」
宇佐美は超合金でも貫通させてしまう弾丸のような鋭い視線を七尾に送った。防衛本能が働いたのか、七尾は目が合う前にばっと顔をそらす。危険を察知した月野は急いで本題を切り出した。
「鈴木さんは、お手元に届いた手紙の件でいらしたんですね?」
「……ええ」
「ではどうぞこちらへ」
応接室と書かれた小部屋で向かい合うように座る。鈴木は淡い紫色の封筒を机に置くと小さな溜息をついた。
「……彼女、やっぱり来たんですね」
「ええ」
「私の事は口外しないようお願いしていたはずですが」
「もちろん。約束は破っていませんよ。あなたの事は彼女に一切話してませんから」
宇佐美が用意してくれた麦茶の氷がカラン、と音を立てる。
「単刀直入に聞きます。私の正体を教えたのはあなた達ですか?」
「いいえ違います。手紙になんて書いてあったのかは知りませんが、もし彼女があなたの正体を知ったというのなら、それは彼女がおばあさまの言葉を信じたからじゃないでしょうか。おばあさまは生前〝自分の初恋の人は不老不死だった〟と彼女に言っていたそうですから」
「…………」
「それに、彼女は鈴木さんにそっくりな男性が写った古い写真を持っていましたからね」
「……そうですか」
鈴木は諦めたように力なく笑った。
「当時は〝中村〟と名乗ってましたけどね」
「おや、中村さんでしたか」
「名前はたくさんありますよ。ありすぎて大半は忘れました。まぁどれも偽名だからいいんですけどね。しかしまぁ……よくこの短期間でここまで調べましたね。あなた達の調査能力には脱帽です」
「前に言ったでしょう? うちの局員はみんな優秀だって」
「いっそのこと探偵にでも転職したらどうです? 儲かると思いますよ?」
「ははっ。考えてみます」
冗談めいて笑みを見せた月野は一旦口を閉ざす。そして躊躇いがちにゆっくりと切り出した。
「すみれの髪飾り。彼女、とても感謝していましたよ」
「ええ。この手紙にも書いてありました。あれは私の自己満足でやっただけなのに……」
鈴木はゆっくりとグラスに口を付ける。
「……何から話せばいいのやら。なんせもう何百年も生きてるものですから」
「不老不死、ですね」
「ええそうです。うちはちょっと特殊な家系でして。男は皆、不老不死の身体を持って生まれてくる宿命なんです。いや、呪いと言った方がいいですかね。二十代の肉体のまま、死ぬことの出来ない人形のような存在。私はその末裔です」
「末裔?」
「ええ。こんな思いをするのは私で最後にしたいのでね」
鈴木の言葉に月野の顔が曇った。
「私はね、月野さん。不老不死は常に孤独との戦いだと思ってるんですよ。どんなに愛していようが、みんないつか私を置いて先に逝ってしまう。私は後を追うことも出来ず、哀しみを背負って独りどこかへ旅立たなければならない。親しい友人を持つことも、愛する恋人と温かい家族を持つことも出来ずいつも独りぼっちだ。……私は誰かを悲しませることは出来ても、誰かを幸せにすることは一生出来ない」
目を瞑って深く息を吐き出すと、鈴木は懐かしむように言った。
「すみれさん……百合さんのおばあちゃんですね。彼女に出会ったのは、そんな自分の運命に疲れ果てていた時でした」
▲
「あなた、随分顔色が悪いわね」
橋の欄干に手を掛け、ぼぅっとしながらただただ川の流れを眺めている時だった。背後から知らない女性に声をかけられ反射的に振り返る。すると、円らなくりっとした瞳と目が合った。
「あらやだ、真っ青じゃない。そんな所にいたら凍えてしまうわ。ちょっとこっちに来て」
ぐいぐいと手を引かれ近くのベンチに強引に連れて行かれる。高い位置で結ばれた長い黒髪が左右に揺れているのが印象的だった。
有無を言わせずそのまま座らせられると「これ飲んで」と持っていた水筒を渡された。じっと監視するように見られているので、仕方なく一口だけ喉に流し込む。
「あなた学生さん?」
「いえ、社会人です」
「そうなの? それにしては随分細いわね……ご飯ちゃんと食べてる? だめよ、ちゃんと食べなきゃ。もやしっ子って言われてバカにされちゃうわ」
何やら鞄をゴソゴソとあさる。
「腹が減っては戦ができぬ。何があったか知らないけど、とりあえずこれでも食べて元気出して」
そう言って風呂敷のような包みを開く。目の前に出されたのはまん丸く握られたおにぎりだった。
戸惑いながら受け取って、一口かじる。口の中にほんのり塩の味が広がった。
「……美味しい」
「でしょ? あたしの手作り食べられるなんてあなたついてるわよ!」
ニコリと笑った彼女は安心したように隣に座った。
「……もう大丈夫そうね」
「え?」
「突然連れ出してごめんなさい。なんだか今にも川に身を投げそうだったから思わず声をかけちゃった」
どきりと心臓が鳴った。……確かにその考えもあった。だけど、実行したところでどうなる。どうせ死ねないこの身体だ。結果は目に見えている。私は苦笑いを浮かべて答えた。
「そんな気はなかったんですが……」
「あらやだ、あたしの勘違い? ごめんなさいね」
「いえ。悩んでいたのは確かですしね。おにぎりご馳走様でした。美味しかったです」
ベンチからそっと立ち上がる。
「あなた今どこに住んでるの?」
「この町には来たばかりなので。今は宿に寝泊まりしてます。住む場所はこれから決めようかと」
「ならうちに来ればいいわ!」
「え?」」
「うち、下宿屋やってるの。部屋ならたっくさんあるから遠慮しなくていいわよ。もちろん家賃も格安だし!」
「ですが……」
「あ、自己紹介がまだだったわね。あたし森野すみれ。あなたは?」
「中村……清太です」
「中村さんね。じゃあ行きましょ!」
「え、いや、まだ行くって……」
「早く早く! あたし夕飯の支度しなくちゃいけないんだから!」
森野さんに連れられて来た下宿屋に着くと、あっという間にお世話になることが決まった。
下宿屋〝森野荘〟は長屋になっていて、部屋のひとつひとつが薄い壁で区切られている。四畳半の部屋の中には文机がひとつと布団が畳んで置いてある他は何もないが、一人で暮らす分には不自由ないだろう。風呂とトイレは共同。朝晩食事付きで、昼は各自用意すること。
ちなみに森野さん一家は少し離れた一軒家に住んでいるそうだ。
一通り説明を受け、森野さんとそのお母さんが作った夕食を頂き、部屋でごろりと横になる。
……なんだか久しぶりにちゃんとした人間の生活をした気がした。ここ数日は飲まず食わずだったから。
横になってるうちに、なんだかウトウトしてきた。重力には逆らえず、ゆっくりと瞼を閉じる。
……ここは、とても心地いい。
▲
「おはよう中村さん!」
「おはようございます森野さん」
挨拶を交わすと、森野さんの顔がちょっと不満気になった。
「もう。すみれって呼んでって言ってるのに!」
「いえ、ですが」
「敬語もなし! あたしの方が年下なんだから遠慮するなんておかしいでしょう?」
まぁ確かに、私の方が年上なのは変わりない。ふむ、と少しだけ考えてから彼女にひとつ提案をした。
「じゃあ、私のことも名前で呼んでいいですよ」
「え?」
「これならフェアでしょ? ね、すみれさん」
そう言うと彼女は頬を赤らめた。こういう所はまだまだ子供のようだ。私が思わずクスリと笑うと、今度は怒ったように頬を膨らませる。コロコロと変わる表情が実に可愛らしかった。
「おっ! すみれちゃん!」
「すみれちゃん今日も可愛いねぇ。デザートのオマケよろしくな!」
「すみれちゃん今度の休み暇かい? 映画のチケット貰ったんだけど、一緒にどう?」
すみれさんは家の手伝いをしているようで、下宿の住人たちからえらく人気が高かった。明るくて可愛い女の子なのだから、当たり前か。
森野荘で世話になるにあたって、私は近くの部品工場で働くことになった。家賃も支払わなければならないし、甘えてはいられない。
「清太さん! これ、お弁当!」
すみれさんは仕事に行く私に毎日お弁当を作ってくれた。こうして出勤する前に必ず渡しに来てくれる。
「いつもありがとう」
「ううん、いいの。いってらっしゃい!」
満面の笑みで送り出されるのが、ここに来てからの日課になっていた。
〝いってらっしゃい〟か。当たり前に使われるその言葉がじんわりと胸に染み込んだ。
帰る場所があり、そこに待っている人がいる。
こんな些細なことが嬉しくて仕方ない。……だけど、同時に怖かった。失った時を考えると、とても。
「羨ましいねぇ」
「おはようございます川上さん」
同じ下宿人の川上さんがニヤニヤしながら言った。
「あんな良い子に気に入られちゃって。それ手作り弁当だろ?」
「ええ。そのようです」
「っかー! 羨ましい限りだよまったく」
ここで私は首を傾げた。だって、あのお弁当は下宿屋の住人皆に渡しているものじゃないか。
「皆さんも作ってもらってるのでは?」
「は? 何言ってんだよ。……まさか気付いてねぇの?」
「……気付く? 何を?」
「っかー!! これだから今の若者は! いいか! ここの食事は朝晩だけだ! 昼は各自で用意するって初日に説明されただろ!?」
川上さんは捲し立てるように言った。
「つまりすみれちゃんはなぁ、お前にだけ特別、毎日自分で弁当作って持って来てんだよコンチクショウ!!」
「かっ、川上さん!!」
大きな声に振り返ると、真っ赤な顔をしたすみれさんが走ってくる所だった。
「もう! 何言ってるんですか! やめて下さいよまったくもう!!」
照れ隠しなのかよく分からないが、彼女は川上さんをポカポカと叩き出す。
「いてて! ごめんごめん! すみれちゃんごめんって!」
「……すみれさん」
私が声を掛けると、動きがピタリと止まった。
「今の話は本当ですか?」
すみれさんは真っ赤になって左右に視線をさ迷わせたあと、微かに首を縦に動かした。胸がきゅっと締め付けられ、心臓がドキドキと高鳴る。
「……えっと、嬉しいです。ありがとうございます」
返事の代わりにはにかんだその笑顔が頭から離れない。こんな気持ちになったのは初めてだった。
でも、ダメだ。だって私は神の元へ逝く事を赦されない存在──老いる事も死ぬ事も出来ない、不老不死なのだから。