私は先輩の夕陽に染まった後ろ姿を追いかけるように、後に続いた。

 彼女と再会するきっかけをくれた小説賞の幕が下りた。授賞式も無事に終了し、マスコミからの取材も、そのことからライブへの話題へと変わっていった。
 先行発売はもう始まっているし、打ち合わせも増えていった。
 沖浦さんの忙しさも日に日に増えているけど、彼女の仕事の腕は衰えない。むしろ気合いが入っているし、その力はいったいどこから湧いてくるのか不思議だった。
 でも、沖浦さんに負けてはいられない。打ち合わせも練習も全力で取り組んで、休めるときは休んだ。
 ライブのために全てを打ち込んでいくと、時間がどんどん過ぎていって、今、何日なのかも忘れてしまう。
「それじゃあ翔奏。また昼過ぎに迎えに来るから」
「はい。ありがとうございます。お疲れ様です」
「お疲れ様」
運転席に座る沖浦さんは、窓を閉めて車を走らせた。朝の静まり返った街中に沖浦さんの車が消えていくのを見送ると、俺はスマホで時間を確認した。
 朝の五時をちょうど回ったところで、気だるい身体を引きずる様にセキュリティーロックのかかったマンションのドアを潜り、エレベーターのボタンを押した。
 この時間なら、まだ智歌は寝ているだろう。
 連絡したら迷惑極まりない。自分の時間と彼らの日常が、ずれているのを感じてしまう。身体は疲れているけれど、眠くはない。
 昨日は雑誌の取材に、ラジオ。その後にライブの打ち合わせに続けて、スタジオで練習。もはや、昨日の出来事かも判らなくなっていた。
 こうやって自分で時間を確認するのも、久しぶりな気がする。よく見たらスマホの電池が切れかかっていた。
 俺は部屋の鍵を開けて中に入ると、スマホの充電をセットしてシャワーを浴びた。
 直接、智歌にチケットを渡したかったけれど、どうやら俺にはそんな暇はないらしく、沖浦さんにポストに投函するように頼んだ。沖浦さんが言うには、会う暇があるなら少しでも休むようにとのことだ。
 だから彼女はポストに投函するのも自らかってでてくれた。沖浦さんなら間違いなく、投函してくれる。忘れたりは、絶対にしないから安心だ。
 もしかしたら、もうそうしてくれているかもしれない。
 だから智歌にできるだけ早く連絡を入れたかった。
 さっぱりとした髪を拭きながら、今後のことを考える。とりあえず、眠れるかは分からないけど、九時までベッドに横になろう。
 それから智歌に電話して、チケットのことを話す。
あとは一つ訊きたいことを訊いたら終わりだ。でも、その質問を言うのが恥ずかしくて、考えるだけで緊張してしまう。
 俺は髪を乾かしてから、ベッドに横になった。ツアーが始まれば、この場所にもなかなか戻れなくなる。長旅になるけれど、嫌いじゃない。
 手を目元にあてて、そっと目を閉じると窓から入ってくる光が遮断される。
 そのまましていたら、以外にも意識が遠のいて気がついたら八時半になっていた。
 やはり身体は疲れているらしく、中途半端に寝たせいか重く感じた。
首を軽く回して、肩をほぐして背筋を伸ばす。八時半は少し早すぎるかもしれないが、智歌に今から話せるかメッセージを打った。
 これでダメなら、今度話せるのはいつになるだろう。できればすぐにでも伝えたかった。
 その願いが叶ったのか、すぐに智歌から電話がかかって来た。
 俺はすぐに通話ボタンを押して、耳にあてる。
「どうしたんだ? こんな朝早くに」
「ごめん。ちょっと午後だと時間がなくて」
正直に答えると、智歌がふっと淡い笑みを零したのが、電話から伝わってきた。俺のスケジュールがいっぱいなのを察しているのだろう。
「そうか。今から俺も用があるから、長くは話せないけどいいか?」
「あぁ。大丈夫だ。それでさ、頼みがあるんだけど」
ここで断られたらどうしようもないけれど、そんな不安はすぐに消え去った。智歌はすぐにその先を促して、俺の言葉を待っている。
「……ライブのチケットを二枚郵送で送るから」
「分かってる。深桜を連れてこいってことだろ。日付は?」
俺の言葉を遮って、淡々と智歌がつけたした。嫌がられると思っていただけに、相手からその言葉を聞くと何だか複雑な気分になる。
 でも、これは智歌にしか頼めないことだ。だから俺は、はっきりとその日程を口にした。
「最終ライブの日」
「俺たちが生まれた村の県か」
「うん。大丈夫かな?」
「当たり前だろ」
その響きが、何だか心地いい。智歌も昔を懐かしんでいるかのような、穏やかな返事で同意してくれた。
「ありがとう」
素直に零れた言葉に、智歌はふうと息を漏らした。
 その先に何があるか分かっているかのように、智歌は電話を切りあげずに待っている。
 たぶん長い時間を過ごしてきた俺の考えなんて、お見通しなのだろう。それが分かると、話を切り出しやすくて助かる。
 智歌は、他人が思っていることを理解する力が優れていると、改めて思い知らされた。
「あのさ、智歌。言いにくいんだけどさ、その……ライブの後に空き地に、ちぃを連れてきてくれないか?」
智歌は、その問いにすぐに答えなかった。まるで俺の真意を探るみたいに、ただ黙って俺の言葉を待っている。
「……ずっと言いたいことを言いたいんだ」
俺は断言するように、はっきりと言い放った。智歌はしばらく何も言わなかったけれど、小さく息を吐くようにふっと笑った。
「分かった。必ず連れて行く」
彼の言葉に迷いはなかった。忠実に俺の願いを叶えようとしてくれている。でも、そうされればされるほど、罪悪感みたいなものがじんわりと心の底から顔を出す。
 どうせなら潔く断れた方がすっきりしたかもしれない。
「翔奏の方は大丈夫なのか? うまくぬけだせそうなのか?」
「まぁ何とかやってみるよ」
「なんだよ、それ。追っかけられないように気をつけろよ」
智歌の声は、笑っていた。
 この前、彼のことを責めてしまったのに、それを忘れてしまったみたいに、二人で笑い合った。
「智歌」
「何だ?」
彼は何も俺を責めようとはしない。智歌のちぃに対する気持ちを分かっていながら、こんなにも自分勝手なことを頼んでいるのに……。
「智歌は、ちぃのこと、好きなのか?」
「好きだって言ったらどうするんだよ。お前、逢うのやめるのか?」
智歌の全てを悟りきったような声に、俺は目が覚めたみたいに頭がすっきりとしていく。確かにそうだ。智歌が俺と同じ気持ちであったとしても、俺はちぃを諦めたりしない。そんな分かりきったことにも気づかず、苦笑してしまう。
 何か絡まっていたものが解けて、しっかりとしたものが腹の中に納まった気がした。
「そうだよな。ごめん」
「謝らなくていいよ。謝るのは俺の方だから」
「記憶がなくなって黙ってたことか? もう気にしてないから心配すんな」
それは嘘ではなかった。智歌は俺を気遣って嘘を吐いてくれたのだから、全く彼を責める気なんてない。
「智歌。……他に俺に黙ってることとかないよな?」
何気なく訊いてみると、智歌はまた何も返してこなくなった。
たぶん智歌は、まだ俺に隠していることがあるのだろう。自分の想いだったり、俺には分からない真実だったり、彼は俺に言いたいことがあるのだろう。
 それでも智歌が言いたくないのなら、それでよかった。ちゃんとちぃを連れてきてくれさえすれば、それ以上、俺は彼から何も望まない。
「智歌。ごめん、何でもない。お前のこと俺、信じるから」
その言葉は彼にとって酷だったかもしれない。言ってすぐ申し訳なかったけれど、その言葉に込めた俺の気持ちに迷いも不安もなかった。
「ごめん。翔奏。一ついいか?」
突然、智歌は気持ちを押し殺したような低い声でそう訊ねた。俺はその低さに驚いて、言葉を失った。
「俺、お前に黙ってたことがあるんだ」
「何?」
淡々と続ける智歌の言葉に、辛うじて出た声は掠れていた。
「俺、ちぃが石段で転んだとき、病院に運んだのは、俺なんだ。倒れているちぃを抱き起したとき、最後にあいつ、お前の名前を言ってた」
予期せぬ言葉に息が詰まった。頭が真っ白になって、その中でじんわりと昔の光景が浮かび上がる。
 あの夏の日の階段。そこに横たわるちぃを見て俺は逃げ出した。そこに智歌がいたというのだろうか。
「智歌。それどういう」
「だから大丈夫だ。じゃあ絶対連れて行くから、頑張れよ。俺もいろんな気持ち断ち切るから」
智歌はそれ以上、俺に問わせる時間を与えなかった。
 そして、その声は、笑っていた。
 どうしてそんなふうに笑えるんだよ。
自分の気持ちを断ち切るって、どういう意味なんだよ。
 声に出して訊きたくても、喉に引っかかって出ない。
でも、その答えに、俺はすぐに辿りついてしまった。
 智歌は、自分の気持ちを犠牲にして、嘘を吐いてきた自分を許してもらおうとしているのだ。
 俺はとっくに許してるのに、そんなことしなくていい。智歌もちぃにちゃんと気持ちを伝えればいいのだ。
「智歌! お前もちぃに」
「翔奏。どうして俺は今まで深桜に何も言わなかったと思う?」
落ち着いた智歌の声は、どこまでも穏やかで深い声だった。
「俺が気持ちを伝えても無駄だからだ。あの時、ちぃは俺じゃなくて、翔奏の名前を呼んだんだ。全部言わなくても分かるだろ?」
それはつまり……。
 俺はそこで全てを理解した。智歌はちぃにいつでも言おうと思えば、言えたのだ。それをずっと伝えなかったということは――。
「だから頑張れ。あっごめん。俺、そろそろ行く」
電話から智歌の声が離れて、俺は慌てて彼の名前を叫んで彼を引きとめた。
「何だよ」
「智歌。ごめん。……ありがとう。俺、頑張るから」
「あぁ、頑張れよ。じゃあな」
彼の明るい声を最後に、電話は途切れた。
 智歌のためにも俺は彼女のために、頑張るしかないのだろう。通話の切れたスマホを眺めて、俺はそれを握り締めた。
 彼には謝罪と感謝の言葉しか浮かばない。
 俺は彼のためにも、彼女のためにも精一杯歌うしかない。そしてちゃんと自分の気持ちを整理して、伝える必要がある。
 智歌がその機会をしっかりと与えてくれるのだから、それにちゃんと応えたい。
 その気持ちが俺の心をいっぱいに満たして、揺るぎない意志がしっかりと固まった。

 沖浦さんから二時前に連絡があり、俺は部屋から出てマンションの前に来たとき、懐かしい姿が目の前を通り過ぎていった。
「あれ、史也(ふみや)くん?」
「翔奏さん」
Black Fox Tailsという四人バンドのベース担当の少年だ。お兄さんの秋夜(しゅうや)くんがボーカル&ギターを努め、早くどこかのレコード会社から、声がかからないかと、俺も注目をおいている。
 俺がデビューする前に、何度かライブハウスで一緒になり、俺と同じように秋夜くんも自分の想いを歌にのせて歌っていたから、意気投合して仲良くなった。過ごした時間は本当に短かったけど、彼らのバンドはとても印象強く残っている。
 最近は彼から連絡もなかったが、こうして史也くんに会えて安心した。
 彼が肩にかけているベースバッグを見る限り、今もバンドは続いているようだ。
「今から練習?」
「はい。兄みたいにならないといけないので」
彼の目は真剣そのもので、いつも何かを貫くような力をみなぎらせている。あの時とあまり変わっておらず、無愛想で素っ気なさそうに見えるけれど、心の芯が強い。
 年上の俺やバンドのメンバーに対しても、音楽のことになれば、言いたいことははっきりと言う子なのだ。
「お兄さんは元気?」
「……えぇ、まぁ」
力強い目が霞み、彼の答えは歯切れが悪かった。あの仲のいい兄弟が、珍しく喧嘩でもしたのだろうか。
 でも俺にとっては、そうやって喧嘩できる相手がいるのは羨ましかった。俺はデビューするまで、一人でやってきて、音楽で喧嘩する相手すらいなかったからだ。
 そんなことをぼんやりと思いながら、史也くんを見ていたら、彼はまたすっとした眼差しで俺を見上げた。
「翔奏さんは今から仕事ですか?」
「あぁ。そろそろライブが始まるからね」
彼の様子は気になったが、あまり突っ込んでいい話題ではないのだろう。無理やり話を戻す必要もないから、俺はそのまま続けた。
「近々二ヶ月に及ぶライブツアーを控えてるから、それでいろいろあってね」
「知ってます。……俺は観に行けないけど」
「チケット取れなかったとか? だったら」
「いえ。そういうのじゃなくて、今はとにかく追いつきたいんです」
「お兄さんに?」
彼の瞳が一瞬揺らいだけれど、彼は力強く頷いた。
「はい。それから翔奏さんにも。それでまた同じライブ会場で一緒にやりたいとか考えてて……」
こんな真っすぐな子は、他に見たことない。彼の言葉を聞いていると、自然と笑みが零れてしまう。
 今は確か高校二年生だろうか。出逢った頃は中一になったばかりの頃だったけど、その頃から彼のベースの腕はすごかった。しっかりとした音で、リズムも崩すことがない。
 でもたまにミスをするとそれを引きずる様に、焦って取り戻そうとして、崩してしまうこともあった。
 完璧を求めすぎている気がするが、たぶんそれを指摘したら彼は伸びない。自分でも分かっているみたいだから、言いすぎたら逆に彼を追い詰めてしまうだろう。
「わかった。待ってるよ。だからお兄さんとおいで」
「……ありがとうございます」
史也くんは何か思うことがあるのか、そっと視線を外した。
 どこか俺の知る史也くんとは違い、その雰囲気に違和感を覚えたけれど、沖浦さんの車が俺たちの前に停車した。
「翔奏。その子は」
窓を開けてちらっと彼の方を見た沖浦さんに、史也くんは軽く頭を下げた。
「昔、ライブハウスで一緒だったバンドの子です。ごめんね。史也くん。俺行かなきゃ行けないから、また今度ね」
「はい。ではまた」
 車に乗り、窓から手を振ると、彼はまた軽く頭を下げて、バッグを担ぎ直した。
 彼は車が曲がって見えなくなるまで、俺たちの姿を見つめていた。
「懐かしい?」
「えっ? まぁはい」
突然の沖浦さんの問いに、俺は戸惑いながらも頷いた。
 彼と話したら、昔、ライブハウスで音楽をやっていたころを思い出した。
 あの頃は、ただがむしゃらに歌を歌って、一人で時間があれば曲をかいたり、練習をした。今もやっていることは、変わらないかもしれないけれど、もう一人ではない。
 聴いてくれる人もたくさんいるし、応援してくれる人もいる。
「でも今はライブに集中しなさい」
沖浦さんの声に、俺は深々と頷いて応えた。沖浦さんの期待にも応えたいし、彼女がたくさんの時間を費やして作り上げたステージを、無駄にはしたくない。一人で作り上げるステージではないのだ。
運転する沖浦さんを何気なくちらりと窺うと、彼女の胸元に光るものを見つけて、俺は目を見張った。彼女の首に、見慣れないペンダントがかけられていたからだ。
「沖浦さん、珍しいですね。そういうのつけるの」
「あぁ、これ? 彼から貰ったのよ。記念日とかクリスマスとか気にしない彼だったけど、誕生日はしっかり覚えててくれて、そのときにね」
「わぁ。沖浦さんの彼氏ってどんな人か気になりますね。きっとすごい仕事できる人っぽい」
今まで装飾品を全く身につけていなかった沖浦さんに、俺は動揺を隠すことができなかった。
「……そうでもないわよ。そんなことよりちゃんと休めた?」
「えぇ。まぁ万全ではないですけど」
沖浦さんにもっといろいろ訊きたかったけれど、これ以上何か言うと鋭い瞳で一瞥されそうだ。今は、ただでさえ疲れもストレスも溜まっているだろう。気にはなるけれど、ライブが一段落して、機会があれば訊いてみよう。
 今はお互いのことに気を配り合うしかない。沖浦さんも俺も自分のことは二の次で、仕事のことを考えてしまうから、沖浦さんのことは、しっかり見ておかなければいけない。
「沖浦さんこそ大丈夫ですか?」
「寝る暇なかったけど、頭は冴えてるから平気よ。でも、あなたは移動中に休んでもらって構わないから。着いたら起こしてあげるわ」
「ありがとうございます」
本当は運転を変わってやりたいくらいだけど、免許を持っていない俺には無理だった。
「私のことは気にしないでいいわ。あなたが仕事してる時に、私は休むことだってできるのだから」
「……本当にすみません。そう言ってもらえると助かります」
俺は彼女の言葉に甘えて、シートを倒した。こうやって身体を横にすると、また意識が徐々に遠のいていく。
思っている以上に、身体は疲れているようだ。
「沖浦さん。……チケットもう投函してくれました?」
「えぇ。ちゃんと彼に届けたから、安心しなさい。彼女に届くといいわね」
「はい。ありがとうございます」
これから二ヶ月間のライブがスタートする。ライブだけじゃなくて、その合間に、少しだけラジオの仕事も入ってくる。それでも俺はまだ始まってもいないのに、最終ライブの日を心待ちにしていた。
 俺の歌を聴きに来る人たちも、きっと俺に会いたいって思ってるのだろうか。
たぶんその気持ちと変わらない「逢いたい」っていう思いが、俺の心の中に沸々と熱を帯びて、湧き起こってきていた。
「……たった今、彼とは別れたけどね」
微かに沖浦さんが何か呟いた声が聞こえたけれど、俺は波のように押し寄せる睡魔に耐え切れず、そのまま寝てしまった。

 翔奏の電話があってから、深桜との別れのカウントダウンが始まった。それは、翔奏の最終ライブの日だ。
昨日、いよいよ一般チケットの発売が始まったものの、即完売。
数ヵ月後にはライブがスタートする。
「じゃあ、元気でね」
「うん。ありがとう」
俺は皆が欲しがっている翔奏のチケットを持った手を振りながら、走り去るスポーツカーを見送った。
 もう後戻りできない。俺はその車が見えなくなるまで見送った後も、しばしその先を見つめた。
 あの車に乗ることはもうない。自分で初めて断ち切った繋がりだ。
 忙しいというのに朝から昼まで時間をつくってくれて、俺が彼女との最後の昼食を済ませた。
 俺はチケットを握り締めて、大学の門を一人潜った。
「先輩。もしかして今の……」
突然の声に俺は肩を震わせた。振り返ると門の陰に隠れるように、深桜が複雑な表情でこちらを見ていた。
「なんだよ。驚かすなよ」
「先輩。私……」
深桜がちらっと、車が走り去って行った方を見て、沈黙する。いかがわしいことは何一つしていないから、俺は気にならなかったけれど、深桜はどうも気にしている様子だった。
「彼女に送ってもらったんだ。あっ、でもさっき別れたけど」
「えっ!? どうしてですか!!」
何事もないかのようにさらりと言ってのけると、案の定、深桜は声をあげた。
「別れようって言ったんだ。だから」
「先輩それ答えになってませんよ! それに先輩今まで傷つけたくないから、振らなかったんじゃなかったんですか?」
彼女がそう言うのは当たり前だ。俺は今まで、誰にも自分から別れを告げたことがないのだ。傷ついた自分と重なるのを避けるために……。
 でも、もうそんな自分とは、訣別することを決めたのだ。
 彼女も別れを切り出されるのは分かっていたのか、執拗な態度を示さなかった。
でも最後と分かっているにも関わらず、彼女なりの必死な抵抗が、胸元で光っていたのは引っ掛かった。
それは、俺が彼女の誕生日にあげた小さなペンダントだった。
 だから少なからず、彼女を傷つけたことには変わりない。
 でも、そんなもやもやした気持ちを、深桜に悟られたくなくて、俺は気持ちを切り替えて、話題を逸らした。
「そんなことより、俺に何か用があったんじゃないのか?」
「えっ……でも今じゃなくても」
「俺は、別に今でも構わないけど。どうせ深桜が、俺に用があることって、ピアノか相談だろ? だったら俺、今から弾きにいくつもりだったから、ついてくるなら好きにしろ」
てっきりついてくると踏んでいた俺は、深桜の方に振り返った。
でも、彼女は立ち止まったまま動こうとせず、何か言いたそうに眉を寄せている。
 こんなときは、だいたい俺が嫌がることなのだろう。彼女は、それを分かっているが故に、言い淀む。
「あの先輩。もちろん、ピアノも聴きたいんですが、お願いがあるんです。きいてくれますか?」
「内容によるけど、何?」
ちぐはぐな言葉を並べて、視線を外していた深桜の瞳が、真っすぐ俺に向けられる。ますます嫌な予感が頭の中を過ぎ去っていく。
「藤沢翔奏の歌を聴かせてくれませんか?」
そう断言した深桜の意図が分からず、俺はどう答えていいのか迷った。
 生の歌声を聴きたくて、俺に願っているのだろうか。
もしかしたら、俺がチケットを貰ったことを知っているのだろうか。
 いろいろな考えが頭を駆け巡った。
「それどういう意味だよ。深桜全部CD持ってんじゃん」
「いえ、そういうことじゃなくて。先輩の歌を聴きたくて」
恥ずかしそうに微笑む彼女の願いが、ようやく理解できた。つまり、俺に翔奏の歌を歌ってほしいということだ。
だが、そんなことは、絶対にしたくはない。
「断る!!」
「えっ? どうしてですか?」
 俺ははっきりと言い放ち、おろおろする彼女をおいて、足早に歩いた。後ろから慌てた様子で、深桜が追いかけてくる。
 冗談じゃない!