「芽依? 大丈夫? 急にぼんやりして……何処か痛む? 看護師さん呼ぶ?」
「……、……え?」

 穴を落ち続け、暗闇に突然光が差したかと思うと、そこは見知らぬ白い部屋のベッドの上だった。
 そして、心配そうにわたしを覗き込む両親の姿。つい先程まで、くまのぬいぐるみと庭に居たはずなのに。

「……お父さんお母さん、ここ、どこ? わたし、なんで……」
「! 芽依!?」
「わたし達がわかるの!?」
「……?」

 何を当たり前のことを。
 しかし神に感謝しながら泣く両親を見て、わたしはそれ以上何も言えなかった。
 そしてしばらくして、ようやく先に落ち着いた父から、衝撃の事実を聞かされる。

「芽依、おまえは一ヶ月ずっと記憶喪失だったんだ。覚えてないか?」
「記憶喪失!? ……え、覚えて、ない」

 記憶喪失。漫画やドラマで良く聞く単語だ。それを実際体験することになるとは、夢にも思わなかった。

 記憶喪失なんて一口に言っても色んな種類があって、すぐに記憶を取り戻したり、ずっと忘れたままだったり、朧気に思い出したりもあるけれど。
 今回のわたしのように、元の記憶が戻るとその拍子に記憶喪失期間の記憶が抜け落ちることもあるそうだ。

 懇切丁寧に説明されたけれど、にわかには信じがたい。だってわたしには、意識や記憶が途切れた感覚もないのだ。

「……わたし、一ヶ月間ずっとこの病院に居たの?」
「ええ、頭を打っていたし、足も骨折しているのよ。……命に別状がなくて良かったけど、記憶もなかったし……」
「骨折……そっか。じゃあ、これからも入院しながらリハビリとか……?」
「あ、今日が退院予定日よ」
「……。入院を自覚した瞬間退院とか、新手のRTAかな……?」

 陸上部でいつも速さを追い求めていたとはいえ、流石にこれは想定外だった。
 くまに穴に落とされてから、驚きの連続に頭がついていかない。

「今お父さんと一緒に荷造りしていたら……芽依ってば、事故の時履いていたシューズを持って急にぼーっとするから、びっくりしちゃった」
「……、このシューズ、くまが足につけてたやつ」
「くま?」
「ううん、何でもない」

 結局頭の整理が追い付かぬ内に荷造りをして、退院手続きを済ませ、お大事にの言葉をもらって父親の車に乗り込む。
 折ってから一ヶ月経ったとはいえ、足は固定されていても痛みを伴った。その痛みが、容赦なく現実を突きつける。

 帰りの車の中で両親から聞かされたのは、部活帰りに桜並木を歩いていたわたしの方に、乗用車が突っ込んで来たこと。
 まあ、此処までは何と無く覚えている。

 そして、単に打ち所が悪かったのか、大好きな先輩が卒業してからわたしが部長を引き継いで初めての試合前に足を怪我したショックからか、目を覚ますとわたしは記憶喪失になっていたこと。
 けれど記憶喪失中もどうやら普通に生活して、早々に始まったリハビリも真面目に行っていたということ。

「芽依、記憶喪失中も小さい頃のことだけは覚えてたのよ。だから、最近の記憶だけ飛んじゃったんじゃないか、とか、ある程度安心はしてたんだけど……でも、人が変わったみたいでね……」
「人が変わった……って、何、暴れたりとかしたの?」
「いいえ、その逆。何て言うか……少しのんびりさんだったわ。間延びした話し方とか……」
「え……」
「ダイエットだとか気にせずデザートのプリンも美味しそうに食べるんだもの、お父さんったら、お見舞いに来る度にお菓子買ってきてたのよ」

 のんびりした、間延びした話し方の、プリンが好きな子を、わたしは知っている。

「リハビリだって、相当辛そうなのに部活の時みたいな泣き言も言わずに『メイちゃんの身体のために頑張らないと』なんて、他人事みたいに言うし……」
「……そう、なんだ」
「でも、ちゃんと痛いのも我慢して一生懸命リハビリ頑張って、とっても偉かったわ」

 記憶には全くない。それでも、そんなことを言いそうな子には、やはり一匹だけ、心当たりがあった。

 先程まで居た、けれど一ヶ月ぶりの我が家に戻る道すがら、車窓から覗く沈み行く赤い夕日。
 その色は何だか、あの子のリボンの色を思い出させた。


*****


 事故から三ヶ月。季節の巡りは目まぐるしく、あっという間に夏も終わろうとして居た。
 退院してからもリハビリは続き、あれだけ熱を注いでいた部活も、結局試合に出ることも叶わずそのまま引退した。
 先輩から引き継いだ部長としての覚悟も、決意も、何一つ果たされることはなかった。

 散々泣きもしたし、しばらくは何もする意欲が湧かなかった。大好きだった陸上を、仲間を、嫌いになりそうになった。何一つ成し遂げられない自分のことも、たくさん責めた。

 高校三年の、これまでの集大成とも言える、最後の全力を出し切る時間。
 始まる前に終わってしまった、わたしの青春のすべて。

 事故後、本当はすぐに諦めるべきだったのに。いつかを夢見て、練習を見学して、その場に居る理由が欲しくて、部長の肩書きを中々手放せなかったけれど。仲間に悔しさも希望も全部託して、自ら踏ん切りをつけた。

 そして部活もなくなり、唐突に失われた、わたしの大切だった日々。
 世界を閉じ込めた宝物のビー玉を失くしたあの頃のような、泣き喚きたくなるような不安と喪失感。

 それでも、悲観して自棄を起こさなかったのは、大切なものをどんな形になっても大切でいられたのは、のんびり屋のあの子との一ヶ月があったからだろう。

 あの子が、わたしのことを「死なせるもんか」と守ろうとしてくれたのだから、それを無下には出来なかった。
 痛みが苦手なわたしの代わりに、辛かったであろう事故後のリハビリだって頑張ってくれたのだから、それに報いなくてはと、わたしも頑張れた。


*****


 初めて迎える、部活の練習のない夏休み。高校を卒業したら就職と決めていたから、受験勉強もない。
 これといって新たな目標も意欲もなく、かといって何もせず家に引き籠るのは身体に良くないからと、しばらくしてわたしは、家の片付けや庭の草むしりに精を出した。

 庭に関しては、正直二度目である。足はまだ少しだけ痛むけれど、手際も格段に良くなっていた。

「ねえお母さん、アルバム見せて!」
「……? いいけど、何するの?」

 わたしが幼い頃には、この庭はもっと綺麗に保たれていた記憶がある。亡き祖母の趣味がガーデニングだったそうだ。ならばそれをレイアウトの参考にしようと、家の中でアルバムを確認している時だった。

 たくさんの写真の中に、やけに見覚えのある、点三つで描けるような単純な作りの顔を見付けたのだ。

「これって……」
「あら懐かしい……おばあちゃんに貰ったくまさんね! 芽依ってば、小さい頃は毎日抱き締めて連れ回してたのよ」
「! この子、今は何処にあるの?」
「ええと、確か転んだ拍子に何処かに飛ばしちゃって、失くしちゃったのよね。……そうだ、あの時の芽依、怪我した痛みよりも『くーちゃんが居ない』ってわんわん泣いてたわ……」
「……、そっか」

 その終わりを、覚えていない。
 でも、わたしはこの子を知っている。
 触れるとほんのり温かい、柔らかな毛並みと、黒くて真ん丸のつぶらな瞳。首には鮮やかな、あの子の好きな赤いリボン。

「……あの花壇は、わたしの記憶の宝箱、だったのかな」

 土にまみれたビー玉や消しゴム、絵本やネックレス。その他たくさんの昔の宝物達。
 その中に埋もれたあの子はきっと、目を向けることもなくなり雑草の生えた、古く忘れ去られた記憶の庭の隅っこで、それでもあの頃から変わらずわたしを見守ってくれていたのだ。

 日常生活に戻っても、過去の大切な物を思い出しても、相変わらず、あの一ヶ月の病院での記憶はない。

 あの子がわたしの身体に入り込んで、事故直後のわたしの痛みや絶望を引き受けて、心と身体を守ってくれていたのか。
 それとも、深層心理の中で勝手に作り上げていた、幼い頃の友達であるくまのぬいぐるみの人格が、事故をきっかけに表に出てきたのか。
 はっきりしたことはわからない。何しろ、あのくまの生態は、最後まで謎だったのだ。

 だけど、あの子はわたしの一部なんかじゃなくて、別の確立した存在なのだと思う。
 だってあの子は、わたしとは似ても似つかないのだ。食べ物の好みも、性格も、何もかも。

 今でも目を閉じれば、すぐにでも会える気がする。柔らかくて、のんびりさんで、おおらかで、温かくて、優しい、わたしのくまのぬいぐるみ。

「……ありがとう、くーちゃん」

 久しぶりに呟く名前は、やけに口に馴染む。わたしは改めて綺麗にした庭の花壇へと向き直り、約束の花の種の袋を開けた。あの日のビー玉のように、転がしてしまわぬよう慎重に。

 失くす悲しみじゃなく、出会える喜びを。忘れる寂しさじゃなくて、進める強さを。自らの手で、ひとつひとつ埋めていく。

 幼いわたしは色んなものを失くして、悲しみながら大きくなって忘れていった。
 これから大人になるわたしは、抱えきれず取り零したすべてを忘れないように、大切に心にしまっていきたい。
 苦手だった痛みだって、悲しみの涙だって、きっといつかの糧となると、あの子が教えてくれたから。

「……また、会おうね。わたしの宝物」

 いつかまた、ひょこり花壇に咲いたあの子が、のんびりと赤い花弁(リボン)を揺らしながら、大きくなっていくわたしを見守ってくれると信じて。