ほろ苦い夏からあっという間に月日が経ち、僕は高校生となった。
そして僕は、二度と会うことがないと思っていたギーナと再会した。
それは高校に入学してまだ間もない四月。昼休みの時間を利用して仮眠を取っていた時のことだった。僕は一階にある教室の窓際の自分の席で、うららかな春の日差しのもと、日光浴をする猫のように気持ちよく寝ていた。
春の匂いがする――僕は誘われるように、寝ぼけ眼のまま何気なく外に目をやった。
すると、女子生徒が通り過ぎて――僕の眠気は、ぶっ飛んだ。
春の嵐が直撃したかのような衝撃。僕が猫であれば、尻尾を踏まれたかのように、飛び上がって驚いていたことだろう。
一瞬のことだったが、間違いなかった。
ギーナだ。
彼女はますます魅力的な女性になっていた。もともと愛らしい容姿をしていたので、成長しても優れた女性になると思っていたが、息をするのを忘れてしまうくらい想像を上回っていた。
僕が一年四組であるのに対して、ギーナは五組であり、隣の教室のクラスであった。彼女は抜きん出た美貌と、男女問わず臆することなく接する性格から人気者だった。たとえ、あの昼休みに彼女を見かけていなかったとしても、彼女の存在は僕の耳に入っていたことだろう。
彼女のことはギーナだと、ひと目で気づいた。けれども、僕が彼女に声をかけることはなかった。一方的な再会である。
あの日以降も何度か彼女を見かけることがあったが、僕は同じことを繰り返した。あの頃とは違って、僕はもう分不相応という言葉を知っていたのだ。
僕は運動も勉学もルックスも並の、どこにでもいる平凡で冴えない人間だった。学校での僕の存在は、「中の影」「中の薄」「エリート・モブ」といったところだろうか。柳渚の名は聞くことがあっても、僕の名はクラスメイトくらいしか知らない。彼らでさえも、全員が僕の名前を把握しているかは甚だ疑問である。そんな僕ごときでは、彼女とは不釣り合いだったのだ。
それに、僕は彼女と交わした約束を破った男である。彼女にとって、あの夏のことは嫌な思い出、忘れてしまいたい出来事として残っているのかもしれない。下手したら、恨まれている可能性だってある。それなのに、いったいどの面下げて声をかけるというのだ。
あの頃と違うのは、何も僕だけではない。ギーナは一年一組のサッカー部に所属するイケメン、氷室飛河と仲が良く、彼と一緒にいるために彼と同じ高校を受験したという噂があった。既に交際しているのではないかという話さえもあった。
「学年四天王といっても、オレたちには関係ないね。はるか雲の上の存在、イケメン限定。ワンチャンもない、まごうことなき、ノーチャン。オレたち雑魚は拝めるだけありがたく思えってことさ」
同じクラスの男友達が、ギーナについて話していた。
彼の言う通り、僕とギーナでは始めから住む世界が違う。たとえ、同じ高校にいる二人でも、僕とギーナとの間には何千・何万キロメートルもの近づけない距離がある。あの頃は、それに気づいていなかっただけだ。
彼の言葉に、僕は「そうだね」と笑って頷くことしかできなかった。
結局、ギーナと一度も言葉を交わすことのないまま、二学期へと突入した。
このまま話すこともなく、赤の他人として時が流れるのだと思っていた。
だが、僕は意外な形で、彼女と関わることになる――。
十月の始めに開催される高校の文化祭。それに向けて、クラスの文化祭実行委員を決めることになった。運のない僕はジャンケンに負け、文化祭実行委員に選ばれてしまった。
文化祭実行委員は各クラス男女一名ずつである。たとえ強制的に与えられた役割だとしても、クラスの代表として選ばれた限りは、もう一人の実行委員と協力して文化祭に貢献しなければならない。同じくジャンケンに負けて選ばれた女子側の代表は、笹塚という人前が苦手そうな物静かなクラスメイトであった。彼女は選出後の週明け、僕にあることを提案してきた。各クラスの実行委員に割り当てられる担当の仕事を、隣のクラスである五組と同じものにしてほしいとのことだ。
僕が笹塚にその理由を尋ねると、彼女はもじもじとしながら五組の男子の実行委員の名前を挙げ、僕は納得した。笹塚が五組の檀野と交際しているという話は聞いたことがあり、彼女の挙げた名が彼であったからだ。
おそらく、檀野は笹塚が実行委員になったことを知り、彼女のために実行委員に立候補したのだろう。いい男だ。何はさておき、笹塚の提案が「キモいキミと二人で働きたくないから」とかいう、膝から崩れ落ちたくなる理由ではなくて何よりであったが。
そういうわけで、僕は笹塚の申し出を承諾し、五組の実行委員と一緒に仕事をする見通しとなった。笹塚と檀野が常に行動をともにするので、僕は隣のクラスの女子といる時間が多くなるに違いない。五組の選ばれた女子が誰だかは知らなかったが、別に誰と仕事をしてもよかったし、特段やりたい仕事があったわけでもなかったので、何でも構わなかった。
その日の放課後、空き教室で顔合わせを兼ねた最初の委員会があり、僕は間抜けに口を半開きにしてしまう。五組のもう一人の実行委員は、ギーナだったのだ。
「はじめまして、よろしく」
先にギーナのほうから僕に話しかけてきた。
「よっ……よろしく」
僕は精いっぱい平静を装って、言葉を返した。予想はしていたが、彼女は僕があの夏に会ったギーラだということに気づいていない様子であった。
「渡辺くん、だよね? 渡辺くんはあだ名とかある?」
「い、いや、特にないよ」
僕は大きく首を横に振った。彼女の口元のホクロが、あの頃にはなかったチカラを発揮していて、脇汗が止まらなかった。
「えー、渡辺だったら『ナベ』とか呼ばれていそうなのに」
「……それは既にいるんだよね」
「え、いるって?」
「僕のクラスには渡辺が二人いるから、イケイケなほうの渡辺が『ナベ』で、僕が『渡辺くん』ってわけ」
同じ名前がいれば、親しみの込められたあだ名は譲る。冴えないモブの宿命だ。
「ふふっ、なるほどね。ある意味、『渡辺くん』があだ名ってわけか」
「まっ、まあ、そういうことだね。好きに呼んでいいよ」
「そう? なら、とりあえず『渡辺くん』にしておく」
「お、オッケー」
親しみを込めて「ギーラ」と呼んでほしい――そんな言葉は喉から出なかった。
僕が中学三年生の時に、父さんの二度目の浮気が発覚した。両親は僕が高校に進学する時期に合わせて離婚を成立させ、僕は母方の姓である「渡辺」を名乗るようになった。今の高校には中学生の時に同級生だった人もいないので、僕が高校で「ナギ」と呼ばれることはない。もちろん、「ギーラ」と呼ばれることも。
あの頃から名前が変わっただけでなく、身体は成長し、声変わりもしている。僕がギーラだと、気づけというほうが無理というものだ。
その日の委員会では各クラスの役割を決める話し合いがあり、笹塚と檀野の目論見通り、四組と五組は同じ管材係となった。
話し合いの合間、笹塚が檀野の隣で談笑していた。クラスでは見せたことのない乙女の顔だ。
「当日も、ずっと二人で行動するのだろうね」
僕は彼らの別世界の光景を見ながら、ギーナに話しかけた。二人で行動とは、もちろん、仕事がない時間帯も含めてである。
「それはそうよ。しっかり、文化祭の最後までね。花火の逸話もあるし」
「……花火の逸話って?」
「知らない? 文化祭最終日に、すぐ近くの公園で花火大会があるでしょ。その花火が上がった時にキスをすると、永遠に結ばれるって話があるのよ」
「……そうなんだ。初めて聞いたよ」
――いや、似たような話ならば聞いたことがある。
あの夏に母さんから聞いたものと同じ、僕が約束を破った夏祭りにもあった話だ。
文化祭二日目に花火大会があること自体は知っていた。学生が各々で楽しむであろう後夜祭の時間帯に始まり、テレビでも中継される有名な花火大会だ。
しかし、ギーナが話すような逸話があることは初めて聞いた。もともとその手の話には疎いほうなので、知らない自分が少数派なのだろう。リア充イベントには、カップル向けの逸話が欠かせないというわけだ。
――ギーナは、誰と見るのだろう?
関係が噂されている氷室飛河と一緒に、文化祭を見て回るのだろうか。彼の隣で花火を観覧し、口づけを交わすのだろうか。
――きっと、そうだ。
――少なくとも、僕ではない。
彼女を誘うなど、もっての外である。そんな資格は、僕にはない。
僕にできることは、ギーナの隣を独占する男が彼女を一人にしないことを祈るくらいだ。
あの夏の僕のように、彼女を裏切らないようにと。
ギーナがあの日の僕を責めているような気がして、僕は彼女から目を逸らした。
そして僕は、二度と会うことがないと思っていたギーナと再会した。
それは高校に入学してまだ間もない四月。昼休みの時間を利用して仮眠を取っていた時のことだった。僕は一階にある教室の窓際の自分の席で、うららかな春の日差しのもと、日光浴をする猫のように気持ちよく寝ていた。
春の匂いがする――僕は誘われるように、寝ぼけ眼のまま何気なく外に目をやった。
すると、女子生徒が通り過ぎて――僕の眠気は、ぶっ飛んだ。
春の嵐が直撃したかのような衝撃。僕が猫であれば、尻尾を踏まれたかのように、飛び上がって驚いていたことだろう。
一瞬のことだったが、間違いなかった。
ギーナだ。
彼女はますます魅力的な女性になっていた。もともと愛らしい容姿をしていたので、成長しても優れた女性になると思っていたが、息をするのを忘れてしまうくらい想像を上回っていた。
僕が一年四組であるのに対して、ギーナは五組であり、隣の教室のクラスであった。彼女は抜きん出た美貌と、男女問わず臆することなく接する性格から人気者だった。たとえ、あの昼休みに彼女を見かけていなかったとしても、彼女の存在は僕の耳に入っていたことだろう。
彼女のことはギーナだと、ひと目で気づいた。けれども、僕が彼女に声をかけることはなかった。一方的な再会である。
あの日以降も何度か彼女を見かけることがあったが、僕は同じことを繰り返した。あの頃とは違って、僕はもう分不相応という言葉を知っていたのだ。
僕は運動も勉学もルックスも並の、どこにでもいる平凡で冴えない人間だった。学校での僕の存在は、「中の影」「中の薄」「エリート・モブ」といったところだろうか。柳渚の名は聞くことがあっても、僕の名はクラスメイトくらいしか知らない。彼らでさえも、全員が僕の名前を把握しているかは甚だ疑問である。そんな僕ごときでは、彼女とは不釣り合いだったのだ。
それに、僕は彼女と交わした約束を破った男である。彼女にとって、あの夏のことは嫌な思い出、忘れてしまいたい出来事として残っているのかもしれない。下手したら、恨まれている可能性だってある。それなのに、いったいどの面下げて声をかけるというのだ。
あの頃と違うのは、何も僕だけではない。ギーナは一年一組のサッカー部に所属するイケメン、氷室飛河と仲が良く、彼と一緒にいるために彼と同じ高校を受験したという噂があった。既に交際しているのではないかという話さえもあった。
「学年四天王といっても、オレたちには関係ないね。はるか雲の上の存在、イケメン限定。ワンチャンもない、まごうことなき、ノーチャン。オレたち雑魚は拝めるだけありがたく思えってことさ」
同じクラスの男友達が、ギーナについて話していた。
彼の言う通り、僕とギーナでは始めから住む世界が違う。たとえ、同じ高校にいる二人でも、僕とギーナとの間には何千・何万キロメートルもの近づけない距離がある。あの頃は、それに気づいていなかっただけだ。
彼の言葉に、僕は「そうだね」と笑って頷くことしかできなかった。
結局、ギーナと一度も言葉を交わすことのないまま、二学期へと突入した。
このまま話すこともなく、赤の他人として時が流れるのだと思っていた。
だが、僕は意外な形で、彼女と関わることになる――。
十月の始めに開催される高校の文化祭。それに向けて、クラスの文化祭実行委員を決めることになった。運のない僕はジャンケンに負け、文化祭実行委員に選ばれてしまった。
文化祭実行委員は各クラス男女一名ずつである。たとえ強制的に与えられた役割だとしても、クラスの代表として選ばれた限りは、もう一人の実行委員と協力して文化祭に貢献しなければならない。同じくジャンケンに負けて選ばれた女子側の代表は、笹塚という人前が苦手そうな物静かなクラスメイトであった。彼女は選出後の週明け、僕にあることを提案してきた。各クラスの実行委員に割り当てられる担当の仕事を、隣のクラスである五組と同じものにしてほしいとのことだ。
僕が笹塚にその理由を尋ねると、彼女はもじもじとしながら五組の男子の実行委員の名前を挙げ、僕は納得した。笹塚が五組の檀野と交際しているという話は聞いたことがあり、彼女の挙げた名が彼であったからだ。
おそらく、檀野は笹塚が実行委員になったことを知り、彼女のために実行委員に立候補したのだろう。いい男だ。何はさておき、笹塚の提案が「キモいキミと二人で働きたくないから」とかいう、膝から崩れ落ちたくなる理由ではなくて何よりであったが。
そういうわけで、僕は笹塚の申し出を承諾し、五組の実行委員と一緒に仕事をする見通しとなった。笹塚と檀野が常に行動をともにするので、僕は隣のクラスの女子といる時間が多くなるに違いない。五組の選ばれた女子が誰だかは知らなかったが、別に誰と仕事をしてもよかったし、特段やりたい仕事があったわけでもなかったので、何でも構わなかった。
その日の放課後、空き教室で顔合わせを兼ねた最初の委員会があり、僕は間抜けに口を半開きにしてしまう。五組のもう一人の実行委員は、ギーナだったのだ。
「はじめまして、よろしく」
先にギーナのほうから僕に話しかけてきた。
「よっ……よろしく」
僕は精いっぱい平静を装って、言葉を返した。予想はしていたが、彼女は僕があの夏に会ったギーラだということに気づいていない様子であった。
「渡辺くん、だよね? 渡辺くんはあだ名とかある?」
「い、いや、特にないよ」
僕は大きく首を横に振った。彼女の口元のホクロが、あの頃にはなかったチカラを発揮していて、脇汗が止まらなかった。
「えー、渡辺だったら『ナベ』とか呼ばれていそうなのに」
「……それは既にいるんだよね」
「え、いるって?」
「僕のクラスには渡辺が二人いるから、イケイケなほうの渡辺が『ナベ』で、僕が『渡辺くん』ってわけ」
同じ名前がいれば、親しみの込められたあだ名は譲る。冴えないモブの宿命だ。
「ふふっ、なるほどね。ある意味、『渡辺くん』があだ名ってわけか」
「まっ、まあ、そういうことだね。好きに呼んでいいよ」
「そう? なら、とりあえず『渡辺くん』にしておく」
「お、オッケー」
親しみを込めて「ギーラ」と呼んでほしい――そんな言葉は喉から出なかった。
僕が中学三年生の時に、父さんの二度目の浮気が発覚した。両親は僕が高校に進学する時期に合わせて離婚を成立させ、僕は母方の姓である「渡辺」を名乗るようになった。今の高校には中学生の時に同級生だった人もいないので、僕が高校で「ナギ」と呼ばれることはない。もちろん、「ギーラ」と呼ばれることも。
あの頃から名前が変わっただけでなく、身体は成長し、声変わりもしている。僕がギーラだと、気づけというほうが無理というものだ。
その日の委員会では各クラスの役割を決める話し合いがあり、笹塚と檀野の目論見通り、四組と五組は同じ管材係となった。
話し合いの合間、笹塚が檀野の隣で談笑していた。クラスでは見せたことのない乙女の顔だ。
「当日も、ずっと二人で行動するのだろうね」
僕は彼らの別世界の光景を見ながら、ギーナに話しかけた。二人で行動とは、もちろん、仕事がない時間帯も含めてである。
「それはそうよ。しっかり、文化祭の最後までね。花火の逸話もあるし」
「……花火の逸話って?」
「知らない? 文化祭最終日に、すぐ近くの公園で花火大会があるでしょ。その花火が上がった時にキスをすると、永遠に結ばれるって話があるのよ」
「……そうなんだ。初めて聞いたよ」
――いや、似たような話ならば聞いたことがある。
あの夏に母さんから聞いたものと同じ、僕が約束を破った夏祭りにもあった話だ。
文化祭二日目に花火大会があること自体は知っていた。学生が各々で楽しむであろう後夜祭の時間帯に始まり、テレビでも中継される有名な花火大会だ。
しかし、ギーナが話すような逸話があることは初めて聞いた。もともとその手の話には疎いほうなので、知らない自分が少数派なのだろう。リア充イベントには、カップル向けの逸話が欠かせないというわけだ。
――ギーナは、誰と見るのだろう?
関係が噂されている氷室飛河と一緒に、文化祭を見て回るのだろうか。彼の隣で花火を観覧し、口づけを交わすのだろうか。
――きっと、そうだ。
――少なくとも、僕ではない。
彼女を誘うなど、もっての外である。そんな資格は、僕にはない。
僕にできることは、ギーナの隣を独占する男が彼女を一人にしないことを祈るくらいだ。
あの夏の僕のように、彼女を裏切らないようにと。
ギーナがあの日の僕を責めているような気がして、僕は彼女から目を逸らした。