――二〇三七年、一月六日、火曜日。
 私が生まれた街にも二年前にお洒落なカフェが出来た。先に着いたので席で待っていると、慌ただしくカフェの扉が開く。ドアを開けた人物は急足で私がいるテーブルまで来た。

「ハルカっち、ごめん! 遅れた」

 知里ちゃんだ。お互いに忙しくてここ数年会えていなかったが、相変わらず私と同じ三十七歳には見えなかった。髪の毛は薄い茶色でどう見ても二十代半ばであり、高校生の時よりは落ち着いたとはいえ、若い子しか着れないようなものを完全に着こなしている。

「大丈夫だよ。そんなに待ってないから」

 知里ちゃんは席に着くなりすぐにコーラを二人分注文した。大人になっても二人で飲むのはコーラと決まっているのだ。コーラが来ると、いつものように二人で乾杯する。最初の一口を飲んでから、知里ちゃんに仕事関係のお礼を言った。

「研究費の件、ありがとうね」

 知里ちゃんは政治家になっていた。知里ちゃんや仲間の政治家達が働いてくれたおかげで、灰壊病を含む難病の研究費が増額されたのだ。

「そりゃ天才科学者のためなら、そのくらいのことやるよ」

「て、天才科学者?」

「ハルカっちのことだよ」

「ちょっとやめてよ。私、大学に入るのだって二年浪人してるよ?」

「でも卒業した時は首席だし、今だってその年齢で名門梶永医科大学の教授じゃん」

「まぁそうだけど……」

 こんな私でも一生懸命がむしゃらに頑張っていたら、大袈裟な肩書きを得てしまったのだ。だが、本当は肩書きなんてどうでも良かった。大切なのは研究の成果だ。これ以上仕事の話ばかりしていると、気分が暗くなってしまうので話題を変えた。

「そう言えばさ、お子さんは元気?」

「うん! 二人とも元気だよ。ほら」

 知里ちゃんは正文くんと二人の男の子が写っている写真を、スマホで見せてくれた。三人とも良い笑顔だ。

「今日、正文くんも来られたら良かったのにね」

「警察官だし簡単には仕事休めないからねぇ。私もハルカっちに会わせたかったよ」

 それから二人の会話は弾み、夢中になって話した。知里ちゃんといるときはいつもそうだ。あっという間に終わりの時間が来てしまう。知里ちゃんは午後から仕事が入っているで、今日はこれでおしまいだ。
 知里ちゃんと別れて、私はある場所へ向かった。
 二十年も経つとさすがに街の景色も変わっている。もう、昔はどんなだったかすら思い出せない。変わらないのは空くらいだ。そういえば桐人の灰を撒いた日も、今日と同じ曇り空だった。
 二十年という歳月はあらゆるものを進歩させたのだ。
 灰壊病について様々なことがわかった。もし、灰壊病を治すことができれば、全く関係ないと思われていたエーテル気化症候群やウイルス性躁鬱病などの難病にも対処できる。私の研究室が突き止めた新事実だ。
 よって今三つの病気の研究者達が協力して、世界中で治療方法を探している。だけど、肝心の有効成分がなにか全くわからないのだ。
 ずっとがむしゃらに走ってきた。だけどさすがに行き詰まりを感じていて、このままでは心が折れてしまいそうだった。自分を奮い立たせるために、桐人の灰を撒いて以来初めてあの丘へ行くことにしたのだ。
 なんだか心臓の鼓動が速くなっていく。私の人生でこんな風にドキドキさせてくれるのは桐人ただ一人だ。今も、昔も、これからも、きっと変わらないだろう。あの丘だって二十年前と同じはずだ。
 丘が見え始めた時、異変に気がついた。
 咲いている草花も、ひっそりとした雰囲気も昔と全く変わらない。だけど頂上にある桜の木が、あの時と全く違うのだ。
 一体、なにが起こったのだろうか。桜の木がはっきり見える距離まで走る。目の前で起きている不思議な光景に、思わず息を呑んで立ち止まった。
 青い桜だ。
 冬の日に、青い桜が満開に咲いているのだ。それはまるで、空がここまで降りてきたようだった。優しい空色の桜は風にそっと揺れ、花びらが一枚散った。

「桐人……桐人だよね? これが桐人の青なんだね。綺麗だよ。すごく綺麗。私のために……ありがとう。私を勇気づけてくれるために、ここで待っていてくれたんだね」

 涙が止まらない。きっとこれは二十年分の涙だ。
 流れる涙と共に桐人の言葉が蘇る。

『桜の木の下って言ったけど、あの丘にある木のことだろ? 実はあれ厳密に言うと桜じゃないって知ってた?』

 そっか。
 私、やっとわかったよ。
 だから桐人はあの木の下に、灰を撒いて欲しかったんだね。
 あの木はまるで、私達の日々そのものだったから。
 桐人が教えてくれたんだよ。

『あの木ね、ラクサトニオって名前なんだよ。その花言葉がさ……』