自転車は今にも壊れそうな軋み声を上げてチェーンを回転させている。
僕は必死にペダルを踏んで走る。
駅に着くと、僕は無心で改札を抜けた。
研究所がある和光駅までは20分くらいかかる。その間、僕は生きた心地のない時間を過ごした。
希空さんが今日、処分される。
その言葉は、彼女が人間ではなく、機械によって作られたモノであるという非情な事実をありありと僕に突きつけた。
そして、彼女がもう思い出の中の存在になってしまう。
僕は嫌だった。ここで終わってしまうのが嫌だった。
後悔はないって言えたらどれだけ楽だっただろうか。
前を向いて生きるよと言えたらどれだけ楽だっただろうか。
無理だよ。そんなこと無理に決まっている。
僕は胸を針に刺されるような思いの中、希空さんの笑顔をまた思い出してしまった。
だから僕は、学校を抜け出して彼女の眠る研究室へと向かっている。
園田さんは僕を優しく見送ってくれた。やるべきことをやれと一言を残して、駿介は僕に自転車を貸してくれた。
「クラスは任せて」とみんなが言ってくれた。
「頑張って」とみんなが言ってくれた。
僕は知らないうちに、沢山の味方を得た。全て大切にしたい大事なものだ。
文化祭も好調に進めることができた。みんなが年に1回しかない、この学校のお祭りを楽しんでくれている。
「でも、希空さんがいなきゃ意味ないじゃないか。君がいないとダメじゃないか。」
叶うはずのない願望が電車に揺られる。
僕は虚空の中を漂う。
和光駅に到着すると、僕は改札を抜けて駆け出した。
研究所まではそこまで遠くない。
汗がへばりつく。喉は水を欲している。僕は文化系だったから、こんなに走ると流石に疲れる。
身体が鉄のように重かった。口の中は塩の味がした。
それでも、僕の足取りは確実に、一歩ずつ、希空さんのもとへと向かっている。格好悪くても先へと進む。
研究所のエレベーターに入ると、記憶を頼りに希空さんの部屋があった4階ボタンを押す。
周りの研究員たちは息も絶え絶えな高校生を不審そうに見ていたけれど、僕は構うこともなかった。
彼女に会えれば僕はそれでいい。それで。
エレベーターが鈍重なブレーキ音を鳴らし、扉が開く。
僕はふらふらになりながらも、壁の手すりを頼りに前へと進む。
「どうしてまた、ここへ来た。お前にできることは何もないぞ。」目の前には白衣姿の父さんが立っていた。
呆然と僕を見る父さん。いつも以上に冷ややかな目線が僕を刺した。
それに、負けじと僕は歯を食いしばる。
「父さん、通してくれ。僕は希空さんに会いに来たんだ。」対抗して鋭く睨む。父さんは微動だにしなかった。
「ここにお前の居場所などない。帰れ、リク。」冷徹な表情を一瞥する。
それでも、僕は後ずさることはしなかった。それは乗り越えるべき壁だと思ったから。
僕は息を吸った。大きく背中を張った。
「希空さん!そこにいるんだろ!今すぐ君のところへ行くよ!だから待てって!」
僕は息を身体中から吐き出すように叫んだ。
自分でも突拍子もないことを言っているのは分かる。馬鹿なことを言っているだって、痛いほどに分かる。
僕は廊下の向こう側へ向かって走り出す。
父さんが僕を力づくで押さえ込む。
「リク!お前は自分がどれほど愚かなことをしているのか分かっているのか。」
父さんは全力で進む僕を前に、全力で僕を組み伏せる。
「僕はまだ、希空さんに何も伝えられてないんだよ! 馬鹿って言われたっていい。僕はもう後悔する人生は嫌なんだ!」
僕は格好悪い思いをそのままに吐き出した。体重をかけて前に進もうとする僕。
不意に身体に重力が奪われた感触を覚えた。
気がつけば、僕は身体が空中に浮かび、そのまま廊下に激突する。
ぐはっ!!
体中の酸素が奪われるように、僕の身体が不快感と鈍重な痛みに襲われる。
状況を理解しようとする前に、目の前の父さんは僕の右頬に拳を叩き込んだ。
「お前は何も分かってない。何も成長してない。今のお前はただ泣き喚くだけの子供だ。」
僕を殴った父さんの目は悲しそうだった。
初めて見る表情をしていた。
仏頂面だったり、仮面のような笑みを浮かべていた父さんの本当の表情がそこにあるような気がした。
「母さんの事故はもう繰り返したくない。」突然、父さんから発せられた言葉。
「どうして、母さんの話が出てくるんだよ。」瞬間的に、僕は心が煮えたぎるように感じた。
母さんは事故で死んだ。交差点を車で運転していた母さんは横から飛び出した大型トラックに追突された。
そして、母さんは死んだ。
「事故が起きたトラックには元々、自動運転用の人工知能が内蔵されていた。事故を起こすような危険な運転はしなかったし、運行時間管理に隙もない。人工知能による運転は完璧だったはずだった。」
「だが、母さんの事故があったとき、警察が自動運転装置の異常を調べた。」
それは僕にとって初耳だった。
事故の原因は運転手による居眠り運転と聞いていたから、自動運転用の人工知能が備わっていたなんてことは聞いたこともない。僕の戸惑いをよそに、父さんは告げる。
「鑑定の結果、自動運転機構を司った人工知能に障害はなかった。」
「だが、人工知能の思考ログを見たとき、この事故の全容が分かったんだ。事故発生直前の時刻、人工知能はマルチタスクで救命デバイスを起動していた。」
「救命デバイスって?」
「人間が心臓発作に陥ったときに、初期対応としてAEDを使用することがあるだろう。」
僕は公共機関とか街中に設置されたオレンジ色の箱を思い浮かべた。
僕は学校でもあの装置の操作訓練をしたことがある。心臓が止まった身体に電気ショックをあたえる装置だ。
「社会インフラ、自動運転。人間と関わり合うことの多い人工知能筐体には心臓発作を起こした人間に初期治療を行うAEDと同様の機能が備わっているものも多い。それが、救命デバイスだ。」
「つまり、その人工知能は事故が起きる直前にAEDを使おうとしたってこと?」僕の問いかけに父さんは頷く。
「そうだ。事故が起きる前に、人工知能はAEDを起動した。この意味がわかるか、リク。」
おかしいと思った。
どうして事故が起きる前なんだ。
トラックの運転手は事故によって死亡した。
AEDを使用するのは事故後であるはずなのに。
「もちろん内蔵時計に間違いはない。だから、事故の前に使っていたことに間違いはない。」
僕はなんだか怖くなった。何か知ってはいけないことを知るような気がした。
「トラックの運転手は事故が起きる直前、既に心臓発作で亡くなっていたんだ。」
僕は言葉が出なかった。居眠り運転での事故、世間ではそのように報道されていたはずなのに。
母さんを殺したと思っていた人間が実は、すでに死んでいた。
「この人工知能は運転制御という職務を放棄してまで、目の前の運転手に対して救命デバイスを使用した。自動運転を続行し、安全な場所まで避難する事が人工知能の使命であったし、そうすることは不可能ではなかったはずだ。」
その人工知能は自らの「使命」を犠牲にして、目の前の運転手を救おうと行動した、というのか。
人工知能は人間から課された「使命」を絶対視する。「使命」とは人工知能にとっての生きる意味。
それじゃあ、まるで。僕の思いを父さんの言葉が遮る。
「まるで、人間のようだ。大切な人を守りたいという情愛が使命を歪ませるのだ。」
「だから、人間が人工知能と特別な関係性になることは危険な行為だ。現に、希空はお前との関係性によって使命を放棄した。使命によって救われるはずだった人間を見捨てたんだ。その意味がお前には分かるな、リク。」
鈴音の恐怖に歪む顔を思い出した。手に持った銀色のナイフ、そしてアスファルトを染める赤色の液体を思い出した。
僕は咄嗟に胃液が込み上がる感触に襲われる。
「人工知能と関係を持つというはそういうことだ。お前は、そういう世界に足を踏み入れようとしている。何も分からない子供のくせに。」
「何も分かってないのは、父さんの方だよ。」
僕は塩辛い唇を拭って、再び父さんに向き直った。
「僕は世界や人々との関係を絶って、逃げるだけの日々だった。けれど、それじゃ何も変わらない。僕の望む世界を作るには僕自身が変わらないと始まらない。希空さんは僕にそう教えてくれた。」
「それに、僕は彼女がそばにいてくれれば、なんでもできる気がするんだ。だから、彼女が人間として生きることが罪ならば、僕は背負うよ。ずっとずっと、背負ってやる!」
父さんは僕の言葉を聞きながら、黙った。
途端に力が抜けたように、父さんは体を壁に寄りかける。
「ああ、そうか。やっぱり、りっちゃんの息子なんだな。お前は。」父さんはそう言って、静かに微笑んだ気がした。
「覚悟があるなら、お前が望むようにしたらいいさ。」
座り込んだ父さん。声はいつもよりも弱々しかったけど、優しい声だった。
僕は道を譲った父さんを見ながら、前を進み始める。
「父さん、たまには家に帰ってきてよ。また、カレーでも作るから。」
僕は歩きながら、小声でそう言った。
♦︎
閉じられたパールホワイトの部屋。
隅に置かれた大きなベッド。
そこには、ケーブルに繋がれていない希空さんが白い検査衣に包まれながら、横たわっていた。
僕は恍惚とした表情で、その曲線を眺めてしまう。綺麗な彼女に目を奪われてしまう。
それでも、彼女の目は閉じられたままだ。
飴細工のように細やかな黒髪を撫でる。真珠のような肌に触れる。
元気な彼女も、眠っている彼女も、変わらずに僕にとって愛おしい希空さんだった。
「希空さん、今日は文化祭だよ。驚くだろ、メイド喫茶完成したんだよ」
純白の頬は太陽の光を受けて輝きを増していく。だけど、希空さんは目覚めない。
「こんなところで寝てたら園田さんのメイド服姿、見損ねるよ。すごく似合ってるんだ。驚くよ、きっと。」
答える声はなかった。
希空さんが僕の話を聞いていたら、きっと「私より可愛いの?」とか聞いてくるんだろうね。
「でも、僕は希空さんのメイド服が一番好きだよ。」
身体の温度が若干上昇する感覚。
心を筆で弄られたようなゾワゾワとした感覚。
全てが懐かしくて愛おしい。
「やっと素直になったね、リク君。」
僕は耳を疑った。確かに声が聞こえたのだ。紛れもなく、希空さんの声だ。
「希空さん。」
僕は咄嗟に希空さんの顔を見る。
驚いた。信じられなかった。
希空さんは薄らと瞼を開け、僕を見ていたのだ。
「ごめんね、また寝坊しちゃったね、あたし。」
そう言って、どこか決まりの悪い表情を浮かべる希空さん。それから、いつも通りの笑顔に戻った。
まるで時間が巻き戻されたような感覚だった。
「希空さん、身体は大丈夫なの?」
「正直に言うとね、少し眠っていただけなの。もう身体は大丈夫なのに、気持ちだけが怖がっていたんだね。」
希空さんはまた顔をクシャって崩すように笑った。無邪気で破天荒で向こうみずな女の子に戻っていた。
「早く行こう。私たちの文化祭へ。」そう言って、希空さんは僕に手を差し出した。
♦︎
制服に着替えた彼女と2人きりの電車、何も話さなかった。
希空さんは、車窓から移り変わる虹色の景色を楽しそうに見ていた。
だから僕はそんな彼女を邪魔できなかった。
僕は希空さんのいない日々にどんなことがあったのか、彼女に伝えたかった。たくさん話したいことがあった。
だけど、僕は何よりも一番、彼女に言うべき言葉があると知っている。僕はやっと自分の気持ちに気づいた。
駅に着いた。
僕は気を引き絞り、彼女を自転車置き場まで案内する。
「2人乗りなんて、リク君結構大胆だね。」
ニヤニヤしながら、僕の心を見透かすような言葉をかける希空さん。
僕は動揺を隠すように、自転車のスタンドを勢いよく蹴り上げる。
「早く移動するにはこれしかなかったんだよ。文句言うなら、歩いて行くしかないよ。」
尖るような口調で答えてみると、希空さんは素直に荷台へと跨がる。
不意に、ぎゅっとした重みを感じた。
彼女1人分の重みが僕に妙な現実感を感じさせてくる。
希空さんとこんなに近くにいる。これは夢じゃないんだ。
そんな実感が僕の心をくすぐってきた。
「さあ、行くよ。つかまってて。」ペダルを蹴り上げ、自転車は疾走する。
同時に僕の背中に柔らかい圧力と温度が伝わる。
久しぶりの暖かさに僕は胸に込み上げる熱い感情を堪える。
「ねえ、私、重くない?」
彼女は不安げな口調でそう聞いてきたけど、自転車には大した重量感を感じない。
むしろ、彼女はとても軽いように感じた。僕はかぶりを振る。
「その間、なによ。」
「何って、なんでもないよ。」
じっと僕を睨む希空さん。ふーんと言って、なじるようのな言葉を風にのせる。
「気持ちいい。風になったみたい。」僕の緊張をよそに、希空さんは風を感じて歓声をあげる。
僕はそんな彼女に軽快な返答ひとつできなかった。
希空さんは続けて僕に話しかけた。
「ねえ、どうしてなの。」
発された希空さんの言葉は途端に色を変えたようだった。
恐る恐る手探りで言葉を探し当てるような、ぎこちなさを感じた。
「どうしてって。」僕は聞き返す。
僕のお腹にかかる力が強くなった気がした。
「どうして、私のことを迎えに来てくれたの。」
つまんない事を聞くなよ。僕は意外な彼女の質問に溜息を漏らす。理由なんてない。
あるのは僕の中にある思いだけだ。まだ伝えられていない思いだ。
「理由なんてないよ。希空さんは待ってくれるって思ったんだ。」
言葉足らずな返事をする。
彼女からの応答はない。
すると途端に、希空さんは僕の背中をぽんぽんと叩き始めた。
「あーあ、もうダメだ私。君が近くにいると安心しちゃう。甘えちゃう。駄目な子になっちゃう。」
それから、少し鼻にかかった声で、希空さんは言葉を続けた。
「嫌いならそう言っていいからね。下手に優しくされると私、勘違いしちゃうからさ。ほら、私って案外馬鹿だし、そういうの疎いのよ。」
正直、腹立たしく感じた。
僕が君を嫌い?
一体どうしてそんな話になるんだ。
それに、一番の原因は君にあるんだ。
君が僕を連れて走り出すから、僕は君のことしか見れなくなってしまった。
君のせいで、僕は君に恋をしてしまったんだよ。
「君のことが好きだから。理由はそれだけだよ。」
自転車の軋む音の中で僕の声が空中を漂う。
それは短い告白だった。
希空さんは黙ってしまった。
僕の背中に冷たいものが触れた。
僕は横断歩道で自転車を止めて、彼女の様子を伺う。
「やめてよ、こっち見ないでってば。」
降りかかる希空さんの言葉。
同時に、後ろを向こうとした僕の顔は彼女の手でグイグイ押し戻される。
「私は大丈夫だから、止まらないで。」
再び体温が伝わる。僕は黙って頷いて、ペダルを蹴る。
それからは5分程度の沈黙が続いた。
僕もどうしてかその静寂の時間を味わっていた。
体温だけが今の希空さんを感じられる唯一の感触で、僕は今感じているその温かさを覚えておきたいと思った。
「リク君。」
相変わらず震える声がした。僕は硬直する背中を動かして返事をする。
「ごめん、私。今すぐに答えを出せない。」
彼女から告げられた言葉、僕は脳天を棒で叩かれたような気分になる。
なんだか、僕は自分の言葉を取り消したい気分になった。
けれど、言葉はもう取り戻せない。
希空さんは相変わらず、顔を俯かせている。
あてもない後悔が汗に滲む。
「リク君、今はただ私の隣にいてくれないかな。」
吐息混じりに希空さんは答えた。
それは僕の冷えかけた心に陽光を照らすように優しかった。
「私はこの文化祭をリク君と最後までやりきりたい。だから、最後まで私に勇気をください。」
凜とした声。最後という言葉が気にかかった。
それでも僕はその言葉を聞くことのないまま、走り続けた。
自転車は坂道を高速で駆ける。
「隣にいるよ。約束する。」
追い風が弱い僕の背中を押してくれた。
ハンドルを持つ手が引き締まる。
校門が前方に見えた。文化祭用に設置された入場ゲートには沢山の人でいっぱいだ。
その光景は文字通り、お祭りそのものだった。
自転車を駐輪場に止める。
希空さんの手を取り、彼女を荷台兼座席から下ろすと、希空さんの流れるような黒髪が僕を撫でる。
身体全体が沸騰したような感覚に襲われながらも、僕は彼女の手を離さないように意識を集中させる。
「どうしてリク君が緊張してるのよ。」
屈託無く笑う希空さん。
彼女は男心というものが分からないのか、そんな不平を言ってみたくもなったけど、黙っておく。
「途中から準備投げ出しちゃったし、みんなに何て言われるかな。」
希空さんは校舎を歩きながら、僕に不安を吐露する。
自然と彼女の教室まで向かう足取りが重くなっていた。
「心配ないよ。さあ、早く行こう。」今度は僕が彼女の手をとって、走り出す。
♦︎
目の前に広がるのは、茶色いレンガ造りの壁。
いや、そう見えるように塗った段ボールを教室の外壁に敷き詰めたのだが。
そこはまるでヨーロッパ風の小洒落たカフェのようだ。
「すごい、これをリク君がやったの。」
希空さんはその光景に呆気にとられながら、感想を漏らした。
「いいや、希空さん。僕だけじゃないよ。」僕はそう答えた。
そのとき教室のドアが引かれる。
教室から小学生くらいの女の子が数人出てくる。
「みんな可愛かったね!」
「ねえ、あたしメイドさんからサイン貰ったよ、ほら!」
そう言って、手の甲にマジックペンで書かれたものを友達に自慢げに見せつけている。
そんな様子を僕と希空さんは微笑ましく見ているとき。
「希空ちゃん、希空ちゃんなの?」教室の扉からひとりのメイド服姿の女子生徒が出てきた。
黒い下地に白いレースで装飾されたシンプルなメイド服、スカートはロング丈で、歩く度にふわりと瀟洒な雰囲気が醸し出される。
小学生達を笑顔で見送った後、その人は僕らを見て呆然と立ち尽くしていた。
すると僕の隣に風が吹いた。
希空さんは僕が言葉を発する間もなく、その女子生徒のもとへ走り出す。
急接近した2人。
希空さんは迷わず、両手を広げて彼女をぎゅっと抱きしめた。
「めぐみん!」
メイド服にシワがつくことも気にせず、希空さんは力一杯に園田さんを抱きしめた。
「嘘じゃない。嘘じゃないんだよね。希空ちゃんなんだよね。」
園田さんも負けじと、希空さんの華奢な肢体を抱きしめた。
「私はちゃんとここにいる。ここにいるよ。」
泣きながら笑う希空さん。
「ううう。一体、どれだけ心配したと思ってるのよ!」
園田さんも同じく大粒の涙をこぼす。今まで溜め込んでいた寂しさや悲しみを全て吐き出しているように見えた。
異変を感じたクラスメイト達が続々と教室から出てくる。
どっと押し寄せるように、女子生徒数人が希空さんを囲う。
「ほんとごめんね。私、みんなをほったらかしにして。」
贖罪する希空さんは、皆の視線を伺った。
「ねえ、希空さん。謝らなくていいんだよ。」
ひとりの女子生徒が優しい声でそう言って、希空さんの手を引く。
「みんながメイド喫茶をやってみたいと思ったから、こうして形になった。」
他の生徒達も黙って頷く。
希空さんははっとした表情で皆を見る。
スカートがミニ丈のメイド服、純白のメイド服、蒼を基調とした中華風の給仕服、それに和服とかスーツとか。
皆の装いは様々だったけど、不思議と場違いな印象は抱かない。
「皆が楽しめる企画にしてくれたのは、リク君の提案があったからなんだよ。」
園田さんは俯かせた顔を上げて、毅然とした表情でそう言った。
風を感じるように、希空さんの視線が僕に移る。
「俺、希空ちゃんのメイド服も見たいっす。」男子生徒の一部顔ぶれが現れる。
タキシードやアニメキャラクターのコスプレをしている人もちらほらと。
「馬鹿!何出てきてんの!希空ちゃんをお迎えする間、あんたらに店番任してたんだから!」
ひとりの女子生徒が男子に向けて怒声を放つ。
「それにさ、コスプレするなら、ちゃんと相方の許可とってからでしょ。」
女子生徒はそう言って、僕の顔を一瞥する。
え?どういう意味だ。僕は考える。
だけど、僕の思考を追い越すように、多くの視線が刺さる。
「ねえ、リク君。希空ちゃんにメイド服着せてもいいかな?」問いかける女子生徒。
「違うから!そういうのじゃないから!」希空さんが慌てながら、そう答えた。
「え?あんたら、まだ付き合ってないの?」周りは虚を突かれたような反応を示す。
僕は再び、氷のように固まってしまう。
希空さんの顔をちょっと見る。
希空さんはぷいっと明後日の方角を向いてしまった。
「そういうのじゃない」
その言葉に僕は心の奥底で落ち込んだりしてみた。
気づけば希空さんは女子生徒たちによって、どこかへ連行されてしまった。
♦︎
僕と駿介はメイド服の給仕達が働く光景を見守りながら、教室の隅っこであぐらをかいていた。
「なあ、リク。もしかして、まだ告ってないのか。」隣で駿介がぼやく。
僕はあやうく咽せそうになる。急に、心臓に悪い言葉を言わないでくれ。
「告ったよ。」
僕は小さい声で短く答える。驚きの表情を見せる駿介。
「まじか!で、断られた?」
「いいや、まだ答えはもらってない。」
「うわあ、生殺しとか希空ちゃんも鬼畜だなあ。」
感心するように頷く駿介。
こっちの気が休まらないのも知らないで好き放題言う奴だ。
「で、もしダメだったらお前はどうするの?」
多分、いつも通りの関係に戻るだろう。
僕は希空さんを女の子として見る以前に、人として尊敬している。
彼女の前向きな姿勢を僕は好きになった。
そんな彼女を横でそっと見ているだけでもいい。
だから、彼女との関係はできるだけ続けていきたい。叶うならだけど。
「そりゃ無理だろ。」容赦ない言葉で僕の淡い望みはぶった切られる。
「男女に友人関係なんてねえんだよ。あるのは、恋人関係か他人かのどちらかだ。」
駿介は時々、僕が信じたくない冷たいリアルを的確に言語化してしまうときがある。
「まあ、ぶっちゃけ。そのほうがお前にとっては楽なんだと思うよ。」
「どういうこと?」
「人工知能の女の子と付き合うっていうのは普通のことじゃない。人とは違う道を選ぶということだ。」
「分かってるよ、それくらい。」
「支えられる自信はあるのかよ。」唐突に投げられた問いに対して、僕は拍子抜けな気分になった。
普通とは違う。その言葉の意味を僕はどれだけ具体的にイメージできているのだろうか。
「俺達が普通にできること全てがお前や希空ちゃんにとっての逆境になる。そういう道を進む覚悟はあるのかってことだ。」
駿介の投げかける視線が鋭いものに感じた。そうだな、その通りだ。
「正直に言って、俺は反対だった。お前が希空ちゃんを好きになったことには気づいてた。けど、内心では失敗してほしいと思ってたよ。あえてリスクを冒すお前が間違ってるって思ってた。」
駿介の気まずそうな顔を僕は初めて見た。
「ごめん。俺、最低なこと言ったな。」
言葉はそこで途切れる。
駿介は僕にとって親友だった。いつだって、僕を守ってくれた。
だから、最低なんてあり得ない。恥ずかしいことを言うけど、駿介は僕にとって兄のような存在だった。
「駿介は最高の友達だ。それは今もこれからも変わらない。」
重く苦しい雰囲気を壊すために僕は笑ってみる。
「お前もそんな風に笑えるようになったんだな。」
「駿介から見た僕って、そんなに根暗だったの?」
「中学の頃のリクは梅干しみたいな顔してた。」
咄嗟に、僕は自分の顔をスマホのインカメラで覗き込む。
「いやいやいやいや!さすがに!」顔面偏差値が中の下であることは認めよう。
でも、さすがにそれはないだろ。
「梅干しはないよ!」と僕が言うと、駿介は高笑いする。
思いっきり空気が爆ぜたように、笑った。
「ははは!だからさ、そうやって笑えるようになったじゃん!」
「間違ってたのは俺だったんだ。大事な人を失ってふさぎ込んでたお前を俺はほっとけなかった。何とかしねえとヤバイって思った。」
「だけど、お前はもうあの頃とは違う。変われてないは俺だけなんだ。弱いままのお前にしがみついて、お前が俺を頼るときをずっと待ってた。」
顔を赤らめることもなく、毅然とした態度でこそばゆい話をするのは駿介の凄いところだ。
そういう直接的な物言いに僕は信頼を寄せたのだ。
母を失い、父親にも会えなかった頃の僕は誰かの直接的な庇護を求めていた。
何も悩まなくていい、苦しまずに済むそんな関係性を求めていた。
虫の良い奴だけど、そうやって僕は悲しみから逃げていた。
「リク。お前は強くなったよ。だから胸張れよ。お前の強さが、希空ちゃんを支える日がいつか必ず来る。」
「僕は強くなんかないよ。駿介にはいつだって及ばない。」
僕は心の内に潜む弱音を少し吐露してみる。
「好きな女の子に思いを伝えた。男なら好きな女の手をつないでこその強さだ。胸張れよ、リク。」
ありがとう、駿介。
僕は胸が点火されたように熱くなる。
ここまで僕を支えてくれたのは紛れもなく、駿介だ。
「だからさ、ずっとこれからもよろしく。」
僕はそう言って、駿介を見る
すると、僕の頬はぐいっと押し込められる。
「馬鹿か、野郎の顔なんか見てる場合じゃねえだろ!」
僕は駿介の拳によって強制的に教室の入口を見た。
そこには、気恥ずかしげな笑みを浮かべて立つ、メイド姿の希空さんがいたのだ。
♦︎
「そんなにまじまじと見ないでよ。」
清廉なロングスカートも彼女に似合っていた。
僕は直視するまいと視線をずらすと、希空さんが強引に顔を覗き込ませる。
「似合ってないからって、ヒドイ!」頬を膨らませて僕を睨み付ける。
そんな光景を他の女子生徒達はクスクスと笑いながら見ている。居心地が悪い。
皆に見られている中で、「似合っている」なんて言えるわけないじゃないか。
他の生徒と一緒に接客をしている希空さんは、ただの文化祭を楽しむ女子高生だ。
「ご注文の品になります。」と言って、2人分のジュースを机に並べては、次の来客者に座席を案内する。
ずいぶん慣れた動きに見えた。と思ったのだが。
「あっ!危ない!」
大きな音が響く。
希空さんはスカートの裾で足をひっかけて転んだ。
やっぱりドジなところもあるらしい。
「いやあ、ロングスカートは慣れませんなあ。」苦笑いを浮かべながら頭を掻く希空さんを一瞥する。
頬が熱くなった。また可愛いと思ってしまったから。
♦︎
客の入りは好調だった。再現度の高いクオリティと多様性が同化したような空間がクチコミとして広がって、僕らのクラスは多くの人で賑わっていた。
忙しく回る現場を僕は縦横無尽に駆け回る。
注文を聞き、ドリンク担当へ合図して、さらに注文を聞く。
百回以上もその動作を繰り返す間、僕は何度、希空さんをちゃんと見れただろうか。
文化祭の時間は忙しさによって、高速で溶けていく。気づけば時間は午後3時を回っていた。
混雑した教室の中では、希空さんの姿はよく見えない。それはちょっと悲しくて嬉しくもある誤算だった。
束の間に与えられた休憩時間。
僕は熱気に包まれた教室を出ると、近くの非常階段に腰を下ろして一息を漏らす。
「ねえ、隣いい?」
軽快なリズムを踏むような足取りが聞こえる。そこには、希空さんがいた。
フローラルの香りが僕の鼻腔を包んだ。彼女を初めて意識したときにも、この匂いがした。
気がつけば、希空さんは制服に着替えていた。
プリーツスカートを揺らしながら、僕のそばに座る。
「忙しすぎて、ヘトヘトだよ。」
希空さんは笑いながら、パタパタと手のひらで頬を仰ぐ。
「あれ、希空さんも休憩なの?」
僕はそう聞くと、得意げな表情を浮かべた。
「店番はもういいから、2人で楽しんでって言われちゃった。」
僕はその言葉の意味を悟ると、また顔が赤くなりそうになる。
気が早い連中が多すぎるのだ。
「ねえ!リク君。私が行きたい場所当ててみてよ。当てられたら、一緒に回ってあげる。」
相変わらず、可憐な表情でそう言って、笑いかける。
妙な上から目線が鼻につく。それも彼女の可愛いところだけど。
「どうせ、お腹空いてるんでしょ。」僕は短く言うと、希空さんは目を丸くする。
「あたり。よく分かったじゃん。」
「だって、僕もお腹減ったから。」
僕が微笑を浮かべながらそう言うと、彼女はスカートを叩いて、立ち上がった。
そして、もう待ってられないと言わんばかりに、彼女の腹の虫も鳴き始めている。
「じゃあ、決まり! 食べに行こっか、リク君。」
♦︎
校内のど真ん中にはそれなりに大きな中庭がある。噴水とかベンチが置いてあって、この辺りには沢山の模擬店がひしめき合っていた。
生クリームの乗ったパンケーキ、小熊の形のベビーカステラ、キラキラのカップが人気のタピオカミルクティー等。
女の子らしい映えを発揮できるスイーツが立ち並ぶ中で僕と希空さんが選んだのは。
「ガッツリ豚骨。脂と野菜マシマシで!」
希空さんの軽快な号令とともにテーブルに運ばれたのは、希空さんの顔の2倍くらいの大きさのあるドンブリだった。
中には、もやしの塔と乳化した白金色のスープが顔をのぞかせている。
たくさんの湯気が立ち込める中、希空さんは夢中で麺を啜っていた。
「美味すぎるんだけど!何これ!」
驚嘆する希空さんを横目に、僕は火傷しないように気をつけながら、静かに麺を啜った。
「そんなゆっくり食べてたら、美味しさが逃げちゃうよ。」
「そんなに急いで食べたら、喉につっかえるよ。」
隣で小うるさい声が聞こえたので、軽く忠告をした後に、僕は一口分の麺を啜った。
「ゲホゲホッ!」
大仰に麺を啜って、隣で咳き込む希空さん。ほら、言わんこっちゃないだろ。
「ラーメンで窒息死なんて笑えないからね。」と言って、僕はナプキンを彼女に渡す。
「確かにその死に方は嫌だね。」
「どんな死に方も嫌だよ。」
「ははは、そりゃそうだ。仕方ないから、ゆっくり食べるよ。」
そう言った希空さんの横顔はどこか儚げだったのが、僕の心に引っかかる。
でも、一瞬で太陽のような笑顔に戻った。
またひとつ、この学校に来て初めて気がついたことがある。
食堂のメニューは、案外クオリティが高いこと。
学食に行ったのなんて入学式以来かもしれない。
僕は人と交わるのが怖かったから、昼食はもっぱら自席で食べるお弁当だった。
高校3年にもなって、僕は自分のいる学校のことを何も知らないのだと実感した。
「結構美味しかったね。また食べに行こうよ。」
隣でお腹を満足げに抑える少女は僕を見て、微笑みかける。
屈託なく笑う彼女の存在はまだちゃんとあって、僕は少し安心する。
なんだか、嫌な予感がした。
希空さんが遠くに行ってしまうような予感だった
でも、希空さんの笑顔が僕のそんな不安を吹き飛ばしてくれた。
「メガ盛りも美味しそうだよ、リク君。」
食堂の壁に掲げられたメニュー表を見ては、言葉を弾ませている。
僕は一体、卒業するまでにどれほどの初めてを経験できるのだろう。ふと、そんなことを思った。
「ねえねえ、次はお化け屋敷に行こうよ!」
物思いに耽っていた僕を希空さんが強引に起こす。
太陽のような笑顔はエネルギーを補充したようで、ご満悦だった。
僕は思った。
まずは、今日という日を楽しみたい。
そして、文化祭は僕らのゴールじゃない。
僕はここを始まりにしたい。
僕たちの関係性を進める、大事な大事なスタート地点にしたい。
もっと、希空さんと一緒にいたい。そして、彼女のことをもっと知りたい。
だから、僕は希空さんの腕を引く。戸惑うような視線を向ける希空さん。
僕はキョトンとする彼女に軽く微笑む。
「上野の時は散々連れ回されたから。今度は、僕が君を連れ回すよ。」
「リク君、体力ないからすぐバテちゃうんじゃないの?」
希空さんは僕の手を見つめながら、挑発するような口調で答えた。
「これまで希空さんの相手をしてたからね、ずいぶん鍛えられたんだ。だから、君が帰りたくなるまで僕は今日を遊び尽くすよ。」
僕はそう言って、彼女の手を引きながら、煌びやかな廊下を早足に歩き始める。
「帰りたいなんて思うわけないじゃん。」
小声でそんな言葉が聞こえた。僕には聞こえないようにボソリと言ったのだろう。でも聞こえている。
僕は表情が緩まないよう気をつけながら聞こえていないふりをする。
希空さんの腕を掴む僕の手は少し力が入る。迷子にならないように強く握る。嫌がられないように、絶妙な加減で。
僕ら2人は、2年生の教室でやっているお化け屋敷へと向かう。
♦︎
「ほら、コーラ。」太陽が沈みかけた空の下、僕と希空さんは校舎の屋上にいる。2人だけで。
希空さんは後夜祭で賑わう校庭を見下ろしていた。
僕がキンキンに冷えたコーラ缶を希空さんの腕に押しつける。
「ひやあっ!」弾けるように身を翻す希空さん。それから、缶を受け取ると不服な表情を浮かべる。
「んー!なんか今日のリク君、生意気だ!」
希空さんは不満げな表情で僕にそう言う。
「だって、希空さんが幽霊を苦手だなんて思ってなかったから。」
「学生が作るお化け屋敷なんてそんなに怖くないと思ってたんだもん。はいはい、認めます!油断してましたよ!」
希空さんは子供のようにジタバタさせながら、僕を睨んで頬を膨らませている。
「それにしてもさ、出口に手をかけた瞬間、私の肩を掴んで脅かしたよね!リク君!あれは絶対に許さないからね!!」
まあ、希空さんの怒りの理由は大凡僕にあるんだけど、僕は彼女の怒った顔も見慣れたし、愛おしいとさえ思ってしまう。
こんな瞬間がこれからも続く。
そう思えるだけでも、僕は一生分の幸せを貰ったような気分になった。
「お詫びに買ってきたんだ、冷たいうちに飲んでよ。」僕は微笑みながら、コーラ缶の蓋を開ける。
希空さんは意地を張って僕を見ない。
「さあ、そろそろだよ。」僕は、すっかり暗くなった空を仰いで立ち上がる。
爆破音とともに強烈な閃光が夜空を満たす。
僕はその雄大な輝きに息を飲む。
希空さんも同じだった。
圧倒的な美しさと爆音を前にして、まさに心を奪われてしまった。
後夜祭のクライマックス、打上花火が始まった。
僕らの祭りは終わりへと向かおうとしていた。
でも、素直に感動できない僕がいた。
僕の心は今も宙ぶらりん。
僕が自転車で伝えた告白の答えをまだ貰ってないからだ。
答えを急かしてはいけない、と心で思いつつも僕はこの悶々とした感情を早く吐き出してしまいたいと思った。
2発目が打ち上がる。綺麗な花火だ。
「あのさ、自転車で言ったこと。答えを聞いてもいいかな。」
言ってしまった。
希空さんの言葉を静かに待つ。静かに。
静寂が2人の関係性を留めるかのように、はやる気持ちとは裏腹の状況が僕の背中に重くのしかかる。
「ごめ……。」
彼女のふさがった口が少し開いた気がした。
僕は心臓を高鳴らせながらも、希空さんへ精一杯耳を傾ける。
その刹那、花火があがった。
一番大きなやつが、高らかに。
重厚な爆発音が僕ら2人の世界を包んでしまう。
希空さんがかすかに告げた言葉もかき消されてしまって、僕は聞き取ることができなかった。
「今、何て言ったの?」僕は打ち上げ花火の合間を縫って聞き返す。
「言えるわけないじゃん。」
彼女が震える声で告げた言葉。
僕は意味を捉えきることができなかった。
それでも希空さんは構わず、感情を吐き出すように言葉を続けた。
「言えるわけないじゃん! そんなこと!」
「希空さん?」僕は少し怪訝な表情で希空さんを見る。
僕は気がついてしまった。彼女は酷く震えていた。
彼女の身体とても小さくて細い。今にも折れてしまいそうな手が僕の手と重なる。
仄かに温かさを感じた。
寒空の下で燃えるマッチ棒のように、微かだけど、確かな温かさだった。
気づけば、希空さんは僕の手をぎゅっと握っていた。
希空さんは僕の耳元で囁く。
「好きだよ、リク君。」
花火が再び、夜空を照らす。
もう花火なんてどうでもよかった。
隣にいる希空さんを僕は見つめていた。
透き通るような青い瞳。夜空に溶け込み、流れる黒髪。純白の肌。
全てが僕と希空さんを中心にして回る銀河の中にいるように思えた。
夜空に咲いた黄金の花は希空さんの横顔を照らす。
僕は息を飲んだ。
そのとき、僕を見つめる希空さんの頬をひとつの雫が伝っていたから。
僕が動揺していると、希空さんは咄嗟にその雫をぬぐう。
けれど、頬にはさらに数滴の水が伝っていた。
彼女はなんとかそれら全てを受け止めようと試みるけど、袖はみるみると水分を溜め込んでいき、もう拭い取る程の余裕もなくなってしまう。
彼女はそんな濡れた頬を触りながら、唇を噛む。
「どうして泣いてるんだろね。あーあ、もう台無しだあ。」
打上花火が咲く度に、希空さんを伝う涙は量を増やしていく。
拭っても拭っても、もう間に合わない。
「ごめんね、リク君。ぐすっ。こんなときに、ぐちゃぐちゃな顔で。ぐすっ。」
鼻をすすりながら、希空さんは懸命に僕に話しかける。
それでも、彼女は僕の手をしっかり握り続けていた。
僕は泣いている彼女に、片方の手でハンカチを渡す。
「ゆっくりでいいから、涙拭いて。」
滝のように流れ出した希空さんの涙は次第に収まったようだった。
花火も終盤に近付いている。
僕らは屋上の隅に空いたスペースに腰掛けた。
すると、途端に希空さんは夜空に向かって叫ぶ。
「リク君なんて大っ嫌い!!!!」
花火の爆音に匹敵するくらいの大声で彼女は叫んだ。
それは前に言った言葉とは正反対の意味の言葉。
「ごめんね、リク君。これが私の本当の気持ちだから。」
そう言って、顔を俯かせる希空さん。
突き放すように彼女は僕を押しのけて屋上から去ろうとする。
「リク君って、どうしてこんな悪い女が好きなるんだろうね。ほんと見る目ないよ、君。」
背中を向けながら、彼女は肩を震わせている。
僕には分かった。今の彼女の言葉は本心ではない。
心のままに言葉を発する人間が、どうして、こんなにも小さい身体で悲しみに震えているのだろうか。
「私のこと嫌いになった?リク君。」力ない問いかけだった。
「嫌いになるわけないだろ。そのくらいで。」僕は力を込めて答える。
「馬鹿じゃないの?私は君とは違って、人工知能のロボットだよ?」
自嘲するような問いかけだった。
「僕は希空さんを好きになったんだ。希空さんがたまたま人工知能だったというだけのことだよ。」
僕は迷いなく答える。
「全然、理由になってない。説明になってないよ。君にこれ以上迷惑はかけたくないよ。」
それは一方的な否定だった。
「好きになるのに理由なんていらない。僕が君を好きになったのは理屈じゃないんだよ。」
「前に、心は知るものじゃなくて、感じるものって言ったのは君自身だったよね。」
僕は彼女の否定に対して、全面的な肯定で挑んだ。
僕に迷惑をかけるのが嫌? そういう段階はとっくに過ぎている。
僕らはもうここまで来ているんだから。
僕の声には、心には再び力がこもる。
「社会がなんなんだ、周りがなんだってんだ。僕は君のことが好きだ。悪いけど、すごい大好きだよ。」
「僕らは互いを助け合う。辛くても悔しくても、君が立ち止まったら、僕が君と一緒に傷を癒やす。再び立ち上がるまでずっとずっと、君の側にいるって僕は誓ってやる! たとえ、誰に祝福されなくても、誰かが僕らを攻撃したとしても、僕は君を一生守るって誓う!」
それは根拠のない口説き文句だった。歴戦のナンパ師だってこんな臭いセリフは言わない。
でも、僕の本心だ。
でも、僕らに宿った「本物の心」はそこにある。
そのとき、目の前の少女は力なく崩れた。
倒れ込む希空さんを抱きかかえると、僕と彼女との距離はもう殆どゼロに近い。
希空さんはぼんやりとした表情で、僕を見る。
さっきまでとは違う。力も無い弱々しい瞳だった。
「大丈夫?どこか調子悪い?」僕の質問に対して、希空さんは首を懸命に横に振った。
「大丈夫だから、少し目眩がしただけ。」
そう言いながら、僕の肩を掴んで彼女は何とか身体を起こす。
僕は彼女がいつ倒れてもいいように、背中に腕を回す。
「ごめんね。私はもうリク君と一緒にはいられない。」
僕の腕に身を預けながら、やや脱力した表情で希空さんはそう言った。
「どうしてだよ、希空さん。」
「これはね、そういう約束なの。私が今日ここにいる、そのために払った代償なの。」
それは希空さんから出た言葉。
一瞬、彼女の言葉が分からなかった。それから数刻、彼女の答えを反芻する。
「分からない、分からないよ希空さん。どうしてそんな悲しい顔をしているの。」
僕は泣きそうになるのを堪えながら、必死に呼びかけた。
朦朧とする希空さんの表情が次第に失われていくのが怖かった。
目を背けていた現実が物凄いスピードで追いかけてくる。そんな気がした。
朦朧とした意識を振り払うように、希空さんは口を開く。
「私の意識はね、もう死んでしまったはずだったの。もう消えてなくなったはずだったの。」
「何だかんだ充実した人生だった。だから、死んでも後悔はないかなって思った。でもね、ひとつだけやり残したことがあった。それは私の夢であって、私の生きる希望だった。もう叶うことはないって諦めていたけど。」
「そしたらね、外からリク君が私を呼ぶ声が聞こえたの。私はその声のする方を走った。また会いたいと思った。忘れかけた夢を思い出した。私の強い願いが最後に奇跡を起こした。天国の誰かがね、私が願いを叶える間だけ生きる時間をくれたの。」
僕は希空さんの言葉の意味を感じながら、恐怖心を覚えた。もう聞きたくなかった。現実が嫌だった。
全てが夢だと思いたかった。目を覚ませば、僕と希空さんが出会う前に戻っていて、僕たちは何も関係を持たないまま、卒業する。それでよかった。それ以上は望みたくなかった。
「お願いリク君、聞いて。私の願いはね。」
「嫌だ!願いなんて聞くもんか、絶対に聞くもんか!」
僕は子供みたいに駄々をこねる。そんな僕を見ながら、希空さんは力なく笑う。
「リク君を幸せにすること、それが私の願いなんだよ。」
希空さんの声は掠れそうになるほど、弱く、小さくなっていった。そして、倒れ込む。
そんな小さい彼女を、僕は胸の中で抱きしめる。強く抱きしめた。
鳥になってどこかに行ってしまいそうな気がしたから。
彼女の願いを知ってしまった。
そして、今の彼女は願いを叶えるまでの間、繋がれた命であるというなら。
「こんなことってないよ。嘘だろ、嘘だって言ってよ。希空さん!」
僕は自分が取り返しの付かないことをしたことに気づいてしまった。
僕が幸せになれば、彼女の命が終わる。
そんな残酷があっていいのだろうか。
「リク君、私の願いは叶ったんだよ。だからさ、そんな悲しい顔しないでよ。」
希空さんは僕の腕の中で、優しく笑いかける。違う、そうじゃない。
僕の求めているものは明確な否定だ。
全て冗談だよって、いつもの君みたいに憎たらしい笑顔で僕をからかってよ!
僕の淡い期待は、全て無惨にも打ち砕かれる。
「僕はもう幸せになんてならない!だからさ、君はずっと僕のそばにいてよ!」
もう好きだなんて言わない。
嬉しいだなんて言わない。
楽しい思いなんてしない。
一緒に遊んだりもしない。
「幸せなんて要らないから!もう何も要らないから!」
僕は無意識に声を張り上げて、僕の腕に包まれた少女に語りかける。
絶対に聞こえるように、聞き逃しなんて許さない。
君は僕を幸せにすることなんて許さない。
僕はその一心で、僕の最愛の人を拒絶する。
「ただ、僕の隣に居てよ!何もしなくていいから、僕のことを無視したって、蹴飛ばしたっていいよ。」
「バカ…だね、リク…君。それ…じゃ、す…きなひ…とに一緒にいる意味ない…よ。」
腕の中から消えそうな程小さい声が聞こえる。愛おしい声。僕の大好きな声。
でも、その全てが僕は憎かった。
僕が希空さんを愛おしいと思う度に、希空さんが「死」に近付く。
神様はどうして、こんな下らない願いで希空さんを振り回すんだ。
不公平だろ!馬鹿野郎!
心の中で叫んでも、彼女の灯火はだんだんと弱くなっていくように感じた。
少しずつ、希空さんは目を閉じる。
「希空さん!」僕は彼女の肩を叩いて必死に呼びかける。
どこかに彼女の意識が行ってしまわないように。
認めたくない。
だって、これからじゃないか。
告白して、付き合って、一緒にデートして。
お互いの知らないところをこれから沢山知っていくんだ。
文化祭が終われば、修学旅行がある。班別行動の時、僕はこっそり抜け出すんだ。
そして、京都駅の目立たないところで希空さんと落ち合う。2人で作った、2人だけの修学旅行の栞を持って歩き出す。
修学旅行が終われば、受験シーズンだ。
僕が図書室で勉強している時、君は時々消しゴムを飛ばしていたずらをしてくる。僕はそれでも勉強を続ける。
たまに、構ってあげる。ご飯は必ず一緒に食べる。合格祈願にも一緒に行く。
受験が終われば卒業式だ。僕の第二ボタンを希空さんに、僕は希空さんのスカーフを貰う。
遠距離恋愛になるからって希空さんが泣き出しちゃって、そんな彼女の隣で泣き止むまでそばに居る。
きっと、まだまだ楽しいことは沢山ある。今まで経験した悲しいことよりも沢山の楽しいことを2人で経験するんだろ。
ラーメンのメガ盛りだって、また食べよう。
今だって花火はこんなにも綺麗なんだよ。
それなのに、どうして眠っているの。希空さん。
もう届いていないかもしれない、手遅れなのかもしれない。
それでも、届くように叫ぶ。声が枯れても。
そのとき、希空さんの瞳がゆっくりと開かれる。声にならない微かな声がした。
僕は必死で耳を近づける。
「夢を見たよ。リク君。」
僕は涙が瞼から流れ出そうになるのに堪えながら、彼女に精一杯の笑みを浮かべる。
「どんな夢を見たの?」
「えっとねぇ。私がリク君にサプライズするの。仕事から疲れて帰ってきたリク君に、1枚の写真を渡すの。」
情けない泣き顔をさらしながら、僕は希空さんの夢の話を聞く。
彼女の消えてしまいそうな声が愛おしくて、悲しい。
「お医者さんで貰った、お腹の中を写した写真。そこにはね、小さな白い影があるの。」
「仕事から疲れて帰ってきたリク君にね、私はその写真を見せるの。するとね、リク君は家の中で思いっきりジャンプして子供みたいに喜んでさ。そしたら、リク君はジャンプした勢いで転んじゃうのよ。」
絞り出す声。少し笑い声がした気がした。
僕はもう耐えられなかった。今すぐ、この時を止めて欲しかった。
「私はね、リク君に言ったんだ。子供ができたのに、リク君が子供に戻っちゃダメでしょって。」
「それから、リク君は反省してね、私の大きくなったお腹を撫でてくれたんだ。2人で静かに、お腹の音聞いたりして、いつ生まれるかなあって話したりして、お腹が空いたらご飯を食べて。そんな夢。」
そこから先、希空さんの続く言葉はなかった。
彼女は眠り姫のように、穏やかな表情で僕の腕に埋もれている。
「隣りにいるって、約束したじゃないか。」無尽蔵の涙が僕の眼と鼻から流れ出る。
僕から滴り落ちる雫が彼女の頬を濡らす。
おとぎ話だったら、ここで眠り姫は奇跡の目覚めを果たすのだろう。
でも、希空さんの穏やかな表情が崩れることはなかった。
さようなら、希空さん。
そんな言葉を僕が言えるわけがない。
奇跡はいつか必ず起きるって信じてやる。
信じ続けて、いつか奇跡を実現してやる。
いつか、人間も人工知能も同じように生きられる世界を作って、僕らはまた一緒に過ごすんだ。
「希空さん。」
僕はどうしようもない程に弱々しい声で、彼女の名を呼んだ。
希空さんが目覚めたら、またちゃんとするから。
だから、今だけは弱い僕を許して欲しい。
泣き虫で無力な僕をどうか許してほしい。
外気温が低下するに従い、僕の身体は冷やされていく。
花火が終わった。生徒たちの歓声が終わった。
祭りの後の寂しげな夜空の下。
僕は、その小さな体が冷えてしまわないように、彼女を強く抱きしめた。
僕は必死にペダルを踏んで走る。
駅に着くと、僕は無心で改札を抜けた。
研究所がある和光駅までは20分くらいかかる。その間、僕は生きた心地のない時間を過ごした。
希空さんが今日、処分される。
その言葉は、彼女が人間ではなく、機械によって作られたモノであるという非情な事実をありありと僕に突きつけた。
そして、彼女がもう思い出の中の存在になってしまう。
僕は嫌だった。ここで終わってしまうのが嫌だった。
後悔はないって言えたらどれだけ楽だっただろうか。
前を向いて生きるよと言えたらどれだけ楽だっただろうか。
無理だよ。そんなこと無理に決まっている。
僕は胸を針に刺されるような思いの中、希空さんの笑顔をまた思い出してしまった。
だから僕は、学校を抜け出して彼女の眠る研究室へと向かっている。
園田さんは僕を優しく見送ってくれた。やるべきことをやれと一言を残して、駿介は僕に自転車を貸してくれた。
「クラスは任せて」とみんなが言ってくれた。
「頑張って」とみんなが言ってくれた。
僕は知らないうちに、沢山の味方を得た。全て大切にしたい大事なものだ。
文化祭も好調に進めることができた。みんなが年に1回しかない、この学校のお祭りを楽しんでくれている。
「でも、希空さんがいなきゃ意味ないじゃないか。君がいないとダメじゃないか。」
叶うはずのない願望が電車に揺られる。
僕は虚空の中を漂う。
和光駅に到着すると、僕は改札を抜けて駆け出した。
研究所まではそこまで遠くない。
汗がへばりつく。喉は水を欲している。僕は文化系だったから、こんなに走ると流石に疲れる。
身体が鉄のように重かった。口の中は塩の味がした。
それでも、僕の足取りは確実に、一歩ずつ、希空さんのもとへと向かっている。格好悪くても先へと進む。
研究所のエレベーターに入ると、記憶を頼りに希空さんの部屋があった4階ボタンを押す。
周りの研究員たちは息も絶え絶えな高校生を不審そうに見ていたけれど、僕は構うこともなかった。
彼女に会えれば僕はそれでいい。それで。
エレベーターが鈍重なブレーキ音を鳴らし、扉が開く。
僕はふらふらになりながらも、壁の手すりを頼りに前へと進む。
「どうしてまた、ここへ来た。お前にできることは何もないぞ。」目の前には白衣姿の父さんが立っていた。
呆然と僕を見る父さん。いつも以上に冷ややかな目線が僕を刺した。
それに、負けじと僕は歯を食いしばる。
「父さん、通してくれ。僕は希空さんに会いに来たんだ。」対抗して鋭く睨む。父さんは微動だにしなかった。
「ここにお前の居場所などない。帰れ、リク。」冷徹な表情を一瞥する。
それでも、僕は後ずさることはしなかった。それは乗り越えるべき壁だと思ったから。
僕は息を吸った。大きく背中を張った。
「希空さん!そこにいるんだろ!今すぐ君のところへ行くよ!だから待てって!」
僕は息を身体中から吐き出すように叫んだ。
自分でも突拍子もないことを言っているのは分かる。馬鹿なことを言っているだって、痛いほどに分かる。
僕は廊下の向こう側へ向かって走り出す。
父さんが僕を力づくで押さえ込む。
「リク!お前は自分がどれほど愚かなことをしているのか分かっているのか。」
父さんは全力で進む僕を前に、全力で僕を組み伏せる。
「僕はまだ、希空さんに何も伝えられてないんだよ! 馬鹿って言われたっていい。僕はもう後悔する人生は嫌なんだ!」
僕は格好悪い思いをそのままに吐き出した。体重をかけて前に進もうとする僕。
不意に身体に重力が奪われた感触を覚えた。
気がつけば、僕は身体が空中に浮かび、そのまま廊下に激突する。
ぐはっ!!
体中の酸素が奪われるように、僕の身体が不快感と鈍重な痛みに襲われる。
状況を理解しようとする前に、目の前の父さんは僕の右頬に拳を叩き込んだ。
「お前は何も分かってない。何も成長してない。今のお前はただ泣き喚くだけの子供だ。」
僕を殴った父さんの目は悲しそうだった。
初めて見る表情をしていた。
仏頂面だったり、仮面のような笑みを浮かべていた父さんの本当の表情がそこにあるような気がした。
「母さんの事故はもう繰り返したくない。」突然、父さんから発せられた言葉。
「どうして、母さんの話が出てくるんだよ。」瞬間的に、僕は心が煮えたぎるように感じた。
母さんは事故で死んだ。交差点を車で運転していた母さんは横から飛び出した大型トラックに追突された。
そして、母さんは死んだ。
「事故が起きたトラックには元々、自動運転用の人工知能が内蔵されていた。事故を起こすような危険な運転はしなかったし、運行時間管理に隙もない。人工知能による運転は完璧だったはずだった。」
「だが、母さんの事故があったとき、警察が自動運転装置の異常を調べた。」
それは僕にとって初耳だった。
事故の原因は運転手による居眠り運転と聞いていたから、自動運転用の人工知能が備わっていたなんてことは聞いたこともない。僕の戸惑いをよそに、父さんは告げる。
「鑑定の結果、自動運転機構を司った人工知能に障害はなかった。」
「だが、人工知能の思考ログを見たとき、この事故の全容が分かったんだ。事故発生直前の時刻、人工知能はマルチタスクで救命デバイスを起動していた。」
「救命デバイスって?」
「人間が心臓発作に陥ったときに、初期対応としてAEDを使用することがあるだろう。」
僕は公共機関とか街中に設置されたオレンジ色の箱を思い浮かべた。
僕は学校でもあの装置の操作訓練をしたことがある。心臓が止まった身体に電気ショックをあたえる装置だ。
「社会インフラ、自動運転。人間と関わり合うことの多い人工知能筐体には心臓発作を起こした人間に初期治療を行うAEDと同様の機能が備わっているものも多い。それが、救命デバイスだ。」
「つまり、その人工知能は事故が起きる直前にAEDを使おうとしたってこと?」僕の問いかけに父さんは頷く。
「そうだ。事故が起きる前に、人工知能はAEDを起動した。この意味がわかるか、リク。」
おかしいと思った。
どうして事故が起きる前なんだ。
トラックの運転手は事故によって死亡した。
AEDを使用するのは事故後であるはずなのに。
「もちろん内蔵時計に間違いはない。だから、事故の前に使っていたことに間違いはない。」
僕はなんだか怖くなった。何か知ってはいけないことを知るような気がした。
「トラックの運転手は事故が起きる直前、既に心臓発作で亡くなっていたんだ。」
僕は言葉が出なかった。居眠り運転での事故、世間ではそのように報道されていたはずなのに。
母さんを殺したと思っていた人間が実は、すでに死んでいた。
「この人工知能は運転制御という職務を放棄してまで、目の前の運転手に対して救命デバイスを使用した。自動運転を続行し、安全な場所まで避難する事が人工知能の使命であったし、そうすることは不可能ではなかったはずだ。」
その人工知能は自らの「使命」を犠牲にして、目の前の運転手を救おうと行動した、というのか。
人工知能は人間から課された「使命」を絶対視する。「使命」とは人工知能にとっての生きる意味。
それじゃあ、まるで。僕の思いを父さんの言葉が遮る。
「まるで、人間のようだ。大切な人を守りたいという情愛が使命を歪ませるのだ。」
「だから、人間が人工知能と特別な関係性になることは危険な行為だ。現に、希空はお前との関係性によって使命を放棄した。使命によって救われるはずだった人間を見捨てたんだ。その意味がお前には分かるな、リク。」
鈴音の恐怖に歪む顔を思い出した。手に持った銀色のナイフ、そしてアスファルトを染める赤色の液体を思い出した。
僕は咄嗟に胃液が込み上がる感触に襲われる。
「人工知能と関係を持つというはそういうことだ。お前は、そういう世界に足を踏み入れようとしている。何も分からない子供のくせに。」
「何も分かってないのは、父さんの方だよ。」
僕は塩辛い唇を拭って、再び父さんに向き直った。
「僕は世界や人々との関係を絶って、逃げるだけの日々だった。けれど、それじゃ何も変わらない。僕の望む世界を作るには僕自身が変わらないと始まらない。希空さんは僕にそう教えてくれた。」
「それに、僕は彼女がそばにいてくれれば、なんでもできる気がするんだ。だから、彼女が人間として生きることが罪ならば、僕は背負うよ。ずっとずっと、背負ってやる!」
父さんは僕の言葉を聞きながら、黙った。
途端に力が抜けたように、父さんは体を壁に寄りかける。
「ああ、そうか。やっぱり、りっちゃんの息子なんだな。お前は。」父さんはそう言って、静かに微笑んだ気がした。
「覚悟があるなら、お前が望むようにしたらいいさ。」
座り込んだ父さん。声はいつもよりも弱々しかったけど、優しい声だった。
僕は道を譲った父さんを見ながら、前を進み始める。
「父さん、たまには家に帰ってきてよ。また、カレーでも作るから。」
僕は歩きながら、小声でそう言った。
♦︎
閉じられたパールホワイトの部屋。
隅に置かれた大きなベッド。
そこには、ケーブルに繋がれていない希空さんが白い検査衣に包まれながら、横たわっていた。
僕は恍惚とした表情で、その曲線を眺めてしまう。綺麗な彼女に目を奪われてしまう。
それでも、彼女の目は閉じられたままだ。
飴細工のように細やかな黒髪を撫でる。真珠のような肌に触れる。
元気な彼女も、眠っている彼女も、変わらずに僕にとって愛おしい希空さんだった。
「希空さん、今日は文化祭だよ。驚くだろ、メイド喫茶完成したんだよ」
純白の頬は太陽の光を受けて輝きを増していく。だけど、希空さんは目覚めない。
「こんなところで寝てたら園田さんのメイド服姿、見損ねるよ。すごく似合ってるんだ。驚くよ、きっと。」
答える声はなかった。
希空さんが僕の話を聞いていたら、きっと「私より可愛いの?」とか聞いてくるんだろうね。
「でも、僕は希空さんのメイド服が一番好きだよ。」
身体の温度が若干上昇する感覚。
心を筆で弄られたようなゾワゾワとした感覚。
全てが懐かしくて愛おしい。
「やっと素直になったね、リク君。」
僕は耳を疑った。確かに声が聞こえたのだ。紛れもなく、希空さんの声だ。
「希空さん。」
僕は咄嗟に希空さんの顔を見る。
驚いた。信じられなかった。
希空さんは薄らと瞼を開け、僕を見ていたのだ。
「ごめんね、また寝坊しちゃったね、あたし。」
そう言って、どこか決まりの悪い表情を浮かべる希空さん。それから、いつも通りの笑顔に戻った。
まるで時間が巻き戻されたような感覚だった。
「希空さん、身体は大丈夫なの?」
「正直に言うとね、少し眠っていただけなの。もう身体は大丈夫なのに、気持ちだけが怖がっていたんだね。」
希空さんはまた顔をクシャって崩すように笑った。無邪気で破天荒で向こうみずな女の子に戻っていた。
「早く行こう。私たちの文化祭へ。」そう言って、希空さんは僕に手を差し出した。
♦︎
制服に着替えた彼女と2人きりの電車、何も話さなかった。
希空さんは、車窓から移り変わる虹色の景色を楽しそうに見ていた。
だから僕はそんな彼女を邪魔できなかった。
僕は希空さんのいない日々にどんなことがあったのか、彼女に伝えたかった。たくさん話したいことがあった。
だけど、僕は何よりも一番、彼女に言うべき言葉があると知っている。僕はやっと自分の気持ちに気づいた。
駅に着いた。
僕は気を引き絞り、彼女を自転車置き場まで案内する。
「2人乗りなんて、リク君結構大胆だね。」
ニヤニヤしながら、僕の心を見透かすような言葉をかける希空さん。
僕は動揺を隠すように、自転車のスタンドを勢いよく蹴り上げる。
「早く移動するにはこれしかなかったんだよ。文句言うなら、歩いて行くしかないよ。」
尖るような口調で答えてみると、希空さんは素直に荷台へと跨がる。
不意に、ぎゅっとした重みを感じた。
彼女1人分の重みが僕に妙な現実感を感じさせてくる。
希空さんとこんなに近くにいる。これは夢じゃないんだ。
そんな実感が僕の心をくすぐってきた。
「さあ、行くよ。つかまってて。」ペダルを蹴り上げ、自転車は疾走する。
同時に僕の背中に柔らかい圧力と温度が伝わる。
久しぶりの暖かさに僕は胸に込み上げる熱い感情を堪える。
「ねえ、私、重くない?」
彼女は不安げな口調でそう聞いてきたけど、自転車には大した重量感を感じない。
むしろ、彼女はとても軽いように感じた。僕はかぶりを振る。
「その間、なによ。」
「何って、なんでもないよ。」
じっと僕を睨む希空さん。ふーんと言って、なじるようのな言葉を風にのせる。
「気持ちいい。風になったみたい。」僕の緊張をよそに、希空さんは風を感じて歓声をあげる。
僕はそんな彼女に軽快な返答ひとつできなかった。
希空さんは続けて僕に話しかけた。
「ねえ、どうしてなの。」
発された希空さんの言葉は途端に色を変えたようだった。
恐る恐る手探りで言葉を探し当てるような、ぎこちなさを感じた。
「どうしてって。」僕は聞き返す。
僕のお腹にかかる力が強くなった気がした。
「どうして、私のことを迎えに来てくれたの。」
つまんない事を聞くなよ。僕は意外な彼女の質問に溜息を漏らす。理由なんてない。
あるのは僕の中にある思いだけだ。まだ伝えられていない思いだ。
「理由なんてないよ。希空さんは待ってくれるって思ったんだ。」
言葉足らずな返事をする。
彼女からの応答はない。
すると途端に、希空さんは僕の背中をぽんぽんと叩き始めた。
「あーあ、もうダメだ私。君が近くにいると安心しちゃう。甘えちゃう。駄目な子になっちゃう。」
それから、少し鼻にかかった声で、希空さんは言葉を続けた。
「嫌いならそう言っていいからね。下手に優しくされると私、勘違いしちゃうからさ。ほら、私って案外馬鹿だし、そういうの疎いのよ。」
正直、腹立たしく感じた。
僕が君を嫌い?
一体どうしてそんな話になるんだ。
それに、一番の原因は君にあるんだ。
君が僕を連れて走り出すから、僕は君のことしか見れなくなってしまった。
君のせいで、僕は君に恋をしてしまったんだよ。
「君のことが好きだから。理由はそれだけだよ。」
自転車の軋む音の中で僕の声が空中を漂う。
それは短い告白だった。
希空さんは黙ってしまった。
僕の背中に冷たいものが触れた。
僕は横断歩道で自転車を止めて、彼女の様子を伺う。
「やめてよ、こっち見ないでってば。」
降りかかる希空さんの言葉。
同時に、後ろを向こうとした僕の顔は彼女の手でグイグイ押し戻される。
「私は大丈夫だから、止まらないで。」
再び体温が伝わる。僕は黙って頷いて、ペダルを蹴る。
それからは5分程度の沈黙が続いた。
僕もどうしてかその静寂の時間を味わっていた。
体温だけが今の希空さんを感じられる唯一の感触で、僕は今感じているその温かさを覚えておきたいと思った。
「リク君。」
相変わらず震える声がした。僕は硬直する背中を動かして返事をする。
「ごめん、私。今すぐに答えを出せない。」
彼女から告げられた言葉、僕は脳天を棒で叩かれたような気分になる。
なんだか、僕は自分の言葉を取り消したい気分になった。
けれど、言葉はもう取り戻せない。
希空さんは相変わらず、顔を俯かせている。
あてもない後悔が汗に滲む。
「リク君、今はただ私の隣にいてくれないかな。」
吐息混じりに希空さんは答えた。
それは僕の冷えかけた心に陽光を照らすように優しかった。
「私はこの文化祭をリク君と最後までやりきりたい。だから、最後まで私に勇気をください。」
凜とした声。最後という言葉が気にかかった。
それでも僕はその言葉を聞くことのないまま、走り続けた。
自転車は坂道を高速で駆ける。
「隣にいるよ。約束する。」
追い風が弱い僕の背中を押してくれた。
ハンドルを持つ手が引き締まる。
校門が前方に見えた。文化祭用に設置された入場ゲートには沢山の人でいっぱいだ。
その光景は文字通り、お祭りそのものだった。
自転車を駐輪場に止める。
希空さんの手を取り、彼女を荷台兼座席から下ろすと、希空さんの流れるような黒髪が僕を撫でる。
身体全体が沸騰したような感覚に襲われながらも、僕は彼女の手を離さないように意識を集中させる。
「どうしてリク君が緊張してるのよ。」
屈託無く笑う希空さん。
彼女は男心というものが分からないのか、そんな不平を言ってみたくもなったけど、黙っておく。
「途中から準備投げ出しちゃったし、みんなに何て言われるかな。」
希空さんは校舎を歩きながら、僕に不安を吐露する。
自然と彼女の教室まで向かう足取りが重くなっていた。
「心配ないよ。さあ、早く行こう。」今度は僕が彼女の手をとって、走り出す。
♦︎
目の前に広がるのは、茶色いレンガ造りの壁。
いや、そう見えるように塗った段ボールを教室の外壁に敷き詰めたのだが。
そこはまるでヨーロッパ風の小洒落たカフェのようだ。
「すごい、これをリク君がやったの。」
希空さんはその光景に呆気にとられながら、感想を漏らした。
「いいや、希空さん。僕だけじゃないよ。」僕はそう答えた。
そのとき教室のドアが引かれる。
教室から小学生くらいの女の子が数人出てくる。
「みんな可愛かったね!」
「ねえ、あたしメイドさんからサイン貰ったよ、ほら!」
そう言って、手の甲にマジックペンで書かれたものを友達に自慢げに見せつけている。
そんな様子を僕と希空さんは微笑ましく見ているとき。
「希空ちゃん、希空ちゃんなの?」教室の扉からひとりのメイド服姿の女子生徒が出てきた。
黒い下地に白いレースで装飾されたシンプルなメイド服、スカートはロング丈で、歩く度にふわりと瀟洒な雰囲気が醸し出される。
小学生達を笑顔で見送った後、その人は僕らを見て呆然と立ち尽くしていた。
すると僕の隣に風が吹いた。
希空さんは僕が言葉を発する間もなく、その女子生徒のもとへ走り出す。
急接近した2人。
希空さんは迷わず、両手を広げて彼女をぎゅっと抱きしめた。
「めぐみん!」
メイド服にシワがつくことも気にせず、希空さんは力一杯に園田さんを抱きしめた。
「嘘じゃない。嘘じゃないんだよね。希空ちゃんなんだよね。」
園田さんも負けじと、希空さんの華奢な肢体を抱きしめた。
「私はちゃんとここにいる。ここにいるよ。」
泣きながら笑う希空さん。
「ううう。一体、どれだけ心配したと思ってるのよ!」
園田さんも同じく大粒の涙をこぼす。今まで溜め込んでいた寂しさや悲しみを全て吐き出しているように見えた。
異変を感じたクラスメイト達が続々と教室から出てくる。
どっと押し寄せるように、女子生徒数人が希空さんを囲う。
「ほんとごめんね。私、みんなをほったらかしにして。」
贖罪する希空さんは、皆の視線を伺った。
「ねえ、希空さん。謝らなくていいんだよ。」
ひとりの女子生徒が優しい声でそう言って、希空さんの手を引く。
「みんながメイド喫茶をやってみたいと思ったから、こうして形になった。」
他の生徒達も黙って頷く。
希空さんははっとした表情で皆を見る。
スカートがミニ丈のメイド服、純白のメイド服、蒼を基調とした中華風の給仕服、それに和服とかスーツとか。
皆の装いは様々だったけど、不思議と場違いな印象は抱かない。
「皆が楽しめる企画にしてくれたのは、リク君の提案があったからなんだよ。」
園田さんは俯かせた顔を上げて、毅然とした表情でそう言った。
風を感じるように、希空さんの視線が僕に移る。
「俺、希空ちゃんのメイド服も見たいっす。」男子生徒の一部顔ぶれが現れる。
タキシードやアニメキャラクターのコスプレをしている人もちらほらと。
「馬鹿!何出てきてんの!希空ちゃんをお迎えする間、あんたらに店番任してたんだから!」
ひとりの女子生徒が男子に向けて怒声を放つ。
「それにさ、コスプレするなら、ちゃんと相方の許可とってからでしょ。」
女子生徒はそう言って、僕の顔を一瞥する。
え?どういう意味だ。僕は考える。
だけど、僕の思考を追い越すように、多くの視線が刺さる。
「ねえ、リク君。希空ちゃんにメイド服着せてもいいかな?」問いかける女子生徒。
「違うから!そういうのじゃないから!」希空さんが慌てながら、そう答えた。
「え?あんたら、まだ付き合ってないの?」周りは虚を突かれたような反応を示す。
僕は再び、氷のように固まってしまう。
希空さんの顔をちょっと見る。
希空さんはぷいっと明後日の方角を向いてしまった。
「そういうのじゃない」
その言葉に僕は心の奥底で落ち込んだりしてみた。
気づけば希空さんは女子生徒たちによって、どこかへ連行されてしまった。
♦︎
僕と駿介はメイド服の給仕達が働く光景を見守りながら、教室の隅っこであぐらをかいていた。
「なあ、リク。もしかして、まだ告ってないのか。」隣で駿介がぼやく。
僕はあやうく咽せそうになる。急に、心臓に悪い言葉を言わないでくれ。
「告ったよ。」
僕は小さい声で短く答える。驚きの表情を見せる駿介。
「まじか!で、断られた?」
「いいや、まだ答えはもらってない。」
「うわあ、生殺しとか希空ちゃんも鬼畜だなあ。」
感心するように頷く駿介。
こっちの気が休まらないのも知らないで好き放題言う奴だ。
「で、もしダメだったらお前はどうするの?」
多分、いつも通りの関係に戻るだろう。
僕は希空さんを女の子として見る以前に、人として尊敬している。
彼女の前向きな姿勢を僕は好きになった。
そんな彼女を横でそっと見ているだけでもいい。
だから、彼女との関係はできるだけ続けていきたい。叶うならだけど。
「そりゃ無理だろ。」容赦ない言葉で僕の淡い望みはぶった切られる。
「男女に友人関係なんてねえんだよ。あるのは、恋人関係か他人かのどちらかだ。」
駿介は時々、僕が信じたくない冷たいリアルを的確に言語化してしまうときがある。
「まあ、ぶっちゃけ。そのほうがお前にとっては楽なんだと思うよ。」
「どういうこと?」
「人工知能の女の子と付き合うっていうのは普通のことじゃない。人とは違う道を選ぶということだ。」
「分かってるよ、それくらい。」
「支えられる自信はあるのかよ。」唐突に投げられた問いに対して、僕は拍子抜けな気分になった。
普通とは違う。その言葉の意味を僕はどれだけ具体的にイメージできているのだろうか。
「俺達が普通にできること全てがお前や希空ちゃんにとっての逆境になる。そういう道を進む覚悟はあるのかってことだ。」
駿介の投げかける視線が鋭いものに感じた。そうだな、その通りだ。
「正直に言って、俺は反対だった。お前が希空ちゃんを好きになったことには気づいてた。けど、内心では失敗してほしいと思ってたよ。あえてリスクを冒すお前が間違ってるって思ってた。」
駿介の気まずそうな顔を僕は初めて見た。
「ごめん。俺、最低なこと言ったな。」
言葉はそこで途切れる。
駿介は僕にとって親友だった。いつだって、僕を守ってくれた。
だから、最低なんてあり得ない。恥ずかしいことを言うけど、駿介は僕にとって兄のような存在だった。
「駿介は最高の友達だ。それは今もこれからも変わらない。」
重く苦しい雰囲気を壊すために僕は笑ってみる。
「お前もそんな風に笑えるようになったんだな。」
「駿介から見た僕って、そんなに根暗だったの?」
「中学の頃のリクは梅干しみたいな顔してた。」
咄嗟に、僕は自分の顔をスマホのインカメラで覗き込む。
「いやいやいやいや!さすがに!」顔面偏差値が中の下であることは認めよう。
でも、さすがにそれはないだろ。
「梅干しはないよ!」と僕が言うと、駿介は高笑いする。
思いっきり空気が爆ぜたように、笑った。
「ははは!だからさ、そうやって笑えるようになったじゃん!」
「間違ってたのは俺だったんだ。大事な人を失ってふさぎ込んでたお前を俺はほっとけなかった。何とかしねえとヤバイって思った。」
「だけど、お前はもうあの頃とは違う。変われてないは俺だけなんだ。弱いままのお前にしがみついて、お前が俺を頼るときをずっと待ってた。」
顔を赤らめることもなく、毅然とした態度でこそばゆい話をするのは駿介の凄いところだ。
そういう直接的な物言いに僕は信頼を寄せたのだ。
母を失い、父親にも会えなかった頃の僕は誰かの直接的な庇護を求めていた。
何も悩まなくていい、苦しまずに済むそんな関係性を求めていた。
虫の良い奴だけど、そうやって僕は悲しみから逃げていた。
「リク。お前は強くなったよ。だから胸張れよ。お前の強さが、希空ちゃんを支える日がいつか必ず来る。」
「僕は強くなんかないよ。駿介にはいつだって及ばない。」
僕は心の内に潜む弱音を少し吐露してみる。
「好きな女の子に思いを伝えた。男なら好きな女の手をつないでこその強さだ。胸張れよ、リク。」
ありがとう、駿介。
僕は胸が点火されたように熱くなる。
ここまで僕を支えてくれたのは紛れもなく、駿介だ。
「だからさ、ずっとこれからもよろしく。」
僕はそう言って、駿介を見る
すると、僕の頬はぐいっと押し込められる。
「馬鹿か、野郎の顔なんか見てる場合じゃねえだろ!」
僕は駿介の拳によって強制的に教室の入口を見た。
そこには、気恥ずかしげな笑みを浮かべて立つ、メイド姿の希空さんがいたのだ。
♦︎
「そんなにまじまじと見ないでよ。」
清廉なロングスカートも彼女に似合っていた。
僕は直視するまいと視線をずらすと、希空さんが強引に顔を覗き込ませる。
「似合ってないからって、ヒドイ!」頬を膨らませて僕を睨み付ける。
そんな光景を他の女子生徒達はクスクスと笑いながら見ている。居心地が悪い。
皆に見られている中で、「似合っている」なんて言えるわけないじゃないか。
他の生徒と一緒に接客をしている希空さんは、ただの文化祭を楽しむ女子高生だ。
「ご注文の品になります。」と言って、2人分のジュースを机に並べては、次の来客者に座席を案内する。
ずいぶん慣れた動きに見えた。と思ったのだが。
「あっ!危ない!」
大きな音が響く。
希空さんはスカートの裾で足をひっかけて転んだ。
やっぱりドジなところもあるらしい。
「いやあ、ロングスカートは慣れませんなあ。」苦笑いを浮かべながら頭を掻く希空さんを一瞥する。
頬が熱くなった。また可愛いと思ってしまったから。
♦︎
客の入りは好調だった。再現度の高いクオリティと多様性が同化したような空間がクチコミとして広がって、僕らのクラスは多くの人で賑わっていた。
忙しく回る現場を僕は縦横無尽に駆け回る。
注文を聞き、ドリンク担当へ合図して、さらに注文を聞く。
百回以上もその動作を繰り返す間、僕は何度、希空さんをちゃんと見れただろうか。
文化祭の時間は忙しさによって、高速で溶けていく。気づけば時間は午後3時を回っていた。
混雑した教室の中では、希空さんの姿はよく見えない。それはちょっと悲しくて嬉しくもある誤算だった。
束の間に与えられた休憩時間。
僕は熱気に包まれた教室を出ると、近くの非常階段に腰を下ろして一息を漏らす。
「ねえ、隣いい?」
軽快なリズムを踏むような足取りが聞こえる。そこには、希空さんがいた。
フローラルの香りが僕の鼻腔を包んだ。彼女を初めて意識したときにも、この匂いがした。
気がつけば、希空さんは制服に着替えていた。
プリーツスカートを揺らしながら、僕のそばに座る。
「忙しすぎて、ヘトヘトだよ。」
希空さんは笑いながら、パタパタと手のひらで頬を仰ぐ。
「あれ、希空さんも休憩なの?」
僕はそう聞くと、得意げな表情を浮かべた。
「店番はもういいから、2人で楽しんでって言われちゃった。」
僕はその言葉の意味を悟ると、また顔が赤くなりそうになる。
気が早い連中が多すぎるのだ。
「ねえ!リク君。私が行きたい場所当ててみてよ。当てられたら、一緒に回ってあげる。」
相変わらず、可憐な表情でそう言って、笑いかける。
妙な上から目線が鼻につく。それも彼女の可愛いところだけど。
「どうせ、お腹空いてるんでしょ。」僕は短く言うと、希空さんは目を丸くする。
「あたり。よく分かったじゃん。」
「だって、僕もお腹減ったから。」
僕が微笑を浮かべながらそう言うと、彼女はスカートを叩いて、立ち上がった。
そして、もう待ってられないと言わんばかりに、彼女の腹の虫も鳴き始めている。
「じゃあ、決まり! 食べに行こっか、リク君。」
♦︎
校内のど真ん中にはそれなりに大きな中庭がある。噴水とかベンチが置いてあって、この辺りには沢山の模擬店がひしめき合っていた。
生クリームの乗ったパンケーキ、小熊の形のベビーカステラ、キラキラのカップが人気のタピオカミルクティー等。
女の子らしい映えを発揮できるスイーツが立ち並ぶ中で僕と希空さんが選んだのは。
「ガッツリ豚骨。脂と野菜マシマシで!」
希空さんの軽快な号令とともにテーブルに運ばれたのは、希空さんの顔の2倍くらいの大きさのあるドンブリだった。
中には、もやしの塔と乳化した白金色のスープが顔をのぞかせている。
たくさんの湯気が立ち込める中、希空さんは夢中で麺を啜っていた。
「美味すぎるんだけど!何これ!」
驚嘆する希空さんを横目に、僕は火傷しないように気をつけながら、静かに麺を啜った。
「そんなゆっくり食べてたら、美味しさが逃げちゃうよ。」
「そんなに急いで食べたら、喉につっかえるよ。」
隣で小うるさい声が聞こえたので、軽く忠告をした後に、僕は一口分の麺を啜った。
「ゲホゲホッ!」
大仰に麺を啜って、隣で咳き込む希空さん。ほら、言わんこっちゃないだろ。
「ラーメンで窒息死なんて笑えないからね。」と言って、僕はナプキンを彼女に渡す。
「確かにその死に方は嫌だね。」
「どんな死に方も嫌だよ。」
「ははは、そりゃそうだ。仕方ないから、ゆっくり食べるよ。」
そう言った希空さんの横顔はどこか儚げだったのが、僕の心に引っかかる。
でも、一瞬で太陽のような笑顔に戻った。
またひとつ、この学校に来て初めて気がついたことがある。
食堂のメニューは、案外クオリティが高いこと。
学食に行ったのなんて入学式以来かもしれない。
僕は人と交わるのが怖かったから、昼食はもっぱら自席で食べるお弁当だった。
高校3年にもなって、僕は自分のいる学校のことを何も知らないのだと実感した。
「結構美味しかったね。また食べに行こうよ。」
隣でお腹を満足げに抑える少女は僕を見て、微笑みかける。
屈託なく笑う彼女の存在はまだちゃんとあって、僕は少し安心する。
なんだか、嫌な予感がした。
希空さんが遠くに行ってしまうような予感だった
でも、希空さんの笑顔が僕のそんな不安を吹き飛ばしてくれた。
「メガ盛りも美味しそうだよ、リク君。」
食堂の壁に掲げられたメニュー表を見ては、言葉を弾ませている。
僕は一体、卒業するまでにどれほどの初めてを経験できるのだろう。ふと、そんなことを思った。
「ねえねえ、次はお化け屋敷に行こうよ!」
物思いに耽っていた僕を希空さんが強引に起こす。
太陽のような笑顔はエネルギーを補充したようで、ご満悦だった。
僕は思った。
まずは、今日という日を楽しみたい。
そして、文化祭は僕らのゴールじゃない。
僕はここを始まりにしたい。
僕たちの関係性を進める、大事な大事なスタート地点にしたい。
もっと、希空さんと一緒にいたい。そして、彼女のことをもっと知りたい。
だから、僕は希空さんの腕を引く。戸惑うような視線を向ける希空さん。
僕はキョトンとする彼女に軽く微笑む。
「上野の時は散々連れ回されたから。今度は、僕が君を連れ回すよ。」
「リク君、体力ないからすぐバテちゃうんじゃないの?」
希空さんは僕の手を見つめながら、挑発するような口調で答えた。
「これまで希空さんの相手をしてたからね、ずいぶん鍛えられたんだ。だから、君が帰りたくなるまで僕は今日を遊び尽くすよ。」
僕はそう言って、彼女の手を引きながら、煌びやかな廊下を早足に歩き始める。
「帰りたいなんて思うわけないじゃん。」
小声でそんな言葉が聞こえた。僕には聞こえないようにボソリと言ったのだろう。でも聞こえている。
僕は表情が緩まないよう気をつけながら聞こえていないふりをする。
希空さんの腕を掴む僕の手は少し力が入る。迷子にならないように強く握る。嫌がられないように、絶妙な加減で。
僕ら2人は、2年生の教室でやっているお化け屋敷へと向かう。
♦︎
「ほら、コーラ。」太陽が沈みかけた空の下、僕と希空さんは校舎の屋上にいる。2人だけで。
希空さんは後夜祭で賑わう校庭を見下ろしていた。
僕がキンキンに冷えたコーラ缶を希空さんの腕に押しつける。
「ひやあっ!」弾けるように身を翻す希空さん。それから、缶を受け取ると不服な表情を浮かべる。
「んー!なんか今日のリク君、生意気だ!」
希空さんは不満げな表情で僕にそう言う。
「だって、希空さんが幽霊を苦手だなんて思ってなかったから。」
「学生が作るお化け屋敷なんてそんなに怖くないと思ってたんだもん。はいはい、認めます!油断してましたよ!」
希空さんは子供のようにジタバタさせながら、僕を睨んで頬を膨らませている。
「それにしてもさ、出口に手をかけた瞬間、私の肩を掴んで脅かしたよね!リク君!あれは絶対に許さないからね!!」
まあ、希空さんの怒りの理由は大凡僕にあるんだけど、僕は彼女の怒った顔も見慣れたし、愛おしいとさえ思ってしまう。
こんな瞬間がこれからも続く。
そう思えるだけでも、僕は一生分の幸せを貰ったような気分になった。
「お詫びに買ってきたんだ、冷たいうちに飲んでよ。」僕は微笑みながら、コーラ缶の蓋を開ける。
希空さんは意地を張って僕を見ない。
「さあ、そろそろだよ。」僕は、すっかり暗くなった空を仰いで立ち上がる。
爆破音とともに強烈な閃光が夜空を満たす。
僕はその雄大な輝きに息を飲む。
希空さんも同じだった。
圧倒的な美しさと爆音を前にして、まさに心を奪われてしまった。
後夜祭のクライマックス、打上花火が始まった。
僕らの祭りは終わりへと向かおうとしていた。
でも、素直に感動できない僕がいた。
僕の心は今も宙ぶらりん。
僕が自転車で伝えた告白の答えをまだ貰ってないからだ。
答えを急かしてはいけない、と心で思いつつも僕はこの悶々とした感情を早く吐き出してしまいたいと思った。
2発目が打ち上がる。綺麗な花火だ。
「あのさ、自転車で言ったこと。答えを聞いてもいいかな。」
言ってしまった。
希空さんの言葉を静かに待つ。静かに。
静寂が2人の関係性を留めるかのように、はやる気持ちとは裏腹の状況が僕の背中に重くのしかかる。
「ごめ……。」
彼女のふさがった口が少し開いた気がした。
僕は心臓を高鳴らせながらも、希空さんへ精一杯耳を傾ける。
その刹那、花火があがった。
一番大きなやつが、高らかに。
重厚な爆発音が僕ら2人の世界を包んでしまう。
希空さんがかすかに告げた言葉もかき消されてしまって、僕は聞き取ることができなかった。
「今、何て言ったの?」僕は打ち上げ花火の合間を縫って聞き返す。
「言えるわけないじゃん。」
彼女が震える声で告げた言葉。
僕は意味を捉えきることができなかった。
それでも希空さんは構わず、感情を吐き出すように言葉を続けた。
「言えるわけないじゃん! そんなこと!」
「希空さん?」僕は少し怪訝な表情で希空さんを見る。
僕は気がついてしまった。彼女は酷く震えていた。
彼女の身体とても小さくて細い。今にも折れてしまいそうな手が僕の手と重なる。
仄かに温かさを感じた。
寒空の下で燃えるマッチ棒のように、微かだけど、確かな温かさだった。
気づけば、希空さんは僕の手をぎゅっと握っていた。
希空さんは僕の耳元で囁く。
「好きだよ、リク君。」
花火が再び、夜空を照らす。
もう花火なんてどうでもよかった。
隣にいる希空さんを僕は見つめていた。
透き通るような青い瞳。夜空に溶け込み、流れる黒髪。純白の肌。
全てが僕と希空さんを中心にして回る銀河の中にいるように思えた。
夜空に咲いた黄金の花は希空さんの横顔を照らす。
僕は息を飲んだ。
そのとき、僕を見つめる希空さんの頬をひとつの雫が伝っていたから。
僕が動揺していると、希空さんは咄嗟にその雫をぬぐう。
けれど、頬にはさらに数滴の水が伝っていた。
彼女はなんとかそれら全てを受け止めようと試みるけど、袖はみるみると水分を溜め込んでいき、もう拭い取る程の余裕もなくなってしまう。
彼女はそんな濡れた頬を触りながら、唇を噛む。
「どうして泣いてるんだろね。あーあ、もう台無しだあ。」
打上花火が咲く度に、希空さんを伝う涙は量を増やしていく。
拭っても拭っても、もう間に合わない。
「ごめんね、リク君。ぐすっ。こんなときに、ぐちゃぐちゃな顔で。ぐすっ。」
鼻をすすりながら、希空さんは懸命に僕に話しかける。
それでも、彼女は僕の手をしっかり握り続けていた。
僕は泣いている彼女に、片方の手でハンカチを渡す。
「ゆっくりでいいから、涙拭いて。」
滝のように流れ出した希空さんの涙は次第に収まったようだった。
花火も終盤に近付いている。
僕らは屋上の隅に空いたスペースに腰掛けた。
すると、途端に希空さんは夜空に向かって叫ぶ。
「リク君なんて大っ嫌い!!!!」
花火の爆音に匹敵するくらいの大声で彼女は叫んだ。
それは前に言った言葉とは正反対の意味の言葉。
「ごめんね、リク君。これが私の本当の気持ちだから。」
そう言って、顔を俯かせる希空さん。
突き放すように彼女は僕を押しのけて屋上から去ろうとする。
「リク君って、どうしてこんな悪い女が好きなるんだろうね。ほんと見る目ないよ、君。」
背中を向けながら、彼女は肩を震わせている。
僕には分かった。今の彼女の言葉は本心ではない。
心のままに言葉を発する人間が、どうして、こんなにも小さい身体で悲しみに震えているのだろうか。
「私のこと嫌いになった?リク君。」力ない問いかけだった。
「嫌いになるわけないだろ。そのくらいで。」僕は力を込めて答える。
「馬鹿じゃないの?私は君とは違って、人工知能のロボットだよ?」
自嘲するような問いかけだった。
「僕は希空さんを好きになったんだ。希空さんがたまたま人工知能だったというだけのことだよ。」
僕は迷いなく答える。
「全然、理由になってない。説明になってないよ。君にこれ以上迷惑はかけたくないよ。」
それは一方的な否定だった。
「好きになるのに理由なんていらない。僕が君を好きになったのは理屈じゃないんだよ。」
「前に、心は知るものじゃなくて、感じるものって言ったのは君自身だったよね。」
僕は彼女の否定に対して、全面的な肯定で挑んだ。
僕に迷惑をかけるのが嫌? そういう段階はとっくに過ぎている。
僕らはもうここまで来ているんだから。
僕の声には、心には再び力がこもる。
「社会がなんなんだ、周りがなんだってんだ。僕は君のことが好きだ。悪いけど、すごい大好きだよ。」
「僕らは互いを助け合う。辛くても悔しくても、君が立ち止まったら、僕が君と一緒に傷を癒やす。再び立ち上がるまでずっとずっと、君の側にいるって僕は誓ってやる! たとえ、誰に祝福されなくても、誰かが僕らを攻撃したとしても、僕は君を一生守るって誓う!」
それは根拠のない口説き文句だった。歴戦のナンパ師だってこんな臭いセリフは言わない。
でも、僕の本心だ。
でも、僕らに宿った「本物の心」はそこにある。
そのとき、目の前の少女は力なく崩れた。
倒れ込む希空さんを抱きかかえると、僕と彼女との距離はもう殆どゼロに近い。
希空さんはぼんやりとした表情で、僕を見る。
さっきまでとは違う。力も無い弱々しい瞳だった。
「大丈夫?どこか調子悪い?」僕の質問に対して、希空さんは首を懸命に横に振った。
「大丈夫だから、少し目眩がしただけ。」
そう言いながら、僕の肩を掴んで彼女は何とか身体を起こす。
僕は彼女がいつ倒れてもいいように、背中に腕を回す。
「ごめんね。私はもうリク君と一緒にはいられない。」
僕の腕に身を預けながら、やや脱力した表情で希空さんはそう言った。
「どうしてだよ、希空さん。」
「これはね、そういう約束なの。私が今日ここにいる、そのために払った代償なの。」
それは希空さんから出た言葉。
一瞬、彼女の言葉が分からなかった。それから数刻、彼女の答えを反芻する。
「分からない、分からないよ希空さん。どうしてそんな悲しい顔をしているの。」
僕は泣きそうになるのを堪えながら、必死に呼びかけた。
朦朧とする希空さんの表情が次第に失われていくのが怖かった。
目を背けていた現実が物凄いスピードで追いかけてくる。そんな気がした。
朦朧とした意識を振り払うように、希空さんは口を開く。
「私の意識はね、もう死んでしまったはずだったの。もう消えてなくなったはずだったの。」
「何だかんだ充実した人生だった。だから、死んでも後悔はないかなって思った。でもね、ひとつだけやり残したことがあった。それは私の夢であって、私の生きる希望だった。もう叶うことはないって諦めていたけど。」
「そしたらね、外からリク君が私を呼ぶ声が聞こえたの。私はその声のする方を走った。また会いたいと思った。忘れかけた夢を思い出した。私の強い願いが最後に奇跡を起こした。天国の誰かがね、私が願いを叶える間だけ生きる時間をくれたの。」
僕は希空さんの言葉の意味を感じながら、恐怖心を覚えた。もう聞きたくなかった。現実が嫌だった。
全てが夢だと思いたかった。目を覚ませば、僕と希空さんが出会う前に戻っていて、僕たちは何も関係を持たないまま、卒業する。それでよかった。それ以上は望みたくなかった。
「お願いリク君、聞いて。私の願いはね。」
「嫌だ!願いなんて聞くもんか、絶対に聞くもんか!」
僕は子供みたいに駄々をこねる。そんな僕を見ながら、希空さんは力なく笑う。
「リク君を幸せにすること、それが私の願いなんだよ。」
希空さんの声は掠れそうになるほど、弱く、小さくなっていった。そして、倒れ込む。
そんな小さい彼女を、僕は胸の中で抱きしめる。強く抱きしめた。
鳥になってどこかに行ってしまいそうな気がしたから。
彼女の願いを知ってしまった。
そして、今の彼女は願いを叶えるまでの間、繋がれた命であるというなら。
「こんなことってないよ。嘘だろ、嘘だって言ってよ。希空さん!」
僕は自分が取り返しの付かないことをしたことに気づいてしまった。
僕が幸せになれば、彼女の命が終わる。
そんな残酷があっていいのだろうか。
「リク君、私の願いは叶ったんだよ。だからさ、そんな悲しい顔しないでよ。」
希空さんは僕の腕の中で、優しく笑いかける。違う、そうじゃない。
僕の求めているものは明確な否定だ。
全て冗談だよって、いつもの君みたいに憎たらしい笑顔で僕をからかってよ!
僕の淡い期待は、全て無惨にも打ち砕かれる。
「僕はもう幸せになんてならない!だからさ、君はずっと僕のそばにいてよ!」
もう好きだなんて言わない。
嬉しいだなんて言わない。
楽しい思いなんてしない。
一緒に遊んだりもしない。
「幸せなんて要らないから!もう何も要らないから!」
僕は無意識に声を張り上げて、僕の腕に包まれた少女に語りかける。
絶対に聞こえるように、聞き逃しなんて許さない。
君は僕を幸せにすることなんて許さない。
僕はその一心で、僕の最愛の人を拒絶する。
「ただ、僕の隣に居てよ!何もしなくていいから、僕のことを無視したって、蹴飛ばしたっていいよ。」
「バカ…だね、リク…君。それ…じゃ、す…きなひ…とに一緒にいる意味ない…よ。」
腕の中から消えそうな程小さい声が聞こえる。愛おしい声。僕の大好きな声。
でも、その全てが僕は憎かった。
僕が希空さんを愛おしいと思う度に、希空さんが「死」に近付く。
神様はどうして、こんな下らない願いで希空さんを振り回すんだ。
不公平だろ!馬鹿野郎!
心の中で叫んでも、彼女の灯火はだんだんと弱くなっていくように感じた。
少しずつ、希空さんは目を閉じる。
「希空さん!」僕は彼女の肩を叩いて必死に呼びかける。
どこかに彼女の意識が行ってしまわないように。
認めたくない。
だって、これからじゃないか。
告白して、付き合って、一緒にデートして。
お互いの知らないところをこれから沢山知っていくんだ。
文化祭が終われば、修学旅行がある。班別行動の時、僕はこっそり抜け出すんだ。
そして、京都駅の目立たないところで希空さんと落ち合う。2人で作った、2人だけの修学旅行の栞を持って歩き出す。
修学旅行が終われば、受験シーズンだ。
僕が図書室で勉強している時、君は時々消しゴムを飛ばしていたずらをしてくる。僕はそれでも勉強を続ける。
たまに、構ってあげる。ご飯は必ず一緒に食べる。合格祈願にも一緒に行く。
受験が終われば卒業式だ。僕の第二ボタンを希空さんに、僕は希空さんのスカーフを貰う。
遠距離恋愛になるからって希空さんが泣き出しちゃって、そんな彼女の隣で泣き止むまでそばに居る。
きっと、まだまだ楽しいことは沢山ある。今まで経験した悲しいことよりも沢山の楽しいことを2人で経験するんだろ。
ラーメンのメガ盛りだって、また食べよう。
今だって花火はこんなにも綺麗なんだよ。
それなのに、どうして眠っているの。希空さん。
もう届いていないかもしれない、手遅れなのかもしれない。
それでも、届くように叫ぶ。声が枯れても。
そのとき、希空さんの瞳がゆっくりと開かれる。声にならない微かな声がした。
僕は必死で耳を近づける。
「夢を見たよ。リク君。」
僕は涙が瞼から流れ出そうになるのに堪えながら、彼女に精一杯の笑みを浮かべる。
「どんな夢を見たの?」
「えっとねぇ。私がリク君にサプライズするの。仕事から疲れて帰ってきたリク君に、1枚の写真を渡すの。」
情けない泣き顔をさらしながら、僕は希空さんの夢の話を聞く。
彼女の消えてしまいそうな声が愛おしくて、悲しい。
「お医者さんで貰った、お腹の中を写した写真。そこにはね、小さな白い影があるの。」
「仕事から疲れて帰ってきたリク君にね、私はその写真を見せるの。するとね、リク君は家の中で思いっきりジャンプして子供みたいに喜んでさ。そしたら、リク君はジャンプした勢いで転んじゃうのよ。」
絞り出す声。少し笑い声がした気がした。
僕はもう耐えられなかった。今すぐ、この時を止めて欲しかった。
「私はね、リク君に言ったんだ。子供ができたのに、リク君が子供に戻っちゃダメでしょって。」
「それから、リク君は反省してね、私の大きくなったお腹を撫でてくれたんだ。2人で静かに、お腹の音聞いたりして、いつ生まれるかなあって話したりして、お腹が空いたらご飯を食べて。そんな夢。」
そこから先、希空さんの続く言葉はなかった。
彼女は眠り姫のように、穏やかな表情で僕の腕に埋もれている。
「隣りにいるって、約束したじゃないか。」無尽蔵の涙が僕の眼と鼻から流れ出る。
僕から滴り落ちる雫が彼女の頬を濡らす。
おとぎ話だったら、ここで眠り姫は奇跡の目覚めを果たすのだろう。
でも、希空さんの穏やかな表情が崩れることはなかった。
さようなら、希空さん。
そんな言葉を僕が言えるわけがない。
奇跡はいつか必ず起きるって信じてやる。
信じ続けて、いつか奇跡を実現してやる。
いつか、人間も人工知能も同じように生きられる世界を作って、僕らはまた一緒に過ごすんだ。
「希空さん。」
僕はどうしようもない程に弱々しい声で、彼女の名を呼んだ。
希空さんが目覚めたら、またちゃんとするから。
だから、今だけは弱い僕を許して欲しい。
泣き虫で無力な僕をどうか許してほしい。
外気温が低下するに従い、僕の身体は冷やされていく。
花火が終わった。生徒たちの歓声が終わった。
祭りの後の寂しげな夜空の下。
僕は、その小さな体が冷えてしまわないように、彼女を強く抱きしめた。