「お着替えも一人でできるのですね。立派です、ご主人様」

「そ、そうかな……?」

 ただ着替えただけだっていうのに褒められた僕は、少し恥ずかしい気持ちを抑えながら部屋の外に出た。僕を待っていたのは、果てしなく見えるほど長い、赤い廊下だった。

 すれ違う人はどれも顔立ちがはっきりしていて、騎士甲冑を纏っていたり、アリスのようにメイド服を着ていたりと、文字通りファンタジーの世界の住人のようだ。というより、ここがそういった世界だと、僕は理解するようにした。

 それに、僕にとっての違和感も目が覚めて間もない間だけで、すぐに馴染んでいった。

 窓から見える景色はとても綺麗だった。この屋敷が高いところに立地してあるからか、時折飛び跳ねて窓の外を覗くと、屋敷の下に広がる街並みが見えた。

「おはようございます、イーサン様」

「イーサン様、本日もご機嫌麗しゅうございます」

「おはよう、皆。今日も一日、よろしくね」

「ふふっ、どうなさったのですか? まるでメイド同士のようなご挨拶ですよ」

 僕に挨拶をしてくれた従者やメイド、騎士の皆は、誰もが朗らかな人だった。

 相手が貴族の息子だからというわけではない、心からの挨拶と笑顔。ここ数年ほど作り笑いと愛想笑いばかりを見てきた僕には、その違いがよく分かった。

「貴女達、イーサン様になれなれしく接するものではありません」

「も、申し訳ありません! 廊下の清掃に行ってきます!」

「まったく……ご主人様も、よろしく、というのはいかがなものかと」

「でも、僕達の為に働いてくれるんだろう? 敬意があっても、いいんじゃないかな」

「主従とは厳格であるべきなのです……とはいえ、ご主人様が三つのお歳でここまで話せるようになり、従者を労われるというのは、素晴らしいことです」

「ありがとう、アリス」

 眼鏡をくい、と指で整えるアリスが窘めながらも僕を気遣ってくれているのは、やっぱり嬉しかった。ついでに、凛としようとする彼女の口元がちょっぴり緩んでいるのも。

 ただ、肝心の家族仲が良くないというのは、なんとなく僕にも分かった。

 それが最も顕著になったのは、階段を下りた先の食堂での、家族揃っての食事時だ。

 冗談のように広いテーブルには白いクロスが敷かれ、それぞれの席に銀の食器に乗った食事が配られる。二人の兄は父と同じ肉料理とサラダを食べていたが、僕は三歳児というのもあってか、緑黄色野菜と細かく切られた肉のスープだった。

 この歳なら仕方ないと思って口に運んでみると、存外に美味しかった。

「……イーサン、一人で食事ができるのか」

 スプーンを使ってスープを食べていた時、僕から見て左側に座っている男性――顎鬚を生やした厳めしい顔の父が言った。

 ここでようやく、僕は一人で食事ができるというのが珍しいと理解した。スプーンを置いて辺りを見回すと、食事を食べさせる係のメイドとスープを冷ます係のメイド、その他諸々のメイドとアリスがぽかんと口を開けてこちらを見ている。

 これくらいの歳の子と接する経験はあまりなかったから、分からなかったな。

「はい、アリスがマナーを教えてくれたおかげです」

「そうか。あのメイドをお前につけたのは、今のところは正解のようだ」

 咄嗟についた嘘だった。

アリスは僕の隣で驚いた顔を隠せないようだったけど、父は納得してくれた。

 厳格な父、ヴァッシュは僕自身というよりも、僕に何ができるのかを期待しているようだった。例えば、僕が話している内容より、僕がメイドの助けもなく静かに食事ができているのに興味を持って、しかも当然のように見つめているのもその一環だ。

「確かまだお歳は三つだったかと思いましたが、マナーに関してはいうことなしですね」


「イーサン様は好き嫌いもなく、食事も零さず……立派なお方だ」

 メイドや執事が(三歳にしては珍しいとして)当たり前のことを褒めてくれるのは嬉しかったけど、快く思わない人物がいるのも、僕は知っていた。

「……食事くらいでごちゃごちゃと、喧しいな」

「俺もあれくらいの頃には一人で食事くらいできたさ……調子に乗るなよ」

 わざとらしく、聞こえるように嫌味を言ってのけたのは、僕の二人の兄だ。

 今年で十三歳になる長男のザンダー、十歳の次男のケイレムはどちらも、僕を嫌っているようだった。少し寂しかったけど、貴族での兄弟というのは、家族としての関係よりも跡目争いの仇敵同士に近いと、食事が終わってから廊下でアリスに教えられた。

 仕方ないと言えば仕方ないんだけど、食堂の外で話しかけても、きっと睨んですたすたと歩き去っていくだけだったのは、やっぱり少し悲しかった。

 けど、それを差し引いても、この屋敷での生活はとても楽しい日々になっていった。




 まず、僕とアリスが部屋で向かい合う時間が増えた。

「ご主人様、本日からは私が勉強をお教えいたします」

「アリスが?」

「はい。不肖アリス、唯一の専属メイドとしてきっちりと務めを果たしてみせます」

 勉強の時間は一日に三時間ほど。その中で僕は、文字の読み書きやセルヴィッジ家や貴族にまつわる事柄、加えてこの国や世界を取り巻く環境について学ぶ機会を得た。

 そういったことを教えてほしいと言った時、アリスは少し驚いた。

 まだ三歳と少しの僕が流暢に教えを請うのがおかしいのかと思ったけど、そうではないようだった。僕の疑問に、彼女は少し間をおいてから答えてくれた。

「ご主人様は不思議なお方ですね。大抵、『魔法』について知りたがりますのに」

 多くの貴族が優先して学びたがるのは――『魔法』についてだからだ。

 魔法。体に内包される超自然的なエネルギー、『マナ』を用いた能力の総称。

 普通の人間一人につき、使用できる魔法は一種類だけ。多くは貴族や王族などの血を引く者に発現するらしいけど、アリス曰く「ここ五十年ほどで、一般人にも偶発的にではあるがマナと魔法に目覚めることがある」らしい。

 このセルヴィッジ家の屋敷にいる者は、ほぼ全てが魔法を使える。アリスだって黒い獣に変貌する魔法『獣化魔法』を使う。背中に乗せてもらうことも、わりとある。

 ちなみに貴族の場合、十歳をきっかけに特殊な儀式によって目覚めて選別される。だから僕は、まだ魔法を使えない。貴族の間では基本的に、覚醒する可能性が最も低い、炎や風、雷といった自然的な力を操る魔法――天災と同じ力を持つ魔法が貴ばれる。

 それ以外の魔法も一般人としては重宝されるが、厳格な貴族の間では、これ一つで追放に関わることもある。特に父、ヴァッシュは貴族によくあるマナ至上主義だ。マナを有しない人間を嫌うどころか、蔑むようにすらなっている。

 生まれ持った才能だけを貴び、他を貶めるなんて、よく分からないけども。

「ええと、この文章は……『虎を追いかけた』?」

「その通りです。ご主人様、これほどまで早く読み書きができるとは、感激です」

 とにもかくにも、こうして僕は、三年ほどかけてアリスから様々なことを学んだ。

 英語に似た文字の読み書きと簡単な計算だけに留まるかと思ったけど、僕がスポンジのように知識を吸収していくのを見たアリスは、より難しい勉強を課するようになった。

 だけど、僕がそれでも勉強について行けたのは、アリスが優しく教えてくれたからだ。

 さて、僕が元居た世界とは違い、大陸は大きく分けて東西南北中央の五つある。代わりにその大陸は一つ一つが巨大で、フォールドリア王国があるのは中央大陸だ。それぞれの大陸を船で行き来するので、文化交流もそれなりに多いみたいだ。

 文明の発達度合いは中世から近世くらい。人種はともかく、人間と獣の中間に当たる獣人やゴブリン、ドワーフもいると聞かされた。彼らは人を好まず、あまり会えるタイミングはないらしいけど、機会があればぜひ色々とお話をしてみたいな。

 ちなみにこれらとは別に、魔物と呼ばれる原生生物が存在する。こちらは人間のような言語を使わず、基本的に危険なモンスターとして扱われているようだった。

 また、魔法という便利なものがあるとはいえ、火薬などの技術は少しずつ進んでいるようだった。さすがに、マッチロックガナー はなかったけど。

 そして、こんなものを使う必要性があるということは――戦争もまた、存在した。

 他の大陸の事情はともかく、フォールドリア王国は五百年という月日の中で、大小さまざまな武力を有する貴族を率いた王族によって、国土を広げてきた国家だ。今でこそ戦争は起きていないが、より国力を高める機会を窺っているのは間違いない。

 セルヴィッジ家はその中でも殊更武力に長け、強力な自然の力を操る魔法で大きく王族に貢献した貴族だ。侯爵という爵位もその影響で得られたところが強い。そもそも魔法が重宝されているのは、炎や雷を戦争に用いられる点だ。

 それ以外にも、国を少し出れば獣人族と人間の戦争がある。大陸北部では国民が反乱を起こし、王族と長い争いを続けているとも聞いた。仕方のないことだけれども、どこにいても戦争があると思うと、僕は少しだけ心が痛んだ。

「……ご主人様、戦争についての知識は、今は不要かと」

「えっ?」

 ある日、アリスは僕の前で、戦争について記された本を閉じた。

「他にも知るべきことは沢山ございます。まずはアリスと、そちらについて学んでゆきましょう。戦争の歴史など、後でも構いません」

「……ありがとう、アリス。ごめんね、僕から学びたいと言っておきながら……」

「問題ありません。ご主人様の喜びと幸福こそが、私の幸せなのですから」

 僕の考えが表情に出てしまったのか、アリスが戦争の話をすることは次第になくなっていった。代わりに、国の外にある珍しい物事を教えてくれるようになった。

 僕が勉強に精を出しているという噂は、屋敷中に広がった。

 メイドや執事、使用人や騎士が僕のところに来て、話しかけてくれるようになったのもこの頃からだ。興味半分、あとは何故だか僕に会いたがってくる人が半分だった。

「イーサン様、少し前に東の大陸からやってきた香辛料です! これを使った料理を私達で作ってみましたので、よければお召し上がりくださいっ!」

「どうだい、イーサン坊ちゃま! 世にも珍しい、ドラゴンの鱗で作られた盾だぜ!」

 アリスが言うには、僕と話していると温かい気持ちになれる、と他のメイドから聞いたらしい。僕にそんな能力があるわけでも、話術に卓越しているわけでもなかったけど、そういってもらえるのは素直に嬉しくて、気づけば僕も笑顔になっていた。

 だけど、特に僕に声をかけてくれたのは、意外にもセルヴィッジ家の人ではなかった。

「やあ、イーサン! 元気にしてたかい?」

 ランカスター家の『雷鳴男爵』、ライド・オールデイ・ランカスターだ。

「ライド叔父さん、久しぶり!」

「ほら、プレゼントだ! お前が見たがっていた獣人族の首飾りだよ」

 摩訶不思議な首飾りをかけた彼は、爽やかな笑顔を僕に見せてくれた。

 彼がセルヴィッジ家の人間ではないと言ったけど、あくまで現在の話。銀髪と顎鬚、ハンサムな顔立ちが目立つライド叔父さんは父の腹違いの弟で、今はセルヴィッジ領地の隣にある、ランカスター伯爵家の長女に婿として迎え入れられている。

 複雑な政治的背景の末に、兄と歳が二十ほど離れた(つまり二十歳前半の)叔父さんが選ばれたんだけれど、結果としてその判断は大正解だった。ライド叔父さんは周辺貴族との外交で目覚ましい成果を上げ、なんと婿入り先で爵位までも手に入れたんだ。

 そんな叔父さんは、僕と会う度に沢山のお土産をくれた。

 しかも年に一度とかではなく、多い時だと月に二度ほどの単位で、だ。

「ありがとう! ところで、今日は何しに来たの?」

「君のお父さん、まあ、俺の兄上殿と色々とお話しすることがあってね。しばらくはセルヴィッジ家に居座る予定だよ……そのほうが、俺も気が楽なんだ」

 父と話し合うことが多いのは知っていたけど、理由はもう一つあるらしい。


「ご主人様、ライド様はランカスター家の男性に相当嫌われているのです。ライド様の居場所がない、と言い換えた方がよろしいかと」

 なるほど、叔父さんの有能さは、別の意味では目の上のたん瘤みたいだった。

 ランカスター家は比較的貧している貴族だったけど、ライド叔父さんのおかげで持ち直して、再び王族の信頼を勝ち得た。特に功績を上げた彼は、雷を発する魔法と男前な外見が合わさって、民衆からは『雷鳴男爵』と呼ばれる人気ぶりだ。

一方で、本来名声を得るはずだったランカスター家の男性陣は、愚鈍だなんだって領地で評価されている。だから、よそ者の叔父さんへの扱いが悪いのは、正直無理もない。

「ははは、君はクールな見た目なのに、相変わらず随分と毒舌だな」

「そうでしょうか? お土産と偽って、山奥に住む蛮族が儀式で用いる危険な道具をプレゼントしようとしているのを知らないと? 私の目を欺けているとでもお思いですか?」

「……あ、バレてた?」

 おっと、これもきっとアリスが叔父さんを遠ざけたがっている要因だね。

「当然です。ご主人様も、逃げても無駄でございます」

「待ってくれ、アリス。イーサンは下手なお土産よりずっと喜んでるぞ?」

「そうだよ、アリス! 前に読んだ本に載ってたから、僕もすごく興味があって……」

「問答無用です。きっちりと説教させていただきます」

 その野蛮なアイテムだけど、もちろんアリスに没収されたし、二人揃って説教された。

でも、並んで正座しながら僕に時折ウインクしてみせる叔父さんは、僕の憧れだ。

 ちなみに僕が叔父さん、とフランクに呼んでいるのは彼の要望だ。最初は叔父上と呼んでいたんだけど、どうにも堅苦しいのは苦手らしい。

「そういえばイーサン、頭だけじゃなくて体もきっちり鍛えてるか?」

「体? 庭で遊んだりはしてるけど……それとは違うの?」

 ライド叔父さんはアリスをちらりと見てから、首を横に振った。

「いやいや、全く別物だぞ? こんなご時世だ、自分の身を守る術くらいは知っておいて損はない。アリス、時間を見つけて彼を鍛えてやってくれ」

「かしこまりました」

 唐突なライド叔父さんの提案で、次の日から僕の勉強に『護身術』が加わった。



 勉強が終わり、食事を挟んでから、僕は週に三回だけ中庭の訓練場に連れていかれた。

屋敷や貴族を護衛する騎士達が鍛錬を積み重ねる訓練場に、僕みたいな子供は不釣り合いかと思っていたけど、そこには騎士見習いの少年もいた。といっても、彼らは「どうして貴族の子がここにいるんだろう」なんて顔をしていたけど。

「ではご主人様、ご自由に私に攻撃なさってください」

僕を真ん中あたりまで連れてきたアリスは両手を広げて、静かに微笑んだ。

 正直なところ、女性に手を上げるのはあまり気が進まなかった。どれだけ幼くても、僕は男だ。正直なところ怪我をさせるんじゃないかと思っていた。

 ――そんな認識は甘いと、僕は思い知らされた。

「うわぁっ!?」

「ご主人様、攻撃が直線的すぎます」

 とりあえずどうにでもなれと放った僕の拳が、アリスの柔らかい手に包まれたかと思うと、あっという間に僕は地べたに転がって空を仰いでいた。

 冗談のようにあっさり負けた僕は、ゆっくりと立ち上がりながら思った。

 彼女は他のメイド達のように、僕に花を持たせてはくれない。必要とあらば鞭すら打つ、真の優しさを持っているメイドなんだと、改めて実感した。

「すぐに立ち向かう姿勢を見せるとは。セルヴィッジ家の男児として、お見事です」

 アリスは褒めてこそくれたが、それからもずっと手加減はしなかった。

「イーサン様、ほら、腰を入れてパンチですぜ!」

「ほどほどにしなされ。アリス殿は下手な騎士よりも格闘技に優れているメイドだぞ」

 騎士達からも高い評価をもらうほどの敏腕メイドとの護身術訓練は、めきめきと僕に戦い方というものを身につけさせた。ある日、あんまりにも強すぎる彼女に、一度だけ手を抜いてくれないかと頼んでみたこともあった。

「私にとって、ご主人様の成長は最も喜ばしいことです。その為なら、たとえご主人様に忌み嫌われようとも私は非情にもなります」

当然ながら、アリスは表情を崩さないまま静かにノーと告げた。

 これがアリスだと知っていたから、僕は同じ頼みを二度はしなかった。

「それに、健気な少年が私に敵わず屈服する姿はとても愛おしくて興奮する――何でもありません、稽古を続けましょう」

 だけど――うん、今のは聞かなかったことにしよう。

 こうして、二年ほどの徹底した鍛錬のおかげで、僕の戦闘技術は騎士見習いに通用するほど向上した。成人男性やアリスには勝てないけど、自分の身くらいは守れる程度には。

 僕はどちらかといえば細身で非力だったけど、だからこそアリスが教えてくれた技術が役に立った。柔よく剛を制す護身術を会得できたし、剣術にもしっかりと活かせた。

 他の騎士もノウハウを教えてくれたけど、実践を担当するのはほぼアリスだった。

 というのも、アリスが勉学と護身術を教えてくれているのは、セルヴィッジ家に人員が足りないからではない――正確に言うと、僕に割く人員がいないだけなんだ。

 ザンダーとケイレムの二人はセルヴィッジ家を継ぐ立場にあるとして、父から様々なサポートを受けていた。二人とも僕が六歳になる頃には自然を操る魔法に覚醒し、次期セルヴィッジ当主の期待を寄せられていたからで、僕とは違う。

 仮に長男に何かがあっても、同じように育てた次男が跡を継ぐ。そういうシステムが貴族に根付いている以上、はっきり言うと、僕のような三男坊はおまけだった。

 とはいえ、僕はこの現状に全く不満はなかった。

 僕はアリスのまっすぐな優しさに応えるべく、どんなことにも一生懸命に取り組んだ。それがきっと、世話をしてくれるアリスへの最大の恩返しだ。

「また遊びに来たぞ、イーサン……っと、特訓中か。結構強くなったか?」

「勿論です。ライド様が思うよりもずっと気高く、素晴らしい方に成長されました」

「そ、そんなに褒められたら恥ずかしいよ、アリス!」

 何より僕とアリス、時折ライド叔父さんを交えた成長の日々は、やっぱり楽しいの一言に尽きた。他のメイドや騎士達とも、知らず知らずのうちに仲良くなれた。

 今更だけど、僕を生んで間もないうちに死んでしまったので、僕には母はいない。たった一人の専属メイド、アリスの姿は、なんとなく母親エミリアのようでもあった。

 そんな状況に一つ目の転機が訪れたのは、僕が八歳になってからだった。



 八歳になった僕の前にアリスが連れてきたのは、もう一人の専属メイドだった。

「ご主人様、こちらが今日から専属メイドとなるパトリシアです。さ、ご挨拶を」

 彼女はいかにもメイド然とした出で立ちのアリスとは違い、彼女は随分と奇抜な格好だった。アッシュのツインテールもぱっちりとしてまつ毛の長い垂れ目も、スカートを短く改造したメイド服も、これまで見てきたメイドとはまるで違った。

「えーと、よろしくお願いします、イーサン君」

 彼女は少し、いやかなり、メイドらしからぬ性格の持ち主のようだった。

 頬をポリポリと掻きながら主人に挨拶する姿は、偏見で言うならば一昔前のギャルのようだ。もしもセルヴィッジ家でなくとも、普通の貴族に仕えているとしたら、きっとこの態度だけで屋敷を追い出されちゃうんじゃないかな。

「申し訳ございません、ご主人様」

 アリスは彼女に軽く拳骨をして、無理矢理頭を下げさせた。

「パトリシアは奴隷からメイドへと雇われた身ではありますが、魔法を宿しているだけでなく、技能的にも十分セルヴィッジ家に仕える資格を有しています。ただ、私が再三注意をしているのですが、何分態度が……」

「心配しないで。僕は気にしてないよ、アリス」

「ですが、ご主人様。メイドの態度はご主人様への評価へと直結します。セルヴィッジ家の一員であるイーサン様の評価をメイドが貶めるなど、あってはならないのです」

「えー? でもさ、イーサン君って屋敷ですっごく人気じゃん。だったらさ、あたしがそんなに気を張らなくても……んぎゃっ!」

 口を尖らせるパトリシアの頭に、もう一度アリスの拳骨が突き刺さった。

「このようなさまでございます。生来のものとは本人の言い分ですが、もし、ご主人様の気分を損ねるようなことがございましたら、私がその場できつく罰します」

「はい、分かりましたっと。よろしくね、イーサン君……じゃないわ、イーサン様」

「言葉遣いも直しなさい、パトリシア。これ以上口が減らないようなら、『獣化』した私の拳をお見舞いしますが?」

「そ、それはちょっと嫌かなー……窓拭きにでも行ってきまーす」

 パトリシアは努めてアリスと目を合わせないようにしながら、すたこらさっさと廊下を走り去っていってしまった。アリスは彼女をずっと、僕の隣で睨んでいた。

「……ご主人様。パトリシアにはメイドとしての可能性を感じておりました。ですが、それは私の大きな過ちだったのかもしれません」

「そうかな? 僕はあれくらい距離感が近い方がありがたいよ」

「ご主人様はお優しすぎます。あの調子ではいずれ、ご主人様を巻き込んだ問題を起こしかねないのです。私が推薦した身ではありますが、やはりまだ早かったのでしょう」

 彼女はやれやれといった調子で、眼鏡の奥の瞳を寂し気に光らせながら言った。

 アリスが育てたというのなら、間違いなく技能面では問題ない。事実、彼女は僕の身の回りの世話を完璧にしてくれたし、そこについて手抜きはしなかった。

ただ、性格だけは教育の過程ですら矯正できなかったようだ。奴隷時代の生活が心のどこかに根付いているのか、それとも何かしらの理由があるのかも。

「んー、イーサン君に話すほどじゃないっていうか。メイドの身の上話なんて聞いたって、貴族からしたらそんなに面白くないでしょ?」

 僕は何度か事情を聞いてみたけど、アリスの返事はいつもこんな調子だった。

「あたし、仕事で忙しいんで。イーサン君もアリス先輩と、護身術の練習の時間ですよ」

「あ、うん……」

 結局、パトリシアから話を聞くことはできなかった。

 だけど、彼女の真意を聞く前に、遂にアリスが懸念していたトラブルが起きた。




「――パトリシアがいない?」

「はい、ご主人様の着替えを持ってくるよう指示してから、まだ戻っていないのです。ご主人様の下に直接帰っているのかと思いましたが……」

 パトリシアが初めて仕事を指定された時間までにこなさなかったのは、後輩メイドが初めて仕事に就いてから十日ほど経ったある日のことだった。

 普段ならあっという間に仕事をこなして、勝手にシエスタタイムに入っているような彼女だ。着替えを持ってくるくらいで、帰りが遅くなるなんてのはありえない。それに、なんだかんだでパトリシアは仕事をサボったことも一度もない。

 だから、僕だけじゃなくて、アリスすら少しだけ心配していたんだ。

「分かった、何かあったのかもしれないし、まずは彼女を探そう。僕も手伝うよ」

「お手を煩わせてしまい、申し訳ございません、ご主人様」

「気にしないで! とりあえず、普段仕事で使ってるルートに沿って彼女を探そう!」

 セルヴィッジ家の屋敷は並のそれよりもずっと広く、客人が屋内で迷子になっちゃうほどだ。だから、アリスが僕の手を借りて行動に移るのも当然と言えた。

 僕は屋敷の東側、ランドリー側を探し、アリスは南側の庭を探しに向かった。

 すると、僕が長い廊下を曲がった時、人だかりと共に甲高い声が聞こえてきた。

「お前、どうしてくれるんだ! この絵画にどれほどの価値があるか、知ってるのか!?」

 使用人達が取り囲む中、大声で人を罵っているのは僕の兄、ケイレムだ。

 十五歳とは思えないほど大きな喚き声で――言っちゃ悪いけど、とても人に向けていいような、十五歳の少年が出してはいけないような声で誰かを罵っている。

 そしてその隣、ひびの入った貴婦人の絵画の隣に座り込んでいるのは、洗濯籠に僕の衣服を押し込んだままのパトリシアだった。

 これがどんな状況なのかは、誰に説明してもらうまでもなかった。恐らくパトリシアは、廊下にかけてあった絵画にぶつかって落としてしまった。そしてその現場をケイレムに目撃されてしまい、お叱りを受けていた。

 問題は、ケイレムの怒りが、単なる説教どころじゃない点だ。

まるで自分の衣服に泥をかけられたかのように、口から火を噴きかねないほど怒り狂っている。いくら生来の短気さがあるといっても、ここまで怒るものじゃないよ。

だけど、すぐに理由は分かった。

「あー、はい、すいません。というか、さっきからあたしの魔法でこれくらいは直せますよって言ってるんですけど……」

「そういう問題じゃない! お前、セルヴィッジ家次男の俺を敬う気がないのか!? 父上に言いつければ、いつでもお前を屋敷から追い出せるんだぞ!」

「それじゃあ、クビにしてもらっても大丈夫です。申し訳ありませんでした」

「こ、こ、この奴隷上がりの女が……!」

 ケイレムをここまで怒らせた理由は、間違いなくパトリシアの態度だ。

 このまま放っておけば、彼女は間違いなく罰を受ける。それも、酷い罰を。

「ご主人様、あれは……!」

「うん、分かってる。僕が行くよ」

 騒ぎを聞いて駆け付けたアリスを置いて、僕は囲いを掻き分けてケイレムとパトリシアの間に立った。そして、周囲の使用人達に告げた。

「皆、済まないけど、仕事に戻ってもらえるかな?」

 こうやって人に囲まれていると、ますますパトリシアが不利になりかねないと思った僕は、メイドや執事、騎士達に元の仕事に戻ってもらうよう頼み込んだ。皆はそこまで興味を抱いていなかったのか、あっさりとその場を離れていってくれた。

「……何のつもりだ、イーサン?」

 ケイレムは僕に、刺すような視線をぶつけてきた。

 こうして向き合う機会はほとんどなかったけど、ケイレムは僕よりずっと背が高い。それに目も細くて、威圧的で、領主となったなら権力も相まって発言力はありそうだ。

「このメイドはセルヴィッジ家に伝わる大事な絵画を落とし、ひびを入れた。ならば当然処罰するべきだ。お前も、それくらいは理解できるな?」

「そうだね、罰されるべきだ……僕が」

「なんだと?」

「彼女の責任は、仕えている僕の責任だ。だから、罰は僕に与えてくれ」

 僕がそう言うと、ケイレムは目を見開いた。

 後ろにいるアリスとパトリシアの、息を呑む声も聞こえた。

 正直なところ、誰も傷つけずに場を丸く収める方法は、これしか思い浮かばなかった。そんな僕の言い分を、ケイレムはあっさりと受け入れてくれた。

「そうか、そうか! お前自身が望むなら、罰を与えても文句はないわけだなぁっ!」

 そして躊躇うことなく、僕の頬をひっぱたいた。

「……っ!」

 倒れ込んだ僕は、反射的にはたかれた右頬を抑えていた。内側にまでじんじんと響く痛みが確かなら、きっと赤く染まっている。

 ケイレムはというと、僕への罰をこの一打だけでは終わらせないつもりらしい。

「ったく、どいつもこいつもこんなチビをちやほやしやがって!」

 まだ倒れている僕に彼が迫ってきたけど、不意に他の黒い影が、彼の後ろから現れた。

「お待ちください」

 振り上げたケイレムの左手を後ろから止めたのは、アリスだった。

 どこまでも冷たい目でケイレムを睨む彼女の腕が、貴族の細い手首を掴んで離さなかった。彼が苛立った調子で腕を振ろうとしても、まるでびくともしなかった。

「ケイレム様。罰はもう十分でしょう。これ以上ご主人様に手を上げられるようでしたら、私も相応の手段を以って防衛しなければなりません。魔法を用いてでも、です」

「この、お前……俺を誰だと……」

「私が仕えるのはセルヴィッジ家ではなく、今はイーサン様です。それをお忘れなく」

「う、ぐ、ぐぐ……!」

 魔法を用いた影響で次第に黒く毛深くなりつつある彼女の腕と、狼の如く細くなる瞳に気圧されたのか、とうとうケイレムは手を下に下ろした。

「……いいだろう、好きにしろ! イーサン、メイドの教育くらいはしておけ!」

 そして、捨て台詞と共に乱暴な足取りで立ち去って行った。

 残されたのは僕とアリス、パトリシアだけだ。窓から射しこむ光にボクの頬が照らされたのを見たアリスは、慌てた調子で僕に駆け寄ってきた。

「ご主人様、頬をお見せください」

「僕なら大丈夫だよ。それより、パトリシアは……」

 僕がパトリシアに声をかけると、彼女はまだキョトンとした様子だった。

 パトリシアは信じられないと言いたげな顔でこちらを見つめながら、ひびの入った絵画の破損部分を、指でなぞった。すると、指先から放たれる淡い光と共に、ひびが次第に消えてゆき、あっという間に絵画は元の形を取り戻した。

 どうやら、彼女の魔法は本人の言う通り、ものを直す能力らしい。

「あの、さっきも言ってたんですけど、あたしの魔法、『修復魔法』って言うんですよね。怪我とかこれくらいの破損なら、簡単に直せちゃうんですよ。だから――」

 当たり前のように絵を壁にかけ直すパトリシアに、僕は言った。

「――ううん、絵画じゃない。それを落とした時、怪我しなかった?」

「――っ」

 瞬間、パトリシアの顔は僅かに驚愕で染まり、それからさっと目を逸らした。

 何か変なことを言ったのかな。僕はただ、彼女が怪我をしていないか確かめただけなんだけど、もしかすると貴族がメイドの心配をすること自体が珍しいのかもしれない。

 そう思って僕が首を傾げていると、アリスがずい、と前に出てきた。

「パトリシア、貴女はご主人様に対して、随分と大きな勘違いをしていたようですね。それも、ずっと傲慢な勘違いを」

「…………」

「貴女がこれまで奴隷として生きてきた中で、どれほど酷い人を見て、どれほど汚いものを見てきたのかを知る気はありません。ですが、それら有象無象とご主人様を同一視しているとするのなら、そんなくだらない価値観など捨ててしまいなさい」

 アリスが静かに告げると、パトリシアは一層ぎゅっと自分の手を握った。

「ご主人様は、貴女が――私が思うよりも、ずっとお優しい方なのです」

「そんなことないよ、アリス。今僕がやったことなんて、優しさの押し売りだ」

 僕は過剰に評価されてるみたいだ。転生する前、僕が失敗した時、誰も助けてはくれなかった。そんな悲しみとか痛みを、他の誰かにも味わってほしくないってそれだけなのに。

「……ありがとう、ございます……イーサン、様」

 でも、今回はアリスの言葉が、彼女の心を溶かしてくれたみたいだった。

 これなら、もうちょっと寄り添ってもいいかもしれない。

「イーサン君でいいよ。よろしくね、パトリシア……パティって呼んでも、いいかな?」

 僕がそう聞くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。表情はまだ、驚いているようだった。

 こんなところでする相談にしてはおかしいかもしれないけど、僕は少しでも、パトリシアの暗い顔を明るくさせたかった。彼女くらいの歳の子とはあまり接した記憶はないから、とりあえずフランクな関係を築ければいいかなと考えての提案だ。

 幸いにも、パトリシアは相変わらずぽかんとしながら、小さく頷いてくれた。

「これからは心を入れ替えてご主人様に尽くすのですよ、パトリシア」

 アリスの言葉にも頷いた彼女は、ゆっくりと僕とアリスの手を取って起き上がった。

「……申し訳ありません、イーサン君。これから、よろしく……お願いします」

「うん、よろしくね、パティ!」

 改めて互いに挨拶をすると、彼女は今度こそ、小さく微笑んでくれた。

 ――僕はやっと、ずっと自分が胸に秘めていたことを形にできた気がした。

 次の人生は、できる限り人に優しくするということ。

 相手が誰で、何であっても関係ない。分け隔てない優しさと共に生きるということ。

 それが一番大事だと教えてくれた祖母の愛情に、今度こそ報いるために。

「……優しいんですね、イーサン君は」

 パトリシアのちょっぴり力ない笑みが柔らかくなって、僕も釣られて笑った。

 こうして、笑顔と共に、僕にとって一つ目の転機がやってきた。

 もう一人の専属メイド、パトリシアの存在だ。
 
 だけど僕は、二つ目の転機が迫っていることにまだ気づいていなかった。

 二年後に迫る――十歳になった貴族の魔法とマナの有無を明かす『発動の儀』を、この時の僕はすっかり忘れていたんだ。



【パトリシア】

 ――正直に言うと、メイドなんて仕事はバカげてると思ってた。

 奴隷として売られていたあたしにマナが秘められてると知られてから、バカみたいな価値を付けられて、それをどこかの貴族が買った。ただのそれだけ。

 メイドになったのも、奴隷のままでいたくなかったから。結構あたしは要領がいいし、貴族の世話くらいお茶の子さいさい。メイド試験ってのもあっさりとパスしちゃった。

 というか、あたしにとって、貴族なんてどいつもこいつもマヌケでしかなかった。

 セルヴィッジ家でメイドデビューしてから、ヴァッシュ様の長男と次男を見たけど、どっちもはっきり言ってドラ息子。付き人がいないと着替えもできないのかってくらい他力本願だし、そのくせ人にえばるのだけは一丁前。

 マナの有無と生まれだけで人を見下して、権威を笠に着るだけの連中ばかり。
 
 だから、あたしが仕える予定のイーサンってのも、どうせ同じだろうって考えてた。

 ――だけど、違った。

「彼女の責任は、仕えている僕の責任だ。だから、罰は僕に与えてくれ」

 あたしよりずっと年下のはずの貴族のお坊ちゃまは、ずっと優しい人だった。

「そうか、そうか! お前自身が望むなら、罰を与えても文句はないわけだなぁっ!」

 絵画なんて魔法で直せるって言ってるのに話も聞けないほど頭が沸騰してる相手に、よりによってメイドなんかを庇って、自分からぶたれに行った。相手は強力な魔法を持つ貴族で、下手をすれば大怪我を負うような攻撃をされるかもしれないのに。

 なのに、イーサンお坊ちゃまはあたしなんかの代わりに殴られた。しかも、どかどか歩いていくケイレムを睨むでもなく、ましてやあたしに怒鳴り散らすでもなく、彼の次の言葉はメイドを労わるものだった。

「絵画を落とした時、怪我しなかった?」

 その時、初めて分かった。

 この人は違う。上っ面だけの輝きだとか、持って生まれた力で威張り散らすとかじゃない。本当の意味で気高い心を持った人間だって、直感できた。

 それこそ、あたしの傲慢さとふざけた態度をみっともなく感じるくらい。

 生まれて初めて、人の顔を恥ずかしくて直視できなかった。自分のせいでイーサン様の頬が赤く腫れているのが耐えられなかったし、アリス先輩の鬼のような形相を見れなかった。いつもならさらっと受け流すお叱りの言葉が、ぐさりと心に刺さった。

 心からの反省なんて、人生でするはずがないと思ってた。

 だけど、あたしは今、自分の愚かさを心底反省した。

 自分が仕える相手に、二度とあたしのせいで頭を下げさせちゃいけない。アリス先輩の厳しさを、イーサン様の優しさを無下にしちゃいけない。

 こんなあたしに、どうしようもないあたしに手を差し伸べてくれた人なんだから。

「イーサン君でいいよ。よろしくね、パティ」

「これからは心を入れ替えてご主人様に尽くすのですよ、パトリシア」

 イーサン様――イーサン君の手を握り、あたしは立ち上がる。

 誰よりも大事なご主人様の前で、あたしは生まれ変わった気がした。

 ただの怠惰なメイドから、ちょっぴり怠惰なメイドに。相変わらずアリス先輩のお小言にはちょっとだけ嫌な顔をするメイドに。

 そして――イーサン君に心から従うメイド、パトリシアに生まれ変わった。