野菜たっぷりのお味噌汁が丼で置かれ、いい匂いの湯気をあげている。
きゅうりやナスのお漬物、ネギの入った卵焼き、ほうれん草のおひたし、お芋の煮転がし、焼き鮭、そして特製野菜ジュース。
野菜のフルコースが並ぶ食卓に、星さんは寝癖のついた頭で突っ伏している。
「はい、サトシ君。いっぱい食べてね」
星さんのお母さんから差し出されたお茶碗には山盛りのご飯がよそわれていた。
農家の朝は早いに違いない。けれど星さんはどうも朝に弱いらしい。
わたしはもくもくと朝ごはんを食べる。時々星さんの肩をつついてみるも、顔を上げることはなく青い顔で呻いている。
もしかして二日酔い?
星さんのお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんまで、食卓には既に一仕事終えてきた御家族の方達が勢揃いで朝食を囲んでいる。
「サトシ君学校どう? 給食の野菜も今年からうちのを使ってもらえるようになって。みんな残さず食べとるかのう?」
「うちのは無農薬で見た目は悪いけども、給食は気にせず使ってくれとるみたいでありがたいことやわ」
「何言うとる。薬塗《くすりまみ》れで虫も食わんような野菜より、虫が喜んで食べにくる野菜の方がマシやろが」
「お父さん、そんなこと言うて、給食に虫が混ざっとったりしたら大事《おおごと》よ」
こんなに賑やかな朝ごはんは初めてだった。
食卓に並んだ料理はいつの間にか綺麗に片付き、食後のお茶を飲み終えたらまた仕事に出て行く。
そんなパワフルな家族の中で育ってきた星さんが、小さい頃は体が弱かったなんて信じられない程だ。
まだ机に方頬を預けて目を閉じている星さんの顔をそっと覗き込む。
喋っていると元気な印象だけれど、そうして目を閉じていると、青白い顔に長い睫毛の影が落ちて、何だか眠り姫のようだ。
乱れて瞼にかかった前髪に、星さんが眉を顰めて瞼をひくつかせる。
そっと前髪を指で払い除けて、その綺麗な寝顔に見惚れていたけれど、そろそろ時間がヤバイことに気付いた。
「星さん、あの、学校に……」
昨日送ってくれると言ったのに、とても運転ができそうには見えない。
ここから小学校までどのくらいあるんだろう。
スマートフォンの地図アプリで検索してみると、徒歩2時間の文字。
とても今から歩いたのでは間に合わない。
車なら20分とかからない距離だ。
正直、行きたくない気持ちの方が大きい。このまま学校に間に合わなければいいのに、なんて思ってしまう卑怯な自分がいる。
学校に着いたらまず職員室に行く。先生方の顔と名前も一応覚えたつもりだけれど、何か聞かれてもきっとうまく答えられない。
小学校の授業ってどんな感じだっけ? 6年間も通ったはずなのに、何一つ思い出せない。
それでも仕事を休むわけにはいかない。
一日ぐらい休んでも、と思うことは、わたしを助けてくれたサトシさんを裏切るようで、サトシさんや星さんに無理なら休んでもいいと言われても、その言葉に甘えたくないという思いがあった。
わたしが働いていた会社では、有給休暇はあってないようなものだった。
どんなに体調が悪くても、休めばその分周りの人に仕事が割り振られる。
根本的に人手が足りていないのが原因の一つだったけれど、休んだ人の陰口を聞かされ続けたあの一年で、わたしの中には「仕事を休むことイコール悪」の定義が出来上がってしまっていたのだ。
だから、たとえ授業がボロボロだろうと行かないよりはましだと思った。
本当に甘い考えだったことをあとになって痛感するけれど、なくてはならない一日だったこともまた事実だった。
「ああ忘れるところだった。サトシ君、これお弁当持っていって。あら、星はまだ寝てるの? サトシ君遅れちゃうでしょ。おばさん、今から小学校の近くの畑まで行くから乗せてってあげる」
ほらほらと背中を押され、軽トラの助手席に乗り込む。
星さんのお母さんは慣れたハンドル捌きで農道を行く。
小学校が近付いてくると、交差点に子どもたちの姿が見えた。
信号のない横断歩道で、軽トラは子どもたちが道を渡るのを停まって待つ。
手を挙げて渡り切った子どもたちが、こちらに向かってお辞儀をするのを見て、わたしは驚いた。
道を譲ってくれたドライバーに対して、頭を下げる大人がどれほどいるだろうか。
口には出さなかったけれど、心の中は新鮮な驚きでいっぱいだった。
「かわいいわねぇ。あなた達の小さい頃思い出すわ。星が学校休むといっつもサトシ君がお便り持って来てくれてたわよね。星はサトシ君に憧れてたのよ。野菜だって本当は嫌いだったのに、サトシ君が食べてるの見て頑張っちゃって」
「星さ、……星はお母さんのおかげだって言ってましたよ。今じゃ、みんなにうちの野菜食べたら元気になるって言ってます」
お母さんは嬉しそうに笑って、わたしの膝をぽんと叩いた。
その手の優しさに、ふわっと母の顔が浮かぶ。
「せんせー、おはようございまーす」
子どもたちが大きな声でこちらに向かって手を振るのが見えた。
子どもたちの横を軽トラがゆっくりと進む。
わたしは深呼吸してお腹に空気を貯めた。
「おはよう!」
その第一声と共に、今日一日子どもたちと過ごす覚悟を決める。
学校の少し手前で車から降りると、お母さんにお礼を言って別れた。
過疎化が進む田舎町の小学校。受け持つクラスの生徒は22人。
小さな机の並ぶ教室はどこか懐かしくて、それでいて44の眼に見つめられる緊張感に、覚えたはずの言葉がどこかへ飛んでいってしまう。
何も言わないわたしに、教室の中は直ぐに騒めき、子どもたちの視線は横へ後ろへと逸らされる。
必死に頭の中でシュミレーションしていた流れは、ひとつ躓くと、なかなか立て直すことができない。
隣のクラスの子どもたちが並んで廊下を歩いていく。
今日は全校朝礼があり、学年ごとに列になって体育館に集まるのだ。
速やかに子どもたちを廊下に並ばせる。これが今日一つ目のミッションだった。
ピコピコと列からはみ出す子どもたちを、最初の方こそ一人一人注意していたけれど、途中でキリがないことに気付いた。
いちいち列を整えていたのでは朝礼に間に合わない。
どうにか体育館に辿りつき、長い校長先生のお話や、保健の先生からの健康管理に関するお話などを聞いたあと、校歌を歌って解散。
一時間目が始まるまでに、人数分のプリントをコピーする。
サトシさんがUSBメモリに用意しておいてくれた算数のプリントで、一時間目を何とか乗り切った。
二時間目は国語。ひたすら教科書を生徒に朗読してもらって、漢字の小テストで乗り切る。
そして三、四時間目は体育館での図画工作。
1年生から三年生までが集まって、ペットボトルの蓋を使って、体育館に水族館を描くという特別授業だった。
「来島先生、写真撮影お願いしますね」
そう言って渡されたデジタルカメラを手に、体育館の中を歩き回る。
見たこともないほどの大量のペットボトルの蓋が、体育館の床一面に広げられている。
子どもたちは、各々に持ってきたカゴや袋に蓋を集め床に並べていく。
何人かで巨大なクジラを作る子や、ゲームのキャラクターみたいな巨大イカを作る子、一人で黙々と小さな魚を作る子。
それぞれに熱中しながら体育館を水族館に変えていく。
歩き回っては写真を撮るわたしに、笑顔とピースサインが向けられたり、うっかり並べてあったキャップを蹴飛ばして怒られたり。
この時間の子どもたちはみんな楽しそうで、見ているこっちまで楽しくなった。
途中何度か、叶夢君を見つけてはその様子を伺ったが、作業に集中できているようだった。
このペットボトルの蓋はリサイクル資源として売却された収益が、世界の子どもたちの予防接種のワクチンに使われるらしい。
最後にみんなで体育館を泳ぐように寝転がってポーズをとってもらい、2階から写真を撮った。
体育館いっぱいに描かれた水族館は、崩してしまうのが勿体なく思えた。
一斉に片付けが始まると、子どもたちは勢いよくキャップを掻き集める。
大きな波にさらわれるように、体育館の床にいた魚たちはあっという間にいなくなってしまった。
その様子を見ていると、今日この場所にほんの一瞬存在した絵を、本当ならわたしは見ることがなかったのだと思えて、なんだか胸が熱くなった。
ただのペットボトルの蓋が、たくさん集まって大きな絵を描き出す。これだけの数を集めた時間と労力も、これを使って絵を描こうと考えたアイデアも、全てが揃って初めてできたことだった。いろんな力が集まって作り上げたその一瞬に、奇跡的に立ち会えたことにちょっと感動してしまった。
星さんにも見せてあげたかったな。
今日中にサトシさんの体から出て、自分の体に戻らなくてはいけないということなど忘れたようにわたしは落ち着いていた。
たとえどんな結果になったとしても、サトシさんと星さんに感謝している。
子どもたちからエネルギーを分けてもらったせいか、何だか全てがうまくいくような気がしていた。