僕が猫となって迎える九月最後の日のこと。いつものように高校の屋上へと行くために校舎裏の樹木を登っていると、背後から声をかけられた。


「わっ!」


 ハスキーな女性の声だった。突然のことに、僕の全身の毛が逆立った。


「どうです、驚きましたか? 驚きましたよね?」


 声の先には、ふわふわと宙に浮く人間の姿があった。
 
 肉体のない魂だけの存在――霊である。


 あまりのことに、危うく樹木から落ちてしまうところだった。予想外の場所から大声を出されれば、相手が霊だろうと何だろうとドキリとするものである。霊とは関係なしに噛みついてやりたいものだ。

 猫の視界に広がる世界は、人間とは必ずしも一致しない。もし、自宅で飼う猫が何もない空間をじっと見つめていたら、我が家には霊が住んでいるのだと戦慄すべきだろう。


「可愛らしいニャンコさんですね。お散歩ですか?」

 僕に話しかけてきた霊は、年齢が三十歳代くらいに見える丸顔の女性だった。血色が良く、ぽっちゃり体型で空中を漂う姿は、なんとなく風船を連想させる。彼女の名は柴原(しばはら)洋子とのことで、一昨年までこの学校の教師をしていたそうだ。



「その日は、朝方まで期末テストを作成していたので、寝不足でした。ですから、普段はマイカー通勤のところを、安全を取ってタクシーで学校へと向かったのです。それが運の尽きでしたね。車内で眠ったのを最後に、気がつくと学校にいました。人には見えない幽霊の姿でね」

 僕が人間の言葉を理解できることを知ってか知らでか、柴原先生が一方的に身の上話を進める。


「同僚や生徒たちの様子から、私は自分が死んでしまったことを知りました。飲酒運転の対向車に突っ込まれてしまったみたいですね。私以外の人は命に別状はなかったようなので、不幸中の幸いでしたが」

 柴原先生がショートボブの髪を触りながら僕に語りかける。二年前だと、まだ僕がこの高校にいない頃の話である。三年生の先輩や当時を知るであろう教師からも伝わっていない、初めて聞く話だ。


「私の受け持った生徒たちは、当時一年生でした。あれからもう二年が経ち、彼らも三年生です。月日が経つのは早いものですね。私は幽霊となったあの日から、今もこうして生徒たちを見守っています。何もできないのだとわかってはいますが、それでも、そばにいたいのですよ」

 そう言って、彼女が僕の額をわしゃわしゃと撫でた。


「ごめんなさい、私の話ばかりしてしまいましたね。たまに、私のことが見える存在が恋しくなるのですよ。最近、悲しい事故があったばかりですから……」

 彼女の撫でる手に答えるように、僕は目を瞑る。僕を驚かせた仕返しに噛みついてやろうと思っていたが、許してあげよう。


「……ああ、いけませんでした。私の姿は生きている人には見えませんから、今のあなたは変に映っているかもしれませんね。霊媒師でも呼ばれて、成仏させられたくはありませんし、神様が見ていらっしゃったら、あの世に連れていかれるかもしれません」

 彼女の手がそっと僕から離れる。誰も見ていないし、神様だってその程度ならば許してくれるだろうから、やめなくてもいいのに。


 僕も柴原先生と同じ、猫らしくないことをしたり、人から見てありえない超常現象を起こしたりすれば、神様に消される可能性がある。そんなことができるのかどうかはわからないが、人としての記憶がある僕は、神様が猫という種族に許していない行動は絶対に控えるべきなのだろう。


 ――だけど、僕にはやらなければならないことがある。

 たとえ、神様に消されるのだとしても、それでも――。


「ところで、ニャンコさんには子どもがいますか?」

「にゃー(いないし、縁がない話だよ)」

 柴原先生の問いに、僕は元気よく答えた。


「そうですか。ニャンコさんは、ママなのですね」


 ……柴原先生、そんなことは言っていませんよ。


 一般的な猫が話す猫語は、同族にしか伝わらないのである。


「私に子どもはいませんでした。生涯独身で、いい人もいませんでした。ですが、こうしてこの世にとどまりたいと思えるほど大切なものがあって、私は幸せだったんだなと、そう思っているのですよ」

 彼女が温かみのある笑顔で答える。

 だからこそ、まだ消えるわけにはいかないのだろう。受け持った生徒たちが、無事に卒業するまでは。


「しかし、生きとし生けるもの、いつ何があるのかわかりません。ニャンコさん、知っていますか? あなたの登る大きな木には、相棒がいたのですよ」

 そう言って、柴原先生が地面の方向を指し示す。きめ細やかな年輪のある切り株であり、今は亡き兄弟木(きょうだいぼく)の片割れだ。


「……実はこの前、事故がありまして、その木は折れてしまいました。それだけで済めばよかったのですが……不幸にも、この学校の生徒が、大きな木の下敷きになってしまったのです」

 彼女が伏し目がちに、沈んだ声を出した。


 もちろん、そのことは知っている。

 だってそれは、僕の話なのだから――。