吐く息がすっかり白くなった(こがらし)の寒いの朝、()の遠征軍が()の南方に向かって出陣したという情報が入った。
伊月(いつき)さんの言った通り、()()の連合軍の総大将は島田という武将になった。
特に今までこれと言った戦果もない将らしいが、生田(いくた)とは外戚にあたるらしい。

伊月(いつき)さんたちは毎日(いくさ)準備で忙しくなって、気軽に会いに行けなくなった。
『明日、タカオ山に行く』とだけ、短く書かれた文が伊月(いつき)さんから届いた。
そして、その、明日が来た。

研究室での仕事を終えて、オババ様の屋敷に戻る途中で、伊月(いつき)さんの黒毛が厩にいるのが見えた。
私は、屋敷に駆けて行った。

「お、那美(なみ)、帰ったな。」

「ただいま帰りました。伊月(いつき)さん、いらっしゃい。」

オババ様がおもむろに言う。

伊月(いつき)は明日出陣だそうだ。」

「あ、明日ですか。」

ああ、と言って伊月(いつき)さんが(うなず)く。

「戦火が近づいてきたら、皆、タカオ山から出ないで頂きたい。」

「わかっておる。」

前もオババ様が言っていたけど、神社や仏閣など、神を(まつ)るところは、尽世(つくよ)では不可侵領域(ふかしんりょういき)だ。
兵士も、軍も、入ることはできない。

伊月(いつき)さん、町の人たちは…」

「抵抗がなければ危害は加えぬ。だが、保証はできぬ。心配ならここに避難させると良いだろう。」

「わかりました。」

私は(うなず)いた。

「出陣祝いをしてやる。神殿に来い。」

オババ様はそういって、私と伊月(いつき)さんを神殿へと誘った。
伊月(いつき)さんが玉串を奉納して、オババ様が伊月(いつき)さんへ、護符を渡した。

「行ってこい。そして、勝って帰ってこい。」

「はい。行って参ります。」

伊月(いつき)さんはオババ様に頭を下げた。

神殿を出て、屋敷に帰る伊月(いつき)を見送る。
二人で(うまや)まで歩いて、私は黒毛を沢山撫でた。

「黒毛ともしばらく会えないね。」

黒毛はいつものように私に顔を寄せて来る。

那美(なみ)どの…」

伊月(いつき)さんは(ふところ)から小ぶりの箱を出した。

「そなたにこれを。」

「あ、ありがとうございます。開けてもいいですか?」

「もちろんだ。」

質のいい桐の箱を、そっと開けてみる。

「わぁ、綺麗。」

箱の中には、黒地に鮮やかな梅と竹の蒔絵(まきえ)が入ったつげの(くし)だった。
前に夕凪(ゆうなぎ)ちゃんが言っていた。
つげの(くし)を女の人に贈るのは、婚約の証だって。

―― どうしよう。すごく、嬉しい。

「あの...伊月(いつき)さん...この(くし)、私の髪につけてくれませんか?」

「ああ。」

伊月(いつき)さんは私を後ろに向かせてそっと髪に(くし)を挿した。
伊月(いつき)さんの髪を触る指先が少しくすぐったい。
振り返って伊月(いつき)さんの顔を見上げる。

「どうですか?」

伊月(いつき)さんはまっすぐに私の目を見る。

「綺麗だ。」

そういうこと、いつもは全然言ってくれないのに、今日はど直球に言われてすごく照れる。

「あの、私も…」

(ふところ)からずっと渡そうと思っていたものを取り出す。

「これを(いくさ)に持って行ってくれませんか?」

これも夕凪(ゆうなぎ)ちゃんが教えてくれたことだけど、尽世(つくよ)の人は、(いくさ)に行く想い人に、お守り、もしくはお守り代わりになるものを渡すそうだ。
私は、小さな男性用の懐鏡(ふところかがみ)をお守り袋に入れて渡した。
銅製の縁枠には鶴と亀の文様が施してあり、真ん中に雷石がはまっている。
私はそこに自分のカムナリキを流し込んで、伊月(いつき)さんを守ってくれるように雷神に祈った。

伊月(いつき)さんの無事を祈っています。」

伊月(いつき)さんは中を見て、ぎゅっと握りしめた。
そして、ありがたく頂く、と言って、そっと(ふところ)にしまった。

「約束、守って下さいね。」

私が言うと、伊月(いつき)さんはそっと、私の頬に手を添えた。

「もちろんだ。あまり長引かせたくない。雪が降る前には終わらせるつもりだ。」

「はい…」

(ふみ)は書けない。間諜(かんちょう)がウロウロしているから。だが、いつも那美(なみ)どののことを想っている。それを忘れないでほしい。」

「…はい。どうか、気を付けて。」

私は伊月(いつき)さんの手に自分の手を重ねて頬ずりをした。

「ああ。那美(なみ)どのも無事でいてくれ。」

伊月(いつき)さんはそのまま身をかがめて、私にゆっくりキスをした。

―――

次の日の朝、亜国(あこく)から沢山の兵士たちが旅立って行った。
多分、1万5千の大軍だ。
出陣予定の城の東南にある庵章(あんしょう)門という門に行くと、一目兵を見送ろうと、もう沢山の人が集まっていた。
まずは総大将の島田軍が出て行き、後続の軍も続いた。
長い長い隊列の中頃に、鬼武者(おにむしゃ)姿の伊月(いつき)さんを見つける。
手を振ると、民衆の中から私を見つけてくれて、伊月(いつき)さんが馬上から手を振ってくれた。
隊列はすぐに通り過ぎて門を出ていく。
私はひと際背が高い鬼武者(おにむしゃ)の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

―――

伊月(いつき)さんが遠征に旅立って、2週間が過ぎた。
伊国(いこく)の南方では、色々な場所で攻防が繰り広げられているらしい。
()の軍は2万に対し、()()の連合軍は3万弱。

「数では()()の連合軍の方が有利だ。地の利も()軍にある。だが、戦況は芳しくない。」

と、オババ様が教えてくれた。

()の軍はなかなか強い。」

オババ様は言う。

()は昔から食物の育ちが悪い土地だ。それで暮らし向きが悪くなると他国を侵略し、食物を奪って、そうやって大きくなっていった歴史がある。勝たねば飢えてしまうからな。」

「でも、戦況が芳しくない理由は単純に()が強いってだけではないですよね?」

「そうじゃ。」

今回の遠征で戦果が上がらないのは予想済みのことだった。
今でも伊月(いつき)さんはこっそり()()諜報(ちょうほう)活動を行いつつ、各地で作った人材ネットワークを利用して、反乱軍に加わる兵を集め、()に歯向かう機会を狙っているはずだ。

「まぁ、いつものごとく、総大将の島田は特に戦果を出していない。小さな砦や城をどうにか守っているくらいだ。伊月(いつき)()を攻めさせて、その手柄を自分の物とするつもりだったが、伊月(いつき)も、のらりくらりと島田の叱責をかわしているころだろう。」

島田はもともと、伊月(いつき)さんたちに()の城を取らせて、それを自分の領地にしようと考えているらしかった。
でも、伊月(いつき)さんは()の城を取る気がない。
そんな伊月(いつき)さんたちに島田はイラつきを隠せないそうだ。

「ところで、鬼武者(おにむしゃ)の漫画はどうなっておる?」

「それが思わぬ方向に行きまして・・・」

人権という概念に目覚めた小雪ちゃんを始めとする漫画部は、漫画でも政治的な内容に触れるようになってきた。
最初のころは魔獣とばかり戦っていた鬼武者(おにむしゃ)だったけど、最近のエピソードでは、(しいた)げられた人々を悪い為政者から救うっぽい内容になっている。

「結構きわどくて、また小雪(こゆき)ちゃんたちにお(とが)めがないか心配です。でも、生田(いくた)なんかに負けてほしくないって思います。」

「これは小雪(こゆき)たちの戦いでもあるのだな。」

オババ様がポツリ、とつぶやいた。

「ワシが若い時に、悋気(りんき)で北の地に大穴を開けたという話しをしたであろう?」

「はい。その話し、ずっと気になっていました。」

「タマチの始皇帝となった男、重治(しげはる)どのは相当な女好きだった。」

「そうなんですか? まぁ、すごくイケメンだったですもんね。」

「ああ。私と良い仲になっておきながら、行く先々で(めかけ)を作っておったな。」

「うわー。ひどいですね。」

「それが当たり前の時代だったし、今でも上位武士にとっては当たり前のことだ。ただ、そのかわり、女も沢山男を作っても許される時代だった。」

「え? そうなんですか?」

「ああ。自由だったのだよ。 それがどうだ。 武士が各地で力を持ってくると、女の力がどんどん弱まり、今では女が浮気をすると死罪に値する。」

「そ、そうなのですか? 知りませんでした。」

「オヌシ、伊月(いつき)以外の男と浮気するなよ?」

「しませんよ!」

オババ様は私の反応を見てあっはっはと笑った。

「ワシは小雪(こゆき)がやっておることで、また女が力を持つようになればと思っておる。」

「オババ様…。そういう風に思ってくれていたんですね。」

「それに何より、漫画は癖になるのう。ワシも小雪(こゆき)の漫画は全巻集めておるぞ!」

「えー? いつの間に?」

オババ様の意外な発言に思わず笑みがこぼれた。
オババ様は集めた漫画を知り合いの神使たちに貸して、お金を取っているらしかった。

―― ぬかりなさすぎる。

―――

遠征軍が旅発って、1か月が過ぎた。
ここで、状況がガラリと変わる。

まず、亜国(あこく)の将軍たちが守っていた城が次々に()に取られた。
島田と島田の直属の部下たちが守っていた城があっけなく落ちた。
島田と島田の直属の部下たちは、城を捨てて()に逃げ帰ろうとするも、途中で()軍に見つかり、討ち死にしてしまった。

市中でも瓦版(かわらばん)が行き交って、総大将島田軍の敗北が触れ回っていた。

『総大将島田大敗北。臣下も敗走し軍は壊滅。新たな総大将は亜国(あこく)大谷(おおたに)将軍。』

これには()の国全体が騒然となる。
余裕しゃくしゃくで、()の国境を守るだけでなく()の国の城を奪おうとしていたのだから。

()の国主、生田(いくた)はさらなる援軍を派遣せざるを得なくなり、新たな総大将に大谷(おおたに)軍を、そして追加の援軍に側近の中山軍を送るはめになった。

しかし、この大谷(おおたに)軍と中山軍は応援に駆けつけるはずだった()の国の城に入る前に謎の死を遂げる。
うわさでは、盗賊に襲われたのだとか。

大谷(おおたに)将軍、中山将軍、援軍として出陣するも、盗賊に襲われ怪死。参陣できず。』

またもや()の国が騒然となった。
()の国はいきなり国を支えていた有力な将軍を一気に失った。
()の国主はこれ以上援軍を出すのをおそれ、()()の連合軍の総大将は、伊国(いこく)の将軍になった。
連合軍とは言うが、実質的に()はこの戦から手を引いて、()を見捨てる形となる。

その二日後に、また知らせが入る。
今は亡き島田たちが()に奪われてしまった城が、ことごとく鬼武者(おにむしゃ)によって取り返えされた。

『鬼武者、鬼の速さで()に奪われた城を奪還(だっかん)。島田大将の仇を取り、()の国境を守る。』

この瓦版(かわらばん)には、小雪(こゆき)ちゃんの挿絵がついた。

「さて、那美(なみ)。」

オババ様がふいに真顔になった。

伊月(いつき)はこのまま()の南部で()の将軍たちを次々と殺していくだろう。」

「そうみたいですね。それで、()に主要な将軍がいなくなってから、一気に()に攻め入る予定でしょうか。」

オババ様は(うなず)く。

「そろそろだぞ。オヌシもオヌシの戦いをするのだろう。負けるなよ。」

オババ様は鬼武者(おにむしゃ)が勇猛果敢に敵を倒している挿絵の入った瓦版(かわらばん)をピラピラと振った。
オババ様にはお見通しみたいだ。
私がやろうとしていることが。