この学校で一番高い場所に、僕は立っていた。
先週までは連日の雨模様だったのに、週が明けた途端に快晴の空が広がっていた。天気予報によれば今週は雨の心配がないみたいだから、七夕もき晴れてくれそうだった。
「ねぇ、本当に飛べるの?」
僕の隣に座っている女の子が、目を細めながら眠そうな声を漏らす。彼女の名前はハナ。本名は教えてくれないからわからない。自称中学一年生だけど、小学生でも通じるくらいの小柄で幼い顔をしている。お気に入りらしいツインテールの髪は、生前も金髪だったと笑いながら教えてくれた。
そんなハナと僕は、屋上のさらに上にある給水タンクが設置してある場所にいる。放課後の気だるい時間だけど、見上げた空に見える太陽の日射しは相変わらず強かった。
「飛べると思うよ」
僕は端に立って下を眺めながら答えた。見えるのは、屋上の地面と取り囲む転落防止用のフェンスのみ。フェンスの先はもちろんなにもないから、上手く飛び越えることができたら、四階建ての校舎を眺めながら地上を迎えることになるだろう。
屈伸しながら距離を確かめてみる。給水タンクと見慣れない装置があるだけだから、そんなに広いわけではない。全力で走ったら端から端まであっという間だろう。
「無理だと思うんだけどね」
ハナがにやけながら茶化してきた。フェンスを乗り越えるのが無理なら飛び越えたらいい。そうハナに息巻いて屋上の入り口、その天井に登ったものの、助走をつけてジャンプしたとしてもフェンスを越えれるかどうか微妙だった。
「まあ見ててよ」
しゃがみこんで両手を頬にあてたまま呆れているハナを横目に、僕は身を低くして地面を思いっきり蹴った。
――いける!
助走距離は、全力疾走になる頃には終わっているだろう。でも、勢いさえ失わなければ飛距離は十分期待できるはずだ。
そう信じて、あっという間に端まで来たところで僅かに力を抜いてジャンプした。
空と、一体化したような気がした。
抜けるような青空を抱いたまま、僕は急激に襲いかかってきた重力に身を委ねる。眼下には灰色のフェンスが迫っていて、空気の抵抗を顔に感じながら、僕は目を閉じてその時に備えた。
滞空時間は三秒くらいだろうか。フェンスにぶつかった僕は、フェンスが軋む音を聞きながら弾き飛ばされて床を転がるはめになった。
当然、床に激しく体を打ちつけた僕は、節々の痛みに加え、擦りむいた腕の痛みに顔をしかめるしかなかった。
「やっぱ無理じゃん」
そんな僕を見ていたハナが、文字通りにお腹を抱えて笑っていた。文句を言ってやりたかったけど、予想外の衝撃に声が出なくて睨みつけることしかできなかった。
――でも、フェンスは越えれそうだ
失敗は最初から計画のうちだった。僅かに抜いた力のおかげで、フェンスを越えることはできなかった。でも、それは裏を返せば、力を抜かなかったらフェンスを越えることができるということだった。
期待した通りの結果に満足していたところに、長い影が伸びてきた。見上げると、親友の木村直哉が手を差し出していた。
長身ですらりとしていながらも引き締まった体躯をしている木村が、小柄な僕を難なく引き上げる。木村とは、小学校からの付き合いだ。短髪に日焼けした顔が爽やかなスポーツ系の人柄に見える木村に対し、僕は色白で髪も適当に伸ばして眼鏡もかけているから、色んな意味ででこぼこコンビと言われることが多い。
「で、飛び越えられそうなのか?」
制服のシャツやズボンに付いた汚れを払っていると、木村が困ったような顔で聞いてきた。
「まあ、なんとかなりそうかな」
「それは残念だな」
曖昧に答えたのにも関わらず、木村は腕を組んでため息混じりに返してくる。木村にしたら、親友の僕が自殺するつもりでいるのだから、笑ってはいられないのだろう。
そう、僕は間もなく自殺する。
予定は七月七日。七夕に意味はあまりないけど、この日付には重要な意味がある。それは僕にとってという意味もあるけど、さらには、一緒に暮らしている血のつながっていない妹たちにも意味がある日付でもあった。
だから、七月七日に決めた。それを木村に伝えたのは先月のことだった。殺されるかもと思うくらいに怒られ、やめるように説得された。
けど、僕の意志に揺らぎはなかった。今でも木村は説得しようとしてくれるけど、それも半分は諦めムードが漂っている。
そんなため息を繰り返す木村に苦笑いを見せながら、さりげなく給水タンクがある場所を見上げてみる。ハナは木村の気配に気づいて隠れたか、あるいは消えたみたいで姿が見えなかった。
「なあ秀一、見てみろよ」
フェンスにしがみついていた木村が、声を弾ませて手招きしてきた。秀一というのは僕の名前で、名字は久保になる。ちなみに、妹たちは飯守という名字をそのまま使っている。だから、同じ家にいても家族といった関係意識はあまりない。特に、僕と一つ年下で長女の京香との間は、他人よりも遠い関係でしかなかった。
「どうしたの?」
木村に促され、フェンス越しに下界を見下ろしてみる。この学校は高台に校舎が建っているおかげで、屋上から町並みを見渡すことができる。田園風景の中で徐々に開発が進んでいる町並みの中に、まるで川のように植えられた桜並木が特徴的な桜木公園が目についた。
すでに桜の季節は終わっているから、目立つようなものはない。けど、今日に限っていえば、大勢の警察官と警察車両、さらに警察を取り囲むように報道陣や野次馬たちが、今でも群衆を作っていた。
「先週の放火事件に続き、今度は発砲事件だとよ。まったく、超のつくド田舎のくせしてなんでこんな事件が起きるんだよ」
木村が、
フェンスを揺らしながら興奮気味の声をあげた。世間を揺るがすような事件など滅多に起きることのないこの町で、警察官を銃撃するなんていう事件が起きたのだから、誰もがありえないことに気持ちが高ぶっている感じだった。
そのおかげで、この町の話題は突如起きた警察官銃撃事件で占められていた。口を開けば事件の話ばかりだから、さして興味を持てなかった僕でさえ、その事件に関する情報を知ることができていた。
問題の事件が起きたのは二日前の夜十時過ぎ。二人組の中学生のうち、一人が警察官を銃撃して負傷させたというものだ。さらに、警察官も拳銃で撃ち返していて、中学生の一人が負傷して病院に運ばれている。最悪なことに、撃った中学生は拳銃を所持したまま逃走していることから、町中がひっくり返したような騒ぎになっていた。
「しかしさ、ミスターXってしょうもない名前、誰が言い出したんだよ」
木村が毒づきながら、座りこんでフェンスに寄りかかった。
「仕方ないよ。逃げた中学生が何者なのか、誰も見当がつかないんでしょ?」
木村の隣に座りながら、それとなく聞いてみた。最後に聞いた話だと、病院に運ばれた中学生の身元は判明したけど、逃げた中学生に関してはまるで情報がないらしい。そのため、一夜明けた時にはネットを中心に、ミスターXという名前で呼ばれるようになっていた。
「兄貴も現地入りしているけど、さっぱりだって嘆いてたからな。警察も血眼になって探しているけど、未だに情報一つ手にできてないんだとさ」
木村の兄は、東京で記者として働いている。事件があれば日本全国飛び回る人で、僕も何度か食事に連れていってもらったことがある。木村の家は、親が経営者だから金持ちであると同時に躾に厳しい。木村が何度も不平不満を口にしていたけど、そんな環境の中、木村の兄は自由人として生きているせいか、木村も兄を慕っていた。
「そのうち捕まるんじゃないの?」
「だといいけどよ。でもよ、兄貴がこんな事件は初めてだって言ってたから、なんだか妙な胸騒ぎがするんだ」
木村はそう呟いて空を仰いだ。世間を賑わす事件の興奮とは違うなにかを、木村は感じているみたいだった。
先週までは連日の雨模様だったのに、週が明けた途端に快晴の空が広がっていた。天気予報によれば今週は雨の心配がないみたいだから、七夕もき晴れてくれそうだった。
「ねぇ、本当に飛べるの?」
僕の隣に座っている女の子が、目を細めながら眠そうな声を漏らす。彼女の名前はハナ。本名は教えてくれないからわからない。自称中学一年生だけど、小学生でも通じるくらいの小柄で幼い顔をしている。お気に入りらしいツインテールの髪は、生前も金髪だったと笑いながら教えてくれた。
そんなハナと僕は、屋上のさらに上にある給水タンクが設置してある場所にいる。放課後の気だるい時間だけど、見上げた空に見える太陽の日射しは相変わらず強かった。
「飛べると思うよ」
僕は端に立って下を眺めながら答えた。見えるのは、屋上の地面と取り囲む転落防止用のフェンスのみ。フェンスの先はもちろんなにもないから、上手く飛び越えることができたら、四階建ての校舎を眺めながら地上を迎えることになるだろう。
屈伸しながら距離を確かめてみる。給水タンクと見慣れない装置があるだけだから、そんなに広いわけではない。全力で走ったら端から端まであっという間だろう。
「無理だと思うんだけどね」
ハナがにやけながら茶化してきた。フェンスを乗り越えるのが無理なら飛び越えたらいい。そうハナに息巻いて屋上の入り口、その天井に登ったものの、助走をつけてジャンプしたとしてもフェンスを越えれるかどうか微妙だった。
「まあ見ててよ」
しゃがみこんで両手を頬にあてたまま呆れているハナを横目に、僕は身を低くして地面を思いっきり蹴った。
――いける!
助走距離は、全力疾走になる頃には終わっているだろう。でも、勢いさえ失わなければ飛距離は十分期待できるはずだ。
そう信じて、あっという間に端まで来たところで僅かに力を抜いてジャンプした。
空と、一体化したような気がした。
抜けるような青空を抱いたまま、僕は急激に襲いかかってきた重力に身を委ねる。眼下には灰色のフェンスが迫っていて、空気の抵抗を顔に感じながら、僕は目を閉じてその時に備えた。
滞空時間は三秒くらいだろうか。フェンスにぶつかった僕は、フェンスが軋む音を聞きながら弾き飛ばされて床を転がるはめになった。
当然、床に激しく体を打ちつけた僕は、節々の痛みに加え、擦りむいた腕の痛みに顔をしかめるしかなかった。
「やっぱ無理じゃん」
そんな僕を見ていたハナが、文字通りにお腹を抱えて笑っていた。文句を言ってやりたかったけど、予想外の衝撃に声が出なくて睨みつけることしかできなかった。
――でも、フェンスは越えれそうだ
失敗は最初から計画のうちだった。僅かに抜いた力のおかげで、フェンスを越えることはできなかった。でも、それは裏を返せば、力を抜かなかったらフェンスを越えることができるということだった。
期待した通りの結果に満足していたところに、長い影が伸びてきた。見上げると、親友の木村直哉が手を差し出していた。
長身ですらりとしていながらも引き締まった体躯をしている木村が、小柄な僕を難なく引き上げる。木村とは、小学校からの付き合いだ。短髪に日焼けした顔が爽やかなスポーツ系の人柄に見える木村に対し、僕は色白で髪も適当に伸ばして眼鏡もかけているから、色んな意味ででこぼこコンビと言われることが多い。
「で、飛び越えられそうなのか?」
制服のシャツやズボンに付いた汚れを払っていると、木村が困ったような顔で聞いてきた。
「まあ、なんとかなりそうかな」
「それは残念だな」
曖昧に答えたのにも関わらず、木村は腕を組んでため息混じりに返してくる。木村にしたら、親友の僕が自殺するつもりでいるのだから、笑ってはいられないのだろう。
そう、僕は間もなく自殺する。
予定は七月七日。七夕に意味はあまりないけど、この日付には重要な意味がある。それは僕にとってという意味もあるけど、さらには、一緒に暮らしている血のつながっていない妹たちにも意味がある日付でもあった。
だから、七月七日に決めた。それを木村に伝えたのは先月のことだった。殺されるかもと思うくらいに怒られ、やめるように説得された。
けど、僕の意志に揺らぎはなかった。今でも木村は説得しようとしてくれるけど、それも半分は諦めムードが漂っている。
そんなため息を繰り返す木村に苦笑いを見せながら、さりげなく給水タンクがある場所を見上げてみる。ハナは木村の気配に気づいて隠れたか、あるいは消えたみたいで姿が見えなかった。
「なあ秀一、見てみろよ」
フェンスにしがみついていた木村が、声を弾ませて手招きしてきた。秀一というのは僕の名前で、名字は久保になる。ちなみに、妹たちは飯守という名字をそのまま使っている。だから、同じ家にいても家族といった関係意識はあまりない。特に、僕と一つ年下で長女の京香との間は、他人よりも遠い関係でしかなかった。
「どうしたの?」
木村に促され、フェンス越しに下界を見下ろしてみる。この学校は高台に校舎が建っているおかげで、屋上から町並みを見渡すことができる。田園風景の中で徐々に開発が進んでいる町並みの中に、まるで川のように植えられた桜並木が特徴的な桜木公園が目についた。
すでに桜の季節は終わっているから、目立つようなものはない。けど、今日に限っていえば、大勢の警察官と警察車両、さらに警察を取り囲むように報道陣や野次馬たちが、今でも群衆を作っていた。
「先週の放火事件に続き、今度は発砲事件だとよ。まったく、超のつくド田舎のくせしてなんでこんな事件が起きるんだよ」
木村が、
フェンスを揺らしながら興奮気味の声をあげた。世間を揺るがすような事件など滅多に起きることのないこの町で、警察官を銃撃するなんていう事件が起きたのだから、誰もがありえないことに気持ちが高ぶっている感じだった。
そのおかげで、この町の話題は突如起きた警察官銃撃事件で占められていた。口を開けば事件の話ばかりだから、さして興味を持てなかった僕でさえ、その事件に関する情報を知ることができていた。
問題の事件が起きたのは二日前の夜十時過ぎ。二人組の中学生のうち、一人が警察官を銃撃して負傷させたというものだ。さらに、警察官も拳銃で撃ち返していて、中学生の一人が負傷して病院に運ばれている。最悪なことに、撃った中学生は拳銃を所持したまま逃走していることから、町中がひっくり返したような騒ぎになっていた。
「しかしさ、ミスターXってしょうもない名前、誰が言い出したんだよ」
木村が毒づきながら、座りこんでフェンスに寄りかかった。
「仕方ないよ。逃げた中学生が何者なのか、誰も見当がつかないんでしょ?」
木村の隣に座りながら、それとなく聞いてみた。最後に聞いた話だと、病院に運ばれた中学生の身元は判明したけど、逃げた中学生に関してはまるで情報がないらしい。そのため、一夜明けた時にはネットを中心に、ミスターXという名前で呼ばれるようになっていた。
「兄貴も現地入りしているけど、さっぱりだって嘆いてたからな。警察も血眼になって探しているけど、未だに情報一つ手にできてないんだとさ」
木村の兄は、東京で記者として働いている。事件があれば日本全国飛び回る人で、僕も何度か食事に連れていってもらったことがある。木村の家は、親が経営者だから金持ちであると同時に躾に厳しい。木村が何度も不平不満を口にしていたけど、そんな環境の中、木村の兄は自由人として生きているせいか、木村も兄を慕っていた。
「そのうち捕まるんじゃないの?」
「だといいけどよ。でもよ、兄貴がこんな事件は初めてだって言ってたから、なんだか妙な胸騒ぎがするんだ」
木村はそう呟いて空を仰いだ。世間を賑わす事件の興奮とは違うなにかを、木村は感じているみたいだった。