吾輩は猫である。名前はまだ無い。――と、物語を始める猫がいれば、あなたはその獣を、猫になった元人間、それも日本人であると疑ったほうがいい。
僕は猫である。猫になってから日が浅い新米猫だ。猫としての名前はまだ無いが、人であった頃は柳楽祐輔、両親が離婚してからは渡辺祐輔と名乗っていたと、今でも確かに覚えている。
「こんにちは、猫さん」
猫である僕は、一人の人間の女性に話しかけられた。
「今日も学校に来たのね。猫さんはうちの学校の生徒になりたいのかな? それとも、私に会いたかったのかな?」
僕は軽快な足取りで彼女に近づき、「にゃー」と返事をする。
「まあ、嬉しい」
彼女はしゃがみ、僕の背中を毛並みに逆らわずに優しく撫でた。
僕は彼女のことを知っている。名前は柳渚。この学校の女子生徒で、一年生である。猫のくせに彼女のことを語ることができるのは、僕もこの学校の生徒だったからだ。
渡辺祐輔と同学年であり、五組の恋人にしたい女子ナンバーワンであり、学年四天王の一人。瞳が大きく、猫とは違い日向だろうと日陰だろうと目がくりっとしており、いつだって笑顔を絶やさない。口元には小さなホクロがあり、可愛さのうちに色気も秘めている、そんな女性だ。
「それにしても、猫さんはどうやって屋上まで来ているのかな?」
彼女が首をかしげた。
校舎裏には一本の立派な樹木が生えており、そこから飛び移って校舎の屋上まで行くことができる。猫の僕にはお茶の子さいさいだ。今のところ、それ以外にここまで登る術は発見できていない。この巨木は学校で兄弟木と呼ばれているが、片割れは既に切り株となっており、僕はその登り心地を知らない。木々を通して猫同士が見つめ合い、恋が始まるなんてことも、僕には無縁というわけだ。
しかし、校内に侵入していることを人間の大人たちに知られてしまえば、僕は首根っこを捕まれて、つまみ出されることだろう。生徒たちの間だけで広まれば、噂となって人気者になる可能性もあるが、どちらにせよ、祐輔ではありえなかったことだ。
ちなみに、ここで柳渚と会うのは今日で二回目である。もちろん、猫になってからの話であり、冴えない男子生徒であった頃は、屋上で二人きりという状況になったことは一度もない。
と、彼女が僕の顎の下に手を入れ、小虫を走らせるようにわさわさと掻き撫でた。
もっとナデナデしてと、僕は顎を突き出して目を閉じる。おでこを撫でられるよりも、こっちのほうが気持ちいい。猫のことをよくわかっていらっしゃる。
彼女が僕の顎の下や喉を掻きながら、もう片方の手で、おでこから首裏辺りまで撫でてくれる。うん、やっぱりそれも悪くない。
夢心地の中、僕はふと人間の姿をしていた頃を思い出す。僕が猫に対して頭を撫でることは、余裕でできる。けれど、人間の女性に対しては、絶対に無理。柄じゃないし、プロボクサーのパンチよりも重い「キモい」の一言が、僕の脳を揺らすことになるだろう。顎クイなんて、もっての外だ。
乙女の至福を、猫になって堪能する……ちょっと、違うか。
「誰かに見られると、ここから追い出されちゃうね」
彼女が耳裏の付け根もくすぐるように掻いてくれる。
そんなヘマはしないし、させないよ。
「猫さんは、本当にカワイイね」
キミもカワイイよ――と言ってあげたいところだが、僕は猫だから、言わないし言えない。
と、校内にチャイムが響き渡った。昼休み終了の五分前を告げる鐘だ。
「もう行かなくちゃ。猫さんも一緒に授業を受ける?」
柳渚が立ち上がり、僕に問いかけてきた。
だけど僕は、そっぽを向いて日向へと足を向ける。
僕は猫だから、授業は受けない。
――キミも真面目だなあ。僕みたいにさぼって、僕と昼寝をすればいいのに。
振り向きざまに言ってやったが、喉から出た言葉は先ほどと変わらぬ、「にゃー」という猫の鳴き声でしかなかった。
「じゃあね、猫さん。明日も来るから、待っていてね」
僕の鳴き声を別れの挨拶と捉えたのか、柳渚が小さく手を振る。そんな彼女をチラリと見つつ、僕は初秋の爽やかな日差しが照らす場所を見つけ、陽だまりに身を預けた。
一年生のアイドル的存在である柳渚との約束。人間の思春期の男子ならば、犬のようにしっぽを振って、明日も必ずここに来るのだろう。だけど、僕は猫だから、足を運ぶか運ばないかは気分次第。猫は総じて、気まぐれな生き物なのである。
よっしゃ、明日も来よう。
気がつくと猫になっていた。人間であった頃の記憶を丸ごと残して。
人であった時の最後の記憶を辿れば、このような状況になったことに納得できないこともなかった。
だけど、なぜ猫?
猫を助けたから?
それとも、昔に「猫になりたい」と口走ったから?
理由はわからないが、ともかく、どうやら僕は見かけが一歳か二歳くらいの若い猫のようであり、明るい灰色に黒色の縞が入った、サバトラ模様の可愛げのある獣であった。
猫となった僕がまずしたことは、知り合いの猫――自宅のマンションで飼っている猫のゴロネを訪ねることだった。
「なーご(へぇ、お前、わっぱなのか。昨日から帰ってこねーと思っていたけどよ、転生したんか? 知らんけど)」
「にゃあにゃ(まあ、そんなもんだよ、多分。知らんけど)」
僕は出窓越しに答える。どうやら、僕は飼い猫にわっぱと呼ばれていたらしい。
「ぅなーご(前世の記憶が残った猫も稀にいるけどよ、まさか知っている人間、それもわっぱがオレ様たちの側になるとはな)」
野太い声で鳴く猫の先輩、ゴロネ。長方形の肉の塊にちょこんと顔が引っ付いたように、でっぷりと太った白猫。今年で六歳となるおっさん猫である。いつも出窓から外を眺めているため、人間界の近所ではふてぶてしい表情のデブ猫がいると有名だ(後に猫として町を回ってみてわかったことだが、ゴロネは猫界の近所でもヤベェ強そうな巨漢猫として有名であった)。
「うー、なーご(けどよ、気をつけな。神様に人間であった頃の記憶があるってバレちまうと、確実に消されるぜ)」
「にゃあ?(消されるって、どういうこと?)」
「ぅなー、なー(さあ? とりあえず、バレた猫は二度と姿を見せないって話だぜ、知らんけど)」
ゴロネが前足で顔をこすりながら答える。そこは「知らんけど」だと困るのだが。
「なーごぅ、なご(オレ様から言えるのは、神様に目をつけられたくなきゃ、猫らしくない行動は取らないほうがいいんじゃね、ってことだ。オレ様を見習ってな」
「……にゃあ(猫らしくない行動、ね)」
猫を飼っていたので、猫の振る舞いはわかるほうである。これからは飼い猫が師匠となるわけだ。
「なーぅ、にゃーご、ぅなー(オレ様たち猫は神様に消されないように、猫らしく、欲望に忠実に生きているんだぜ。眠たいときに寝る。腹が減ったら、飯をねだる……ってな。オレ様だって、人間のために飯を取ってきてやろうかなって、たまには考えるけどよ、神様に消されたくないから、仕方なく、仕方なくオレ様は、何も仕事をしないんだぜ)」
「にゃー(へー、そうなんだ)」
と僕は納得してみせる。オレ様は本気を出していないだけ、と言いたいのだろう。知らんけど。
「ぅなーご、にゃご(まあ、頑張れや、わっぱ。マダムにはオレ様がいるから、心配すんな。わっぱは自分のことだけを考えて、猫の世界を楽しめ。猫らしくな。知らんし、眠いけど)」
ゴロネが大きく口を開けてあくびをした。
マダムとは僕の母、渡辺今日子のことに違いない。半年前に母さんが父さんと離婚し、それからはこの1LDKのマンションの一階で、二人と一匹で暮らしている。
母さんにはこんなことになってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいである。ゴロネは何も仕事をしないと言ったが、彼は母さんの心の癒しになってくれている。それでこそ、家族。充分すぎる、ありがたい仕事だ。
僕が猫となって二週間あまりが経った。僕は今日も通っていた高校の屋上に来ていた。
「ねぇ、知っている? うちの高校でね、もうすぐ文化祭があるのよ」
僕の隣に足を崩して座る柳渚が話しかけてくる。もちろん、知っている。今週末の土日の二日間を利用して開催される、二学期の大きな行事の一つだ。
「うちのクラスは金魚すくいをするのよ。猫さんにとっては、飲食のお店ね。猫さんも来る?」
彼女の問いかけに対して、僕は毛繕いをやめて彼女を見上げる。ごちそうが大量に泳ぐ光景は、想像するだけでよだれが垂れ落ちそうだが、人混みが嫌なので出向くつもりはない。渡辺祐輔の姿であれば、大気と親友になれるくらい目立たずに紛れることができるだろうが、猫となるとそうもいかないのだ。
「ダーメ。猫さんが金魚をくわえている姿なんて、見たくないっ。もしそんなことしちゃったら、私は犬派に鞍替えするからね」
僕が行きたそうにしていると捉えたのか、彼女が頬を膨らませて怒ったような表情を見せた。
「でも、猫さんはそんな悪いことはしないよね? 悪いことはしない、おとなしい男の子」
表情を緩めて、僕に顔を近づけてくる。僕はとりあえず、「にゃー」と答えておいた。
「……それとも、お転婆な女の子?」
これに対しては、じっと黙っておく。
「オネエの子」
「……にゃあ」
と返事しておく。
言っておくが、僕は決してオネエではない。人間の言葉に正直に答えていると、神様に目をつけられる危険性がある。神様に人間であった頃の記憶が残っているのではないかと疑われ、消されてしまわないように、今は対策を講じておく必要があるのだ。
「よしっ、じゃあ猫さんは、突然興奮しだす腐女子にしよう!」
……なぜ、そうなった?
「ふふ、冗談。男の子でしょ? こっそり見たから、わかるよ」
……見た?
見たって、何を?
……肛門?
僕はしっぽを振りながら、彼女から離れた。
……オスとして、大事な何かを失った気がする。
「あっ、怒った? 待ってよー」
僕が伏せた場所まで、彼女が追っかけてきた。尻を向けていじける僕の背中を、優しく撫でてくれる。
「いつも触らせてくれて、ありがとうございます」
そう言って、今度は僕の喉をくすぐってきた。そうされると、気持ちよくて何でも許したくなってしまう。僕は単純な猫だ。
「……なんだか、懐かしい。あの夏を、思い出すな……」
聞こえてはいたが、無関係を装って彼女の手に頭を委ねた。
僕はキミのことを知っている。
だけど、僕は猫だから、素知らぬふりしかできない。
でもそれは、猫になる前も同じだ。
僕が柳渚と初めて会ったのは小学五年生の夏、夏休みを利用して祖父母の家に来ていた時のことだった。
僕と母さんに飼い猫のゴロネを加えた、二人と一匹による訪問。この頃はまだ両親が離婚しておらず、僕の姓も柳楽であった。それにもかかわらず、父・柳楽義信のいない滞在となったのは、祖父母にお世話になる理由が彼自身にあったからである。父さんの浮気が発覚したのだ。
つまり、父さんの不貞行為に対して怒り心頭に発した母さんは、ちょうど僕の夏休みが重なったこともあって「実家に帰らせてもらいます」と、僕たちを連れて同県にある祖父母の家へと向かったわけだ。ただし、実家は実家でも、父さんのほうの実家である。これには、母さんが彼らと仲が良かったということもあるのだろうが、父さんの逃げ場をなくす意味も込められていたのだろう。お前に味方はいないんだぞ、という気の強い母さんらしい、末恐ろしい圧力である。
父方の祖父母の家は、田んぼや空き地が町の所々に見られる僕の住む町よりも田舎な場所にあり、僕はゴロネをお供に近所を探検した。小学生が白ヤギを連れていると近所で噂されるほど、この頃から既にぶくぶくと太っていたゴロネであったが、生粋の家猫であり、外に出しても全力疾走で帰宅してしまう小心者であった。なので、僕がゴロネを抱きかかえて外を歩き、ある程度の距離を進んだところで、ゴロネを下ろしてともに家までダッシュする、というのを繰り返した。ゴロネのダイエットをしているつもりで、僕自身のトレーニングをしていたわけだ。
ゴロネについて、もう少し話そう。ゴロネは外の世界に対しては臆病なくせに、他の猫に対しては強気であった。子猫を見かけたときには、野生の本能をむき出しにして追っかけ回したこともあった。僕が祖父母の家に来て二日目のことである。
ゴロネの追走は、人間に置き換えればプロレスラーが小学生を追いかけるようなものであり、さぞかし子猫は恐怖を覚えたであろう。追いつめられた子猫は、空き地へと逃げ込み、一軒家ほどの高さのある木を登ることで、辛くも難を逃れた。肥えすぎたゴロネでは、木に飛びついたところで不格好にズデンと落ちるしかなかったということだ。
僕は興奮するゴロネを抱えて強制的に祖父母の家まで連れていき、そのあとすぐに子猫の様子を確認しに戻った。子猫は木の上でうずくまり、か細い声で鳴いていた。下りられなくなったわけである。僕んちのバカ猫がごめんよ、と心の中で謝りつつ、僕はすぐさま木を登り、子猫を助け出した。当時は友達と秘密基地ごっこをすることに熱中しており、たびたび公園の木に登る遊びをしていたので、木登りは身軽な成猫並に得意であったのだ。
あの頃の経験は、猫となった今の僕にしっかりと活かされている。猫になる以前から、木登りと高い場所は好きだったわけだ。むしろそのせいで、猫となってしまったのかもしれない。まあそれだと、猿になっていた可能性もあるわけだが。
ゴロネに振り回されながらも、僕は田舎での夏休みをそれなりに満喫していた。
そんなある日のこと、ゴロネを抱える道中、僕は突然に声をかけられた。
「おっきな、猫さん! なんて名前?」
声のしたほうを振り向いて、僕は衝撃を受けた。
そこには、天使のような愛くるしい容姿の女の子がいたのだ。
ほっぺをほんのりと赤らめ、宝物でも眺めるかのように、大きな瞳をこれでもかと輝かせた女子。田舎にはこんなかわいい子がいるのかと、自分の通う学校を呪いたくなるほどの美少女だった。
「……ゴロネ」
僕は少女の放つ圧倒的眩しさに彼女を直視できず、ぶっきらぼうに返事をすることしかできなかった。
「ゴロネちゃんね! 撫でてもいい?」
「……うん」
「ほんと? ありがとう!」
少女が無邪気に歯を見せて笑い、僕は顔が熱くなった。
彼女は僕と同い年の地元の女の子であり、無類の猫好きだった。母親が猫アレルギーのため自宅では猫を飼えないそうであり、僕が夏休みと父さんの過ちを利用して祖父母の家に来ていることを話すと、猫に会うために家まで遊びに来てもいいかと訊いてきた。この頃の僕は、素直ではなかったものの、身の程をわきまえない子どもであった。なので、僕は彼女のお願いに対して「いいよ」と言葉を返し、そしてその日から、僕の所へ女の子が遊びに来るようになったのだ。
ナギラ・ユウスケとヤナギ・ナギサ――僕たちはお互いの名前を教え合い、学校でのあだ名が二人とも「ナギ」であることを知った。あだ名が同じなど、今にして思えば些細な共通点である。だが、幼い僕たちは大いに盛り上がり、すぐに仲良くなった。僕たちは喧嘩にならないように、僕は彼女のことを「ナギ」を逆さまから読んで「ギーナ」、彼女は僕のことを「ナギラ」の「ナ」を取って「ギーラ」と、二人だけの名で呼び合った。
僕はギーナと遊ぶのが毎日の楽しみとなった。ギーナと会う度に、味わったことのないポカポカした気持ちを知ったのである。彼女はゴロネを撫でるために来ていたが、僕が一緒にゲームしようと言えば、僕とゲームをし、アニメ観ようと言えば、僕の隣で観てくれた。彼女の心を射止めていたのはゴロネであったが、僕も満更ではないのではないかと、嬉しくて頭を掻いたものだ。
「ワタシね、大きくなったらペットショップのお店の人になりたいの。動物たち、特に猫さんとお仕事がしたいんだ」
ある日、ギーナがゴロネを抱きかかえながら、僕に教えてくれた。
「ギーナらしいね」
「でしょ? ギーラはなりたいものとかある?」
「ボク?」
僕は返答に困った。僕の強いてあげられる将来の夢は「お金と時間が自由に使える仕事をする」であり、具体的にやりたいことやなりたいものはなかったのだ。
「……猫になりたい」
「えっ?」
「……あっ、な、なんでもないっ!」
僕は慌ててごまかした。ギーナに抱きしめられているゴロネを見て、思わず口走ってしまったのだ。
ギーナに、ギュッとされたい――なんて、恥ずかしい……。
僕は彼女の顔をまともに見られなかった。
さらにこの日、僕はギーナから三日後に近くの神社で夏祭りがあることを聞かされた。
「お祭りのある神社から、花火が見えるんだって」
それを聞いた僕は、思わず声を上げた。
「一緒にお祭りに行こう! ボクも花火、見たいっ!」
僕にしては、珍しく素直だった。僕は一度も打ち上げ花火を見たことがなく、経験者のクラスメイトの自慢話を聞いて、ずっと憧れていたのだ。
「うん、ワタシも見たいっ!」
ギーナが満面の笑みで、嬉しそうに答えた。僕はそれを見て、これがゴロネなしで二人で会う初めての約束だと気づき、急に恥ずかしくなった。
夜になって母さんに夏祭りの話をすると、母さんはニヤニヤしながら僕をからかった。
「そのお祭りにはね、花火が上がった時にキスをすると、永遠に結ばれるって話があるそうよ。やーい、マ・セ・ガ・キっ!」
母さんの話を聞いて、僕は全身がカッと熱くなった。ただ純粋に花火を観賞したかっただけであり、そのような話があるなんて、一切知らなかった。やましい気持ちなんて、まるでなかったのだ。おまけに祖父母たちにまで「かわいいガールフレンドがいるんだね」と冷やかされ、僕はゴロネが驚いて逃げ出すほどリビングのドアを乱暴に閉め、部屋に一人閉じこもった。
――あんな約束、するんじゃなかった。
僕は後悔しつつ、その日はふて寝した。
だが結局、ギーナとの約束は果たされることなく、夏は終わる――。
夏祭りの前日、父さんが入院し、自宅に急遽帰ることになった。階段で足を踏み外し、両足を骨折したとのことだ。祖父母も含めた全員で父さんのもとへ行くことになったので、僕一人だけが祖父母の家に残るという選択肢はなかった。僕はギーナの家も連絡先も知らなかったので、彼女との約束を一方的に無断で破るしかなかった。
自宅へと向かう車中、終始不機嫌であったことを、僕は今でも覚えている。母さんは父さんに対して「バチが当たったのよ」とか「私の心のほうが複雑骨折しているんだから」とか愚痴を言っていたが、僕は特に文句を言わなかった。急な帰宅を謝る母さんに対し、「別に、いいよ」と答えて、いじけることしかできなかった。
――僕が約束を破ったことを知ったら、ギーナはどう思うだろう。
夏祭りに行くのをやめるのか。
それとも、夏祭りに行って、一人で花火を見るのだろうか。
僕に対して「嘘つき」と、カンカンに怒るのだろうか。
泣いて、悲しむのだろうか。
あの小動物のようなまん丸の瞳から、大粒の涙をこぼして。
そんなことを考えていると、自分のことが心底、嫌になった。
なんにしたって、ギーナと会うことは、もう二度とない――。
僕が寝てしまおうと目を瞑ると、車内がガタッと揺れ、涙がポタリと落ちた。
ほろ苦い夏からあっという間に月日が経ち、僕は高校生となった。
そして僕は、二度と会うことがないと思っていたギーナと再会した。
それは高校に入学してまだ間もない四月。昼休みの時間を利用して仮眠を取っていた時のことだった。僕は一階にある教室の窓際の自分の席で、うららかな春の日差しのもと、日光浴をする猫のように気持ちよく寝ていた。
春の匂いがする――僕は誘われるように、寝ぼけ眼のまま何気なく外に目をやった。
すると、女子生徒が通り過ぎて――僕の眠気は、ぶっ飛んだ。
春の嵐が直撃したかのような衝撃。僕が猫であれば、尻尾を踏まれたかのように、飛び上がって驚いていたことだろう。
一瞬のことだったが、間違いなかった。
ギーナだ。
彼女はますます魅力的な女性になっていた。もともと愛らしい容姿をしていたので、成長しても優れた女性になると思っていたが、息をするのを忘れてしまうくらい想像を上回っていた。
僕が一年四組であるのに対して、ギーナは五組であり、隣の教室のクラスであった。彼女は抜きん出た美貌と、男女問わず臆することなく接する性格から人気者だった。たとえ、あの昼休みに彼女を見かけていなかったとしても、彼女の存在は僕の耳に入っていたことだろう。
彼女のことはギーナだと、ひと目で気づいた。けれども、僕が彼女に声をかけることはなかった。一方的な再会である。
あの日以降も何度か彼女を見かけることがあったが、僕は同じことを繰り返した。あの頃とは違って、僕はもう分不相応という言葉を知っていたのだ。
僕は運動も勉学もルックスも並の、どこにでもいる平凡で冴えない人間だった。学校での僕の存在は、「中の影」「中の薄」「エリート・モブ」といったところだろうか。柳渚の名は聞くことがあっても、僕の名はクラスメイトくらいしか知らない。彼らでさえも、全員が僕の名前を把握しているかは甚だ疑問である。そんな僕ごときでは、彼女とは不釣り合いだったのだ。
それに、僕は彼女と交わした約束を破った男である。彼女にとって、あの夏のことは嫌な思い出、忘れてしまいたい出来事として残っているのかもしれない。下手したら、恨まれている可能性だってある。それなのに、いったいどの面下げて声をかけるというのだ。
あの頃と違うのは、何も僕だけではない。ギーナは一年一組のサッカー部に所属するイケメン、氷室飛河と仲が良く、彼と一緒にいるために彼と同じ高校を受験したという噂があった。既に交際しているのではないかという話さえもあった。
「学年四天王といっても、オレたちには関係ないね。はるか雲の上の存在、イケメン限定。ワンチャンもない、まごうことなき、ノーチャン。オレたち雑魚は拝めるだけありがたく思えってことさ」
同じクラスの男友達が、ギーナについて話していた。
彼の言う通り、僕とギーナでは始めから住む世界が違う。たとえ、同じ高校にいる二人でも、僕とギーナとの間には何千・何万キロメートルもの近づけない距離がある。あの頃は、それに気づいていなかっただけだ。
彼の言葉に、僕は「そうだね」と笑って頷くことしかできなかった。
結局、ギーナと一度も言葉を交わすことのないまま、二学期へと突入した。
このまま話すこともなく、赤の他人として時が流れるのだと思っていた。
だが、僕は意外な形で、彼女と関わることになる――。
十月の始めに開催される高校の文化祭。それに向けて、クラスの文化祭実行委員を決めることになった。運のない僕はジャンケンに負け、文化祭実行委員に選ばれてしまった。
文化祭実行委員は各クラス男女一名ずつである。たとえ強制的に与えられた役割だとしても、クラスの代表として選ばれた限りは、もう一人の実行委員と協力して文化祭に貢献しなければならない。同じくジャンケンに負けて選ばれた女子側の代表は、笹塚という人前が苦手そうな物静かなクラスメイトであった。彼女は選出後の週明け、僕にあることを提案してきた。各クラスの実行委員に割り当てられる担当の仕事を、隣のクラスである五組と同じものにしてほしいとのことだ。
僕が笹塚にその理由を尋ねると、彼女はもじもじとしながら五組の男子の実行委員の名前を挙げ、僕は納得した。笹塚が五組の檀野と交際しているという話は聞いたことがあり、彼女の挙げた名が彼であったからだ。
おそらく、檀野は笹塚が実行委員になったことを知り、彼女のために実行委員に立候補したのだろう。いい男だ。何はさておき、笹塚の提案が「キモいキミと二人で働きたくないから」とかいう、膝から崩れ落ちたくなる理由ではなくて何よりであったが。
そういうわけで、僕は笹塚の申し出を承諾し、五組の実行委員と一緒に仕事をする見通しとなった。笹塚と檀野が常に行動をともにするので、僕は隣のクラスの女子といる時間が多くなるに違いない。五組の選ばれた女子が誰だかは知らなかったが、別に誰と仕事をしてもよかったし、特段やりたい仕事があったわけでもなかったので、何でも構わなかった。
その日の放課後、空き教室で顔合わせを兼ねた最初の委員会があり、僕は間抜けに口を半開きにしてしまう。五組のもう一人の実行委員は、ギーナだったのだ。
「はじめまして、よろしく」
先にギーナのほうから僕に話しかけてきた。
「よっ……よろしく」
僕は精いっぱい平静を装って、言葉を返した。予想はしていたが、彼女は僕があの夏に会ったギーラだということに気づいていない様子であった。
「渡辺くん、だよね? 渡辺くんはあだ名とかある?」
「い、いや、特にないよ」
僕は大きく首を横に振った。彼女の口元のホクロが、あの頃にはなかったチカラを発揮していて、脇汗が止まらなかった。
「えー、渡辺だったら『ナベ』とか呼ばれていそうなのに」
「……それは既にいるんだよね」
「え、いるって?」
「僕のクラスには渡辺が二人いるから、イケイケなほうの渡辺が『ナベ』で、僕が『渡辺くん』ってわけ」
同じ名前がいれば、親しみの込められたあだ名は譲る。冴えないモブの宿命だ。
「ふふっ、なるほどね。ある意味、『渡辺くん』があだ名ってわけか」
「まっ、まあ、そういうことだね。好きに呼んでいいよ」
「そう? なら、とりあえず『渡辺くん』にしておく」
「お、オッケー」
親しみを込めて「ギーラ」と呼んでほしい――そんな言葉は喉から出なかった。
僕が中学三年生の時に、父さんの二度目の浮気が発覚した。両親は僕が高校に進学する時期に合わせて離婚を成立させ、僕は母方の姓である「渡辺」を名乗るようになった。今の高校には中学生の時に同級生だった人もいないので、僕が高校で「ナギ」と呼ばれることはない。もちろん、「ギーラ」と呼ばれることも。
あの頃から名前が変わっただけでなく、身体は成長し、声変わりもしている。僕がギーラだと、気づけというほうが無理というものだ。
その日の委員会では各クラスの役割を決める話し合いがあり、笹塚と檀野の目論見通り、四組と五組は同じ管材係となった。
話し合いの合間、笹塚が檀野の隣で談笑していた。クラスでは見せたことのない乙女の顔だ。
「当日も、ずっと二人で行動するのだろうね」
僕は彼らの別世界の光景を見ながら、ギーナに話しかけた。二人で行動とは、もちろん、仕事がない時間帯も含めてである。
「それはそうよ。しっかり、文化祭の最後までね。花火の逸話もあるし」
「……花火の逸話って?」
「知らない? 文化祭最終日に、すぐ近くの公園で花火大会があるでしょ。その花火が上がった時にキスをすると、永遠に結ばれるって話があるのよ」
「……そうなんだ。初めて聞いたよ」
――いや、似たような話ならば聞いたことがある。
あの夏に母さんから聞いたものと同じ、僕が約束を破った夏祭りにもあった話だ。
文化祭二日目に花火大会があること自体は知っていた。学生が各々で楽しむであろう後夜祭の時間帯に始まり、テレビでも中継される有名な花火大会だ。
しかし、ギーナが話すような逸話があることは初めて聞いた。もともとその手の話には疎いほうなので、知らない自分が少数派なのだろう。リア充イベントには、カップル向けの逸話が欠かせないというわけだ。
――ギーナは、誰と見るのだろう?
関係が噂されている氷室飛河と一緒に、文化祭を見て回るのだろうか。彼の隣で花火を観覧し、口づけを交わすのだろうか。
――きっと、そうだ。
――少なくとも、僕ではない。
彼女を誘うなど、もっての外である。そんな資格は、僕にはない。
僕にできることは、ギーナの隣を独占する男が彼女を一人にしないことを祈るくらいだ。
あの夏の僕のように、彼女を裏切らないようにと。
ギーナがあの日の僕を責めているような気がして、僕は彼女から目を逸らした。
僕が猫となって迎える九月最後の日のこと。いつものように高校の屋上へと行くために校舎裏の樹木を登っていると、背後から声をかけられた。
「わっ!」
ハスキーな女性の声だった。突然のことに、僕の全身の毛が逆立った。
「どうです、驚きましたか? 驚きましたよね?」
声の先には、ふわふわと宙に浮く人間の姿があった。
肉体のない魂だけの存在――霊である。
あまりのことに、危うく樹木から落ちてしまうところだった。予想外の場所から大声を出されれば、相手が霊だろうと何だろうとドキリとするものである。霊とは関係なしに噛みついてやりたいものだ。
猫の視界に広がる世界は、人間とは必ずしも一致しない。もし、自宅で飼う猫が何もない空間をじっと見つめていたら、我が家には霊が住んでいるのだと戦慄すべきだろう。
「可愛らしいニャンコさんですね。お散歩ですか?」
僕に話しかけてきた霊は、年齢が三十歳代くらいに見える丸顔の女性だった。血色が良く、ぽっちゃり体型で空中を漂う姿は、なんとなく風船を連想させる。彼女の名は柴原洋子とのことで、一昨年までこの学校の教師をしていたそうだ。
「その日は、朝方まで期末テストを作成していたので、寝不足でした。ですから、普段はマイカー通勤のところを、安全を取ってタクシーで学校へと向かったのです。それが運の尽きでしたね。車内で眠ったのを最後に、気がつくと学校にいました。人には見えない幽霊の姿でね」
僕が人間の言葉を理解できることを知ってか知らでか、柴原先生が一方的に身の上話を進める。
「同僚や生徒たちの様子から、私は自分が死んでしまったことを知りました。飲酒運転の対向車に突っ込まれてしまったみたいですね。私以外の人は命に別状はなかったようなので、不幸中の幸いでしたが」
柴原先生がショートボブの髪を触りながら僕に語りかける。二年前だと、まだ僕がこの高校にいない頃の話である。三年生の先輩や当時を知るであろう教師からも伝わっていない、初めて聞く話だ。
「私の受け持った生徒たちは、当時一年生でした。あれからもう二年が経ち、彼らも三年生です。月日が経つのは早いものですね。私は幽霊となったあの日から、今もこうして生徒たちを見守っています。何もできないのだとわかってはいますが、それでも、そばにいたいのですよ」
そう言って、彼女が僕の額をわしゃわしゃと撫でた。
「ごめんなさい、私の話ばかりしてしまいましたね。たまに、私のことが見える存在が恋しくなるのですよ。最近、悲しい事故があったばかりですから……」
彼女の撫でる手に答えるように、僕は目を瞑る。僕を驚かせた仕返しに噛みついてやろうと思っていたが、許してあげよう。
「……ああ、いけませんでした。私の姿は生きている人には見えませんから、今のあなたは変に映っているかもしれませんね。霊媒師でも呼ばれて、成仏させられたくはありませんし、神様が見ていらっしゃったら、あの世に連れていかれるかもしれません」
彼女の手がそっと僕から離れる。誰も見ていないし、神様だってその程度ならば許してくれるだろうから、やめなくてもいいのに。
僕も柴原先生と同じ、猫らしくないことをしたり、人から見てありえない超常現象を起こしたりすれば、神様に消される可能性がある。そんなことができるのかどうかはわからないが、人としての記憶がある僕は、神様が猫という種族に許していない行動は絶対に控えるべきなのだろう。
――だけど、僕にはやらなければならないことがある。
たとえ、神様に消されるのだとしても、それでも――。
「ところで、ニャンコさんには子どもがいますか?」
「にゃー(いないし、縁がない話だよ)」
柴原先生の問いに、僕は元気よく答えた。
「そうですか。ニャンコさんは、ママなのですね」
……柴原先生、そんなことは言っていませんよ。
一般的な猫が話す猫語は、同族にしか伝わらないのである。
「私に子どもはいませんでした。生涯独身で、いい人もいませんでした。ですが、こうしてこの世にとどまりたいと思えるほど大切なものがあって、私は幸せだったんだなと、そう思っているのですよ」
彼女が温かみのある笑顔で答える。
だからこそ、まだ消えるわけにはいかないのだろう。受け持った生徒たちが、無事に卒業するまでは。
「しかし、生きとし生けるもの、いつ何があるのかわかりません。ニャンコさん、知っていますか? あなたの登る大きな木には、相棒がいたのですよ」
そう言って、柴原先生が地面の方向を指し示す。きめ細やかな年輪のある切り株であり、今は亡き兄弟木の片割れだ。
「……実はこの前、事故がありまして、その木は折れてしまいました。それだけで済めばよかったのですが……不幸にも、この学校の生徒が、大きな木の下敷きになってしまったのです」
彼女が伏し目がちに、沈んだ声を出した。
もちろん、そのことは知っている。
だってそれは、僕の話なのだから――。
文化祭実行委員の初顔合わせから五日後。僕は実行委員の仕事でギーナとともに校舎裏にある倉庫へと来ていた。
この日、管材係は器材の所在や個数を確認するために二人一組に分かれ、手分けして器材のある場所を回っていた。僕たち二人が担当する校舎裏の倉庫内には、長机や脚立、テント、昨年の文化祭で使われたパネルや垂れ幕、アーチなど、文化祭で用いる道具が数多くあった。
僕たちが担当することになった管材係は、文化祭で使用する器材を管理する係である。机や椅子、教壇、調理器具、ガムテープ、工具、テント、パソコンなど、文化祭で使う器材の個数や場所を把握し、要望のあるクラスや部活などの団体に貸し出しを行う。その際、器材の数にも限りがあるので、貸し出す数量を調整することも忘れてはならない。また、足りない器材を業者に発注したり、器材の運搬を行ったりするのも仕事の一つだ。
「この場所はこれで終わりだね」
「ええ、そうね。校舎内に戻って、ダンディカップルと合流しよっか」
ギーナの提案に僕も頷く。ダンディとは檀野のあだ名であり、ダンディカップルとは言うまでもなく、檀野と笹塚の二人のことである。
この日が委員会活動の実務的な始動日であり、ギーナと会うのは最初の委員会以来であった。ギーナとは、実行委員の仕事内容や互いのクラスの文化祭の出し物、授業の進捗具合など、当たり障りのないものばかりを選んで話していた。何もそれは、仕事に対して真面目に取り組みたいからではない。僕には踏み込んだ話をする資格がなかったからだ。
「きゃっ!」
ギーナが悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んだ。雷が鳴り響いたのだ。
「今のは、かなり近かったね」
「ほんと、そう! ああ、怖かった……」
ギーナがゆっくりと立ち上がり、大きく一息吐き出した。
この日は土曜日ということで授業が午前中で終了し、昼食後から委員の仕事に取り組んでいたわけだが、昼前から急に天候が悪くなり、作業開始時には既に土砂降りの雨に見舞われていた。稲光をともなう雷もたびたび見られ、僕は終始落ち着かない気分だった。
外に出ようと僕が倉庫の扉を開けると、雨音が津波のように一層に押し寄せてきた。たとえ早く仕事が終わったとしても、天候が回復するまでは、帰宅せずにおとなしく校内にとどまっておくべきなのかもしれない。
「天気、やばいね。倉庫の鍵は僕が返しておくよ」
僕はギーナに声をかけたが、返事はなかった。彼女は怪訝な表情を浮かべて、外の様子をうかがっていた。
「ねえ、何か聞こえない?」
「えっ、何が?」
僕はよくわからずに訊き返した。雷鳴のことを言っているのだろうか。
と、彼女が靴を履き、傘をさしてどこかへと向かった。
「え、ちょっと……」
僕も倉庫に鍵をしてから、慌てて彼女を追っかけた。傘を開いていても、雨粒が足元を濡らしにかかってくる。持参した折りたたみ傘では、明らかに役不足だ。
ギーナは兄弟木と呼ばれる二本の大木のうち、弟分のほうの樹木の前にいた。微動だにせず、じっと木を見上げている。
「いったい、どうしたんだい?」
僕が彼女の見つめる方向に目をやると、そこには樹木から下りられなくなったと思われる猫の姿があった。
尻尾が短く丸まっているのが特徴的な小柄な黒猫が、助けを求めるかのようにしきりに鳴いている。雷や下りられなくなったことへの恐怖からなのか、雨で濡れて冷えたからなのか、いたいけな小動物は小刻みに震えていた。
「どうしよう。なんとかできないかな……」
不安げな表情で僕を見るギーナ。ふと、ゴロネを抱く幼い彼女の姿が脳裏をよぎった。
「……ちょっと、待っていて」
僕は倉庫のほうへと急いで戻る。あの猫を一刻も早く木から下ろしてあげたいのは、僕も一緒である。しかし、あの頃と変わらず、ギーナは猫が好きなんだなと思うと、不謹慎ながらも自然と笑みがこぼれた。
猫がいたのは教室の天井よりも少し高いくらいの位置であったので、倉庫にある脚立ならば、ぎりぎり届きそうな高さである。いざ届かなければ、脚立を展開して梯子にするか、あの頃のように木を登ればいい。
僕は倉庫から大きめの脚立を持ち出し、両腕で抱えつつギーナのもとへ戻った。邪魔になると思って傘をささなかったので、あっという間に濡れ鼠となってしまったが、気にしている場合じゃない。
「……気をつけてね」
ギーナは不安げな表情のままである。
「うん。これくらい、どうってことないよ」
僕はギーナを安心させるために笑顔で答えた。彼女は知らないだろうが、小さい頃は木登りが得意だったので、足場が不安定な高い場所でも全く平気だ。
僕は脚立を手早く立て、雨で滑らないように一段ずつ慎重に登る。猫が僕に話しかけるかのように、僕を見ながら一声鳴いた。どうやら、この脚立で猫のいる場所まで届きそうだ。
「……よしっ。おいで、もう怖くないよ」
僕は手にしっかりと力を入れて腕を伸ばし、猫を抱き上げる。
「……コラコラ、暴れんなって」
僕の胸の中で、猫が体をよじろうとする。それに耐えながら、僕は足早に脚立を一段ずつ下りた。
「――あっ……」
あと数段のところで、猫が僕の胸を蹴って飛び降りた。その反動で、僕はバランスを崩してしまう。
猫の後を追うように、僕もジャンプして地面に着地した。
「――っと、ご、ごめん……」
着地した先はギーナの方向であり、危うく彼女にぶつかるところであった。僕は彼女から遠ざかるように、素早く離れた。
助けた猫はというと、お礼も言わずにあっという間に走り去っていった。あれだけ元気があれば、もう心配はいらないだろう。
「脚立……戻してくる。先に校舎に入っていていいよ」
僕はギーナを見ずに話した。
僕の心臓が言うことを聞かず、高鳴りが収まらない。脚立から落ちそうになったからではない。ギーナと密接な距離で見つめ合ってしまったからだ。
早く、倉庫に行こう――。
僕は脚立を抱えて、そそくさと倉庫へ向かった。
「――――スキ」
「……えっ?」
僕は振り返った。ギーナが何か言ったように聞こえたが、激しい雨音のせいでよく聞こえなかったのだ。
彼女が、じっと僕を見つめている。水玉模様の傘から覗かせるつぶらな瞳は、茂みの中から上目遣いで顔を見せる猫を思わせた。
「渡辺くんはっ、今でも、猫がスキっ!?」
嵐に負けないような大きい声で、ギーナが僕に呼びかけた。
――……今でも?
――もしかして……。
「……ギ――」
と――僕の言葉は、唐突に遮られた。
鼓膜が張り裂けんばかりの轟音と、目の前を白く染める一閃。そして、大地を震わす衝撃。
落雷だ。
「きゃあーっ!」
ギーナが叫ぶとともに、僕もあまりのことに、思わず片腕を顔の前に掲げる。
だが、すぐさま気を取り直し、ギーナのほうへと目を向けると――。
――木が……燃えている!
つい先ほどまで関わっていた大木が、激しく炎上していたのだ。
――まずい、倒れるっ!
炎に包まれた大木が、まさに今、うずくまるギーナのほうへと倒れようとしていた。
「――ギーナっ!」
僕は脚立を投げ捨てるように手放し、ギーナのもとへと駆け出した。
――間に合え……っ!
雷雨の中を泳ぐように、手足をばたつかせる。
――ギーナのもとへ、一秒でも早く、早く……っ!
僕はギーナへと、腕を伸ばした。
僕の視界は――真っ黒に染まった。
そして――目が覚めると、僕は猫になっていた。