八神探偵の顔色は今日も青白い


 *


「つまり、もう一人の幽霊が現れたって事?」

 幽霊よりも青白い顔をした八神さんが、読んでいた本から顔を上げて言った。

「違います。誰か別の()()が現れたんです」

 興奮冷めやらぬままさっきのアレを事細かに説明したところ、八神さんから的外れな回答が返ってきたので俺は正しく言い直す。あれは幽霊なんかじゃないって。足音聞こえたし、懐中電灯持ってたし。

「え~。幽霊って言った方が盛り上がると思わない?」
「この世に幽霊なんて非現実的なものは存在しません」
「まったくもう、ケントくんは夢がないなぁ」
「ふふっ。あんた昔から怖い話苦手だったもんね~? テレビで心霊特集とかやってるとすぐ目線逸らして」
「苦手じゃない。……得意じゃないだけだ」
「あら、それを世間一般では苦手って言うのよ?」

 姉は面白そうにクスクスと笑った。違うんだって。別に苦手なんじゃなくて得意じゃないだけなんだって。マジで。

「でも確かに不思議だね。奈々さん曰く、今まではこんな事なかったんだろう?」
「なかったって言ってました。あの足音が誰か心当たりもないって。……肝試しに来た生徒の誰かですかね?」
「その可能性も否定出来ないけど、それにしては大人しすぎる気がする。生徒だったらもっと大人数で来そうだし、例え一人で来ても写真や動画を撮ったり、もっと色んなとこ見て回りそうじゃない?」

 言われてみれば確かにそうだ。

「だとすれば噂が広まったことによる教師の見回りか、あるいは──」
「八神くんと弟くんに朗報だ! さっき学校側から連絡が来て、取材の許可が取れたぞ! 今週の土曜、午後一時だそうだ!!」

 大きな声を上げながら芳賀さんが店に入ってきた。珍しく外に出ていたらしい。おそらく、佐竹さんから逃げていたに違いない。

「そうそう、八神くんは俺の担当編集者ってことで同行してもらうから何か聞かれたら話を合わせておいてほしい。当日は西原(にしはら)っていう男の先生が案内してくれるらしいが弟くん、知ってるか?」

 西原……確か今年二年目の社会科教師。一年生の担任だし教科担任でもないので関わりはないが、顔と名前ぐらいは知っている。

「関わりはないですけど一応知ってます」
「なら良いだろう。俺が弟くんと知り合いだって事を話したらその先生と一緒に校内を案内させるって。これで堂々と行動出来るぞ! よかったな!」
「ありがとうございます。でも、芳賀さんは仕事の方大丈夫なんですか?」
「ん? まぁーアレだ。佐竹に言ったら締切近いくせに何寝ぼけたこと言ってんだ吊るすぞボケゴラァってキレられたんだけどー、作品のためにどうしても必要なんだってゴリ押ししてなんとか許可もらえた! ついでに締切も伸ばしてもらえた! 超ラッキー!」

 ああ、あんなに協力的だったのはやっぱり締切から逃げたかったからか。ちょっとでも芳賀さんを見直した自分が恥ずかしい。

 交換したばかりの江川さんの連絡先にメッセージを送ると、「わかった」と簡素な答えが返ってきた。……今日は木曜日。土曜日まであと二日。

「本当に見つかるんですかねぇ……」
「ん? 奈々さんの探し物? 大丈夫じゃない? だいたい目星はついてるし」
「はぁ!?」

 何言ってんだこの人。音楽室にも行ったことないくせに目星はついてるだと? おい嘘だろ探偵か!? ……あ、一応探偵だったんだ。

「まだ確信はないけどねぇ。ま、大丈夫だって。最悪みんなで探せば見つかると思うし!」

 ド甘ったるい飲み物をごくりと飲み干し、無責任な発言をする八神さんには不安しかなかった。

 *


 じめっとした生温い風が吹く、土曜日の午後一時。俺が通う緑ヶ丘高校の職員玄関には、『ようこそ! 芳賀恭一郎大先生!』と書かれた横断幕が掲げられている。こんなの一体いつ準備したんだよ、と呆れていると、歓迎ムードの教師陣が将来なりたくない大人代表の二名に向かって挨拶を始めた。

「本日ご案内をさせていただきます、緑ヶ丘高校教諭の西原(にしはら)駿(しゅん)です。よろしくお願いします」
「教頭の山田(やまだ)俊郎(としろう)です。ようこそおいでなさいました」
「芳賀恭一郎です。こちらは()当の()八神」
「八神碧と申します。本日はよろしくお願い致します」

 普段とはまったく違い社会人としてきちんと挨拶をしている二人に失礼ながら感動を覚えた。先日のデビュー記念パーティーと同じスーツを着た芳賀さんは、髭もないし髪型もきちんと整えられていて、対面用に飾られた完璧イケメンモードである。いつもの黒スーツを着こなした八神さんと並ぶとホストみたいで、自分が居る場所は学校だよなと何度も確認してしまった。

「いやぁ、学校側には無理を言ってしまって申し訳ありません」
「そんなことありませんよ! あの芳賀恭一郎先生からの申し出ですから、教員一同大喜びで! 校長なんか長年奥様(桜子さん)のファンだから喜びようが凄くてね。はしゃぎ過ぎてギックリ腰やっちゃって、今日は来られなくなってしまったんですよ。泣きながら電話が来た時はどうしようかと……」

 何してんだ校長。桜子さん本人が来るわけでもないのにはしゃぎ過ぎてギックリ腰って。

「それは大変だ。後で妻のサインでも届けましょうか? お見舞いとして」
「もしご迷惑でなければ是非! ……それと、芳賀先生ご自身のサインを貰ってもいいでしょうか? 私の娘が大ファンでして」
「はは、嬉しいですねぇ。じゃあ後でまとめて彼に渡しておきますよ」

 芳賀さんは俺を見ながら言った。

「弟くん、よろしくな」
「……弟?」
「ああ。実は私、彼の家でやってる喫茶店の常連客なんですよ。そこの人気バリスタが彼のお姉さんでね。私は愛称として弟くんと呼んでいるんです」
「なるほど」

 愛称で弟とは小説家のくせに随分と安直である。そして教頭、理由になっていないのに納得しないでくれ。

「おっと、申し訳ありませんがこの後他校で会議が入ってまして。私はご案内する事は出来ませんが、何かあったら西原先生になんでも聞いて下さい。なんてったって彼はこの学校の卒業生ですから。我々が知らない事も知ってるでしょう」
「ハードルを上げないでくださいよ教頭」
「はっはっはっ! 西原先生、校長の分もしっかりとご案内するんだぞ! では失礼します」

 教頭がいなくなると、西原先生は二人に「GUEST(ゲスト)」と書かれたネームプレートを手渡した。

「校舎見学の際はこれを首に下げてください。これさえあれば校内をうろついていても通報されることはありませんから。部活の子たちが来ているので、写真は生徒が写らないように配慮していただければ自由に撮ってもらって構いません」

 来客用のスリッパをペタペタと鳴らす子供のような大人二人に、西原先生は丁寧に説明をしていく。

「一応校舎内はご案内する予定ですが、どこか重点的に取材したい場所はありますか?」
「そうですねぇ……旧校舎には入れないんですか?」

 いきなり核心を突いた芳賀さんの言葉に俺はドキリとする。西原先生は「旧校舎ですか……」と困ったように言葉を詰まらせた。

「あそこは取り壊しが決まってるので立入禁止なんですよ」
「そうなんですか? 残念だなぁ……実は今日の本命は旧校舎の方だったんですよ。ほら、幽霊の噂があるでしょう? それについてちょっと聞きたくて」
「噂って……もしかして佐藤くんから聞いたんですか? 有名な小説家さんの耳にまで入ってるなんて困ったなぁ。あんなのただの噂話なのに」

 とんだ濡れ衣だが仕方ない。俺が言ったことにしてやろう。

「そういう噂話が作品のインスピレーションに繋がるんですよ! 実は、次の作品は学園ファンタジーものにしようかと思ってましてね、そこにちょうど幽霊の話を聞いたものですから。どうか取材させて頂けませんか? お願いします!!」

 芳賀さんはがばりと頭を下げる。ていうか、それっぽい事言ってるけど、次の作品とか全然決まってないからな。決まってたら佐竹さんがあんなに怒るはずがない。

「あ、頭を上げて下さい! そこまでおっしゃるなら最後にこっそり回りましょう……校長には内密に。じゃないと俺のクビが飛んじゃうんで」
「ありがとうございます!」
「じゃあ行きましょうか」

 資料の撮影用にと持たされたカメラを手にした八神さんは、西原先生の様子を観察するようにじっと見ていた。







「西原先生!」

 二年の教室を見ている途中に聞こえてきたソプラノ声。それは江川さんのものだった。江川さんは息を弾ませて俺たちの前に立つ。

「どうした?」
「小説家の芳賀恭一郎先生が取材に来るって聞いて! 大ファンなんです! 私も一緒に案内させて下さい!!」
「いや、それはちょっと……」
「お願いします!」

 渋る西原先生に、芳賀さんはにこやかに言った。

「いいじゃないか。彼女にも案内してもらおう」
「しかし、」
「君の名前は?」
「江川奈々です」
「江川さんか。よろしくね」

 事前の打ち合わせ通りに芳賀さんがうまくアシストしてくれたおかげで無事に江川さんと合流出来た。

 ──さて。今のところ順調に進んでいるが……ここからどうやって音楽室に行くつもりなんだ八神さん。この状況じゃ二手に分かれるのも単独行動も難しい。だいたい、昨日は探偵ぶって〝隠し場所の見当はついてる〟なんて言ってたけどあれは本当だろうか。手掛かりといえば江川さんの話と手紙くらいだけど……ん? ていうか八神さんの顔色悪くないか? そういえばさっきから一言も喋ってないし足元もちょっとフラフラしてるし……あ、これヤバいな。

「西原先生すみません! ちょっと休憩とっていいですか!?」
「休憩?」
「実は八神さん、貧血持ちの病弱体質で。今ちょっとヤバイ状態じゃないかと……」

 カメラを持ってぼーっと立っている八神さんの顔色を見た西原先生が慌て出す。

「えっ、顔白っ!? だ、大丈夫ですか!? 保健室に行きます!?」
「いや、どこかで座って休めれば大丈夫だと。飲み物買って行っても大丈夫ですか?」
「じゃあ社会科準備室に行こうか。コーヒーぐらいなら出せるよ!」
「出来ればお菓子もあると助かります」
「探してみるよ!!」

 俺たちは走り出した。

 *


 資料室のような社会科準備室に似つかわしくない、珈琲の香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 準備室にあったありったけの砂糖とミルクを入れ、糖分の化物(シュガーモンスター)と姿を変えたインスタントコーヒー。西原先生と江川さんの信じられないと言った視線をものともせず、糖尿病まっしぐらな勢いでごくごくと飲み干した八神さんは幸せそうな顔で言った。

「いやぁ、ご迷惑おかけしてすみません」
「いえいえ。体調は大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか」
「八神さん! 体調が悪くなったら早めに言えっていつも言ってるじゃないですか!!」
「ごめんごめん。あ、このクッキー美味しい」
「本当だ。イケるね八神くん!」

 大人二人が机に出されたクッキーを遠慮なくさくさくと頬張る。今回は倒れる前に休めたし、糖分も摂取出来たので調子は良さそうだ。いち早く食べ終えた八神さんは、西原先生にようやくお礼を述べた。

「西原先生、ありがとうございました。美味しいクッキーまで頂いてしまって」
「いいんですよ。貰い物で申し訳ないですが気に入っていただけたようで良かったです」

 先生は安心したように笑った。

「ところで、教頭先生から西原先生はこの学校の卒業生だとお聞きしました。失礼ですがおいくつですか?」
「俺ですか? 今年二十四です。社会人二年目のぺーぺーですよ」
「じゃあ六年前の卒業生ですかぁ。当時のお友達とは今でも連絡を取ったりしてますか?」
「そうですね。全員じゃないですけど……何人かは」
「そのお友達の中に有名になった方はいませんか?」
「あの……」

 西原先生の顔が困惑気味に歪む。

「すみません。まわりくどかったですね。実はあなたにお聞きしたいことがあるんです。あなたは若宮和臣と江川麻衣を知っていますね?」
「そりゃ……知ってますよ。高校の同級生です」
「ただの同級生ではありませんよね? 特に若宮さんとはかなり親しかったのでは?」
「ええ、友人ですけど」
「では、二人が交際していたことも当然ご存知ですよね?」
「あの……さっきから何なんですかこの質問」

 さっきより不快感を色濃くした先生が言った。

「単刀直入に言いましょう。西原先生、あなたは若宮和臣の()()()ですね?」

 八神さんが青白い顔で告げると、先生はぐっと息を呑んだ。

「いや、事件でもないのに共犯者という言い方は不味かったな……申し訳ない。協力者に訂正します」

 協力者って……西原先生が? 一体何を協力したっていうんだよ。皆の視線が八神さんに集まる。

「西原先生。あなたは若宮和臣さんから別れた彼女にプレゼントを送りたい、と相談を受けていたんじゃありませんか?」

 ビクリと肩が上がった。答えはないが、その反応から見て分かる。

「僕はあの手紙を読んでずっと気になってたんですよ。和臣さんはどうやって麻衣さんへのプレゼントを隠したのかなって。だって、彼は海外に行ったきり日本に帰ってきていないんでしょう?」

 言われてみれば確かにそうだ。日本にいない和臣さんはいつこの学校の音楽室にプレゼントを隠したんだろう。

「あー、実は日本を発つ前に隠してた、とかは?」
「手紙には〝こないだようやく完成した〟とあったので、日本を発つ前に手元にはなかったと思われます」
「ってことは公演先の国で買ったってこと?」
「おそらくね。そうなると海外にいる彼はこの音楽室には来られない。一時帰国したというような話も確認されてないしね。でも、彼は確かにここに隠したと言った。……そこで僕は、誰か他に協力者がいるんじゃないかと思ったんだ。それも、校内を自由に動き回れる人物。音楽室に入っても怪しまれない人物。つまり、学校関係者です」

 西原先生は何も言わない。

「この学校の卒業生、二人の友人、現在は教師。これほど条件の揃う人物は他にいないと思うんですが、どうでしょうか西原先生」

 数分、いや、数十秒の沈黙のあと、フッと表情を緩めた西原先生が口を開いた。

「お見事です」

 はぁーと深く息を吐いた西原先生は肩の荷が降りたように笑った。

「八神さん、まるで推理小説に出てくる探偵みたいですねぇ。なんか俺、犯人みたいな気分でドキドキしましたよ」
「ええ、探偵ですから」
「え?」

 八神さんは申し訳なさそうにネタばらしをする。

「すみません。芳賀さんの担当編集者というのは嘘なんです。僕は若宮和臣さんの隠したプレゼントを探しに来た正真正銘の探偵です」
「先生方を騙すような真似してすまんね。あ、私は本物の芳賀恭一郎だよ!! 取材に来たのは本当なんだ!」

 芳賀さんが慌てて手元のノートを見せる。どうやら取材する気は本当にあったようで、中には何やらたくさんのメモが書かれていた。

「そうだったんですか……でも、八神さんはどうして二人のことを、いや、プレゼントのことを知ってるんですか?」
「それは、」
「先生ごめんなさい!」

 ガタンと立ち上がると、江川さんは頭を下げた。

「私がお願いしたんです」
「君が……?」
「はい。二年四組江川奈々。……江川麻衣の妹です」

 驚いたように丸くなった目で江川さんをじっと見る。

「歳の離れた妹がいるとは聞いてたけど……君がそうだったのか。言われてみれば目元が似てるなぁ~」
「ついでに白状すると、今この学校を騒がせている幽霊の正体は彼女です。音楽室でプレゼントを探す影を見られ、どんどん話が広まっていったようですね」
「そうか。実は俺もこの噂が出た時、もしかしたら麻衣ちゃんが探しに来てるんじゃないかって思ったんだよ。場所が旧校舎の音楽室だったしね」
「なるほど。それで先日の放課後、様子を見に行ってみたわけですか」
「そんな事まで分かってるんですか? 探偵ってすごいなぁ」
「これはたまたまですよ。ちょうど目撃者がいたんでね」

 八神さんが俺たちの方を見ながら言った。その視線でようやく気付く。

「あっ! もしかしてあの時来たのって西原先生!?」

 俺はホラー映画のような体験をした先日の出来事を思い出す。江川さんも同様だ。

「中に居たのは君たちだったのか。あの音楽室は普段鍵がかかってないのにかかってたから、誰かいるなと思って引き返して来たけど……そうか。君たちが探してたんだね」
「ごめんなさい勝手にこんなことして……でも私、どうしても見つけたかったんです。この校舎が取り壊されたら何もかもが終わってしまう気がして……」
「謝らなくていいよ。悪いのはいい歳してこんなこと考えた俺と和臣なんだから」

 西原先生は軽く笑った。

「八神さんの言った通り、俺は和臣からこの件について相談を受けていました」
「はい」
「振られたけど、麻衣ちゃんのことを諦めきれなかった和臣は手元に置いていたプレゼントを見て一種の賭けに出た。二人の思い出の場所にプレゼントを隠し、それを見つけてくれたらもう一度告白する。見つけてくれなかったらきっぱり諦める、という賭けです。俺はその手伝いとして、和臣に言われた通り送られてきたプレゼントをこの学校の音楽室に隠しました」
「どこにあるんですか!? 教えて先生!!」
「それが……」

 先生の表情が一気に曇る。

「隠した場所は分かるけど、()()()()()()んだ」
「と、取り出せない……?」
「どういう事ですか!」
「ピアノの蓋の隙間、ですね?」

 はっきりとした口調で告げた八神さんの言葉を、俺は繰り返す。

「ピアノの蓋の隙間?」

 隙間ってことは、弦が張ってあるのが丸見えの広いところか? 着ぐるみの中の人(てき)な部分。

「で、でもっ、ピアノの周りはもう何度も探しました!! 蓋の中だってちゃんと……!」
「ええと、蓋っていうのはたぶん奈々さんが思ってる場所じゃなくて……いや、話すより見た方が早いね。行きましょうか。旧校舎の音楽室へ」

 珍しく機敏な動きで椅子から立ち上がると、八神さんは俺たちを促すように資料室を出た。
 昼間のおかげかこないだよりは明るい旧校舎だが、相変わらず空気は埃っぽいし廊下はギシギシと軋んでいた。この音楽室も、怪しげな雰囲気は健在だ。

「──さて」

 真っ黒なグランドピアノを囲むようにして並んでいる俺たちを確認すると、八神さんは切り出した。

「さっきの続きだけどね。奈々さん、君が言ってたのはこのピアノで間違いないね」
「はい。この蓋を開けて隅々まで探してます」

 江川さんはハープを横に置いたような形の黒いボディを指差しながら言った。

「ああ、やっぱり。君が言っている蓋はピアノの響板(きょうばん)──鳥の翼のような形のこの部分だね」

 俺がハープを横に置いたような、と説明したその部分は響板というらしい。鳥の翼……まぁ、見えなくもない。

「これを覆っている黒い部分はね、蓋じゃなくて屋根って言うんだ」
「えっ!?」
「ピアノに詳しくない人はあまり知らないだろうね。普通に蓋に見えちゃうし」

 屋根……確かに初耳だ。ていうかあの部分に名前があったことすら初耳である。それにしても、八神さんは何故こんなに詳しいんだろう。ピアノでも習ってたのか? 言いながら八神さんは黒い棒のようなもので開いた屋根を支える。

「この屋根はピアノの音を反響させる役割があってね。この突上棒(つきあげぼう)で支えてあげれば……よし、開いた。奈々さんが探してた場所ってこの中のことじゃないかな?」

 動物捕獲の罠のように開かれたピアノの内部をチラリと見ると、江川さんは小さく頷いた。

「実はピアノには一度入ると中々出て来られない秘密のスポットがあってね。おそらく、西原先生は預かったプレゼントを()()()()()()に落としたんじゃないかと思うんだ」

 八神さんは鍵盤を覆っている()に手を掛ける。横長の赤いフェルトをしゅるりと外すと、白と黒の鍵盤がお目見えだ。

「ほら、見える? グランドピアノの鍵盤蓋はね、開閉する時こうして本体との間に()()が出来るんだ」

 説明しながら、八神さんは再び鍵盤の蓋を閉じた。

「誰か鉛筆持ってない?」

 その問いにいち早く反応したのは芳賀さんだった。ネタをメモするために使っていた赤いシャーペンを八神さんに渡す。

 八神さんは借りたシャーペンを閉じた蓋の上にのせ、そのままサッと開く。すると、蓋の上にあったシャーペンはコロコロ転がり、蓋とその正面との間に出来た僅かな隙間に吸い込まれるように消えてしまった。ほんの一瞬。まるで手品のような鮮やかなイリュージョンだった。

「これが和臣さんの考えたプレゼントの隠し場所ですね? なので、おそらくプレゼントはこの隙間に入る大きさの物だと思います」
「そ、そうそう、まったくその通りです! 和臣から預かっていたのは一通の封筒でね。その中身は俺も知らないんだ。俺は言われた通りの場所に指示通り隠しただけ。俺もピアノに全然詳しくないからさ、実はどうやって取り出すのかなって疑問だったんだよ。だって、どうしたって手が届かないんだから!」

 西原先生は興奮気味に言った。

「確かにそうです。この隙間に入ってしまってはどう頑張っても中身を取り出せません。でも、簡単に取り出せる方法はあるんです。今から説明しますが……自慢じゃないけど僕は体力がないんだ。ここから先はケントくんに手伝ってもらおう。ケントくん」
「ぅえっ?」

 突然お呼びがかかった俺は、驚きながらもピアノに近付いた。

「実はこの鍵盤蓋はね、コツさえ掴めば誰でも簡単に外せるものなんだ。ケントくん。蓋を開けた状態にして上の曲線になってるところを手で掴んでみて」
「えっと、こうですか?」
「そうそう。そのまま上に真っ直ぐ持ち上げて。重いからゆっくりでいいよ」

 言われた通りゆっくり真上に持ち上げると、蓋はストンと外れた。確かに予想していたより簡単に外せたが、この黒い蓋、マジで結構重い。八神さんが持ったら倒れるかもしれないな。

「重いから横に立て掛けておいていいよ」

 八神さんに言われた通り、俺は壁側に立て掛けるように黒い蓋を置いた。
 蓋を外すとピアノの内部がよく見える。おお、なんだか見てはいけないゆるキャラの中身を見てしまった気分だ。白い鍵盤の向こうには、木琴のような板がずらりと並んでいた。どうやら鍵盤と繋がっているらしい。ピアノの仕組みは複雑である。そして、その板の真ん中にぽつんと乗っているのは落としたばかりの鉛筆と、一枚の封筒。

「あっ!!」
「こ、これです! これ、俺が入れた封筒! 間違いない」
「こんな所にあったなんて……これじゃあ見つかるはずないじゃんか」

 江川さんが嘆くようにポツリと言った。

「奈々さんも言ってただろう? 二人の出会いはこの音楽室で、()()()()()()に落としてしまったシャーペンを取ってくれたことだって。きっと、麻衣さんはこのピアノと鍵盤蓋の隙間に落としてしまったんじゃないかな。だからきっと和臣さんはその時と同じ場所に封筒を隠したんだと思う。二人しか知らない特別な思い出だから」
「……そういえば。お姉ちゃん、分解してあっという間に取ってくれたのがカッコ良かったとか言ってたような……。なんのことか分からなかったけど、きっとこうやって蓋を外してくれたんですね」
「おそらくね。……さぁ、奈々さん」

 八神さんに促され、江川さんは封筒に腕を伸ばす。
「……あの」
「わっ!?」

 突然聞こえた声に心臓が飛び出そうになった。音楽室の入口には、白いシャツにプリーツのロングスカートをはいた美人が立っていた。ぐっと眉を潜め、こちらを怪訝そうに見ている。

「八神探偵事務所から緑ヶ丘高校の旧校舎に妹を迎えに行って下さいって電話が来たんですけど……」
「お、お姉ちゃん!?」

 江川さんが驚いたように叫んだ。お姉ち……ってお姉さん!? 和臣さんの恋人の!?

「お待ちしてましたよ。江川麻衣さん」

 八神さんはニコリと笑みを浮かべながら言った。この口ぶりからすると、麻衣さんが来ることを事前に知っていたようだ。

「な、なんでここにいるの!?」
「女の人から電話が来たのよ。あなたの妹がうちの探偵と学校の七不思議を調べてるから、変なことに巻き込まれる前に迎えに行った方がいいって」

 女の人……? って、それ絶対うちの姉ちゃんだ。八神さん、姉ちゃんに頼んで麻衣さんに電話してもらったんだ。

「うわー、適当に言ってこっちに向かわせてとは言ったけど、これはちょっとひどいよモカちゃん」

 案の定、八神さんがぼそりと嘆いた。麻衣さんはきっと鋭い目で睨みつける。

「ていうか何なんですかあなた達。うちの妹を変なことに巻き込まないでくれます?」
「待ってお姉ちゃん、これには事情が!」
「麻衣ちゃん!」

 声を掛けた西原先生を見ると、麻衣さんは手を口元に当てて「えっ!?」と叫んだ。

「駿くん……だよね? やだ久しぶり!! てかなんでいるの?」
「なんでも何も俺今ここで教師やってんだよ」
「ウソッ!? 全然知らなかったんだけど! 妹の担任とか言わないよね!?」
「ははっ、残念だけどそれはないね。ぶっちゃけ麻衣ちゃんの妹だって知ったのちょっと前だし」

 西原先生のおかげでいくらか空気は和らいだ。

「学校の先生も付いてるってことは……もしかして七不思議を調べるっていうのは何かの課題なの? 迎えに来いっていうのも先生の指示?」
「いや。それはちょっと違くて」
「ごめんねお姉ちゃん。私がこの探偵さんに依頼したの」
「探偵に依頼? 奈々が? 何のために?」

 一瞬、江川さんは躊躇うような仕草を見せたが、覚悟を決めたのか姉を真っ直ぐ見て言った。

「……前、和臣さんからお姉ちゃんに手紙が届いたでしょ?」

 麻衣さんの表情が強張る。

「あれ、ゴミ箱に捨ててあったから私が拾ったの。中身も読んじゃった。ごめん」
「なっ!」
「その手紙にね、この音楽室にお姉ちゃんに贈るプレゼントを隠したって書いてあったの。探してくれるかは分からないけど、人生を賭けるって。私ずっと探してたんだけど見つからなくて。旧校舎は夏休みになったら取り壊されちゃうし、その前にどうしても見付けたくて……だから探偵に依頼したの」
「彼とは別れたって言ったでしょ。もう関係ないのよ」
「だって! 納得いかないもん! あんなに仲よかったのになんで別れなきゃならないの!?」
「好きじゃなくなったのよ! ピアノばかりで私にかまってくれないし、一緒にいる時間も少ないし。もう疲れたの!」
「嘘! 今でも和臣さんのこと好きなくせに!! 私知ってるんだから! ネットで和臣さんの演奏動画見てるの!」
「それはっ」
「今でもお互い好きなのに!! なんでお姉ちゃんは別れるなんて言ったのよ!?」
「っ、仕方ないでしょ!? 和臣と私じゃつり合わないんだから!!」

 そう叫んだあと、麻衣さんはぎゅっとスカートを握る。

「彼には才能がある。間違いなく和臣は世界で活躍するピアニストになるわ。それには私の存在が邪魔なの。今回の海外公演だって最初は断ったのよ? せっかくのチャンスなのに私と一緒に居たいからって。マネージャーさんにもこのままだと和臣はダメになるって言われたわ。だから離れる決意をしたの」
「そんなのお姉ちゃんのせいじゃない。和臣さんは、」
「……私がっ!! 私が彼の足を引っ張るのは嫌なのよ!!」

 これが麻衣さんの隠していた本音なのだろう。彼女は好きだけど相手のためを思って別れたのだ。

「開けてみませんか?」

 室内に場違いな明るい声が響いた。

「たった今、和臣さんのプレゼントを見つけたところなんですよ。この音楽室のどこに隠してあったと思います?」
「……そんなの分かるわけないじゃない」
「いいえ。あなたならすぐに分かると思いますよ」

 麻衣さんの視線は真っ直ぐにグランドピアノに注がれる。鍵盤の蓋が外され木の板が丸見えのそこには、淡い黄色の封筒と赤いシャーペンがまだ置かれていた。

「まさか……」

 麻衣さんの目が見開かれる。

「あの時のこと覚えてて再現したっていうの?」
「和臣さんが人生を賭けたプレゼント。せっかくここまで来たんですから、中身を見てあげてもいいんじゃないですか?」
「……お姉ちゃん」

 二人の言葉に背中を押されたのか、麻衣さんはゆっくりとピアノに近付く。ぽつんと置かれた封筒をしばらく見つめると、そっと手に取った。おそるおそると言った様子で閉じられた封を開ける。俺たちも固唾を呑んでその様子を見守っていた。

 出てきたのは丁寧に折られた手紙らしき紙と、ジップ付きの透明な袋に入ったシルバーの指輪。真ん中にキラキラと輝くダイヤモンドが付いている。

 その指輪の意味を理解して、全員ハッと息を呑んだ。麻衣さんも予想していなかったのだろう、驚嘆した表情を浮かべている。丁寧に折られた紙を静かに開くと、小さく震えた声が溢れた。

「なによアイツ……人の気も知らないで」

 ぽたり。丸い(しずく)が床を濡らす。

「私がどんな思いで別れようって言ったかも知らないくせに……勝手にこんなもの……探すかどうかも分からないのに……バカじゃないの」

 チラリと見えた三つ折りの紙は、茶色で縁取られていた。

「部外者の僕が言うのもあれですが……あなた達はもう一度話し合うべきだと思います。本当に大切な物を失ってしまう前に」
「……は、い」

 旧校舎の音楽室には、麻衣さんの小さな嗚咽が静かに響いていた。

 *


「はーい。本日のオススメ、ガトーショコラとキリマンジャロのセットです」
「ありがとうモカちゃん」

 運ばれてきた皿を嬉しそうに眺めると、目の前の八神さんはカップに遠慮なく角砂糖を沈めていく。あーあ。せっかくのオススメコーヒーなのに、これじゃあキリマンジャロの風味もコクもあったもんじゃない。俺は小さく溜息をついた。


 ──旧校舎の幽霊は、姿が見えなくなったらしい。

 ある日を境に、ぱったりと見えなくなったのだ。江川さんの探し物が見つかり、もうあの音楽室に行く必要がなくなったのだから当たり前といえば当たり前なのだが、事情を知らない生徒からするとさぞかし不思議なんだろう。

 代わりに、こんな噂が流れ始めた。『旧校舎の幽霊は小説家の芳賀恭一郎が除霊したのだ』、と。

 芳賀さんが来た日から幽霊が見えなくなったのでこの噂が広まったのだが、みんなの想像力には本当に驚かされるばかりだ。休日に忍んで学校に来たのは生徒に除霊を悟られないためだとか、校舎内を歩き回っていたのは取材のためじゃなく幽霊のなくした楽譜を探していた、とか。まぁ、そのおかげで彼女の正体もバレず幽霊騒動も上手く落ち着いたので、これで良かったのかもしれない。

 ちなみにそんな芳賀恭一郎はこないだの取材でアイデアが閃いたらしく、只今絶賛執筆中だ。この調子でいくと次の締め切りまで間に合うだろう。

「そういえば八神さんってピアノやってたんですか?」
「うん? ああ、小さい頃に少しね」
「やっぱり。部位の名前とか扱い方とか妙に詳しかったですもんね」
「あれはピアノをやってる人ならみんな知ってるし大した事じゃないよ。それより、僕の代わりに動いてくれてありがとうねケントくん。鍵盤の蓋、戻すの大変だったでしょ?」

 確かに鍵盤蓋は外すのは簡単だったが戻すのはけっこう大変だった。要は、蓋の両端をピアノ本体の両端に付いている金具に差し込めばいいのだが、それを合わせるのが中々難しい。蓋の下に付いた赤いフェルトと鍵盤の両端にある赤いフェルトを一直線になるように合わせれば簡単に入るはずだと言われても、肝心のフェルトがどこにあるのか分からなかったり、重くてずれてしまったり。何度も挑戦してやっと入ったが、次の日には腕が筋肉痛になっていた。

 ちなみに、無理して戻そうとしたり焦ってやったりするとピアノに傷がつくので、もしあの中に物を落としてしまった場合は調律師さんを呼ぶのが一番良い方法だそうだ。

「まぁ……ははは」

 苦笑いを浮かべていると、店のベルが鳴った。

「八神さん、佐藤くん、待たせてごめんね!」

 息を切らせながら入ってきたのは江川奈々さんだ。その表情は以前とは違い生き生きとしている。素早く注文を済ませて俺の隣に座ると、深々と頭を下げた。

「八神さん。先日は無茶な依頼を引き受けてくださってありがとうございました。姉も感謝してます」
「いいのいいの。お姉さんは元気?」
「元気ですよ。今空港にいるんです」
「空港?」
「そう。今日帰ってくる日だから」

 江川さんは嬉しそうに言った。なるほど。麻衣さんは彼を迎えに空港に行ったのか。

「って言っても一時帰国だけどね。日本凱旋公演。それが終わったらまた海外。ちゃんと帰国するのはもうちょっと先かな?」
「……しかし、和臣さんもすごい物をプレゼントにしたよなぁ」

 あの時、指輪の他に入っていた紙はなんと婚姻届だった。しかも、和臣さんの名前は記入済みで判子まで押してあったのだ。まさに〝人生を賭けた〟プレゼントである。

「指輪は日本にいる時からフランスのお店に頼んでたんですって。オーダーメイド数ヶ月かかるからねぇ、事前に準備してたみたい」

 きっと、日本を発つ前にはプロポーズを決めていたんだろう。それなのに突然振られて……和臣さんも辛かっただろうなぁ。

「さすがに婚姻届はビックリしたけど和臣さんらしくて面白かった。それに、あの手紙もお姉ちゃんには効果的だったんじゃないかなぁ」

 和臣さんが隠した封筒には、指輪と婚姻届の他にもう一通手紙が入っていた。


〝君と出会ったあの頃、僕はピアノをやめようか悩んでいたんだ。僕の演奏を純粋に聴いてくれる人はいなくて、周りの重圧ばかりがひどくなって、だんだん好きなピアノを楽しく弾けなくなった。何のために続けるのか分からなくなって、もうやめようかと本気で悩んでいたんだ。そんな時、あの音楽室で君に出会った。初めて僕のピアノを聴いた時の感想、覚えてる? あなたの音色はあったかくて優しくて、聴く人の事を想ってるのが伝わるから好きよってはにかみながら言ってくれて。僕の心は救われた。

僕は君がいないとピアノが弾けない。君がいないならピアノを弾く意味がない。全ての演奏は君を想って弾いているから。

だからどうか、これからも僕の傍で一生ピアノを聴いていて下さい。〟


 この手紙を読んだ麻衣さんはすぐに日本を発ち、直接和臣さんに会いに行ったそうだ。女性の行動力はすごい。そこで色々と話し合いが行われたのだろう。

「あっ、お姉ちゃんからだ。……和臣さん帰ってきたみたい。ニュースにもなってるって!」

 スマホで確認すると、それは既にネットのトップニュースになっていた。〝先日婚約を発表したイケメンピアニスト、若宮和臣が日本凱旋公演のため帰国〟という記事が写真付きで載っている。出迎えに来たファンに笑顔で手を振るその左手薬指には、銀色に光る指輪がしっかりとはめられていた。

「ピアノかぁ。僕も久しぶりに弾いてみようかなぁ」
「結婚行進曲なんてどうです?」
「そうだ! お姉ちゃんたちの結婚式に弾いて下さいよ!」
「いや、さすがにプロの前で付け焼き刃の演奏はちょっと……」

 しかし、八神さんがタキシードを着てピアノを弾いている姿を想像すると結構似合ってる。クソ、これだからイケメンは。

 姉ちゃんが江川さんのケーキとコーヒーを運んでくる。全員分の飲み物が揃ったところで、ニヤリと笑みを浮かべた八神さんが言った。

「それじゃあ、祝福のカンパイといきますか」
「賛成!」
「大団円、おめでとー!」

 俺たちはこの日、コーヒーカップで祝杯を上げた。




第2話.了
 サマーバケーション。夏の休日。そう、世間は夏休みに突入した。

 開放的な気分になりがちなこの時期はやれフェスだやれ海水浴だやれ祭りだとイベントが盛り沢山だが、俺は青い海も白い砂浜も夜空に咲く花火も何も見なくていい。俺は、エアコンが効いた涼しい部屋でだらだらと一日を過ごせれば何も文句は言わないのだ。枯れた青春なんて言われても痛くも痒くもない。

 しかしながら、八神さんは放っておくとおそらく熱中症か栄養失調であっという間に死んでしまうので、夏休み中はほぼこの探偵事務所を訪れなければならない。ちなみに冬は凍死の危険性が加わるので冬場もほぼ毎日訪れる。ああ、あの人はなんてめんどくさい人種なんだろう。

「ああ……暑い。暑すぎる……こんな時に外なんか出たら死んじゃう……死んじゃうよ……」

 心底ぐったりとした表情で八神さんは言った。白いワイシャツと同じ色をした肌の色のせいか、暑い暑いと言いながらも見た目は涼しそうである。

「これは地球が僕たちに復讐でもしてるのか? 人間が好き放題汚してしまったから……地球温暖化を止めることは出来ないのだろうか。そうだな、まずはCO2の削減と海洋プラスチックゴミの削減から始め、」

 ぶつぶつ独り言を呟いているこれは暑さで頭がやられてるわけじゃない。残念ながら通常運転だ。

「あのぉ、すんません。今ちょっといーッスか?」

 低い声にハッとして振り向くと、金髪ツーブロックの強面ヤンキー風な男性がドアの前に立っていた。驚いて固まっていると「一応ノックしたんスけど気付かなかったみたいなんで」と鋭い視線で言われる。

「す、すいません! ええと、まずはこちらへどうぞ! ほら八神さん、お客様ですよ!!」

 俺は慌ててヤンキーを中に案内する。暑さとは違う汗が出そうだ。デスクからのそりと顔を上げた八神さんは幽霊と見間違うような儚い笑みを浮かべヤンキーと対峙する。

「どうも八神碧です。こっちは助手のケンティー」
「……佐藤賢斗です」

 なんだそのあだ名一回も呼ばれた事ねぇよ! というツッコミを喉の奥に抑えながら、俺は八神さんをジロリと睨む。

真田(さなだ)(いつき)。飲食店アルバイトッス」
「そっかそっかぁ~。暑い中よく来たねぇ。ほらほら、冷たい物でも飲んで」

 なんだか久しぶりに実家に帰ってきた孫との会話に聞こえるのは気のせいだろうか。

「や、なんつーか。たまたま入った下の喫茶店でケーキ食ってたら、美人な店員さんに上の探偵事務所に行ってみればって言われて来たんス。あの人なら相談にのってくれるよって」
「何か困ってることがあるなら聞きますよ。探偵ですから」

 八神さんは探偵と便利屋を間違えてるんじゃないだろうか。俺はペットボトルの中身をコップに注いだだけの麦茶を真田さんの前に持っていく。

「もちろん、相談された内容は誰にも言いません」

 安心させるように笑うと、真田さんはぼそぼそと話しはじめた。

「実は俺……こう見えて物作りが好きで。物作りって言っても家造りとかDIYとかじゃなくて。その……女性が好きそうなアクセサリーとかぬいぐるみとかそういう可愛い系の。ハンドメイドっつーんスけど」

 ……パードゥン? 心の中で呟いて、失礼ながら二度見する。そのせいで危うく麦茶を零しかけてしまった。女性が好きそうな可愛い系のハンドメイドって……誠に失礼ながらその外見からはまったく想像がつかない。どっちかといえばクラブでポンポンとかナイトプールでパシャパシャとかしてる方がしっくりくる。いや、偏見を持っているわけではないが……ただただ驚いた。

「ちなみにこのピアスも自分で作ったやつなんスけど」
「わっ! すごい!! 売り物かと思った!!」

 それは八神さんの意見に同意見だった。長さの違うシルバーの二十チェーンが付いたロングピアス。片方の先に小さな星が装飾されていて、男女に人気がありそうなデザインだ。

「いや、こんなのは簡単なんス」

 少し照れたように言う姿はなんだか可愛く見える。え、なんかこの人、見た目怖そうなのに中身めっちゃいい人じゃね?

「ハンドメイド作家の作品を売買出来る『Cre(クリエ)』っていうアプリがあって、俺はそこに登録して自分の作品載せてるんス。こんな風に」

 見せられたスマホの画面にはSANA(サナ)の名でずらりと画像が並んでいる。レジンピアス、ビジューネックレス、刺繍ハンカチ、ネコのチャームが付いたストラップ。どれもお店で売られているようなクオリティーだった。
 すげぇ。このファンシーな小物が全部この強面ヤンキー真田さんの手作りなんて信じられない。

「こうやって作品を投稿して販売してるんス。作品に対して感想を言い合ったり、アドバイスしたり作りたい作品のアイデア出し合ったりも出来て」

 他の人の作品も見せてくれたのだが、みんなクオリティーが高く手作りとは思えないものばかりだった。

「好きこそ物の上手なれなんて言いますけど、皆さん本当にお上手ですねぇ」
「みんなマジでヤバいッスよね! 実はこのアプリで仲良くなった人がいて……オフ会しないかって、誘われたんスけど……」
「オフ会っていうのはネットでやり取りしている人と実際に会う、ということですよね?」
「……はい」

 真田さんは何故か浮かない顔をしている。

「真田さんはオフ会に行きたくないんですか?」
「いやいや違うんス! オフ会に行きたくないわけじゃなくて! むしろ行きたいんスけど、でも!」

 はぁ~と長く息を吐いて、真田さんは力なく言った。
「実は……俺、ネカマやってるんスよ」

 いきなり衝撃のカミングアウトである。

「ネカ……えっ?」
「ネット上で性別を女だって偽ってるんス。このアプリもSANAって名前でアカウント作ってて……」
「な、なんでそんな事?」

 ぽろりと口を出た疑問に、真田さんはクワっと目を見開いて叫んだ。

「だって!!!! 男がこんなん作ってたら気持ち悪がられるに決まってんじゃん!? ハンドメイドって圧倒的に女子率高いし!!」
「は、はぁ」
「アプリの登録者も女子のが多いし!! 男って分かったらドン引きされてありえないこの人からは買わないとか差別されんのがオチなんだよ!! だから警戒されないように性別偽ってネットでハンドメイド載せてんの!! 実際ネット上での俺、みんなと仲良いしな!」
「す、すみません!」

 どうやら俺は彼の中にある怒りのスイッチを押してしまったらしい。目が血走っている。ヤンキー怖い。佐竹さんで少し慣れてるとはいえヤンキー怖い。八神さんは落ち着かせるように言った。

「つまり、真田さんはこのアプリ及びネット上では女性のハンドメイド作家として活動してるため、オフ会には行きたいけど男だとバレるので返事に困っている。という事ですか?」
「……ッス」

 幾分か落ち着いたらしい真田さんがぽつりぽつりと話し出す。

「誘ってくれた人、ツカサさんっていうんスけど……最初はお互いの作品に公開コメントで感想書いたりしてて。だんだん話が盛り上がってDMで連絡取るようになって」
「なるほど」
「てかそのツカサさん二十五才の保育士で、なんと男の作家さんなんスよ!!」
「えっ!?」

 お、男? あれ、真田さんはハンドメイド作家はほとんどが女性だから浮かないように女だって名乗ってるはずだよな? ちゃんと男の作家もいるんじゃん。話矛盾してないか?

「なんだ。相手が男なら〝実は俺も男でしたすいません〟で済むんじゃないですか?」
「はあああ!? こちとら男で同じ趣味持った貴重な友人逃したくねんだよ!! でもあっち俺のことマジで女だと思ってっから!! 男だってバラしたら俺達の信頼関係が一気に崩壊すんだろーが!? そんくらい分かれや!!」
「すいません! すいませんってば!」

 必死に謝って目の血走った真田さんを(なだ)める。どうやら俺は彼の地雷を踏んでしまう質のようだ。

「この人は……ツカサさんは俺と違って。男でも堂々と作品出してるのがかっこいいなって思ったんスよ」

 ムスッとした顔で続ける。

「俺が思いつかないようなデザインとそれを実現出来る技術、スゲェ尊敬してんス。直接会って教えてもらいたいって気持ちもあるけど、ずっと騙してたっつー負い目があって。いや……違うな。俺はなにより怖いんだ。否定されたり幻滅されたりしたらと思うと……本当のことを話すのが怖い」
「……真田さん」
「こんな成りでこちゃこちゃ可愛いモン作ってると周りから色々言われんスよ。男子からは似合わないって揶揄われたり嫌がらせされたりしょっちゅうで。女子には割と受け入れられたけど、一部からは気持ち悪いとか言われて引かれてたし」

 ははっと寂しげに笑う。真田さんのピアスがゆらりと揺れた。

「だからせめてネットの中では自由になりたくて女だって嘘ついてんスよ。情けねぇんスけどね」
「僕は別におじさんやヤンキーが可愛い物作っててもいいと思いますけどねぇ。それの何がいけないのかまったく理解出来ない。ま、男は基本中身がバカですから。やっかみもあったんでしょうね」

 八神さんは珍しく怒ったように言った。きっと、自分の好きな事をしてるだけなのに、真田さんが理不尽な扱いを受けてきたことが許せないんだろう。

「真田さん、オフ会っていうのはその彼と二人で会うんですか?」
「いや、妹も来るらしいッス。てかオフ会って言ってもきっちりしたオフ会じゃなくて。今週末に南町ガーデン・ビルの二階でスノードーム作りのワークショップがあるみたいなんスけど、それに行かないかって誘われてるだけなんス」
「なるほど。……君はそのワークショップに行きたいんだよね?」

 八神さんは小首を傾げて彼の意思を確認する。目をあちこちに泳がせながら、真田さんは小さな声で言った。

「そりゃ……行けるなら行きたいッスけど、でも、」
「だよね。よし、じゃあ行っちゃおう!」

 ニコリと笑みを浮かべた八神さんの発言に、真田さんの鋭い目付きがさらに上がった。

「いやだから!! 行ったら男だってバレるじゃないッスか!?」
「うん。だから()()()()()()()すればいいんじゃない?」
「そんなのどうやって……ま、まさか女装させる気なんじゃ!? ムリッスよ!? 俺可愛い物作るのが好きなだけでそういう趣味ないッスからね!?」
「違う違う。そうじゃなくてね、オフ会には()()()()()()()()に行ってもらえばいいと思うんだよね」
「……は?」
「その女性を〝SANA〟にして、君は彼女に同行させてもらえばいい。そうすれば君は正体を明かさないまま憧れの人に会える。向こうも妹さんを連れてくるみたいだし、人数的にはちょうどいいだろ?」

 真田さんは迷っているようだった。

「……でも俺の代わりに行ってくれる人なんて見つかります? ある程度話とか分かってもらわなきゃなんないんスけど」
「その心配はしなくていいよ。僕が信頼している女性に頼むつもりだからね」

 ……あれ。なんだか嫌な予感がするぞ。八神さんの狭すぎる交友関係の中で信頼を寄せている女性なんて、うちの姉ちゃんくらいしか思い浮かばないんだけど。

「俺、一回でいいから友達とこういうイベントに参加してみたかった。でもこんな状態で会っていいのかめっちゃ悩んでて……」
「会って本当の事を話すも良し、そのまま楽しむも良し。これは真田さんにとって一歩踏み出せるチャンスなんじゃないかな? ツカサさんは大切な友達なんでしょう?」

 腕を組んでしばらく考え込んでいた真田さんはスマホを手に取ると、決意したように指を動かす。おそらくオフ会の返信をしているのだろう。

「ワークショップ、参加することにしました」
「ええ。良かったですね」
「それで、俺の代わりの人を探してほしいんスけど……大丈夫ッスか?」
「もちろん。大丈夫ですよ」
「迷惑かけてすんません。てか俺が言えることじゃないスけど……探偵事務所って普通こんな依頼受けないんじゃないんスか?」
「ははっ、そうかも。でもね、探偵っていうのは困ってる人を放っておけない(さが)みたいでね」

 答えになっていないような答えに、真田さんはクスリと笑ってくれた。

 *


「えっ? 私がハンドメイド作家としてさっきのお客さんとワークショップに参加?」
「そうそう。さっきここに来た金髪のお兄さん。その人のため是非モカちゃんに協力してほしいんだよね」

 言いながら八神さんは店の新メニュー、塩キャラメルナッツパンケーキを頬張る。これは姉が試行錯誤を重ねて作った自信作だ。

「今からする話はプライバシーを守るため、口外禁止でお願いしたいんだけど」

 そう前置きして、八神さんは真田さんの事情を姉に説明した。

「……そうだったんだ。お節介かと思ったんだけど、なんか悩んでたみたいだったから声を掛けたの。でも八神さんの所にちゃんと行ってくれたみたいで良かった」
「うん。だから僕もなるべく悩みを解決させてあげたくて」
「私が紹介した責任は取らなくちゃいけないわよね……分かった。協力するわ」
「ありがとう。さすがモカちゃんだ。当日は四人で行動してもらうけど、僕とケントくんもそのワークショップに参加するからね。何かあったらフォローは任せてよ」

 何やら勝手に言っているが、俺はそんな話聞いてないぞ八神さん。姉は俺たちがいると聞いて安心したのか、うんと力強く頷いた。

「あ、でもお店どうしよう……ワークショップって今週末ですよね?」
「たっだいまー!!」

 無駄に元気の良い声が響く。鮮やかな黄色と緑が目立つ、サッカーブラジル代表カラーのTシャツに膝丈の半ズボン。足元はビーチサンダル、頭にはサングラスを掛け、こんがりと焼けた素肌に白い歯を溢す男。

「みんな久しぶりだね!! boa(ボア) tarde(タージ) todo(トゥード) bem(ベム)? あ、これポルトガル語でこんにちは、元気だった? って意味! ブラジルってポルトガル語使うんだよ! 知ってた!?」

 淀んでいる空気をものともせず、ガラガラとキャリーバッグを引きずって店の中に入ってくる。

「あっ。これお土産ね! サンダル! みんなでお揃いなんだぞっ! あと八神くんにはチョコ! 甘い物好きだから奮発していっぱい買っちゃったーって……わっ! 相変わらず白いなー八神くん!! ちゃんとお日様に当たってる? 向こうは秋冬でもなかなかの暑さだったよ!」

 その言葉通り、二人が並ぶとまるでオセロのようだった。俺は隠さず大きな溜息をつく。なんと言っても、このすっかり海外色に染まった腹立たしい男は豆の仕入れに行ったまま数ヶ月間帰って来なかった残念な父親なのだ。

「仕入れのついでにマテ茶も買ってきたの! 今って健康茶ブームだろ? うちのメニューにもお茶系取り入れてみようかと思って!!」

 親父の帰還はいつもなら即刻正座の鉄拳制裁案件なのだが、今回はこの都合の良いタイミングだ。一応感謝し、制裁は免除してやろう。

「……ああ。店の問題は解決したわね。一応こんなのでも店主だし。こんなのでも」

 姉は腐った牛乳でも見るような目で親父を見る。

「さぁさぁ! さっそく新しい豆を挽くぞ! 新しく考えたオリジナルブレンドも試してみたいし!! 試飲会しよう、試飲会!」

 急に賑やかになった店内に、俺と姉の溜息がハーモニーを奏でた。





○プロフィール ○作品一覧 ○レビュー

名前:ツカサ
性別:男
職業:保育士
得意ジャンル:アクセサリー、ぬいぐるみ等
メッセージ:男女共に使いやすいアクセサリーを制作しています。皆様の生活に細やかな彩りを添えられますように。


 真田さんに教えてもらったアプリで作家検索をしてみたところ、ツカサさんのページはすぐに見つかった。評価は満点の星五つ。人気の作家であることが伺える。作品一覧を見ていくと、ピアスやネックレスにリング、ブレスレットといった定番のアクセサリーに加え、女性が好きそうなヘアアクセサリーやぬいぐるみの画像が載せられていた。

 真田さんの物はどちらかというとカラフルで可愛い印象を受けたが、ツカサさんの作品は色使いやデザインがシンプルで大人っぽい。とにかく、二人ともこの界隈ではかなりの人気があるらしい。

 ワークショップオフ会はSANA役の姉と、本物のSANAである真田さん、そしてツカサさんとその妹の四人で行くのだが、何しろ姉はハンドメイドについて全くの素人だ。なので、基本くらいは知っておこうとここ数日勉強に励んでいる。成果についてはなんとも言えない。

 ちなみにワークショップとは体験型講座の事である。参加者がただ話を聞くだけでなく、実際に体験が出来るというものだ。今回俺たちが参加するのは「スノードーム手作り体験会」という物で、講師の方の話を聞き、教えてもらいながら実際にスノードームを作るらしい。

 姉は料理やお菓子作りは得意だが、元々手先はそんなに器用な方ではないのでボロが出ないか今から心配だ。人気ハンドメイド作家SANAの顔に泥を塗る結果にならなきゃいいけど。

「ねぇ賢斗、明日の服はどれがいいと思う?」

 タンスから引っ張り出してきたであろう大量の洋服を抱えた姉が、ノックもなしに俺の部屋に入ってきた挙句勝手にファッションショーを始める。

「このワンピースなんてどうかな?」
「あー。いいんじゃない?」
「ちょっと! ちゃんと見てから言ってよ!」

 仕方ないのでスマホから正面に視線を移すと、姉が自分の体にワンピースを当てていた。白い半袖シャツの真ん中にベルトが付いていて、そこを境にスカートの生地が紺色に変わっている。似合ってるけど、なんかデート向きって感じがする。

「スカートより、涼しくて動きやすい服装の方がいいんじゃないの。作業するんだし」
「……確かにそうね。じゃあこっちの白シャツにダスティーピンクのプリーツワイドパンツを合わせよっかな。それとももっとシンプルにした方がいいかなぁ?」

 うきうきと呪文のような単語を並べる姉は楽しそうだ。おそらく、仕事とはいえ外で八神さんと会えるのが嬉しいんだろう。分かりやす過ぎて溜息が出る。

「姉ちゃん。明日は〝ハンドメイド作家SANA〟として真田さんの憧れの人に会うんだからな。いくらお洒落したって八神さんとデートするわけじゃない。俺たちはあくまでサポートなんだから」
「わ、分かってるわよ! 私はただ相手が抱いてるSANAのイメージを壊さないようにしようと思ってるだけで! 八神さんとデ、デ、デートだなんて思ってないわ!!」

 それとなく釘を刺すと、姉は顔を真っ赤にして部屋を出て行ってしまった。う~ん……女心は難しい。