――その連絡は英語の授業中に愛さんから来た。
『桐人の目が灰になった』
それはもうすぐ桐人の命が終わることを意味している。
『すぐに向かいます』
返事を送ると一心不乱に机の上を片付けた。斜め前の席に座っている男子が不思議そうに私をチラチラ見ているが、そんなことはどうでもいい。
「先生、トイレに行ってきます」
この学校に入って以来、授業中に初めて声を出した。それも自分のものとは思えないくらい大きな声だ。クラスの視線が私に集まる。
「あ、ちょっと日下部……」
英語の先生はなにか言いたそうだったが、鞄を持ち走って教室を出た。トイレではなく帰ろうとしているのは誰が見ても明らかだ。もし、先生に追いかけられたらすぐ捕まってしまうが、それでも自分にできる最大限のことをするしかなかった。
廊下を走るとこんなに早く下駄箱まで着くと思わなかった。まだ先生が追ってこないので急いで靴を履き替え、駅に向かって走る。
元々体力に自信がなかったので、学校の敷地を出て少しするとバテてしまった。だが、止まるわけにはいかない。自分に出来る最大限の速さで動き続ける。
すると、運が良いことに空車のタクシーが来たのだ。手を挙げると私の前で停まったので、タクシーに乗り込むとすぐに言った。
「梶永医科大学までお願いします! できる限り早く!」
「わ、わかりました」
タクシーの運転手さんは私の勢いに引きつつも、緊急事態だと理解してくれたようだ。大通りをほとんど使わず、裏道で梶永医科大学附属病院の前まで着いた。
すぐにお金を払い、受付まで走り込む。危篤の時に家族ではない私が入れてもらえるのか、この時になってやっと疑問に思ったが、いつものようにすんなりと入れてもらえた。桐人の病室まで駆け上がり、ドアを開ける。
「桐人!」
私の大きな声に、病室にいる人たちが一斉に振り向いた。今日は桐人と愛さんだけではない。男性の医者と女性の看護師もいる。いつもの違うのはそれだけではなかった。昨日までは部屋になかった心電図を表示する機械がベッドの隣に置かれていて、ピッピと規則的に鳴っている。まるで桐人の命を表す波音のようだ。
最初に声を発したのは医者だった。
「君が長野くんの彼女さんだね。ちょっと話したいことがあるから一旦、部屋の外に出よう」
「は、はい」
私は医者と一緒に廊下へ出ると、ゆっくりとした口調で言った。
「もう時間がないから、手短に言うね。長野くんは助からない。しかも灰になってしまう。君はまだ若いし、トラウマになってしまう恐れがあるから見て欲しくないんだ」
そんなことを言われても、言うことは一つしかない。
「私は最期まで彼のそばにいたいです」
医者は力強く頷いた。
「わかった。長野くんのところに戻ろう。もし君の心になにかあったら僕が全責任を取るよ」
「ありがとうございます」
すると医者はもう一つだけ言った。
「長野旅行の件については悪かったね。僕もこんなに早く灰化が起きると思わなかったんだ」
「先生はなにも悪くないですよ。桐人のために今までありがとうございました」
そう、先生はなにも悪くないのだ。医学の知識と技術があってなにかをできる分、素人の私よりも無力感に苛まれているかもしれない。
「やっぱり、桐人くんが言っていた通り優しい子だ。さぁ、行くよ」
「はい」
医者が病室のドアを開けてくれたので、すぐに桐人が寝ているベッドに近づいた。桐人は目を閉じており、天井を向いている。もう首が動かないのだろう。
「桐人、私だよ。ハルカだよ」
「知ってる。さっきオレの名前呼んでたからな」
その声はあまりにも弱々しかった。だけど間違いなく桐人の声だ。
桐人に言いたいことはたくさんあるはずなのに、なにも言葉になってくれない。こんな時なのに私はなにをしているのだろうか。すると、また桐人が話し始めた。
「そうだ。なんであの丘で難病カード落としたか、ちゃんと話てなかったな」
確かに言われてみると、懐かしいからあの丘に行ってそこで落としたとしか聞かされていなかった。でも一体、なぜこんな時にこの話をするのだろうか。
「色彩灰化が起きてさ、じいちゃんみたいにオレも自殺しようと思ったんだよ。どうせ死ぬなら、大好きなハルカちゃんと出会ったあの丘の頂上が良いと思って、あの丘に行ったんだ」
桐人が自殺しようとしていたなんて、全く思わなかった。病気について妙に明るく言っていたのは、もしかしたら少しでも辛い現実を感じないようにしていたからかも知れない。今更になってやっと気がついた。
苦しそうに呼吸を整えて、桐人はさらに話す。
「だけどな、ハルカちゃんの顔が浮かんで死なねくてさ。そしたら段々病気になったことが悔しくなって、腹いせに難病カードを捨てて帰ってきちまった。でも、今は病気になって良かったとすら思ってるよ」
「え……なんで……」
「病気になったおかげで、またハルカちゃんと仲良くできたからね。短い間だったけど本当に楽しかったぞ。今までありが……」
桐人は口元がニコリと微笑む。
最初は頭からだった。髪の毛がみるみるうちに白い灰へと変わってく。髪の毛の全てが灰に変わると、砂のマネキンが崩れるように桐人は原型を失った。ピーという機械音と愛さんの悲鳴が病室に響く。
愛さんはそのまま泣き崩れた。
「ごめんね、ごめんね、桐人。私のせいで……私のせいで……」
愛さんのことを見ていられず、すぐに寄り添った。
「そんなことないですよ!」
必死で愛さんに言葉をかける。高校生の言葉では息子を失った親の悲しみになんの効果もないかも知れない。でも、大好きな桐人を産んでくれた愛さんを放ってはおけなかった。自分の悲しみを放っておいてまで、愛さんのそばにいたかったのだ。
『私も楽しかったよ。ありがとう』
その言葉を桐人に伝えられないまま、全ては終わった。
でも、桐人にある言葉を言わずに済んだのは不幸中の幸だったのかもしれない。
二〇一七年 十一月一日 水曜日
長野桐人 永眠(享年十七歳)
――二〇一七年、十一月四日、土曜日。
桐人のお通夜が行われた。
本当だったら桐人と長野旅行をしていたはずの日だけれど、昨日も今日も全国的に雨が降り止まない。いずれにせよ、星は見られなかったのだ。
私は親族の席に座っている。告別式親族のみで行うため、せめてお通夜は桐人の傍にいて欲しいと愛さんからお願いされたのだ。
線香の香りが充満したセレモニーホールに、お坊さんのお経が響き渡る。だけど、柩の中に桐人はいない。灰になってしまった桐人は、病気の研究のため国に引き取られてしまったのだ。これでは桐人とした約束を果たせない。
本人不在のお通夜で段々誰のためにやっているかわからなくなってきたが、それでも様々な人が桐人のために焼香をしていく。
教師達が入ってきて、その中に担任の先生がいた。先生は私をしっかり見て頭を下げたので、私も同じように下げる。
授業を途中で飛び出した私は当然、担任から職員室に呼び出された。停学処分くらいは覚悟していたが、桐人の病気のことも私と桐人の関係も教師の間で共有されており、今回だけは特別に厳重注意だけで済まされたのだ。先生には感謝しかない。
教師達に続いて、桐人と同じクラスだった特別選抜の生徒達がお焼香に来た。思ったよりも泣いている生徒は少なかったが、決して薄情だというわけではないだろう。あまりにも一緒に過ごしすぎて、きっと実感が持てないだけだと思う。現に、今の私がそうだからだ。
特別選抜クラスの生徒が終わると、今度はバラバラの制服を着た高校生達が来た。桐人と同じ中学出身の人達だ。その中には私と同じ小学校だった人もたくさんいて、親族の席にいる私に不思議そうな顔をする人や驚く人もいる。すると、見知った二人がやってきた。
知里ちゃんと正文くんだ。二人とも学校の制服を着ており、知里ちゃんは髪を黒くして化粧も控えめにしている。こうやって見ると小学生の時とあまり顔が変わっていない。
二人がお焼香を終えた時だ。知里ちゃんはすぐに歩こうとしたが、正文くんは一歩も動こうとしなかった。知里ちゃんは正文くんの隣に戻り、お経で消えてしまいそうなくらい小さな声で言う。
「大丈夫?」
正文くんは俯き、肩が震えた。
「桐人ぉ!」
正文くんは大声で泣き、言葉にならない言葉を叫び出したのだ。それは時折「ありがとう」とも「ごめんな」とも聞こえた。正文くんの泣き声にこだまするように、会場から啜り泣く声が聞こえてくる。知里ちゃんは涙を流さず正文くんの頭を撫でると、手を繋いでセレモニーホールを後にした。
桐人の遺影を見る。
その美しい笑顔はまるで絵のようだった。ここに桐人の顔があるのに、桐人はここにいない。それでも、正文くんの叫び声なら世界中のどこにいても届く気がする。
私の思いは桐人に届くのだろうか。いや、きっとまだだ。私にはやることが残っている。
桐人との最期の約束を果たさないと。お葬式が本当の意味で終わるのはそれができてからだ。
――二〇一八年、二月十五日、木曜日。
お葬式が終わってすぐ、親族である愛さんと一緒に、灰の返還を政府へお願いした。だが、病気の研究のために所有しているので、何度問い合わせても断られてしまったのだ。愛さんは疲弊しきってしまい、とうとう灰の返還を諦めてしまった。
それでも桐人との約束を果たしたいという思いは消えなかった。でも私にできることはなにもない。そんな不甲斐ない気持ちに耐えられなくなり、知里ちゃんに辛い心境を全て吐き出したのだ。
知里ちゃんは私の話を全て受け止めたくれた。一通り話し終えるとこう言ったのだ。
『私に話してくれてありがとう。あとは任せて』
それから数日後、政府関係者から会いたいとの連絡が来た。知里ちゃんが博栄さんにお願いして根回ししてくれたのだ。知里ちゃんと博栄さんには感謝してもしきれない。
後日、一生行く機会がないような料亭で、政府関係者に会った。しかも、来たのが元総理大臣だったのだ。元総理大臣は博栄さんと一緒に難病カードの制度を作っており、本人曰く博栄さんの弟子らしい。元総理大臣は灰の返還を調整すると約束してくれた。
そして今日、約束が果たされる。
いつも静かなこの丘は、今日だけはちょっと賑やかだ。麓には喪服を着た五人がいる。私、知里ちゃん、博栄さん、愛さん、そして灰を持ってきた政府関係者だ。
朝の空は灰色で、本当は晴れていた方がよかったけれど、これが桐人の見てきた空の色に一番近いのかも知れない。
私は政府関係者から、片手で握れるくらいの透明の瓶を受け取った。思ったよりも重い。きっとこれが命の重みなのだろう。
「では、行ってきます」
みんなは口々にいってらっしゃいと言う。ここからは一人で行くのだ。
冬でも丘一面は緑色の小さな草が広がっている。ここの景色が変わるのは、頂上の桜がまばらに白い花を咲かせた時だけだ。
あの木を目指して丘を登っていく。
桐人と再会する前と身体は全く成長していない。だけどあの頃とは比べ物にならない程、強くなった気がする。桐人のおかげで、ただ衰退するだけの日々が変わったのだ。
木の根元に着いた。
もうそこには、なにも落ちていない。ただ、草花が広がる自然の風景がそこにあるだけだ。少し寂しい気もしたけれど、感謝の気持ちが溢れてくる。
瓶の蓋を回した。
桐人、最期の約束、果たすからね。
逆さまにした瓶から、白い灰が一斉に落ちる。その時やっと実感した。桐人はもうこの世にいないのだ。
最期の言葉が蘇る。
『でも、今は病気になって良かったとすら思ってるよ。病気になったおかげで、またハルカちゃんと仲良くできたからね』
もう我慢出来なかった。あの時、本当は言ってやりたかった言葉が、叫び声となる。
「私は病気になって良かったなんて思わないから!」
いくらなんでも早すぎるよ。
これから楽しいことあるって時だったのに。
桐人と初めて遊んだ街だって、一緒に入りたいと思ったお店たくさんあったのに。
長野旅行も行きたかったよ。
映画だってまた行きたかったよ。
私達、付き合ってから全然デート出来てないじゃん。
私はそれが良かったんなんて思わないから。
もっと手を繋ぎたかったし、もう一度キスしたかったよ。
あの一回だけで良かったなんて思えない。
もっと、もっと桐人と過ごしたかったよ。
難病カード、まだまだ使い足りないよ。
丘に強い風が吹き、寒さで身震いする。だけど樹の根元に撒いた灰は、ほとんど動いていなかった。
『オレはいなくならないよ。形を変えるだけだ』
そうだ。桐人はここにいるんだ。辛くなった私を慰めるために、ずっとこの場所で待っていくくれてるんだ。
早速、桐人に救われて落ち着きを取り戻した。さっきの声はきっと麓まで聞こえてしまっただろう。でももうそれでも良い。最後に言いたいことは言ってやった。いや、最期に言いたいことはこんなことじゃなかったはずだ。
「私も楽しかったよ。ありがとう」
でもこれはあの時言えなかった言ったことを言っただけで、過去の言葉だ。
私の未来は続いていく。私はこれからも生きていく。冷静になっても変わらないこの思いを桐人に伝えたい。
恋人に愛を語るように思いを解き放つ。
「桐人の命を奪った病気のこと、絶対に許せないよ。もちろん他の病気だって同じ。だから私ね、医者になろうと思うの。勉強たくさん頑張るから、何年浪人したって絶対に医者になるから」
桜の木を背にして、丘を降り始めた。
灰がなくなって軽くなったはずなのに、帰り道の瓶が重たくなったように感じる。
――二〇三七年、一月六日、火曜日。
私が生まれた街にも二年前にお洒落なカフェが出来た。先に着いたので席で待っていると、慌ただしくカフェの扉が開く。ドアを開けた人物は急足で私がいるテーブルまで来た。
「ハルカっち、ごめん! 遅れた」
知里ちゃんだ。お互いに忙しくてここ数年会えていなかったが、相変わらず私と同じ三十七歳には見えなかった。髪の毛は薄い茶色でどう見ても二十代半ばであり、高校生の時よりは落ち着いたとはいえ、若い子しか着れないようなものを完全に着こなしている。
「大丈夫だよ。そんなに待ってないから」
知里ちゃんは席に着くなりすぐにコーラを二人分注文した。大人になっても二人で飲むのはコーラと決まっているのだ。コーラが来ると、いつものように二人で乾杯する。最初の一口を飲んでから、知里ちゃんに仕事関係のお礼を言った。
「研究費の件、ありがとうね」
知里ちゃんは政治家になっていた。知里ちゃんや仲間の政治家達が働いてくれたおかげで、灰壊病を含む難病の研究費が増額されたのだ。
「そりゃ天才科学者のためなら、そのくらいのことやるよ」
「て、天才科学者?」
「ハルカっちのことだよ」
「ちょっとやめてよ。私、大学に入るのだって二年浪人してるよ?」
「でも卒業した時は首席だし、今だってその年齢で名門梶永医科大学の教授じゃん」
「まぁそうだけど……」
こんな私でも一生懸命がむしゃらに頑張っていたら、大袈裟な肩書きを得てしまったのだ。だが、本当は肩書きなんてどうでも良かった。大切なのは研究の成果だ。これ以上仕事の話ばかりしていると、気分が暗くなってしまうので話題を変えた。
「そう言えばさ、お子さんは元気?」
「うん! 二人とも元気だよ。ほら」
知里ちゃんは正文くんと二人の男の子が写っている写真を、スマホで見せてくれた。三人とも良い笑顔だ。
「今日、正文くんも来られたら良かったのにね」
「警察官だし簡単には仕事休めないからねぇ。私もハルカっちに会わせたかったよ」
それから二人の会話は弾み、夢中になって話した。知里ちゃんといるときはいつもそうだ。あっという間に終わりの時間が来てしまう。知里ちゃんは午後から仕事が入っているで、今日はこれでおしまいだ。
知里ちゃんと別れて、私はある場所へ向かった。
二十年も経つとさすがに街の景色も変わっている。もう、昔はどんなだったかすら思い出せない。変わらないのは空くらいだ。そういえば桐人の灰を撒いた日も、今日と同じ曇り空だった。
二十年という歳月はあらゆるものを進歩させたのだ。
灰壊病について様々なことがわかった。もし、灰壊病を治すことができれば、全く関係ないと思われていたエーテル気化症候群やウイルス性躁鬱病などの難病にも対処できる。私の研究室が突き止めた新事実だ。
よって今三つの病気の研究者達が協力して、世界中で治療方法を探している。だけど、肝心の有効成分がなにか全くわからないのだ。
ずっとがむしゃらに走ってきた。だけどさすがに行き詰まりを感じていて、このままでは心が折れてしまいそうだった。自分を奮い立たせるために、桐人の灰を撒いて以来初めてあの丘へ行くことにしたのだ。
なんだか心臓の鼓動が速くなっていく。私の人生でこんな風にドキドキさせてくれるのは桐人ただ一人だ。今も、昔も、これからも、きっと変わらないだろう。あの丘だって二十年前と同じはずだ。
丘が見え始めた時、異変に気がついた。
咲いている草花も、ひっそりとした雰囲気も昔と全く変わらない。だけど頂上にある桜の木が、あの時と全く違うのだ。
一体、なにが起こったのだろうか。桜の木がはっきり見える距離まで走る。目の前で起きている不思議な光景に、思わず息を呑んで立ち止まった。
青い桜だ。
冬の日に、青い桜が満開に咲いているのだ。それはまるで、空がここまで降りてきたようだった。優しい空色の桜は風にそっと揺れ、花びらが一枚散った。
「桐人……桐人だよね? これが桐人の青なんだね。綺麗だよ。すごく綺麗。私のために……ありがとう。私を勇気づけてくれるために、ここで待っていてくれたんだね」
涙が止まらない。きっとこれは二十年分の涙だ。
流れる涙と共に桐人の言葉が蘇る。
『桜の木の下って言ったけど、あの丘にある木のことだろ? 実はあれ厳密に言うと桜じゃないって知ってた?』
そっか。
私、やっとわかったよ。
だから桐人はあの木の下に、灰を撒いて欲しかったんだね。
あの木はまるで、私達の日々そのものだったから。
桐人が教えてくれたんだよ。
『あの木ね、ラクサトニオって名前なんだよ。その花言葉がさ……』