――二〇一七年、九月四日、月曜日。
長野くんの下駄箱に、難病カードを入れておく。
一日中考えたがこれが最善の返し方だ。プライバシーの塊である難病カードを面識のない私から直接返されても、長野くんが気まずい思いをしてしまうかもしれない。カードを返しているところを誰かに見られて、なんらかの病気であることがバレてしまう可能性だってある。変に噂が広がってしまうことだけは、なんとしても避けたかった。
こんな朝早い時間に、学校の昇降口に来ている生徒は私だけだ。あと一時間ほどしたらいつものように人で溢れるなんて信じられない。
自分の下駄箱を通り過ぎ、特別選抜クラスの下駄箱まで歩く。それほど離れていないはずなのに着く頃には妙に疲れていた。でも、ここからが本番で気合いを入れなくてはいけない。
よし、長野くんの下駄箱を探すぞ。
下駄箱に書かれた名前を確認していく。だが、普通科も特進クラスも下駄箱が五十音順に並んでいるということは変わらず、覚悟を決めて探した割に案外すぐ見つけることが出来た。一安心して変なため息が出る。さっさと終わらせようと思って、長野くんの下駄箱を開けた時だ。
「あれ? オレの下駄箱だけど、どうしたの?」
男性声優のような完成された甘い声が、後ろから聞こえてきた。声を聞く限り怒っているのではなく、ただ疑問に思っている感じだ。それでも心臓がバクバクして頭の中が真っ白になり、恐る恐る振り返った。
やっぱりだ。長野くんだ。どうしよう。バレた。
日本人離れしたその顔は、女子である私よりも女子だ。大きくパッチリした目は若干私から逸らしているように見える。男子にしては少し長い黒い髪も綺麗で、きっとしっかりと手入れしているのだろう。羨ましいくらい細い身体は一七五センチあるかないかくらいだが、足が長くモデルをやっていても不思議ではない。全てが整い過ぎてまるでCGで作ったキャラクターのようにさえ思える。目の前にいる長野くんは、画面の中にいるタイプの人間だ。
「あ……あ……えっと……」
挙動不審になっている私の目をはっきり見ると、長野くんはイタズラっぽく笑った。
「もしかしてラブレターかなにか……」
「違います!」
長野くんのからかうような言葉に、同じ学年であるのにも関わらず敬語で返してしまった。恥ずかしさと予想外のことが起こってしまった焦りで、顔面が燃えて下駄箱を焼いてしまいそうだ。
「なんだよ。違うのかよ」
まるで私からラブレターがもらえないことに対して、本気でヘコんでいるようにも見えた。でも常識的に考えて、見ず知らずの他人である私からのラブレターを、学校一の人気者である長野くんが期待することなどあり得ない。どう考えてもからかわれているとしか思えないけれど、嫌な気持ちにはならなかった。小学生の時は一番仲が良かった子によくからかわれていたので、なんだか少し懐かしい感じさえする。だが、今は過ぎ去った思い出に浸っている場合ではない。
本人に見つかってしまったので、もう方法は一つしか残されていなのだ。意を決して言った。
「これ、桜の木の下で拾ったんです。困っていると思って届けに来ました」
鞄から長野くんの難病カードを取り出して渡すと、彼は大きな目をさらに見開いて驚いた。
「おぉ。マジかよ。運命的だな。ありがとよ」
長野くんは丁寧に受け取って、制服のポケットにしまった。
「ど、どういたしまして。それでは、私はこれで……」
目的を果たしたので下駄箱の前から去ろうと思ったが、長野くんが喋り始めた。
「桜の木の下って言ったけど、あの丘にある木のことだろ? 実はあれ厳密に言うと桜じゃないって知ってた?」
「へ?」
自分でも初めて聞いたかのような、間抜けな声を発してしまった。そんなことは気にも留めずに、長野くんは桜の木の正式名称、花言葉、原産国などの知識を話し始める。知識が豊富であることはすごいと思うけれど、今そんな話をされても申し訳ないがあまり興味を持てない。
長野くんの話をなんとなく聞きながら、少し落ち着きを取り戻したのだろうか。本来言うべきことをまだ言っていないのを思い出した。
「あ、あの……」
私が小さい声で言うと、長野くんはすぐに話すのをやめた。
「どうした?」
「そんなことより、お身体を大事になさってくださいね」
「あぁ。それがさぁ。遺伝性の病気で治らないんだよねぇ」
「え……」
あまりにもあっさりと言われてしまい言葉に詰まってしまった。明るい人だと思っていたがこれでは軽い人だ。いや、普通の軽い人なら治らない自分の病気に対してこんなにあっさり言えないだろう。とにかく訳がわからない。
長野くんは人差し指を立てて自分の口の前に持っていき、私にニッコリと笑いかける。
「でも、みんなには秘密な。広まっても色々めんどくさいし」
「は、はい」
やはり、病気のことは秘密だったのだ。誰かが聞いていたらどうしようと急に不安になり辺りをキョロキョロ見渡したが、昇降口には私達二人だけだった。視線を再び戻すと、長野くんはクスッと吹き出す。
「そんな心配そうな顔すんなって。明日、死ぬとかじゃないから」
確かに長野くんは元気そうで、今すぐに亡くなってしまうということもないだろう。そもそも難病と呼ばれるものの全てが生死に関わるものではない。それでも治らない病気だということを、長野くんみたいに軽く捉えられなかった。
「……それでも心配です」
声が震えていた。そんな私に長野くんは温かい声で言う。
「やっぱり優しいんだな。悩ませちゃってごめんね」
やっぱりの意味は全くわからなかったが、私の方こそ急に優しい言葉をかけられてドキッとしてしまった。軽い人かもしれないけど、評判通りで根は良い人なのだろう。
「長野くんは悪くないですよ」
「ん、確かに病気になったのはオレのせいではないな。でもオレには巻き込んでしまった責任があって……」
「私はただ拾ったものを持ち主に返しただけですよ」
「そう言ってくれるとオレも楽だな。ところでさ、連絡先交換しないか?」
「え?」
思ってもいない展開に頭の中がハテナで埋め尽くされた。なぜ長野くんは私の連絡先など知りたいのだろうか。やっぱりちょっと変な人だ。
「もしなにか気になることがあったら連絡して欲しいと思って。学校じゃこれに関連する話は、なるべく言いたくないんだよな」
これは長野くんの優しさなのか、それとも軽い人だからこうやって誰にでも連絡先を聞いているのだろうか。いずれにせよ、断る理由にはならない。せっかく私なんかの連絡先を聞いてくれているのだから、交換しないと失礼だ。それに聞きたいことだってある。
「……それならお願いします」
「よし! ありがとう!」
鞄からスマホを取り出しメッセージアプリを開く。だが、大きな問題に直面してしまった。
「あの……」
「やっぱりダメかなぁ?」
「ダメではないのですが、連絡先を交換するやり方がわからなくて……」
スマホを買ってもらって以来、連絡先を交換したことが一度もなかった。恥ずかしい話だけれど私はとにかく友達がおらず、日下部ハルカの存在はこの学校で誰にも知られていないと言っても過言ではないのだ。唯一連絡先を交換しているのは家族だが、あの時はお父さんがやってくれた。そんな私を馬鹿にするわけでもなく、長野くんは優しく微笑む。
「わかった。オレがやってやるよ」
「お願いします」
長野くんに私のスマホを渡すと、すぐに操作を始めた。今度は自分のスマホをいじり私のスマホの画面を撮ると、画面を私の方に向ける。
「これで登録完了。オレが登録すればそっちのスマホにも適応されるから」
長野くんのスマホの画面にはなにも設定されていないアイコンと、「るーちゃん」というアカウント名が表示されていた。家族以外に連絡することはないと思い、親から呼ばれている名前をアカウント名にしているのだ。ハルカのハをとって「はーちゃん」ではなく、なぜかルの方で呼ばれている。
「ありがとうございます」
「このぐらいのことでお礼なんていいって」
長野くんは私のスマホを返してくれた。画面を確認すると、長野くんのアカウントが登録されている。メッセージアプリで家族以外の名前を見るのは初めてだ。
よく見ると白い粉のようなものがスマホの画面についている。なんなのか全くわからなかったが、とりあえず払っておいた。
「オレはそろそろ行くよ。連絡待ってるからな!」
「わ、わかりました。私も行きますね」
妙に満足そうに笑っている長野くんが眩し過ぎて、スマホを鞄にしまいすぐに背を向けた。自分の下駄箱まで早足で行くと、いつもより速い動作で上履きに履き替え、教室へと向かう。
今さらだがもっと良いカードの返し方が、歩きながら思いついてしまった。拾った段階ですぐに警察に届ければ良かったのだ。そうすれば結果として長野くんに余計な気を使わせることもなかった。そんな当たり前のことに気が付かないほど、私は馬鹿になっていたのかもしれない。落ち込んだ気持ちのまま教室の前に着いた。
ドアを開ける。教室には当然誰もいない。
とりあえず、ニュースサイトでも見てよう。
ホームルームが始まるまでまだ時間があるので、席に座り鞄からスマホを取り出した。本当はこうした空いた時間に英単語の一つでも覚えれば良いのだけれど、勉強に対して全くやる気が出てこない。だからと言ってハマっているスマホゲームもなく、SNSすらもやっておらず、こうして時間が余った時はニュースサイトを眺めているか寝ているかだ。もちろんどのニュースもあまり興味はない。なんとなく目についた記事を読むだけだ。
たが、今日はいつもと違った。ダラダラと画面をスクロールしていくと、一際目を引く見出しがあったのだ。
『特集 不治の奇病 日本でも症例あり』
いくつかの奇病を特集しているようで、私は久しぶりに興味を持って読んでみることにした。吸い込まれるように画面をタップすると、記事が表示される。
一つ目は「エーテル気化症候群」という病気だ。
記事によると身体の一部が徐々にエーテルと呼ばれる光の粒子になって、最終的には身体の全てが光になって消えてしまう病気らしい。どんな病気かうまくイメージできず、頭を悩ませながら読んでいると、廊下から話し声と足音が聞こえてきた。
そろそろ、誰か来そう。読むのをやめなきゃ。
「ウイルス性躁鬱病」、灰壊病」といった病気についても書かれているようだったが、すぐに別の記事の見出しをタップした。難病であることを秘密にして欲しいと長野くんに言われていたので、他の生徒がいる場所でなんとなく読みたくなかったのだ。
同じクラスの子達が楽しそうにおしゃべりしながら教室に入って来た。私はあいさつさえされない。いじめのように無視されているわけではなく、そもそも意識すらされていないのだ。
時間の経過と共に、教室の人口は増えていく。
趣味の話、勉強の話、恋の話など、普段は気にもとめないような会話が、今日はなぜか耳によく入る。そのせいでいつもよりも、ニュースが頭に入ってこない。そんな状態では読んでいても仕方ないので、スマホを鞄にしまってから机に伏せた。
ニュースを読むのをやめると、クラスメイト達の会話が余計に耳に入ってくる。なんで今日はこんなに入ってくるのだろうか。もしかすると久々に同年代の人と関わったから、クラスにいる人のことがまた気になっているのかもしれない。いや、そう考えるのは長野くんのせいにするみたいでダメだ。
たくさんの声は鳴り止まずに聞こえてくる。だけど、どれも私には関係のない話だ。関係のない話は雑音と変わらずうるさいが、堂々と耳を塞ぐこともできない。私にとっては雑音でも、クラスメイトにとっては楽しいお話だ。
そういえば、入学した時はすごく惨めだったな。
中学受験という最大の目的を達成した私は、どこか燃え尽きていた。それでも学校が始まれば楽しいことが待っていると思っていたが現実は甘くなく、私に居場所なんてなかった。
うちの生徒のは放っている雰囲気から明るく、小学校生活や他のことを楽しみつつ受験勉強をして受かった人達ばかりだったのだ。
一方、私は死に物狂いで勉強しかしなかったため、物事の楽しみ方や人との関わり方を完全に忘れていた。これで勉強ができる方ならまだ救いはあるが、算数が得意だと思っていたのに数学でいきなり最低レベルのクラスに振り分けられてしまったのだ。
全てを捨てて勉強だけしたのに大したことがなかった私と、色々なことを楽しみながら勉強したのに優秀な周りを比べて、最初はひたすら惨めな気持ちになっていた。だけど今はそれさえも感じていない。
もう虚無感しかないのだ。
新しい目標をなにも見つけられず、孤独にも慣れて年月だけが過ぎていった。気がついた時には、見た目は地味で真面目な優等生なのに中身は留年ギリギリの劣等生という、誰しもが絶対になりたくない女子高生になっていたのだ。制服を着てからの時間はただ消化していくだけのものになり、毎日が無駄に長く感じる。
今日もまた一日が無気力に過ぎた。
放課後、部活や遊びや習い事に行くクラスメイトとは違い、私は一人で帰るだけだ。誰よりも早く教室を出て廊下を歩く。
私よりも早く教室を出たであろう、別のクラスにいる女子二人が前を歩いていた。二人は仲が良い友達に見えるが、私には無縁の世界だ。そんな現実から目を逸らすように俯く。長野くんと話したからといって、私の無駄な日々が大きく変わることはない。
だけど、ほんの少しだけ変化があった。
『それがさぁ。遺伝性の病気で治らないんだよねぇ』
ふとした瞬間、長野くんのことを考えていたのだ。
小学四年生の時に親友と絶縁して以来、他人に興味を持ったことなどなかったが、それでも長野くんに関してはあれこれ考えを巡らせていた。きっと久々に話した同年代、それも男子だからだろう。
朝はあまりの軽さに驚いてしまったが、冷静に考えると治らない病気について悲しい顔をせずに話せることはすごいと思う。私だったら怖くてそんなことはできないだろう。なぜ長野くんはあんなに軽く話せるのか、色々な可能性が過っても全ては憶測だ。
長野くんのこと、もっと知りたいな。
長野くんの下駄箱に、難病カードを入れておく。
一日中考えたがこれが最善の返し方だ。プライバシーの塊である難病カードを面識のない私から直接返されても、長野くんが気まずい思いをしてしまうかもしれない。カードを返しているところを誰かに見られて、なんらかの病気であることがバレてしまう可能性だってある。変に噂が広がってしまうことだけは、なんとしても避けたかった。
こんな朝早い時間に、学校の昇降口に来ている生徒は私だけだ。あと一時間ほどしたらいつものように人で溢れるなんて信じられない。
自分の下駄箱を通り過ぎ、特別選抜クラスの下駄箱まで歩く。それほど離れていないはずなのに着く頃には妙に疲れていた。でも、ここからが本番で気合いを入れなくてはいけない。
よし、長野くんの下駄箱を探すぞ。
下駄箱に書かれた名前を確認していく。だが、普通科も特進クラスも下駄箱が五十音順に並んでいるということは変わらず、覚悟を決めて探した割に案外すぐ見つけることが出来た。一安心して変なため息が出る。さっさと終わらせようと思って、長野くんの下駄箱を開けた時だ。
「あれ? オレの下駄箱だけど、どうしたの?」
男性声優のような完成された甘い声が、後ろから聞こえてきた。声を聞く限り怒っているのではなく、ただ疑問に思っている感じだ。それでも心臓がバクバクして頭の中が真っ白になり、恐る恐る振り返った。
やっぱりだ。長野くんだ。どうしよう。バレた。
日本人離れしたその顔は、女子である私よりも女子だ。大きくパッチリした目は若干私から逸らしているように見える。男子にしては少し長い黒い髪も綺麗で、きっとしっかりと手入れしているのだろう。羨ましいくらい細い身体は一七五センチあるかないかくらいだが、足が長くモデルをやっていても不思議ではない。全てが整い過ぎてまるでCGで作ったキャラクターのようにさえ思える。目の前にいる長野くんは、画面の中にいるタイプの人間だ。
「あ……あ……えっと……」
挙動不審になっている私の目をはっきり見ると、長野くんはイタズラっぽく笑った。
「もしかしてラブレターかなにか……」
「違います!」
長野くんのからかうような言葉に、同じ学年であるのにも関わらず敬語で返してしまった。恥ずかしさと予想外のことが起こってしまった焦りで、顔面が燃えて下駄箱を焼いてしまいそうだ。
「なんだよ。違うのかよ」
まるで私からラブレターがもらえないことに対して、本気でヘコんでいるようにも見えた。でも常識的に考えて、見ず知らずの他人である私からのラブレターを、学校一の人気者である長野くんが期待することなどあり得ない。どう考えてもからかわれているとしか思えないけれど、嫌な気持ちにはならなかった。小学生の時は一番仲が良かった子によくからかわれていたので、なんだか少し懐かしい感じさえする。だが、今は過ぎ去った思い出に浸っている場合ではない。
本人に見つかってしまったので、もう方法は一つしか残されていなのだ。意を決して言った。
「これ、桜の木の下で拾ったんです。困っていると思って届けに来ました」
鞄から長野くんの難病カードを取り出して渡すと、彼は大きな目をさらに見開いて驚いた。
「おぉ。マジかよ。運命的だな。ありがとよ」
長野くんは丁寧に受け取って、制服のポケットにしまった。
「ど、どういたしまして。それでは、私はこれで……」
目的を果たしたので下駄箱の前から去ろうと思ったが、長野くんが喋り始めた。
「桜の木の下って言ったけど、あの丘にある木のことだろ? 実はあれ厳密に言うと桜じゃないって知ってた?」
「へ?」
自分でも初めて聞いたかのような、間抜けな声を発してしまった。そんなことは気にも留めずに、長野くんは桜の木の正式名称、花言葉、原産国などの知識を話し始める。知識が豊富であることはすごいと思うけれど、今そんな話をされても申し訳ないがあまり興味を持てない。
長野くんの話をなんとなく聞きながら、少し落ち着きを取り戻したのだろうか。本来言うべきことをまだ言っていないのを思い出した。
「あ、あの……」
私が小さい声で言うと、長野くんはすぐに話すのをやめた。
「どうした?」
「そんなことより、お身体を大事になさってくださいね」
「あぁ。それがさぁ。遺伝性の病気で治らないんだよねぇ」
「え……」
あまりにもあっさりと言われてしまい言葉に詰まってしまった。明るい人だと思っていたがこれでは軽い人だ。いや、普通の軽い人なら治らない自分の病気に対してこんなにあっさり言えないだろう。とにかく訳がわからない。
長野くんは人差し指を立てて自分の口の前に持っていき、私にニッコリと笑いかける。
「でも、みんなには秘密な。広まっても色々めんどくさいし」
「は、はい」
やはり、病気のことは秘密だったのだ。誰かが聞いていたらどうしようと急に不安になり辺りをキョロキョロ見渡したが、昇降口には私達二人だけだった。視線を再び戻すと、長野くんはクスッと吹き出す。
「そんな心配そうな顔すんなって。明日、死ぬとかじゃないから」
確かに長野くんは元気そうで、今すぐに亡くなってしまうということもないだろう。そもそも難病と呼ばれるものの全てが生死に関わるものではない。それでも治らない病気だということを、長野くんみたいに軽く捉えられなかった。
「……それでも心配です」
声が震えていた。そんな私に長野くんは温かい声で言う。
「やっぱり優しいんだな。悩ませちゃってごめんね」
やっぱりの意味は全くわからなかったが、私の方こそ急に優しい言葉をかけられてドキッとしてしまった。軽い人かもしれないけど、評判通りで根は良い人なのだろう。
「長野くんは悪くないですよ」
「ん、確かに病気になったのはオレのせいではないな。でもオレには巻き込んでしまった責任があって……」
「私はただ拾ったものを持ち主に返しただけですよ」
「そう言ってくれるとオレも楽だな。ところでさ、連絡先交換しないか?」
「え?」
思ってもいない展開に頭の中がハテナで埋め尽くされた。なぜ長野くんは私の連絡先など知りたいのだろうか。やっぱりちょっと変な人だ。
「もしなにか気になることがあったら連絡して欲しいと思って。学校じゃこれに関連する話は、なるべく言いたくないんだよな」
これは長野くんの優しさなのか、それとも軽い人だからこうやって誰にでも連絡先を聞いているのだろうか。いずれにせよ、断る理由にはならない。せっかく私なんかの連絡先を聞いてくれているのだから、交換しないと失礼だ。それに聞きたいことだってある。
「……それならお願いします」
「よし! ありがとう!」
鞄からスマホを取り出しメッセージアプリを開く。だが、大きな問題に直面してしまった。
「あの……」
「やっぱりダメかなぁ?」
「ダメではないのですが、連絡先を交換するやり方がわからなくて……」
スマホを買ってもらって以来、連絡先を交換したことが一度もなかった。恥ずかしい話だけれど私はとにかく友達がおらず、日下部ハルカの存在はこの学校で誰にも知られていないと言っても過言ではないのだ。唯一連絡先を交換しているのは家族だが、あの時はお父さんがやってくれた。そんな私を馬鹿にするわけでもなく、長野くんは優しく微笑む。
「わかった。オレがやってやるよ」
「お願いします」
長野くんに私のスマホを渡すと、すぐに操作を始めた。今度は自分のスマホをいじり私のスマホの画面を撮ると、画面を私の方に向ける。
「これで登録完了。オレが登録すればそっちのスマホにも適応されるから」
長野くんのスマホの画面にはなにも設定されていないアイコンと、「るーちゃん」というアカウント名が表示されていた。家族以外に連絡することはないと思い、親から呼ばれている名前をアカウント名にしているのだ。ハルカのハをとって「はーちゃん」ではなく、なぜかルの方で呼ばれている。
「ありがとうございます」
「このぐらいのことでお礼なんていいって」
長野くんは私のスマホを返してくれた。画面を確認すると、長野くんのアカウントが登録されている。メッセージアプリで家族以外の名前を見るのは初めてだ。
よく見ると白い粉のようなものがスマホの画面についている。なんなのか全くわからなかったが、とりあえず払っておいた。
「オレはそろそろ行くよ。連絡待ってるからな!」
「わ、わかりました。私も行きますね」
妙に満足そうに笑っている長野くんが眩し過ぎて、スマホを鞄にしまいすぐに背を向けた。自分の下駄箱まで早足で行くと、いつもより速い動作で上履きに履き替え、教室へと向かう。
今さらだがもっと良いカードの返し方が、歩きながら思いついてしまった。拾った段階ですぐに警察に届ければ良かったのだ。そうすれば結果として長野くんに余計な気を使わせることもなかった。そんな当たり前のことに気が付かないほど、私は馬鹿になっていたのかもしれない。落ち込んだ気持ちのまま教室の前に着いた。
ドアを開ける。教室には当然誰もいない。
とりあえず、ニュースサイトでも見てよう。
ホームルームが始まるまでまだ時間があるので、席に座り鞄からスマホを取り出した。本当はこうした空いた時間に英単語の一つでも覚えれば良いのだけれど、勉強に対して全くやる気が出てこない。だからと言ってハマっているスマホゲームもなく、SNSすらもやっておらず、こうして時間が余った時はニュースサイトを眺めているか寝ているかだ。もちろんどのニュースもあまり興味はない。なんとなく目についた記事を読むだけだ。
たが、今日はいつもと違った。ダラダラと画面をスクロールしていくと、一際目を引く見出しがあったのだ。
『特集 不治の奇病 日本でも症例あり』
いくつかの奇病を特集しているようで、私は久しぶりに興味を持って読んでみることにした。吸い込まれるように画面をタップすると、記事が表示される。
一つ目は「エーテル気化症候群」という病気だ。
記事によると身体の一部が徐々にエーテルと呼ばれる光の粒子になって、最終的には身体の全てが光になって消えてしまう病気らしい。どんな病気かうまくイメージできず、頭を悩ませながら読んでいると、廊下から話し声と足音が聞こえてきた。
そろそろ、誰か来そう。読むのをやめなきゃ。
「ウイルス性躁鬱病」、灰壊病」といった病気についても書かれているようだったが、すぐに別の記事の見出しをタップした。難病であることを秘密にして欲しいと長野くんに言われていたので、他の生徒がいる場所でなんとなく読みたくなかったのだ。
同じクラスの子達が楽しそうにおしゃべりしながら教室に入って来た。私はあいさつさえされない。いじめのように無視されているわけではなく、そもそも意識すらされていないのだ。
時間の経過と共に、教室の人口は増えていく。
趣味の話、勉強の話、恋の話など、普段は気にもとめないような会話が、今日はなぜか耳によく入る。そのせいでいつもよりも、ニュースが頭に入ってこない。そんな状態では読んでいても仕方ないので、スマホを鞄にしまってから机に伏せた。
ニュースを読むのをやめると、クラスメイト達の会話が余計に耳に入ってくる。なんで今日はこんなに入ってくるのだろうか。もしかすると久々に同年代の人と関わったから、クラスにいる人のことがまた気になっているのかもしれない。いや、そう考えるのは長野くんのせいにするみたいでダメだ。
たくさんの声は鳴り止まずに聞こえてくる。だけど、どれも私には関係のない話だ。関係のない話は雑音と変わらずうるさいが、堂々と耳を塞ぐこともできない。私にとっては雑音でも、クラスメイトにとっては楽しいお話だ。
そういえば、入学した時はすごく惨めだったな。
中学受験という最大の目的を達成した私は、どこか燃え尽きていた。それでも学校が始まれば楽しいことが待っていると思っていたが現実は甘くなく、私に居場所なんてなかった。
うちの生徒のは放っている雰囲気から明るく、小学校生活や他のことを楽しみつつ受験勉強をして受かった人達ばかりだったのだ。
一方、私は死に物狂いで勉強しかしなかったため、物事の楽しみ方や人との関わり方を完全に忘れていた。これで勉強ができる方ならまだ救いはあるが、算数が得意だと思っていたのに数学でいきなり最低レベルのクラスに振り分けられてしまったのだ。
全てを捨てて勉強だけしたのに大したことがなかった私と、色々なことを楽しみながら勉強したのに優秀な周りを比べて、最初はひたすら惨めな気持ちになっていた。だけど今はそれさえも感じていない。
もう虚無感しかないのだ。
新しい目標をなにも見つけられず、孤独にも慣れて年月だけが過ぎていった。気がついた時には、見た目は地味で真面目な優等生なのに中身は留年ギリギリの劣等生という、誰しもが絶対になりたくない女子高生になっていたのだ。制服を着てからの時間はただ消化していくだけのものになり、毎日が無駄に長く感じる。
今日もまた一日が無気力に過ぎた。
放課後、部活や遊びや習い事に行くクラスメイトとは違い、私は一人で帰るだけだ。誰よりも早く教室を出て廊下を歩く。
私よりも早く教室を出たであろう、別のクラスにいる女子二人が前を歩いていた。二人は仲が良い友達に見えるが、私には無縁の世界だ。そんな現実から目を逸らすように俯く。長野くんと話したからといって、私の無駄な日々が大きく変わることはない。
だけど、ほんの少しだけ変化があった。
『それがさぁ。遺伝性の病気で治らないんだよねぇ』
ふとした瞬間、長野くんのことを考えていたのだ。
小学四年生の時に親友と絶縁して以来、他人に興味を持ったことなどなかったが、それでも長野くんに関してはあれこれ考えを巡らせていた。きっと久々に話した同年代、それも男子だからだろう。
朝はあまりの軽さに驚いてしまったが、冷静に考えると治らない病気について悲しい顔をせずに話せることはすごいと思う。私だったら怖くてそんなことはできないだろう。なぜ長野くんはあんなに軽く話せるのか、色々な可能性が過っても全ては憶測だ。
長野くんのこと、もっと知りたいな。