とある放課後。僕は、とある女子生徒に呼び出され、教室にいた。呼び出しの時間から約五分。そこへ、ふわふわな髪をなびかせて、一人の女子生徒がやって来た。彼女こそ僕を呼び出した張本人、華美薫だ。
僕と華美さん以外に誰もいない教室に、彼女の可愛らしい声が響く。
「――荒矢田君。好きです」
その声は小鳥のさえずりのように軽やかで。
まるで天使の吹くラッパのごとく、僕は天にも昇れそうなほどの幸福感に満たされた。
「華美さん……」
感動で彼女の名前を呼ぶ声が震える。
真正面から想いを伝えてくれているのは、なにを隠そう僕がずっと恋焦がれているクラスメイト。
やわらかそうなホワイトベージュの髪は綿菓子のようにふわふわで、瞳はまるで宇宙の神秘を閉じ込めたビードロのように煌めいている。
小さな体を清廉高校の紺と白の制服に身を包み、健気な瞳でじっと僕を見上げる様はなにものにも形容し難い可愛さだ。
「あの……荒矢田君。突然なんですが、華美と付き合ってくださいませんか?」
「……え?」
天使のように可愛い華美さんが、僕を好きだと言っている。付き合ってくれと言っている。真っ直ぐに、僕だけを見て。
まるで夢のような状況に、僕は動揺しながらもキュッと唇を噛んだ。
答えはもちろん、決まっている。
これまでずっと、僕はこの恋をどうすべきか悩みに悩み抜いていながらも、答えを出せずにいた。
だが……。
両想い……華美さんと両想い……!!
僕は今こそ彼女に向き合おうと覚悟を決め、口を開く。
「よ、よろしくお願……」
――しかし。僕の返事が最後まで紡がれることはなく。
彼女はなんの前触れもなく、かくりと頭を垂れた。
「かっ……」
「?」
なにやら、様子がおかしい。心配になってその顔を覗き込むと、彼女は……。
「……華美さん?」
「カビッ」
「!?」
唐突に、頭がパカッと二つに割れた。そしてそのままびみょーんと分裂し、どんどん増殖を始める。
「カビカビカビカビ」
「まさか……」
ハッとして、教室の窓の外を見る。
雨だった。あろうことか、窓の外は激しい雨が降っている。なんというタイミングか。
「カビカビカビカビカビカビカビ」
その間も華美さんはどんどん分裂し、教室はあっという間に華美さんだらけになっていく。
「荒矢田君、好きです」
「荒矢田君」
「荒矢田君、付き合って」
「荒矢田君ー」
「荒矢田君、カッコイイ」
幸せなような、恐ろしいような。
それぞれが俺を見つめ、ゆらりゆらりと近付いてくる。その光景は、さながらゾンビ映画のようだ。
「華美さん、ちょっと! 可愛いけど多過ぎる! 増殖しないで!!」
「荒矢田君荒矢田君荒矢田君荒矢田君」
収容人数三十人ほどの教室は、あっという間に増殖した華美さんに埋め尽くされてしまった。
「――うっ……うわぁぁぁあっ!!」
僕は叫びながら飛び起きた。
閉め切ったカーテンの隙間から差し込む光が朝を伝え、同時にベッド脇のアラーム時計がけたたましく鳴っていることに気づく。
「……な、なんだ、夢か」
アラーム時計が指し示す時刻は午前六時半。いつも通り、目覚まし代わりの悪夢だったと分かり、ほっとしたような残念なようなどちらともいえないため息を漏らす。
我が身をかえりみれば、寝間着の色が変わるほど全身ぐっしょりと汗をかいていた。
髪が肌に張り付いて気持ち悪い。心臓も未だバクバクしていた。相当魘されていたようだ。
僕は張り付いた前髪を無造作にかきあげると、ベッドから起き上がった。
「……シャワー浴びよ」
僕は、人生で初めての恋をひどく拗らせている。
――――――
僕の名前は荒矢田環。県立清廉高等学校二年の男子高校生だ。成績は上の下、スポーツは可もなく不可もなく。
個性が強いこの世界において、周りより少しだけ綺麗好きということ以外においては特別目立つことのない無個性の僕は、平々凡々の高校生活を送っている。
悪夢から覚め、シャワーで汗を流してきっちりと身支度を整えると、いつも通り学校へ向かった。
「――おはヨう、荒矢田」
通学路で背後から声をかけてきたのは、親友の二度寝屋睡だ。白い包帯で全身を包み、頭部には神々しいツタンカーメンの面を付けた二度寝屋は、見た感じちょっと変わった奴だが、とても良い奴だ。
「おはよう、二度寝屋。今日も相変わらず金ピカだな」
「オウヨ。きっちりお面磨いてきたからナ。包帯も巻き直してきたし、漆も朝から三杯飲んできたからいい感じにカラカラだゼ」
「漆……そうか。それはよかったね」
もうお気付きだろうが、二度寝屋は人ではない。
――この世界には、人ならざるものがいる。
あやかし、神、バケモノ……。それらは当たり前のように食べたり勉強をしたり、ついでに恋をしたりして、この街で僕たち人間と同様の暮らしを営んでいるのだ。
「おはよー。二度寝屋、荒矢田」
空を浮遊して、僕たちを追い抜きながら挨拶してきたのは、妖怪雪女の渋問ユキ。僕たちの一個上の先輩。白と半透明の花魁風の着物に身を包み、艶やかな簪を差した姿はまさに浮世絵からそのまま飛び出してきたかのよう。
一昨年のミス清廉高校グランプリだけあって、とても綺麗な人……否、あやかしだ。
「おはようございます、ユキ先輩」
「おはヨう。今日日差しが強いから、少し頭溶けてるヨ。気を付けテ」
「あらやだ! 今日デートなのに!」
ユキ先輩は可愛らしく眉を寄せ、鏡を取り出した。
「デート? 恋人デキたノ?」
「うん! そうなのそうなの!」
二度寝屋が訊ねると、ユキ先輩は嬉しそうにその場でクルクル回る。その度に彼女が発した冷気が僕たちを襲い、右半身が凍りついた。
「隣町の吉鳥之記君。さすが、神獣の麒麟だけあって最近いいことばかりなんだ!」
「……ユキ先輩、寒い」
「あら、ごめんなさい」
ユキ先輩が舞をやめると、少しだけ冷気が和らいだ。隣の二度寝屋を見ると、金ピカの面も若干白く凍っている。
……これは本体じゃないから寒くはないんだろうか?
「……今日はついてナイみたいだかラ、気を付けテ」
震えている。やはり寒いは寒いらしい。
「そうね! じゃ、お先!」
そう言って、ユキ先輩は上機嫌に空を飛んでいった。
あやかしの生徒は、二度寝屋やユキ先輩だけではない。他にも落ち武者の武士道無地や、ゴーレムの土脇頼など、僕たちの通う清廉高校には個性豊かな生徒たちがたくさんいる。もちろん、人間も。
「ユキ先輩可愛かったナ」
「そうか」
「生前に出会ってタら、俺モもっとグイグイいってタのにナ」
親友の二度寝屋は約二十年前にこの世に生を受けた。当時いろいろと上手くいかない人生に嘆き、最終的にヤバい宗教にハマってしまったらしい。そして、五年前の十五歳のとき、宗教の修行と称して漆を直飲みし、ひどい脱水症状を起こしてミイラ化したという。※絶対に真似をしてはいけません。
もちろんただの人間がミイラとなって生きていられるわけはない。二度寝屋は漆飲み修行によって死に、そのまま亡霊となってこの世に漂っているというわけだ。そして、ミイラ化した今の彼の栄養補給源(?)は漆である。
故に彼は見たまんまミイラで、枯れ枝のように細い骨に、カラッカラの皮膚がお情け程度についた身体を白い包帯でぐるぐるに巻き、頭にはミイラの象徴(自称)ツタンカーメンの面を被っている。
入学当初は変わったヤツだと思ったが、清廉高校には他にももっと変わったヤツがいるので、思いの外すぐ慣れた。話してみると何気に気も合ったし。
首の長いろくろ首のクラスメイトや、事故死亡霊の頭から血を流したクラスメイト、それから全身骨格標本のような餓者髑髏の先生もいる。
この世界はなにかと穏やかじゃない。だが、それはどんな世界でも同じ。
これは個性だ。俺が潔癖症なのも、二度寝屋がカラッカラなのも。
「とはいえ、そろそろ成仏してもいいんじゃないの?」
「フン。誰が成仏なんテするか。俺ハ彼女とデイジーランドに行ってお揃いのカチューシャ着けるマで死ぬわけにハいかないノダ」
「どの口が言う。そんなささやかな願いがあって、なんで漆なんか飲んだんだよ」
「あの頃ハ、いロイろあったのサ」
「……はいはい、そうですかい。ま、早く彼女ができることを祈ってるよ」
「大丈夫。彼女なラ明日できる予定なンダ」
「は?」
なぜに明日指定?
しかし、僕が問うより早く、二度寝屋が話題を変えた。
「それよりオ前、もしヤまた華美さんの夢を見たナ?」
表情などないはずのその面が、ニヤリと笑った……ような気がした。
「……まぁな」
言うかどうか迷ったが、既に二度寝屋にはすべてを話している。今さら隠すこともないかと、素直に頷いた。
「フフフ。相変わらず欲求不満ダナ。そろそろチューしたカ?」
「嫌な言い方やめろよ、本当に悩んでるんだから。いつも最初はいい感じなのに必ず悪夢に落ち着くのはなぜなのか」
「フフフ。いつモ通りで残念だったナ」
今朝見た華美さんの夢。彼女にまつわる悪夢は、今日始めて見たわけではない。いつも見るのだ。それも、ほぼ毎晩。
告白されたりデートしていたりと、始まりはいつもめちゃくちゃ幸せな夢なのに、途中でいきなり悪夢に変わる。今朝のように。
高校に入学して約一年半彼女に片想いをし続けている僕にとって、あの夢は生き地獄だ。毎日夢に華美さんが出てきては、愛を囁く。その度に有頂天になるものの、最後の最後にいつも黴を吐き出したり増殖したり、まるで出来損ないのホラー映画のごとく、健気な僕の心をポッキリと折ってくれやがるのだ。
「……憐れむわりに嬉しそうな顔しやがって」
眉を寄せて睨みつけると、二度寝屋はくつくつと笑った。
「そりゃ嬉しイゾ。年下に抜ケ駆ケされるワケにはイカない」
「なにが年下だ。今は同級生だろうが。亡霊になる前の生まれ年なんて知るか」
するとそのとき、ちょうど僕たちの横を通りがかった車が、二度寝屋の面に思い切り泥を浴びせた。
「うワッ!」
「……人の不幸を笑ったからじゃないか?」
「磨いたばっかだったノニ……」
せっかく朝磨いた金ピカの面は、一瞬にして泥だらけになった。面を磨くのは僕たちが思うよりも大変らしく、二度寝屋はガックリと肩を落としている。
さすがに可哀想になり、
「……ほれ」
僕はアルコールで湿らせたワッテを二度寝屋に渡してやる。
「ありガとウ。相変わらズ準備がいいナ。助かるヨ。キモイけド」
「キモイ言うな。綺麗にしていてなにが悪い。汚いよりマシだろ。そんなこと言う奴にはやらないぞ」
言いながら、僕自身もアルコールスプレーを両手に吹きかけて馴染ませる。
「悪いとは言わないが……なにゴトも限度ってもんガあるだろ。お前がアルコールスプレーとワッテとハイターを常備してるなんテ知ったら、十中八九女子は引くゾ? 特にお前ノ大好きな華美サンはな」
歩きながら校門をくぐり、昇降口で僕だけサンダルに履き替える。二度寝屋は裸足のままだ。なぜなら包帯を巻いているから。
基本的には人もあやかしも神もバケモノも同じ空間に存在するので、規則はあっても強制ではない。……まぁ、人間や人間型のあやかしなんかは規則の通りきっちりと制服を着ていたりするけれど。
「それはわかってるけど……」
僕はアルコールに目を落とした。
こればっかりはやめられないんだから仕方ない。
僕が潔癖症になったきっかけは、小学生のときのトラウマが原因だ。学校帰り、道路の脇に一匹のカタツムリを見つけた。そのときの僕はまだ子供だったから、カタツムリを見つけたときは単純に嬉しかった。
――しかし、それがまずかった。
そのカタツムリも、今ならもっと大切に扱うのに……と何度思ったか分からない。
なんの拍子か、手の中でそのカタツムリを潰してしまったのだ。ただ、それだけならここまで引きずりはしなかっただろう。……潰してしまったカタツムリには悪いが。
カチャリと音がした瞬間手の中を見ると、そこには恐怖の光景が広がっていた。カタツムリの殻の中で孵化していた大量の蛆虫が、潰れた拍子に飛び出し、手の中でうじゃうじゃと蠢いていたのだ。それを見た瞬間、僕は青ざめて失神した。
それからというもの、虫恐怖症になった。それだけじゃない。今でもふとしたとき、あのときの蛆虫が手のひらにいるようで怖くなるのだ。いくら手を洗っても、消毒しても、あの光景が脳裏から離れない。
それから僕は、目に見えないはずの菌ですら目に見えるような気がして、一度なにかに触ると消毒せずにはいられなくなってしまった。
二度寝屋は遠い目をしている僕を憐れむように、肩に手を置いた。
「マ、それは仕方のないコトかもしれないケドな。ダガ、そのまま潔癖症を克服しナいとなると、彼女ト結ばれるのは無理なんじゃなイカ?」
なぜ僕と彼女が結ばれるのが無理かというと。
それは、彼女が僕の唯一の天敵だからだ。
僕は嘆くように目を伏せる。
「分かってるけど……そんな簡単に諦められないから悩んでるんだろ」
こっちが必死で諦めようとしても、毎日華美さんが夢に出てきて愛を囁いてくるんだぞ。とんだ拷問だ。
「――荒矢田君、おはよう」
彼女の話をしながら二度寝屋と教室に入ると、すぐにその張本人・華美さんに声をかけられた。彼女は夢と同じ白色のジャケットを羽織り紺色のスカートを翻させて、僕を見てにっこりと微笑む。
「華美さん」
朝から本物の華美さんと話せるなんて。夢ぶりだ、やっぱり可愛い。
華美さんはふわふわの髪を高い位置でひとつに結び、白と紺のセーラー服に身を包んでいる。
彼女は今日も変わらずふわふわ。天使です。
あぁ、神様。今日も一日頑張れます、ごちそうさまです……。
なんて変態チックなことを心の中で思いながら、表面上は平静の笑みを繕う。
「おはよう、華美さん。今日もいい天気だね」
何気なくそう言うと、彼女はしょぼんと項垂れたように窓の外を見て言った。
「悪いです……華美の嫌いな天気です。早く梅雨入りしてほしいです」
「……たしかに、華美さんには厳しい天気だったね」
「雨が……湿気が、ジメジメが恋しいのです。カペカペは嫌です……」
「……そ、そうか」
華美さんの嫌いなものは晴れや乾燥。逆に好きなものは雨や湿気だ。
なぜなら彼女は、黴の付喪神だから。
僕は華美さんが好きだ。だけど、告白しようとするとどうしても心がストップをかけるのだ。
黴の付喪神である華美さんに告白など、潔癖症の僕の理性が許すはずもなく……。
そういう理由で、僕は一年半もの間彼女への想いを燻らせているというわけだ。
これまで何度告白しようとして諦めたか分からない。あと一歩踏み出す足を重くしていたその迷いの根源は、僕たちがたとえ両想いといえど解決することはないのだろう。
彼女が華美(黴)で、僕が荒矢田(潔癖症)である限り……。
僕は、初恋にして難攻不落の恋をしてしまったのだ。
持て余す恋の熱を嘆いていると、華美さんがグイッと僕に顔を寄せた。
「あの、荒矢田君。華美、今日のお昼は荒矢田君と一緒に食べたいです」
「えっ!? 僕と!?」
「……ダメですか?」
彼女の上目遣いの破壊力ときたら。
「食べよう!」
理性の箍など、簡単にすっ飛んでいく。
「本当ですか!? 嬉しいです!」
「どこで食べよう? 教室でもいいけど、クラスメイトに茶化されそうだしなぁ」
「旧校舎のプールはどうですか?」
「旧校舎のプール?」
旧校舎のプールといったら、黴だらけで誰も近付こうとはしない場所だ。たしかに人目は気にならないけど……。
「でも……あそこは立ち入り禁止じゃなかったっけ?」
「大丈夫です! 誰もいないからバレません!」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
お昼を食べる場所として相応しくないような。
「荒矢田君に紹介したい場所があったんですが……」
「紹介したい場所?」
僕の中では今、理性(潔癖症の僕)と本能(華美さんラブな僕)が血みどろの戦いを繰り広げている。
「……ダメですか?」
しょんぼりと寂しそうな顔をする華美さん。
くっ……。憂い気な顔ですら美しいなんて、なんて罪深い人だ。というか、華美さんにこんな顔をさせるなんて最低だぞ、荒矢田!
「……行きます」
本能(華美さんラブな僕)が勝利した。
大丈夫大丈夫。もし黴臭い場所だったら、自分の周りだけでもハイターで黴を落とせばいいんだし。こっそり彼女が見てないうちにアルコールスプレー吹きかけて、タオル敷いて座ればいいんだし。目は若干ぼやけさせれば、黴なんて見えないし。
耐えろ、僕。華美さんとご飯を食べるためだ。
引き攣りそうになる顔に、僕はなんとか笑顔を張りつけて頷いた。
そして華美さんが自席に戻っていくと、背後で気配を消し、僕たちの様子を見ていた二度寝屋がぽつりと言った。
「……サッキ悩んでるとキ、すごい顔してたヨ? 諦めテ他の子にしたらどうナノ? 合コンセッティングしてアゲようカ?」
「……いい」
華美さん以外は今は僕の視界には映らない。
「一途ダナ……。涙が出るヨ」
「ってか二度寝屋お前、合コンなんか主催してるの?」
初耳なんだけど。というか、僕誘われたことないんだけど。
「明日モいくゾ。目当ての子がクル予定なんダ」
「……そうか。よかったな。ご武運を祈ってるよ」
……よし。僕も頑張ろう。
――――――
そして、昼休み。
最後の最後まで悩みながらも、僕は華美さんに指定された旧校舎のプールへ向かった。
そしてやはりというか、なんというか。そこは、思ってたよりもひどい場所だった。全体的にどんよりとした空気で黴臭く、滑りもひどく、とても人間がお昼ご飯を食べるような場所ではない。トイレ飯の方が、幾ばくかマシな気がする。
「うわぁ……」
ヤバい、手が震え出した。僕の中の理性(潔癖症の僕)が暴れ出す。僕は懐に武器を隠した暗殺者のごとく、持ってきたハイターをこっそりと握った。
と、そのとき。
「荒矢田君! 待ってました!」
顔面を引き攣らせていると、華美さんが満面の笑みで迎えてくれる。
「ようこそ、華美のホームへ。ここの黴さんたちは、華美のお友達であり家族なんです。華美はこの子たちにいつもよくしてもらって、勉強も教えてくれたりするんですよ」
「って、え? ホームって?」
「華美はいつもここで寝泊まりしてます。ここが華美の家です」
「華美さん、ここに住んでんの!?」
ただのお昼のお誘いに見せかけて、ご自宅に招待されていたとは。
「みんなには内緒ですよ」
華美さんが片目を伏せ、人差し指を唇につけた。その姿はまるでテレビ越しに見る偶像のように輝いている。
なんてこった。来てよかったぁ……!!
「それはもちろん!」
僕は心に誓う。
絶対誰にも教えない、と。
「えへへ。華美の家に誰かを招待したのは初めてです。華美、荒矢田君に家族を紹介したかったんです」
「華美さん……」
嬉しそうにはにかむ彼女に、僕の中の理性(潔癖症の僕)ですらフォーリンラブ。僕はそっとハイターをカバンにしまった。
「荒矢田君、お昼食べましょう」
「そうだね」
とりあえず背景は見ないようにしよう。それよりも今は彼女のすべてに神経を注ごうではないか。というわけで彼女のお弁当をそっと覗いてみる。
すると、僕の視線に気づいた彼女が、
「ひと月前に作ったやつです。ようやく食べ頃になりました」
「そ……そうなんだ。華美さんは結構寝かせるタイプなんだね」
いやいや、なに言ってんだ。弁当寝かせちゃまずいだろ。
「自信作なんです」
「自信作……」
お弁当の中身は原型を留めていない、かつて食べ物だったなにかだった。
「……美味しそうだね」
笑顔だ、笑顔。好きな子の弁当見て吐き気をもよおすなんて、男として終わってるぞ。耐えろ、僕。
すると、華美さんはそのなにかわからない黒いおかずを箸で掴むと、僕の口に運んできた。
「あーん」
「えっ!?」
食べたい食べたい食べたい食べたい。
でも、これを食べたら絶対ヤバい気がする。
再び理性(潔癖症の僕)と本能(華美さんラブな僕)の戦が始まる。
どっちだ、僕。これはどうするべきなんだ……!
「……もしかして美味しそうって、社交辞令でしたか? 迷惑でしたか?」
戸惑っている僕に、彼女が泣きそうな顔になって、箸を戻しかける。
……ええい、ままよ。
「そんなわけないよ! いただきますっ!」
またも本能(華美さんラブな僕)の一人勝ち。
「……お、おいし……」
とにかく飲み込め。味わったら終わりだ。丸呑みが一番被害が少ないはず。
しかし、喉がそれを食べ物とは認めず、飲み込ませてくれない。
まずいまずいまずい。とにかく早く咀嚼して細かくして飲み込むんだ、僕!
噛めば噛むほど口内がおかしなことになってくる。臭いとか不味いとかの次元じゃない。とても形容できない食感と匂いが口の中全体に広がっていく。
「荒矢田君? どうですか?」
あ、なんか目が霞んできた。
胃と腸の中でなにかが暴れ出す。途端に僕の腹を殺すかの勢いで襲いかかってきやがる激痛。
その瞬間、僕は二度寝屋の言葉を思い出した。
『――人間のうちは、漆は飲むもンじゃないゾ。ハハハ。とリあえず内臓がすべテ飛び出してくるンじゃないかと思ウほどの激痛で、すべてが上ト下から出る。すべてがネ』
なるほど。こういうことだったんだな、二度寝屋よ。お前はこうやって死んだのか……。
――ばたん。
「あれ? 荒矢田君?」
誰もいない放課後の教室。西陽が差し込み、二人だけの影が伸びたロマンチックな教室で、僕は華美さんに愛の告白をしていた。
「華美さん、僕……ずっと華美さんのことが好きだったんだ」
夕陽色に染まる僕の頬をそのまま鏡に写したように、華美さんの頬もポッと朱色に染まった。
そして、華美さんは少し恥ずかしそうに微笑みながら、僕を見上げる。
「嬉しいです、荒矢田君。華美も荒矢田君のことが好きです。これからは恋人として仲良くしてほしいです」
「うん! もちろんだよ! これからは旧校舎のプールでお弁当を食べて、湿気の籠った風呂場で寝て、梅雨になったらたくさん増殖しよう!」
心の中で、理性(潔癖症の僕)が叫ぶ。なんてことを口にしているんだ、と。
これは、最高の悪夢だ。
「ううん……華美さん……うっ……黴臭……」
「――だ……矢田……荒矢田! おい、荒矢田ってば!」
「ううん……?」
あれ、華美さんの顔が歪んでく……。
「起きろ!」
耳元で爆発でも起きたかのような大きな声に飛び起きる。
「なにごと!?」
視界の中は一面白。
「……あれ? 僕、もしかして死んだ!? ここってまさか、あの世!?」
自分の置かれた状況が分からずパニックになっていると、突然ペチンという情けない音がした。同時に、額に小さな痛みが走る。
「バカタレ。ここはこの世だ」
目の前には大きな骸骨……の目、というか穴。窓枠いっぱいに人体の骨があった。
「あれ……ほね先生……と、二度寝屋?」
額を叩いたのは、僕たちの担任教師、餓者髑髏の毒島ほね先生の人差し指だった。ベッドの傍らには、二度寝屋もいる。
「ここどこだ?」
たしか僕、華美さんとご飯食ってなかったっけ? もしかしてあれも夢だったとか?
「病院だ。お前、腐った飯食って倒れたんだよ。覚えてないのか?」
窓の外で、ほね先生の虚空の目元が呆れ気味に歪んだ。
「うんうン。運ばれたトキ、俺の生前の最期みたいナ顔してたゾ」
……そういえばそうだった。二度寝屋の言葉に、見たことのない彼の包帯の下の顔を想像してゾッとする。
よくよく部屋の中を見渡すと、そこはたしかにこの世の病院の一室。
華美さんの謎のおかずを食べて倒れた僕は、近くの総合病院に運ばれていたらしい。
「ったくお前、ただの人間のくせに華美の飯食ってんじゃねぇよ」
ほね先生は、カチャカチャと関節を鳴らしながら肩を竦めた。
「……すみません。つい、本能に負けて」
「本能に負けて死ぬ気か」
「……そんなヤバかったんです? 僕」
「食中毒でひどい脱水症状起こしてたらしいぞ」
全身からサーッと血の気が引いていく。
「マジか。危ねぇ……」
危うく二度寝屋と同じ末路を辿るところだった。
「とにかく一週間は入院だと。じゃ、思ったより元気そうだし、先生もう帰るから。二度寝屋はどうする? 帰るなら送ってくぞ?」
「大丈夫デス。俺ハもう少し残りまス」
「そうか。じゃあな、荒矢田。安静にしてるんだぞ」
「あ、はい。ありがとうございました」
礼を言い終わらぬうちに、ほね先生は大きな身体を起こし、ちょっとした地震を起こしながら学校の方角へ消えていった。
先生の影が見えなくなると、二度寝屋が苦笑を漏らしながら僕を見た。
「散々だったナ」
「あぁ……ひどい目に遭った」
ただ好きな人の手料理を食べただけなのに、こんなことになろうとは。
「自業自得ダけどナ。でも彼女、すごク心配してたゾ」
「心配……か。そうだよね。迷惑かけちゃったなぁ」
二度寝屋の一言に、僕は拳を握り込んだ。
やっぱり……僕たちはダメなのだ。
「僕さ……今回の件でよく分かったよ」
「ン?」
「僕と華美さんは、この先なにがあっても結ばれない運命なんだって」
二度寝屋は驚いたのか、少しの間固まったまま僕を見つめた。
「……なんだ。諦めルのカ? 華美さんのコト」
二度寝屋は意外そうに訊ねてくる。
「……どの道、僕の潔癖症は治りそうにないし、これ以上はお互いに時間の無駄だと思うんだ」
「……残念ダ。お前がそんな簡単に諦めルなんテ、思わなかったゾ」
二度寝屋の言葉には、少しだけ棘がある。
僕はその棘と自分の心に気付かないふりをするように、二度寝屋から目を逸らした。
そして、苦し紛れに反論を呟く。
「簡単じゃないよ……それに、僕に恋人ができるの阻止しようとしてた奴がなにを言うか」
「まぁナ。でモ、お前が華美さんを諦めることはナイト思ってタ。どんな二相性が悪くてモ、どんな障害があってモ、お前なラ必ず乗り越えると思ってタカラ」
「…………なに言ってんだよ。僕はずっと、彼女のこと諦めようとしてたじゃんか。だから告白だってしなかった」
「そうだったカ? 俺には夢を見る度に、ドンドン好きになっていってるように見えたゾ?」
「……そんなことない」
そうだ。そんなことは絶対にない。
だって、僕と彼女は天敵同士なのだから。
僕はギュッと目を瞑り、未だ追いかけてくる想いを振り払うように首を振った。
俯いた僕を慰めるように、二度寝屋が明るい声を発した。
「それナラ、今度俺主催の合コンに誘うヨ。失恋を癒すのは新しい恋ってヨク言うダロ?」
「合コンって……先週、恋人なら明日できるとか言ってなかったか?」
そうかそうか、フラれたか。
「できたヨ」
できたんかい。相変わらずちゃっかりしてんな、コイツ。
「でも、周りが見事に撃沈だったから、また頼まれてセッティングするノ。次も渾身のあやかしが集まるヨ。金魚のあやかしに口裂け女、蚤の付喪神に座敷童子から件娘まで、美人が勢揃いだゼ」
相変わらず謎の人脈を持つ親友に、僕は苦笑混じりにツッコんだ。
「……人間はいないんだね」
「贅沢言うナ」
「はいはい。ま、気が向いたら顔出そうかな。今はあんまり気が乗らないし……」
「任せろ。お前が参加するなラ、可愛い子を用意スるよ。じゃ、俺モそろそろ帰ルね」
二度寝屋が立ち上がる。ふと、その金ピカの面がフッと笑ったような気がした。
「……気を付けて帰れよ」
「オウ。なにかあったらメッセージしろヨ」
そう言って、二度寝屋は軽い足取りで帰っていった。彼なりに失恋した僕を慰めようとしてくれているのだろう。相変わらずいい奴だ。
……とはいえ、
「……長かったなぁ……」
彼女のことは一年半想い続けたが、結局実らなかった。
「最近は結構いい感じだと思ったんだけどなぁ……」
涙が零れないよう上を向くけれど、不意に鳴った来客を知らせる病室の扉の音に、その強がりは呆気なく崩れていく。
訝しく思いながらも目元を拭い、返事をする。
「……どうぞ」
扉を開けてひょっこりと顔を出したのは、華美さんだった。
「えっ……」
彼女はちょこちょことベッドサイドに来ると、僕の顔の横にしゃがみこんで視線を合わせてくる。そんな何気ない仕草にすら、僕の胸は容易く弾む。
「……わざわざ来てくれたの?」
どうしよう、どんな顔すればいいのか。まずなにを言う? 謝ればいいのか? それともお礼?
一人悩んでいると、華美さんは僕の手を取り頭を下げた。
「ごめんなさい。華美のせいで、荒矢田君死にかけたって先生が言ってました」
「華美さんのせいじゃないよ。もう元気だし、気にしないでよ」
今にも泣き出しそうな顔をする華美さんに、僕は慌ててぶんぶんと首を振る。
「華美……あのお弁当だけは上手くできたから荒矢田君に食べてほしくて、勇気出してお昼誘いました……でも、結局荒矢田君に迷惑かけました。ごめんなさい」
そう言って、華美さんは肩を落とす。
「違うよ、華美さんはなにも悪くないんだって。だから顔を上げて」
僕が悪いのに。僕はいつも、彼女に謝らせてばかり。彼女に暗い顔ばかりさせている。
「ううん、華美のせいです。ごめんなさい」
やはりこれ以上、彼女を悲しませるわけにはいかない。僕は、彼女の側にいてはいけないんだ。
そう強く思い直し、意を決して口を開いた。
「……ねぇ華美さん。悪いんだけど、僕にはもうかかわらないでくれるかな」
「え?」
彼女は泣きそうな顔で、僕を見上げる。その顔に、胸がギュッと絞られるように痛んだ。
「僕、実は潔癖症なんだ。いつもハイターとかアルコール持ってるし、昨日華美さんにプールに誘われたときも、君が家族だっていったプールの黴を落としたくてたまらなかった」
「え……」
「嫌でしょ? 華美さんだって、僕みたいな綺麗好きの男」
「そ、そんなことないです!」
華美さんは慌てて否定するけれど、その肩は少し震えていた。
「無理しなくていいよ。……僕も正直、華美さんと一緒にいると苦しいんだ。これまでは自分を誤魔化してきたけど、今回のではっきり僕たちは相性が悪いんだって気付いた。だから……ごめん。もう僕のことは放っておいて」
僕の言葉に、華美さんは俯いた。ベッドに置かれた手は、悲しげに震えている。
「そうでしたか……華美は……迷惑でしたか」
華美さんの震える声が堪らず、僕は彼女から目を逸らした。
「……うん。ずっと迷惑だった」
心にもないことを口にする。
「……そうでしたか……華美はずっと知らずに……ごめんなさい」
その瞬間、華美さんは勢いよく立ち上がり、泣きながら病室を飛び出していった。
遠くなっていく足音に、自分自身への嫌悪と彼女への罪悪感が溢れ出す。追いかけてしまいそうになる足を懸命に堪えながら、僕は唇を噛み締め、空を仰いだ。
……これでよかったんだ。そもそも僕たちじゃ、住む世界が違い過ぎたんだ。
「ごめん、華美さん……」
華美さんは、僕がひどい言葉をぶつけたとき、どんな顔をしていたのだろう。泣いていたのだろうか。
ふわふわな髪を揺らして病室を出ていった彼女の背中が、脳裏から離れない。
聞き分けが良過ぎる彼女は、恨み言のひとつも言わずに僕の前からいなくなった。
ひとりきり静かになった病室で、僕は枕に顔面を押し当て、感情を押し殺すように息を吐いた。
約一年半。友達以上恋人未満のふわふわした関係は、僕の一言で呆気なく崩れ去った。
……それなのに。
「…………好きだ、華美さん」
どうやら、僕の恋の病は治るどころかもっと重症化してしまったらしい。
恋とは上手くいかないものだ。
その日の夜。僕はいつものように華美さんの夢を見るつもりで瞼を閉じた。たとえこの想いは届かずとも、夢で会えるならそれでいい。夢の中なら、彼女を悲しませることもないだろうから。
――しかしその日、華美さんの夢を見ることはなかった。
代わりに不思議な夢を見た。そこは覚えのない真っ白な空間。僕は、平安時代を連想させる和服を身にまとった小柄な少女と向き合っていた。
この子、どこかで見たような……。
ぼんやりとした意識の中で考えていると、その少女はおもむろに、僕を見下すように言った。
「哀れだな」
見知らぬ少女が、いきなり僕を鼻で笑う。
「は?」
真っ白な空間で少女は宙に浮き、僕は椅子に座っている。
「哀れだと言ったのだ。まるで死神のよう」
少女の突然の物言いに苛立ち、僕は眉を寄せた。
「いきなり失礼な奴だな……」
そう呟きながら、立ち上がろうとする。しかし、なぜか体が思うように動かない。どうやらこの夢は、僕をこの場から逃がそうという気はないらしい。
「お前は華美が好きなのか?」
「……初対面の相手に聞く内容じゃないと思うんだけど」
不快を露わにそう言うと、少女はニヤリと口角を上げた。
「そうか。好きなのか」
その言い方は、まるで僕の気持ちを嘲るかのようで。
カチンときた。
「誰もそんなこと言ってない」
「答えない時点で答えてるようなもの。だが、残念だったな。あの女はもう時期消えるのだ」
「は……?」
眉を寄せ、僕はその少女を睨むように見た。
「ふふふ。聞いて驚け。我は神だ!」
「神? お前みたいなちんちくりんが? 座敷童子の間違いだろ」
すると、自称神はムキーッと猿のように顔を真っ赤にして怒り出した。
「黙らっしゃい! 我は偉大なる疫病神であるぞ!」
疫病神?
「それって……たしか、人々の間に良くないことをもたらす存在の神だとかいう?」
「フフハハハ。その通りだ!」
知られていたことが嬉しかったのか、自称疫病神は嬉しそうに胸を張っている。
僕は深いため息を零した。
「…………最悪だ。一番顔見知りになりたくない奴に絡まれた」
容赦なく本音を漏らすと、
「なんだとコノヤロウ!」
疫病神はまたも喧嘩を売ってきた。
「あん? やんのかコノヤロウ」
負けじと僕も応戦する。いきなり飛びかかってきた疫病神に対し、チョップを落として攻撃を交わしてやった。
「ぎゃふっ!! ……なっ、なにをする!? 痛いではないか小僧!」
半泣きで訴えてくる疫病神。
「いきなり飛びかかってきたのはそっちだろ」
てか、弱っ。
「これ以上僕に近寄んな。不幸にされそうでなんかやだ」
「なにを今さら。叶わぬ恋をしている時点で既にお前は不幸ではないか。だから我が来たのだ。くっくっく。お前をからかうのは楽しそうだからな。さらに不幸のどん底に落としてやるぞ!」
カチンときた。容赦なく疫病神の顔面にアルコールスプレーを吹きかける。※良い子は絶対に真似してはいけません。
「ぬわぁっ! なにをする! やめんか! 我は虫ではないぞ! 痛っ! 痛い痛い! 目、目に入ったってば! 痛い痛い!」
「クソ……細菌系じゃないからアルコールで消えないのか」
「うわぁん! 目がぁっ!」
……まぁ、物理的には効いてるようだけど。
「貴様……、よくも!」
「これに懲りたら二度と僕の夢に出てくるなよ」
「フフッ……そんな顔していられるのも今のうちだぞ」
「は?」
「我は週末、旧校舎全体に清掃業者が入るよう手配した。これで奴は終わりじゃ。残念だったな! お前の初恋は清掃業者に壊されるのだ! アーッハッハッ!」
絶妙に癇に障る意地の悪い高笑いをしながら、疫病神が僕を見た。
「なっ……」
そんなことされたら、華美さんの居場所がなくなってしまう。いや、生きていけなくなってしまう。
僕は我慢ならず、疫病神に掴みかかる。
「なんだってそんなことを!」
「昔から腐れ縁の華美が大嫌いだからだ。同じ嫌われ者のはずなのに、いつもいつもアイツばっかりチヤホヤされて、我だけ除け者にされて気に食わん!」
「はぁ!? そんなつまんない嫉妬で華美さんを殺す気か!」
「つまらなくなどない! これまで我がどれだけ惨めな思いをしてきたか、分かるわけもあるまい! これで華美は不幸になるのだ! ケケケ」
疫病神は風と共にさっと消えた。
「あっ……コラ待ちやがれっ!! おいっ!」
――ドカッ!!
「いてっ!!」
ずるりとベッドから滑り落ち、目が覚める。
「…………って、夢? 華美さん出てこなかったな……」
てか、別れを決めた初日に見る夢がこれって。
「目覚め悪過ぎんだろ……」
僕の夢に出てきていいのは華美さんだけなのに……彼女以外立ち入り禁止の聖域に、見ず知らずのガキの侵入を許してしまうとは、不覚。
「……けど、もし今の夢のガキが本当に疫病神で、彼女を消そうとしているというのが本当なら……まずい」
彼女の身に危険が迫っている。
「華美さんが危ない……!!」
僕は二度寝屋にメッセージを送った。
その日の放課後、二度寝屋が病院へやってくると、早速本題に入った。
「二度寝屋、旧校舎のプールに清掃業者が入るって本当?」
「お? なんデ知ってるンダ? 来週末一斉清掃らしいヨ」
二度寝屋は、無表情の面をかくりと傾げて僕を見つめた。
「頼む。それ、どうにかやめさせてよ!」
「は? なんでダヨ?」
「だって、そんなことしたら……華美さんがここにいられなくなるんだ」
二度寝屋は怪訝そうに眉を寄せて僕を見ている。
「なにを言ってるンダ? とうとう頭にまで菌が回ったカ? そもそモ荒矢田があそこで倒れたカラ清掃業者が入ることになったんだヨ?」
「僕が倒れたから?」
「あそこハ黴だらけで健康ニモ悪いからな。お前が病院に運ばれたオカゲで、校長がようやく重い腰を上げたラシイヨ」
なんてこった。
「頼む! 二度寝屋、なんとかして。このままじゃ華美さんが」
「なんとかシテって言われテモ。そもソもあそこは立ち入り禁止なんだヨ? そんな簡単に校長を説得できなイだロ。今さラ清掃業者をキャンセルするわけにモいかないだろウシ」
「クソ……アイツの居場所は分かんねえし、清掃業者を止める方が簡単だと思ったのに……」
肩を落とした俺の様子に、
「どうしたンだ? らしくないゾ? そもそも旧校舎に清掃業者が入るなんて、なんで学校二来てナイお前が知ってたんだヨ?」
そういえば、まだなにも話していなかった。
「僕がよく見る夢のこと、覚えてる?」
「ウン? 華美さんの悪夢のコトダナ?」
「そう。でも今回出てきたのは華美さんじゃなくて、疫病神だったんだ」
「疫病神ィ?」
「その夢の中で、疫病神が言ったんだ。気に入らないから彼女を追い出すって。彼女の住処のプールを清掃するって」
「なんダ、その夢。予知夢ってヤツ?」
「なぁ……二度寝屋。僕は、この恋を諦めるべきなんだと思う?」
二度寝屋がその答えを知るはずがないとわかっていても、聞かずにはいられない。
「華美サンのこト?」
「……昨日、彼女を突き放して、これで良かったんだって思った。どうしたって僕たちは結ばれない運命なんだって思い知ったから。……でも今日、華美さんの夢を見れなかった。たったそれだけのことなのに、ずっと悩まされてきた夢のはずなのに、すごく……すごく寂しいんだ」
「……なぁ、荒矢田。俺が思う二、お前たちは結ばれない運命なんかじゃないと思ウ」
「だって僕たちは潔癖症と黴の付喪神だよ? しかも僕は彼女の居場所まで脅かしてるし、そもそも人間とあやかしだ。どう考えたって、相容れない存在同士だよ」
「そういウ問題でハない。要は心ノ問題だってコトだヨ。人間の中にモ、神やあやかしと結婚してる人間なんてたくさんいるゾ?」
「それはそうかもしれないけど……」
二度寝屋は挑発するように続けた。
「お前はタダ覚悟がないダケだ。華美さんがあの居場所を失ったらどうなる? 彼女自身が消滅してしまう可能性だってアル。そうなってモいいノカ?」
「…………そんなの」
いいわけない。でも、どうしたらいいのかもわからない。
「お前の気持ちはその程度だったのカ? このままそうやって、好きな子ヲ見殺しにするのカ?」
「…………でも、どうすれば」
僕はただの人間だ。特殊能力を持った神やあやかしとは違う。
「疫病神はドンな容姿をしてイタ?」
「容姿は……そうだな。たしか、緑色の和服を着ていた。髪は高い位置でツインテールにしていて、髪色は黒。外見は幼めで中学生くらいに見えたかな」
「……フフフ。任せろ。俺に考えがアル」
二度寝屋がニヤリと笑う。
「え?」
僕は眉を寄せて二度寝屋を見つめた。
――――――
そして、誰もいないなにもない真っ白な空間。二度寝屋と作戦会議をしてから眠りにつくと、やはり今日も同じ夢を見た。僕は例の疫病神の少女と向かい合っている。
「おう、荒矢田よ。もうすぐお前の愛しの彼女が消えるな」
疫病神は勝ち誇ったように言った。
「疫病神といえど、お前も案外役に立つことがあるんだな。礼を言うよ」
僕は柔らかな笑みを浮かべて、そう言った。
「……む? どういうことだ?」
途端に疫病神の表情が険しくなる。
「助かったと言っているんだ」
「なぜだ……お前は彼女が好きなのだろう? お前は彼女を失いたくないはずだ。だから我はこんな手の込んだことを……」
「ハハッ。有り得ないよ。僕は潔癖症なんだ。それは君も知っているだろう?」
「それはそうだが……でも、好きなのではないのか?」
「君が彼女を消してくれるならむしろ助かるよ。実は僕、ずっと悩んでたんだ。彼女は可愛いけど、臭いしジメジメしてるし、潔癖症だと知っているにもかかわらず僕のところにすぐ近付いてくるしで困ってたんだ」
「なんだなんだ? そんなのはつまらん。我はお前を喜ばせたくて清掃業者を呼んだつもりはない。そういうことならば清掃業者は撤退させてやる!」
「そんな! そんなことは言わず、彼女を追い出してよ! 僕はもう限界なんだ!」
「ふん! せいぜい黴と恋心の狭間で苦しむがいいさ! では、我はドロンさせてもらう!」
言い逃げるように、疫病神は煙となって消えた。
そして、清掃業者が入るその日。
いつもより早く家を出て休日の学校へ向かうと、僕はまっすぐに教室ではなく旧校舎のプールへ向かった。
その場所は相変わらず湿気が漂い、黴臭が充満している。
「……よかった」
清掃業者は来ていないようだ。変わっていない風景に、僕はとりあえずホッとした。
昨日、二度寝屋と作戦会議をした。
二度寝屋は僕の夢に出てきたその疫病神の正体を、天邪鬼だと言った。なんでも、合コンで一度顔を合わせたことがあるらしい。
二度寝屋の話によると、天邪鬼は人の不幸が大好物で、特にいつまでも煮え切らない態度の男女の仲を強引に引き裂くのが趣味だという。
つまり、人の嫌がることをするということ。
僕が華美さんと離れたがっていると知れば、逆になにもしてこなくなるだろうという予想で、一芝居を打つことにした。
「二度寝屋の予想は当たったみたいだけど……」
僕は華美さんを探して走り回った。
本来いるはずの華美さんがいない。どこを探しても、どんなに黴臭い場所を覗いても。
「……華美さん?」
じんわりと冷や汗が滲む。
「なんでいないんだよ……」
もしかして、あのあやかしを騙せなかったのか?
嫌な予感が脳裏を過る。
「華美さん! 華美さーん!」
声の限り彼女を呼ぶ。
『あの女はもう時期消えるのだ』
夢の中の天邪鬼の言葉が脳裏に蘇る。
もう二度と会えないかと思うと、胸がはち切れそうに痛んだ。
汗や黴で汚れていく体など気にもせず、ただひたすら旧校舎の中を走り回り、華美さんを探した。
「華美さんっ! どこ!?」
最終的に辿り着いたのは、旧校舎の音楽室。
しかし、この音楽室は未だに楽器が保管されているため、ここだけはしっかり清掃されていたはず。こんな綺麗な場所に華美さんがいるわけはないけれど、この場所以外はすべて探した。
もしここにもいなかったら、彼女は本当に……。
「……華美さん?」
音楽室には、規則正しいメトロノームの音が響いていた。
グランドピアノが、ひとりでにポロロンとメロディとも言えない悲しげな音を奏でる。
壁に飾られた肖像画の霊たちの視線を感じながら、僕は華美さんの姿を探した。
「……荒矢田君?」
――その声に振り向くと。
彼女はグランドピアノの陰から現れた。どうやら、グランドピアノを鳴らしていたのは彼女だったらしい。
「華美さん……どうしてここに?」
「……荒矢田君こそ」
問い返され、僕は目を泳がせる。
「……僕は、華美さんを探しに」
「華美を?」
華美さんは、大きな瞳をさらに大きく見開いた。そして、ハッとしたように僕に駆け寄る。
「体調はもう大丈夫ですか?」
「うん……。もう元気だよ」
「……そうですか」
彼女はホッとしたように頷いた。
沈黙が流れ、メトロノームの音だけが二人の間に響く。
居心地の悪い静けさに、僕は意を決して口を開いた。
「ごめん」
華美さんは顔を上げ、僕を見つめた。
「……どうして謝るんですか?」
いつもと違う気を使うようなひっそりとした彼女の声に、僕は喉を鳴らした。
「…………華美さんにひどいことを言ったから。傷付けて、ごめん」
すると、華美さんはふるふると首を横に振った。
「……違います。荒矢田君はなにも悪くないです。華美が迷惑かけたからですよ」
「迷惑なんて思ってないよ!」
強く否定すると、華美さんは悲しげに笑った。そして僕から目を逸らし、背中を向けて歩き出す。
そして、ピアノの鍵盤を鳴らした。静かに澄んだ空間に、一音がまるで光の泡が弾けるように響いた。
「……華美は、荒矢田君が潔癖症だって知ってましたよ」
ぽつりとした小さな告白に、僕の胸はドキンと弾んだ。
「え?」
「去年の入学式の日、誰よりも早く来てこっそりみんなの机をアルコールで拭いてたり、壁に黴がついていたらハイターで除菌してたでしょう?」
僕は目を見張る。
「見てたの……?」
「はい。華美は入学する前から旧校舎のプールに住んでましたからね。あそこからは、ちょうど華美たちの教室が見えるのです」
「あ、そっか……」
「初めはただ、綺麗好きな人なんだなって思いました。だから、華美はちょっと苦手かもって。でも、荒矢田君は華美の机を消毒しませんでした。あ……もちろん、華美だけじゃなくて、それぞれのクラスメイトの個性を尊重したような掃除の仕方をしていて。まだオリエンテーションでしか顔を合わせていないはずなのに、もうみんなの特性を覚えてるんだって、驚きました」
「あれは……早く馴染めるようにって」
よりによって華美さんに見られていたなんて恥ずかしい。顔を赤くする僕に、華美さんはにっこりと笑いかけてくる。
「華美は入学式より前に、荒矢田君のことが好きになりました」
「嘘……」
華美さんの告白に、僕は瞳を見開いた。
「でも、華美の想いは届かないって分かってました。荒矢田君にとって、黴の付喪神である華美は天敵です」
「……そんなことは」
「それでもなんとか荒矢田君と仲良くなりたくて、でも話しかけられなくて……それで、友人に頼みました」
「友人?」
「二組のサキュバス・先場蓮子に、荒矢田君の夢の中で華美の姿に化けてもらって、常識の範囲内で荒矢田君を誘惑してほしいって」
「は!?」
華美さんは顔を真っ赤にして俯いている。
「…………あの悪夢はそういうことでしたか。なかなか大胆なことを……」
しかも一年半もの間、毎日とは。
「でも、失敗でした。蓮子はイタズラ好きで、最後にはいつも荒矢田君が華美をトラウマになるようなオチをつけたと言っていましたし……あ、でも安心してください。荒矢田君に振られた日からは、蓮子にはもう夢を見せなくていいと言ってありますから」
なるほど、だから先週から夢を見なくなったのか。僕が、彼女をフッたから……。
「……失敗じゃないよ」
彼女が夢に出てこなくなったのは、たったの一週間だけ。
「え?」
この一週間、毎日願った。夢でもいいから、華美さんに会いたいって。
「いつも、夜寝るのが楽しみだった。学校ではあんまり話せなくても、夢の中では華美さんに会えるから。最終的にはいつも悪夢になってたけど、それでも僕にとってはかけがえのない時間だったんだ……でも」
「でも?」
「この一週間、華美さんが出てこなくなって、すごく寂しくて……。どうせ僕たちは相容れない存在同士だから……華美さんにあんなひどいことを言っておいて、今さらって思うかもしれない。都合がいいって思われるかもしれないけど……」
僕は唇を噛み締める。
「華美に会いたかったんですか?」
華美さんは瞳を丸くして僕に駆け寄ってくる。
「まさか夢まで見なくなるとは思わなくて……学校では話せなくなっても、夢の中では変わらず毎日会えると思ってたから」
「おかしいです。荒矢田君は華美が嫌いなはずです」
華美さんは混乱したように眉を下げ、目を泳がせる。僕は強く首を横に振った。
「……好きだよ。華美さんのことが好き。夢じゃやだ。やっぱり本物の君と……」
「華美と?」
「か、華美さんと……その」
華美さんはまっすぐに僕を見ている。その熱視線に、途端に心臓が跳ね出した。
――バクバクバクバク。
鼓動の音がメトロノームとメロディを奏で出す。
「荒矢田君?」
僕は拳を握り、華美さんを見据える。
「華美さんが、好きです。僕は君と、恋人になりたい」
その瞬間、華美さんは瞳に涙をいっぱい貯めて抱きついてきた。
「わっ!」
受け止めると、小さな彼女の体はすっぽりと僕の腕の中に収まった。
「か、華美さんっ!?」
ふわりと華美さんの髪が僕の頬をくすぐる。優しく撫でると、柔らかな香りが鼻を掠めた。
華美さんが僕のジャケットをギュッと握る。
「……華美でいいんですか? 華美は黴の妖ですよ? 掃除嫌いだし、晴れの日嫌いだし、乾燥も嫌いだし」
僕は彼女の手を優しく握り、目線を合わせた。コバルトブルーの瞳と視線が絡み合い、僕は口もとをほころばせた。
「……うん。知ってるよ。でも、君がいい。華美さんがいいんだ」
「荒矢田君……華美も荒矢田君のこと、大好きです! ずっとずっと、大好きでした!」
華美さんのふわふわ綿菓子のような髪が頬をくすぐる。くすぐったさに身悶えながらも、僕は幸せを噛み締めたのだった。