希空さんは、フリルスカートを満足げに眺めながら僕に同意を求める。
 「ねえ、リク君もいいと思わない?メイドだよ。これ着たら凄く可愛いよ、きっと。」
 隣の園田さんの悲しい視線を気にせず、希空さんは満面の笑みでそのメイド服を見つめた。

 「とりあえず、教えて欲しいんだけどさ。これ、どうしたの?」
 経緯を園田さんは説明した。
 まとめると、このメイド服は園田さんのものらしい。
 園田さんバイト先は駅前にあるメイド喫茶。今日は久しぶりの出勤日だった。
 園田さんはクリーニングし終えたメイド服を学校まで持ってきていた。
 勿論、メイド喫茶で働いていることは学校に秘密だ。
 園田さんは大きめの紙袋に包んで、誰にもばれないようにそれをロッカーの中に隠していた。

 そして昼休み。隣の席の希空さんが話しかけてきた。
 「めぐみんって呼んでいいかな。」
 彼女にとっての新しい友達。園田さんは正直、心を躍らせていた。
 孤高の美女というイメージだった希空さん。友達になりたいと思っていたが、声をかける勇気がなかったそうで。

 だけど、希空さんの距離の詰め方は常識を逸していた。
 「ねえ、お友達になった証として、私達が隠している秘密、ひとつずつ言い合わない?」
 「えええ。それってどういう意味。」
 3限目の休み時間。希空さんのジェットコースターに乗ってしまった園田さん。災難だ。

 「女の子にはひとつやふたつ、誰かに言えない秘密があるでしょ。」
 希空さんの何が一番タチが悪いかって、それは無自覚な小悪魔だということだ。
 悪意も打算もなく、ただ純粋な眼差しで、とんでもないことをするのだ。

 「例えばさ、好きな男の子とか!」
 途端に、園田さんは赤面して「そんな人、いないってば!」と手足をバタバタさせる。
 そんな光景を見て面白くなった小悪、じゃない希空さんは自ら人工知能であることを辞めた経緯を話した。

 「どうして、私にそんな大事なことを教えてくれるの。」園田さんは問いかける。
 「だって、めぐみんは私の大事な友達だから。」
 満面の笑みで返された言葉。園田さんは正直、ぐっと心が惹かれた。
 私も秘密をひとつあげないと。そう思った園田さんは思いを決する。
 ロッカーに隠していたメイド服を希空さんに見せた。

 「これがね、私のバイト先。みんなには秘密だからね。」だが、言葉は遅かった。
 園田さんの言葉を聞き終える前に、希空さんは僕の机に迫ってこう言った。
 「緊急事態が発生したの!」

♦︎

 虚ろな瞳で経緯を説明した園田さん。
 なんか、うん。ドンマイ。

 僕は園田さんに憐憫の情を向けざるをえない。
 「それで、どうしてメイド喫茶をやりたいって思ったのさ。」
 僕はとりあえず聞いてみる。

 文化祭はクラスが一丸となって行う一大行事であるのだから、軽い気持ちはどうかと思う。
 僕は一応、彼女に理由を問うてみる。
 よくぞ聞いてくれた!と言わんばかりの得意げな表情を浮かべる希空さん。

 「だって、すごく可愛いじゃない。」理由は滅茶苦茶軽かった。

 「それだけで上手くいく程簡単じゃないと思うけど。」僕は忠告した。
 それでも、彼女は期待に満ちた表情でメイド服を撫でる。

 「リク君こそ、このメイド服の可愛らしさを舐めているわ。めぐみんがこれを着たらどうなると思う?」
 すると、隣りに居た園田さんがぶるっと身震いした。マジで怖がっている。

 「え、私。学校でこれを着るの?」恐る恐る聞く園田さん。
 「え、ダメなの?」と疑問を呈する希空さん。
 「希空ちゃんのお願いでもムリ!」と一蹴。
 残念ながら、友達からの賛同は得られなかったようだ。

 昼休みが終わり、授業が始まる。
 ふと、希空さんの背中を眺めてみた。
 よく見ると、彼女は背中を小刻みに震わせていた。
 クスクスと笑う背中に僕はどこか安心めいた感情がこみ上げる。
 友達ができた。そして、自分の進むべき方向に進もうとする彼女の背中が何だか少し頼もしく見えた。

 授業は終わり、放課前のHRが始まる。文化祭実行委員会にとっての貴重な時間が与えられる。
 実行委員になってしまった僕は重い腰を上げて、教壇に上る。
 クラス企画の検討が終われば、次は企画書の作成、運営と準備計画。
 するべきことをリスト化するとかなりある。
 多忙な毎日が始まる。だからこそ、今日の検討会でクラス企画を決定してしまいたい。

 というのに、教壇に立つのは僕1人だけ。希空さんは一体どこにいったのか。

 クラス中から、早くHRを終わらせろという圧がかかる。
 野球部の連中は既に白いユニフォームに着替えを終えていた。
 わかった、わかった早く終わらせるよ。僕は企画の案を募った。

 訪れたのは静寂。
 誰も案を発表してくれるものはいなかった。
 こちとら、企画が決まらない限り、君らを帰さないからな。
 僕は顔を険しくし、意地を張り始めた。

 すると、そのとき。
 教室の引き戸を強く開ける音が響いた。
 クラス中が注目した。いや、それは注目せざるをえなかった。
 なぜならば、学校ではあり得ない「異質」がそこにあったからだ。

 「待たせたわね。」
 少年漫画を真似たような台詞を吐くと、その遅刻者は堂々とした足取りで教壇に上る。
 誰もが息を飲んだ。誰もがその瞬間に心を奪われた。

 メイド服に身を包んだ希空さんが教壇に立っている。

 「遅れてごめんね。」
 片目ウインクでメンゴのポーズをとる希空さん。
 僕は返す言葉を失う。
 フリルのミニスカートの下からは肌色と黒の対比が眩しいニーハイソックスが映える。
 上半身はマシュマロのようにたわわな服装で、だけど、締まるところは締まっている。
 これがメイド服か。
 彼女とその服はまるで運命の出会いを果たしたかのようにベストマッチだった。

 「それじゃあ、始めます。」切り出したのは希空さんだった。
 全員が可憐なその姿に目を奪われている間、彼女はHR再開のゴングを鳴らした。
 「見ての通り、今年のクラス企画はメイド喫茶にします!」
 直球過ぎる提言だった。
 希空さんは20人超の生徒の注目にも臆せず、堂々と言ってみせた。

 それから数刻。静まりかえった教室、唖然とする生徒達。
 そりゃそうなるだろ。僕は頭を抱える。
 フォローなんて考えつかない。こんな状況は予想外だ。

 すると、一部の生徒から響めきのような歓声があがる。主に男子生徒。
 「ちょー、カワイイじゃん。」「俺も!賛成!メイド服最高です!」
 思い思いの感想を口にする男子生徒たち。少しは遠慮というモノをわきまえたまえ。
 
 すると、間髪入れずに女子生徒達が騒ぎ出す。
 「うわあ。男子、キモいんだけど。」
 「コスプレなんて気色悪い。これさあ、うちら何も楽しくなくない?」主に一軍女子の間では、不評なようだ。
 僕は希空さんを見る。その表情にはまだ陰りはない。ここまでの反応はきっと彼女の想定範囲内という感じだ。

 「勿論、男子諸君にも着てもらうからね!」と希空さんはつけ加える。
 その一言で、男子生徒達の反応がくぐもった。おい、さっきまでの威勢はどうしたよ。
 「え?まじかよ。女装とか誰得だよ。」

 「女装。主従カップリング。なんて最高な響きなんですか。はい、絶対やります!じゅるり。」
 どこかでヤバイの効果音がした。
 少数の女子生徒が羨望の眼差しで男子の方を見ていた。
 だがしかし、今日の希空さん。かなり切れている。
 既に、男子生徒の大半、そして一部尖った趣向のある女子生徒を味方に引き入れた。

 「希空さん!その服どこで買ったの?私も欲しいな~。」
 「物販はどうするの?私、カップケーキくらいなら、よく家で作ってるよ。」
 「希空ちゃんのメイドチェキを売り出せば、かなり儲かるんじゃね。」

 「リク君と駿介君は絶対メイド服着てよね!!絶対だよ!」
 おい、今の発言誰だ。

 気付けば、クラス中が喧噪に包まれる。
 それは先週の喧噪ではない。多くの生徒が彼女に関心をよせていた。
 これから始まるであろう文化祭に思いを馳せる皆が思い思いのことを話すけど、まとまりなんて欠片もない。
 けど、これは大きな進歩だ。
 クラスが次第に1つの大きな目標に向かって突き進む感覚。

 そしてなにより、この雰囲気を作ったのは、希空さんの頑張りがあったからこそだ。
 僕は少し誇らしげな眼差しで、彼女を見る。
 希空さんはひとりひとりの意見を聞きながら、こまめにメモを取った。
 それから、クラス内で意見が固まり、クラス企画はメイド喫茶に決定した。

♦︎

 希空さんは机に腰掛けながら、夕日を見つめる。
 彼女と友達になって一週間が経った。それでも、僕はまだ彼女の多くを知らない。
 美しい機械人形だと思っていた彼女は実際に話してみると、いじけたり、拗ねたり、落ち込んだり。
 そんな子供っぽいところが多かった。
 でも、この前のHRでは大胆な勇気を見せてくれた。

 それから、彼女は次第に僕以外の誰かと会話をすることが増えていった。
 寂しくもあるけど、それはやっぱり嬉しい。
 僕は彼女の力になれているのかと自問自答してみる。
 やっぱり、僕にはまだそんな強さはない。
 自分のことで精一杯な僕がいつか、人の助けになれる日がくるのだろうか。

 「ねえ、リク君。」夕日に照らされた希空さんは僕に話しかけた。
 僕は机に突っ伏して、午後の睡魔の中にいた。
 彼女の声が聞こえたので、ムクっと起き上がる。

 「ごめん、起こしちゃったね。」
 「どうしたの、希空さん。」眩しさに目をやられないように、僕は半目で彼女を見た。
 彼女の口元が少し緩むのが見えた。
 「リク君はさ、今が楽しい? 私と一緒にいて、楽しくやれてる?」

 「何言ってるんだ。地獄に決まってるだろ。」と僕は率直な気持ちを答える。

 「企画書は明日までに提出しないといけないし、人数分の衣装デザインに食品材料の調達目処も立ってない。それに明日は定期テストだ。正直、生きた心地がしない。」
 僕のひねりだした声に笑う希空さん。
 地道な作業が続くこの時間も彼女は眩しく笑うし、その声は教室中に反響する。

 ああ、なんだかほんとうに眠くなってきたぞ。
 気がつけば、僕はこの1週間どれくらい寝ただろうか。
 企画書は8割方完成している。
 いや、完成させたというべきだろう。

 希空さんはクラス内での役割決め、折衝など。対人用務をけっこうこなしてくれた。
 僕も頑張らなくちゃ。
 そうやって、僕は無力な自分の身体に発破をかける。
 頭を動かせ、身体を動かせ。
 そうやって、僕は変わろうとしている彼女に追いつこうと必死になった。

 格好悪いと思う。だって僕には明確な目標も夢もあるわけじゃないのに、ただ目の前を走る女の子についていくだけだ。
 格好悪くても、やることはやりたい。
 そして、僕は濁流のように押し寄せる疲れに流されるように、眠った。

 「リク君。私はずっとね、君に会える時を待っていたんだよ。」

 最後に声がした。多分、希空さんの声。
 だけども、声のする方は遠く、僕は意識の混濁を彷徨う落ち葉のように流れ去っていく。
 それからしばらくして、僕はまた目が覚めた。

 「お寝坊さんのお目覚めだね。」かすかな声。
 僕の首筋と耳が撫でられるような優しい声。
 僕は現実に引き戻されて、咄嗟に目を開ける。
 すると、僕の目と鼻の先には希空さんの顔があった。

 「ぶっ!?」僕は驚きの余り、身体をのけぞって立ち上がる。
 希空さんはそんな慌てふためく僕を見ては、不満そうな顔で睨む。

 「目覚めた君の横顔を見つめる絶世の美女、何か不満なわけ?」
 「君は遠慮というモノを勉強したほうがいいよ。」
 彼女の小悪魔的な仕草はいつまで経っても慣れそうにない。

 「えへへ。再びの地獄へようこそ、リク君。」にやりと笑う彼女。
 気付けば僕の机の傍らには、夥しい数の付箋を付けられた企画書と予算申請書だ。
 僕はそれを見て、血の気が引くのを感じたのと同時に、誰がやったのかと疑問に思う。

 「それ、直せるところはチェックしてあるから、目を通しておいてね。生徒会の情報筋から聞いた話をもとに直しておいたから安心して。企画と予算を通すための必勝法を教えてくれたのよ!」

 「もしかして、君1人でやってくれたのか。」
 僕は書類をぱらぱらと捲りながら、その赤入れ、指摘に感服する。
 予算の穴、実現可能性、安全リスク管理。
 その全てにおいて抜け目のない企画書だ。
 誰が見てもこの企画書は落ちない。
 何故だかそんな自信がわいてくる程の完成度に仕上がっている。

 「私だけじゃない。リク君が骨子を組立ててくれたから、できたんだよ。」
 希空さんは再び僕を凝視しては近付く。
 僕は彼女の瞳に吸い込まれそうになるが、必死にこらえた。

 「そんなことはない。僕は何の役にも立ってないよ。」
 自嘲気味に、そんな言葉をかける。
 僕にないものを何でも持っている彼女。
 最初は不器用だった彼女も、次第に自分という人間をモノにしている。

 僕は無駄な自尊心を袖口に隠しながら、彼女のそんな姿を見つめる。
 やっぱり眩しいよ君は。
 「やめてよ。そういう表情。」
 彼女はそう言った。
 今の僕、そんなひどい表情をしているのだろうか。

 「そうやって眩しそうに私を見ないでってば。」苛立ちを隠せない彼女の声が僕を突き飛ばす。
 希空さんは真剣な表情で僕を見つめた。

 「私はさ。君のおかげでここまで来れたと思ってる。君が私の背中を押してくれた、だから今の私がいるの。」
 「そんな他人行儀されたら、悲しいじゃん。」
 潤んだ瞳が僕を見る。僕は自らの愚かさを知る。

 人間になりたい彼女をどこまでも人間扱いしてこなかったのは、きっと僕だ。
 彼女と僕の間に引かれた一線。
 その一線が決して飛び越えられない決定的なものだと、そう思い込んで。
 僕は彼女を特別なモノと見ていた。
 当の本人はきっとそんな関係なんか露も望んでいない。
 僕と駿介の気の置けない関係を彼女は羨ましいと言った。
 彼女の思いを僕は、元々分かっていたはずなのに。どうして、僕は。
 後悔がこみ上げた。自分の至らなさに苛立った。

 「ごめん、希空さん。」僕は率直にそう告げた。
 「僕は君を侮っていたよ。」と言って、彼女と目を合わせる。
 もう目を逸らすことはしない。
 僕は僕自身の目で彼女を見るべきだと思った。

 ふんと鼻を鳴らす希空さん。
 僕はそんな彼女が何だか近い存在になったようで、もどかしくもある。
 ここまで2人でやってきたことは事実だ。
 まだ始まったばかりの僕らの反抗。
 平凡に抗いたい僕と特別を辞めたい彼女の戦いは始まったばかりだ。

 それはともかく、僕らは十分に健闘している。
 ここまでの経過を称えるための労いがあってもいいのではないかと思った。何らかの形で希空さんに感謝を示したかった。

 「明日の放課後、僕の家に来ないか。」
 僕が何気なく放った言葉。
 改めて聞けば、下心丸見えの男子のそれと何が違うのか。
 僕は心の中で赤面する。
 違う違う、そういう意味じゃなくてだ。

 「リク君。なんか急に積極的だねえ。どしたどした。」
 にやける希空さん。
 希空さんはどこか得意げな表情で僕を見回す。

 「勿論、駿介も一緒だ。それでもよければ。」
 僕はきっぱりと言い放す、そして細い目で彼女の様子をうかがってみる。

 「えー、2人でおうちデートじゃないのね。」彼女は残念そうに言う。

 「冗談だよ。オッケー、楽しみにしてるね。」
 あしらうような口調、軽快な足取りで彼女は教室から去る。
 バイバイ、また明日。
 子気味よいテンポで僕に手を振る希空さん。

 僕は手を上げて、彼女を見送った。誰もいなくなった教室、なんだか寂しいと思った。
 それでも、僕が誰もいない教室を寂しいと思うのは、彼女がいる教室が楽しいからなのだろうと思う。

 僕の気持ちに彼女が占める割合が増えていく。
 このまま彼女と進んだ先に何があるか。明日にならないと分からない。
 こんな気持ちは正直、初めてだった。
 僕は帰り支度を終えて、下駄箱のロッカーを開けた。
 夕日の高度が低くなって、僕の視線を不愉快に照らし始めたので、僕はすぐに帰ろうと無造作に靴を取り出した。
 
 すると、靴の中には一枚の紙切れが入っていた。
 これは。
 一枚の手の平サイズの紙は山折りにされていた。僕はその紙片を開けると。

【希空にこれ以上近づくな。死にたくなければ。】

 「え、何だこれ。」咄嗟に紙片を胸ポケットにしまい込む。

 昇降口の辺りを見回す。周りに人影はない。僕1人だ。
 一呼吸置いて再びその紙片を見る。そして僕は思わず身震いしてしまう。
 この紙片を持ち込んだ奴は、僕が希空さんと関わることを止めようとしているのか。
 一体、どんな目的で。

 希空さんが危ない目に遭っていないか心配になった。
 スマホを見ると、希空さんからのチャットメールが受信されたので、僕は胸を撫で下ろす。
 嫌な感覚だった。誰か分からないから、恐怖心を掻き立てる。
 馬鹿だな、考えすぎだろ。
 僕は心にそう言い聞かせた。胸に手を当てた。
 そこから数刻置いて、僕の心臓は落ち着きを取り戻す。
 とりあえず、今日は家に帰ろう。

♦︎

 翌日の昼休み。
 僕らのクラス企画「メイド喫茶」の企画書は満を持して生徒会へと提出され、正式に受理となった。
 問題の指摘は特になく、注意事項としてコスプレによる過度な露出の禁止、食品衛生管理の徹底を言い渡されたのみ。
 滑り出しとしては好調だと思う。

 「今日は打ち上げだ! 楽しみ~。」生徒会室からの帰り。廊下を歩く僕と希空さん。
 肩の荷がひとつ下りたことで開放的になっているように見える。
 そんな彼女はいつもより僕との間を埋める空白の距離が近いようにも感じた。
 油断すれば手が触れてしまいそうで、僕は落ち着かない。
 いや、これは僕の自意識過剰かもしれないけど。

 「次はメイド服の採寸、デザインだな。まずは、誰にメイド服を着せて、誰を控えに移すかの人選だ。」
 僕は次から次へとやってくるタスクを彼女に淡々と伝えていく。
 その度に彼女は苦虫を噛むような表情になって、さらには僕を睨んだ。

 「もう。リク君!意地悪だあ。少しくらいは喜ばせてよ。ほら、今日は打ち上げでしょ」
 僕の前に躍り出ては、そう不満を漏らす彼女。
 「打ち上げじゃない。決起集会だ。これからの作戦と意気込みを共有するための会だ。」

 「あ!めぐみんだ。お~い。」
 僕の話を遮って、希空さんは前方に見える女子生徒に手を振る。
 園田さんと希空さんは互いに喜びを分かち合うように肩を抱きあっていた。
 女の子特有の感情表現。
 一帯はシトラスの匂いが漂う小さなお花畑と化した。

 「といわけだから、リク君、いいよね?」
 気付けば、希空さんと園田さんは僕に期待の眼差しを向けている。
 話に追いついていない僕は唖然としていた。

 「ちゃんと話聞いてた?リク君。」僕を追い立てる希空さん。
 「ゴメン、なんだっけ。」
 「めぐみんも手伝ってくれたわけだしさ、一緒にリク君ちに行ってもいいよね? あと、駿介君も必ず連れてくるように。」
 いつも通り快活な希空さん。
 隣で恥ずかしげな表情で身体をもじもじさせている園田さん。
 「園田さんも来てくれるなら、歓迎だよ。」
 なんだか、賑やかな会合になりそうだ。

♦︎

 「それじゃあ、企画書の合格を祝って!」
 「「「「乾杯!!」」」」
 カラフルに彩られた各人のグラスコップが軽快な音を鳴らす。
 炭酸飲料のフレーバーの香りに包まれた空間で、僕らは初戦の勝利をねぎらった。

 場所は僕の自宅。元より、僕1人が住むにしては広すぎる家なのだから、こういう日があっても良いと思う。 
 僕はひとり、キッチンに向かっている。
 グツグツと煮込んでいるのは、食欲を刺激するスパイスが香るカレーだ。

 母さんが死んでから、手料理を作ることなんて殆どなかった。
 だけど、今日はみんなのために何かしたいと思った。
 背伸びした僕の感情が、僕をキッチンへと導いた。
 ルーを混ぜる僕の両手に力が入る。
 ジャガイモの煮え具合をへらで突いて確認しながら、スパイスを小刻みに振りかける。
 
 ガタン!
 そのとき玄関から音がした。ドアが開けられた音。
 誰かが外に出たのだろうか。僕の部屋は2階にある。
 とすれば、階段を下りる音がするはずだ。

 でも、階段から音はしなかった。
 心の中に不可解なざわつきが巻き起こる。べたつく不快な感触。
 
 僕はこの感覚を久しぶりに感じた。
 ダイニングのドアは開けられた。
 そこにいたのは、駿介でも園田さんでも希空さんでもなかった。

 「やあ、久しぶりだね。元気か?」
 目の前にいるのは僕が誰よりも憎んでいた人、そして切っても切れない縁で結ばれてしまった男。

 「2年ぶりだね。父さん。」僕は冷淡な口調でそう告げた。
 「年数まで覚えているのか、すごいな。」無関心なのか、感心してるのか。
 眼鏡越しの表情からは何も読み取れない。そういうところが僕は昔から大嫌いだ。
 
 「父さんは年数なんて関係ないだろうけどね、僕らはいつでも覚えてるんだよ。父さんに待たされた時間は。」
 僕の棘のある言葉に気がつく父さん。それでも父さんは朗らかな表情を崩さない。

 「良い匂いじゃないか。カレー、作ってるのか。」
 父さんはキッチンへと無造作に近付いてくる。
 逃げ場のない空間、僕は拒絶の表情を見せる。
 それでも、父さんは僕へと近付いていった。そして僕の隣に立って鍋の中を見る。

 「少し食べてもいいかな。久しぶりにリクの手料理が食べたい。」僕は反射的に舌打ちした。
 黙る父さん。「どうした。」と僕に聞く。

 何がどうしただ。
 母さんが死んだ後も家を放っておいて、ある時には我が物顔で玄関を開けやがって。

 どうして今更帰ってきたんだよ。
 濁流のような感情が僕を包む。あふれ出る言葉、その全てを吐き出しそうになった。

 「母さんの命日。いつか知ってるか、父さん。」押し殺した声。漏れ出すのを抑えられなかった。

 父さんは反射する眼鏡の奥でどんな表情を浮かべたのか。
 どうせ、母さんのことなんてどうだっていいんだろう。
 「悪かった。でも、仕事が忙しくてね。」

 「母さんの命日はいつなんだ? 聞いてるんだよ。」刺すような僕の口調。
 僕自身ももうコントロールなんかできない。押し黙る父さん。
 そうだ、どうせ分からないだろう。だから黙るんだ。

 「リク、今日はどうしたんだ。調子が悪いのか。」
 返ってきた言葉は僕の求めるそれとは正反対だった。

 「今日だけ帰ってきて、父親面しないでくれよ。父さんは父親の義務を放棄してきたくせに。」
 母さんが死んでから、父さんは変わった。逃げ出すように出張を言い訳に、家を留守にする。
 その背中がだんだんと遠くなって、小さくなって、僕にとって両親という存在はなくなった。

 父さんは黙して蓋が開いたままのカレー鍋を眺めている。
 2年ぶりの再会、そして息子から罵声を浴びせられた。
 それでも、父さんの表情には陰りも怒りの色もない。
 「リク、父さんはな、お前と喧嘩するために帰ってきたんじゃないんだ。お前に久しぶりに会えて父さんは嬉しい。だからな、そう怒るな。」
 型通りの台詞。型通りの所作。全てが洗練されていて、そして滑稽だ。

 黙ってカレーを皿に盛り付ける僕。ご飯に対してルーの割合は少なめ。
 そして、無造作に皿を父さんに差し出す。
 「驚いた。よくできてるじゃないか。」
 苛立ちを隠せない僕をよそに、父さんは無神経な言葉を並べた。
 その言葉ひとつひとつが父さんの空白の2年間を物語る。
 この一杯のカレーを作るまでの間に、僕がどれほどの空虚な日々を過ごし、不在の悲しみに耐えてきたのか、この男は想像もしていないのだろう。

 父さんは何を求めて帰ってきたのだろう。
 何をするために帰ってきたのだろう。都合のいい時だけ、現れるのは迷惑だ。
 今のここにあるのは、伽藍洞になった冷たいリビングだけだというのに。

 「今日は友達が来てるんだ。邪魔しないでくれ。」
 僕はそう言って、残りのカレー鍋を持ち上げてリビングを出た。
 気付けば、父さんのカレーは既に半分ほどにまで減っていた。

 「母さんの味に似ていて、美味しいよ。リク。」僕がリビングを出る瞬間、父さんはそう言った。
 父さんがどんな表情でその台詞を吐いたかは分からない。
 僕はとにかくこの空間から抜け出したかった。 

 廊下はいつも以上に漆黒の闇だ。慣れているはずの家の間取り。
 だけども、どうしてか自分の足下がぐらつく感覚に襲われる。
 僕はドアの隙間から漏れる光と喧噪を頼りに歩を進める。
 そして、僕は自室のドアを開ける。

 「きゃっ、リク君!」
 飛び上がるように驚く希空さんがそこにいた。
 隣に座る園田さんはそんな希空さんの表情を見て何やらにやけている。
 一方、駿介も同じように僕を見ては笑う。

 「もう!足音立てずに来たから、分からなかったよ。」希空さんはご不満なようだ。
 いや、待て。
 今度から部屋に入るときには足音を立てるように意識しろということか。

 「じゃあ、ちゃんとノックしてよ。」さらに過大な要求をしてきたぞ。

 「なんで、自分の部屋にノックしないといけないのさ。」
 至極真っ当な反論に、希空さんは口を尖らせて黙り込む。

 「僕がいると、何か都合悪かった?」
 園田さんがごまかすような笑いと一緒に「気にしないで!大丈夫」と答える。
 それに対して、駿介は済ました顔つきで「希空さんって案外乙女なんだな。」と呟く。

 はっ?!どういう意味?!と顔を振り向かせる希空さん。
 駿介の涼しい顔をジトーと睨む。
 2人の間に飛び交う火花のようなものの間で園田さんはニコニコと笑う。
 楽しいならなによりだよ。

 「ほら、熱いうちに食べちゃってくれ。」そう言って、鍋と食器を置いた。
 3人の目の前に出来立てのカレーライスが顔を覗かせた。
 「わあ!すごい!美味しそう。」園田さんが興奮を浮かべる。
 希空さんはフォークを持ち、配膳が終わるのを焦ったそうに待つ。
 涎が落ちそうになる希空さん。餌を目の前にして落ち着かない犬のそれに少し似ていた。

 「ねえ、食べていい?いいよね?いただきます。」
 全員の分を配膳し終わると、希空さんは我先へとカレーライスを掻き込む。
 その瞬間、頬を倍以上に膨らませた彼女の満面の笑みが広がった。
 「おいしい!」やや強引に飲み込んで、感嘆の声をあげる。
 
 続いて、園田さんと駿介も食べ始めた。
 僕は心の中で胸を撫でおろす。スパイスの調整がうまくいってよかった。
 「うちのリクは料理が唯一の取り柄だからな、もっと褒めてやれ。機嫌が乗れば今度はスイーツビュッフェでもやってくれるさ。」駿介は得意げな表情で僕を見る。

 「そんなことないもん。リク君の良いところは他にもいっぱいあるし。」
 さっきから、妙に駿介に噛みつく希空さん。
 対する駿介は希空の反応を意に返すこともなく、はははと高笑いする。

 食事も終わり、文化祭準備に向けた方針を決める。僕が議題を進行させ、希空さんが思いつきで意見をぶつける。
 そこからあら探しに続くあら探し。
 担当するのは主に園田さんと駿介だ。
 4人が集まって話し合えば、意見は案外よくまとまった。

 「おい、リク。お前の番だぞ。」駿介の声、僕は薄れかけた意識を揺り起こす。
 気づけば、僕らは企画会議ではなく、ババ抜きに興じている。
 これも、みんなの士気高揚のために必要なことだよと、希空さんが妙に息巻いていたので、僕らは満腹感に満たされながら、トランプを広げた。

 目の前で2枚のカードをかざす希空さん。
 内1枚はジョーカー。絶体絶命な状況の彼女は僕を見ては、緊張した手つきでカードをおさえている。
 僕はババを探るようにトランプを凝視する。
 僕がカードに手を触れると、希空さんは泣きそうな顔になった。
 そして引き抜いた。僕の勝ちだ。

 「希空さん、分かりやすすぎだよ。」
 希空さんは悔しい表情を露わにしながら、僕の肩をポカポカと叩く。
 園田さんと駿介はそれを見て笑っている。
 僕もつられて、一緒に笑みをこぼす。
 久しぶりに開いたゲームキットに、低めの冷房温度。
 その環境ひとつひとつが僕の初めての感情を刺激してゆく。

 そうか、希空さん、駿介、園田さん。皆がいるから楽しんだ。
 その結論はなんだかとても腑に落ちてしまった。
 彼らといれば、トランプも最高の遊戯になった。

 以前までの僕は、喜びの感情は特別なものだと思った。僕には馴染みのない遠い世界のことのように思っていた。
 でも、それは違ったかもしれない。喜びだって楽しさだって、嬉しさだって。案外、身近に転がっているのかも。

♦︎

 「遅くなってきたし。そろそろ、帰ろうか。」園田さんの声がした。
 時計を見て僕は現実に引き戻された。
 時刻は既に20時を回っていた。
 さすがにこんな時間まで女子生徒を預かるわけにはいかない。
 僕は食器を手早く片すと、お開きの合図をする。

 「え~、もう終わりかあ。」と言って、希空さんはへの字に口を曲げる。
 玄関へと向かう僕ら、そこに別の人影は現れた。
 本当にタイミングが悪かった。

 「おや、お帰りかな。」済ました顔で父さんがこちらを見る。
 園田さんはそんな父親の姿に気付いて驚くと同時に、ペコリとお辞儀をした。
 駿介も軽く一礼する。
 対して、父さんは「リクの父です。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう。」と朗らかな笑みを浮かべた。
 父さんは父さんのフリをするのが上手かった。まるでその瞬間だけ。

 遅れて階段を下りて、玄関へ辿り着いた希空さんも父さんに挨拶をした。

 そのときだ。
 父さんの表情は一変した。
 笑顔は一変して、険しく睨む表情へと様変わりしていた。
 無言のまま佇む父さん。
 その瞳の向こうには希空さんを写しているような気がした。

 気付けば、父さんの表情は穏やかなそれに戻った。
 「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。」そう声をかけると、父さんはリビングへと帰っていく。
 一瞬の違和感、僕はそれを見逃さなかった。
 けど、ほかの皆は気付いていない。

 「さすがに、女子だけじゃ危ないよな。」
 隣で駿介が呟く。夜道に不審者が現れないとも限らない。
 「じゃあ、僕と駿介で送ろう。4人で帰ろうか。」
 そう言おうとしたときに、言葉は遮られる。

 「私の家、西公園方向なんです。」園田さんの言葉。
 「あれ、そうなんだ。希空ちゃんは同じ方向だっけ?」駿介は僕をちらちらと見ながら、夜風で身を震わせた。

 「私は、駅前なんだ。だから反対方向だね。」
 その瞬間、駿介がにやりと笑った気がした。
 僕も駿介につれて身震いする。
 夜風が冷たいからだろう。けど、理由はきっとそれだけじゃない。

 「なんだよ。」僕を見る駿介。
 「希空ちゃんは頼むわ。」駿介は嬉々とした表情で僕に言った。
 そういうことかと後になって悟った僕。鈍い僕と狡猾な駿介。

 「ああ、分かったよ。」僕は重い足取りで希空さんに近付く。
 そもそも、どうして僕は緊張してるんだ。
 もう彼女とは知り合って2週間が経つ。彼女の奔放なところもたまにバカなところももう慣れた。
 それなのに、知り合った頃とは違う緊張感が僕の手先と脳みそを包んだ。
 
 希空さんを見る。夜空に見る彼女の横顔はいつもよりも静かで、どこか寂しげなものに見えた。
 「じゃあ、また明日。」
 僕は園田さんと駿介に手を振って別々の方角を歩き出す。
 少し足取りがおぼつかないのは内緒だ。対して駿介はどうか。
 彼はいつだって平常心だし、いつだってスマートでイケてる奴なのだ。
 足取りは威風堂々としており、すかさず園田さんを車道側から歩道側の道路へと促す。
 こういう所作を少しでも駿介から伝授されておくべきだったと内心後悔する僕。
 
 そんな僕はただ歩いていた、1人で。ん、1人で?
 僕は咄嗟に後ろを振り返ると、希空さんは数メートル後方で僕を見る。

 ごめんごめん。
 僕は慌てて彼女の歩調に合わせる。僕は失念していたのかもしれない。
 僕を追い越していつでも小走りで僕を先導する彼女が僕のイメージ。
 だけど今の彼女はそうじゃなかった。
 思えば、僕の後ろを歩く彼女なんて見たことなかった。
 僕よりも身長が低い希空さんの方が歩幅は短いのだから、こうなることは当然なんだ。

 「足が短くてごめんなさいね。」頬を膨らませて希空さんは嫌味たらしくそう言った。
 月の下、それから僕らは夜に響く鈴虫の鳴き声で満たされた空間で歩いた。

 「ねぇ、陸くんはさ。恋をしたことってある?」
 口火を切ったのは彼女だった。
 それに、その話題は僕の心臓を早くさせる。
 どうして今そんな話を。と僕は聞きたかったけど、聞けるはずもない。

 答えることは容易い。だって、僕に恋愛経験なんて皆無だからだ。
 面倒事を避けたいと言って人との関わりを最小限にしてきた僕にとっては別世界の話だった。
 「ないけど。」僕は短く答える。言い訳のしようもないから。

 希空さんは数拍置いた後に、そっかと言う。変わらず彼女の表情は静かで、なんだか調子が狂う。
 「ねえ、気付いた?」また唐突に質問する希空さん。

 「めぐみん、駿介君のことが好きなんだよ。」

 途端に僕は噎せ返りそうになったので、必死で喉を押さえた。身体中から衝撃が巻き起こる。
 「え、まじ?」
 「まじだよ。」
 まさか、園田さんが駿介を。
 いや、駿介は良い奴だし、モテるタイプだ。
 だけど、今まさに彼を好きな人が身近にいると考えるとなんだか心が痒くなった。
 僕は園田さんと駿介が2人で帰る状況を想像する。
 手をつないだりするのだろうか。どんな会話をするのだろう。
 僕には想像できなかった。

 「それで、駿介は知ってるの?」僕がそう聞くと。
 「知ってるわけないじゃん。コクってないんだし。」
 「駿介はきっと気付いてないよ。好きなら言った方がいい。」

 僕の返答に希空さんはどっと肩を落として溜息をつく。
 「さすがに、鈍くない?」
 「まあ、男子ってそんなもんじゃないかな。」
 「じゃあ、リク君はどうなの。」
 「じゃあって。僕はそういう経験がないから分からないよ。」

 「君が誰かの思いに気付いていないだけだとしたら。」
 その言葉を聞いた時、なぜか彼女の瞳を見てしまった。
 月光に輝く瞳。それは正直、美しいと思った。美しさに魅入られて、言葉を探す思考が一瞬停止する。

 黙ってしまった。黙ったら、彼女の指摘を受け入れることになってしまう。

 「そんなことあるわけない。」僕は必死でかぶりを振った。
 「あーあ、君のことが好きな人は可哀想だな。一生、君は思いに気付いてくれないんだもんね。」
 挑発的な口調になった。なんで怒られているんだ、僕は。

 僕は園田さんが駿介に気があるなんて全く思いもしなかった。
 部屋でカレーを食べているときも、文化祭について話し合っているときも一切そんなそぶりを見せていなかった。

 「気持ちは分かるけどさ。言葉で言わなきゃ伝わらないよね。」
 僕がそう言うと、何も言わずに僕を追い越して歩く希空さん。そしてぴたっと止まる。

 「でもさ、仕草とか思いとかで、言葉にしなくても思いが伝わる関係っていうのも憧れちゃうな。私。」

 「昔は人の命令にただ忠実なだけのロボットだった。目の前に大切な人がいてもさ、私の意志で抱きしめることなんてできなかったし、会いたいときに会いに行くことだってできなかった。」
 続いて発された彼女の言葉。僕は返す言葉を失う。僕は失念していたのだ、人間と同じように見える彼女は人間ではないという当たり前のことを。
 それは、彼女が「人間」になる前の話なのだろうか。
 人工知能だった彼女にはきっと、心を持つことなど許されなかったのだろうか。
 人を好きになることや誰かと友達になることも当然にできなかったのだろうか。

 人間以上の知性を持っているのに、人間のような感情を持つことは許されない。
 それは僕が思った以上に残酷な事なんだと思う。

 僕らはそれから黙ったまま歩いている。僕は知りたいと思った。
 今の彼女に「気持ち」があるのなら、彼女の思っていることを知りたいと思った。

 僕は人の仕草やそぶりで思いを図るほど器用な生き方はできない。
 だから、言葉を使うしかない。

 「「あのさ。」」

 言葉が被る。僕と希空さん。仕組まれたようなタイミングで言葉を重ねた。
 僕と彼女はお互いを見合わせる。
 「かぶったね。」
 厳かな静寂を崩すように笑い出す彼女。僕も一緒に微笑んだ。

 「じゃあ、リク君からどうぞ。」希空さんが僕に手を差し出して、先行を譲った。
 君の思いが知りたい。なんてキザな台詞。やっぱり言えるわけもない。

 「いや、なんでもないよ。大した話じゃない。」尻込みした僕はリスクの重圧に負けた。
 僕は情けない人間だと思う。

 「希空さんは?」僕の問いかけに彼女は頷く。
 「ううん、いいの。私も大したことじゃないし。」
 僕はそれから希空さんを直視することができなかった。
 
 それからは再び沈黙の時間が2人を満たす。でも、最初の頃とは違う。
 もどかしさを抱えた時間はひどく、居心地が悪くかった。

 気付けば、駅に着いた。
 もどかしさは虚空を漂ったまま、彼女と僕は改札にて足を止める。

 「それじゃあ、帰るね。」
 前髪を手ぐしでかき分けながら、彼女は僕に手を振る。改札を抜ける。
 僕と彼女の距離が離れていく。

 僕は隔たる距離を眺めるだけで、彼女にかける言葉を失った。
 さよならとかまた明日とか、そんな簡単な言葉でいいはずなのに。僕は言えなかった。
 
 そのとき、駅から大量の人がなだれ込んだ。
 途端に仕事帰りのサラリーマン、OLで埋め尽くされた改札。
 人混みの中で僕は溺れるように沈み込む。

 希空さん。
 僕は心でその名前を呼ぶ。
 今日という日がこのまま終わってしまうのが勿体ないと思った。
 だから、僕は彼女を探した。
 
 軽快なメロディが響き渡った駅のホーム。
 僕が人混みから抜け出したとき、列車は発車した。

 そして、彼女はもうそこにはいなかった。

 馬鹿みたいだ。明日になればまた会える。どうして今日にこだわったのだろうか。
 僕は自分で自分を笑う。

 駅前を歩いていると、ロータリー周辺には数台のワゴン車がひしめき合っている。
 希空さんと一緒に歩いているときには気づきもしなかった。

 ワゴン車の群れを見ると、その車体には黒インクや白インクで刺激的なフォントの文字が描かれていた。

 【人工知能の支配を許すな】
 【私達の仕事を返せ】
 【奴等は人間じゃない、人類を脅かす兵器だ】

 僕はそれを見て目を細めた。いつも見る光景ではある。
 人工知能が社会的に普及したことで、職を追われた者も多かったのだろう。
 人工知能そのものへ恨みを持つ人だって少なくない。
 彼らの嫌悪の対象に希空さんはいるのだろうか。ふとそんなことを思う。
 彼女は人工知能だ。でも、彼女は人間だ。

 【人工知能は人間ではありません。彼らは計算と打算で狡猾にも我々の生活に浸透し、人間固有の価値観や権利を破壊しようとしています。皆さん、欺されてはいけません。】
 リーダー格の男が声高に叫んでいた。

 違う、あんた達は何も分かっていない。僕はそう反論した、心の中で。
 希空さんの無邪気な笑顔は、睨む顔も、寂しそうな顔も全ては本物なんだ。それだけは言える。

 【人工知能に心なんてありません。彼らの見せる表情は全てが偽物です。】
 【決して、欺されないでください。骨抜きにされる前に関係を断ちましょう】
 【私達は人間としての尊厳を取り戻さなければならない】
 嫌悪を込めた声が駅前に響き渡る。

 うるさい。うるさい。うるさい。
 僕は不意にマグマのように激情に沸き立つ怒りに襲われた。
 そして、目の前に立っている電柱に拳を突いた。怒りを咄嗟にぶつけた。
 グチャッという音ともに、嫌な感覚と生暖かい感触が僕の腕を伝った。

 ワゴン車の上に立った中年男性が僕を怪訝な表情で見る。
 僕も目を合わせた。彼らを一発でも殴ったら、僕は罪に問われるのだろうか。
 希空さんを踏みにじるような発言をする奴等を殴っても、それは犯罪なのだろうか。

 希空さんは必死に生きている。計算も打算もない中で手探りで生きている。
 彼らに、そんな彼女を貶める権利が果たしてあるのだろうか。真っ赤になった拳に力がこもる。

 身体は無意識に彼らのほうへ進んでいく。
 次第に、ワゴン車を囲む人々は異変に気づき始める。
 少年がひとり、怒りの感情を露わにしてこちらを睨んでいるのだ。異様な警戒が伝わった。

 いくらでも耐えられた。僕が中学にあがった頃、陰気だと言われて毎日を過ごした。靴を隠されたり、物を取られたりされて虐められたこともあった。
 でも、別に苦痛じゃなかったんだ。それは僕が耐えればいい話だから。
 僕自身が心の感受性をなくし、彼らの言動になにも感じなくなれば、僕はノーダメージ。

 でも、これに関しては耐えられないよ。無理だ。
 希空さんが侮辱されることは、友達として許さない。
 集団からはもう数メートルもない位置まで来ていた。後もう少しで、誰かを殴ることのできる距離。

 「リク君、やめて!」
 僕の手は強い力で掴まれた。
 そこには泣きそうな顔で僕を見る希空さんがいた。

 「希空さん。」
 どうして彼女がいるのか。希空さんは5分前の電車で帰ったはずなのに。
 状況が飲み込めない僕。拳にこもった暴力的な感情は抜け、彼女のうるんだ瞳に吸い込まれる。

 僕はしぶしぶ彼女の手に引かれて歩く。足早に駅を去る希空さん。
 彼女の進む方向は駅とは正反対だった。

 「どこへ行くの。」と僕は聞く。
 「リク君の家だよ。」そう言って、希空さんは僕の手の甲を見る。
 紅く滲んだ手は皮膚が爛れ、痛ましい状況になっている。
 出血によって熱が帯びている。そこに、彼女の手の体温が伝わっていく。

 僕は思わず、手を彼女から引っ込める。

 「あ、ごめん。」
 彼女は僕の反応を察したようで、少し身じろぎしてから向き直る。
 「いや、そういう意味じゃなくて、父さんがびっくりするかもしれないから。」
 僕はそう釈明する。なんでも、夜九時を回る時間に女の子を家に連れ出しているのを見られるのはよろしくないことだろう。
 さすがに、うまい言い訳なんて思いつかなかった。
 いや。事実、女の子を深夜に連れ回している僕は最低な奴なのだろう。

 でも、正直に言ってしまうと、希空さんが来てくれて嬉しかった。
 それからはまた沈黙が始まってしまう。
 僕は、「近くに公園があるから、そこなら。」と言って、電灯が灯る広場を指差した。

 僕たちは、近くにある薬局に寄って絆創膏と消毒液、そして2本のコーラを買ってから、公園へと向かった。
 「さあ、手だして。」希空さんは暗闇の中でスマホの電灯を僕の手に照らす。
 僕の手を見た希空さんは出血した箇所をまじまじと見つめている。なんだか心がむず痒い。
 「うわあ、ずいぶんやったね。痛そう。」そう言って、笑いかける。
 そして、容赦なく消毒液を大量に噴射した。

 僕は叫び声をあげそうになるも、寸でのところで必死にこらえる。
 「まだまだだな。我慢が足りないよ。」何様だと言いたくなる台詞を吐く希空さん。
 消毒液の噴霧と僕の苦悶。これがあと何回続くのか分からないほど、続いた。

 「これでおしまい。」希空さんの達成感溢れる声。僕の苦悶が終わった。
 そのあとは白い布が優しく僕の紅い手を包んでくれた。すべて希空さんがやってくれた。
 希空さんがいなければ今頃僕は駅前にいたあの人達に殴りかかっていただろう。
 彼女があの場で止めてくれたこと。その意味を僕は改めて実感する。
 僕は今の彼女に言うべき言葉があると思った。すると、希空さんが先に言葉を紡ぐ。

 「私はリク君に会いたかったから、もう一度ここに来たの。だから感謝とかは要らないよ。それに、この傷は私を思ってくれた証なんでしょ。ありがとう、リク君。」
 包帯の巻き具合を探りながら、彼女は俯いたまま答えた。

 「ありがとう、希空さん。」
 僕は端的に告げる。今の彼女に対してかけられる言葉の最大公約数がこの言葉だったから。

 それから、彼女は再び駅の方へと歩き出す。僕は彼女の普段よりも短い歩幅に合わせて、ゆっくりと夜道を歩いた。
 「リク君。私、こうして2人で歩いているとね、分かった気がするの。」

 「何が分かったの?」僕がそう聞くと、希空さんは頭上にある星々を見上げながら言った。

 「私は、リク君のことが好き。」

 肌寒い風が僕の肌を突く。それでも僕は寒さなんて感じなかった。
 心と頭には灼熱の炎が覆い尽くしたような気分だった。
 希空さんの言った言葉があまりにも突飛だったからだ。
 僕は希空さんと同じように夜空に浮かぶ星々を見た。
 無数にある星はどれも輝きを放っていて、どれも僕の手には届かない。

 彼女も同じだと思っていた。
 完全無欠な人工知能だった彼女。
 人間を目指して、突き進んだ彼女。全てが眩しくて、僕には届かない存在だと思っていた。

 そんな彼女が僕のことを好きと言った。僕は思考を停止する。
 
 「えっと、リク君はどうなのかな?」顔を覗き込むように僕を見る希空さん。
 僕は意図して目を逸らす。こんな状況、どういう表情をすればいいのかも分からない。

 すると、彼女は僕から少し離れたような気がした。数センチの距離が十センチになった。
 僕は振り返る。
 そして、後悔した。弱虫な僕の行動が、彼女を傷つけたのだと今更分かったのだ。
 
 「ごめんね、急にこんなこと言われても困るよね。あはは、やっぱり人工知能が好きとかないよね。」
 決まりの悪い笑みを浮かべながら、希空さんはぎこちない距離感で僕と2人で歩く。

 ここで答えを出すべきだったのだろうか。
 彼女が差し出した手を僕は掴む勇気がなかった。それに、僕は自分に自信を持てないから。

 でも、このタイミングを逃したら、一生僕は僕を好きになれない気がした。
 言葉を考えろ。
 彼女に僕の率直な気持ちを伝えたい。伝えなければ。
 僕は必死で心を震わせた。
 「の、希空さん!」僕は声が裏返りそうになりながらも、彼女の名を呼んだ。

 「は、はい!」希空さんは僕の大きな声にびっくりして、同じく裏返った声で返事をする。
 目を丸くして僕を見る希空さん。彼女の吸い込まれそうな瞳を真っ直ぐ見ながら、僕は重い口を懸命に開いた。
 
 「この文化祭が終わるときまで僕は今の関係でいたい。だから、それまで待っていてくれないかな。その時が来たら、僕は必ず答えを出すよ。」
 それは希空さんの告白への答えになったのだろうか。自問自答する。
 きっと、結論を先延ばしにしたにすぎないのだろう。でも、僕は今の僕ができるだけの、ありったけを伝えた。

 希空さんの顔を見る。オレンジ色の暖色系の街灯に包まれた彼女はいつも通り、花のような笑顔を僕に向けた。
 「ふふ、待ってるね。」

 それから僕と希空さんは妙な空気感に包まれる。自然と頬が緩むのを抑える。
 住宅街の暗闇を歩く2人、今の2人の歩く道を照らす光は月と星くらいなものだった。
 ほんの少しだけど、小さな一歩を踏み出せた。そんな感覚が僕を満たす。

 隣を歩く希空さんはどんな気持ちなんだろう。そんなことを想像する夜更かしの日。
 しかし、浮遊するような僕ら2人だけの時間は突然に終わった。

 「ねえ、今。ノアって言ったよね。」後ろからキーの高い少女の声がした。
 僕は咄嗟に振り返ると、そこには黒のパーカーを着た女の子がいた。
 背は希空さんよりも低く、体型もスリムに見える。
 きっと、年齢は僕らと同じくらいだろう。

 特徴的なのは、被さったパーカーフードの中に見える眼光だった。
 少女のものとは思えないほどに、鋭利な刃物を向けるような目。
 それは少なくとも親しい人に対して向けるものではない。
 僕は一眼で、この少女は何かがおかしいと思った。
 だけど、少女は警戒する僕を見ても、構わず僕らに近づいていく。

 「鈴音ちゃん。」掠れたような声で、誰かの名前を呟いたのは希空さんだった。
 希空さんは目の前のフードを被った少女をそう呼んだ。
 そして、どこか苦しそうな表情で彼女を見ていた。

 「久しぶりだね。希空ちゃん。」フードの少女がニヤリと笑みを浮かべる。
 「ねえ、隣の男の人は誰?もしかして彼氏とかできちゃったの?」
 立て続けに、軽口を叩くように話し始めるフードの少女。
 だけど、その言葉ひとつには一片の親愛も感じられなかった。

 「彼は私の友達だよ。」希空さんは静かに答える。太陽のような覇気は見る影もない。

 「へえ、おめでとう。あんなに可哀想な思いをしたんだもんね、報われて当然だよね。希空ちゃん、よかったね。」
 棘のある言葉は続く。僕は鈴音と呼ばれた彼女から感じる名状し難い嫌悪感に寒気を感じた。

 「鈴音ちゃん、ごめん。」希空さんは突然、鈴音に対して頭を下げた。
 僕はその行動の意味がわからなかった。
 希空さんは泣きそうな表情で、鈴音を見た。
 そして何度も、希空さんはごめんと言った。

 「ねえ、希空ちゃん。聞きたいんだけどさ、今の希空ちゃんは幸せ?」
 鈴音は無表情と嘲笑を織り交ぜた表情で、頭を下げる希空さんを見下ろしている。
 希空さんは何も答えずに、俯いたままだ。

 「ねえ、教えてよ。私の幸せを奪っておいて、幸せになるってどんな気持ちなの?」
 僕はもう耐えられなかった。
 心ない言葉に痛めている希空さんを見ていることも、目の前の無神経な人間も、僕は全てが絶られなかった。

 「鈴音さん。君が希空さんと何があったのかは知らなけどさ、そういう言い方はないと思うよ。」
 僕が思いがけず強く放った言葉。鈴音は僕の方をぎょろっと睨む。
 僕は彼女から放たれた異様な気迫に気押されないように、必死で唇を噛む。

 「リク君、いいの。この子は何も悪くない。私がね、私が全部悪いの。」
 そう言って、背中を震わせて顔を袖に埋める希空さん。
 拳を握りしめる僕の両手は途端に、行き場を失う。
 希空さんが自分を責めている。
 こんなに酷い言われ方をしているのに。僕は納得できなかった。

 すると、鈴音は僕と希空さんを一瞥して、合点が言ったように相槌を打った。
 「そっか、そっか。希空ちゃん、この男の子に言ってないんだね。自分の秘密をさ。」
 鈴音の突き刺すような目線が虚空を泳ぐ。

 「やめて。」か細い声が漏れた。それが希空さんの声だと分かるまでに僕は時間を要した。
 希空さんは次第に憔悴しているように感じた。

 それは、僕の知らない希空さんの過去。希空さんが隠したい過去があるというのだろうか。

 「鈴音さん、もうやめてくれ。」
 僕はうずくまる希空さんの前に立つ。鈴音と希空さんを遮る形で立つ。
 すると、鈴音は不気味な高笑いを浮かべながら、再び僕を蛇のような目で睨む。
 「希空ちゃんはさ、高校2年生まで私と同じクラスだったの。私は学校で酷いいじめを受けていた。それはもう、死にたくなるほどに酷いやつよ。」
 「希空ちゃんはね、そんな最悪なクラスの中で、私を助けるために生まれてきてくれた人工知能なんだよ。」

 それは、希空さんと鈴音の間のこと、僕の知らない希空さんの話だった。

 希空さんは当初、鈴音のクラスで起こっていた虐め問題を解消するために生まれたアンドロイドだった。
 そして、希空さんはクラスに編入してから、虐めを受けていた鈴音に代わって、虐めの対象となった。
 水をかけられる、物を奪われる、暴力を振われる。
 そんなくだらない虐めを受ける日々が、希空さんの日常を埋め尽くしていた。
 だけど、鈴音はこれにより、自分が虐めの標的となることを免れた。
 
 状況が変わったのは、高校3年生になった時。
 希空さんは鈴音とは違うクラスになった。
 本来は鈴音の身代わりとして生まれたはずのアンドロイドであるのだから、それは自らの使命に反する行為だった。
 そして、身代わりを失った鈴音は再びクラスで虐めを受けるようになった。

 「希空ちゃんは人工知能なんだよ。人間とは違う。人工知能には人間から与えられたお仕事がある。だよね、希空ちゃん。」
 暗闇の中、鈴音は金切声を上げるように、叫んだ。
 鈴音がこれまでにどんな境遇を歩んだのか、僕は想像できなかった。
 自分が平穏に生きるために希空さんが必要だった。
 そして、希空さんは突然自分の前から姿を消した。再び、彼女はいじめに苦しんだ。
 
 そこに失意や憤りがあったのかもしれない。
 僕が希空さんを取ったようで、許せない気持ちになるのかもしれない。

 だけど、それは鈴音が希空さんを自分のための道具としか見ていないことの何よりの証左だ。
 僕は負けたくないと思った。
 希空さんと正面から向き合わず、彼女をただの道具として扱った鈴音を僕は認めるわけには行かない。
 
 「希空ちゃん、教えてってば。人の幸せを奪っておいて、今がそんなに楽しいの?」
 無慈悲で冷徹な表情で僕を見下す鈴音の態度は揺るがない。

 震える声を振り絞って、希空さんは鈴音を見据えた。
 そして、叫ぶように言った。
 「高校3年の春、私は鈴音ちゃんと同じクラスになることを拒んだ。全ては私自身の意思。だから、鈴音ちゃんが言うこと、全部正しいの。私が何もかも投げ出したんだから。」
 鼻水を啜りながら、泣きじゃくる希空さん。
 
 「だからさ、希空ちゃんは人工知能なんだってば。人間じゃないの!希空ちゃんは一生、私のために動く道具なんだよ!」
  弱々しく啜り泣く希空さん。そして、追い討ちをかける鈴音。
 誰も幸せにならない、感情のぶつけ合いがそこにはあった。
 痺れを切らした僕は鈴音さんの目の前に立った。

 そして、僕は力を込めて、彼女の左頬に平手打ちをした。
 乾いた破裂音がした。
 同時に、鈴音は頬を押さえながら、呆然と立っている。

 「え、何これ?」鈴音は目を丸くして僕を睨む。

 「もう頭を冷やせよ!希空さんは君の道具じゃないんだ!彼女は僕らと何も変わらない。傷つく心を持った人なんだよ。」

 鈴音は項垂れ、手足をだらんとさせている。まるでミイラのようにおぼつかない足取りだ。

 「ははは。そうだよね、もう私の知っている希空ちゃんじゃなくなってるんだ。ちゃんと心を持って、泣いたり笑ったり、恋をしたりそんなことができる女の子になったんだね。希空ちゃんは。」

 鈴音はそう言うと、懐の中へと手を埋めた。
「あたしには出来なかった事だよ。人間のあたしが出来なくて、どうしてロボットの希空ちゃんに出来るんだろうね。」

 そして、鈴音が徐に取り出したのは月光の下で不気味に光るナイフだった。
 
 「じゃあさ、希空ちゃんの大好きなリク君が死んじゃったら、どうなるのかな。人工知能でもちゃんと悲しむのかな。」
 その刹那、ナイフを持った鈴音は僕に向かって突き進む。
 僕と彼女との距離はもう3mにも満たない。
 避けることも無理だと悟った時にはすでに、僕のワイシャツの繊維に刃先が触れている。

 僕はここで死ぬのだろう。そう思った。
 突然のことで何も考えられないままだ。
どれだけの後悔を残したまま死ぬのかさえも、分からない。
 不幸はいつだって突然やってくるものだ。

 「死にたくなければ、希空ちゃんに近づくな。そう警告したのに、君が従わないからだよ!」

 虚空を裂くように、鈴音が僕の前に躍り出る。
 咄嗟に聞き取った言葉、そうかあの手紙は君だったのか。
 
 その時、僕の身体が強い力で飛ばされる。
 僕が倒れるまでのわずかな間隙。かすかに見た光景。
 そこには、僕を見て優しく笑う希空さんがいた。

♦︎

 強い衝撃で頭を打った。
 意識が朦朧とする中を、僕は手探りで歩く。
 視界が次第に回復していく。
 僕は目を擦って、すぐに希空さんを確認したかった。
 彼女が無事であることを確認したかった。

 「はあ、どういうことよ。これじゃ、私が馬鹿みたいじゃん。」
 それはさっきまで聞いた鋭い声。鈴音の声だ。
 駆ける足音が遠ざかっていく。同時に、鈴音の声も聞こえなくなっていった。

 僕は必死で周りの状況を探る。
 アスファルトに頭を打った衝撃で僕の意識はまだ朦朧としている。

 「リ……ク、へいき?」
 霞がかかった感覚の中で、透き通るような声が聞こえた。
 紛れもなく、希空さんの声だ。
 僕は声のする方へと、匍匐前進するように進む。
 そこには、暖かい彼女の身体の感触があった。
 視界は次第に戻っていく。
 
 僕は、目の前の光景を見て、目を疑った。
 全てが嘘であってほしいと願った。
 「希空さん!希空さん!」必死に呼びかける声。
 希空さんの身体はピクリとも動かなくなってしまった。
 それは紛れもなく、さっきまで僕と会話をしていた希空さんだと言うのに。
 希空さんの腹部には、銀色のナイフが刺さり、今も彼女の身体の裂け目から夥しい量の赤色の体液が流れ出ている。

 「はあ、私って本当に…ついてない。」
 倒れ込んだ希空さんは薄い意識の中で、そう言って軽く笑う。

 「馬鹿!しゃべらないで。今すぐ助けを呼ぶから!」
 僕は気が動転した。この光景全てが真夜中の悪夢であってほしいと強く願った。
 それでも、彼女の身体は次第に重くなっていく。流れ出る彼女の体液は赤い絨毯を成していく。
 全ての感覚が僕に現実であることを告げている。
 僕が携帯電話を操作していると、彼女の手が重なった。

 「私はね…。リク君と…お喋りを…してたいな。」
 息も絶え絶えになる彼女を見て、僕は何も考えることができなかった。

 「希空さん。大丈夫、大丈夫だから。」僕は彼女の手を必死で握る。
 希空さんの身体は冷たくなっていく。ゆっくりだけど確実に体温が無へと向かう希空さんを見て、僕は本当に怖くなった。
 
 やっと分かり合えたと思った。僕の背中を押してくれた彼女に僕はもっと近づきたいと思った。
 なのに、どうしてこんなにも運命というものは無慈悲なんだろう。
 目を閉じる希空さん。
 僕は誰かに助けを求めるために、叫ぼうとする。
 だけど恐怖のあまり、声を出すこともできなくなっていた。
 身体も言うことを聞かなくなっていくのを感じた。

 僕はもう何もできない。その無力感だけが僕の体を満たした。
 項垂れる希空さんを見ているだけ、手も足も重くて、寒くて動かない。
 
 これで何もかもが終わる。突然の悪意で僕と希空さんの関係は終わるのか。

 そうか、人生ってこんなものだったよな。

 頭に錨を乗せられたように、重くなる。
 そして、僕はもう何もかも考えることができなくなってきた。

♦︎

 目を覚ませば、そこは白い天井だった。
 僕はいつもよりも重い身体を揺り動かして、辺りを見回す。
 消毒液とオイルが混ざった匂いのする白い部屋。
 学校の保健室のようであるけれど、そこには普段見ることのない大きなコンピューターや無数のディスプレイが置かれている。

 「起きたか、リク。」
 聞いたことのある声がした。僕の視線の先には眼鏡をかけた白衣を着た男性が僕を見下ろして立っている。
 僕は瞼を擦りながら、部屋の明かりの順応しつつある眼で、その人を見る。

 「父さん、どうして。」咄嗟に声が出た。
 この見慣れない空間には、僕の父さんがいたのだ。

 「希空さんは、どこにいるの。」僕は弱々しい声で彼女の名前を呼ぶ。
 すると、父さんは含みのある表情を浮かべながら、僕に手を差し出す。

 「立てるか。」僕は父さんの手を掴まずに、ベッドの手すりを使って体を起こした。
 父さんは僕を一瞥しては振り返り、1人で歩いていく。僕は父さんの後を追う。
 長い廊下を僕は進んだ。
 白くて、埃ひとつない廊下を進むと、父さんはさらに奥の部屋へ入る。
 部屋の中には、大きな窓があった。他の部屋と繋がった窓。
 父さんは窓べに佇んで、その先にあるものを見つめている。

 「リク。あそこにいるのが、お前が希空と呼んでいる人工知能だ。」
 僕はその言葉を聞くと、途端に窓へと近づいた。希空さんに会えると信じて。
 だけど、僕が見た光景は想像を絶するものだった。

 窓の向こうには、大きなベッドがあってそこには希空さんが横たわっていた。
 目を閉じている希空さんは、身体中に数10本、いや100本くらいのケーブルが繋がれていた。
 まるで、配線がぐちゃぐちゃになってしまったデスクトップ型コンピューターみたいに、彼女の身体は非生物的な機械として、ここにあるように思えてしまったのだ。

 「希空さん、希空さん。」僕はまた彼女の名前を弱々しい声で囁く。この窓を壊せば、希空さんの元へと行ける。
 また、希空さんに会える。
 僕は、窓を小刻みに叩く。だけど、それ以上のことはできなかった。
 しようと思わなかった。

 「自分にはできることはない。気づいたんだな、リク。」
 僕の図星を突くように、隣で父さんがそう言った。

 「その通りだよ、リク。彼女はもう目を覚ますことはない。もう死んだも同然なんだ。」
 父さんは淡々と告げた。僕にとって、それは何よりも残酷な事実だった。

 希空さんは、昨夜受けた襲撃によって、身体が負傷した。
 だけど、彼女が目を覚さない理由はそれだけではなかった。
 あくまで、希空さんの身体は作り物。損傷した部品は交換できる。
 それでも、彼女の身体のどこかに隠された心だけは、もうどこかに消えてしまった。

 今の彼女は心のない抜け殻であって、仮死状態に近いものなのだと言う。

 「なら、せめて。彼女の側に居させてよ。」僕は喉を振り絞って、叫ぶように言った。

 「無理だよ、リク。彼女は近々処分されることが決まった。行動履歴を走査したところ、彼女のデータリンクに重大な欠陥が見つかった、管理者に偽の情報を流して、彼女は自らの使命を放棄していたのが判明した。その意味がお前に分かるか、リク。」

 鋭利な目線で僕を凝視する父さん。
 僕は強がるように拳を握り締める。
 僕と一緒にいたこと。
 彼女が普通の人間になるべく行動したこと。
 全ては、彼女の人工知能としての使命に反する行為だった。
 彼女が生きた軌跡そのものが、彼女が死ぬ理由として十分だったのだ。

 こんなこと、馬鹿げている。

 「虐め問題が横行するクラスで、虐めの身代わりになる。そんな馬鹿げた使命のために、希空さんは生まれたんだ。でも、そんなのってないだろ。希空さんの傷ついた感情は一体、誰が庇ってくれたんだよ。」
 「理由が何であれ、人工知能にとって使命を逸脱する行為は重罪だ。だから、彼女は処分される。これは決定事項だ。」

 僕は言いようのない怒りが込み上がってきた。
 無力であることは自覚している。人工知能の彼女に対して、平凡な僕が何かできるわけもない。
 それでも、僕が彼女と過ごした日々は本物だった。彼女が僕に向けた笑顔は本物だった。

 リク君、眠り姫になった私を見て、見惚れてたんでしょ。
 希空さんは目を覚まし、僕をにやけ顔で見つめながら、そんなことを言ってくるのではないか。
 そんな気さえした。
 いや、絶対そうだ。希空さんはこんなところで、死んだりなんかしない。まだ、したいことがたくさんあるだろ。

 希空さん、目を覚ましてよ!希空さん!

 僕は窓に張り付きながら、声にならない声を叫び続ける。だけど、何も変わることはなかった。
 彼女が眠り姫だったとしても、僕は彼女に触れることさえできない。

 だから、僕は彼女の元を去った。