他人に興味を持つことなんて、あったかな?
 
 いつも水樹の姿を探して、見つけたら駆け寄っている。
 同級生は嫌いだ。
 周りのみんなが楽しそうでも「学校」というステージに立たされた役者が、生徒を演じているだけに見える。
 うわべだけを飾って、うまい具合に取り繕って、ウソばかりの集合体。

 ただ同調圧力に流されるだけの存在だから、私は異端児だ。

 嫌いなものは嫌いと正直に言っただけなのに、人のよさそうな笑みを浮かべて、心に刃物を突きつけてくる陽菜。
 いじめを知っているくせに「知らない」とウソをつく人たち。
 助けを求めたのに、荒波を立てるなと言わんばかりの平塚は先生失格だと思う。

 正直者だけがバカを見る世界。
 これがすべてなら、私は母の言う通り「いらない子」だ。

「久遠寺さん、危ないよ」

 梅雨が来て、雨水で濡れた廊下がキュッキュと音を立てていた。
 その音が面白くてわざと速く歩いたり、スケートのように滑ったり。たまに勢いよく滑りすぎてバランスを崩すけど、水樹が私の腕をつかむ。
 決して転ぶことはない。

「平気、平気。大丈夫」
「転んでケガしたら、……危ないって」

 たしなめつつも、その声はとても柔らかい。水樹は幼子に付き添う保護者のようだった。
 どうしてそんなに親切なのか。
 なぜ私のことをよく知っているのか。いくら聞いても教えてくれなかった。

 そうしているうちに雨の日が増えて、屋上にはいけなくなった。そのかわり、普段通ることのない校舎の隅っこまで歩いて、数学研究室へ。

 数学研究室は教室の三分の一しかない狭い部屋だけど、今はここでお弁当を食べる。
 水樹の妹がつくるお弁当の(とりこ)になっていた。

「んー、おいしいッ! 見た目は普通のおにぎりなのにすごいなー」
「妹も久遠寺さんがたくさん食べてくれるから、喜んでたよ」

 水樹の妹って、どんな人なんだろう。
 水樹にそっくりなのかな?
 ふと女装した水樹を思い浮かべて吹き出しそうになったから、慌てて話題を変えた。

「ねえ、数学研究室なのに水樹しかいないの?」
「研究室と言っても非常勤講師の居場所だからな。数学は僕だけだし」
「職員室があるのに、ずっとここなの?」
「そうだよ。非常勤の仕事は授業だけだから常勤に先生とは違うんだ」
「ふーん」

 たくさんの先生がいるのに、水樹はここでひとり。
 私もひとりぼっちだから、声をかけてくれたのかな? そう考えると色々な辻褄が合う。
 そっか、そっかと心の中でつぶやきながら、ふくよかなお茶の香りに目を細めた。

「久遠寺さんは、焼き菓子とか好き?」
「嫌いじゃないよ」
「それなら今朝、平塚先生からもらったお菓子が」

 水樹が机の引き出しを開けた。するとここの学校とは違う制服を着た生徒の写真や、寄せ書きのようなものが目に飛び込んできた。
 カラフルすぎる派手な色使いになぜかムッとして、水樹に抱いた親近感がスゥーと引いていく。

「なんかムカつく」
「え?」

「曇った窓から聞こえてくる雨音も、ジメジメした空気も嫌い。平塚からのお菓子はもっと嫌い」
「平塚先生だろ。僕のことは呼び捨てでもいいから、ほかの先生にはちゃんとしろ」

「平塚は、平塚だよ。それにその写真は?」
「これは教え子からもらったもので」
「あっ、そう。もらったものならきちんと飾れば?」

 プイッとそっぽを向いた。
 どうせスタイル抜群で、モデルのような生徒がつくった寄せ書きに違いない。
 はあ、と大きなため息がこぼれそうになる。 

「久遠寺さんは綺麗好きなのか。ゴチャゴチャしてるの苦手?」
「そんなことないよ」

「上靴が新品みたいに綺麗だし、教科書も。まあ教科書はもっと折り目をつけて、しっかり活用してほしいけど」
「……上靴は今日、買ったばかりだから新しいよ。二日前にも買ったけど」

「えっ、毎日新品の上靴じゃないと気がすまないタイプ?」
「そんなわけないでしょう。紺野陽菜っていう意地悪な子が上靴を盗んで、捨てていくから仕方ないの。でも、もうなれたから平気」

 相変わらず汚いゴミ箱に上靴が捨ててある。わざわざ私の名前がよくわかるようにして。
 拾い上げるのも惨めだから、いつも買っている。

「平塚先生には、ちゃんと話したのか?」
「相談したけど、証拠がないから相手にされなかった」

「それでも毎日買うのは……無駄遣いだろ。お金は大切にしないと」
「もういいよ、この話は。お説教は結構です」

「でも」
「うるさいな。家庭を壊した人からのお金だから、いくら使っても平気なの!」

 つい声が大きくなってしまった。
 話のわかるちょっと年上のお兄さんって感じの水樹が、生真面目で曇りのない先生の顔をすると、大嫌いな大人に見える。

 微妙に開くこの距離も気に入らない。
 不機嫌を全開にしても水樹は怯まなかった。

「大人には大人の考え方や色々な事情があるから、そんな言い方はいけない。ちゃんと久遠寺さんの生活を考えてるはずだ」
「おじいちゃんみたいなこと言うのね」
「僕はまだ二十代なのに、オッサンを通り越しておじいちゃん? ……酷いなぁ」

 ショックを受けている様子だけど、私はお説教を聞きに来たわけじゃない。
 おいしいお弁当を食べて、ちょっぴり素敵な人と楽しい時間を過ごしたいだけ。
 いじめとか、惨めなできごとは忘れたいのに、水樹は違った。

「とにかく、このままの状態はよくない。証拠が必要だな」

 白い紙を取り出して、黒のマジックを走らせている。
 黒い線はあっという間に上靴の形になって、吹き出しがついた。
 吹き出しの中には『残念でした! 上靴はないよ~』と。
 
「この紙を靴箱に入れて、上靴はそこのロッカーに入れておけ」
「なによこれ……。上靴の絵は上手だけど、こんなの陽菜が目にしたら殺される。火に油を注ぐって言葉、知らないの?」
「火に油を注ぐか。まさにその通りだな」

 水樹は思いっきり笑い出した。

「陽菜を知らないくせに、笑わないでよッ」
「ごめん、ごめん。でも相手も同じ高校生だろ? 格闘家でもないし、噛みつきもしないし、殴ってきたこともないだろ。そいつのどこが怖いの?」
「そりゃ……」

 どこが怖いのか考えてみたものの、うまく言葉が出てこなかった。
 上靴がなくなるのは、もうなれたから怖くない。
 体操服も教科書もお金があればどうにでもなる。

 話しかけても無視されるのが怖い? 
 そんなことはない。そもそも私から陽菜に話しかけない。
 
 バカにしたような口調で笑われるのが怖かった? 
 嫌だなぁと思うけど、怖いとは少し違う。
 
「なにかあったら僕が助けにいく。ここを自由に使って久遠寺さんの居場所にするから、それじゃダメか?」
「私の居場所?」

 よくわからない感情の塊が、胸の中でぐっと大きくふくらんだ。すると急に息が詰まって、泣きたくないのに涙が出そうになる。
 同時に母のことを思い出した。

『あんたがいればあの人が帰ってくると思ったのに! あんたなんかいらない。出ていけッ』

 怒鳴り声と共に長い髪を振りみだす母は、大きな手を振りあげて私の頬を引っ叩く。
 泣いたら、泣くなとどやされて、泣かなかったら泣くまで――。
 暴力に飽きたら、母は私をつまみ出す。玄関のドアをたたきながら、住む場所がなくなる恐怖を刻まれた。

 学校には私の席がある。
 みんなで食べる温かい給食は大好き。
 勉強ができたから、先生には褒められた。教室を新しい居場所にしたかったけど、父のせいで長く続かない。
 
 私はスキャンダルにまみれた俳優、久遠寺公康の娘。
 これが母を苦しめて、周囲から好奇なまなざしを向けられる。
 いつだって新しい居場所をつくる前に奪われていた。

「久遠寺さん、どうしたの?」

 暗く沈んだ心に水樹の明るい声がふってきた。
 いまはまだ朗らかな笑みを浮かべいるけど、水樹は先生だ。平塚のこともある。信用できる人かどうかはわからない。

 ちょっとした正義感から、いじめに遭うかわいそうな生徒に手を差し伸べただけ。そう考えると心がスーッと冷えて惨めな気持ちだけが残った。

「私は、このままでもいいの。陽菜はずるいから、どうせなにも変わらないと思う」
「変わらないのは過去だけだ。どんなに頑張っても過去はやり直せないだろ。でも、見直すことはできるんだ。過去を見直して、前に進むことはできる」
「過去を……見直す?」
 
 水樹は大きくうなずいた。

「証拠がないなら、証拠をつかもう。久遠寺さんには諦めてほしくないんだ」

 私には?
 まるで水樹はなにかを諦めてきたような口調だった。

 不意に青いガラスのような空にぐっと手をのばす水樹の姿を思い出した。
 あの日の空はどこまでも青くて心が震えたけど、水樹の横顔はどこか寂しげで消えてしまいそうだった。
  
「……わかった。上靴はここに預ける。その紙もちょうだい」
「そうか。それじゃこれも渡しておく」

 上靴の絵と一緒に鍵を渡された。

「これは?」
「数学研究室の鍵。僕は毎日ここにいるわけじゃないから、渡しておく」
「……いいの? 机の中とか勝手に見るよ?」

 意地悪な笑みを浮かべてみたけど、ふわりと水樹の大きな手が頭の上にポンッとのった。

「構わないよ。見られて困るようなものは入ってないし」

 無垢な少年のような笑顔。
 出会ってまもない生徒を簡単に信じて、あれこれ手を差し伸べて。
 私には理解できない。
 でも……。

「ずるい」

 水樹はずるいと思った。
 屈託のない笑顔で私の心に入ってきたくせに、この学校に毎日いないってどういうこと?
 鍵ひとつ渡して、籠城(ろうじょう)でもなんでもすればいい。あとはお好きにどうぞと言っている。

「えっ、ずるい? どうして?」
「この紙を靴箱に入れて陽菜が激怒したときに、水樹がいなかったら……。私、殺されるかもしれないよ? それじゃまったく意味ないでしょう。また誰も助けてくれなかったら、今度こそ――」

 屋上から飛び降りて、死んでやる。
 中途半端な優しさはいらない。
 つかんだ手を離されるのはもうこりごりだ。

「ほっぺにケチャップがついてるから。大人のくせに子どもみたい」
「うわっ、本当だ。あ、待って。ちょっとぉー」

 水樹の優しさから逃げ出した。
 つかんだ手は離される前に私から離す。
 深く傷つく前に身を引いた方がいい。そうすれば心に傷が残らない。

「よし、決めた。もう水樹には頼らない」

 決意を口にしたのに、水樹の描いた絵と鍵をしっかり握りしめている。
 ゴミ箱が目に入っても、鍵を捨てることができない。

 誰にも頼らずひとりで生きる。
 嫌になれば死ねばいいと割り切りながら、いつもどこかでなにかを期待している浅ましい心に嫌気がさす。
 
 心にたまるモヤモヤが雨雲のように重たくのしかかると、急に鏡のように輝く澄んだ青い空が見たくなった。
 雨粒が窓ガラスにぶつかり、滝のように流れ落ちるのを恨めしく思いながら、授業中も休み時間も水樹から渡された鍵をずっと眺めていた。