次々に娘の身に起こる災難に、不安と心労で眠れずにいるだろうと思うと泣きそうになる。
わたしは元気だよ、心配しないでって言いたい。
でもこの世界とわたしのいた世界はよく似た別の世界だということがはっきりした。
あの一瞬、わたしは確かに燿子の魂に出会った。
一つの体に魂が二つ。
片方はこの世界に存在してちゃいけない。
どうせなら燿子の体に二人分の魂が入れたら良かったのに。
また会いに行っても、今日みたいに弾き飛ばされてしまうんだろうか。
考えれば考えるほど、わたしの居場所はないような気がする。
このままサトシさんの体に居座り続けたとして、元に戻れないなら、わたしがここにいても誰も幸せにならない。
ぼんやりとパソコンの画面を見つめていると、また昨夜のように、肘から先が浮き上がってきた。
サトシさんがキーボードを打つ。
『……元に戻れなくても方法はある』
『諦めるな』
「でも、もう手がかりが……」
わたしを脅してきた男の狙いはわたしが間違えて持って行ってしまった麻薬だった。
あの人がわたしを元の世界に戻せるとは思えない。
『明日もう一度病院に』
サトシさんの手がそこまで打ったところで、後ろで襖が開く音がした。
「燿子ちゃん、……誰かと話してる?」
振り返ると星さんが青い顔で立っていた。
「あ、今腕だけサトシさんなんです」
それ以外に言い様のない状態。腕は動かすことができないため、キーボードに乗せたまま、星さんを見上げる。
「…………」
星さんはしばらく絶句していたけれど、わたしが首が痛くなってきて正面に向き直るのと同時に、畳を踏む足音が近づいてきた。
どさり、とわたしの隣に座る。
「サトシと話してたってこと?」
星さんはそう言ってパソコンの画面を覗き込む。シャワーを浴びてきたのか、洗い髪から雫がぽたりと落ちた。
薄いTシャツ越しに星さんの体温が感じられる程の距離。
思わず、星さんが首に掛けていたタオルに手を伸ばしていた。透明な腕はすっとタオルを通り抜ける。
はっとした瞬間、自分が何をしようとしていたのかに気付いて顔が赤くなるのが分かった。
星さんに見えてなくて良かった。
まだ出会って一日なのに髪を拭いてあげようとしたなんて、馴れ馴れしいにも程がある。
慌てて目を逸らしたわたしに、星さんがパソコンの画面を指差して言った。
「燿子ちゃん、これ……」
さっきまでより、明らかに文字数の増えている画面。
わたしが星さんを見ている間も、サトシさんはキーボードを打ち続けていたようだ。
サトシさんはわたしになるべく病院にいる燿子のそばに行くようにと指示し、明日中に体から出ていくことを要求していた。
「サトシがこんなこと言うなんておかしい」
星さんは腑に落ちないと腕を組んで考えこんでいる。
でも、最初に言われていたんだった。サトシさんがわたしに体を貸してくれるのは三日間。早く戻らないと肉体が死に至るって……。
明日で三日目。
わたしが元に戻る方法は手がかり一つない。でも、サトシさんは燿子の所へ行けと言う。
最悪、元の世界に戻れなくても、この世界の燿子と共存していく方法を考える方が現実的かもしれない。
だって住む世界が違ってもわたしはわたしだ。
「星さん、わたし、この世界の燿子の体に入れないかやってみます。それでダメでも、サトシさんの体は明日にはお返しします」
「だって、それじゃあ燿子ちゃんは……!」
星さんの真剣な目に見つめられて、本当にわたしのことを心配してくれているのが伝わってきた。
「見ず知らずの、こんな厄介なわたしのことを助けてくれて本当にありがとうございます。
もし、燿子の姿で会えたら……」
これ以上、星さんたちに思いが残ってしまう前に。
「ちゃんと尚也さんの事故のこと思い出して、星さんたちに伝えにきます」
星さんから離れたくないと思ってしまう前に。
サトシさんはもしかしたら最初からお見通しだったんじゃないだろうか。
星さんのそばに長くいると、わたしが帰りたくなくなってしまいそうなことに。



その夜、畳の上に敷かれた布団で眠りについたわたしは、気が付けばズブズブと布団に沈みそうになっていた。
慌ててもがくとふわりと体が浮きあがる。隣の部屋から漏れている光に気付いてそちらへふらりと寄っていくと、星さんとサトシさんが向かいあっているのが見えた。
サトシさんは水の入った二つのコップを手にしている。
「今はこの状態だ」
二つのコップを合わせる音がしんとした室内に響く。
星さんは怖い顔でそれを睨んでいる。
サトシさんは片方のコップからもう片方へゆっくりと水を注いでいった。
「こうなったら、もう二つを元に戻すことはできない」
何の話をしているんだろう。
「でも、それじゃあ、燿子ちゃんを見殺しにするのかよ!」
星さんが怒っている。
「俺の中で一生生きていくより、こうなる前に切り離した方が彼女の為だ」
あの水はもしかしてわたしとサトシさんの魂を表しているんだろうか。
混ざり合った水を元に戻すなんて不可能だ。これが、サトシさんの言っていた魂を食い殺すってこと……?
「お前、もしかして……」
星さんが急に何かに気付いたように目を見開いた。
サトシさんは星さんの顔を真っ直ぐに見ている。
「尚也は……、お前と尚也は、その水みたいに混ざり合ったっていうのか……」
「二人で生きるにはこれしかなかった」
「なんで今まで言わなかった!?」
「言わない方がいいと思ったからだ」
「……んなわけないだろ……」
星さんがコップに手を伸ばす。
少しの揺れで零れてしまいそうなそれを、ギュッと握って俯く。
サトシさんは何も言わずに星さんを見ている。
「結局、俺には何もできないってことだろ? サトシも尚也も、燿子ちゃんだって、結局俺にはどうすることもできない」
「そうじゃない。星がいるから俺は今まで生きてこられたと思ってる」
サトシさんの声が星さんの肩を震わせる。
「彼女を助けてやってくれ。星がいればきっと彼女も生きる道を見つけられるはずだ」
サトシさんが星さんを信頼しているのが、その声から伝わってくる。
星さんはサトシさんが今まで黙っていたことに怒り失望したかもしれない。
死んだと思っていた尚也さんが、サトシさんと混ざり合って生きていた。
そんなことが本当に起こり得るのか、わたしには分からない。でも、サトシさんは尚也さんを助けたかった。それと同時に星さんや佳織さんに負担をかけたくないと思って本当のことを今まで内緒にしてきたんじゃないだろうか。
いきなり二人が一人になったら、どう接していいか分からなくなるだろうし、いつまで経っても尚也さんの死から立ち直ることができなかったかもしれない。
そんなサトシさんの気持ちが星さんに分からないはずがない。
星さんは握りしめていたコップを引き寄せ、それを持ち上げるとゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。
口の端から零れた雫を手の甲でぐいと拭う。
「……。簡単に言うなよ」
そう言った星さんの声には星さんらしい明るさが戻っていた。