母は、白い狐でした。
 私は泣けませんでした。



 


「わらいなさい」
 つらそうな笑顔に、そう言ったのは母だった。
「さみしくなったらいらっしゃい。信太の森に、私はいるから」
 母はそっと頭を撫でると一鳴きして消えた。



 父も母が狐だと知ったのは私が生まれてからだった。母が産んだ私は母の血も在って異形の力を強く持って生まれた。だから、思慮も足らない幼子にして。
「……母様、母様はなぜ白い狐なの?」
 母の姿を視てしまい告げてしまったのだ。



 母が消え、父は表こそ変わらないが私や家人が寝静まった時分には母を想い月を仰ぎ眺めていた。
 父は母が狐とは知らなかった。私が安易に口にした問いが二人を裂いたのだ。
「父様……」
「……起きていたのか。早う寝ないと朝起きられぬぞ?」
 別れ際の母がしたように、父の無骨な手が頭を撫でた。その手があたたかくて無性に泣きたくなって私は口を噤んだ。

 父が仕事で家を空けていたとき、母は去った。私にふわり苦しそうに微笑んで別れの挨拶をした。
「母がいなくても、わらいなさい。
 あなたは強い子。どうかわらいなさい」
 母のほうが今にも泣きそうだった。ゆえに、私は泣けなかった。嫌だと縋り付けば何か変わっただろうか。今思えばここで駄々を捏ねれば母はどこへも行かなかったのでは在るまいか。あるいは、もっと別れを先延ばし出来たのでは無いか。
 少なくとも父はこんな、幼子にすらわかるような切ない瞳をせずに済んだのではないか。
 幼子にしてはやたら知恵の回るおよそ幼子らしくない私は、けれどやはり経験の少ない幼子らしく、ただただ母を見上げるしか無かったのだ。
「わらいなさい。そうして私の代わりにあの方を、あなたの父上を支えて差し上げて」
 切羽詰まったみたいな、真剣な表情。かと思えば急激に綻んで。
「そして、たまに、私の代わりにあの方を困らせて差し上げて? 約束なの」
 だから、母が笑う。眼はうっすら膜を張り、耐えているかのようだ。
「だから、わらいなさい。私の可愛い、やや子」



「当年は多く吉兆を示してございます」
 年の始め、帝へ占いの結果を告げる。今年は吉兆らしい。良きかな、と言ったところだ。
 あれから幾許も時は過ぎ、私は成人し占者になっていた。星を読み解き世の流れを見据える。星が行く末を教えてくれるなど、人によっては胡散臭さそうに顔を歪めるものだ。だが実際星は関係している。星と言うよりかは天体、とでも言おうか。月が海の満ち潮に関わるように、なぜ人に関わらないと断ぜるだろう。
 特に私の読みはかなりの精度で当たるそうで、帝にたいそう気に入られていた。私は幾つかの吉兆と合間に気を付けなければならない陰について語りその場を辞した。
 与えられたとも、自力で手にしたとも言える己の邸に戻る際不意に顔を上げれば一人の青年と目が合った。……否、青年は実は“青年”ではない。今では私より年の頃は下と見えるが、実態は私が幼子より姿変わらず、何百年も年を重ねている『信太(しのだ)』と言う名の、母の縁者であった。
「久しいな、信太」
「年上には敬意を払うものだぞ。まったく、お前はあの父親に似て……」
 くどくど始まった説教に私は年甲斐無く舌を出した。母がいなくなり元服を迎える段になった年、信太が突然現れたのだ。
 見た目だけなら優美だった母に似て信太は如何にも学者然とした貴人に見える。だけど正体は白い狐だ。母の一族は白狐。善良でそこそこ高い地位の狐と聞いた。
「信太」
「だからお前は……何だ」
 改めない私にあきらめたのか信太が気を取り直した風に問い返す。私は尋ねた。
「母上は、息災か」
 信太が、苦虫を潰した顔をした。ああ、これは。
「相変わらずか」
「ああ、相変わらずだ。しかしお前も気になるなら見に参れば良かろう。叔母上は申したのだろう?」
 母に翻弄されているのだろう。眉間に皺を寄せた信太がぼやく。確かに、母は私に来いと言った。だけれどもそれは、さみしかったら、だ。私は残念ながらさみしくは無い。母がいないのはさみしい、のではなく、かなしかった、から。
「私はな、信太。今さみしい、どころか疲れているのだ。ならば母上の元に馳せ参じるより信太に愚痴を零すのが妥当であろう?」
 信太が、一番の嫌そうな顔をした。私は笑う。あの日、母が行方を眩ませた日から私はよく笑う子になった。
 母がした最後の言い付けだった。父を支え敵にすら私はわらってみせた。もっともこの“わらう”は『嗤う』だが。きっと、この先も、私はこうしてわらって逝くのだろう。






「信太さん、こんな公園のベンチで何読んでんですか?」
「うん? きみか。いや、僕の従兄弟に当たるんだけど、本当に彼は有名だよね」
「ああ、彼ですか。そうですね。良い題材ですからね。いろんな本に出てますよね」
「うん。彼とはいろいろ在ったけど、本当、立派になったよ。もういないのに、未だにこうやって存在しているんだ。
 きっと、自慢の息子だったろうね、叔母上の」






   【Fin.】