私はお仙さんと一緒に版元を訪ね、小雪ちゃんの漫画を持ち込んだ。
版元の人も、試作の時からこの漫画をいたく気に入っていたようだった。
「斬新です!」
版元の店主は鼻息を荒くして言った。
物語を伝える方法自体も斬新だけど、物語も斬新だと言った。
町の人から恐れられる鬼武者に、こんな優しい一面があるとなると、色々と空想が膨らみます、と言い。
「よし、まずは100部すりましょう。できるだけ武家や金持ちのお嬢さんたちに営業して、売れ残りは貸本屋においてもらいます。」
と、いうことになった。
尽世で木版技術が発達したのはまここ最近で、まだまだ庶民にとって本は高価な物で簡単に買えない。
その代わり、最近貸本業が賑わってきて、数も増えている。
と言っても、貸本を利用するのはほとんどが読み書きができる男性だ。
小雪ちゃんの漫画は女性読者をターゲットにしているので、貸本屋で借りてくれる人がいるかはわからない。
「なぁに、大丈夫ですよ。最近は那美先生の手習い所に通う女子供が増えて、本を借りる女人も増えてきたと言っておりました。まぁ、少しずつ始めて、様子をみましょう。」
私はライターを売って儲かったお金から、木版を作る職人さんへの代金と、版元への代金と、諸々の諸費用を払った。
出版が決まったことを伝えると、漫画部の皆は歓喜して、さっそく鬼武者の話の続きを書き始めた。
―― 初期費用がかかるな。もっとライターを売らなきゃ。それから次の製品の開発もしよう。
―――
いつものように、皆が帰って誰もいなくなった手習い所を片付けて、机に腰かけた。
机の上に紙を広げ、その紙に『作りたい物リスト』と書いた。
自分の雷のカムナリキを使って色んなものを開発したいけど、
旅行に行ったりバタバタしてたから一旦落ち着いて、考えを整理したかった。
以前ライターと同時進行で開発していた護身用のスタンガンは実験が難しいのと、悪用される可能性もあるので、とりあえず放置していた。
けれど、昨日、伊月さんから聞いた内藤のことを思い出す。
女をいたぶって殺してしまうのが好きなんて、許せない。
そういうやつから身を守る何かが、女性には必要だ。
スタンガンの開発も再開して進めることにする。
でも、もっと日頃の生活が便利になるような物も作りたい。
私の雷のカムナリキは電気の力なのだから、電化製品ができるはず。
「照明器具、クーラー、パソコン、携帯、電気自動車」
自分が欲しいものを書き連ねてみるけど、この中で簡単に作れそうなのは照明器具くらいだ。
他の物は電気以外にも色んな物質が必要だ。
クーラーにはコンデンサがいるし、パソコンや携帯にはCPUとか液晶とか必要で、私には無理だ。
次は照明器具を作ることにした。
―― でも、電気自動車は我ながらナイスアイディアかもしれない。
道を整備しないと使えないけど、将来を見越して作り始めてもいいかな。
「電気とはなんだ?」
「電気って言うのはですね、雷のあの、バチバチってなる気に似た・・・って、誰?」
慌てて振り向くと、凄い至近距離で、ニヤニヤしている八咫烏さんがいた。
「びっくりしたじゃないですか!気配消さないで下さいよ。」
八咫烏さんは驚いて心臓が止まりそうになった私をガハハと笑っている。
「すっごく、お久しぶりですね。都以来ですね。元気でした?」
「那美に会えなかったので元気ではなかった。」
「お元気そうでなりよりです。」
「元気じゃねーって言っただろ!」
久しぶりに八咫烏さんの突っ込みが聞けて嬉しくて笑ってしまう。
「都での旅では何か、オババ様に言われた仕事をしていたんですか?」
「そうだ。最近頻繁に魔獣が人間の居住地域に出るから、そのことで調べものをしていてな。山や森に住まう獣のたちの面倒を見るのも俺の管轄だからな。」
「そうなんですね。意外にも重役担ってるんですね。」
「当たり前だろう。毎日ちゃらちゃらして生きてると思ってたのか?」
「はい。」
「おい、即答するな。」
「お茶飲みますか?」
「そんな悠長なこと言ってていいのか?」
「え? どうして?」
「お前、伊月のこと聞いてないか?あいつ今ごろ・・・。」
―――
私はタカオ山を走って降りた。
八咫烏さんに教えてもらった道を駆けて、亜国の東門の前に着いた。
暮鐘が鳴ってしまったので、門番が門を閉めようとする。
亜城の東に魔獣が出て、伊月さんの隊が魔獣討伐に出発したのを見送ったのは昨日の昼過ぎだ。
今までも、ちょっとした魔獣討伐に、伊月さんはよく呼び出されていて、その都度対応していた。
だから、私もそんなに気にしてなかったのだけど。
―― ひどい怪我だったら、どうしよう。
「あ、源次郎さん!」
もうすぐで門が閉まる、という所で、源次郎さんが馬を走らせてやってきた。
「共舘軍、凱旋いたします。しばらくお待ち下さい。」
と、門番に言うと、門番たちはまた門を大きく開く。
「え? 那美様?」
源次郎さんが私に気づく。
「あのっ、八咫烏さんから、伊月さんが怪我したって聞いて。」
源次郎さんは大した怪我ではありません、大丈夫ですよと言って、また来た方に馬を走らせて行った。
しばらく待っていると、人々が、誰かが魔獣討伐から凱旋するそうだ、とささやきあった。
―― あ、伊月さん達の軍だ!
50人くらいの集団の中に、鎧を着た伊月さんが黒毛に乗ってこちらに向かって来るのが見えた。
噂通り、鬼の面具と夜叉の兜を付けたまま、返り血も拭かず、真っ黒の旗指物をして市中に向かってくる。
―― ここからじゃ、見どこを怪我しているのか分からない。
遠目に伊月さんの集団を見た町の人たちが「鬼武者だ」と言い合い、野次馬が集まって来た。
怖い物見たさ、興味半分でやって来たというのが分かる。
「おぉ、見ろ、あの、でかい魔獣を倒して来たのか!」
町の人たちが指さす方向には、足軽の人たちが魔獣の死体を車に積んで運んでいる姿がある。
とても大きな、頭が三つある狼のような魔獣だ。
それが何頭か台車に積みあがっている。
「な、那美どの?」
伊月さんは門を抜けるとすぐに私に気づき声をかけたので、私は思わず歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
馬に乗ったまま歩みを止められない伊月さんに合わせて私も早歩きする。
他にも出迎えに来ている家族の人達がそれぞれの兵士に歩み寄った。
「どうしてここへ? こんな時間に女人が一人でウロウロするものじゃないぞ。」
「でも心配で…。八咫烏さんから怪我をしたって聞きました。」
伊月さんは、はぁと溜息をはき、あの阿呆めがと言った。
「心配せずとも良い。」
その時、ザーっと雨が降り始めた。
「那美どの、濡れてしまうぞ。」
「そんなの構いません。それより怪我は…。」
「私の屋敷で待っていてくれるか?」
伊月さんはそう言うと、私の頭をポンポンと撫でた。
「...はい。」
これ以上伊月さんの隊の邪魔はできない。
これから伊月さんはお城へ帰還の報告に行くはずだ。
―― とりあえず普通に乗馬できてるってことはそこまで酷い怪我じゃなさそう。
雨はすぐに土砂降りになり、野次馬たちは急いで家の中に入って行く。
私は心配な気持ちを殺して、伊月さんの屋敷の方へ向かった。
どこからともなくサッと音がして、隣に清十郎さんが立った。
「主の屋敷までご一緒します。」
「ありがとうございます。私...逆に迷惑かけちゃったみたいですね。」
「そんなことはありません。主は出迎えられて嬉しそうでしたよ。」
「そんな風には見えませんでした。」
怪我のことが心配で思わず飛び出してきてしまったけど、思えば私が来たって伊月さんの怪我を癒せるわけじゃない。
逆にお仕事の邪魔をしちゃったみたい。
こういう時、どうしていいか分からずに、無鉄砲に行動してしまった自分が痛い。
どうするのが正解だったんだろう。
伊月さんを見て安堵したのもあって、少し涙が出てしまった。
土砂降りだったのは幸いだった。
清十郎さんに付き添われて伊月さんの屋敷に行くと、留守番をしていた平八郎さんが出迎えてくれた。
「な、那美様、ずぶ濡れでどうしましたか!」
「平八郎、那美様を頼む。主ももうすぐ帰られる。 那美様、私はこれで。」
清十郎さんがそう言ってまた雨の中に消えていった。
「那美様、中にお入り下さい。風邪をひきますよ。」
平八郎さんは、私に湯殿を使うように言って手拭いを渡してくれた。
そして、伊月さんのものらしい浴衣を手渡される。
「これしかありませんが、濡れた着物よりかはましかと思います。お風呂の後、どうぞお着替えください。」
「ありがとうございます。」
私はびしょ濡れになった自分の着物を脱いでお風呂で体をあたためた。
平八郎さんが手渡してくれた男物の浴衣を手に取ると、伊月さんのヒノキのお香の香がする。
大好きな匂いだ。
―― でも、で、でかい!
私は渡された浴衣に着替えようとするも、横にも縦にも大きすぎる伊月さんの浴衣にモタモタしていた。
長さはものすごく長くおはしよりを作れば何とかなるとして、身幅が大きすぎて、二周くらい回せる。
―― そして、袖から手が出ない!
一人であたふたしてると、湯殿の外が少し騒がしくなった。
伊月さんたちが帰ってきたみたいだった。
すぐに伊月さんの声がした。
「那美どの、ここにいるのか?」
私は湯殿の扉を開けた。
「あの、浴衣が大きくて…。」
伊月さんは、大きな浴衣をどうにか着ている私を見て一瞬かたまった。
「ぷっ」
伊月さんがたまらず笑いだす。
「あははは!何だそれは。浴衣の中に埋もれておるぞ!」
「わ、笑わないで下さい!それよりも、怪我は、きゃ!」
浴衣の裾を踏んでしまって、転びそうになったのを伊月さんがキャッチしてくれる。
「怪我は打ち身だけだ。八咫烏が大げさなだけだ。心配するな。」
「打ち身? 見せて下さい。どこですか?」
ここだ、と言って伊月さんは自分の左肩の後ろを指さす。
「受け身を取った時に打っただけだ。案ずるな。それよりもちゃんと温まったのか?」
伊月さんは自分の怪我のことなど気にもせず、私の事を心配してる。
―― 戦いから帰って来たばかりなのに、心配もさせてくれないの?
私は少し不貞腐れる。
「伊月さんだってずぶ濡れじゃないですか。早く着替えて暖かくしてください。そして、怪我を見せて下さい。本当に心配したんです。私の事なんてどうでもいいじゃないですか。」
「じゃあ、脱がせてくれ。」
「へ?」
「怪我をみるのだろう?痛くて脱衣もままならん。風呂にも入りたいし。」
―― やっぱり痛いんだ!
「わ、分かりました。」
私は伊月さんのつけている甲冑を全て取った。
具足の下の着物まで雨でぐっしょり濡れている。
「着物も脱がせてくれぬか?いやー痛くてかなわん。」
「そ、そんなに痛いんですか?」
私は伊月さんの着物の帯の結び目をほどいた。
帯を取ると、伊月さんの着物がはだける。
「あ、あの、座ってくれませんか? 届かなくて。」
伊月さんは大人しく私の前に背を向けて座った。
そっと襟元に手をかけ、着物を脱がすと、左肩の後ろに青あざができてた。
「うっ、痛そう。結構内出血していますよ。」
言いながら伊月さんの着物を全部取った。
―― どうしよう… 体が美しすぎる…。
「あの、お風呂に浸かりますか?」
こんな時に胸がドキドキしてしまっている自分が恥ずかしい。
「そうだな。ちょっと 湯に浸かってくる。待っていてくれるか?」
「はい。じゃあ、手拭いと、新しい着物を取ってきます。」
「助かる。」
私は平八郎さんに手拭いと、伊月さんの着替えの着物をもらいに行ったのだけど、
「浴衣が歩いているのかと思いました」と、爆笑される。
「し、仕方ないじゃないですか...」
「我が家にも女性用の着物を買いそろえなければいけませんね。」
「いや、そこもまでしなくても…。今日は、たまたまこういう事になっただけなので。」
「あの、これも、良かったら、主に渡してもらえませんか? 打ち身用の薬です。」
「分かりました。」
私は伊月さんの着替えと、薬箱を受け取って、湯殿に戻った。
「伊月さん、手拭い、ここに置いておきますね。」
伊月さんは私の声を聞いてお湯から上がってきた。
「いやぁ、怪我が痛くて、体を拭くのも難儀だ。」
「え? だ、だ、大丈夫ですか?」
私は思わず伊月さんの方を見ないように背を向けた。
「那美どのが体を拭いてくれればこの上ない幸せなのだが。」
そう言いながら、私の後ろで何か、ゴソゴソしている。
「う、は、はい...。体を拭きます。」
「こっちを向け。」
伊月さんは私の肩を掴んで振り向かせた。
伊月さんは褌姿で、堂々としている。
―― あ、褌つけてたのか。少しほっとした。
「あの、伊月さん、座ってくれないと、届きません。」
「おう。」
伊月さんはまた私の前に背中を向けて座ったので、体を拭き始める。
―― 打ち身、痛そうだなぁ。
「前も拭いてくれるか?」
「う...は、はい。」
私は伊月さんの前に回り込んだ。
どうしよう、ドキドキしすぎて、見れない!
「なぜ目を瞑ったまま拭いている?」
「そ、それは…秘密です!」
緊張で伊月さんの体を拭く手が震えているのが自分でもわかった。
「あの、打ち身の手当...湿布しましょうか?薬を持ってきました。」
「ああ。頼む。」
私は伊月さんに言われるままに、薄い布に薬をへらで伸ばして、それを肩に貼り付けた。
それを固定するのに、包帯を巻く。
「着物、着せますよ。」
「ああ。」
伊月さんの肩にそっと着物をかぶせる。
「帯、できますか?」
「いやぁ、痛くて手がまわらぬなぁ。」
「じゃ、じゃあ、立って下さい。私がしますから。」
伊月さんに立ってもらい、真正面に立って、襟元を合わせる。
でも、伊月さんの体をまだ直視できない。
「那美どの、顔が赤いぞ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
伊月さんの胴まわりに手をかけて帯をまいていくと、ハグしているみたいな恰好になる。
―― 伊月さんが怪我で大変な時に、一人でこんなドキドキしてるなんて、ダメだ。
私は自分に渇を入れて、帯を絞めた。
「で、できました。」
「ありがとう。」
伊月さんはそういうと、私をひょいっと横抱きにした。
「な、何するんですか?」
「次は那美どのを介抱せねばな。その赤くなった頬をどうにかせねば。」
伊月さんは湯殿を出て私を運んでいく。
「怪我が悪くなります!痛いんでしょ?おろして下さい。」
「ちっとも痛くない。」
「む、無理しないで下さい。さっきは痛がっていたじゃないですか。」
「嘘も方便というやつだ。」
「う、うそ?」
「那美どのに世話を焼かれるのは好きだからな。」
「な、何言って!」
「那美どのの反応が可愛くてつい、な。」
「ひ、ひどいです! 心配したのに!」
伊月さんは、すまんすまんと言ったけど、ちっともすまなさそうじゃない。
そして、そのまま私を自室に連れて行くと、そっと床におろして、私の浴衣の帯を取った。
「な、何するんですか?」
「体に合っておらん。」
「だ、だからって。」
「そなたの着物がもうすぐ届く。」
「え?」
「今日はここに泊まっていけ。この雨ではそなたを送っていくのが大変だ。清十郎がオババ様にここに泊まると伝えて、そなたの着替えを持ってくる。もうすぐ帰ってくるだろう。」
そういうと、伊月さんは私の唇をチュっと奪って、私を自分の膝の上に乗せた。
伊月さんの大きな浴衣にくるまれて、そのまま伊月さんに抱きしめられた。
「那美どのといると落ち着くな。」
「伊月さん…。無事に帰って来てくれてよかったで… ん…。」
言い終わる前に伊月さんがキスをした。
すぐに伊月さんの舌が私の唇を割って入って来た。
強引に入ってきたのに、すごく優しいキスだった。
ゆっくりと、舌を絡めて、ゆっくりと口の中を蹂躙してくる。
「はぁ、んん...」
息が上がって、肩が上下しはじめた時、伊月さんがゆっくりと唇を離した。
「そなたの着物が届いたようだ。」
「…え?」
伊月さんが自室の障子を開けると、廊下に風呂敷包みが置いてあった。
清十郎さんの仕事の速さはすごい。
―――
その日は、伊月さんのお家で夕ご飯を作って、平八郎さん、源次郎さんと清十郎さんも含め、皆で食卓を囲んだ。
雨は夜中までふり続けたけど、朝にはすっかり晴れていた。
夏は完全にどこかに行ってしまったみたいで、風が涼しい。
その日は、伊月さんは、朝からお城に行かなきゃいけなかったので、伊月さんをお見送りしてからタカオ山に帰ることにした。
玄関先に立って、刀を二本指した凛々しい姿の伊月さんをお見送りする。
―― ここで、あれ、やりたい!
私は、ある衝動にかられて、周りを見回した。
誰もいないことを確認すると、伊月さんに近寄った。
「あの、伊月さん!」
そして、勇気を出して自分からキスしようとした。
憧れの、行ってらっしゃいのキスをしようとしたのだ。
だけど、頑張って背伸びしたけど、背の高い伊月さんに届かなかった。
―― う…。恥ずかしすぎる。
憧れの、行ってらっしゃいのキスは不発に終わって恥ずかしさにうつむく。
一瞬、間をおいて、私が何をしようとしていたのか理解したのか、伊月さんはふっと笑って、身を屈めた。
「もう一度、頼む。」
「は、はい。 あの、伊月さん…」
私はもう一度背伸びした。
「行ってらっしゃい。」
そして、伊月さんに、チュっと口づけた。
「行ってくる。」
そう短く言って、お城に行く伊月さんの大きな後ろ姿を見送った。
「今日の殿は、いつになく苛立っておられるな。」
堀は魔獣に切り込んでいく伊月を見た。
普段あんな戦い方をされないのに、何か、苛立ちを発散させているかのような太刀筋だ。
伊月の鬼のような戦いぶりのおかげで、魔獣の討伐は早々に終わった。
「なぜ殿は、あんなにむきになっておられたのだ?」
堀が源次郎に聞くと、那美様のことでしょうと言う。
「主はここの所、内藤の事と、於の国情の調査で忙しくされておりました。那美様も何か忙しそうにしておられ、旅から戻って以来お二人の時間がないのでございますよ。」
「そういうことか。」
「今日、久しぶりに那美様がお見えになられて、ようやくお部屋でお二人になられたのに、そこにこの魔獣の知らせが…。」
「ああ、だからあんなにも魔獣に怒りをぶつけておいでだったのか。納得だ。」
「堀!」
伊月が堀を呼んだ。
「はい、殿。」
「今夜はここで野宿する。魔獣は倒したが、ついでに八咫烏の調査にも協力する。」
「は。」
八咫烏はここ最近、人の居住区によく出てくる魔獣の様子を調べているらしかった。
天幕を張り、外で皆で飯を食べていると、八咫烏が飛んできた。
「この1里先に別の魔獣の巣窟を見つけた。ついでにそいつらもどうにか出来るか。」
「ああ。明日の朝一番に見に行こう。」
伊月は短く言うとサッサと天幕に入り、寝た。
「あいつはどうしたのか?」
八咫烏が堀に聞く。
「深刻な那美様不足に陥っておられる。旅から戻って来てからお二人の時間がないのだそうだ。」
「はっ。そんなことか。」
「しかし、おかしなものだ。殿は以前ずっとあんな感じだった。那美様と出会われる前はずっとあのように眉根をひそめておられて、私たちも特別にそれを気にしなかったものだ。」
「確かにな。那美が変えたのだな。あの堅物不器用男を。」
八咫烏はため息をつきながら、明日は少し伊月に加勢してやるか、と思った。
――――
次の日。
源次郎が亜城の門番に魔獣討伐隊の帰還を伝えている時に、那美がそこにいるのが見えた。
八咫烏から、伊月が怪我をしたと聞いたと、血相を変えている。
―― 八咫烏もなかなかやるな。
源次郎はそう思いつつも、心から心配している那美のことを少し気の毒に思った。
源次郎は隊に戻り、堀に言った。
「那美様がお出迎えだ。」
「おぉ。それは良いな。」
伊月は門を入るとすぐに那美を見つけた。
心配そうに伊月に駆け寄っていく那美はいかにも健気だった。
「鬼の面具を付けていても、デレデレ顔なのがわかるようだ。」
堀が源次郎に言うと、源次郎はうんうん、と頷いた。
雨が降ってくると、伊月はすぐに清十郎に那美を屋敷まで送って行くように言った。
「源次郎どの、私は那美様を屋敷にお届けする。そのままオババ様に今夜那美様が屋敷にお泊りになることを伝えに行く。」
そういって、清十郎がさっと消えた。
「聞きましたか?」
源次郎が目を輝かせて堀を見る。
「聞いた! しばらくは殿の機嫌も直るだろうな!」
城での帰還報告を手短に終えて、家に帰ると、すっかり機嫌を直した伊月は嬉しそうに、そしてまっさきに那美のもとへと行った。
那美が夕飯を作ってくれ、皆でそれを食べている間も伊月はデレデレだった。
夕飯の後は、伊月と二人で仲睦まじく、ずっと話しをしているらしい。
談笑する声が伊月の部屋から聞こえてくる。
「あの主のデレデレ顔はどうかと思いますが、那美様がいらっしゃると飯も美味いし、主の機嫌はいいし、屋敷の中が華やぎますね。」
源次郎が清十郎に言うと、清十郎は笑った。
「それにしても、健全なご関係のようだな。」
「そうなのですよ。今日も那美様の布団は客間に敷けと仰いました。どれだけ奥手なのですか。」
「大切になさりたいのだろう。」
「しかしあの、デレデレした締まりのない顔は…」
「良いではないか。しかし、それに比べ平八郎は複雑そうな顔だったな。」
「ああ、あれは旅から帰ってきてから余計にこじらせております。きっと旅の間、那美様のことをますます慕うようになったのではないかと... 本人は自分の気持ちにもまだ気づいておらんでしょうが。」
「そうか。若いな。」
「ですね。」
「ところで、あの、主の部屋にある面妖な狐の人形だが…。」
「あぁ、旅の土産物らしいですが。あれがどうかしましたか?」
「夕凪どのに頼んで那美様の着替えを取りに行ってもらったのだが、その時に那美様の部屋がちらっと見えた。」
「それで?」
「那美様の部屋にも同じ人形があった。」
「え? 何でしょうかね? 何かのまじないか何かですかね。」
奇妙なことをなさる、と二人は言い合って、酒を飲んだ。
随分と涼しくなった。
山のイチョウがうっすら黄色に色づき始め、朝晩の空気が冷たい。
―― 尽世での生活にも結構慣れてきたな。
現代日本で生きてきた時は一人暮らしで、家族もいなくて、仕事と家との往復しかしていなかった。
ずっと孤独で、どこかモヤモヤしながら生きてきた。
でも、今は、仲間もいるし、やりがいのある仕事もあるし、恋人もできた。
尽世での充実ぶりがびっくりだ。
少し自分の意志と違うのは、帝の参与という役職を与えられて、色々と朝廷と文章をやりとりしていること。
帝の質問に答えたり、タカオ山周辺の情報を提供したり、現代日本の政治システムのことを教えたり。
紙に手書きするのは結構時間がかかる。
―― 少しだけテクノロジーが恋しい。
とはいえ、尽世でもテクノロジーの発達はある。
少し前に伊の国で開発された木版技術のおかげで、短時間にたくさんの印刷物が作れるようになった。
その技術もますます進んでいるらしく、最近では、新聞のような瓦版も町中で安く買えるようになった。
このブームにのっかって、小雪ちゃんを部長にする手習い所の漫画部は鬼武者を題材に漫画を出版して、ヒットを飛ばした。
漫画を読みたいがために字を習いに来る生徒も増えて、手習い所も忙しくなった。
小雪ちゃんたちの成功は女でも自立して働けるという、いいお手本になり始めている。
沢山お金を稼げるようになった小雪ちゃんと漫画部は、その一部を手習い所に寄付してくれた。
「こんなに寄付してくれるの?」
私は渡された金子を見てびっくりする。
「はい。それもこれも那美先生のお陰です。紙や墨を買うのに使って下さい。」
小雪ちゃんも漫画部の皆も生き生きして、まさしく青春って感じで眩しい。
「紙や墨を買うにしては多すぎるよ。じゃあ、このお金、手習い所に来たいけど、月謝を払えない子たちの奨学金にしてはどうかな。」
「奨学金?」
うん、と頷いて、私は奨学金のことを説明する。
「お金が全然なくても、孤児でも、ここで学べるってことですか?」
「そう。だって、誰がどんな才能を持ってるか分からないじゃない? 孤児でも、いつか、小雪ちゃんみたいに才能を発揮して自立する子が出てくるかも。 そういう子たちに機会を与えるためにお金を使うのはどうかな?」
「それ、やりたいです!」
私たちは話し合って、学生支援機構を立ち上げた。
小雪ちゃんが信頼している手習い所で算術が一番得意な里ちゃんという子にその運営を任せることになった。
「私、小さい時からずっと絵を描いていたのだけど、皆に馬鹿なことやめて嫁入り修行しろってずっと言われていたんです。」
小雪ちゃんは、今、15歳で、この辺りでは、このくらいの年にお嫁に出されるのが普通だ。
小雪ちゃんにも20歳も年上の男性から縁談の話しが来ていた。
小雪ちゃんのうちはお父さんが戦で亡くなって、お母さんが女手一つで小雪ちゃんをはじめ、6人の子供を育てていた。
だから、小雪ちゃんが、ずっと年上の財力のある人に嫁げば、家族の暮らしは多少良くなると思っていた。
「でも、どうしても嫌だったんです。あんなオヤジの元に嫁ぐのは。いかにもエロそうだし。ちょっとくさいし。キモイし。」
歯に衣着せぬ勢いで小雪ちゃんが縁談相手をディスる。
しかも私が教えてしまったエロとかキモイという言葉を使いながら。
―― しかし、エロくて、くさいのか。そんな人のお嫁に行かされそうになるなんて気の毒すぎる。
「私、もっと、中性的な人が好みなんです。スラっと背が高くて、色白で、見目麗しい、そう、光源氏のような…」
―― あ、小雪ちゃんが乙女モードに入った。小雪ちゃんはアイドル顔が好きそうだな。
でも、結果的に結婚しなくても、漫画を頑張った方がずっと暮らし向きは良くなり、お母さんも納得してくれて、縁談もすっぱり断った。
「私の絵を笑ったり、しかったりしないで、色々と指導して下さったことに本当に感謝しています。」
「指導だなんて。小雪ちゃんの才能だよ。」
「そんなことないです。那美先生が認めてくれなかったら、私、自分でこんな風に自分の好きなことでお金が稼げるって知りませんでした。」
「そういう風に言ってもらえたら、私もすごく嬉しい。」
「あと、那美先生にお願いがあるんですが。 あの、『すたんがん』っていう物のことです。」
小雪ちゃんは私に早くスタンガンの開発をしてほしいと言った。
このところ、私は照明器具の方に力を入れていたから、スタンガンの開発の進行具合はとてもゆっくりだった。
「どうしてスタンガンが欲しいの?」
話しを聞いていると、どうやら小雪ちゃんが縁談を断った相手がストーカーになりつつあるみたいだ。
「この前も帰り道をつけられて、怖かったんです。一人では出歩かないようにしているんですけど。」
やっぱり、女性を守る物が必要だな。
そんな事なら、私も急がなくちゃ。
私は小雪ちゃんの要請を受けて、スタンガンの開発を進めた。
―――
商品化できない問題点が二つあって、一つはスタンガンが悪用される可能性があることだ。
女性を守りたくて作ったのに、男性の手に渡り、女性を誘拐するのに使われたりしたら本末転倒だ。
これについてはオババ様に色々アドバイスをもらった。
「使用者が本当に危機を感じた時にしか発動しない仕組みにするといい。そうすれば、人を害そうとする者に悪用されることはない。」
「なるほど。本当に護身のためにしか発動しないのですね。」
オババ様はそうするための術を教えてくれたが、なかなか上手く行かなかった。
「その術式を毎日練習しろ。オヌシなら習得が早いぞ。」
もう一つの問題点は、威力がどのくらいか分からないことだ。
人体実験できないから、殺してしまうほどの威力があるかもしれない。
殺してしまわない程度だったとしても、どんな反応があるのか、後遺症が残るのか、未知の部分が多い。
これについては、伊月さんが意外なアイディアをくれた。
「人体実験か。できるぞ。」
「え?」
「内藤だ。」
「あ。内藤丈之助で?」
「ああ。これまで、さんざん女人をいたぶってきたのだ。少しは女人の護身のために貢献しても良かろう。」
「でも、もし、威力が強すぎて、死んでしまったら・・・。」
伊月さんは周りを見回して、グッと顔を寄せると、小声でささやいた。
「生田と黒田に私の暗殺を頼まれたことを、いきさつも含め詳細に手記させた。」
「え? よく書きましたね!」
「牢守の手腕だ。」
―― 拷問ってことかな。
「嫌な思いをさせるだろうから、そなたにはこういう事を話したくないのだが…。とにかく私たちの欲しい証拠はそろった。」
「じゃあ、内藤はもう、用無しってことですか。」
「ああ。」
内藤はどのみち死刑が決まっている死刑囚だ。だけど。
いくら内藤がひどいやつでも、私は人に痛みを与えるような自分があまり好きじゃない。
―― 寝つきが悪くなりそうだ。
でも、平八郎さんが山賊に殺されかけた時に伊月さんが言ったことが脳裏によぎった。
「ためらうな。お前のためじゃない。ここにいる全員の命のためだ。」
あの言葉がまだ胸の中に残って、ずっと響いている。
「ためらうな。私のためじゃない。小雪ちゃんたちや、かどわかされた女性たちのためだ。」
私は思わず声に出していた。
「ん? 覚悟が出来たか?」
伊月さんを見つめる。
この人もこういう覚悟を毎日して生きているんだ。
ここにいる守りたい全員の人たちのために自分の手を汚すことをためらわない。
ためらえば、守れないから。
それがどんなに苦しいことでも。
寝付きが悪くなるような事でも。
「覚悟ができました。」
私は色々な強度の試作品を伊月さんに見せた。
「スタンガンの使用実験をお願いします。」
こうやって、内藤で実験したことで、沢山データが集まり、スタンガンの出力調整が上手くできた。
オババ様から習った術式も、毎日練習していたら、2週間もしないうちにできるようになった。
この練習でカムナリキを相当に消耗したけど、夕凪ちゃんが差し入れてくれたおにぎりと、伊月さんに以前教わった滋養強壮の薬で何とか乗り越えた。
―――
「商品化できたよ!」
私は小雪ちゃんに一番にスタンガンをあげた。
「ありがとうございます!」
小雪ちゃんは、うっすら涙を浮かべている。
最近、縁談を断った男のストーキングがひどくなってきているみたいだった。
「いくらスタンガンを持っていても、それは心配だな。絶対一人で出歩いちゃダメだよ!」
「はい。」
私は手習い所に通う全ての生徒にスタンガンを無料提供した。
使い方を教えて、いつも肌身離さず持っているように言った。
スタンガンは娘さんたちのためにと、武家と商家の親がよく買ってくれて、また収入が増えた。
同時進行で開発した照明器具はずっと簡単に商品化できて、それも売れ行きが好調だった。
まだまだ高価な代物で、庶民には行き届かないけど、こっそり、外国へと照明器具を輸出してくれる人がいた。
伊月さんと阿枳さんだ。
タマチ帝国の人たちに売るよりも何倍もの値段で、外国の貴族たちが買ってくれたみたいだった。
そして、また収入が増えた。
―――
こうろぎたちの声が聞こえ始めた秋晴れの朝、内藤が処刑されたことが知らされた。
城下町でも瓦版が飛び交った。
字を読める人が読めない人に内容を教えたりしていた。
「かどわかし事件の張本人、翼竜を操る魔獣使い、内藤丈之助、斬首に処せられる。首は五手河原にて、さらし首。共舘将軍の調査の賜物。」
ひと段落、というか、自分の中で何かの踏ん切りがついた、という気がした。
紅葉も赤く燃え、稲刈りの季節になると、収穫祭やら、何やらで、町中が少し浮ついた雰囲気になっている。
オババ様も雨ごいをしてやった農村の人たちから収穫祭に呼ばれることが多くなった。
「今日も酒をたんまり飲んでくるぞ。」
オババ様は上機嫌で出かけて、酔っぱらって帰ってくる。
―― 楽しそうで何より。
亜の城下町の方も、食料が豊富にあるから、心にも余裕が出来るのか、市も賑わっているし、お芝居などの遊興もさかんになった。
小雪ちゃん率いる漫画部はあれからもヒットを飛ばし続けている。
鬼武者だけじゃなく、雷巫女という名前の女スーパーヒーローの話しも人気になった。
雷を操る巫女がタマチ帝国を旅しながら空飛ぶ悪しき龍と戦う話しだ。
旅の途中では狐のあやかしと出会ったり、鬼と出会ったり、楽しいアドベンチャーが含まれている。
―― なんだかそれって私のことのような...
それでもダントツの人気作品はやっぱり、鬼武者だった。
ラブストーリーだけじゃなくて、鬼武者の戦いぶりも描かれているので、女性だけじゃなく男性にも人気が高まった。
そして、この秋、鬼武者の話はお芝居になった。
「皆さん、是非、お芝居を見に来て下さい! 芝居小屋の演出家と一緒にたくさん話し合って出来たお芝居なんです!」
小雪ちゃんは、お仙さんや、お仙さんの旦那さんを始め、手習い所に通う子たちをお芝居に招待していた。
お芝居のチケットはけっこう高価で、皆もお芝居に行く機会なんて早々ないから、とても嬉しそうだった。
「那美先生、那美先生は、特別公演日に、私と一緒にお芝居を見に来てほしいんです!」
小雪ちゃんは私に言った。
話しを聞くと、お仙さんたちを誘ったのとは別の日に映画の試写会みたいなのがあるみたいだ。
「一般公開前に、特別な人たちを招待しての、完成披露公演なんです。」
「そんな特別な日に私が呼ばれてもいいの?」
「もちろんです。あと、共舘の将軍様も来て頂けないでしょうか?」
「え? 伊月さんも?」
「はい。 那美先生が共舘の将軍様と翼竜を倒したり、旅に出た時の話しを聞かせて下さったお陰で、雷巫女の話しもできました。まだ鬼武者ほどではないですが、人気が出てきています。共舘の将軍様にも見て頂いて、何か助言を頂けると嬉しいです。」
「分かった。聞いてみるよ。でも、伊月さんは一応、お城にお勤めのお侍さまだから、どこに行くにもご家来がついて来ちゃうよ。」
「大丈夫です。ご家来の方もご招待します。」
そのことを文で 伊月さんに伝えると、喜んで行く、平八郎を伴って行く、と返事が来た。
―――
「あのう、夕凪ちゃん、お芝居見るのにこんなに着飾る必要ある?」
お芝居の当日、私は夕凪ちゃんに着つけてもらいながら、聞いた。
「当たり前でしょ。那美ちゃん、お芝居見に行ったことある?」
「尽世では、ない。」
「完成披露公演なんでしょ? とても特別なのよ。」
「どういう風に特別なの?」
「まずは、位の高い人たちが沢山呼ばれて、観客席もすごく豪華になるの。綺麗な女の人を侍らせてる人も多いのよ。お酒が運ばれて、ゆっくり芝居鑑賞しながら、美味しい物も食べれるの。」
「すごい贅沢だね。だから伊月さん、輿を寄越すって言ったのか。夕凪ちゃんはそういうの、よく行くの?」
「前はオババ様、よく呼ばれて行ってたから、付き添いで行ったの。今はオババ様、そういうの面倒くさくて行かなくなっちゃったけど。年取ったのよ。」
「まぁ、1200歳だからね。」
「だけどね、那美ちゃん、何よりも、今日おめかしなきゃいけない最大の理由は…」
夕凪ちゃんの鼻息が荒くなった。
「イケメン俳優さんたちを間近で見れて、しかもその俳優さんたちとお話しする機会もあるのよ!!!」
夕凪ちゃんのご指導の元、伊月さんから貰った反物で作った打掛に、宿場町で貰った髪飾りを合わせた。
お化粧もしてもらって、伊月さんが派遣してくれた送迎用の輿に乗った。
そのまま城下に行き、芝居小屋の前に行くと、小雪ちゃんが待っててくれた。
小雪ちゃんもいつもよりずっとおめかししてて、とても可愛い。
輿から降りて、小雪ちゃんと話していると、伊月さんと平八郎さんも来た。
「小雪どの。この度は芝居にご招待下さり、ありがとうございます。ほら、平八郎も礼を。」
伊月さんが小雪ちゃんにお礼を言って、平八郎さんを紹介する。
「平八郎と言います。主の馬廻りをしております。ご招待頂きありがとうございます。」
私はこの時に、小雪ちゃんが平八郎さんを見て、ちょっと頬を赤らめたのを見逃さなかった。
そういえば、小雪ちゃん、色白の中性的なイケメンが好きって言ってたな。
―― 平八郎さん、ぴったりじゃん。笑顔もエンジェルだし。年頃も近いし。
私はここで少しおせっかい心が刺激された。
そんな私を他所に、伊月さんがそっと私の手を取った。
「行こうか。」
中にエスコートしてくれるらしい。
平八郎さんもそれを見習い、小雪ちゃんに手を差し伸べた。
小雪ちゃんは、少し、もじもじしながらその手を取った。
―― おお、若い二人がいい感じに!
「芝居を見るのがそんなに嬉しいのか?」
伊月さんが私の顔を覗き込んだ。
「ずっとニヤニヤしているな。」
「あ、いや、もちろん芝居を見るのも嬉しいんですが…」
私は伊月さんの耳元でこっそり、平八郎さんが小雪ちゃんのタイプっぽいことを告げる。
「そうか…全く気づかなかった。」
伊月さんはそういいながら少し複雑な表情をする。
―― もしかして、平八郎さんは、小雪ちゃんみたいな子、タイプじゃないのかな?
二人がいい感じになればいいのになと思いつつ芝居小屋に入る。
私たちが通されたのは二階の特別席だった。
「おぉ。このように良い席で芝居を見れるなんて夢にも思いませんでした。」
平八郎さんが目を輝かせている。
「すごーい、小雪ちゃんのお陰だね! 嬉しい!」
私も思わずはしゃいでしまう。
そして、周りを見渡して、夕凪ちゃんの助言通り、おめかしして良かったと思った。
周りの人は皆、豪華な着物を着ていた。
―― こんな中、普段着で来ていたら一人だけ浮いてたな。
「ご来場の皆々様!」
人気俳優らしい人が口上を始め、観客席にいる女性たちが色めき立った。
「お楽しみ下さりませ!」
わっと盛り上がった所で幕が開いてお芝居が始まる。
ストーリーはとてもシンプルで、攫われた女の子を悪の巣窟から鬼武者が救い出すという内容だった。
芝居の中の鬼武者はスタントマンもさながらの立ち回りを見せ、観客を沸かせた。
そして、攫われた女の子を救い出し、その子をかばいながらも悪人と戦いつつ、敵のアジトから脱出するシーンは大いに盛り上がった。
お芝居の途中で、隣の席にいた人たちが話しているのが聞こえた。
「本物の鬼武者はあんなに女に優しいのかしら。」
「それが、この前、東門で魔獣を連れて帰ってきた鬼武者に、いたく心配そうに女人が駆け寄って、鬼武者といい感じだったらしいぞ。」
「え?本当?」
「ああ。何やら鬼武者もその女人の頭を撫でたり、何とも睦まじい様子だったとか。」
「まぁ! 素敵ねぇ!」
―― う…それって…
ちらっと伊月さんを見ると、「どこで見られているものかわからぬものだ」と小声で言った。
お芝居の最後には、女の子にせがまれて、鬼武者はとうとう面具を外して素顔を見せた。
鬼の面具を外すと、中の人物は超イケメン俳優だ。
そして、二人の口づけのシーンで終わった。
きゃーーと、観客席から黄色い声がするとともに、拍手喝采で芝居は終わった。
「いやぁ、楽しかったですね!鬼武者の芝居!立ち回りもなかなかでした!」
「小雪ちゃん改めてすごい! 本当におめでとう! すっごく楽しかったよ!」
私と平八郎さんがきゃあきゃあ騒いでいると、小雪ちゃんが頬を赤らめて嬉しいです、と言う。
「私は小雪様の漫画とやらを読んでみとうございます。」
平八郎さんが漫画に興味を持ったらしい。
「下の土産物屋に売っていますよ。見てみますか?」
と言って、二人で土産物屋に行った。
「平八郎のやつ、護衛の仕事を忘れてすっかり舞い上がっておるな。」
伊月さんは小さく笑った。
お芝居は終わったけれど、まだ帰る人は誰もいない。
役者さんたちは、一つずつ、観客席のブースを回って挨拶をしている。
「伊月さん、自分のことを芝居にされるのはどうですか?」
「不思議な気分だ。しかも、まさかあのような役者が鬼武者とは…」
「ふふふ。本物の鬼武者の方がカッコいいですけどね。」
「馬鹿を言え。」
私は伊月さんの手をそっと握った。
伊月さんも手を握り返してくれる。
伊月さんは私の横髪をそっと耳にかけた。
「その髪飾り、してきてくれたのだな。その...とても...似合っている。」
「ありがとうございます。」
照れ隠しで、少しうつむくと、伊月さんが私の頬に手を置いて、上を向かせた。
「那美どの、旅の終わりにした約束を覚えているか?」
「あの、どこかに連れていってくれるっていう?」
「ああ。ずっと忙しくて、すっかり遅くなってしまったが、あの約束を果たしたい。」
「嬉しいです。」
「その、この後、行かぬか?」
「いいんですか?」
「ああ。平八郎には小雪どのを送らせる。」
伊月さんはそう言って、私の耳元に顔を近づけて、「久しぶりに二人になりたい」とささやいた。
「おい、お前らイチャついてるとこ悪いが・・・」
「きゃーーー!!」
せっかくいい雰囲気だった所に煙が出て、八咫烏さんが現れた。
「な、何をしている!」
「何をしているって、俺も芝居を見ていたのだ。さっきから遠目に見ておれば公衆の面前でイチャイチャしやがって。」
「な、なぜ遠目に見ている! 見るな!」
「きゅ、急に現れるの止めて下さい!」
八咫烏さんに抗議していると、スッと真顔になった八咫烏さんが言う。
「ところで、最近、小雪の周りを変な男が嗅ぎまわってないか?」
「え? どうしてそれを?」
「吉太郎から聞いた。」
「縁談を破断にされた男です。ずっと小雪ちゃんに付きまとっているんです。」
「多分、そいつだ。今、ここに来ているぞ。」
私と伊月さんは下階の土産物屋に行った。
土産物屋で買い物していた客たちは、騒然とした雰囲気になっている。
中年の小太りのいかにもエロそうなキモイ男が小雪ちゃんにすごんでいる。
「何故だ、小雪。お前は私が養ってやると言っている。」
「もう付きまとわないで。縁談はずっと前にお断りしたでしょう!」
「私と一緒になれば、働かなくてもいいのだぞ!」
「働くのが好きなんです。このエロおやじ!しつこい!キモイ!」
小雪ちゃんも負けじと言い返す。
「キ、キモイだと…? 私のもとへ来れば、このような、絵を描くなどという低俗な仕事をしなくてもいい暮らしをさせてやると言っているのだ! なぜわからぬ?」
「低俗?」
小雪ちゃんがエロキモ男を睨みすえた。
「な、何だその目は…。」
そこに平八郎さんが見かねて言う。
「おい、いい加減にしろ。それ以上小雪どのを侮辱するなら私が許さんぞ。」
「だ、誰だお前は!? 小雪の男か?」
すると、エロキモ男が懐から短刀を取り出し、刃を小雪ちゃんに向けた。
私が慌てて小雪ちゃんのもとに行こうとすると、伊月さんが止める。
「平八郎がついている。心配するな。」
平八郎さんは、さっと小雪ちゃんを背中にかばい、自分の刀の鞘に手をかけた。
「その刀を納めなければ、私も抜刀する。」
「こ、小雪、止めておけ、こんなひょろっとしたのはお前に似合わんぞ!私の元に来い!」
意外にも、小雪ちゃんは平八郎さんを押しのけて前に出た。
「平八郎さん、気持ちはありがたいけど、これは私の問題です。口出し無用よ。」
「は、はい...」
平八郎さんは、一歩引いたが、自分の刀の鞘に手をかけたままだ。
「この人は私の男なんかじゃありません。私、誰の男の物でもありません!特に、あなたみたいな、女を自分の好きにできるって思っているキモイ、デブエロ男が大嫌いなの。虫唾が走るわ!」
「こ、小雪...」
「低俗だろうがなんだろうが、これからは、女だって自分で稼いで、男に頼らなくてもやっていける時代が来るのよ!だから、私、あなたのお嫁さんになんかならない!それに私、あなたよりも、もっとずっと稼いでるの!」
「何だと...?小雪、どうしても私の物にならないというのなら、お前を殺して一緒に死ぬ!」
男は小雪ちゃんに短刀を向けたまま走り込んでいった。
「こ、小雪ちゃん!」
心配で身を乗り出した私の手を伊月さんが引いた。
小雪ちゃんはスタンガンを取り出した。
その瞬間、バチバチと音がしてスタンガンが発動して、男に衝撃が走ったのがわかった。
男が動けなくなり、短刀を落とし、立ったまま白目をむいた。
「えい!」
小雪ちゃんはその瞬間、自分の打掛の裾を思いっきり持ち上げ、の股間にキックをした。
「ぐおぉぉ」
男は変な声を上げて地に伏した。
「あれは痛いな…」
伊月さんと平八郎さんを始め、その場にいた男性全員が痛そうーな顔をした。
とっさに平八郎さんは男の様子を伺って、「気を失っている」と言った。
おぉぉぉぉと、周りの人たちが小雪ちゃんに拍手喝采を送った。
「平八郎の出番はなかったな。」と伊月さんが笑った。
平八郎さんもあっけにとられたように、小雪ちゃんを見ていた。
でも、私は見逃さなかった。
その瞬間、平八郎さんが小雪ちゃんを見る目が少し変わり、その目に熱が灯ったことを。
―― これは芽生えたな。ふふふ。
「主、どうしましょう?」
平八郎さんは伊月さんに指示を仰ぐ。
「殺人未遂だ。役所に連れて行け。小雪どの、一緒に行って証言してくれぬか?」
「はい。」
「平八郎、今日はそのまま小雪どのを送っていけ。」
「承知。」
二人が去っていくと、「ありゃ、芽生えたな」と、八咫烏さんがボソッと言った。
「何がだ?」
と、伊月さんは分からないようだった。
―――
小雪どののことは以前、瓦版で読んだことがある。
女流絵師、漫画家、舞台演出家というすごい肩書で、一躍時の人だ。
特にちまたの女人から人気があって、憧れの存在のようだった。
主のお供として芝居に行き、小雪どのにお会うことになった時、傲慢そうな女性像を想像した。
ところが実際会ってみると、小雪どのは、若くて可愛らしいお嬢さんだった。
天真爛漫に笑う気取らない様子は、少しだけ那美様に似ていると思った。
主のことを見よう見まねで、小雪どのに手を差し伸べ、芝居小屋の中にいざなうと、少しだけ頬を赤らめて、うつむき加減に自分の手をとった。
―― 可愛い。
と、素直に思った。
堀様と源次郎《げんじろう》様が、このところやけに、自分を女人に紹介するのだが、その時には感じたことのない気持ちだ。
堀様と源次郎《げんじろう》様が自分に会わせる女人は綺麗な人が多いが、話しをしていても、
―― つまらない
と思うことが多い。
皆、家のことを手伝いながら、縁談が来るまで親元にいる人が多いからか、特に話題が広がらない。
話すことと言えば、家のことや、せいぜい飼っている猫のことくらいだ。
それに、自分のことを値踏みされているような感じも嫌いだった。
―― 那美様とは全然違う
那美様は読み書きもでき、時世についても話ができるし、色んな経験があり、話を聞いていると引き込まれるし、自分の視野が広がった。
あの酒呑童子だって泣かせるくらいの人だ。
那美様の話をつまらないと感じたことは一度もなかった。
小雪どのの話も面白かった。
那美様以外の女人と、こうも話が盛り上がったことはなかった。
小雪どのは教養があり、女手一つで、母親と、兄弟5人を養っていると言った。
まだ若いのに、一本芯が通っている。
―― 可憐で、でも、凛としている。
それが私が小雪どのに抱いた印象だ。
小雪どのの漫画に興味が湧き、見せてもらうと、すぐにその絵の素晴らしさに目を奪われた。
「私は芝居よりも、この漫画の方が面白いと思います。」
「平八郎さん、これも読んでみて。最新作なの。」
私は思わず、土産物屋で雷巫女の漫画を数冊購入した。
そこに変な太った男がやって来て、色々と小雪どのに迫っている。
「縁談を断った相手なの。最近、つきまとわれてて、本当にウザいの。」
小雪どのをかばおうとしたのだけど、私の出番は全くなかった。
小雪どのは強かった。男の股間を蹴った時には思わずこっちまで冷汗が出そうだった。
でも、小雪どのの股間蹴りを見た瞬間、私の中で何か衝撃が走ったような気がした。
―― なんて、素敵な人なんだろう。
不意にそう思ってしまった。
二人で男を役所に届けて、主の言いつけ通り、小雪どのを送ろうと思ったのだけど、なぜか、
「あのう、もしよかったら、お茶でも飲んでから、帰りませんか。」
と、尋ねていた。
もっと小雪どののことを知りたいと思った。
もっと小雪どのの話を聞きたいと思った。
それで、このまますぐに家に送り届けるのが口惜しいような気がした。
「じゃあ、お団子が美味しいところがいいな。」
小雪どのの言葉に私は嬉しくなった。
以前、源次郎《げんじろう》様や堀様に教えて頂いた、女人を連れて行くと喜ぶ所10選の中から、ある茶屋を選んでそこに行くと、小雪どのは目を輝かせて、「わぁ可愛いお店ねー!」と、喜んでいる。
―― 源次郎様、堀様、ありがとうございます。助かりました。
と、この時ばかりは二人に心の中でお礼を言った。
伊月さんは、平八郎さんと小雪ちゃんを見送った後、送迎用の輿に乗せて私を城下町の北の郊外に連れて来た。
差し出された伊月さんの手を取って、そっと輿から降りる。
「わぁ、綺麗!!」
私は輿を出てすぐに、思わず声を上げた。
真っ赤に紅葉した山々の下に湖があって、湖面には、オレンジ色の落ち葉がたくさん浮かんでいる。
足元にも色づいた葉がびっしりと地面を覆いつくしている。
山々も湖も地も、真っ赤だ。
伊月さんは私の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出した。
奥の方の木々の隙間から、ガサガサという音がした。
「何か、今、音が…」
「し―。」
伊月さんが人差し指を私の唇に当てた。
「鹿だ。」
伊月さんに誘われるままに歩いていくと、鹿が数頭くつろぎながら草をムシャムシャ食べているのが見えた。
「可愛いーーー!!」
私が一生懸命声を押し殺して小声で言うと、伊月さんがフッと笑った。
「鹿が好きなのか?」
「四本足の動物は何だって好きですよ。」
「そうか。じゃあ、八咫烏はダメだな。」
なぜか伊月さんが嬉しそうに笑った。
「え?」
「あいつは足が三本あるからな。」
「あの、それ、不思議に思ってたんです。八咫烏さんって、カラス姿の時、足、普通に二本ですよ?」
「ああ。あれは普通のカラスの姿に化けた八咫烏だからだ。」
「そ、そうだったんですか? ちょっとややこしいですね。 じゃあ本当の八咫烏さんって...」
「本当の姿は、やたらと、でかいカラスだ。そして、足が三本だ。」
「どのくらいの大きいんですか?」
「前に阿枳の船に乗っただろう?」
「はい。」
「あの船よりもでかい。」
「そ、そんなに大きいんですか?」
「ああ。」
「意外です。全然知りませんでした。」
―― でも、なんでいきなり八咫烏さんの話になったんだろう。
「もう少し歩けるか?」
「はい。」
伊月さんはそういうと、私の指に自分の指を絡めて、しっかり握った。
しばらく景色を堪能しながら歩くと、一艘の小さな屋形船が湖面に浮かんでいるのが見える。
「あ、船がありますよ。」
「ああ。遊船だ。あの船に乗る。」
「え? そうなんですか?」
屋形船からはオババ様のカムナリキが感じられた。
伊月さんは懐から龍の印のついた護符を出して、それを船にかざした。
オババ様の術式がかかっていて、結界が張ってあるのがわかる。
護符を持っている人しか入れないような仕組みになっているらしかった。
船の屋形の中に入ると、畳が敷いてあり、ご飯が食べれるスペースがある。
伊月さんが屋形の障子をあけ放つと、紅葉した山々とそれを写しだす鏡のような湖面の景色が目に飛び込んでくる。
「こんな素敵な景色を見ながら船の中でご飯食べれるようになっているんですね。」
ちょっとした贅沢なクルーズだ。
「何か食べるか?」
「いいえ。今はいいです。さっき芝居小屋で沢山食べましたから。」
「寒くないか?」
最近は随分と涼しくなった。
でも、着物を重ね着しているし、伊月さんが隣にいるとあったかい。
「寒くないです。」
「では、ここに座ろう。」
私たちが屋形の中に腰かけると、船は自動的に動き出した。
「すごーい! 自動運転なんですね。オババ様のカムナリキを感じます。」
「オババ様と、阿枳と協力して、色々な種類の船を造ってみているのだ。」
「この船も外国に売るんですか?」
「いや。これは完全に私の趣味だ。いつか一般の者にも広まればいいと思うが、そういう日が来るのはまだまだ先だろう。いつか、タマチ帝国が統一され、戦がなくなり、民に遊興できるほどの余裕ができなければいかん。」
私は伊月さんの手をきゅっと握った。
伊月さんにはタマチ帝国を統一するという大きな志がある。
「きっとすぐにそういう日が来ますよ。」
やがて船は、湖の真ん中まで来て止まった。
「わぁーなんて素敵な景色なの。」
私は思わず息をのむ。
あたり一面を水と山に囲まれて、まるでこの世界には私たちしかいないような感じがした。
水鳥が時々湖面をゆらして、水に浮かぶ紅葉がゆらゆら揺れている。
「気に入ったようだな。」
伊月さんが私の顔をのぞきこんで、穏やかな笑みを浮かべた。
「はい。まるで幽玄の世界ですね。」
伊月さんは、私の肩を抱いて、自分の体の方に引き寄せた。
「気に入ってくれて、良かった。」
私も、自分の頭を伊月さんの体に預けた。
「伊月さん、いつも私に素敵な景色を見せてくれて、ありがとうございます。」
「私はただ、そなたが喜ぶ顔を見るのが好きなだけだ。」
伊月さんの優しい言葉に胸の奥がわしづかみにされたようにキュンとする。
「ど、...。どうしよう、伊月さん。」
「どうした?」
「すごく、嬉しいです。嬉しすぎて、ギュってしたいです。」
「す…すればいいだろう。」
「いいんですか?」
「いちいち聞かずとも、良い。」
「ふふふ。」
私は伊月さんにギュっと抱き着いた。
フワリ、と伊月さんのお香のかおりを感じる。
「な、那美どの…」
伊月さんは私のおでこに、チュっとキスをした。
「な、何ですか?」
「ここには私たち以外、誰もいない。」
「はい。湖の真ん中ですもんね。」
「だから、あまりにそういう可愛い事をすると…」
伊月さんは私の顔を上向かせた。
「な、何ですか…?」
「私も色々と忍耐がもたぬ…」
「ん…。」
伊月さんは優しくキスをした。
キスをしながら、伊月さんに抱きついていた私の腕を解いた。
両手を握られて、そのまま両手に指を絡められる。
「あ、い、伊月さん...」
私の体に、伊月さんの体重がぐっと乗せられ、畳の上に寝転がってしまう。
伊月さんは床に倒れこんだ私の上に覆いかぶさりながら、キスをやめない。
私の両手は私の顔の横で、畳の上に縫い付けられたように、伊月さんの両手に抑え込まれた。
私は抵抗する術がなくて、そのまま伊月さんのキスを受け止め続ける。
「はぁ、ぁ... んん...」
やがてキスが激しくなって、息が苦しくなってきたころ、伊月さんはキスをやめ私の左手を解放した。
伊月さんは離した手で、私の頬を、優しく優しくなでた。
「那美どの…」
切なそうに私の名前を呼ぶ伊月さんがとても愛おしい。
私も解放された左手で、伊月さんの頬を撫でた。
「伊月さん…」
伊月さんがもう一度、顔を寄せてきたので、キスをされると思って目を瞑った。
でもキスされたのは唇じゃなかった。
首筋や耳にキスをたくさん落とされた。
「ひゃ。」
くすぐったくて、身をよじるけど、私の上に覆いかぶさった伊月さんの体が、絡んだ足が、抑えられた右手が、私の体を優しく拘束している。
逃げられず、またなす術もなく、伊月さんのキスを受け止める。
「あ、あ、だめです…」
与えれる強い快楽のせいで、涙がにじんだ。
伊月さんは空いている手で私の腰や、太ももを撫で上げた。
「い、や・・・、あ」
厚手の着物の上からでも、伊月さんの大きくて熱い手の感覚が伝わった。
ぞくぞくと鳥肌が立って、背中がビクンとはねた。
そんな感覚初めてで戸惑った。
辛うじて、自由な左手で伊月さんの胸を押した。
「ま、待って...下さい...」
伊月さんはキスをやめた。
「す、すまん。」
苦しそうにそういって、私をそっと、横向きに寝かせた。
伊月さんも、私を後ろから抱きしめるように横向きに寝転がった。
涙でにじんでいたけど、美しい紅葉の景色が見える。
私の乱れた気持ちなんてどうでもいいような、どこまでも静かな景色だ。
「すぐに、自制がきかなくなりそうだ。」
はぁ、と一つ、ため息をついて、私の耳元で伊月さんが苦しそうに囁いた。
「一応、自制してるんですか?」
「頑張っている。今でも、こんな青空の下、那美どのを抱いてしまわないように、堪えている。」
私のことを抱きしめるように後ろから回されている伊月さんの腕にそっと、自分の手を重ねた。
「ふふふ。ありがとうございます。」
伊月さんが私の手首を取って、そのまま手を滑らせた。
「きゃ。」
私の着物の袖の中に伊月さんの手が侵入してきて、直に腕を撫でられる。
「んん…」
腕を触られただけでもゾクゾクするなんて、私もたいがい重症だ。
「随分空気が冷えたのに、那美どのの体は子犬のように温かいな。」
「それは…伊月さんのせいじゃないですか?」
「私がそなたの体を熱くしてしまったのか?」
「そ、その言い方はちょっと生々しいです。」
伊月さんは笑いながら、私の耳にチュっとキスをする。
「那美どのの肌は心地よい。ずっと触っていたくなる。」
「そ、そういうの、言わないで下さい。」
「首まで真っ赤になっているぞ。」
「だ、だから、全部、全部、伊月さんのせいです。」
「はぁー。あまり、煽るな。」
伊月さんは、袖の中に入れていた手をサッと引き抜いて、体を起こした。
私もつられて、体を起こす。
伊月さんは、そのままスクっと立ちあがった。
―― もしかして、また、叫びだすのかな…
案の定、「あ”ーーーーーーーーーー!」と、叫びだした。
山彦が響いて、水鳥がびっくりして飛び立って行ってしまった。
そのまま、船内をズンズン一周歩いていて戻ってきて、私の横に、ドスン、と座った。
「ふぅーーー。す、すまぬ。」
「うふふふ。それ、よくやりますよね。」
「自分を落ち着かせるためだ。この攻城戦はなかなかに難しい。」
「こうじょう…?」
「あ、いや、こちらの話だ。」
「あ、見て下さい!」
私は空を指さした。
大きな鳥の集団がV字を作って、バサバサと羽音を立ててこちらに向かって飛んでいる。
「あの鳥は何ですか?」
「雁の群れだ。あれを見ると秋も深まった証拠だな。」
雁の群れは私たちのすぐ上を通って、飛んで行く。
手を伸ばせば届きそうなほどの低空飛行で、それはそれは圧巻だった。
雁たちの飛んでいった西の空には夕日が赤く燃えはじめていた。
さっきまで秋晴れの青空が広がっていたのに、みるみる空が紅に染まっていく。
空の色も山の色も、真っ赤に湖面に映し出されていた。
晩秋のある夜、ある事件が起こった。
最近の木版画の技術はさらに上がり、瓦版を始めとする出版物もどんどん安くなって庶民の間でも広く流通した。
庶民でも、字が読めれば、政治の動向や、他国で起きたこと、国主の噂などを安価に知ることができるようになってきた。
ここまでは良かった。
小雪ちゃんは女性の自立に向けて何か社会に貢献したいという気持ちもあったらしく、ある瓦版に風刺絵を提供した。
直接名前は出してないが、亜の国主、生田と亜国の政策を揶揄するような内容だった。
特に女性に不利な婚姻の規制や、税制についてだった。
それが国主に知れ、小雪ちゃんがお城に連行されてしまったのだった。
お仙さんが血相を変えてタカオ山にそれを知らせに来たのはもう日がどっぷり暮れてからだった。
私は亜の国主に面会を願い出た。
「小雪ちゃんの連行について異議があります!どうか話を聞いて下さい!」
私は亜城の第一曲輪の門をドンドン叩いた。
門番が私を警戒して槍を向けているけど、オババ様も一緒に来てくれているので、むげにはできないようだった。
「どうか、お取次ぎをお願いできませんか?」
正攻法では埒があかなかったので、最後の手段に出た。
私は門番に頭を下げつつ、袖に金子を入れた。
門番は、少し待っていろ、と言って、中に入った。
中から、以前、国主の伝令としてオババ様の屋敷に来たことがる人が出て来た。
「オババ様は入れません。那美どの一人で直談判するならお会いするということです。」
「行きます!」
私は言った。
オババ様は反論したが、聞き入れてくれそうになかった。
「オババ様、大丈夫です。先にタカオ山まで帰って下さい。ここまで来てくれてありがとうございました。」
私は制するオババ様を振り切って中に入る。
中に入るといきなり身柄を拘束されて、両手を縛られた。
そのまましばらく庭先に座らされていると、国主の生田が廊下に現れた。
「言いたいことがあるそうだな。」
「小雪ちゃんを解放して欲しくて来ました。彼女は私の生徒です。責任は私が取ります。」
「ほう。お前の責任と言うのか?」
生田はにやりと笑った。
その瞬間、生田の体には、内藤と似たような黒く渦巻く気が流れた。
「朝廷には報告せぬこと、カムナリキを使わぬこと、それを誓えるなら、小雪を解放してやってもいい。」
―― 朝廷には報告できないことをするつもりなんだ。
私は雷神にどうするべきか、心の中で問いかける。
大丈夫だ。そう、確信が持てた。
「…誓います。」
「よし、黒田、その内容を契約書にしろ。そして血判を押させろ。」
生田は側近に、そういうと、黒田と呼ばれた人はさっそく契約書を書いた。
私の所にその紙を持ってきて、小刀の刃の先で私の親指を少し刺した。
血のにじむ親指を紙に押し付けて、生田に渡す。
「おい、小雪とやらを解放しろ。」
そう側近に言った。
「ありがとうございます。」
私が頭を下げると、生田は、だがお前には責任をとってもらうと言った。
しばらくして、同じように縄で縛られた小雪ちゃんが連れてこられた。
「小雪ちゃん!」
「那美先生!」
「ごめんなさい、私、私…。」
「泣かないで。大丈夫。」
私は小雪ちゃんを連れてきた役人を見た。
「解放する約束です。縄を解いて門の外に出してあげてください。」
役人が生田をちらっと見ると、生田がうなずいた。
役人は小雪ちゃんの縄を解くと、さっさと行け、と言った。
「那美先生!」
「行ってて。あとは私が話をするから。大丈夫、心配ないよ。」
役人は泣きじゃくる小雪ちゃんを私から引きはがし城門から出した。
「さて、小娘。」
生田は私を見下ろして薄気味悪く笑った。
「お前はあの小雪の身代わりとして、鞭打ちに処す。50回だ。やれ。」
役人は言われるがままに私の背中に鞭を打った。
「いたっ…」
肌が擦り切れるような熱い痛みが走った。
生田は嬉しそうな笑みを浮かべた。
―― まじ何なのこいつ。きもい。
「何だその目は。おい、もっと強く打て。」
バシン!
「うっ」
次のはずっと痛かった。
痛みで一瞬気を失いそうになる。
―― 負けない。こんなやつに絶対負けない。小雪ちゃんは悪くない。
そう思って、鞭の痛みに耐えると、ふわっと体にオババ様のカムナリキを感じた。
私がいつも首からブラ下げている龍の印のついた石から、その気が流れ出した。
オババ様の水のカムナリキが私の体をそっと包み、バリアを作った。
バシン!
―― へ? ぜ、全然、痛く、ない…?
次に打たれた鞭は、確かに私の背中に当たって、すごい音を立てたのに、痛みはなかった。
生田や他の人たちには、私を守るオババ様の気の存在がわからないようだったので、私は鞭で打たれる度に痛そうなふりをしてみせた。
そうやって、50回のむち打ちの刑は終わった。
それが終わると、生田は飽きたように、「叩き出せ。」とだけ言って去って行った。
役人は縄を切って、私を立たせた。
とても複雑そうな顔をしていた。
―― この人も、きっと、やりたくてこんなことをしているわけじゃないんだな。
「あの、あなたのことは恨みません。」
私がそういうと、その人はびっくりしたように私を見た。
「手加減してくれていたの、分かりました。」
私が門に向かって歩き出すと、その人は駆け寄ってきて、私を引き留めた。
「しばらく腫れて熱が出る。何日か安静にしろ。」
そう言って、とても悲しそうな顔をした。
私はトボトボ歩いて城門を出た。
そこにはオババ様がまだ待っていてくれた。
「オババ様!」
私は思わず走り寄って、オババ様にすがって泣いた。
オババ様は私を抱きしめてくれて、そっと私の頭を撫でてくれた。
「何をされた?」
「鞭打ちを言い渡されました。でもオババ様の石のおかげでほとんど打たれていません。」
「小雪が伊月を呼びに行った。伊月の所で応急処置をしよう。」
第三曲輪を出ると、伊月さんが門番と言い合っていた。
「今夜は共舘様を入れるなと国主からのお達しです!」
「どういったことだ! 納得できん!」
「ともかく、今夜はこれより先にお通しできません!」
「伊月さん!」
「那美どの!」
伊月さんは私を見るなり、門番を押しのけて走り寄った。
そして、すぐに私を横抱きにして、黒毛に乗せた。
「すぐに屋敷に行こう。」
伊月さんも黒毛にまたがり、すぐに黒毛を走らせた。
オババ様は宙を浮いて、黒毛のスピードに合わせて飛んでいる。
「オババ様、すごい!」
「オヌシ、能天気にそんなことを言っておる場合ではなかろうに。」
あきれながらも、オババ様は少し笑みを浮かべて、ワシは先に行くと言って、飛んで行ってしまった。
「那美どの、すまない。」
伊月さんが苦しそうな声を絞り出すように言った。
「どうして、伊月さんが謝るんですか?来てくれて、ありがとうございます。」
伊月さんはそれには答えずに、屋敷まで、無言で黒毛を走らせた。
―――
オババ様のカムナリキが守ってくれたけど、最初の数回は鞭が当たったこともあり、結構背中が痛かった。
皮膚が切れて着物に血がついてしまった。
小雪ちゃんはずっと自分を責めていた。
だけど私は小雪ちゃんに分かって欲しかった。
どれだけ小雪ちゃんがしたことが偉大なことか。
小雪ちゃんのしたことが、どれだけの亜国と伊国の女性の励みになっているかを。
ひとまずこの夜、泣きじゃくる小雪ちゃんを、心配して駆けつけて来てくれていたお仙さんが預かることになった。
平八郎さんが二人をお仙さんの所へ送っていく。
オババ様は別の部屋で源次郎さんと何やら話しているみたいだった。
私は伊月さんの部屋の、さらに奥にある、伊月さんの寝室に通された。
そこで私は伊月さんから応急処置を受けた。
「着物をぬいでくれるか? 傷口を見たい。」
「は、はい。」
私は着物を脱いで、脱いだ着物で前を隠して背中を伊月さんに晒す。
恥ずかしかったけれど、そんなこと言ってられる状況じゃない。
伊月さんはとても優しく私の背中を消毒してくれて、薬を塗ってくれる。
「うっ」
傷口が染みて思わず声をもらしてしまった。
「すまん…」
「いえ、ちょっと染みただけです。大丈夫です。」
「それだけではない。私は…」
伊月さんはさっきからずっと深刻そうな顔をしている。
心配をかけてしまったんだ。
「伊月さんの寝室、初めて入りました。」
この部屋も相変わらずシンプルで刀置きくらいしか物がない。
「こんな時に、そなたは、誠に能天気だな。」
そう言って、伊月さんは、私の、みみず腫れになった傷跡を冷たい布で冷やしてくれる。
「伊月さん、ご迷惑をかけてすみません。」
私は振り返って伊月さんを見た。
「迷惑などと言うな。そなたが酷い目にあっているのに助けられず私は…。」
「助けてもらっています。私はたいてい何かやらかして、いつもオババ様と伊月さんに助けてもらってばっかりです。」
伊月さんは怒りをたたえた表情をしているが、どこまでも優しい手つきで私の髪を撫でた。
「やらかしてはないだろう。小雪どのを助けた。お仙どのの時もそうだ。そなたはいつも人を助けて自分が危ない目に合う。」
伊月さんは悲しそうに眉をひそめた。
―― そんな顔してほしくないのに。
「私のいた世には言論の自由っていう概念があるんです。」
「言論の自由?」
「はい。思っていることを自由に表現していいってことです。小雪ちゃんがしたように、馬鹿な国主を馬鹿って、公の場で言っても罰せられないっていう決まりです。」
「そうか。素晴らしき世だな。上に立つ者には必然的に批判を受け入れる器の大きさが要求される。」
「私、目の前にあることしかできないから、すぐに突っ走っちゃって…。自分の考えや、常識が、尽世の人たちに簡単に受け入れられないって分かってるのに、言論の自由があるべきだって思って、すぐにカッとなってしまいました。」
伊月さんは私の背中に乗せていた布を新しいのに変えてくれる。
「伊月さんは将来を見据えて、周到に準備して、慎重に、でも、確実に新しい世の中を作ろうとしています。その辛抱強さが私にはないから、いつもやらかしてる気がします。伊月さんみたいにもっと慎重にならなと、ですね。」
私は笑顔を作ったけど、伊月さんはキュッと眉根を寄せた。
「自由を制限されるのは誰しも好きじゃない。人間は本来もっと自由であるべきだ。身分も男も女も関係なくな。私は各個人の自由が確保される世の中を作りたい。」
伊月さんは私の右手を取った。
「と、そういえば大義名分としては聞こえがいいが、しょせんは自分のためにそうしたいだけだ。」
「自分のため?」
「私は幼き頃から人質として、不自由さを感じて生きてきた。だからもう何者にも屈することのない自分でいたいだけだ。」
そのまま伊月さんは私の手を撫でた。
「庶民からすれば家を与えられ、飯を与えられ、何不自由なく生きてきたように見えるだろうが、私としては家畜のような扱いだと思っていた。最低限の食い扶持を与えられ、父を殺され、母と生き別れになろうとも、家畜の主には忠誠を誓うことを要求される。それが自由と言えるだろうか。」
私は伊月さんに握られた手をキュッと握り返した。
「那美どのも、小雪どのも、みな、何かしらの不自由を抱えて生きている。」
「伊月さん...。」
私は苦しそうに話す伊月さんの横顔を見て、たまらなく悲しくなった。
―― そんな顔しないでほしい。
伊月さんを抱きしめたい衝動にかられたけど、代わりに顔を伊月さんの胸にうずめた。
「那美どの…。」
伊月さんは私の頭をそっと撫でて頭頂部に口づけた。
「私はそろそろ立ちあがろうと思う。」
伊月さんはとうとう生田に反旗を翻すと決めたんだ。
「機は熟しかけている。もうしばらくの辛抱だ。」
伊月さんは続ける。
「あとは於が動けば完全にその時の到来だ。於が動くのは初冬だ。今はまだ収穫で兵が不足している。冬が深まりすぎれば雪で兵の進退がままならぬ。」
「伊月さんならきっと出来ます。 私もこんな国主はうんざりです。」
「我が父の仇を、自身が暗殺されそうになった仇を、そして、可愛いそなたをこんな目に合わせられた仇を取りたい。」
伊月さんは私の髪の毛をそっと梳いた。
「あの、私、伊月さんの秘密をまた見つけちゃった気がします。」
「まだ何かあったか?」
「はい。」
「今回、不可解だったことは何だ?」
「伊月さんがあんまり城下町の人と親しくしないから、何でかなって、ずっと思ってて。」
「それで、分かったことは?」
「生田に反旗を翻す時、亜の城下町を焼き払ったりする可能性もあるから。もしくは亜の城下の人たちを傷つける可能性があるから、ですか?」
伊月さんは苦しそうに眉根を寄せた。
「その通りだ。一旦戦となれば、勝つまでやめられぬ。もちろん抵抗しない者を斬るつもりはない。だが抵抗が強ければ、私に選択肢はない。」
私達はしばらく黙って寄り添っていた。
伊月さんは何かを断ち切るようにスッと立ち上がった。
薬を取って来ると言って、いつもの、カムナリキ回復ドリンクを持って来てくれた。
最後に冷たく冷やした布を私の背中から取って、よし、少し腫れがひいたな、と言った。
「伊月さんのその薬、本当に効きます。すぐにカムナリキマックスになるんです。」
「まっくす?」
「最大ってことです。」
「そうか。」
私に薬の入ったお椀を渡してくれるのかなと思ったけど、伊月さんはぐいっとそれを自分で飲み始めた。
―― ん?
「あの、伊月さん?え?ちょ?…んんん!」
伊月さんは、そのまま少し強引に口づけをして来た。
舌先で私の唇を押し開き、そのまま薬を流し込んだ。
「ん!」
思わずそれをゴクリと飲み込む。
伊月さんは、お椀に残っている薬をまた自分が飲み始める。
「あの、私、自分で飲めま…んんん!」
私の声を無視して、また、口づけをした。
温かい薬が流れ込んで、慌てて飲み込んだ。
今度は飲み込んでしまっても伊月さんの唇は離れなかった。
そのまま私の口の中を伊月さんの熱い舌がなぞった。
「あ...あ、んっ...」
息が上がってしまって、肩が上下し始めると、ようやく伊月さんが解放してくれる。
「い、つき、さん…」
「次は解熱と鎮痛の薬だ。」
伊月さんはまたもう一つのお椀から薬を口に含んだ。
意地悪モードのスイッチが入ってるみたいだった。
「あの、一体どうして… んんん!」
私はまた伊月さんから口移しで薬を飲まされる。
しかも薬を飲んでも、しばらく解放してくれず、口の中を蹂躙される。
わけがわからないけれど、抵抗できずに、私はされるがままになった。
―― どうしよう。嫌じゃない...
「はぁ、はぁ。」
私の息が苦しくなってくると、伊月さんはようやく唇を離した。
そして、そのままおでこを私のおでこにくっつけた。
「そなたにこうして薬を飲ませたのは最初ではない。」
「え?」
伊月さんが空から降ってくる私を拾った時に、意識のない私にこうやって薬を飲ませたと言った。
私は恥ずかしくて、顔が赤くなるのが分かった。
「知りませんでした。」
「ちゃんと、謝ったぞ。」
「あ、そういえば!」
伊月さんに初対面の時に薬を飲ませて悪かった、許せって、すごい謝られた記憶がある!
「そんなこととは思いませんでした...」
「私を恨むか?」
「いえ、むしろファーストキスが伊月さんで嬉しいです。」
「ふぁあすときすとは何だ?」
「人生で初めての口づけってことです。」
「そ、そうなのか…」
今度は伊月さんの顔がブワっと赤くなった。
どことなくぎこちない動きで伊月さんは立ち上がった。
何をするのかと見ていると、私の隣に布団を敷き始めた。
「あの…もしかして、ここで寝るんですか?」
「私の寝室だからな。」
「あの、じゃあ、私は...」
「ここで寝るに決まっている。」
「でも、前は客間に…」
「客間はオババ様に使ってもらっている。」
伊月さんは自分の布団を私の布団にピッタリとくっつけた。
「ほら、横になれ。少し熱が出ている。」
「あの...じゃあ、せめて、着物を着て…。」
「あー、よせ。傷に触るぞ。」
「でもこのままじゃ...」
私は片手で前を隠したままでいる。
「どうせ暗くするのだから、何も着らずに寝ればいいではないか。」
「そ、それは無理です!」
焦る私の反応を見て、伊月さんは楽しそうに笑った。
やっぱり、意地悪モードになってる!
「ほら。晒を巻いてやる。腕を上げろ。」
伊月さんは晒を持って、私の後ろに座った。
「み、見ないで下さい。」
「前は見ないから早くしろ。」
伊月さんが前を隠している私の腕をそっと取った。
恥ずかしさで肩が震えた。
傷が痛くないように、伊月さんは私の背中にそっと、優しく晒を当てた。
そのまま手を滑らせて、私の胸の周りをぐるり、ぐるりと何度か巻いた。
晒を持った伊月さんの手が乳房に当たり、ぞくぞくっと鳥肌が立ったのがわかった。
「なぜそんなに震えている?」
伊月さんは後ろから私の顔を覗き込んだ。
「い…伊月さんのせいです。」
「そうか。私のせいか。」
なぜか伊月さんは満足気にそう言った。
私は、上は晒、下は腰巻だけという姿になり、あまりの恥ずかしさに自分の顔を両手で隠した。
「そんなに恥ずかしがるな」と言いつつ、伊月さんが灯りを消してくれた。
「そなたの体を見たのは初めてではない。」
そういって、伊月さんは私の二の腕を撫でた。
「どういうことですか? 湯殿では一応、湯帷子を着ていましたよ。」
「そなたが空から降って来た時、ずぶ濡れになったそなたの着物を着替えさせた。」
「え?え??え???オババ様が着替えさせてくれたんじゃないんですか?」
「今日はあの時のように、珍妙な胸当てをしておらんな。」
「珍妙な胸当て? も、もしかして、ブ、ブラを見たんですか?」
「ぶら?」
「あ、あんなダサダサのブラ見られてたなんて、あぁぁ私の青春は終わりを告げて…」
「こら。静かにして、もう寝ろ。」
そう言って伊月さんは私にチュっと口づけをした。
そのまま布団に横になり、腕を広げて、来い、と言った。
―― う、腕枕ってこと?
「えっと…」
「はやくしろ。」
「うぅぅ。じゃ、失礼します。」
私はおずおずと伊月さんの腕に頭を預けた。
ヒノキのお香が鼻をくすぐる。
伊月さんは、「背中の傷が当たらぬように、こっちに体を預けろ」 と言って、私の体を引き寄せた。
胸と胸がぴったりと触れ合って、ドキドキと心臓の音が重なる。
しばらく緊張していたけど、伊月さんがずっと髪を撫でてくれていたのと、伊月さんの温かい体温が心地よいので、体から余計な力が抜けた。
「伊月さんの腕の中、すごく落ち着きます。」
「腕枕も初めてか?」
「あ、当たり前じゃないですか。」
「そうか。」
また、伊月さんは満足げに言った。
―― ずるい。
私は伊月さんにぎゅっと抱きついた。
―― 好きすぎる。
「休め。寝ることが何よりの薬だ。」
伊月さんは私が眠りにつくまで、ずっと頭を撫でていてくれた。