君が残した10の奇跡

「じゃあ行きましょうか。詩ちゃんって呼ぶね」
「うん、じゃあ私は陽菜ちゃんって呼ぶ」
 俺の百倍はコミュニケーション能力の高い詩を目の当たりにして少しだけ嫉妬した。
でも学校に来た彼女を見てもしも俺と詩がクラスメイトで今もちゃんと生きていて、病気などしていない…そんな世界で生きていたら。
 きっと詩は人気者なのは変わらず俺のような生徒にも平等に接してくれる子だったのだろうと簡単に想像ができる。

 家庭科室に入ると既に数人の女子が黙々と作業を続けていた。詩を見ると待っていたとばかりに「こんにちは!」と声を掛ける。今のクラスメイトの女子たちからすれば詩は救世主に見えるのかもしれない。
 詩は軽い自己紹介をして家庭科室用の広いテーブルに他の子と対になるように座った。

「せっかくだから蒼君も手伝ってよ」
「は?嫌だよ、出来ない」
「だって暇そうじゃない」

 詩の言葉に他の女子たちからの微妙な視線が集まる。触れてはいけないという雰囲気を感じるのに詩はそれらを無視して続ける。

「じゃあ他の手伝いしてきたら?私は大丈夫だから」
「……」

 そう言われると困る。
俺は渋々詩の隣に座った。

「訊いていい?詩ちゃんと…笹森君ってどういう関係?」
「え?私と蒼君?うーん、恋人かな」
 作業を始める前に吃驚した声が飛び交う。一番驚いたのは俺だ。想定とは違う言動をする詩に慣れていたとはいえここでもそれをするとは思ってもみなかった。ざわつく中でも怖じ気つくことなく詩は楽しそうに笑って言った。

「見えないかな?」
「え、っと…見えないってことはないけど…もしかしてあの噂本当なんじゃない」
「あ!確かに…」
 コソコソと耳打ちし合う女子たちは“噂”というワードを口にする。

「どんな噂?」
「夏休みに他のクラスの子が映画館で笹森君を見たって。しかも彼女と一緒だったっていうから。そんなわけなくない?って言ってたんだけど」

 俺は顔を歪めたまま映画館で以前同じクラスだった女子に詩と一緒にいるのを見られたのを思い出した。思わず前髪をくしゃりとかき上げていた。

「そんなわけないって失礼だよー!蒼君に彼女の一人や二人いてもおかしくないでしょ!」
「あ、…うん、そうだよね。ごめんね、笹森君」

 初めてちゃんと向き合って言葉を掛けられたが(詩の説教によってだが)意外と嬉しく思ってしまった。自らもう二度とクラスメイトと関わることはしなくていいと線を引いていたから。

「じゃあ、始めようか!」

 詩の周囲が驚いてしまうほどの快活さや社交性の高さに圧倒されながら俺は少しだけ女子たちの裁縫を手伝った。
一時間ほど手伝うと俺は休憩がてら行灯の進捗を見に行くことにした。全クラスがテーマを決め、行灯を作成し前夜祭でそれらを担いでお祭りを楽しむ。
俺のクラスの行灯の進捗は結構進んでいるようだった。チラッと体育館に寄ってそれを確認するとそのまま踵を返した。
すると、背後から数人の声が近づいてくる。そしてその声は聞き覚えのある声だ。

「聞いたか?委員長がさっき言ってたけど別の学校の子が三日間だけ手伝いに来てるらしい」
「まじで?初耳なんだけど」
「本当、本当。しかも結構可愛いらしい」
「なんで急に他校の生徒が手伝いに?」
「ほら、岡本さんが腱鞘炎になって男子の分の衣装つくりが遅れてるって」
「あー、確かにそんなこと言ってたな」

 詩のことは既にクラスに知られているようだった。
他の男たちが詩をそういう目で見るのは嫌だった。
 これは完全に俺のエゴで自分勝手な理由だ。詩が他の男子と話しているのを想像すると苛立つし詩がそれで楽しそうだともっと腹が立つ。
それは俺にとって初めての感情で、でもだからわかる。これは詩のことが好きだから沸き起こるどうしようもない感情であることを。
聞かなかったことにして詩の元へ行こうとすると、前方からちょうど今考えていた人物が手を振って走ってくる。白いワンピース姿はよく考えるといくら私服で登校する高校とはいえ目立つ。

「蒼君―!」
「詩、お前なんでここにいるんだよ。家庭科室からは出ないって約束だろ」

 慌てて詩に近寄り咎める。しかし詩にはいくら咎めたとしても反省する様子はない。
きっと詩はこの期間自らが消えてしまう危険を伴っていたとしてもそれでも一番は”楽しむこと”を優先したいのだと思う。
 加えて俺が学校に行きやすいように友達を作りたいとも言っていた。恐らく後者が本当の理由だと思う。
彼女は本当に優しい子なのだ。

「ちゃんと気を付けているから大丈夫!それよりもこっちにきて手伝ってよ」
「君、もしかして数日間だけ手伝いに来てる女の子?」
 背後からぞろぞろと会わせたくない男子たちが来た。
詩は口角を上げたまま「そうだよ」と言った。

「へぇ、でもなんで笹森と話してるの?」

 俺は顔を強張らせた状態で俺たちを囲むようにして立つクラスメイトを一瞥した。
拳を作る力が強まっていく。

「どうしてって…私、蒼君の彼女だから」

 冗談だろ、と咄嗟に口にするクラスメイトは信じられないという目を詩に向ける。
それでも詩は首を横に振って「本当だけど…どうして信じられないって顔するの?」と当然のようにいった。

「いや、だって…。なぁ?笹森だぜ、暴力事件起こした本人なんだから近づくのやめた方がいいよ」
 詩のお陰で和らいでいた空気が一気にぴんと張り詰めた。
だよな?とお互いに頷くそいつらに俺は何も言い返せない。だって、進学校で不良のいない学校であのような事件を起こしてしまったのは事実だからだ。
 でも、詩は腰に手をやり目を細め、盛大に溜息を溢した。

「それ!あなたたち全容知らないじゃない!それなのにいつまで引きずっているの?蒼君はね、病気を患っている弟のことを馬鹿にされてかっとなって押し倒しちゃったんだよ。もちろん、蒼君のやり方は間違ってるけど、じゃあそういう事情も知らないで他人の弟を馬鹿にした人は正しいの?!私は蒼君のやり方は間違っているけど、彼は正しいことをしたと思ってる。それに、いつまでも当事者同士でもないのにそうやって陰湿に虐めみたいなことするなんてそっちの方が最低だよ」
「う、詩。もういいって、言い過ぎだし別に俺は気にしてない」

 男に向かって正々堂々と言い返す詩は本当に格好良く見えた。
うじうじといつまでも立ち止まったままの自分とは正反対で、そんな彼女を尊敬した。

「私が気にするの!そういうことする人って器が小さいよね。絶対一人じゃ何もできないでしょう?!私は一人でも蒼君を味方するもん」
 今度は男子たちの顔が引き攣っていた。
何も言い返すことなく、俺たちの脇を通り抜けた。

「ちょっと待ってよ、謝ってないよ」
 詩は何と俺に謝罪させようとしていたようだがさすがにそれは制して止めた。
俺は謝罪を受けたいわけじゃない、そもそも俺があの日のままずっと立ち止まっているからみんなもそうなのだと思う。
「詩、ありがとう」
まだ憤慨している詩にぼそっと言った。
「ありがとう。嬉しかった。俺…、逃げないで頑張ってみようと思う」
 詩は憤慨していた顔を柔和な笑みに変えてそれがいいよと言った。



詩は驚くほどにクラスのみんなに溶け込むのが早くて特に同じクラスの女子たちは詩と楽しそうに会話をしていた。
既に“恋バナ”までする仲になったらしく、特に橋本さんと仲良くなったようだ。
 詩とは正反対に見える橋本さんと仲良くなるとは想定外だ。

 そして、手伝いに来て二日目は男子たちとも仲良く会話をしているのを何度か見た。
 出来るだけ一緒にいたいのだが、詩が俺との関係を恋人だと言ってしまったから流石に常に二人でいるのは恥ずかしい。周囲だってカップルがいちゃついていたら嫌だろう。(いちゃつくことはしていないが、どういう言動がそうみられるのか不明だから俺なりに気を遣っていた)

 ハラハラドキドキと言えば聞こえがいいかもしれないが、詩が消えてしまうリスクを伴った三日間は何とか終わりを迎えた。
最後の日のみ、俺は行灯の最終作業を手伝った。正直、関わり合いたくないし手伝ってとも言われていないからそのままやり過ごそうとした。
 でも詩と逃げないと約束をした。どうせ無視されても詩が傍にいてくれたらそれで十分だと思った。すると意外にも周囲は普通に手伝わせてくれた。詩のあのセリフが強烈だったからもしれない。

 改めて俺は彼女に感謝していた。
三日目の学際準備が終わり、詩と二人で自宅へ向かっていた。

「終わっちゃったなぁ。一瞬だった、友達沢山出来たのに」
「詩って想像以上に社交的だよね。驚いた、橋本さんなんか詩には結構心開いている感じあったし、男子とも仲良く喋ってたよね」
「そう?そう言ってもらえると嬉しいな」
「あんなに面と向かって文句言った後にそのあと普通に話せるって尊敬するよ」

 俺のいる前で男子に説教をしたのにも関らず、その男子たちともその後普通に話して誰とも壁を作らずに友達になれるのだから感心する。
俺と同い年で精神年齢は実年齢よりも低い言動が多いのに、ここぞというときには自分を貫き通す芯の強さを見せる。
 詩の横顔はどことなく寂しそうだ。流星祭が終わったらその翌日に彼女は消えてしまう。
詩もそれがわかっているから、せっかく作った友人とすぐに別れなければいけないことを悲しんでいるのだろう。

「流星祭来てほしいって言っていたよ。橋本さんが」
「うん、行きたい!でも…楽しめるかなぁ。みんなともう会えないって思うと辛い」
「分かってる。だから詩が辛いなら無理しなくていいよ」
「ありがとう。蒼君とも…もう少しでさようならなんだよね」

 自然に落ちていく視線がアスファルトだけを映して詩の言葉を頭の中で反芻した。
出来ることならばこのままの生活を続けていきたいと思った。
 一生彼女に触れることが出来なくともいい。でもきっと詩にそれを伝えたら“そんなのダメだよ”と言うのだろう。簡単に想像が出来てしまうほどに俺は詩のことを沢山知っている。この一か月という短期間でも俺は詩の好きな食べ物も好きな漫画も、好きなアニメも、好きな色も…―知っている。

「十のかなえたい、やり残したリストのうち八つも叶えてくれてありがとう。本当に全部楽しかった」
「まだ数日あるのにそんなこと言うなよ」

 詩がそうだった、と明るく答えたとき前方から「詩?」と名前を呼ぶ声がした。

 俺と詩の足が止まった。
詩の名前を知る者など限られている。数メートル先で立ち尽くしている女性がもう一度「詩なの?」と言った。その声は震えていた。目玉が飛び出すのではと思うほど驚いた表情をした女性は小さく首を振っていた。

 詩を見て「誰?」と訊く前に詩が「おねえちゃん」と言った。
まずい、と思ったがもうどうすることもできない。
 詩の姉はゆっくりとこちらへ近づいてくる。詩は見たことのないほどに動揺していた。
そして声もなく涙を溢した。

「何で?どういうこと?詩だよね?」
 混乱している詩の姉は信じられないと何度も言い、でもそのたびに目の前にいるのは詩であるのは間違いないという確信をもって近づいてくる。

「なんでっ…?!詩は…―死んだんだよね」
「お姉ちゃん…」
 詩は顔を両手で覆った。そしてお互いの距離が二メートルほどになった時、詩の姉が詩に接触しようとした。俺は瞬間的にそれを制止していた。

「誰よ、あなたっ…!」
「俺は、詩の友人です。あの、詩さんは確かに亡くなっています。でも一か月だけこうして…この世に…」
「意味わからない、そんなことあるわけないじゃないっ…」
「でも、実際に詩は目の前にいる!それはお姉さんの目にもはっきり映っているはずです」

 詩の姉は詩にあまり似つかない顔を俺に向けた。その顔は苦痛に歪んでいる。

「嘘よ、ちゃんとお葬式もしたし私だってさすがに出席した。それなのにどうしてここに詩が?夢でも見ているの?」
「夢じゃないよ、お姉ちゃん…ごめんね、私どういうわけか死んだあと一か月の”期間”をプレゼントされたみたいなの。幽霊でもなくてちゃんと人間としてみんなの目に、記憶に残る存在として。でもそれには…条件があって。絶対に人に触れてはいけないの。誰かに触れてしまうとその時点で消えてしまうの。本当は真っ先にお母さんとお父さん、それからお姉ちゃんに会いに行きたかった。でもね、そんなことしちゃったらみんな二度も別れを経験しなきゃいけない。そんなのきっと耐えられないよね。だから…蒼君に頼んで色々協力してもらっていたの」

 詩は笑いながら泣いていた。
詩の姉は詩が亡くなっても決して涙を流さなかったと言っていた。
 それほど詩とは上手くいっていなかったのだと思った。でも、今俺たちの目の前にいる詩の姉は必死になってこの状況を理解しようとしていて、それでいて必死になって詩が生きていてほしいと願っていると思った。

「詩は生きているってこと?今はちゃんとこの世にいるっていうこと?詩は…っ、これは夢じゃいのよね」

 うん、と頷くと詩の姉は全身を脱力させしゃがみ込んだ。
そして声を上げて泣いた。成人した女性が嗚咽を洩らしながら泣いていた。
 俺たちの脇を通り過ぎる自転車を漕いだ男性が不審そうに俺たちを一瞥していくがそんなことはどうだってよかった。

「ごめんね、お姉ちゃん…私の手紙受け取ってくれた?」
 詩の姉はぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔を上げて大きく頷いた。

「読んだ。信じられなかった。詩は私のこと最後まで姉としてみてくれていたのに私は…っ、本当にごめんなさい」
「どうして謝るの?お姉ちゃんは悪くないよ。両親が離婚して新しい家族が増えるって普通は直ぐには受け入れられないよね。ごめんね、」
「私、詩ともっと仲良くすればよかったって後悔しか残らなかった。詩の病気が進行していたことも知っていたのに、最後まで私は…っ」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私はお姉ちゃんのこと大好きだったよ。今でも大好きだよ、でもちゃんと伝えられてなかったなって思って。…本当にありがとう」

 詩の姉の複雑な感情は手に取るようにわかる。詩と常に一緒にいたこの一か月間俺は自分の弟を詩に重ねていた。
詩の姉は涙で濡らした頬を手で拭い立ち上がった。

「いつ消えちゃうの?」
「…それは、内緒。でももう時間はほとんどないよ」
「そっか。ずっと弱音を吐かずに頑張った詩へ神様がくれたプレゼントなのかもね」

 詩の姉が口角を上げた。
その笑い方は詩に似ていた。

「私、詩のこと本当は好きだった。でも、どうしたって新しいお父さんと血のつながりのない私は家族じゃないって思っていた。実際新しいお父さんとは上手くいってなかった。詩はいいなって…ずっと思っていたからそれが嫉妬に代わって嫌な態度を沢山取った。それなのに詩は変わらず私をお姉ちゃんって呼んで慕ってくれていた」
昔を振り返るように言葉を紡いでいく。
 詩も何度も頷いていた。

「ジレンマの中、心底嫌だった。性格の悪い自分が。詩と仲良くしようって思えば思うほど別の感情が湧き起こって…詩のいる病院に何度も行ったの、でも病室の前でいつも引き返していた。逃げていた。だからっ…最後の日、詩の様態が悪化したと聞いたあの日、病室に行ったときには既に詩の意識はなかった。後悔した、後悔で一杯だったのに私は最後まで逃げたの。最期のその時まで私は詩の傍にいられなかった」
 ごめん、と何度目かわからない謝罪をした。

「どうして謝るの?私は知っていたよ、お姉ちゃんが本当は私と仲良くしたいことも、本当はとっても優しいことも。だからこれからは後悔なんか捨てて生きてほしい。私はもう消えちゃうけど天国があるのならそこからお姉ちゃんのこと見てるよ。だから安心して自分の人生を生きてほしい。あと…お父さんとお母さんのことよろしくね」
 この非現実的な状況下でも詩の姉はちゃんと詩の言葉を訊いていた。
刻み込むように何度も頷き、何度も泣いて、何度も安堵したように笑った。
 どれくらいの時間をそうしていたのかはわからない。

「じゃあ帰るね。バイバイ、お姉ちゃん」
「…うん。詩、ありがとう。大好きだよ」

 詩の姉はどうして俺と一緒にいるのか俺とどういう関係なのか聞きたいことは山ほどあったはずなのに一切聞かなかった。
詩と俺が詩の姉の脇を通り過ぎる。
 詩の顔がくしゃりと歪むのが隣からでも十分に分かった。

 俺は一度立ち止まって振り返った。
詩の姉がこちらに体を向けて、泣いていた。でも詩は決して振り返らなかった。
 決して、振り返ることはせずに涙を手の甲で拭い一歩一歩前に進む。

「詩、いいの?」
「うん、いいの。大丈夫」

 完全に姉の姿が見えなくなると詩は堰を切ったように泣き出した。
途中から泣かないように頑張っていたのは隣からでも十分に伝わっていた。

「どうして消えてしまう日にち、教えなかったの」
「だって、もし教えちゃったら最後にまた会いたくなっちゃうかもしれないでしょう?お姉ちゃんもきっと会いたいって言うと思う。二度も家族を失う辛さを味わってほしくないの」

 詩は真っ赤な目を俺に向けてそう言った。




…―…


「ねぇ、結局私のお願い、最後の一つを残して全部叶えてくれたね。ありがとう」
「詩のお姉さんに会うのは偶然だったし、想定してなかったけどこれも神様からのプレゼントなのかもしれない」
「そうだね。私もお姉ちゃんに会いたかったから」

 その日の夜、既にベッドに入った俺と詩は天井を見ながら会話をする。
残された時間があと僅かだと思うと寝る時間すら勿体ないと思うようになった。
 少しでも詩との記憶を脳裏に焼き付けておきたいと思う。
でもそれをしようとすればするほど、彼女がいなくなるという現実を突きつけられてしまう。
 今日、詩の姉が放った言葉はどれも俺の胸を締め付ける内容だった。
俺が俊介に抱く感情と全く一緒だったからだ。だから分かるのだ。詩の姉の苦しみが。

「流星祭楽しんでね。私も前夜祭の行灯担いでみんなで楽しんでいるの見たい」
「どこを通るかは事前にわかっているから詩も一緒に楽しもう」
「…うん」
 とはいえ、夕方から始まるそれはかなりの人が集まる。
詩一人で俺の目の届かない場所で誰かにぶつかったら困る。でも、詩だって前夜祭の準備を手伝った一人なのだから本当は参加させてやりたい。

「遠くから見てるね。暗いと人にぶつかると困るから…。ねぇ、蒼君」
「どうした?」
「最後の願い、私の消える日にしてほしい」

 部屋に響く詩の言葉に俺は息を呑む。
自然に布団を強く握っていた。冗談ではないことは彼女の口調で理解していた。

「分かった」
「これで全部叶うね」
 うん、というと俺と詩は目を閉じて眠りについた。


―前夜祭当日

 今日は母親がいつも通り朝早くに仕事に行き、そのまま今日も明日も帰宅しない。
祖父母宅に泊まることは知っている。
 でも詩のいる間はその方が都合はいいのは確かだ。
昼食を食べ終え、食器を食洗器の中に入れ片づけを終える。俺と詩はもう家族のように休日のルーティンとしてそれらを終えてテレビを見ながらソファでくつろいでいた。
 前夜祭の開始は夕方18時からだが、準備や最終確認などがあるため集合時間は16時だ。
詩のお陰で前夜祭の衣装が完成したから出来れば詩にも楽しんでほしいのだが、さすがに他校生を呼ぶことは出来ない。それに詩の分の衣装はない。

「そろそろ家出ようか」
「そうだな。詩はどこにいる?終わったら一緒に帰ろう」
「うん。そうだなぁ、一応蒼君から回るルートは貰っているから時間差で一緒に回るよ。もちろん遠くからね。でも、凄いよね、平日のしかも金曜日の夕方、一番道路が混み合う時間帯なのに交通規制をかけてやるんだよね。伝統なんだろうけど、びっくりする。地元の人たちからも苦情もなく続けられるって信頼があるからだよね」
「まぁ、そうだね。俺は学際楽しみって思ったことないけど」
「もうっ!ちょっとは楽しまないと損だよ!もう嫌なこと言ってくる人いないでしょう?」

 俺の顔を覗き込むように体勢を前かがみして訊く詩に「いない」と素っ気なく返した。
家を出る準備を終え、玄関先で靴を履き替えていると…―。
 ガチャっと鍵が開く音がして俺も詩も体を硬直させる。

そして「ただいま、…って、え?」とドアを開ける母親は玄関にいる詩を視界に入れ俺らと同じような反応をした。

「あの…、初めまして。鈴村詩と言います」
「は、初めまして」
 母親は目を瞬き、逡巡するとぎこちなく挨拶をした。
どういう関係なの?と目で俺に訴える母親に表情には出さなくとも内心ではパニックに陥る俺は咄嗟に目を反らした。
 友人ですらほぼ自分の家に上げたことがないのに、同性ではなく異性を親に内緒で家に上げていたとなれば親は当然驚くだろう。

「すみません、ご挨拶もまだなのに勝手に家に上がってしまって。実は私、蒼君とは一年以上前から友達で。あの…今週中には本州に引っ越すことが決まっています。なので、最後に会いにきました」
「あぁ、そうなの。なんだ、もう少しゆっくりしていってちょうだい」
「ありがとうございます。でもこれから蒼君は前夜祭があるので。私も一緒に前夜祭を見ようかなって」
 母親は随分とご機嫌で、おそらく詩のことを気に入ったのだろう。
嘘はあれどはきはきと怯むことなく俺の親が安心するようなセリフを言う。

「そうなの。分かったわ」
「なんで急にかえってきたんだよ」
「別にいいでしょう?今日は予定を変更してあっちには泊まらないことにしたの。だから明日はこっちの家から俊介のところに行くことになったから」
「…へぇ、そう」

 詩は再度俺の母親に挨拶をすると二人で家をでた。
詩の機転の効く発言のお陰で不審がられることはなかった。

「驚いた、まさか…お母さんが早く帰宅して鉢合わせしちゃうなんて」
「…それは俺も驚いた。帰ってくるなら事前に伝えてほしかった」
「でも自分の家だもんね、蒼君だって帰ってきてほしいでしょ?」

うん、とは言わなかった。
 家を出て逃げるように早歩きで住宅街を抜ける。
 母親には後で何と言っておこうか、詩のことを彼女だと思われると後々面倒だとか脳内でグルグルと考える。詩は最初こそ驚いていたがすぐに平常のテンションで母親と会話をしていたのを思い出すとやっぱり彼女は凄い。

「人にぶつからないように気を付けて」
「分かってるよ。ふふ、前夜祭ってワクワクするね」

 改めて田舎で良かったと思った。
もしも同じ状況で場所が東京だったらおそらく一週間も経たずに詩は誰に触れてしまい消えてしまうだろう。
 学生以外は車社会の地方だからこそ、詩は何とか最後まで消えずに済んだと思うとこの環境にも感謝しかない。

 少し心配ではあったが、学校に来てもトラブルもなく事前に詩には触れないよう周囲に伝えてあったとはいえ彼女が危険に晒されることなく無事に終えたことを思うと詩を信じてもいいのかなと思った。
バスを使って学校近くのバス停に下りて詩と別れた。
 詩は五稜郭公園を散歩するそうだ。
詩のお陰で学校へ行く足取りは以前よりも軽い。クラスメイトと仲良く喋ることはないが、それでも以前とは打って変わって挨拶をしてくれるクラスメイトが増えた。
 
 クラスのドアに手を掛けて開け中に入った。数時間に行われる前夜祭がよほど皆楽しみなのだろう、明らかに普段以上に浮ついているのが伝わってくる。
でも、それが自然なのだと思う。一年に一度の大イベントが迫っているのだから。
 既に衣装に着替えている生徒が多い中、俺だけが私服だった。
それをみた橋本さんがすぐに俺の元に来て
「早く着替えてきて!」と勢いよく言われ反射的に頷く。
「分かった」
短く返事をして俺は渡された衣装に着替える。
「笹森君の衣装は詩ちゃんが作ったんだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ。知らなかったの?詩ちゃんにも参加してもらいたかったけど…近くで見てくれていたらいいのに。最後に花火も打ちあがるし」
「多分近くで見てると思うよ」