⑬
夢と記憶が交錯する。
その記憶を追いかけようとすると、頭痛が酷くなった。
何か大事なことを忘れているような気がしたけれど、それよりももっと気になることを思い出した。
「花巻 燿子は……」
こんなことを言ったらわたしがサトシさんでないと佳織さんに知られてしまう。そう思いながらも、焼け付くような喉から自然と言葉が出てきた。
「507号室の患者はどうなりましたか」
「急に何……?」
「教えてください。花巻 燿子は、……死んだんですか」
「今朝のハサミ男が襲った子ね?」
やっぱりそうだったんだ。あの人はわたしを殺しに来たんだ。
でも何故?
「燿子ちゃんは生きてるよ」
星さんが慌てたようにそう言ってわたしの、サトシさんの腕を掴んだ。
「ちゃんと生きてるから」
アルコールのせいなのか、不安のせいなのか、心臓が痛い程脈打っている。
わたしを落ち着かせるように、星さんはそう繰り返した。
「理由は、……理由は分かったんですか?」
「今警察が調べてる。少し聞いた話だと、「あいつが荷物を持って行った」 そう言ってるらしい」
「荷物?」
「それが何かは言わないらしいんだけど」
佳織さんが眉根を寄せて、
「病室もすごく荒らされてて、何か探してるみたいだったのよね」
そう続けると、わたしと星さんは首を傾げて顔を見合わせた。わたしはふと思い出した。
「そういえばエレベーターで……」
「エレベーター?」
あの時、エレベーターで一度荷物を下ろした。もしかしたらその時間違えてあの人の物をわたしが持って行ってしまったのかもしれない。それに気づいて追いかけてきたんだ。
「やっぱり、口封じ……かも」
わたしが招いたことだったんだ。それにしてもあんな風に脅してまで取り戻そうとする物って、もしかして……。
「昨日マンモスシティで麻薬売買が行われていたって今朝の新聞に載ってましたよね。犯人て全員捕まったんでしょうか」
星さんがわたしを見て飲みかけていたビールを吹き出しそうになった。
「麻薬売買?」
「もしかしたらうちの車に」
「燿子ちゃん何か見たの? あ、いや何か見たのかな」
「わたしが買った物を車に置きに行ったときに、エレベーターの中で一度荷物を床に置いたんです。そのあと慌てていてもしかしたら」
「間違えて麻薬の入った袋を持って行ってしまったかもしれないってことね。はい、お水」
頭を抱えるわたしに、冷えたグラスが差し出された。
「あ、ありがとうございます」
すごく喉が乾いていたので有難く受け取ると、一気に飲み干した。
「……で、あなたが花巻 燿子さん、なの?」
佳織さんの真っ直ぐな目に見つめられてむせそうになった。
「わたしに隠し事なんて百年早いのよ」
佳織さんに横目で睨まれた星さんも、頭をかいて仔犬のように項垂れている。
「わたしだって尚也の時のこと分かってるんだから、隠す必要ないじゃない」
そう言ってグラスに口を付ける。液体が揺れて照明を跳ね返す。強気な言葉とは裏腹に、その瞳は寂しそうにも不安そうにも見えた。
「……すみません。わたしのせいで……」
佳織さんに怖い思いをさせたのも、もともとはわたしのせいだ。大事な人の体を奪っておきながら、そのことをちゃんと話さなかったことにも、今更ながら気付いて申し訳なくなる。
「あなたのせいじゃないわ。サトシはそう言う奴なの」
佳織さんはさらっとそう言ったけれど、わたしは胸がズキンと痛んだ。
サトシさんと佳織さんの間にどんな事情があるのかは分からない。
でもサトシさんのことで、佳織さんはいろんなことを諦めたり我慢したりしているんじゃないだろうか。
お互いに思い合ってるのに付き合わないってそういうことに思えた。
「ちょっ、その顔で泣かないでよ!」
佳織さんがギョッとしたようにおしぼりを差し出す。
この胸の切なさはきっとサトシさんのものだ。勝手に流れる涙にどうしようもなくて、わたしは堪えきれずに佳織さんを抱きしめた。
「や、やめてよ。いきなり何するのっ」
身を捩る佳織さんから腕を解くと、佳織さんは顔を背けて立ち上がった。
そのまま、化粧室、と言って席を離れていく。その背中をぼんやり見送っていると、
「もう、戻ってこないのかと思ったよ」
星さんがそう言って溜息を吐きながら、わたしの横の席に移動してきた。
「……わたしも、今までどこにいたのか分からないんです。あの時病院で、こっちの世界の燿子が、その、……死んでると思って。燿子の魂に触れようとした瞬間静電気みたいなのに弾かれて、気がついたら道の真ん中に立ってました」
周囲は賑やかな話し声が溢れ、小声でなくても隣の席には聞こえなさそうだった。
でも、話している内容はあまり他の人に聞かれたくない。自然と声のトーンが落ちる。
それにつられて星さんの顔が近くなる。
「それで、どうやってここに?」
「分かりません。夢を見ているみたいでした。誰かのお葬式に母と参列していて、そこに星さんもいました。その後、気付いたらここにいて……」
「じゃあ、表に出てないだけで、ずっとサトシの中にいたのかもしれないね。かなり怖い思いしただろうし」
グラスを見つめる星さんの横顔から目が離せなかった。
がっかりしただろうか。
やっと出ていったと思ったわたしが、また現れて。
わたしの視線に気付いた星さんと目が合う。
再び胸が軋むような痛みを覚える。
「すみません……」
「謝んなくていいって。乗りかかった船じゃん? 最後まで付き合うよ。だから、……諦めるなよ」
「……はい」
今度は胸が熱くて、また泣いてしまいそうだった。
目を赤くした佳織さんが戻ってきた。泣かせてしまったことを謝ろうとするわたしに、佳織さんは先回りして「コンタクトがズレただけ」と言う。
「何か頼む?」
星さんがメニューを開いて、これが美味しいとかお勧めを教えてくれるので、それ以上その話はできず終いだった。
⑭
飲み物のお代わりがくるのを待つ間、わたしの目は自然とテーブルの上のアルバムに吸い寄せられた。
「この人が尚也さん、ですよね?」
斜めに分けた前髪。通った鼻筋と鋭角な顎が繊細そうな印象の高校生。
尚也さんの最後を聞くのは恐ろしい。写真の中の男の子は生きていて、本当ならここで星さんたちとお酒を飲んでいたかもしれないのだ。
「事故、だったんですよね……?」
聞きたくないと思う一方で、それを知らなければいけないとも思っていた。もし、わたしが元に戻る方法を見つけられなかった時のために。
「そ。尚也の叔父さんがバイクショップのオーナーでさ。誕生日に速攻免許取りに行って、将来レーサーになるとか言ってたくせに」
星さんの声が少し湿っぽくなる。
「事故や病気で、大人になれずに亡くなっていく人はたくさんいるわ」
佳織さんは看護師さんだから、人よりたくさんそういう人を見てきたのだろう。冷たくそう言いながらも星さんを慰めているようにも見えた。
「尚也はあの一年でやれることはやったんだから」
そして自分に言い聞かせるみたいにそう言って俯く。
「それよりも、どうしてまたサトシがこんなことになってるのか説明してよ」
運ばれてきた飲み物で何にかは分からないけど乾杯する。
それからわたしがサトシさんの体に入った経緯を説明することになった。
一通り話し終えると、
「もう、八年も前のことだし、わたしの記憶が正しいかどうか分からないけど……」
佳織さんはそう前置きして意外なことを告げた。
「病院で燿子さんのお母さんを見かけて、どこかで見たことがあるような気がしたの。
尚也の事故の後、当時のわたしたちと同じくらいの年の子が唯一の事故の目撃者でいたでしょ?」
佳織さんが星さんに同意を求める。星さんも「あーいたね」と頷く。
「その子は現場に倒れてて何も憶えてないってことで、深くは追求されなかったみたいだけど、尚也のお葬式に母親と二人で来てたのを見たのよ」
一瞬の沈黙の後、星さんが目を見開く。
「その子の母親が燿子ちゃんのお母さん!? え、ってことはその時の目撃者は……」
二人の視線がわたしに向けられる。
わたしが尚也さんの事故の目撃者?
「…………」
わたしには答えられるような記憶がない。
けれど、否定するだけの記憶もまた持ち合わせていなかった。
ただ一つ、さっき見た夢の中で。
道の真ん中に飛び出したわたしを避けるようにバイクは急ハンドルをきった。
もし、尚也さんの事故の原因がわたしだったとしたら?
何故今わたしがここに居るのか、その理由に説明がつくような気がした。
わたしは二人にあの春のことについて話さなければならない。
それがどんなに思い出したくない記憶だろうと、きっとこれはわたしに与えられた罰なのだから。
「……わたしの母は」
そう切り出したものの、その後に何と続けたらいいのか分からなくなった。
今から二人に伝えようとしていることは、母を抜きにしては語れない。
その為に母の為人《ひととなり》から話そう、そう思ったのだけれど、いざ話そうとすると、雲を掴むように曖昧になった。
「母とわたしはすごく仲がいいんです」
母娘なのに仲がいいという表現が相応しいかどうか分からない。
「よく買い物にも一緒に行くし、本の好みも似てて、ドラマもよく一緒に見てました」
二人は黙ってわたしの話に耳を傾けてくれている。
「わたしが高校2年になった頃、母が段々と元気がなくなり始めて、わたしが一番傍にいたのに全然気付いてあげられなくて」
思い出すとまた胸が苦しくなった。そうなる前に何故気付いてあげられなかったのか、わたしの目は何も見ていなかったし、わたしの耳は何も聞こえていなかった。
「ある日、学校から帰ると母は、……睡眠薬を大量に飲んで倒れていました」
おしゃれな方ではなかったけれど、白髪なんかはなくて、いつも身綺麗にしていた母。
倒れていた母を見て始めて、髪も肌もボロボロになっていることに気付いた。
それまで一緒に食べていたごはんもダイエットしてるから、なんて言ってたけど、本当は食べられなかったに違いない。
原因は父の浮気だった。
それも相手の女性との間には小学生になる子どもがいたのだ。どれほど長い間母を裏切り続けていたのか。
「母は一命を取り留めて、その代わりわたしがおかしくなっていったんです。その頃の記憶はほとんどありません。毎日ふらふらと歩き回って、母は自分のことを考える余裕もなくなったと思います」
母が苦しんでいる時に何もしてあげられなかったどころか、その後の半年ほどは二人でどうやって生き延びたのかと思うような酷い状態だった。
わたしは母の自殺未遂と父の裏切りにショックを受け、心がどこか遠くへ逃げ出してしまっていた。
だから、当時のことをほとんど憶えていない。
気がつくと知らない場所にいたり、お店の物をお金を払わずに持ち出したり。その度に母が呼び出され、最終的には入院することになった。
父は娘が精神科に入院することが許せなかったようだけれど、母が父に「このままでは燿子が死んでしまう」と始めて父に逆らってまで訴えた。
この言葉だけは後から聞いたのではなく、わたしの耳にはっきりと残っている。
そのおかげで、わたしは治りたい、普通に戻りたいと思うようになったのだ。
「……だから、八年前のその頃、もしかしたら尚也さんの事故の原因はわたしだったかもしれません」
わたしは両手を膝の上で握りしめて、どうにかその言葉を口にした。
今助けてくれている人たちの親友を殺したのが自分だったかもしれない。
その考えは一度頭に浮かんでしまうと、事実はそれ以外にありえないような気がした。
「ちょっと待ってよ。それとこれと、そんな簡単に結びつけたらダメだろ」
星さんは片手を振りながら否定してくれる。
「でも……、そうじゃなければ尚也さんのお葬式にわたしと母が参列していた理由が分かりません」
「いや、遠い親戚だったとか、お母さんの知り合いだったとか、あるかもしれないじゃん」
星さんは敢えて軽い調子でそんなふうに言ってくれる。それでもわたしは「そうですね」とは言えなかつた。
「わたしが飛び出したりしなければ、尚也さんは今も生きていたかも」
「燿子ちゃん、落ち着いて。たとえそうだったとしても、あれは事故だったんだし、尚也だって誰かのせいだなんて思ってなかった」
「そうよ。あなたに恨みがあったなら、尚也にはいくらでもあなたを糾弾する時間はあったのよ。でも尚也はそうしなかった。むしろあなたに怪我をさせなくて良かったと思ってたはずよ」
わたしは責められることを覚悟していたのに、星さんも佳織さんもわたしの考えを否定してくれる。二人の優しさにわたしは込み上げてくる涙を堪えることができない。
「……すみません、事故のことちゃんと憶えてなくて。ちょっと飲み過ぎたみたいです。外で頭冷やしてきます」
二人に頭を下げてわたしはお店の外に出た。
しっとりとした夜気の中に滑り込むと、サトシさんの服の袖を借りて涙を拭いた。
それほど賑やかな街ではない。この時間に開いているお店は少なく、歩いている人もほとんどいなかった。
ただどこに向かっているのか、車は絶えず道路を行き交っている。
そのライトが目の前を過ぎる度に、わたしの中ではあの夢で見た事故のシーンが蘇る。
あれはただの夢じゃない。
わたしが憶えていない記憶の断片に違いない。
知らずに足が震えていた。
一瞬の出来事で未来は大きく変わる。もし、平行世界が本当に存在するなら、どこかに尚也さんが生きている世界があるのかもしれない。
けど、この世界にその世界を引き寄せることはできないだろう。どうしたって死んだ人は生き返らない。
尚也さんの周りの人たちの悲しみが消えることはない。
わたしはどうすればいいんだろう。
サトシさんまでわたしのせいで死んでしまったらどうしよう。
一刻も早くわたしは自分の体に戻らなければ。そう思う一方で、戻った先の世界で何が起きているのか分からない不安に胸が押し潰されそうだった。
⑮
車道から離れて駐車場の奥へ歩いていく。店の裏は土手になっていて明かりはほとんどない。
腰くらいの高さのフェンスが駐車場を囲むように張られていて、土手の方へは行けないようになっていた。
仕方なくフェンスに凭れるようにして暗い夜空を仰いだ。
夜闇に慣れてきた目に星が次第に数を増していく。
今見上げている空は、わたしが一昨日まで見ていた空とは違うものなのだろうか。
違うと言えば背の高さが高い分、空に近くなったこと? 眼鏡がなければぼんやりとしか見えないわたしが、今は裸眼でくっきりと星が見えていること?
この空の下にわたしの帰る場所がないなんて、そんなこと信じられる?
――帰りたい……
――こんなことになる前のわたしに、何も知らないわたしに戻って……
わたしは空に向かって伸ばそうとしていた手を下ろした。
そんな無責任に無気力に、誰かに頼って生きていくことはもうできない。
きっと星を見る度に思い出す。亡くなった友達を偲んで毎年集まるサトシさんたちのことを。
星さんがそろそろ帰ろうと呼びに来て、三人でタクシーに乗った。
佳織さんを初めに降ろすと、星さんが「明野農園まで」と運転手さんに行先を告げる。
「明日の朝送るからさ、今夜はうちに泊まってくんない?」
理由が分からず戸惑うわたしに、星さんは言葉を重ねる。
「一人にしとくの心配だし、あ、それに野菜食わせる約束だし」
うんうんと頷く星さん。
「それと、サトシから宿題預かってる」
「宿題?」
「そ。明日仕事行くことになりそうだから、予習が必要だろ?」
その言葉にわたしは青ざめた。そうだ。今日元に戻れなかったわたしは、明日サトシさんとして学校に行かなきゃならない。
初めて会う子どもたちに、サトシさんとして授業をするってこと?
「む、無理っぽくないですか? わたし教員免許持ってな」
星さんが慌てたようにわたしの口を塞ぐ。そ、そうだ。タクシーの運転手さんに聞かれたらサトシさんが困ったことになってしまうところだった。
わたしは教員免許なんて持っていないけれど、サトシさんは本物の先生なのだ。
わたしは星さんに目で分かったと伝える。星さんが手を離して「話は家に着いてからな」と言うと、あとは二人で口を閉ざしたままタクシーに揺られていた。
「ちょっと星! ふらふら遊んでばっかりいないでちょっとは手伝いなさいよ!」
カラカラと玄関の扉を開いて、星さんが家に入った途端、そんな声が飛んできた。
苦虫を噛み潰したような顔で片耳を塞ぐと、わたしに早く入って入ってと手招きする。
「今のお母さん?」
小声で尋ねるていると、目の前にパジャマ姿の女性が現れた。
「あら、サトシ君来てたの。明日朝ごはん食べる?」
「食べる食べる」
わたしが「お邪魔します」と言う前に星さんがそう言ってわたしの背中を押す。
「早く寝なさいよー」
そんな声を背中に聞きながら、星さんに連れて行かれた部屋は八畳程の和室だった。
「あの人話が長いから」
そう言いながら部屋の隅に置かれた机の上のパソコンの電源を入れる。
ポケットから取り出したUSB を差し込んで、ファイルを開くと、ずらりと子どもたちの写真が現れた。
「これが宿題。顔と名前、一晩で憶えられる?」
何を隠そう。わたしは人の名前と顔を憶えるのが一番苦手だ。
けど、やる前からできないなんて言えない。
「頑張ります!」
パソコンの前に正座して気合いを入れたわたしに、星さんが、
「それじゃ、いいもん作ってきてやるよ」
そう言って部屋を出ていく。
わたしは写真の中に叶夢君を見つけて、あの後叶夢君がどうなったのか気になった。
明日学校に来られるかな……。
そう言えば、わたしがいなくなった後もサトシさんはわたしが戻って来ることを予測していたのだとすると、やっぱりわたしはサトシさんの中にずっといたんだろうか。
もしそうなら、昼間はサトシさんが体を使って、夜少しの間だけわたしに体を使わせてくれるだけでいいのに。
どうにかサトシさんと会話ができないだろうか。
昨夜、腕だけがサトシさんの意思で動いたみたいに、たとえばわたしの質問にキーボードで答えてくれるとか。
今までのところ、すごく切羽詰まった時にしかサトシさんは現れていない。
自由に入れ替われるというわけでもないのだろうか。
そんなことを考えているところに、星さんが戻ってきた。
手には大きなグラスを持っている。
中には緑色の液体。中身は……何となく想像がつく。
「あけのん特製野菜ジュース!」
今まで見た中で一番の笑顔で差し出されたそれを、断ることなどできようか。
「あ、ちなみにあけのんてのは明野農園の愛称ね」
星さんのニックネームではなかったらしい。
手渡されたグラスは手にずっしりと重みがある。ふと目に入ったグラスに描かれたロゴは見覚えがあった。
インターネットの広告などによく出てくる有機栽培野菜の宅配サービスだ。今まで特に興味がなくてじっくりと見たことはなかったけれど。
「……あけのん」
丸の中にきゅうり、トマト、かぼちゃ、大根などが擬人化されたイラストと太陽、そしてachenonの文字。
「そ、明野農園とノンケミカルをかけて俺がデザインした」
誇らしげな星さんの顔とグラスのロゴマークを見比べて、何だか星さんがかわいく見えてきた。
すごく野菜愛に溢れてる。
「いただきます」
両手でグラスを掲げ、そっと口をつけてみる。驚くほど飲みやすい。
新鮮な野菜の栄養がたっぷり詰まったジュースに、星さんの野菜への深い愛を感じた。
改めて星さんを尊敬の眼差しで見ていると、星さんが野菜を好きになった理由をぽつりと話してくれた。
「俺、子どもの頃体が弱くてさ。二十歳まで生きられないかもって言われてたんだ。それで、母さんが絶対俺を長生きさせてやるって、無農薬野菜の栽培始めて。そしたらほら、25歳になってもピンピンしてる。だから野菜には人間を元気にするパワーがあるって俺は信じてる」
星さんが叶夢君に言った言葉は慰めなんかじゃなくて、本当に星さんがそう思ってるからあの時ああ言ったんだなって分かった。
自分が信じてるものがあるっていいなって思えた。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかった」
空になったグラスをトレーに戻していると、星さんがタオルでわたしの口をグイッと拭った。
びっくりして見上げるわたしに、星さんは困ったような顔で言った。
「どう見たってサトシなのに、話してるとなんでか燿子ちゃんが見えてくるんだよ。俺ヤバイ……」
「や、やばいって何が、どう……?」
恐る恐る尋ねるわたしに、星さんは頭を抱える。
「俺は幽霊とかそういうの、今まで見えたことないんだよ。それが急に見えるようになったりしたら……」
な、なんだそっちか。わたしはドキドキする胸を押さえて勘違いしそうになった自分にバカッと内心で毒づいた。
「もしかして、それでわたしを家に……?」
「そ、そんなわけないじゃん! 片付けてくるから、ちゃんと宿題しろよ!」
まるで子どもに言うようにそう言って部屋を出ていく。
星さんがいない間、わたしは必死に子どもたちの顔と名前を覚えようとした。
でもついつい他のことを考えてしまって、なかなか集中できない。
点滴のチューブで首を絞められていたこっちの世界のわたし。
命が助かったから良かったけれど、どれほど苦しかっただろう。
それにお母さんも……。
⑯
次々に娘の身に起こる災難に、不安と心労で眠れずにいるだろうと思うと泣きそうになる。
わたしは元気だよ、心配しないでって言いたい。
でもこの世界とわたしのいた世界はよく似た別の世界だということがはっきりした。
あの一瞬、わたしは確かに燿子の魂に出会った。
一つの体に魂が二つ。
片方はこの世界に存在してちゃいけない。
どうせなら燿子の体に二人分の魂が入れたら良かったのに。
また会いに行っても、今日みたいに弾き飛ばされてしまうんだろうか。
考えれば考えるほど、わたしの居場所はないような気がする。
このままサトシさんの体に居座り続けたとして、元に戻れないなら、わたしがここにいても誰も幸せにならない。
ぼんやりとパソコンの画面を見つめていると、また昨夜のように、肘から先が浮き上がってきた。
サトシさんがキーボードを打つ。
『……元に戻れなくても方法はある』
『諦めるな』
「でも、もう手がかりが……」
わたしを脅してきた男の狙いはわたしが間違えて持って行ってしまった麻薬だった。
あの人がわたしを元の世界に戻せるとは思えない。
『明日もう一度病院に』
サトシさんの手がそこまで打ったところで、後ろで襖が開く音がした。
「燿子ちゃん、……誰かと話してる?」
振り返ると星さんが青い顔で立っていた。
「あ、今腕だけサトシさんなんです」
それ以外に言い様のない状態。腕は動かすことができないため、キーボードに乗せたまま、星さんを見上げる。
「…………」
星さんはしばらく絶句していたけれど、わたしが首が痛くなってきて正面に向き直るのと同時に、畳を踏む足音が近づいてきた。
どさり、とわたしの隣に座る。
「サトシと話してたってこと?」
星さんはそう言ってパソコンの画面を覗き込む。シャワーを浴びてきたのか、洗い髪から雫がぽたりと落ちた。
薄いTシャツ越しに星さんの体温が感じられる程の距離。
思わず、星さんが首に掛けていたタオルに手を伸ばしていた。透明な腕はすっとタオルを通り抜ける。
はっとした瞬間、自分が何をしようとしていたのかに気付いて顔が赤くなるのが分かった。
星さんに見えてなくて良かった。
まだ出会って一日なのに髪を拭いてあげようとしたなんて、馴れ馴れしいにも程がある。
慌てて目を逸らしたわたしに、星さんがパソコンの画面を指差して言った。
「燿子ちゃん、これ……」
さっきまでより、明らかに文字数の増えている画面。
わたしが星さんを見ている間も、サトシさんはキーボードを打ち続けていたようだ。
サトシさんはわたしになるべく病院にいる燿子のそばに行くようにと指示し、明日中に体から出ていくことを要求していた。
「サトシがこんなこと言うなんておかしい」
星さんは腑に落ちないと腕を組んで考えこんでいる。
でも、最初に言われていたんだった。サトシさんがわたしに体を貸してくれるのは三日間。早く戻らないと肉体が死に至るって……。
明日で三日目。
わたしが元に戻る方法は手がかり一つない。でも、サトシさんは燿子の所へ行けと言う。
最悪、元の世界に戻れなくても、この世界の燿子と共存していく方法を考える方が現実的かもしれない。
だって住む世界が違ってもわたしはわたしだ。
「星さん、わたし、この世界の燿子の体に入れないかやってみます。それでダメでも、サトシさんの体は明日にはお返しします」
「だって、それじゃあ燿子ちゃんは……!」
星さんの真剣な目に見つめられて、本当にわたしのことを心配してくれているのが伝わってきた。
「見ず知らずの、こんな厄介なわたしのことを助けてくれて本当にありがとうございます。
もし、燿子の姿で会えたら……」
これ以上、星さんたちに思いが残ってしまう前に。
「ちゃんと尚也さんの事故のこと思い出して、星さんたちに伝えにきます」
星さんから離れたくないと思ってしまう前に。
サトシさんはもしかしたら最初からお見通しだったんじゃないだろうか。
星さんのそばに長くいると、わたしが帰りたくなくなってしまいそうなことに。
その夜、畳の上に敷かれた布団で眠りについたわたしは、気が付けばズブズブと布団に沈みそうになっていた。
慌ててもがくとふわりと体が浮きあがる。隣の部屋から漏れている光に気付いてそちらへふらりと寄っていくと、星さんとサトシさんが向かいあっているのが見えた。
サトシさんは水の入った二つのコップを手にしている。
「今はこの状態だ」
二つのコップを合わせる音がしんとした室内に響く。
星さんは怖い顔でそれを睨んでいる。
サトシさんは片方のコップからもう片方へゆっくりと水を注いでいった。
「こうなったら、もう二つを元に戻すことはできない」
何の話をしているんだろう。
「でも、それじゃあ、燿子ちゃんを見殺しにするのかよ!」
星さんが怒っている。
「俺の中で一生生きていくより、こうなる前に切り離した方が彼女の為だ」
あの水はもしかしてわたしとサトシさんの魂を表しているんだろうか。
混ざり合った水を元に戻すなんて不可能だ。これが、サトシさんの言っていた魂を食い殺すってこと……?
「お前、もしかして……」
星さんが急に何かに気付いたように目を見開いた。
サトシさんは星さんの顔を真っ直ぐに見ている。
「尚也は……、お前と尚也は、その水みたいに混ざり合ったっていうのか……」
「二人で生きるにはこれしかなかった」
「なんで今まで言わなかった!?」
「言わない方がいいと思ったからだ」
「……んなわけないだろ……」
星さんがコップに手を伸ばす。
少しの揺れで零れてしまいそうなそれを、ギュッと握って俯く。
サトシさんは何も言わずに星さんを見ている。
「結局、俺には何もできないってことだろ? サトシも尚也も、燿子ちゃんだって、結局俺にはどうすることもできない」
「そうじゃない。星がいるから俺は今まで生きてこられたと思ってる」
サトシさんの声が星さんの肩を震わせる。
「彼女を助けてやってくれ。星がいればきっと彼女も生きる道を見つけられるはずだ」
サトシさんが星さんを信頼しているのが、その声から伝わってくる。
星さんはサトシさんが今まで黙っていたことに怒り失望したかもしれない。
死んだと思っていた尚也さんが、サトシさんと混ざり合って生きていた。
そんなことが本当に起こり得るのか、わたしには分からない。でも、サトシさんは尚也さんを助けたかった。それと同時に星さんや佳織さんに負担をかけたくないと思って本当のことを今まで内緒にしてきたんじゃないだろうか。
いきなり二人が一人になったら、どう接していいか分からなくなるだろうし、いつまで経っても尚也さんの死から立ち直ることができなかったかもしれない。
そんなサトシさんの気持ちが星さんに分からないはずがない。
星さんは握りしめていたコップを引き寄せ、それを持ち上げるとゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。
口の端から零れた雫を手の甲でぐいと拭う。
「……。簡単に言うなよ」
そう言った星さんの声には星さんらしい明るさが戻っていた。
⑰
野菜たっぷりのお味噌汁が丼で置かれ、いい匂いの湯気をあげている。
きゅうりやナスのお漬物、ネギの入った卵焼き、ほうれん草のおひたし、お芋の煮転がし、焼き鮭、そして特製野菜ジュース。
野菜のフルコースが並ぶ食卓に、星さんは寝癖のついた頭で突っ伏している。
「はい、サトシ君。いっぱい食べてね」
星さんのお母さんから差し出されたお茶碗には山盛りのご飯がよそわれていた。
農家の朝は早いに違いない。けれど星さんはどうも朝に弱いらしい。
わたしはもくもくと朝ごはんを食べる。時々星さんの肩をつついてみるも、顔を上げることはなく青い顔で呻いている。
もしかして二日酔い?
星さんのお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんまで、食卓には既に一仕事終えてきた御家族の方達が勢揃いで朝食を囲んでいる。
「サトシ君学校どう? 給食の野菜も今年からうちのを使ってもらえるようになって。みんな残さず食べとるかのう?」
「うちのは無農薬で見た目は悪いけども、給食は気にせず使ってくれとるみたいでありがたいことやわ」
「何言うとる。薬塗《くすりまみ》れで虫も食わんような野菜より、虫が喜んで食べにくる野菜の方がマシやろが」
「お父さん、そんなこと言うて、給食に虫が混ざっとったりしたら大事《おおごと》よ」
こんなに賑やかな朝ごはんは初めてだった。
食卓に並んだ料理はいつの間にか綺麗に片付き、食後のお茶を飲み終えたらまた仕事に出て行く。
そんなパワフルな家族の中で育ってきた星さんが、小さい頃は体が弱かったなんて信じられない程だ。
まだ机に方頬を預けて目を閉じている星さんの顔をそっと覗き込む。
喋っていると元気な印象だけれど、そうして目を閉じていると、青白い顔に長い睫毛の影が落ちて、何だか眠り姫のようだ。
乱れて瞼にかかった前髪に、星さんが眉を顰めて瞼をひくつかせる。
そっと前髪を指で払い除けて、その綺麗な寝顔に見惚れていたけれど、そろそろ時間がヤバイことに気付いた。
「星さん、あの、学校に……」
昨日送ってくれると言ったのに、とても運転ができそうには見えない。
ここから小学校までどのくらいあるんだろう。
スマートフォンの地図アプリで検索してみると、徒歩2時間の文字。
とても今から歩いたのでは間に合わない。
車なら20分とかからない距離だ。
正直、行きたくない気持ちの方が大きい。このまま学校に間に合わなければいいのに、なんて思ってしまう卑怯な自分がいる。
学校に着いたらまず職員室に行く。先生方の顔と名前も一応覚えたつもりだけれど、何か聞かれてもきっとうまく答えられない。
小学校の授業ってどんな感じだっけ? 6年間も通ったはずなのに、何一つ思い出せない。
それでも仕事を休むわけにはいかない。
一日ぐらい休んでも、と思うことは、わたしを助けてくれたサトシさんを裏切るようで、サトシさんや星さんに無理なら休んでもいいと言われても、その言葉に甘えたくないという思いがあった。
わたしが働いていた会社では、有給休暇はあってないようなものだった。
どんなに体調が悪くても、休めばその分周りの人に仕事が割り振られる。
根本的に人手が足りていないのが原因の一つだったけれど、休んだ人の陰口を聞かされ続けたあの一年で、わたしの中には「仕事を休むことイコール悪」の定義が出来上がってしまっていたのだ。
だから、たとえ授業がボロボロだろうと行かないよりはましだと思った。
本当に甘い考えだったことをあとになって痛感するけれど、なくてはならない一日だったこともまた事実だった。
「ああ忘れるところだった。サトシ君、これお弁当持っていって。あら、星はまだ寝てるの? サトシ君遅れちゃうでしょ。おばさん、今から小学校の近くの畑まで行くから乗せてってあげる」
ほらほらと背中を押され、軽トラの助手席に乗り込む。
星さんのお母さんは慣れたハンドル捌きで農道を行く。
小学校が近付いてくると、交差点に子どもたちの姿が見えた。
信号のない横断歩道で、軽トラは子どもたちが道を渡るのを停まって待つ。
手を挙げて渡り切った子どもたちが、こちらに向かってお辞儀をするのを見て、わたしは驚いた。
道を譲ってくれたドライバーに対して、頭を下げる大人がどれほどいるだろうか。
口には出さなかったけれど、心の中は新鮮な驚きでいっぱいだった。
「かわいいわねぇ。あなた達の小さい頃思い出すわ。星が学校休むといっつもサトシ君がお便り持って来てくれてたわよね。星はサトシ君に憧れてたのよ。野菜だって本当は嫌いだったのに、サトシ君が食べてるの見て頑張っちゃって」
「星さ、……星はお母さんのおかげだって言ってましたよ。今じゃ、みんなにうちの野菜食べたら元気になるって言ってます」
お母さんは嬉しそうに笑って、わたしの膝をぽんと叩いた。
その手の優しさに、ふわっと母の顔が浮かぶ。
「せんせー、おはようございまーす」
子どもたちが大きな声でこちらに向かって手を振るのが見えた。
子どもたちの横を軽トラがゆっくりと進む。
わたしは深呼吸してお腹に空気を貯めた。
「おはよう!」
その第一声と共に、今日一日子どもたちと過ごす覚悟を決める。
学校の少し手前で車から降りると、お母さんにお礼を言って別れた。
過疎化が進む田舎町の小学校。受け持つクラスの生徒は22人。
小さな机の並ぶ教室はどこか懐かしくて、それでいて44の眼に見つめられる緊張感に、覚えたはずの言葉がどこかへ飛んでいってしまう。
何も言わないわたしに、教室の中は直ぐに騒めき、子どもたちの視線は横へ後ろへと逸らされる。
必死に頭の中でシュミレーションしていた流れは、ひとつ躓くと、なかなか立て直すことができない。
隣のクラスの子どもたちが並んで廊下を歩いていく。
今日は全校朝礼があり、学年ごとに列になって体育館に集まるのだ。
速やかに子どもたちを廊下に並ばせる。これが今日一つ目のミッションだった。
ピコピコと列からはみ出す子どもたちを、最初の方こそ一人一人注意していたけれど、途中でキリがないことに気付いた。
いちいち列を整えていたのでは朝礼に間に合わない。
どうにか体育館に辿りつき、長い校長先生のお話や、保健の先生からの健康管理に関するお話などを聞いたあと、校歌を歌って解散。
一時間目が始まるまでに、人数分のプリントをコピーする。
サトシさんがUSBメモリに用意しておいてくれた算数のプリントで、一時間目を何とか乗り切った。
二時間目は国語。ひたすら教科書を生徒に朗読してもらって、漢字の小テストで乗り切る。
そして三、四時間目は体育館での図画工作。
1年生から三年生までが集まって、ペットボトルの蓋を使って、体育館に水族館を描くという特別授業だった。
「来島先生、写真撮影お願いしますね」
そう言って渡されたデジタルカメラを手に、体育館の中を歩き回る。
見たこともないほどの大量のペットボトルの蓋が、体育館の床一面に広げられている。
子どもたちは、各々に持ってきたカゴや袋に蓋を集め床に並べていく。
何人かで巨大なクジラを作る子や、ゲームのキャラクターみたいな巨大イカを作る子、一人で黙々と小さな魚を作る子。
それぞれに熱中しながら体育館を水族館に変えていく。
歩き回っては写真を撮るわたしに、笑顔とピースサインが向けられたり、うっかり並べてあったキャップを蹴飛ばして怒られたり。
この時間の子どもたちはみんな楽しそうで、見ているこっちまで楽しくなった。
途中何度か、叶夢君を見つけてはその様子を伺ったが、作業に集中できているようだった。
このペットボトルの蓋はリサイクル資源として売却された収益が、世界の子どもたちの予防接種のワクチンに使われるらしい。
最後にみんなで体育館を泳ぐように寝転がってポーズをとってもらい、2階から写真を撮った。
体育館いっぱいに描かれた水族館は、崩してしまうのが勿体なく思えた。
一斉に片付けが始まると、子どもたちは勢いよくキャップを掻き集める。
大きな波にさらわれるように、体育館の床にいた魚たちはあっという間にいなくなってしまった。
その様子を見ていると、今日この場所にほんの一瞬存在した絵を、本当ならわたしは見ることがなかったのだと思えて、なんだか胸が熱くなった。
ただのペットボトルの蓋が、たくさん集まって大きな絵を描き出す。これだけの数を集めた時間と労力も、これを使って絵を描こうと考えたアイデアも、全てが揃って初めてできたことだった。いろんな力が集まって作り上げたその一瞬に、奇跡的に立ち会えたことにちょっと感動してしまった。
星さんにも見せてあげたかったな。
今日中にサトシさんの体から出て、自分の体に戻らなくてはいけないということなど忘れたようにわたしは落ち着いていた。
たとえどんな結果になったとしても、サトシさんと星さんに感謝している。
子どもたちからエネルギーを分けてもらったせいか、何だか全てがうまくいくような気がしていた。
⑱
あっという間に午前中が終わり、次は給食の時間だった。
星さんのお母さんからお弁当をもらったものの、先生も給食を一緒に食べるらしい。
どちらにしても使われているのは星さんちの野菜だ。
白いエプロンと白い帽子、小さな顔に大きなマスクを着けた当番の子たちが、給食室から運ばれてきたお鍋からおかずを取り分けていく。
ちゃんと人数分に分配できるのか、こぼしたりしないかとハラハラしながら見守っていたけれど、どうにか全員に給食が行き渡った。
最後に当番の子がわたしの席に給食の乗ったトレーを持ってきてくれる。
サトシさんのメモ通りに、「では、お当番さん」と声をかけると、号令にあわせて「いただきます」の声が元気に響き渡った。
今朝は星さんの御家族に囲まれた朝ごはん、そしてお昼は子どもたちと一緒に給食を食べる。
こんな体験は二度とないかもしれない。
緊張と失敗の連続でも、子どもたちの元気に引っ張られるように一日が進んでいく。
誰もが経験してきたはずの時間が、サトシさんの目を通して見ると、まるで初めて見る世界にいるような二度とない貴重な時間だと思えた。
それは美術館にいる時に少し似ているかもしれない。
飾られた作品をさっと見て通り過ぎることもできるけれど、ひとつひとつを問いかけるように見ていくと、そこに知らなかった世界が広がっていることに気付く。
絵の中にそれぞれ違った世界があるように、子どもたちの中にもそれぞれ違う世界がある。
もし、自分の体に戻ることができたなら、先生にはなれなくても、子どもたちと関わる仕事がしてみたい。
昼休み、子どもたちが提出した日記帳を読みながらそんなことを考えていた。
そしてこの日最後の授業は体育だった。
「運動場でドッジボールをする」と書かれたメモ。ボールは体育係の子が準備してくれる。
わたしはタイムを測って笛を吹くだけだ。
二つのチームに別れて試合開始の合図。
ボールは何故かわたしの顔面に向かって飛んできた。
サトシさんならきっとうまく避けたに違いない。
だけど……。
「今日の先生、変!」
「先生、なんかあったのー?」
「失恋とか!?」
鼻が潰れそうな痛みを堪えながら、子どもたちがいつもと違う「サトシ先生」の秘密を暴こうとする声を聞いていた。
自分ではサトシさんになりきってうまくやれてるつもりだったけれど、子どもたちにはお見通しだったようだ。
――騙してごめんね。
舞い上がっていたわたしは、一転罪悪感に苛まれ始めた。
その時、異変は始まった。
「先生、あおいちゃんがお腹が痛いって……」
「なんか気持ち悪い……」
「先生! ヒロトがゲロ吐いた!」
女の子たちの悲鳴。ドサリと音がした方を見れば、地面に倒れている子がいた。
そして次々に不調を訴える子どもたち。
いきなりの事態に、わたしは何をしていいか分からず右往左往するばかりだった。
「だ、誰か保健の先生を……」
保健室に向かって走ったのは叶夢君だった。
近くで地面に嘔吐し続ける子の背中を擦りながら周りを見渡せば、半数の子が倒れたりうずくまっている。
一体何が起こってるのだろう。
真っ先に思い浮かんだのは三十分程前に食べた給食だ。
わたしも同じ物を食べている。
そう考えた時、ふと胃のあたりがおかしいような気がした。
「先生、あおいちゃんが!」
女の子に腕を引かれて見れば、あおいちゃんがビクンビクンと体を震わせている。
もしかして痙攣?
今すぐ救急車を呼ばなくては。学校内でどうにかできるような状況じゃない。頭ではそう考えているのに、わたしの足が歩き方を忘れたみたいに動かない。
泣き出す子どもたち。
空からもポタリと雨の雫が落ちてきた。
地響きのような遠雷の音に、辺りが急速に影に包まれて行く。
――生死の理を犯して存在するわたしに、神様が怒っている
そんな考えが、降り出した雨と共に心の中へ染み込んできた。
けど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
わたしはあおいちゃんに駆け寄って、その体を抱き上げた。
「動ける子たちは他の先生を呼びに行って!」
そう指示して、一番近い校舎の入口へ走る。
出てきていた先生にあおいちゃんを託し、救急車を呼んでくれるよう伝えて、すぐさま運動場へ引き返す。
倒れている子を何度か往復して、校舎ではなく体育館へ運んだ。
保健室のベッドでは足りない。
体育の授業に使うマットの上に子どもたちを寝かせていく。
次第に集まり始めた先生方に状況を説明し、他のクラスの様子を調べてもらう。
もし、給食が原因だったとしたら――。
絶対にないと思いながらも、星さんの顔が脳裏を掠める。
救急車のサイレンが聞こえ始めた頃、外は本格的な雨になっていた。
体育館の屋根を打つ雨音が、外の世界との繋がりを絶とうとしているかのようで、子どもたちの姿を見るのが怖い。
わたしはサトシさんの代わりにこの子たちを守らなければいけない。
怯えている場合じゃない。
何度も何度も一人一人に声をかける。
半数以上の子どもたちが腹痛や吐き気を訴えている。被害は今のところこのクラスだけだった。
一番最初に動いてくれた叶夢君は、体育館の隅で青い顔で立っていた。
「叶夢君、大丈夫? さっきはありがとう」
近寄って声をかけると、その目からポタリと涙が落ちた。
不調を訴えていない子たちも、突然の騒ぎにみんな不安になっている。
叶夢君はお母さんのことがあってすぐだから、尚更かもしれない。
叶夢君の肩に手をかけようとしたその時、叶夢君はくるりと踵を返して駆け出した。
体育館に入ってくる救急隊員の人達の間をすり抜けて、外へ飛び出していってしまう。
振り返れば、何人かの先生方が救急隊員の方を症状の重い子の元へ案内してくれている。
一瞬躊躇ったものの、叶夢君がこの後具合が悪くならないとも限らない。
わたしは急いで叶夢君のあとを追いかけた。
運動場の端を走っていく人影を見つけて飛び出した。
ザーザーと降りしきる雨。
ぬかるむ土に足をとられる。
目を開けているのもやっとで、必死に叶夢君の姿を追うものの、ついに叶夢君は学校の外へと出てしまった。
車に轢かれたりしたら大変だ。
「叶夢君、待って」
呼び声は雨音に掻き消されて、叶夢君に届かない。
車道にどこかで見たような車が止まっているのが見えた。
胸の奥がざわりと逆撫でされたような不安。
車のスライドドアが開いて、叶夢君がその横に立ち止まった。
車内から伸びてきた手が叶夢君を車に引き込むと、ドアが閉まるのも待たずに走り出す。
この時にはもう全速力で車に向かって駆け出していた。
体を操っているのが、自分なのかサトシさんなのか分からない。
車はどんどんスピードを上げ遠ざかっていく。
このまま見失ってしまったら……。
その時、ふっと視界がぼやけた。刺すような痛みが腹部に走る。
足が縺れて転びかけ、それでもどうにか叶夢君を連れ去った車を見失わないよう、またすぐに走り出す。
田舎町ではタクシーがタイミングよく通るなんてことはまず期待できない。
携帯で警察に電話しようにも、学校に置いてきてしまった。
このまま何もできないんだろうか。
全身をぐっしょりと濡らす雨のせいで、体力はどんどん奪われていく。
ついに、車は見えなくなった。
――叶夢君……!
もう、これ以上走れない。
そう思った時、背中からずるんと何かが剥がれ落ちるような感触。
それまでの苦しい呼吸もお腹の痛さも消え、わたしの体は透明になった。
はっと振り返ると、前髪から雨の雫を滴らせたサトシさんの紙のような白い顔がそこにあった。
前かがみに、両手を膝について肩で息をしている。
それでも、震える唇が「行け」と声を絞り出す。
「行ってくれ。……叶夢を、……はぁ、はぁ、……頼む」
今にも倒れそうな顔で、わたしに行けと言う。今、私だけが叶夢君を追うことができる。
けど、さっきまで感じていた腹痛や吐き気を思うと、サトシさんが学校まで無事に帰れるのかどうかも分からない。
魂だけのわたしには、誰かに何かを伝えることさえできない。
――せめて星さんに連絡できたら。
けれど、迷っている暇はない。
「行きます」
今、優先すべきは叶夢君を追いかけること。叶夢君の連れ去られた先が分かったら、またサトシさんに知らせに戻るんだ。
――それまで、サトシさん無事でいて。
あとは振り返らずに、車の走り去った方向に意識を集中させる。
わたしの意識は高く舞い上がり、叶夢君を追って飛んだ。
肉体を持たないわたしに何ができるかなんて分からない。
でも、叶夢君の側へ。
⑲
車が目前に迫ってきた。わたしはえいっと気合いを入れて、車の屋根に飛び込んだ。
その車は、叶夢君の家の前から走り去ったあの車だった。
「叶夢、よくやったな。次はお母さんに合わせてやるよ」
叶夢君の隣にいた男がそう言った。
運転席には別の男。助手席には母と同じくらいの年の女性。
「明日には明野農園の野菜から大量の農薬が検出されたっていう記事が出るわ」
その女性が恐ろしい言葉を放った。
この人たちはいったい何をしようとしているのだろう。
あまりの恐ろしさに、何をどうしていいのか分からない。
わたしは叶夢君にぴったりとくっついて、車の行く先を見守った。
やがて見覚えのある駐車場に車が停る。叶夢君のお母さんと燿子《わたし》が入院している病院だ。
叶夢君が連れ出され、引き摺られるようにして連れていかれる。
叶夢君に、何をさせようとしているの?
叶夢君の背中にぴたりと張り付いたわたしの姿に目を向ける人はいない。
それをいいことに、わたしは堂々と叶夢君について行く。
エレベーターに乗って向かった先は叶夢君のお母さんの病室だった。
病室には叶夢君のお母さんが一人だけだった。
ベッドの背中の部分を起こしているところを見ると、回復してきているのだろう。
少しほっとして叶夢君の頭を撫でようとしたら、腕がスルッとすり抜けた。
「ああ、この間は悪かったな。ちょっと量がいき過ぎちまったみたいだな」
男は言葉では謝っているように聞こえるが、その下卑た笑いには誠意の欠片も見えない。
「何しにきたの? もうあなたとは関わりたくないの。帰って」
叶夢君のお母さんは男を睨む。
「ひでぇな。この間のアレ。いくらすると思ってんだ? まぁアレは初回サービスだ。そんなことより今日は頼みがあって来たんだ」
男は気にとめる風もなく、ニヤニヤと笑って叶夢君のお母さんに話しかける。
この人が叶夢君の言っていたおじさん、叶夢君のお母さんに麻薬を持ってきた人物に違いない。
男は叶夢君の襟首を掴んでどんと前に突き出す。
「叶夢!」
お母さんがベッドから身を乗り出して叶夢君に両腕を伸ばした。
叶夢君がお母さんに駆け寄ろうとした瞬間、男が叶夢君を持ち上げる。
叶夢君が足をばたつかせても、男は叶夢君をお母さんに渡すつもりは無いようだ。
「子どもが心配だよなぁ。母親が薬中なんて、なぁ?」
男はわざとらしく叶夢君の頭を撫でる。
「俺の頼み聞いてくれたら、悪いようにはしないぜ」
後から来ていた運転席の男が扉の前で見張っているのか、そうしている間も誰も部屋に入ってこない。
「ちょっと騒いでくれたらいいんだ。今日学校で大変なことがあったんだよなぁ、叶夢?」
叶夢君がぴくんと身を強ばらせた。
「学校給食に大量の農薬が混入したんだ。有機栽培なんて嘘っぱちだな、ありゃ」
男は肩を揺すって笑う。
「明野農園を潰す。協力、してくれるよな?」
低く抑えた男の声が嘘や冗談でないことを物語っている。大変だ。大変なことになる。
星さんが、星さんの御家族がみんなで作ってる野菜が、農園が……!
星さんに早く知らせないと。
でもどうやって?
星さんには魂の状態のわたしは見えない。サトシさんの体に一度戻るしか……。
そこでわたしは閃いた。
そうだ。
燿子だ。
燿子の体を使えれば……。
締め切られたスライドドアは、今のわたしには触れることさえできない。
でも、さっきだって車の屋根を通り抜けた。薄いドアの一枚や二枚、今のわたしには何の障害にもならない。
一瞬で燿子の病室までたどり着いた。
今だに目を覚まさないのか、燿子は目を閉じて静かな呼吸を繰り返している。
その傍らには母の姿があった。
「お母さん……。ごめんね」
わたしの声は母に届かない。ベッドに肘をついて祈るように手を組み合わせ、その手を額に押し当てている。
触れることはできないけれど、母の背中をそっと撫でるように手を動かす。
感じるはずはないのに、その手に母の温かさが伝わってきたような気がした。
わたしはここにいるよ。気付いて!
そう叫んでみても伝わらない。
髪の毛の一本すら動かすことができない。
――燿子、あなたの体を貸して。わたしを受け入れて!
わたしは天井近くに浮き上がって、真下に燿子の体を見下ろした。
どうやって体に入ろうかと昨夜イメージした方法を試してみる。
まずは燿子の体に並行になって重なる。
魂のわたしと肉体の燿子《わたし》が溶け合うイメージで沈んでみる。
背中に反発を感じて、うまく入れない。
しばらく体の上を微妙に位置をずらしたりしながら頑張ってみたけど、ベッドは通り抜けるのに、燿子の体だけは一ミリも入ることができない。わたしだけが触れることのできない魔法でもかかっているみたいだ。
再び天井付近まで浮き上がると、今度は勢いよく飛び込んでみる。
けれど、体に触れた途端弾かれてしまった。
そうやって何度も何度も試したけれど、ことごとく失敗だった。
時折窓から駐車場を見下ろして、さっきの車が移動していないか確認していたけれど、何度目かに見た時、車がいなくなっていた。
ああ、時間がない。
気持ちは焦るばかりだ。
その時、母がふっとわたしの方に目を向けた。
「……燿子?」
見えていないはずなのに、目が合っている気がする。
「お母さん!」
「燿子!」
母がわたしに向かって手を伸ばす。その手首で見慣れたローズクオーツのブレスレットが揺れた。
魂《わたし》に母の手が触れた途端、そのブレスレットの糸が切れたのか、珠が弾け飛んだ。
いくつものローズクオーツが飛び散り、床の上を跳ねる。
次の瞬間、時が止まったようにそれらが動きを止めた。
空中に浮いたまま静止する薄紅色の珠が、窓から差し込んできた光を吸い込んで輝く。
白い光が散らばった珠から溢れ出して病室を真っ白に染めた。
「燿子!」
お母さんの声が部屋中からこだまして聞こえる。
目の前を色んな景色が流れ去った。
覚えている過去の景色。
忘れていた記憶。
苦しくて、悲しくて、優しい思い出の数々。
その中に星さんの姿があった。
そうだ。早く星さんに伝えなきゃいけないことがある。
記憶の中で笑う星さんはこの病室のベッドの上にいた。
だんだんと眩しさを増す光に目を開けていられず、腕をかざして目を閉じた。
数秒後、光が弱まり始めると、空中に静止していた珠がバラバラと音を立てて床に落ちる。
ぐるんと世界が回った。
⑳
目眩、だろうか。
恐る恐る目を開けると、見えたのは天井の模様。
何度か瞬きして横に目を向けると、母がいた。
「燿子……。燿ちゃん!」
「お母さん……」
声が、わたしの声が母に届いた。
腕を持ち上げてみる。透明でなく、ちゃんと色と熱、体積を持ったそれは、サトシさんのものより小さく頼りない。
それでも魂だけの状態よりずっといい。
母がナースコールに伸ばした手を掴んで止める。
「お母さん、わたしの携帯電話……」
そう言ったわたしに向けられた母の目は、今にも溢れそうな涙に潤んでいる。それでも三日も眠っていた娘に、戸惑いながら物入れから携帯電話を取り出してくれる。
わたしは自分の携帯電話を手に、震える指で画面をタップする。
星さんに電話をかけようとして、番号が分からないことに気付いた。
サトシさんの携帯の番号も分からない。
どうやって連絡を取ればいいの?
こうしている間にも恐ろしいことが起ころうとしているのに。
わたしは必死に頭を働かせた。そうだ、明野農園を調べればいいんだ。
検索アプリを開いて「あけのん」と打ちこむ。
表示されたサイトの番号をタップすれば、コール音が鳴り始めた。
「はい、明野農園でございます」
繋がった!
この声は星さんのお母さんだ。心臓が驚いたのか、急激に血液が体を巡り始めたような気がる。
「あのっ」
その先をなんと続けていいか分からず一瞬言葉につまる。
花巻燿子という存在は、星さんと面識がないのだ。繋いで貰えるだろうか。怪しい人と思われないだろうか。
「あの、花巻燿子と言います。星さんはいらっしゃいますか?」
上ずった声で一息にそう告げる。小学校の時、初めて友達の家に電話を架けた時のような緊張感。
「あらまあ! ようこちゃん?」
電話の向こうからは予想外な声が返ってきた。
お母さんのわたしを知っているような口ぶり、その後に電話の奥で星さんを呼ぶ声がした。
「星、彼女から電話よー」
か、彼女?
「彼女なんかいないけど?」
星さんの不審そうな声。
「隠さなくったっていいじゃない。今朝、ようこちゃんっ、て叫んで飛び起きてたじゃない」
お母さんと星さんの会話が電話を通して筒抜けだ。
「もしもし」
星さんの声がダイレクトに耳に飛び込んできた。
その瞬間、何故だか分からないけれど、涙が溢れて止まらなくなった。
「星さん……、星さん、大変なんです。農園が、……サトシさんも、叶夢君も、みんな大変なことになってるんです。わたし、どうしたら……」
早く伝えなきゃいけないのに。焦るほどに上手く言葉にできなくて、込み上げてきた涙で声が詰まった。
「……燿子ちゃん、なの?」
「……はい」
「その声、元に戻れたってこと?」
「…………」
これにはなんと答えたらいいのか分からなかった。それよりも、今は伝えなきゃならないことがある。何から伝えたらいい? 泣いてる場合じゃないのに。
「今、どこ?」
「病院です」
「分かった。すぐそっち行くから、待ってて。あ、それと燿子ちゃんの携帯番号教えて」
星さんが電話の向こうで慌ただしく足踏みする音が聞こえた。
星さんとの通話を切った後、折り返しかかってきた番号を携帯に登録する。
それから腕に刺さったままの点滴の針を、意を決して引き抜いた。
こんなドラマみたいなことを自分がする日が来るとは思わなかった。
着替えてすぐに叶夢君のお母さんの病室へ向かう。わたしを心配する母に、今は後で説明するからと謝ることしかできない。
しばらく寝ていたせいか足元がふらついたけれど、病院の廊下には手摺があって助かった。
叶夢君がまだ病室にいるといい。祈るような気持ちで開けたドアの向こうには、空のベッドがあるだけだった。
叶夢君も、叶夢君のお母さんもいない病室。さっきの男たちが二人を連れて行ったのだろうか。
わたしは大変な失敗をしてしまった。
まだ二人から目を離すべきじゃなかった。
もう二人を追いかけることもできない。
さっきまであんなに欲していた体が今では足枷に思える。
あの人たちは明野農園を潰そうとしていた。そのために、学校の給食に農薬を混入させ、罪もない子どもたちを……。
犯人に対する怒りと、自分に対する怒りで目の前が真っ赤になりそうなほどだった。
今日、もし子どもたちと給食を食べたのがサトシさんだったら、異変にもっと早く気付けたかもしれない。
子どもたちがあんな苦しみを味わう前にどうにかできていたかもしれない。
わたしは酷い考え違いをしていた。
一日くらいならサトシさんの代わりができると、思い上がっていたんだ。
この世界に存在すること自体間違っているわたしが、この一日で犯した罪はどれほどだろう。
子どもたちを危険に晒したばかりか、わたしの存在がみんなの運命を狂わせている。
わたしは立っていられずに、ベッドに顔を伏せて泣きじゃくった。
そんなことをしていても何の解決にもならないことは分かっている。
それでもこれまで気付かない振りをしていた不安や疲れが、堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。
この世界に一人放り出されたわたしが、帰る場所も方法も分からないのに、サトシさんや星さんの優しさに甘えて欲を出した。
いつもそうだった。
大人しくしているつもりが周りに気を遣わせ、目立たないように控えめにしていることで周囲の負担を増やしていた。
嫌なことから目を背け、厳しい言葉には耳を塞いでいた。
自分は悪くない。
悪気があってやってるわけじゃない。
そんな言い訳で自分を正当化しようとしていた。そして自分のやったことの結果を見ずに逃げだしていた。
あの、尚也さんの事故の時も。
泣いている場合じゃない。泣くな、泣くな!今度こそ、自分にできることをするんだ。それがこの世界からいなくなることだとしても。
「ちょっと、勝手に点滴外すとか、ありえないんだけど」
唇を噛んで立ち上がったわたしの前に佳織さんが立っていた。
そうだ。佳織さんに聞けばサトシさんや星さんの連絡先が分かったのに。
「……すみません」
慌てて涙を拭うわたしに、佳織さんがポケットティッシュを渡してくれた。
「何があったか知らないけど、星からあなたを見てて欲しいってさっき頼まれたの。あなた、昨日サトシの……」
わたしは佳織さんの言いたいことを察して頷いた。
「元に戻ったってこと?」
「分かりません。わたしはこの世界にいるべきじゃないのに……」
そう口にした途端、止まっていた涙がまた込み上げてくる。
「…………。馬鹿ね。自分の体に戻ったんでしょ? 良かったのよ、それで。そんな難しく考える必要ある?」
佳織さんは少しの沈黙の後、うじうじと悩むわたしの考えを吹き飛ばすようなサバサバした調子でそう言った。
「…………」
良かった、のかな。何をどう考えていいのか分からなくなる。
「自分のことは自分で認めてあげないと。少なくとも、サトシの中にいるよりはずっといいじゃない? 女の子にあの図体はダメでしょ」
佳織さんの言葉がわたしの気持ちを引き上げる。1八0度見方がひっくり返ったような気がした。
佳織さんに促されて、二人で並んでベッドに腰を下ろした。
子どもみたいに大泣きしていたことが恥ずかしくて、それでいて佳織さんに話を聞いて欲しいような気もした。
「サトシさんの体が居心地良くて、だから、有り得ない状況でも落ち着いていられたし、すごく前向きでいられたんです。自分の体に戻った途端に泣いてばっかりで……」
「サトシ、体だけは鍛えてあるしね。感情が肉体に影響受けるっていうのは本当なのかしらね」
「不思議です。あんなに早く走れて、たくさん食べることができて」
「サトシのこと、気になる?」
「えっ?!」
佳織さんは真っ直ぐな眼差しでわたしを見ていた。佳織さんはどう思ってるんだろう、サトシさんのこと。
その時、複数の救急車のサイレンが聞こえてきた。
わたしははっとなって窓に駆け寄った。
もしかして、子どもたちが運ばれてきたのかもしれない。
学校で起きたことを佳織さんにも話すべきだろうか。
悩んでいる間に、佳織さんにも呼び出しがかかったのか、ポケットからPHSを取り出して少し話した後、
「ごめんね、行かなくちゃ」
そう言って病室を出て行く。
思わずその背中を呼び止めていた。
「佳織さん」
余計なお世話かもしれない。それでも言っておきたかった。
「ありがとうございます。それと、サトシさんと佳織さん、お似合いだと思います」
わたしの存在が佳織さんを不安にさせてしまったかもしれない。そう思うと、それだけでは足りない気がした。でも、それ以上言葉が浮かばない。
ふわりとした笑顔を残して、佳織さんは部屋を出て行った。
㉑
その背中を見送っていると、入れ違いに星さんが飛び込んできた。
「あ、……星さん」
「燿、……子ちゃん?」
「はい」
佳織さんのおかげで落ち着きを取り戻したわたしは、星さんの目を見て大きく頷いた。
初めまして、なんて挨拶をしている時間はない。
「星さん、誰かが明野農園を潰そうとしてます。サトシさんの小学校で給食に農薬が入れられて、明日には記事が出るって」
「ま、待って燿子ちゃん。それ、どこで聞いた?」
「叶夢君を連れ去った犯人からです。男性二人と女性が一人。叶夢君のお母さんに騒いで欲しいって、二人とも連れていかれたみたいなんです」
星さんが目を見開いて言葉を失っている。
「燿子……、どちら様?」
部屋の外にいた母に、今の話が聞こえてしまったかもしれない。
心配そうにわたしの隣に近寄ってきた母が、星さんに目を向ける。
この三日間のことを母に説明している時間はない。それに言ったところで信じられないだろう。もしわたしが母の立場なら、夢を見ていたか、詐欺にでもあったんじゃないかと思うはずだ。
「お母さん、あのね、上手く説明できないけど、わたし行かなくちゃ……」
「どこに行くの? さっきまで意識が無かったのに、急にどうしちゃったの?」
母は今にも泣きだしそうな顔でわたしを見ている。すごく心配をかけたことは分かっているつもりなのに、わたしは今すぐに学校に駆け戻りたい気持ちでいっぱいだった。
焦る気持ちがどうしても苛立ちに変わってしまいそうになる。それが母に対する甘えだと分かっていても、今はどうしようもなかった。
「あの、初めまして。明野 星と言います」
星さんの少し緊張した感じの声がして、母とわたしが同時に星さんを振り返る。
「あなた、あの時燿子を助けてくださった方と一緒にいた……」
お母さん、星さんを覚えていたんだ……。
「はい。燿子さんとは以前から知り合いで」
星さんがわたしに同意を求めるようにこっちを見たので、慌てて頷いた。
「燿子ちゃん、一旦病室に戻って、先生の診察を受けた方がいい」
星さんだってわたしの話を聞いて、いても立っても居られないはずなのに、そんなふうに言って先に立って病室を出ていく。
星さんの言葉に母は少し安心したようにわたしの背中を擦りながら歩く。
けど今は、どうやって叶夢君を探し出すか、星さん家の農園を守るか、そのことでいっぱいだった。自分のことも母のことも考えている余裕はない。
母を安心させたい気持ちがないわけじゃない。だけどそれは全てが解決してからだ。
「お母さん、友達が今危険なの。わたしやっぱり行かなきゃ」
病室の一歩手前で足が止まる。
「体は? もう平気なの? 無理してない?」
母の方がきっと無理してる。それでも必死にわたしを理解しようとしてくれているのが分かる。
いつもそうだったから。
「大丈夫。たっぷり寝たから! それに、星さんが一緒だから大丈夫」
星さんが驚いたように少し目を見開いた。迷惑だったかな。
思わず言ってしまった言葉に顔がひきつりそうになったけど、星さんはにっと笑って母に向き直った。
「燿子ちゃん、意外と頑固っすよね。俺が面倒見ますんで、ちょっとだけお借りしていいですか? すいません、今、どうしても燿子ちゃんが必要なんです」
今度はわたしが目を見開く番だった。
星さんの言葉がわたしに力をくれる。
「あ、そうだ。燿子ちゃんのお母さん、携帯ってスマホですか?」
星さん、突然何を言い出すんだろう。星さんはわたしにも携帯電話を出すように言って、両手に持ったそれを器用に操作する。
「俺の番号です。それからスマホのGPS機能をオンにしておけば、このアプリで……ほら、俺と燿子ちゃんが今どこにいるか確認できる」
母に画面が見えるように身を寄せて、使い方をレクチャーしている。
凄い。母が安心できるように考えてくれたんだ。しかも、誰に対しても気取らず優しい空気で接することのできる星さんをわたしは尊敬せずにはいられない。
わたしも星さんのようになりたいと思う。
母に携帯電話を返すと、星さんはピシッと背筋を伸ばして言った。
「夕方には必ず燿子ちゃんをここに連れて帰ります」
母は携帯電話と星さんを見比べながらしばらく考えこんでいた。
それから小さなため息を吐いて、わたしの手を握った。
「検査の結果ではどこにも異常はないって。目が覚めないのは、精神的なものかもしれないって先生は仰ってたけど……。今の耀ちゃんの顔を見たら心配要らなさそうね」
わたしにそう言って、星さんに向き直る。
「燿子はまだ入院中なんです。絶対に無理はさせないって約束して」
「もちろんです。燿子ちゃんも、少しでも変だなって思ったら俺に隠したりせず正直に言って」
頷いたわたしの頭に、ぽんと大きな手が乗せられた。
三日間シャンプーしてないのに、そんなことを思って首を竦めるわたしに、行こうと星さんが手を差し出す。
「お母さん、後でちゃんと話すから」
母が笑顔で頷くのを見て、わたしは星さんに歩み寄る。
手を握るのは少し恥ずかしい。
そんなわたしの気持ちなどお構い無しに、星さんの手がわたしの手を迎えにきた。
「先ずはサトシと合流しよう」
そうだ。今は明野農園を守ることに専念しなきゃ。
駐車場に向かう途中、星さんの携帯電話が鳴った。
何事かを話していた星さんの表情が曇る。
通話を終えると、星さんは踵を返す。
「学校からだった。サトシがこの病院に救急搬送されたって」
「えっ……」
「サトシは身寄りがなくてさ、緊急連絡先が俺になってるだ」
「サトシさんの容態は……」
「まだ分からない。燿子ちゃん、給食に農薬が混入されたって言ったよね?」
「う、うん。叶夢君をここまで連れて来る途中の車内で女の人が、「明日には明野農園の野菜から大量の農薬が検出されたっていう記事が出る」って」
「うちを狙い撃ちか……」
星さん家が誰かに恨まれてるってこと?
「その女の人ってどんな人だった?」
歩きながらわたしは覚えている限りの情報を星さんに伝えた。
星さんの顔が次第に強ばっていく。もしかして心当たりがあるのだろうか。
「その女性が狙ってるのはもしかしたら俺とサトシ、佳織、それに燿子ちゃんの四人かもしれない」
「え……」
星さんはまだ決まったわけじゃないからと、それ以上のことは話してくれなかった。
でも星さんの言うようにわたしたち四人に恨みがある人がこんなことをしているのだとしても、罪もない子どもたちを巻き込むなんて許せない。
「星さん、警察に通報しましょう。犯人の車を探してもらえるかも」
「大丈夫。それはもう先輩に頼んであるから」
昨日サトシさんちに来た刑事さんのことかな。
「一昨日叶夢の家の前に止まってた車なら携帯に写真撮ってあったから。ナンバーもバッチリ」
「じゃあ昨日のうちに……?」
やっぱり星さんは凄い。わたしなんか何も考えてなかった。
「叶夢は例のおじさんて奴の顔を知ってる。犯人からしたら放っておけないはずだ。
ただ、燿子ちゃんが車の中で見た三人、昨日病院で暴れた奴、犯人は他にもいるかもしれない」
抑えられた星さんの声に背中がゾクリと震えた。