風はいつも君色に染まる

「いらっしゃいませ」
 古いガラス扉がガラガラと左右に引き開かれる重い音に、私は反射的に顔を上げ、同じ言葉をくり返す。扉から入ってくる買いもの客は、時に初めての顔で、時によく見慣れた顔で、いくつかの決まったメニューの中から好きなものを注文する。出来上がるまでの短い時間を過ごす店内は、腰かける場所さえないほどに狭い。商店街の外れの小さな弁当屋――そこが十二歳からの私の居場所だった。

 父の従兄妹だという叔母夫婦は、優しい人たちだった。不幸な事件で母を亡くした私を、深くは詮索しないでそのまま受け入れてくれた。 
「何もしないで居候しているのは、千紗ちゃんだって居心地が悪いだろうから」と時々は家業の弁当屋を手伝わせてくれ、こんな私でも少しは役に立つのだという自負も与えてくれた。 
 叔母たちのもとから、知りあいは誰もいない小学校と中学校へ通い、私は十六歳になった。 友達は一人も作らなかった。自分のことを話さず、休み時間になるとふらりと教室からいなくなる転校生を気にかけ、声をかけてくれる子も、都会とは違いこの小さな町には多かった。でもいつまで経っても馴染もうとしない私と、クラスメートの間の溝は、時が経つにつれ深くなるばかりだった。 
 人と交わるのが面倒だったわけではない。話しかけてもらえるのは嬉しかったし、優しい子たちに囲まれているのは、正直幸せだった。だが楽しいことや面白いことがあると、すぐ考えてしまうのだ。――あの子たちは今どうしているのだろうと。 
『希望の家』がなくなり、そこで暮らしていた子供たちはバラバラに違う施設へひき取られた。中には暴力が原因で別に暮らしていた親と、再び暮らすようになった子もいる。
(鈴ちゃん泣いてないかな……和真君は新しいお母さんとうまくいってるんだろうか?)
 本来なら園長先生のもとで、まだみんな一緒に暮らしていただろうと思うといたたまれない。
(いつか……いつかみんなを訪ねて、一人一人に謝りたい)
 それが私の心からの願いだった。そして――。
(いつか私も、園長先生のように行き場のない子供たちの避難場所を作ってあげたい)
 いつしかそれが、私の生きる理由になっていた。そのために、もともとは行くつもりのなかった高校にも、夜間ではあるが通うことにした。大学に進学し、福祉や教育について学ぶ。そしていつか園長先生のように、本当に子供たちを思いやれる施設を開く。そのために母が残してくれた貯金にも保険金にも、なるべく手をつけなかった。あれほど傷つき、もう一歩も踏みだせないと思った事件から四年。私は背中に十字架を背負いながらも、一歩ずつ小さな歩幅で、確かに前へ進もうとしていた。

「いらっしゃいませ」
 私が弁当屋の店頭に立つ夕方に、店を訪れる客の半分は常連客だ。
「千紗ちゃん、いつものやつ」
「はい」
 仕事帰りのサラリーマン。二人暮しの新婚夫婦。母のように女手一つで小さな子供を育てているシングルマザー。特別な会話をするわけではないが、毎日のように同じ顔を見るのが習慣になると、来店のない日には「今日はどうしたんだろう?」と心配したりもする。 
 そういう中でも彼は特別だった。毎日決まった時間に、毎日同じ弁当を三つ買いに来る若い男の人。叔母さんと彼の会話で、最近近くの診療所へ赴任してきた医師の息子なのだと知った。 
「父は、医者といっても雇われ医師だから安月給で……その上僕が大学に進学したばっかりで、うちって実は、かなり貧乏なんです」
 ボサボサの髪を雑にかき上げながら、大きな眼鏡越しに屈託なく笑うその人は、言葉とは裏腹にいつも笑顔だった。野暮ったい大きなシャツを着、いまどき珍しいぶ厚い眼鏡をかけた細身の青年。どちらかといえば無愛想に店頭に立つ私にも、躊躇なく笑いかける。
「千紗ちゃん、今日もお得弁当三つね」
 いつもどおりの注文に、仕切りの向こうの厨房から叔母が声をはり上げた。
「蒼ちゃん! 野菜も食べないといつか具合が悪くなるよ! あんただって医者の卵なんだろ? 千紗、私のおごりでいいから今日はサラダもつけといて!」
「はい」
 頷いた私を慌てて両手で制し、その人――蒼之さんは急いで鞄から財布を取り出した。
「待って千紗ちゃん! お金ならちゃんと払うから! いやあほんと、小母さんにはかなわないなあー」
 人の良すぎる笑顔でにこにこと笑う蒼之さんは、毎日休みなく働いている父親を少しでも助けるため、自分も医師を目指しているのだといつか語っていた。おそらく患者や看護師に怒られても、こういうふうに笑っている優しい医師になるのだろう。
(うん……ぴったりだな……)
 財布の中身を必死に探っている様子を頭の上から見ていたら、ふいに上目遣いに視線を向けられ、ドキリとした。
「なに?」
 いつもぶ厚い眼鏡に隠されている蒼之さんの目は、眼鏡のない位置から見ると私のよく知る人に似ていた。――どんなに忘れようとしても、決して忘れられない人――紅君。
「なんでも……」
 慌てて視線を逸らすと、その先にわざわざ移動してまで顔を覗きこまれる。
「千紗ちゃん……?」
 どちらかといえば面長の顔も、細すぎるほどに華奢な体つきも、真っ黒で硬そうな髪も、蒼之さんはまったく紅君に似ていない。だが時々ちらりと見える目元だけ、いつも笑顔なところと、相手の心の機微に敏感なところだけ、とてもよく似ている。 
「なんですか?」
 失礼にならない程度にぶっきらぼうに答える私にも、蒼之さんの笑顔は崩れない。
「うん……なんでもない。また、明日ね……」
 にっこり笑ってうしろ手に手を振る姿が、また忘れられない少年のそれと重なり、私はブルブルと首を横に振った。 
「千紗……?」
 叔母が訝しげに問いかける。どうやら私の様子がおかしいと察してくれたらしい。私の周りにいる人はどうしてこれほど優しいのだろう。私自身は何も恩を返せないどころか、迷惑ばかりかけているというのに。 
「もうすぐ学校に行く時間だろ? 今日はもう上がりな……一人でも面倒臭がらずにちゃんとご飯食べるんだよ? あんただって蒼ちゃんと変わんないくらい、食事には無頓着なんだから」
「……はい」
 叔母が苦笑する気配を背後に感じながら、私はつけていたエプロンを外した。夕食用にと叔母がくれた弁当を持って店から出ると、裏口近くの塀の横に、その蒼之さんがしゃがんでいた。 
「あーあ、そんなにがっつくなよ……今日はちゃんとたくさん持ってきたからさ……」
 背中越しに覗いてみると、五匹もの野良猫が彼の前に集まっていた。買ったばかりの自分の弁当は塀の上へ置き、彼が手にしているのは煮干しの袋だろうか。にゃあにゃあと懐っこく鳴く猫に、まるで人間相手のように自然に話しかける背中を見ていると、思わず頬が緩む。
(本当に優しい人……きっと誰が見ていても見ていなくても、変わらずに優しい人……)
 気がついたら蒼之さんが、しゃがんだ体勢のまま、私をふり返っていた。
「千紗ちゃん……!」
 にっこりと笑いかけられ、逆に私の表情は凍りつく。笑顔の作り方は、四年前のあの日に忘れた。大好きだった紅君の笑顔を思い出せば思い出すほど、私自身は笑えなくなる。どことなく紅君と印象が被る蒼之さんの笑顔は、私にとっては見ているだけで心がひきつるようだった。
「もう今日は帰るところ? これから学校?」
「はい」
 私が笑うのを苦手なことも、尋ねられなければ決して自分からは口を開かないことも、全部わかっているかのように蒼之さんは接してくれる。それが、彼は本当に優しい人なのだと思うところであり、きっと良い医師になるだろうと思う所以でもあった。 
「ここで猫を集めてたらやっぱダメかな……お弁当屋の裏だもんね……」
 私の出てきた裏口と、幸せそうに煮干しをほおばる猫たちを代わる代わる見ながら、蒼之さんは申し訳なさそうに頭を掻く。私はゆっくりと首を振り、彼の隣にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですよ……叔母さんも叔父さんも野良犬や野良猫を放っとけない優しい人だから……行く宛てのない私を拾ってくれたみたいに……」
「千紗ちゃん……」
 呼びかけられてはっとした。穏やかな蒼之さんの雰囲気に安心し、つい錯覚を起こした。まるで紅君の隣にいた頃のような感覚で、余計なことを話してしまった。
「私……!」
 立ち上がって急いで背を向け、走り出そうとしたら背中に声がかかった。 
「千紗ちゃん! 実際三つ年上なわけだけど……ごらんのとおり僕は頼りないし、君ほどしっかりもしてないから、『さん』はいらないよ……敬語もいらない!」
 ふり返ると蒼之さんも私と同じように立ち上がり、こちらを見ていた。提案はしたものの落ち着かない様子で、困ったようにこちらを見ている姿は、確かに彼が言うようにあまり年上らしくはない。だからといって「さん」づけでないなら、いったい何と呼べばいいのだろう。 
「蒼ちゃん……?」
 叔母が彼を呼んでいるままに呼びかけてみると、蒼之さんがにっこり笑った。それは、私が思わずドキリとせずにはいられない、紅君にどことなく似た満面の笑みだった。 
「うん。それでいいよ。千紗ちゃん……」
 紅君を初めて名前で呼んだ時の焦りと緊張が、その瞬間私の胸に甦った。ありありと甦った。
「今日は特別にキャットフードだぞ……栄養バランスを考えたらたまにはこういうのも食べなきゃなんて、千紗ちゃんは優しいよな……感謝しろよ、お前ら」
 いつものように猫に話しかけながら、順番に撫でている細身の背中に、私は思わず叫んでしまう。
「優しいのは……私じゃなくて、蒼ちゃんだよ!」
 しゃがんだままゆっくりと、彼が私をふり返った。
「いや、千紗ちゃんは優しいよ……」
 満面の笑顔でくり返され、泣きそうな気持ちになる。弁当屋から叔母たちの家へと帰る夕暮れ。裏口で蒼ちゃんと一緒に野良猫にご飯をあげるのが、私の日課になりつつあった。 
 毎日決まった時間に決まった弁当を三つ買いに来る蒼ちゃんと、夜間の高校へ通うため、昼間働いている弁当屋からいったん家へと帰る私の帰宅時間は同じ。特に約束をしたわけでもなかったが、自然と毎日ここで少しの時間を共に過ごすようになった。 
 一人で食べる夕食は寂しいので、私は店の裏に放置された古い椅子に座り、猫たちと一緒にここで弁当を食べる。蒼ちゃんは、自分が買った弁当を塀の上へ置き、いつもニコニコしながら私たちを見ていた。 
「早く持って帰らなくていいの?」
 塀の上の弁当を箸で指すと、彼は困ったようにボサボサの髪をかき上げる。
「ほんとはまだ、父は時間外診療中なんだ……だからもうちょっとしてから、あっため直して食べる。ごめん……出来たてが美味しいってことはわかってるんだけど……」
 私は大慌てで顔の前で手を振った。
「ううん。そんなつもりじゃないの! ごめんなさい……でも……だったらもう少し遅い時間に買いに来たらいいんじゃ……」 
 蒼ちゃんがクルリと私に背を向けた。キャットフードを食べ終わり、その場に丸くなろうとしていた猫を一匹、腕に抱き上げる。
「それじゃ千紗ちゃんには会えない……」
 ドキンと、私の心臓が小さく跳ねた。
(それって……どういう意味だろう……?)
 焦る私の様子がわかったかのように、蒼ちゃんはふり向く。 
「こいつらが寂しがるだろ?」
 腕に抱えていた猫を顔の近くまで高く掲げ、にっこりと笑った。蒼ちゃんのぶ厚い眼鏡に夕陽が反射し、キラリと眩しい。その輝きよりも、彼の笑顔はさらに眩しい。
 真っ直ぐに見ているのが辛く、私は膝に抱えた弁当に視線を落とした。私のためにと、叔母があれもこれもと詰めてくれたスペシャル弁当。店のメニューにはないものだが、本当は一番安価なはずの蒼ちゃんのお得弁当の中身も、限りなくこれに近いことを私は知っている。
「お父さんは遅いんだったら、蒼ちゃんも今、ここで食べたらいいのに……」
 再び弁当に箸を伸ばしながら呟くと、彼が私の前にしゃがみこんだ。 
「うん。いつかそうできたらいいなって、僕も思う。でも今はまだ……弟と一緒に食べてやらないと……」
 私ははっと顔を上げた。 
「弟さんが待ってるの? だったらすぐに帰らなきゃ!」
 彼の口調から、まだ小さな子なのだろうと思った。しかし私の予想は外れていた。
「大丈夫だよ。弟って言ってももう中三で、今度高校生になるんだ……それに僕、ここにはいつも三十分もいないだろ? 千紗ちゃんとこいつらが夕ご飯を食べる間ぐらい、弟だって待っててくれるよ……ひょっとしたら僕が帰らなくて、一人きりのほうがいいって思ってるかも」
「蒼ちゃん……?」
 いつもの笑顔が少し寂しそうになった気がし、私は首を傾げた。ぶ厚い眼鏡の奥の蒼ちゃんの瞳が、これまで見たことのない色に揺れる。 
「変なこと言ってごめん……中三って言ったけど、あいつ、年は千紗ちゃんと同じなんだ……小学生の頃に事故に遭って、一年ブランクがあるから……」
「そう…………」
 普段は痛みなどまるで感じない背中の傷が、ふいに疼いたような気がした。 
「ずいぶんひどい怪我で、長い間入院してて……それに他にも……他にもいろんなことがあって……弟はあんまり食事に対する意欲がないんだ。僕が一緒じゃないとご飯を食べない」
「………………!」
 何も言えずに息を呑んだ私に、蒼ちゃんが慌てて笑いかける。まるでそんなことなどなんでもないというふうに、今度の笑顔には一点の曇りもなかった。 
「大丈夫! ほんとに、一時期よりはずいぶんマシになったんだ! この町に来て、無理に勧めなくってもあいつが自分から食べてくれる美味しいお弁当屋さんも見つけたし!」
 大きな声できっぱりと言いきりながら、叔母たちの店を指差す笑顔に、一瞬、小さな少年のそれが重なる。胸に痛い面影を、首を横に振って追い払っていると、頭の中に甦る言葉があった。『希望の家』に初めて行った日、私を送る車の中で、園長先生がかけてくれた言葉。
『自分が辛い思いをした子は、他の人に優しいデス……あなたやコウもそう……』
(そうか……そうなんだね……)
 蒼ちゃんの優しさは――猫にも私にも区別なく発揮される優しさは――きっと彼がこれまで、辛い思いをしてきたからだ。彼の母親は、彼がまだ小さな頃に亡くなったと、噂好きの近所の小母さんが教えてくれた。父親は睡眠時間も休日も削り、医師として懸命に働いている。そういう中で大怪我をした弟を、おそらく蒼ちゃんが守ったのだ。ひょっとすると落ちこんだり、自暴自棄になったりしたかもしれない弟の心を、この笑顔でずっと守ってきたのだ。 
『大丈夫。大丈夫だよ。きっとよくなるよ』
 私と彼はついこの間、親しく話すようになったばかりで、よく知っていると言える仲ではない。ましてや私は、その場にいたわけでもない。それなのに蒼ちゃんのそういう姿は、ありありと想像ができた。優しい声まで、実際に聞こえてきそうだった。
「千紗ちゃん……?」
 呼びかけられて初めて、自分が泣いていることに気づく。慌てて手の甲で頬を拭った。
「ごめん、蒼ちゃん……」
 泣きたいのは私ではない。蒼ちゃんのほうだろう。きっと彼はこれまで涙など誰にも見せず、いつも笑い、実際心の中では一人で泣いてきたのだろう。
『我慢しなくってもいいんだ。辛かったら、悲しかったら泣いていいんだ』
 紅君にかけてもらった大切な言葉が心に甦る。そう言ってもらい、紅君にギュッと抱きしめられ、十一歳の私は生まれて初めて人前で声を上げて泣いた。 
(私……!)
 できるならば、蒼ちゃんに同じ言葉をかけたい。紅君が私の心を軽くしてくれたように、私も蒼ちゃんのためにできることをしたい。しかし蒼ちゃんへ手を伸ばすには、十六歳の私はもう大人で、他意なく抱きしめてしまうには、彼に対する感情が複雑で、そして絶対に叶わないとわかっていても、忘れられない大切な約束を、私はやはり手放せなかった。
(紅君……!)
 必死に記憶の欠片を繋ぎあわせなければ、今では思い浮かべることすら難しくなりつつある面影を、心の中で抱きしめる。 
(紅君!)
 俯いた私の頭を、蒼ちゃんがポンと軽く叩いた。顔を上げると優しい笑顔が私を見下ろしており、その笑顔のおかげでまた紅君の顔を思い出せた。
(私は酷い人間だ……身勝手だ……)
それなのにそういう私のことでさえ気遣い、蒼ちゃんは笑ってくれる。
「ごめん……この話はもうおしまい! いつか千紗ちゃんも、弟に会わせてあげるから。そしたらもうそんなに心配することないって、わかると思うから! だから大丈夫だよ……」
 夕焼けに染まる空を笑顔で見上げた蒼ちゃんの横顔は、凛と輝いていて強かった。「僕は頼りないから」などといつも自分を卑下して笑っている蒼ちゃんの強さを、私は胸に刻んだ。
 その強さに、私も『彼』も大きく守られていたことには、その時はまだ気づかなかった。
 小さな町が夕焼けに染まる頃、電車に乗って登校する私の高校は、隣町の繁華街にある。普通に昼間に通う高校ならば住んでいる町にもあったが、進学先に夜間高校を選んだので、私は週に五日、こうして十分と少しの時間を電車に揺られることになった。 
 入学してそろそろ一年になるが、昼間の学校に通えばよかったと後悔したことは一度もない。 大勢のクラスメートに紛れ、学校行事にも部活にも特に積極的に参加しないまま過ごした中学三年間は、私にとって苦痛でしかなかった。だからそれぞれが絶妙に距離を取り、お互いのことを変に詮索しない今の友人関係が、心地よかった。
 あまり多いとはいえないクラスメートは、昼間はそれぞれに仕事を持っており、それでも勉強がしたくて夜学に通っているのだから、余計な時間もお金もない。教室に一緒にいる間は楽しくおしゃべりもするが、それ以外での接触はなかった。そんな割り切った関係が楽だった。
「おはよう。千紗」
「おはよう」
 夕方なのに『おはよう』なんてと、最初は照れ臭く感じた挨拶にも、もう慣れた。十五人しかいない教室。一人で二、三席使えるほど机は余っているが、女の子四人はいつも決まった席に並んで座る。 
「どうしよう……! 私、今日は絶対当たるのに、予習してない!」
「そんなの誰だってしてないよ……」
「千紗! 千紗さま! お願い、急いでこの問題解いて!」
 短い休み時間に交わされる会話は、中学時代によく耳にしていたものと変わらない。だが、どんなことにも「面倒くさい」などと言わず、真剣に向きあう彼女たちが、私は好きだった。 
「うーん……解けるかな……?」
「千紗に解けなきゃ誰が解けるのよ!」
 これまで教室の隅でひっそりと学校生活を送ってきた私を、彼女たちはかなりかってくれている。裏表などまるでない素直な褒め言葉が、面映ゆいながらも嬉しかった。ついらしくもなく、頑張ってしまおうかという気が起きる。
「うん……じゃあ解いてみよう……」
 夢に向かって努力しようと私が前向きになれたのも、ひょっとすると今の環境のおかげかもしれなかった。高いビルの向こうに夕陽が姿を消し、教室の窓から見える風景は、瞬きする間にも黒く塗り潰されていく。代わりに輝き始めるのは色とりどりのネオン。それさえ霞むほどに煌々と電気が点いた夜の教室で、私はこれまでで一番自分らしく、学校生活を送っていた。
 
「ふーん。それじゃあ、圧倒的に男子のほうが多いんだ?」
「うん。毎日全員が揃うってわけじゃないけど、少なくとも女子の三倍はいるかな……」
「そうか……」
 夕方のいつもの時間、弁当屋の裏で猫たちにご飯をあげながら、蒼ちゃんが私の学校について聞いてきた。高校には進学しないと言っている彼の弟に、私の通う夜間高校を勧めようと考えているらしい。
「あまり人と関わりたくないって言うんだ……通信制の高校って手もあるけど、それじゃあいつ、ほんとに家から出ないことになっちゃうからなあ……」
 しゃがんだ格好のまま私を見上げる蒼ちゃんは、優しい『お兄ちゃん』の顔をしていた。
「今は嫌々でも……友だちと結んだ絆が、いつかあいつを助ける日が来る……きっと来ると思う……友だちってさ……いろいろ煩わしいことはあっても決して不必要なものではないよね」
 一言一言ゆっくりと語られる言葉は、まるで私自身へ向けて発されているかのようで、私は真剣に頷き返す。
「うん」
 ぱっと輝くように、蒼ちゃんが笑顔になった。
「千紗ちゃんは素直だ。あいつも……弟も……ほんとはとっても素直なんだ……うん、決めた。ちょっと話をしてみよう」
 すっくと立ち上がった蒼ちゃんは、私に向かって右手をさし出す。
「入学するって決めたら、その時はどうぞよろしくね。先輩」
「うん」
 私も手を出し、蒼ちゃんの手を握る。力強く握り返され、ドキリとした。真っ直ぐに向けられる蒼ちゃんの笑顔はどうしても、私が固く閉ざそうとしている記憶の蓋をずらしてしまう。
(紅君……)
 あの頃、確かに自分に向かってさし出されていた小さな手を、まざまざと思い出した。
(今どうしてるんだろう? 元気にしてるかな……?)
 蒼ちゃんはいつも真正面から私を見ている。それなのに私は、すぐに違う人のことを考える。何を聞いても何を目にしても、思考の一番深いところではいつも紅君のことだけを考えている。
 そういう自分が申し訳なく、私はぎこちなく目を逸らした。まるで私の心の葛藤がわかったかのように、蒼ちゃんも握っていた手を放す。
「じゃあ、また明日。学校……気をつけて行っておいでね、千紗ちゃん」
「うん」
 短い返事しかしない私にも、いつも笑顔で接してくれる人。優しい、優しい人。私が抱えている複雑な思いを全て察してくれているはずなどないが、蒼ちゃんは何も聞かず何も言わず、ただほっとするような優しい時間だけを与えてくれる。
(ごめん蒼ちゃん……ありがとう……)
 その居心地の良さに自分が甘えているということは、私にも重々わかっていた。
 朝早くの仕込みも、厨房での調理も、店頭での販売も、叔母たちの小さな弁当屋では叔母と叔父と私の三人でやる。昼間の配達だけバイトを雇っていたが、その日は体調が悪いということで、急に来れなくなってしまった。 
「ごめん、千紗。今日は新しい注文は受けないけど、それだけはずいぶん前から予約をもらってたやつだから……」
「はい。大丈夫……すぐ近くだし、急いで行ってくる」
「そんなこと気にしなくていいから、気をつけて行くんだよ?」
 まるで小さな子供にお遣いを頼むかのように、何度も念を押す叔母は、私が交通事故に遭ってから車が恐くなったことも、配達先へと続く大通りをいつもは決して通らないことも、よく知っている。だから心配して、必要以上に声をかけてくれる。
「うん。大丈夫……」
 まるで自分自身に言い聞かせるかのようにくり返し、私は両手に大きなビニール袋を下げて店を出た。
 行き先は店からそう遠くない大学の研究室だった。小さな町には不釣りあいな総合大学は、広大な敷地をぐるりと樹木に囲まれている。正門へと続く大通りにも、左右に大きな樹が植樹されており、木陰が多くて心地よい場所ではあったが、私はどうにも苦手だった。多くの車が途切れることなく通る道路を、耳を塞いで駆け抜けたい気持ちで足早に歩く。
(ここはあの場所じゃない! 違う! 違う!)
 必死に心の中で唱えながら、逃げこむように大学の構内へ入った。忙しなく車が行き来していた往来とはまるで別世界のように、そこでは時間がゆっくりと流れていた。煉瓦が敷きつめられた舗道や緑の芝生を行く学生たちは、みんな輝いて見える。
 楽しそうに談笑している女の人たちも、一直線に目的地へ向かっている男の人も、年齢的には私とそう変わらないはずなのにずいぶん大人に感じた。自分が場違いなところへ迷いこんだ気がし、不安になる。
(これを届けて早く帰ろう……)
 場違いなのは年齢のせいだろうか。それとも眩しすぎるほどの太陽の下で、楽しそうに笑う女子大生には、やはり自分はなれそうにないと思えるからだろうか。四年の高校生活を終えるまでには答えを見つけなければならない苦しい問いを、必死に考えながら歩いていると、見慣れた背中を見つけた。周りの人とは違うスピードで、空を見上げたりしながら建物へと向かう広い背中。 
(蒼ちゃん!)
 今すぐ駆け寄り、不安を拭い去ってしまいたいと強く感じ、そして初めて気がついた。蒼ちゃんもこの大学へ通う大学生だが、私はこれまで彼に気後れを感じたことはなかった。
(初めから懐っこく話しかけてくれたから? それとも独特の優しく穏やかな雰囲気のせい? それとも他にまだ何か理由が……?)
 考えこんだおかげで走りだすのが遅れ、彼の名前を声にして呼ばないでよかったと、次の瞬間心から思った。
「蒼之!」
 建物から出てきた女の人が蒼ちゃんに向かって手を振った。
「やあ」
 蒼ちゃんも手を上げて返事をするので、私の胸はドキリと跳ねる。
(な……に……?)
 蒼ちゃんに歩み寄った女の人は笑顔で何かを話し、まるで当たり前のように彼の隣へ並ぶ。 蒼ちゃんの腕に腕を絡め、親しげに寄せられた綺麗な巻き髪の頭を、私はぼんやりと見ていた。
 いつの間にか足は止まっていた。ほんの先ほどまで重さなどまるで感じなかった両手の弁当が、腕が痛くなるほどに重かった。慌ててエプロンを外して店から出てきたままの普段着。履き慣れた古い靴。軽く梳かしてうしろで一つに縛っただけの髪。もちろん化粧っけなどまるでない素顔。これまで気にとめたこともなかった自分の何もかもが、やけに野暮ったく感じた。蒼ちゃんに寄り添って歩く女の人の綺麗な笑顔と服装が、胸に痛くて堪らなかった。 
(早く! 早く!)
 先ほどまでよりなおさら、ここから逃げたい気持ちが強い。一向に動く気配のない自分の足を叱り飛ばすように、私は何度も心の中でくり返した。
(早く帰ろう! 配達を済ませて、急いでここから帰ろう!)
 蒼ちゃんと女の人が向かっている入り口とは別の入り口へ向かい、私は駆けだした。
 指定された部屋に辿り着くまでには時間がかかった。大学内の建物は学部や学科によっていくつにもわかれており、案内板も見ずに探し回った結果、思っていた以上に遅くなった。叔母が早い時間に送り出してくれたおかげで、指定時間には遅れなかったことに感謝する。 
「お待たせしました」
 頭を下げながら入った部屋の中には四、五人の女性がいた。その中に、先ほど蒼ちゃんと一緒だった女の人がおり、愕然とする。蒼ちゃんはいないことにほっとしながら、私は持ってきた弁当を部屋の中央にある大きな机に載せた。 
「ごくろうさま。ありがとう」
 にこりともせずに言った女の人は、蒼ちゃんと一緒にいた時とは雰囲気が違った。綺麗に整えた眉を寄せ、不機嫌そうに煙草を吸っているからだろうか。一瞬別人かと思う。だが――。
「まったくイライラするわあの男」
「あの男って?」
「蒼之よ蒼之! 決まってるじゃない!」
 周りにいる女の人たちとの会話に、蒼ちゃんの名前が出てきたのでやはり先ほどの人にまちがいない。 
「親は医者だし、本人も医学部だし……今のうちにものにしとこうと思ったのに、全然ダメ!」
「ハハハッ、そりゃあんたがタイプじゃないからでしょ」
「冗談じゃないわよ! こっちはレベル落としてんのよ! 背は高いし、もとの顔はいいから磨けばどうにかなるだろうけど……今のままじゃただのダサい男じゃない!」 
「ハハッ言えてる」
「あんたが変身させてやるんじゃなかったの? ずっとそう言ってたじゃない」
「だから全然ダメなんだってば! いくら言ったってヘラヘラ笑ってるだけで、私の話、聞いてんだか、聞いてないんだか……ほんっとわかんない!」
「ハハッ、そりゃダメだわ」
「くそっ! 腹が立つ……!」
 頭が痛い。耳の奥で大きく鳴り響いている耳鳴りを、誰か止めてほしい。それか、今すぐ彼女たちの会話がこれ以上聞こえないようにしてほしい。
「もうやめちゃえば?」
「半年もかけたのに? 冗談じゃないわ! やめるんだったらたっぷり貢がせてからよ!」
「えー……? 美奈って鬼!」
「ほんと、ほんと」 
 キャアキャアと笑っている女の人たちはいったい何が面白いのだろう。私にはわからない。わかるはずがない。ギリギリと絞めあげられるように胸が痛く、受け取った代金をしまい、すぐに部屋を出ようと思うのに、また足が動かない。一歩も動けない。
「ま、ちょっと不幸な話をでっち上げれば、すぐに同情して金でも物でも出すってことはわかってるからね」
 ふいにバアアアンと大きな音がし、部屋にいた全ての人が動きを止めた。みんな呆気に取られたように音がしたほうへ視線を向ける。私だって何が起きたのかと驚いた。ビリビリと痺れるほどに右手が痛んでいるのでなければ、掌で力いっぱい机を叩いたのが自分だとは、とてもわからなかった。
「もうやめて……」
 何が起きているのかも理解できないまま、私は搾りだすような声で呟いていた。ポロポロと涙を零しながら、拳を強く握りしめ、深く俯いていた。
「何も知らないくせにそんなふうに言わないで……」 
 ザワッと彼女たちが動きだす気配がする。顔を下げているので見えはしないが、私に向けられた視線が、刺すように鋭くなっていくのは肌でわかる。 
「あんた誰? 何言ってんの?」
 いかにも不機嫌そうな声は、あの人だ。笑顔で蒼ちゃんの隣にいたのに、陰では悪しざまに罵っていた綺麗な人。
私はまだひりひりとする右手、更に強く握りしめた。悲鳴が漏れるほどに体を痛めつけておかなければ、感情が高ぶった時に自分が何を言い出すか、何をしでかすか、私自身にも予想がつかない。小さな頃から、いつもそうだった。
「蒼ちゃんを傷つけないで……」
(そうでなくとも、たくさんの痛みを抱え……それでも笑い、いつも懸命にがんばっている蒼ちゃんを……傷つける人は許せない!)
 かつて母との二人きりの生活をとり戻すため、澤井を相手にも果敢に挑んでいった時のように、決意をこめて私は顔を上げた。
「……私が許さない」
「何? 蒼之の知りあい? 妹はいなかったよね……まさか彼女?」
 驚いたよりは馬鹿にした感の強い言葉に、私がまさに手をふり上げようとした時、背後から抱きしめられた。 
「いや……僕の好きな子だよ」
 その声を聞いた途端、全身の毛を逆立てた猫のようだった私の体から、一気に力が抜けた。頭上から聞こえた優しい声が、怒りでガチガチに強張っていた私の心を解かした。 
(蒼ちゃん!)
 感情のままに手を上げようとした自分が恥ずかしく、今すぐこの場から逃げたいのに、私が知らない場所での蒼ちゃんはもうこれ以上見たくないのに、動けない。抱きしめられた腕の中から一歩も動けない。 
「騒がせちゃってごめん……この子は連れて帰るから……」
 背中に隠すようにして、蒼ちゃんは私を部屋の外へ押し出す。自分も部屋から出て扉を閉めながら、中にいる人たちをふり返って笑った。 
「梁瀬さん……医者っていってもうちは本当に貧乏なんで、僕はご希望どおりに貢げるかわからないよ? 今までどおり……困ったことがあったらいつでも相談には乗るけど?」
「そんなもん、いらないわよ!」
 ヒステリックな叫びにも礼儀正しく頭を下げ、蒼ちゃんは扉を閉めた。傍らに立つ私の両肩に手を置き、じっと瞳を覗きこむ。ぶ厚い眼鏡の奥の綺麗な瞳は、悲しそうでも辛そうでもなく、いつもと同じ優しいままだった。
「僕は傷つかないよ……誰に何を言われたって、何をされたって傷ついたりしない……それが君からじゃなければ」
 ドキンと私の胸は跳ねた。私の手を引いて蒼ちゃんは歩きだす。無言のまま歩き続け、建物から出て、人の少ない芝生の中央に立つ大きな木の下まで進み、ようやく止まってくれた。
「千紗ちゃん……今までと同じでいいから、これからも僕の傍にいてよ……ずっといてよ……」
 うしろ姿のまま告げられた言葉に鼓動が速くなる。ドキドキと大きく心臓が脈打つ。
「私……」
 即座に頭に浮かんだ紅君の笑顔に首を振るべきなのか、繋いだままの手に力をこめた蒼ちゃんの手をふり解くべきなのか、一瞬わからなくなる。
(一生胸に抱えて生きていくことを、迷ったことなどなかった紅君との約束なのに――!)
「でも私は……!」
 やはり捨てられない。どれほど無意味な選択でも、たとえ可能性が一パーセントもなくても、たった一つの約束をどうしても捨てられないと私が告げかけた時、蒼ちゃんがふり向いた。繋いでいた手を引き、今度は正面から私を抱きしめた。
「うん、わかってる。千紗ちゃんには大切な何かがあるんだろうってことはちゃんとわかってる……だから!」 
 ぎゅっと息もできないほどに強く抱きすくめられた。
「傍にいてくれるだけでいい……僕が邪魔になったら、いつでもそう言ってくれていいから」
「そんなずるいことできない! できるわけないよ!」
「いいから! 僕はそれでもいいから……頼む……」
 私の頭に頬を寄せるように、俯いた蒼ちゃんの声が震えている。ひょっとすると泣いているのかと思い、私は恐る恐る呼びかけた。
「蒼ちゃん……?」
 抱きしめる腕を緩め、「何?」と私に向けられた顔はいつもの笑顔だった。眩しいほどの笑顔。だけど瞳だけが揺れている。悲しみか不安か――おそらく笑顔とは間逆の感情で揺れている。 私にはそれがわかっていた。出会ってすぐの頃から、本当はずっとわかっていた。
「蒼ちゃん!」
 だから、堪らず手をさし伸べた。ずっとそうしたくて、できず、いつか告げることがでればいいのにと願っていた言葉を、私はついに口にした。
「我慢しなくていいよ。辛かったら、悲しかったら泣いていいよ!」
 先ほど彼が私を抱きしめたのと変わらないくらいの強さで、彼の体を抱きしめたら、すぐにまた抱き返される。
「千紗……!」
 震える声が嗚咽に変わったのかはわからない。どちらがどちらを抱きしめているともいえない体勢のまま、私もいつの間にか蒼ちゃんに縋り、泣いていた。
(蒼ちゃんはああ言ってくれたけど、やっぱり紅君との約束はもう忘れよう……紅君を思って泣くのはもうこれで最後にしよう……)
 そう心して、私は蒼ちゃんの胸で泣いた。
「今までと同じでいいから」という蒼ちゃんの言葉どおり、私たちの関係は何も変わらなかった。毎日ほんの短い時間を、弁当屋の裏の狭い場所で共に過ごす。 
 あの日、蒼ちゃんに夢中で手をさし伸べた時、私の中では確かに何かが変わったと感じたのに、それが何だったのかさえ今はあやふやだ。泣きながら蒼ちゃんを抱きしめた私を、彼がどういうふうに解釈したのか、それだって結局は彼にしかわからない。けれどこれまでと同じように向けられる笑顔が、穏やかに過ごす二人だけの時間が、私にとって大切であることには変わりなく、それを失くさずにすんでよかったというのが、正直な気持ちだった。

「千紗ちゃん……ぼーっとしてると学校遅れるよ?」
 猫と戯れる蒼ちゃんの姿を見ながらお弁当を食べる夕暮れ。古びた椅子に腰かけた私は、いつの間にか考えることに没頭しすぎ、手のほうがすっかり止まっていた。優しく指摘され、慌てて再び箸を動かし始める。 
「そういえば……決まったから、弟が千紗ちゃんと同じ高校に行くこと」
「そうなの?」
「うん」 
 勧めてみようという蒼ちゃんの決意は知っていたが、そのあとどうなったのかは聞いていなかったので、少し驚いた。
「四月からは千紗ちゃんの後輩になるよ……よろしくね」
「うん」
 今と同じ言葉を言った蒼ちゃんと、以前固い握手を交わした時から、私の心は決まっている。 
(蒼ちゃんの弟は私が守る……蒼ちゃんがそうしてきたように、学校の中では私が守る!)
 壮大な決意をこめて笑顔の蒼ちゃんに真剣に頷く私は、実はそれが自分にとってどれほど困難なことなのか、まるでわかっていなかった。

「ごめん千紗……本当に悪いんだけど……これを大学の事務室まで届けてくれるかい?」
 お昼時で普段より客足の多い正午過ぎ。厨房で調理にまわっていた私に、店頭に立っていた叔母はわざわざ近くまで来て、弁当の入ったビニール袋を持ち上げて見せながら尋ねた。
「えっ? ……今?」
 まだこれから作らなければならない注文の山と、私たちの会話に耳だけを傾けながら黙々と調理を続けている叔父の姿に、交互に目を向ける。叔母も同じように狭い厨房の中を見まわしたが、困ったように眉を下げた。 
「バイトの山本君に電話してるんだけど繋がらないんだよ……繋がったとしても、時間ギリギリ間にあうかどうかってぐらい、先にたくさん配達頼んじゃってるしね……」
 はああっと叔母は大きな溜め息を吐いた。
「注文まちがいだってさ……こっちは確かにから揚げ弁当四つ、とんかつ弁当三つって聞いたのに、逆だったって言うんだ……どうしてもとり替えてくれってことだから……」
 叔母が言い終わる前に、叔父が口を開いた。 
「ここはいいから行ってくれ、千紗」
「うん」
 私は急いでエプロンを外した。中から現われたいつもの普段着に、この間大学へ行った時の気後れするような気持ちを思い出し、ほんの少しためらう。しかし首のうしろで束ねていた髪を解き、それだけであとはもう気にしないことにした。 
「じゃあ、急いで行ってくるから!」
 走り出した背中に、叔母の声がかかる。
「急がなくていいから! 気をつけて!」
 たとえ緊急の時でも、私の身の安全と大通りが苦手な気持ちのほうを優先してくれる叔母の優しさが、ありがたかった。 
(でも……時間をかけてゆっくりと歩くより、一気に走ったほうがマシかもしれない!)
 両手に下げたビニール袋が傾いてしまわない程度の速さで駆けながら、私は思った。
(ゆっくりと時間を過ごしているから、余計なことを考える。思い出したくないことを思い出す……だから真っ直ぐに前だけを見て、さっさと目的地についてしまおう!)
 そう思っていたのに、大学の正門が間近に迫った辺りで、隣接する公園へ目を向けたら、思わず足が止まってしまった。桜の開花にはまだ早い三月半ば。公園に植えられた桜の木は寒そうな茶色い幹だけで、まだ蕾の出る気配さえないと思っていたのに、中にたった一本だけ、ずいぶんと気の早い木があった。ポツポツと開き始めた桜の花の小さな集まりが、まるで雪が積もったかのように、細い枝のあちらこちらに乗っている。
 その木の下に、花を見上げて立ち尽くす若い男の人がいた。
(さくら……)
 どこからか飛んできた花びらを追いかけ、遅咲きの一本を探しだし、紅君と木の下に寝転んで花びらの落ちてくる様子を眺めたあの春から、桜の木は私にとって特別になった。風に吹かれて花びらが舞い散る頃になると、懐かしくて、悲しくて、切なくて、辛くなる。 
『さくらはこうやって見上げるんだ』
 紅君の声がどうしようもなく耳に甦り、思い出の中にひきこもってしまいたくなる。 
(紅君……)
 くり返し頭の中で思い出す面影を、私はいつも無意識に桜の木の下に探していたので、幻を見たと思った。「もう一度会えた!」と大喜びした途端目が覚める残酷な夢のように、本当はそこには誰もいないのに、私だけにその人が見えたのかと思った。だけど――。一本だけ花をつけた桜の下に佇む背の高い人影は、私が何度目を擦っても消えない。
(そんなはずない……そんなはずない……!)
 心の中で否定すればするほど、紅君に似ているように思えてならないその人が、ゆっくりとこちらへ目を向けた。ぶ厚い眼鏡の向こうに時々見える蒼ちゃんの目によく似た澄んだ瞳が、真っ直ぐに私を見た。風に揺れる薄い色の髪も、少し首を傾げて私を見る仕草も、きりっとひき結んだ口元も、その人は何もかもが紅君にしか見えなかった。
(紅君!)
 息を呑んだ私から、しかし次の瞬間、彼は目を逸らした。こちらを見た時も、目を逸らした時も、何もおかしなところはない。ただ何気なく目を向け、それが知らない相手だったので、目を逸らす。当たり前の態度だ。しかし彼が紅君に思えて仕方ない私には、その全てが雷に打たれたかのような衝撃だった。 
(…………)
 鋭い刃物で切りつけられたかのように胸が痛く、私はよろよろとした足取りで歩き始める。それは瞬く間に駆け足へと変わり、逃げるように大学の敷地内へと駆けこんだ。
(紅君! ……紅君!)
 必死になって探せば見つけられたはずの彼を、何故自分は探そうとしなかったのか。その本当の理由に気づいた。気づいてしまった。自分のせいで紅君を酷い目に遭わせ、申し訳なかった思いもある。会わせる顔がなかった。だがその思いすら越え、おそらく本能で彼と会うことを回避しようとした一番の理由は、こういうふうに紅君に背を向けられたくなかったからだ。 
 常に私に笑顔を向けてくれていた紅君の冷たい表情を、私は見たくなかった。だから逃げた。あの事件をきっかけに自分と紅君の関係が変わってしまうのが恐くて逃げた。
(だからこれは……きっと罰だ……! 私に与えられた罰だ!)
 まるで知らない相手のように、私を見た先ほどの青年の反応は、私が最も恐れていた紅君の反応、そのままだった。何かに憑かれたように走る私を、呼び止める声がかかる。
「あれっ? 千紗ちゃん?」
 紅君への妄執で、まるで世界の何もかもに背を向けられたかのようだった私の心の中に、ぽっと小さな明かりが灯った。
「蒼ちゃん!」
 大学の建物から出てきたばかりの蒼ちゃんは、笑いながら私に歩み寄ってくる。
「今日も配達に来たの? 忙しいね」
 子供の頃の紅君によく似た満面の笑顔。たった今、永遠に失った気持ちでいたその笑顔に、ひき寄せられるように私は立ち止まった。 
「蒼ちゃん……」
「なに?」
 呼べば優しい声で返事をしてくれるから、もう一度呼ぶ。
「蒼ちゃん」
「ん?」
 何度呼んでも、蒼ちゃんの笑顔は崩れない。私を見下ろす優しい目も変わらない。これが現実なんだと、私が今生きている現実の世界なんだと実感し、心から安堵した。 
(きっと……きっと、桜の木の下に幻を見たんだ……)
 いつかはそうなってほしい、しかしそうなってほしくないと、心の中に抱えこんでいた想いが、私に優しくて悲しい幻を見せた。 
(会いたい……でも会いたくない。せめて謝りたい……その思いは本当なのに、恐い……)
 心の中で複雑に絡みあった感情が、胸に痛くて、涙が溢れだす。
「どうしたの、千紗ちゃん?」
 蒼ちゃんはわけもわからないまま、困ったように私の頭を撫でる。その手に自分がいつも甘えてしまっていることはわかる。わかり過ぎるほどにわかっているが、ぽろぽろと零れ落ちた涙は止まらなかった。 
 一歩だけ蒼ちゃんに近づき、そっとシャツの裾を掴む。それ以上近づくには、私の気持ちは矛盾だらけで、蒼ちゃんに申し訳ない。あまりにも申し訳ない。そういう思いさえ全てわかっているかのように、蒼ちゃんは優しく私の頭を撫でた。理由も聞かずに、ただ撫でてくれた。
 事務室に弁当を届け、まちがったたほうを返してもらい、私は急いで大学をあとにした。ちょうどお昼を食べに外へ出る予定だったという蒼ちゃんと、一緒に歩く。
「よかったら……これ、いる?」
 回収した弁当を持ち上げて見せた私に、蒼ちゃんはにっこり微笑んだ。 
「ありがたくって言いたいところだけど、今日はこれから弟と待ちあわせてるんだ、ごめん」
 私は慌てて蒼ちゃんから一歩飛び退いた。 
「私こそごめんなさい! 蒼ちゃん、急いでたんじゃないの?」
 ぱっと光が射すように、蒼ちゃんが満面の笑顔になった。 
「いいや。約束の時間にはまだ早いから……とはいえ、時間なんてあんまり関係ない人間なんだけどね、うちの弟は……」
「……………?」
 よく意味がわからなくて首を傾げた私の顔を見て、蒼ちゃんはもう一度笑った。
「会えばわかるよ……せっかくだからちょっと会ってって……急いでるのにごめんね」
「ううん。私こそごめんなさい……」
 謝りあってばかりの自分たちがおかしかった。蒼ちゃんもそう思ったのだろうか、笑い含みの声で話題を変える。
「弟はさ……小学生の頃に事故に遭ったって言っただろ? その時に、それまでの記憶を失くしちゃったんだ……だから過去は関係ない、未来のことも考えない、今ここにいる自分だけが全てっていう変わった奴なんだよ……自分の弟ながら、格好いいなとも、強いなとも思う……っていっても事故までは別々に住んでたから、あいつがもともとそういう奴だったのか、事故に遭ってから変わったのか、僕にはわからないんだけどね……」
 カチリとどこかで、これまでバラバラだったジグソーパズルのピースが咬みあうような音がした。事故。失くした記憶。別々に住んでいた弟。蒼ちゃんの紡いだ言葉が、私の頭の中で、他の人には到底予想できない形に結びついていく。 
(まさか……そんな……)
 そういうことがあるはずないと思う一方で、進行方向へ目を向け直した蒼ちゃんがどうやら大学横の公園へ向かっているらしいと知り、どうしようもなく鼓動が速くなる。 
(そんなはずない! そんなはずないよね?)
 泣きたいほどの期待と不安に、何も言葉を返せないまま、私がただもう一度彼のシャツの裾を縋るように掴んだ瞬間、蒼ちゃんが片手を高く上げ、朗らかな声を発した。 
「紅也! お待たせ」
(紅也!)
 やはりと思う気持ちとまさかと思う気持ちが混同したまま、私は蒼ちゃんの背中に半分隠れた位置から視線を上げた。一本だけ花をつけた桜の下に、彼は先ほどと同じように立っていた。
(紅君! やっぱりそうだったんだ……)
 そうに違いないと思った私の予想は当たった。会いたくて会えず、それでも心から消えることはなかった人が、確かにそこにいた。無事だったと聞き、少しずつ回復に向かっていると教えられ、それでも心配で堪らなかった心が、彼がそこにいる姿を見て、ようやく安堵する。
 しかし先ほど蒼ちゃんに聞かされた『それまでの記憶を失くした』という話が、紅君の身に起こったことなのだと改めて思い返され、ヒヤリと背筋が冷えるのを感じた。 
(じゃあ、全部覚えてないの?『希望の家』のことも、みんなのことも、園長先生も、私に聞かせてくれたお母さんの話も、学校も……?)
 いつでもみんなの中心で、光り輝くように笑っていた紅君。私の心の中に今でも変わらず住んでいる憧れの少年は、本当にもう二度と会えない幻になってしまった。そして――。
(私のことも……? あの約束も……覚えてない……?)
 叶うはずはないとわかっていた。事故に遭った日から、もう絶対に叶わないと何度も自分に言い聞かせた。それでもどうしても諦めることのできなかった、私にとってのたった一つの約束が、春の霞空の下で、大きな音をたてて砕けて消えた。 
「兄さん……!」
 私の知る声とよく似た響きの声が蒼ちゃんの名前を呼ぶので、思わずシャツを掴んでいた手を離してしまう。だらんと力なく落ちた手を、私は強く握り拳に変えた。
 紅君の目に映っているのは蒼ちゃんだけだ。やはり私を見ても、彼は表情を変えない。
「紅也。ちょうど千紗ちゃんと会ったから、紹介しとくよ。長岡千紗さんです。四月からはお前の先輩。千紗ちゃん……こっちは俺の弟、片桐紅也です」
「はじめまして」
 さし出された手は、私のよく知るそれとは比べものにならないほど大きかった。ぶるぶると震えそうになる手を必死に普通に動かし、私は紅君と軽く握手を交わした。 
「はじめまして……」
 本当は初めてなどではないと、叫びそうになる自分の心を押し殺し、彼の顔を見上げた。
「よろしくね千紗ちゃん」
 何も言葉を発さない紅君に代わり、蒼ちゃんが私に笑いかける。いつもどおりの笑顔の蒼ちゃんと対照的に、紅君はまったく笑わなかった。何を映しているのかよくわからない不思議な色の瞳で、私をただじっと見ていた。 
(紅君?)
 思わず呼びかけてしまいそうになる自分を、必死に抑える。
(どうしたの?)
 彼が私を覚えていないことも、蒼ちゃんが驚くことも忘れ、問いかけてしまいそうだった。紅君が笑わない。いつでも誰にでも、輝くような笑顔で笑いかけていた紅君が笑っていない。それが私に対してだけだったらいい。たとえ記憶は失っても心のどこかでわだかまりを残しているのかもしれない私に対してだけだったら、それは構わなかった。しかし――。 
「紅也……笑顔! 笑顔! 父さんがいつも言ってるだろ?」
「…………!」
 はっとしたように紅君は私の手を離し、私と蒼ちゃんから二、三歩後退った。蒼ちゃんはまるで彼の姿を隠すように私との間に入り、にっこりと笑った。おそらく紅君のぶんも笑った。 
「俺と違って照れ屋な弟でごめんね……でも俺よりずっといい男でしょ?」
「兄さん!」
 それまでまったく表情の変わらなかった紅君が、少し怒ったような顔で、蒼ちゃんを呼ぶ。 そんな弟の様子をふり返り、蒼ちゃんは嬉しそうに笑う。
「それにとってもいい奴なんだよ……」
 ほのかに赤くなりぷいっとそっぽを向いてしまった紅君を確認し、私は蒼ちゃんに頷いた。それはよく知っていると――口に出しては言えない言葉を伝えるかのように何度も頷いた。 
「ちょっと左足が悪いけど、日常生活には支障ないから……なんなら学校の行き帰りのボディーガードにしてもいいよ?」
「兄さん!」
 紅君が咎めるような声を発するのと同時に、私の心臓は大きく跳ね、もうこれ以上自分が普通の顔を保つことができそうにないと気づいた。 
(足……? 事故のせいで……?)
 苦しい。息をするのが苦しい。こみ上げてくる涙を堪えることがどうにも苦しく、私は蒼ちゃんに頭を下げた。 
「ごめんね、蒼ちゃん……私……」
 蒼ちゃんはすぐに、私の頭をポンと叩いた。
「うん。急いでたのにごめん。紅也と会ってくれてありがとう」
「うん……」
 もう一度顔を上げて蒼ちゃんの顔を見ることができず、私は俯いたまま彼に背を向けた。本当はもう一度見たい――だけど見たくない紅君のことも、ふり返らなかった。
「さよなら……」
 逃げるように走りだした私に、蒼ちゃんが叫んだ。
「またあとで!」
 人の心の機微に敏い蒼ちゃんのことだから、何か気がついたかもしれない。変に思ったかもしれない。でもそれを上手くごまかす心の余裕は、私にはもうなかった。
(紅君が笑ってない……! そして……足が……!)
 どうしても我慢できず、私は公園を走り出て、少し進んだ繁みの陰に隠れるように座りこんだ。膝を抱えてその上に顔を伏せ、なりふり構わずに声を押し殺して泣いた。
(紅君……紅君……紅君!)
 彼から笑顔を奪ったのは私だ。あれほど大好きで、遠くから見ているだけで幸せな気持ちになれたあの笑顔を壊してしまったのは私だ。いつも見ていた。いつもいつも見ていた。校庭を誰よりも速く走り、軽やかに飛ぶ彼の姿を――その足を不自由にしてしまったのも私だ。 
(ごめんなさい! 紅君……ごめんなさい!)
 心の中で叫んでいたのか、実際に声に出していたのか、それすらわからないような状態だった私は、背後に誰かが近づいたことに直前まで気がつかなかった。ふいに肩を掴まれて、びくりと震えてふり返る。涙に濡れた顔のままふり返り、間近に心配そうに私を見つめる綺麗な瞳を見た。一瞬、蒼ちゃんだと思った。だが違った。蒼ちゃんの目をいつも隠しているあの大きな眼鏡が、私たちの間にはなかった。 
「大丈夫……?」
 囁くように尋ねられ、いっそう涙が零れる。軽く息を弾ませている彼は、私を追いかけてきたのだろうか。確か左足が悪いと蒼ちゃんが言っていたのに。
「泣いてるんじゃないかと思って……きっと人前じゃぎりぎりまで我慢して、一人になったら泣いてるんじゃないかと思って……ごめん……なんか変なこと言ってるって自分でもわかるけど……兄さんをさし置いて俺が出る幕じゃないってこともわかってるんだけど……」
 私を見ても顔色一つ変えなかった紅君の瞳が揺れる。きっとよく理解できない自分の感情にとまどっている。私だってわからない。紅君に会うことをあれほど恐れていたのに、自分が彼からいろんなものを奪ってしまったと知り、申し訳なくてもう会わす顔さえないと思うのに、自分で自分で絶対に許せないのに、それなのに、またこうして向きあえたことが嬉しい。私に向かって話してくれることが、これほど嬉しい。
「泣かないで……」
 私に優しくしないでいい。私にはそんな価値などない。紅君に優しくされる資格は、とうの昔に失くした。いや、本当は最初から持っていなかった。同級生の女の子たちが言っていたように、私には紅君の傍にいる資格などなかった。ただ紅君が望んでくれたので、一緒にいようと言ってくれたので、短い夢を見た。 
(でもそれももうない……紅君は私を覚えていない……)
 そのことが悲しくて、胸が押し潰される。
「ごめん……本当は泣いたっていいんだ。泣きたいんだったらちゃんと泣いたほうがいいって、俺はそう思う。だけど、一人で泣いちゃだめだよ……」
 私の両肩に手を載せた紅君が、目を覗きこんで笑った。それは小さな、どこか寂しそうな笑顔だった。以前と少しも変わらない紅君の考え方と、まったく変わってしまった笑顔。そのどちらもが胸に痛く、私は自分を抱きしめて咽び泣いた。
「千紗ちゃん? ……紅也?」
 私たちを探す蒼ちゃんの声が近づいてくるのが、ほっと嬉しくて、少し苦しかった。
「大丈夫? 千紗ちゃん……」
 繁みの陰に蹲る私と、その前に座りこんだ紅君の姿を見つけた蒼ちゃんは、少しとまどうような声で問いかけてきた。顔を上げて見なくても、ザッと紅君が立ち上がった気配がする。まるで自分が今までいた場所を蒼ちゃんに譲るかのように、おそらく私から二、三歩遠退いた。 
「ちょっと……なんて言って突然走り出すなよ、紅也……驚くだろ? お前はいつも言葉が足りなさ過ぎ……何? 千紗ちゃんがどうかしたの?」
「いや……俺にもよくわかんないけど……なんとなく……」
 紅君は困ったようにそれきり沈黙した。蒼ちゃんが私の前にしゃがみこんだ気配がする。
「どうした? ……紅也がなんかした?」
 私は慌てて顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔だ。だが蒼ちゃんにはいつも泣き顔ばかり見せているので、どれほど酷い顔でも呆れたりせず、真っ直ぐ見つめてくれるとわかっている。やはり今も、優しい眼差しを注いでくれていた。 
「ううん! 違う! そんなんじゃない!」
 言葉が足りないのは私だ。いつも自分の気持ちの一番大まかな部分しか相手に伝えられない。 それなのに紅君は、不思議なほど私の気持ちをわかってくれた。そして蒼ちゃんも、まるで全てを理解したかのように、にっこり笑い、私の行動の何もかもを受け入れてしまう。 
「送るよ、お店まで。『でも……』とか、『ごめんなさい』はなしね。僕が……それから紅也も千紗ちゃんが心配だから」
 背後をふり返った蒼ちゃんにつられるように、私も紅君へ目を向けた。私たちから目を逸らし、少し離れた木の下に所在なげに立っている背の高い男の子。会えなかった四年の間に、ずいぶん背が伸びた。並んだらおそらくもう私は肩のあたりぐらいまでしか身長がない。
 自転車のうしろに座りドキドキしながらしがみついていた背中も、まるで知らない人のように大きくて広い。だが私たちの視線に気がついてこちらを向いた瞳を見たら、やはり懐かしくて泣きそうになった。『ちい』と、彼がつけてくれた私の愛称を口にしながら、さし出されていた小さな掌が、今も目の前に見えるようだ。
(紅君……)
 また涙が浮かんできたので、私は慌てて顔を伏せた。心配そうに私を見ていた紅君から、目を逸らした。
「帰ろう、千紗ちゃん」
 今私に向かってさし出されるのは、蒼ちゃんの手。いつでも優しく私の頭を撫でてくれる手。これが今の私が生きている現実だ。しかし私は、自分に向かってさし伸べられた蒼ちゃんの手を、とっさに掴むことができなかった。一瞬のためらいを蒼ちゃんがどう解釈したのかはわからない。執拗に迫ったりする人ではないので、すぐに違う形で私を助けようと考えるような、聡い人なので――。
「早く帰らないと、小母さんたちのお店がたいへんだよ?」
 腕時計の文字盤を私に示しながら、少し悪戯っぽく笑う蒼ちゃんの笑顔に救われる。どう考えてもおかしな私の態度も、こんなところで隠れるようにして泣いていたことも、さし出された蒼ちゃんの手を取らなかったことも、全てをなかったことにし、それでも私に笑いかけてくれる優しい人。どうしてこういう人が、私などを大切にしてくれるのだろう。
「うん」
 涙を手の甲でぐいっと拭い、立ち上がった私の先に立ち、蒼ちゃんは歩き始めた。 
「早く行って、帰って来ないと……今度は僕が午後の講義に間にあわなくなっちゃうからね」
「蒼ちゃん!」
 それなら私を送らなければいい――と言おうとした私の思考など、まるでお見とおしなのだろう。蒼ちゃんはハハハッと朗らかに笑った。 
「千紗ちゃんの叔母さんの店でお得弁当を買って、公園で食べるから大丈夫だよ。どっかに行くよりそのほうがいいって、紅也の顔に書いてあるんだから、千紗ちゃんは気にしないで……」
「兄さん!」
 私と同じように、咎めるような口調で紅君も叫ぶので、蒼ちゃんは笑いながら今度は紅君へ目を向ける。 
「何? 桜の下で食べたいんだろ? ちょっと気が早い花見だけど……いいよ。つきあうよ」
 またくるりと私たちに背を向けて踊るように歩きだした背中を見ながら、紅君が呟いた。 
「まったく兄さんは……」
 言葉とは裏腹に嬉しそうな声。思わず隣に並んだ彼の顔を仰ぎ見る。蒼ちゃんに負けないほど優しい顔で、紅君は蒼ちゃんを見ていた。 
「凄いよ……」
「うん……」
 四年ぶりに初めて、紅君との会話が成立した。おそらくその時私たちは、同じ気持ちだった。蒼ちゃんへの抱えきれないほどの感謝の気持ち。その思いを大切に抱きしめながら、私たちはようやく一歩を踏み出した。
「ねえ千紗! 一年生のあの格好いい子と知りあいだって本当?」
「本当だよねー。だって毎日一緒に学校来て、一緒に帰ってるもんねー」
「そうなのっ?」
 夕方からの教室。二年生に進級しても変わらないクラスメートたちは、くっつけた机から身を乗り出し、三人とも私に顔を近づけてきた。四月を迎え、私の通う夜間高校にも少しの新入生が入学した。入学式から一週間、紅君の、どこにいてもみんなの視線を集めてしまうところは、やはり変わっていなかったようだ。すっかり話題の人になってしまっている。
「ねえ私に紹介して!」
「待ちなよ美久……千紗の彼氏だったらどうするの」
「ええっ! そうなの!」
 勝手に盛り上がり、勝手に驚いている三人が可笑しく、私は笑った。 
「違うよ……知ってる人の弟なの」
 紅君のことをそういうふうに説明し、笑っていられる自分が不思議だった。 
「知ってる人って……ははーん、そっちが千紗の彼氏か……じゃあ彼氏の弟?」
「ち、違っ! 蒼ちゃんと私はそんなんじゃ……!」
 それなのに話が蒼ちゃんに及ぶと、大慌てで余計なことまで口走ってしまう。 
「なるほど、彼氏は『蒼ちゃん』ね……で? 弟君の名前は?」
「…………!」
 思わず頭を抱えて机に突っ伏した。蒼ちゃんが私のことを『僕の好きな人』と言ったのは確かだが、私はその言葉に答えを返していない。蒼ちゃんは答えを求めなかった。ただ私に、「これまでと同じように一緒にいてほしい」と言った。だから私はその言葉どおり、何も変わらずただ毎日ほんの少しの時間を彼の隣で過ごしている。 
(これって何て言ったらいいんだろう……蒼ちゃんが私の彼氏? なんだか違う気がする……)
 急速に速くなる鼓動と、一気に顔に集まり始めた大量の血液に頭がクラクラする。 
「新入生の彼の名前は紅也君。片桐紅也君……でも本当に私と蒼ちゃんはそんなんじゃ……」
 真っ赤になっているだろう頬を押さえながら、必死でくり返す私に、隣の席に座る美久ちゃんが少し真剣な顔で手をあわせた。
「ねえ……千紗が構わないんだったら本当に紹介して? 弟君のほう」 
(紅君を……?)
 途端に胸が痛んだ。 
『好きです。俺の彼女になって下さい!』
 紅君自身は忘れてしまった言葉を、私は今でもありありと覚えている。真剣な表情も、私に向かって深々と下げられた茶色い髪の頭も、私の手を包みこむように握りしめた小さな手も、忘れたことなどなかった。
『俺は絶対にちいを忘れないから! ちいが寂しくなったらいつだって飛んでくるから……だから、いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町に……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?』
 小さな紅君があの時必死で私に伝えてくれた決意は、悲しいことに現実にはならなかった。私のせいで叶えられなかった。しかし――。
『好きです、紅君。大好きです』
 精一杯の思いで自分が口にした言葉と、彼が向けてくれた満面の笑顔。そして――。
『うん。俺も大好き。ちい』
 私だけにくれた言葉はやはり捨てられない。どうしても捨てられない。気がついたらガタンと椅子を鳴らし、私は立ち上がっていた。
「嫌だ……だめ……」
(紅君を他の人に紹介するなんて……私にはできない!) 
 言葉足らずで、自分の思いをそのまま口に出す私に、腹を立てる人は多い。もし自分が平凡な家庭に育っていたとしても、やはり親しい友人などできなかったのではないかと思うほど、私はぶっきらぼうな口のきき方しかできない。それなのに彼女は――昼間は美容院で働くおしゃれで可愛い美久ちゃんは、表情を強張らせたりせず、プウッと頬を膨らませ、私の背中を力任せにバシンと叩いた。 
「なによお、千紗のケチ!」
「ケ、ケチって……」
「さては……お兄ちゃんも、弟君も独り占めする気だな!」
 うしろの席からも、その隣の席からも手が伸びてきて、背中をバシバシ叩かれる。
「いいなあ、千紗!」
「いいな、いいな!」
 冗談交じりにかけられる言葉に、内心嬉しくて涙が浮かびそうになりながら、私は反論した。 
「違うわよ! そんなんじゃないんだから!」
「いいなー」
 キャラキャラと笑う彼女たちの笑顔は、前に蒼ちゃんが言っていたように、本当に今の私を支えてくれるかけがえのないものだと思った。
 
 ネオンの輝く街を出発した列車は、五分も経たずに都会を離れ、闇に沈む静かな町へと私を連れ帰る。片道十分の電車での通学時間を、私はこの春から紅君と一緒に過ごすことになった。
「ボディーガードにでもしたら?」という蒼ちゃんの言葉を真に受けたわけではない。しかし新学期の初日に偶然駅のホームで一緒になり、それから自然と毎日同じ電車の同じ車両に乗っている。とはいえ、美久ちゃんたちが羨ましがるような何かがあるわけでもなかった。紅君と私は並んで座らないし、特に言葉も交わさない。だが私は、ただそこに彼がいてくれるだけで安心する。ほっと落ち着く。彼がどう思っているのかはわからないが、私にとって紅君は、やはり特別な存在だった。 
「ねえねえ……いつもこの電車に乗ってるよね? 高校生?」
 真っ暗な窓に映る紅君の姿をぼんやりと眺めていた私に、ふいに声をかけてくる人がいた。大学生くらいだろうか。長めの髪で耳にピアスをいっぱいつけた、派手な服装の男だった。
(嫌だな……)
 返事をしないでいると、ますます近づいてくる。
「街に毎日通ってんの? 今度一緒に遊びに行かない? いい店知ってるよ?」
 黙ったまま首を横に振ると、馴れ馴れしく隣に座ろうとした。
「えー? いいじゃない……」 
 でも私の隣には、それより先に別の人が座った。肩が触れるほどすぐ近くに腰を下ろされ、茶色い髪が視界の隅に映り、私は心臓が止まるかと思った。 
(紅君!)
 紅君は私の肩へ腕を廻しながら、目の前に立つ男を見上げた。 
「いくら誘ったって無駄ですよ?」
 痛いくらいの力強さでぐっと近くにひき寄せられ、息が止まる。
「なんだよ……男連れかよ……」
 舌を鳴らして去って行くその人の何倍も、おそらく私のほうが驚いていた。 
(紅君……?)
 とまどいながら見上げた彼の顔は、とても近い位置にある。困ったように眉根を寄せている、綺麗な横顔。緊張で心臓が止まってしまいそうだった。
「明日からしばらく電車の時間を変えよう……もう一本遅くなっても平気?」
 問いかけに深く考えず一瞬頷いてから、私ははっと我に返った。 
「紅君が私にあわせる必要はないよ! 私は一本遅らせるから、紅君は気にしないで!」
「なんで? そっちこそ気にしなくていいよ。俺は兄さんに頼まれてるんだから……」
 ズキリと胸が痛み、舞い上がっていた心が一気に現実へひき戻された。 
(そっか……蒼ちゃんに頼まれたから助けてくれたんだ……)
 嬉しいのに悲しい。自分でも困惑するほど、私の感情は複雑すぎる。
「俺だって、他の奴が隣に座ってるところなんて見たくないし……」
「紅君……?」
 彼はいつも、ふいに思いもかけないようなことを言うので、余計にわけがわからなくなる。肩を抱いていた腕を下ろし、少し距離を置いて座り直した紅君は、私にもう一度顔を向けた。 
「その呼び方……」
 指摘されて、はっとする。いつの間にか私は、彼を昔のままに『紅君』と呼んでいた。再会してからはずっと『紅也君』で通していたのに。 
(馬鹿だ! なにやってるんだろう、私!)
 慌てて言い訳を探そうとする私に、紅君は真顔で呟いた。 
「俺には記憶がないから、お前は『紅也』だよって言われても、なんだかピンとこなくて……」
「紅君……?」
 突然飛躍した話に首を傾げ、また無意識に彼を昔の呼び名で呼んでしまい、私は手を口に当てる。紅君が思いがけず笑顔を見せた。
「いいよ。そのままでいい。そんなふうに呼ばれて……初めて自分は『紅也』なんだって実感した。不思議だ……なんだか納得がいった」
 小さなものではあったが、昔の彼を思い出させるような笑顔に、また微かに胸が痛んだ。
(そうだよ! あなたはまちがいなく紅君なんだよ!)
 口に出して言えない言葉を、心の中だけで叫ぶ。 
「だからいいよ……これからもそんなふうに呼んで……そして兄さんが一緒にいれないところでは、ボディーガードに使って……ね?」
 蒼ちゃんの冗談を、紅君は純粋に実行しようとしている。似ているようで似ていない、似ていないようで似ている兄弟の共通点は、優しいこと。園長先生の言葉を借りるならば、『自分が辛い思いをしたことがある』人間だから、相手にもとても優しくできること。
 自分にはもったいない申し出に、私はいつも蒼ちゃんにそうしているように「ごめんね」と謝りはせず、本音のままに頭を下げた。
「ありがとう……」
(守ってくれて、そんなふうに言ってくれて、笑いかけてくれて、本当に本当に――)
「ありがとう」
 くり返す私に紅君の笑顔は大きくなる。いつか蒼ちゃんや昔の紅君にも負けない満面の笑みになるのではないかと思うほどの鮮やかな笑顔が、胸に痛くて眩しかった。
「紅也に高校へ行くよう勧めてよかった。最近楽しそうなんだ……」
 我先に膝へ乗ろうとする猫を順番に腕に抱えながら、蒼ちゃんはしゃがんだ体勢のまま呟く。 蒼ちゃんの口から紅君の話が出るたびドキリとする私は、彼が背を向けていることに内心ほっとしながら、いつものように短い返事をした。
「そう……」
「友達もできたみたいだし……でも紅也の友達一号は、なんといっても千紗ちゃんだけどね……ありがとう」
 何の疑いもなく、いや、優しい蒼ちゃんのことなので、何か感じるものがあったとしても、敢えて気がつかないふりをしてくれているのかもしれないが、向けられる感謝の言葉を素直に受け取ることは、私には難しかった。 
(……だって私は、蒼ちゃんに大きな秘密を抱えている)
 紅君に会ったのは初めてではないと、昔住んでいた街で同級生として同じ学校にも通っていたと、彼を紹介されてからひと月が経った今でも、まだ蒼ちゃんに伝えられていない。
 私と紅君が単なる同級生だったら、躊躇しなかったのかもしれない。昔はこんな様子だったと紅君本人に話し、彼が記憶をとり戻す手助けもできていただろう。けれど紅君が記憶を失くすきっかけになった事故に直接関係している私は、平気な顔をして当り障りのない話だけを彼らに伝えることなどできなかった。
 昔の紅君の生活に深く関わっていたことも、なおさら私の口を重くしている。記憶をとり戻した紅君がもう一度会いたいと願っても、あの優しかった園長先生はもうどこにもいないのだ。彼が大切に守っていた『希望の家』の子供たちも、今はバラバラになっている。その事実を知った時、紅君がどれほど悲しみ、どれほど傷つくか、実際に自分が苦しい思いを抱えている私にはよくわかる。だから――。
(いっそ……思い出さないままのほうが、紅君にとっては幸せかもしれない……)
 彼の意志や思いを確かめず、私は勝手に結論づけていた。楽しかった思い出も全て失くしてしまったことは悲しいが、辛い事実を知ることと天秤にかければ、仕方がないと思える。
(きっと傷つくから……今でも悲しげな紅君の笑顔が、もっと悲しくなってしまうから……)
 昔の自分たちの関係と共に、辛い事実も全て封印してしまおうと、私は心に決めていた。自分勝手に決めていた。
「千紗ちゃん……そろそろ時間だよ?」
 地面をじっと見つめたまま考えこむ私を、蒼ちゃんが呼んだ。 
「お迎えがきちゃうよ。学校の準備しなくちゃ……」
 冗談めかして笑う蒼ちゃんの笑顔が胸に痛い。再会したばかりの頃よりは表情が和らいだが、それでもこれほどの笑顔とはほど遠い紅君の笑顔を思い出すと、なおさら痛かった。 
「ほら……来た……!」
 まだ遥かに遠い人影を見て、蒼ちゃんは立ち上がる。自分と同じようにすらりと背の高い弟へ、猫を片手に抱いたまま、大きくもう片方の手を振る。 
「紅也!」
 顔も見えないほど遠い人影が、微かに身じろぎしたように見えた。ゆっくりと一歩ずつ近づいてくる歩みは、通常の人の二倍ほど遅い。よく見なければわからない程度左足をひきずって歩く紅君は、片足が不自由だとなるべく目立たないよう、歩く速度をかなり遅くしていた。 
 傾きかけた夕陽に、薄い色の髪が輝く。真っ直ぐに前を向き、鞄を何度も左右の肩にかけ直しながら、一歩一歩地面を踏みしめて近づいてくる姿を見ると、私はいつも泣きそうな気持ちになる。確かにもう一度会えたのだと、何度も確認し、それでも一目見るごとに、やはり毎回熱いものがこみ上げた。 
「兄さん……」
 紅君は決して私の名前を呼ばない。真っ直ぐに見るのは蒼ちゃんだけ。それでもよかった。ぎこちない笑顔を浮かべながら、心から信頼するように蒼ちゃんを見つめる紅君の姿を目の当たりにすると、私はほっと安堵する。この四年間、新しい環境で私に叔母たちがいてくれたように、紅君には蒼ちゃんがいたのだと、確認できて嬉しくなる。
「いってらっしゃい」
 蒼ちゃんが私をふり返り、笑った。ぶ厚い眼鏡の奥の優しい瞳が、夕陽よりも眩しく輝く。
「いってきます」
 目にうっすらと浮かんだ涙を、太陽が眩しいからだと自分に言い訳し、私は蒼ちゃんの笑顔に頭を下げた。今はまだ、私も紅君と同じくらい笑うことが苦手だ。だけどいつかは、昔のように笑えるようになるだろうか。なれるかもしれない。こうして自分に向けられる蒼ちゃんの笑顔がある限り、遠くから見ているだけで幸せな気分になれる紅君の姿を、また見られる限り。 
 蒼ちゃんの前に到着した紅君が、私を見て首を傾げる。
「行こうか……」
「うん」
 隣に並ぶのではなく、少し離れ、一見すると連れなのか判断に迷う程度の距離を置き、私と紅君は一緒に歩く。彼にあわせてゆっくりとした歩調で、駅へ向かって歩くこのひと時が大切だった。あの頃と変わらずに、とても大切だった。

「さくら……もう終わりだね……」
 どこからか飛んできた白い花びらを指で摘み、紅君が呟く。その姿に小さな頃の彼の姿が重なり、私は息が止まりそうになる。
「お花見……行った?」
 懸命に平静を装って尋ねたら、苦笑交じりに頷かれた。
「行ったよ……別にいいって言ったのに、兄さんに何度も連れて行かれた……」
「蒼ちゃんらしい……」
 不思議だ。私はどんな気分の時でも、蒼ちゃんの話になると温かい気持ちになれる。笑顔になることはまだ難しいが、それと同じくらい幸せな思いにはなれた。 
「さくら、好きなの?」
 紅君に記憶がないことはわかっていて、それでも何かしらの答えが返ってくるのではないかと期待して、問いかける。彼にとって桜の木は、とても特別なものだった。
「よくわからない……なんだか気になって開花するかしないかの頃からずっと見てるけど……満開になっても何かが違う気がして、すっきりしない気持ちばかりが残るんだ……」
「そう……」
 ポツポツと語られる紅君の言葉に、耳を傾けながら歩き続けていた私の足が、ふと止まった。
「どうしたの……?」
 すぐにふり返った紅君の顔を、ドキドキと胸を弾ませながら見上げた。 
(ひょっとして……!)
 桜を見上げるたびに紅君が違和感を覚えるわけを、私はおそらく知っている。 
『さくらはこうやって見るんだ!』
 子供の頃に彼が私に教えてくれたその独特の方法を、私ならば彼に教え返すことができる。 
「紅君! 来て!」
 私は夢中で、彼の先に立って歩き始めた。紅君が無理なくついてこられる速度を心がけながら、まだ花が残っている桜の木を懸命に探す。 
「何……?」
 少しとまどいながらもあとをついてくる紅君と、気がつけばいつもの通学路を外れていた。 
「さくら……さくらの木を探してるんだけど……」
 なかなか思うように見つからない。道路脇に植樹されている木では、その下に寝転ぶことはできない。しかも四年前のあの日と同じに、本来はもう花が終わる時期なのだ。花びらが舞い散るほどに咲いている木などない。 
(どうしよう……見つからない……!)
 勢いこんで歩きだしたはいいものの、目的のものが見つからず気持ちばかりが焦る私の腕を、紅君がふいにうしろから掴んだ。 
「だったらこっち……!」
 逆に私の手を引き、今度は先に立って歩きだす。まるで当たり前のように握られた手に驚いた。あまりにも緊張して、何が起こっているのか考える余裕もなかった。
「ほら……ここ! ……ね?」
 指で示されて目を向けた光景に、胸が熱くなる。大きく枝を左右に広げ、いまだに満開の花に覆われている桜は、見上げるほどの巨木だった。空き地の隅にひっそりと咲いているのだが、かつては誰かの家の庭で、毎年開花を心待ちにされていた木だったのだろう。それはとても立派な、大きな桜の木だった。 
「綺麗……」
 当初の目的も忘れるほどに感動し、思わず呟いた私に、紅君が囁く。 
「うん。きっとそう言ってくれると思った。本当は見せたかったんだ……だからよかった……」
 驚いて、隣に立つ彼の顔を仰ぎ見た。 
「紅君……?」
 彼は私のことを覚えていない。昔を思い出したわけでもない。それなのになぜ、私が大切に胸にしまっている思い出と、重なるような言葉をかけてくれるのだろう。懐かしいばかりの優しい表情で、私を見つめるのだろう。 
「また変なこと言ってるって、自分でもわかってる……ごめん……でも本当にそう思ったんだ」
 謝罪の言葉に静かに首を振り、私は桜の木へ歩み寄った。 
(ひょっとしたら私が今からやろうとしていることで、紅君の記憶が戻るかもしれない……)
 その可能性に思い当たり、緊張しながら地面に膝をつく。
「紅君……さくらはこうやって見るんだよ……」
 柔らかな草が茂る上へ横になり、桜の木を見上げた私に、紅君は何も言わなかった。横になった状態では、彼がどういう顔をしているのか。ひょっとして失くした何かをとり戻したのか。何もわからない。
(でも……わからなくて良かった……)
 矛盾ばかりの自分の想いを痛く自覚しながら、私は自分の上にハラハラと舞い落ちてくる桜の花びらを見上げた。花びらの向こうに見えるのは、夕陽の金色が混ざる淡い青色の空。それを背にし、背の高い男の人が、ふいに私の視界の中へ姿を現わす。 
(紅君!)
 彼の綺麗な瞳には、涙が浮かんでいた。それが見る見るうちに膨らみ、精悍な頬を伝って一筋、私が横たわるすぐ横の地面へと落ちた。 
「え? あれ? ……どうして……?」
 自分の目から涙が溢れたことに、紅君自身がとまどっていた。彼の表情は、普段よりもかえって穏やかなほどだ。まったく悲しそうではないし、むしろ瞳は輝いている。それなのに涙は止まらない。幾筋も紅君の頬を伝い、次々と地面へ落ちる。
「紅君……」
 私は彼に手をさし伸べた。涙をグイッと腕で拭った紅君は、それに導かれるように膝を折る。 なんの躊躇もなく、私の隣にゴロンと横になった。 
「ほんとだ……」
 すぐ隣から聞こえる呟きは、微かに震えている。
「こうやって見上げたほうが、立ったまま見るより、何倍もしっくりくる……なんだか納得する……でも、どうして……?」
その方法を私が知っていることが、どうやら不思議だったようだ。 
(やっぱり……こんなことぐらいで、記憶が戻ったりはしないね……)
 彼に悲しい事実を知らせずに済み、ほっと安堵する。しかしそれと同時に、それに負けない勢いで、私の胸には悲しい思いが広がった。
(やっぱり……本当に覚えてないんだ……)
 私にとっては宝物のように大切な彼との思い出が、自分の心の中にしか存在しないことが悲しい。やはり悲しい。
「昔、教えてもらったの……私も……ある人に……」
「そう……」
 なんの感慨もない声が胸に痛い。それはあなただと――あの頃の私にとって何よりも大切で大好きだったあなただと――伝えられない言葉は心の中だけで呟く。苦しく隠す。
 頭を寄せあった幼い頃とは違い、距離を置いて寝転んだ私と紅君の上に舞い落ちる桜の花びらは、私の視界の中で涙に霞む。どうしても零れ落ちる涙で、やはり見えなくなった。